黒塗りのリムジンを降り、弦十郎はその建物を見上げた。
優雅な庭に囲まれたここは、半蔵門にある、駐日英国大使館である。
軽く溜息をついて振り返れば、車からクリスが降りてくるところ。
今日の彼女は赤いアンサンブルに同色の膝丈のスカート。ベージュのストッキングに、7cmもヒールのあるパンプスを履いていた。髪型もいつものリボンはなく、シンプルにストレートに背中へ流している。
「大丈夫か、クリスくん」
手を貸しながら弦十郎は尋ねる。
「へっ、その台詞はまだ早いだろ?」
不敵にクリスは口紅の引かれた唇を歪めて見せた。
なるほど、まったくその通りだと弦十郎も同意する。
これから一緒に赴く先では、二人きりの孤立無援。
銃弾こそ飛び交わないが、一つの戦場であると心得ている。
翼ではないが、弦十郎も防人として常在戦場の心構えであるから、臆することはない。
ただ、懸念があるとすれば、やはり同伴しているクリスのことに尽きる。
「…なんだよ、入る前から景気の悪い顔しなさんなって」
心配が顔に出ていたらしい。クリスに二の腕あたりを軽く叩かれる。
そうだな、俺が不安がっていてどうする。
気を取り直し、弦十郎は腕を曲げて腰に付ける。
「よし、行くかッ」
クリスはニコリとしたあと、弦十郎の腕に己の腕をからめてきた。
体格差から、まるでクリスがぶらさがっているように見えたかも知れぬ。
傍目には凸凹のような様相を呈する二人の前に、古風な鉄門が音を立てて開いて行く。
話は数日前にさかのぼる。
「駐日英国大使館でレセプション・パーティーだとッ!?」
叫ぶ弦十郎に、モニター向こうの風鳴八紘は煩わしげに眉を顰めて見せた。
『予め想定されていたことだろう。そう声を荒げるな』
「う、うむ。しかし…」
弦十郎は呻く。
英国大使の誕生日を祝う内輪のパーティーに、S.O.N.G.司令を招く。
過日のパヴァリア光明結社との戦いにおいて、国際組織S.O.N.G.に尽力してもらったと英政府に称されている以上、招待されても何も不自然ではないだろう。
だが、その招待の一文に、夫婦同伴と記されていたことに、その意味を勘繰らずにはいられない。
『要は、
「ただの嫌がらせか」
兄の言葉を弦十郎は引き継いだ。
英国は
そんな偏見はさておき、弦十郎の内心を真っ先に曇らせたのは、やはりクリスのことだった。
夫婦同伴だというのにクリスを伴わなければ、英国の思惑を肯定することになる。
かといって断る適当な理由も見当たらぬ。
「あたしのことなら大丈夫だぜッ」
傍らから、声。
すぐそばで一緒にモニターを見ていたクリスが快活に応じた。
「こういう事態になるかもって覚悟を決めてたし、そもそもあたしの親戚が発端だしなッ」
「だが…」
「水臭いぜ、おっさん。これは
そういってこちらの胸板を叩いてくるクリスは非常に頼もしい。
頼もしい反面、負担を強いているという忸怩たる気分が弦十郎を侵している。
ゆえに、続きの言葉を言いあぐねてしまったが、結局、意を決して言った。
「レセプションの件なのだが、まずディナーで間違いないだろう。そうなると、テーブルマナーは必須なのだが…?」
「あ…」
クリスは硬直する。
「それと、雪音さんも英語は話せるでしょうけど、少しクセを直した方がいいでしょうね」
横から友里も言ってくる。
「ぐ…」
あからさまにクリスの顔が引きつる。
弦十郎も心配そうに見守る中、あくまで彼女は胸を張って言った。
「へッ、それくらいなんとでもして見せるぜッ!」
それから一週間後の今日。
学校も休まず、秘密特訓へと邁進したクリスであったが、その顔色は窺えない。
なぜなら、弦十郎もかつて見たこともないほど、クリスの顔には優雅な化粧が施してあるからだ。
口紅も去ることながら、軽く入れられたアイシャドーなども相まって、実年齢よりはるかに大人びて見える。
「いやはや、女は化けるとは本当なのだな…」
「ん? なんかいったか?」
それでいて口調はいつも通りなことに、ある意味救われていた。
本日のコーディネートは、S.O.N.G.女性陣と外部から秘密裏に召喚したコーディネーターの産物である。
弦十郎はいつもの格好にジャケットを纏っただけだが、クリスに関しては女性職員全員で『傑作』と太鼓判を押してくれていた。
「とりあえず、受け答えは極力俺が引き受けるからな。何も心配しないで良い」
今日のパーティへ向けてのクリスの努力を否定するわけではないが、出来るだけ矢面には立たせるつもりはない。
「頼りにしてるぜ」
そう微笑むクリスに心が痛む。
