部下たちに夕食をご馳走したあと、弦十郎一行はS.O.N.G.本部内の高級士官用のガンルームに河岸を変えていた。
「今回は皆に苦労をかけたな」
ウイスキーグラス片手に部下たちを労う。
普段は酒を飲まない弦十郎だったが、部下たちに合わせている。
加えて本部内なのだから、いざという時にはすぐ対応できるとの安心もあった。
「全く、苦労のし通しでしたよ」
遠慮なく弦十郎のボトルから自分のグラスに注いで藤尭はぼやく。
緒川もウーロンハイを片手に苦笑し、友里は自作したカクテルの入ったショートグラスを細い指で持ち上げ、薄い笑みを浮かべていた。
現在、このガンルームには弦十郎たちしかいないので、忌憚のない会話をするには十分すぎる。
オンザロックのウイスキーを舐めながら、弦十郎はしみじみと考える。
英国の揺さぶりに対する、クリスとの結婚という対策の実施。
結婚して間もなく自分が盲腸で昏倒するという失態。
新婚旅行に赴けば、保安部は謎の機能不全を起こし、先日の駐日英国大使のパーティに招かれるにあたって、調査部はほぼ不休で働いている。
それらを差配する自分はともかく、部下たちの苦労を偲べば頭が下がる思いだった。
なぜなら、こんな激務の最中でも、弦十郎はほぼ定時に退勤させられていたのだから。
「とりあえず、これでこの件は一応の落着ということでいいのではないでしょうか?」
オリーブを摘まみながら友里が言った。
過日のパーティの結末を見るに、英国としても引き下がったような格好だった。
もちろんまだしばらくは気を抜けないが、これ以上の積極的な干渉はないと思われる。
「それでも、いま一つ決め手が欲しいな」
そう返すと、部下たちから揃って怪訝な目で見られた。
「司令のいう決め手とは、何を指しているんですか?」
緒川が尋ねてくる。
「決まっているだろう。マクシミリアン・モリーナ氏が、クリスくんの血縁ではないという決定的な証拠だ。それがあれば、クリスくんとの結婚の解消もスムーズに出来るんだがなあ」
弦十郎がグラスを煽ると、部下たちの呆れた視線が突き刺さってくる。
「ってゆーか、司令は何が不満なんですかッ!?」
「不満? 何を不満というんだ?」
「もちろん雪音さんとの結婚生活ですよ!」
声を荒げる友里に、弦十郎は困惑する。
「不満はない。が、不満がないことが不満ではあるな」
「はあッ?」
「家に帰れば風呂は沸いているし、飯も出来ている。掃除もしっかりしていてくれてなあ…」
友里が何か珍妙なものを見るような目つきになっていたが、弦十郎は敢えて無視して溜息をついてみせた。
「せめて一緒に洗濯だけでもしてやろうと思ったら、無茶苦茶怒られてしまったし」
「そんなの当り前でしょうッ!?」
友里と藤尭が異口同音に激昂。
「あの年頃の娘さんの衣類を男性が洗うのは、世間一般的にもどうかと…」
穏やかに言ってくる緒川に一縷の良心を見たが、翼の身の周りの世話をこなす彼が口にしては、説得力に欠けることおびただしい。
だからといって、年頃の娘の心理や、世間一般のことなど、弦十郎にはさっぱり分からない。
「雪音さん自身は可愛い上に甲斐甲斐しくて、口調はぶっきらぼうでも気立てがいい子でしょう?」
友里の言には完全に同意できた。
「傍目には、皆が羨む幼妻ってやつでしょうに」
だが藤尭の言には、改めて反論する。
「だから偽装結婚だと言っているだろうが」
果たして部下たち三人は揃って特大の溜