テーブルマナーもともかく、一度身に着いた英語の発音を矯正するのはなかなか難儀なことだ。
加えて、ある程度のお上品な語彙や言い回しも覚える必要もある。
ここ数日、クリスがヘッドホンを着けっぱなしで発音の練習と単語の習得に邁進している姿を見ているだけに、弦十郎は申し訳なさに胸がいっぱいになる。
反して、今日の招待に対して怒りを覚えずにはいられなかった。
もっともいくら腹だたしくても、政治という実体のないものに対し拳をぶつけるわけにはいかなかったが。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました」
現駐日本国英国大使が直々に弦十郎らを出迎えた。
「本日はお招き頂き光栄です」
意識したクイーンズ・イングリッシュを用い、弦十郎は握手を交わす。
それからすぐ隣のクリスを紹介。
「こちらが
「クリスです。初めまして」
クリスも大使と握手を交わしている。
「いや、結婚されたとは伺っていましたが、何とも
「恐縮です」
この場合の可愛らしいという表現には、多少の揶揄が込められている。
それを理解しているからこそクリスは取り合わずに微笑んで見せた。
この程度の応酬は挨拶とばかりに、大使は手を打ち鳴らす。
「では、会場にご案内しましょう」
「…おい、おっさん。テーブルマナーがどうしたって?」
ノンアルコールのドリンクが入ったグラスを片手にクリスが言う。
穏やかな笑顔と口調に反し、目は全く笑っていない。
「あ、うむ。これはこれで…」
案内された会場の大きなテーブルには、大小様々な料理が供されていた。
いわゆる立食式のビュッフェ・ディナーである。
笑顔のままのクリスに、パンプスの踵で靴の甲を踏まれた。
痛みを表情に出さないまま弦十郎は思う。
この程度なら、夫婦がじゃれているように見られるか…?
そんな風に弦十郎が周囲に気を払っていると、大使が壇上へと登っている。
お決まりの挨拶に、祝賀の乾杯。
大使に祝いを述べようと人々が取り巻く。
あとは招待客は三々五々に散り、それぞれが料理に舌鼓を打ったり、会話に華を咲かせている。
さっさと儀礼的に挨拶を済ませた弦十郎とクリスも、他の客の動向に準じた。
とりあえず適当に料理を取ってきて手渡すと、クリスは手際よくフォークを操り、小さく唇を動かしてなんとも上品に食べて見せた。
その様子に、やはりテーブルマナーを習った甲斐があったではないか、と声をかけるほど、弦十郎は命知らずではない。
ともあれ、二人して会場内を漂っていると、
「あらあらお若いレディがいらっしゃること」
恰幅の良いご婦人たちが集団でクリスの元へとやって来た。
皆、本日の招待客の奥方だという。
「俺の
繰り返し弦十郎がそう説明したあとは、あらあらまあまあというご婦人方に囲まれ、クリスの傍から追い出されてしまった。
クリスが助けを求めるような目で見てきたが、礼儀上、弦十郎もさすがに割って入るわけには行かぬ。
自身が矢面に立つと宣言した手前、朝令暮改も甚だしいがどうしようもなかった。
許せ、クリスくん。
心の中でそう詫びて、弦十郎は男性の招待客へと向き合う。
いちいち握手を交わしながらの自己紹介。
全員がそれなりの肩書を持っているようだが、大半が偽装だろう。
これはS.O.N.G.の調査部の仕事の成果で、皆が皆一般人の招待客を装っているが、ほとんどが英政府の関係者だ。
そして大使館内は治外法権であり、S.O.N.G.の工作員の手も及ばない。
車から降り立ったときに思った通り、この場では弦十郎とクリスに対し味方は存在しないことになる。
「しかし、まあ、なんとも急なご結婚だったようで」
「話に聞けば、奥方はまだハイスクール生だとか」
「なんと! 日本の規制は色々と緩いようですなあ」
馴れ馴れしくも口ぐちに言ってくる英国紳士たち。
時として、政治的な意図を秘めた会話は笑劇じみたものになる。芝居がかった物言いなど、まさに典型だろう。
ゆえに弦十郎は笑顔のまま応じる。
この程度の軽口で動ずるような胆力を持ち合わせていない。
むしろ彼らの会話の内容が嫌味に傾倒していることを感じてほくそ笑む。
英政府として打つ手がない証拠だ。
「まあ、惚れた弱みということで」
「結婚したまま学校に通わせて、苦労をかけていると思っています」
「そろそろ日本でも民法を改正するという議論が行われるようですよ」
いちいち丁寧に弦十郎が応じると、相手は鼻白んだ。
それでも向こうも表情を崩すことはない。
なるほど、これも一種のスティッフ・アッパー・リップというやつだろうか?
弦十郎がそんなことを考えていると、英国紳士たちは口髭をこよりながら唇を斜めに歪めた。
「しかし、身よりのない子供にどこまで自己判断が出来たか、疑問が残りますなあ。いや、何の話かは分かりませんが」
「幼い子供を自分好みに育て、無理やりに摘み取る。ある意味男子の本懐ではあるかも知れませんが、いささか不謹慎ではないかと愚考する次第です」
「そういえば、日本の古典にもありましたなあ。いやはや太古から、かの島国にはそのような文化が存在するとは恐れ入る」
お互いに何気ない会話を装っているが、舌鉾というにはその鋭さはやや常軌を逸していた。
嫌味にしても度が過ぎているし、もしかして喧嘩を売っているつもりか?
笑顔を崩さず弦十郎は思う。
ここでこちらの激発を誘おうとしているなら浅い策だ。
かといって抗弁するにしても、弦十郎が口にしては説得力に欠ける。
なにせ、弦十郎の内心は彼らの意見に概ね等しいのだから。
それでも何か言い返さねばならぬ。
そう意を決し、口を開きかけた弦十郎の右腕に、しゃなりと手が添えられた。
思わず見下ろせば、奥方の輪から脱出してきたらしいクリスが頬を赤く上気させている。
仄かに薫る香水が、妙に彼女を色っぽく見せていた。
「みなさん、色々と勘繰られてるようですが、私の方から彼に求婚したのですよ?」
穏やかな笑みを浮かべてそうクリスが言うと、紳士たちは憮然とした。
「な、なるほど。ですが、貴女はまだお若い。何もこれほど歳の離れた相手に…」
形振り構わない台詞に、紳士の仮面が剥がれかけている。
全く動じることなくクリスは微笑みかえし、それから弦十郎のネクタイを引っ張った。
そのまま自分の目線まで弦十郎の顔を下げる。
「お、おい、クリスくん…」
小声で慌てる弦十郎の頬に、クリスはその唇を押し当てた。
くっきりとルージュのあとをつけ、クリスは艶然と笑う。
「
さすがに紳士たちも面食らったようだ。
「だから――えーと、馬に蹴られて死にたくなかったら、出直してきな
笑顔のまま凄みのある声を出す。
面向かってスラングを浴びせられ目を白黒させる紳士たちに、クリスは弦十郎の腕を取って回れ右。
その小さな身体から立ち昇る、憤然やるせなしといった強烈なオーラよ。
「なんだよ、おっさん。言われっぱなしじゃねーか」
「う、うむ。そうはいうが、俺にも立場というものが…」
しどろもどろになる弦十郎。
あの対応は良かったのか? いや、まあ、クリスくんの機転で助かったことは否定できないし…。
「というか、馬に蹴られての
「突っ込むところはそこかよッ!?」
とにかく、頬に口紅のあとをつけたままで会場を歩きまわるわけには行かぬ。
早足でトイレへ駆け込み、どうにか洗面所で拭い取った。
出るとクリスが廊下で待っていてくれた。腕を組んだまま怒りのオーラはまだ薄れていない。
「…すまん。クリスくん」
弦十郎は謝罪した。
「あ? なんで謝るんだよ?」
「おまえに、余計な嘘をつかせてしまった」
そもそもが窮余の策で取りまとめた偽装結婚だ。クリスの方から求婚したなど出鱈目もいいところである。英語とはいえ、実に散々な台詞まで口にさせてしまったと弦十郎は思う。
「いや、それは別にいいよ」
クリスは鬱陶しそうに手を振って、それから小声で付け足す。
「それに…あながち嘘ってわけでもねーし」
「ん? 何かいったか?」
「んーにゃ、なんにもッ!」
何故か憤慨するクリスに引っ張られ、会場に戻れば、目敏く大使が近づいてくる。
「お二人とも、どこにいらしてたんですか? スペシャルなゲストを用意していたのに」
「ゲスト…?」
訝しげな声を出す弦十郎たちの前に、初老の男性が歩いてきた。
その顔を、弦十郎は資料で見たことがある。
「まさか…」
「初めまして、クリスさん。マクシミリアン・モリーナです」
クリスの母親の同姓であるモリーナを名乗った男性の瞳が、俄かに潤み始めた。
彼の視線の先には、硬直したクリスが居る。
「ああ、こんな小さい身体で、貴女は戦っているのですね」
大柄な身体で包み込むようにハグされたが、クリスも邪険に振り払うわけにはいかないようだ。
涙ながらのマクシミリアンの声は続いている。
「こんな子供が…。ああ、神よ。あなたはなぜ、この子に試練をお与えになるのですか?」
熱の入った台詞と涙を流すその表情は真に迫っている。
クリスも感化されたのか、なすがままだ。
「でも、もう安心してください。わたしが来ました。わたしと一緒に英国へ行きましょう」
涙を拭い、マクシミリアンは優しい笑みを浮かべて、
「わたしと家族になりましょう、クリスさん」
「…え?」
ぐらり、とクリスが身体と精神的に揺れたことが弦十郎には分かる。
「貴女の母親であるソネットは、わたしにとっての再従姉の娘になるのです。少しだけ遠い親戚ですね。本当にちょっとだけ」
マクシミリアンの言い回しは、陽気かつ洒脱だ。
「今まで貴女のことを知らなかったことは心からお詫びします。ですから、そのことの謝罪も込めて、どうか親戚としての、一族としての義務を果たさせて下さい。償いをさせて下さい」
クリスの手を取って、真向から見つめてくる。
「……」
「どうしました? なにか不安ですか? 確かに、戦いは大変でしょう。ですから、これからはわたしたちが貴女を支えるのです」
細い喉が動き、クリスが息を呑む。
そして彼女は瞳を閉じた。
まるで己の内側と対話しているように弦十郎は思う。
目を開けた彼女は、弦十郎の方へ顔を向けてくるかと思ったが、違った。
クリスはあくまでマクシミリアンを真っ直ぐ見つめたまま言った。
「ありがとう。貴方の気持ちは確かに受け取りました」
「では…!」
マクシミリアンの顔が歓喜に染まる。
「ですが、私は貴方とは行けません」
「そ、そんな。わたしとクリスさんは正真正銘の血族なのですよ。それなのに、なぜ?」
「なぜなら」
そこでクリスはマクシミリアンの手をほどき、弦十郎の方を見た。
「私が本当に迷い、苦しんでいる時に、手を差し伸べてくれたのが彼だったからです」
そうしてから、茫然とするマクシミリアンに向き直り、にこりと笑う。
そこでようやくマクシミリアンは弦十郎を見たような気がする。
「…貴方が、彼女の夫なのですか?」
「ええ」
一応、と付け足してしまうところを辛うじて呑みこむ。
マクシミリアンの目が細められる。
さて、罵倒されるか、殴られるか。
鷹揚に、それでも油断なく身構える弦十郎の前で、マクシミリアンはその両手とって強く握ってきた。
「ありがとうございます、クリスを救って下さって。そして、これからもどうか守ってあげてください…!!」
大使館を辞したあと、迎えのリムジンの後部座席にて。
「…あの人は、本当にママの親戚だったのかな?」
茫洋とクリスが呟いた。
「わからんな」
化粧を落とし、年相応の顔つきに戻ったクリスの横顔に、弦十郎は答える。
マクシミリアン・モリーナを名乗ったあの男。
クリスに対する感情も態度も、真に迫っていた。
あれが演技だとしたら、凄まじい役者である。
しかし、仮に役者ではなく、本当に正真正銘の縁者であったとしても―――。
クリスとの対面を果たし、彼女に英国行きを拒否されたあと。
マクシミリアンは弦十郎に後を託す格好で、至極あっさりと申し出を引っ込めている。
英国大使からもその後は言及されることもなく、二人はパーティーから解放。
クリスに対する揺さぶりではないか、と弦十郎は分析しているものの、色々と解せない。
そうなってくると、パーティーそのものすら懐疑的に見えてきて困惑するしかなかった。
よもや嫌味を言うためだけにあれだけの人数を動員したとすれば大仰すぎる。
かといって感動的な親族の再会を目論んだだけ? それこそまさかだ。
「…埒が開かないな。あとは調査部に頼もう」
乱れる思考を追い払うように弦十郎が提案すると、存外クリスも素直に頷いてくれた。
「しっかし、足がくたびれたぜ、全く…」
そういって、パンプスを脱ぎ捨てて、爪先から足をぶらぶらさせている。
運転手は緒川が務め、ご丁寧に運転席との間の仕切りを起動させてくれているので、気兼ねする必要はない。
それでも行儀の悪い格好に、弦十郎は苦笑を浮かべるしかなかった。
「なんだよ、おっさん、何笑ってんだよ」
クリスの柄も態度も悪い。よほどパーティーで猫を被っていたのがストレスだったと見える。
「すまんすまん。いや、やはりそういう年相応の格好をしている方がクリスくんらしいと思ってな」
「どういう意味だ? …もしかして、さっきまでのあたしの格好は、だぶだぶの七五三みてぇだったとか言いたいのかよ?」
クリスの表情が剣呑なものに変わっている。
どうもクリスくんの機嫌を損ねることにかけては、俺は何かしらの才能を持っているようだ。
最近、ようやくその自覚を得た弦十郎。
だからといって、何度も激昂させるわけにも行かぬ。
「いいや。そんなつもりは毛頭ない。さっきまでのクリスくんは綺麗だったぞ。むしろ、そうだな―――」
弦十郎はクリスの頭髪へと手を伸ばし、髪をすくように指を滑らす。
「クリスくんは、ストレートに伸ばしたままの髪型のほうが、俺は好きだぞ」
クリスは豆鉄砲を喰らったような顔つきになる。
「そ、そうなのかッ? 本当にそう思っているのかッ?」
「ああ、そっちの方が魅力的だ」
「~~ッ」
クリスの顔が見る見る赤くなった。
そのまま弦十郎が眺めていると、ぼそりと言う。
「そんじゃ、おっさんが家にいるときは、こっちの髪型にするッ」
「そうか」
「特別だぞッ? 特別だかんなッ!?」
「わかったわかった」
どうにか機嫌を直してくれたらしいクリスに、ふと弦十郎は思い出す。
「しかし、いきなり頬にキスをしてきたのには驚かされたぞ」
そういうと、クリスは一瞬硬直。
「ま、まあ、なんとなく流れで…」
「ともあれ、今度は事前に相談してくれ。頬に口紅のあとをつけたままではさすがに困るからな」
「………」
ぴしり、とクリスの顔がまた一瞬凍ったような気がした。
む? それに、なんだかまた雰囲気が変わったか?
またもや何かしら機嫌を損ねることをしてしまったのだろうか。
戦慄する弦十郎を、しかし、クリスは笑みを浮かべたまま、くいくいと指を動かして手招き。
「ちょいとおっさん、顔を貸してくれや」
パーティー会場と同じく、笑顔はそのままで全く目が笑っていない。
彼女が何を考えているか知らねど、弦十郎も逆らうことが出来ぬ。
「う、うむ…」
そろそろと正面から顔を近づけると、ぐいと首を横に向けられる。
それからクリスに耳元に囁かれた。
「もっと困らせてやんよ」
「…おい? それはどういう…」
頬に温かい感触。そして。
「痛ッ!?」
間もなくリムジンは官舎であるマンションへと到着。
ぷりぷりと肩を怒らせ、クリスはさっさと車を降りていってしまう。
その後を、困惑気味に追いかける弦十郎。
その頬には、くっきりと大きな歯形が残っている。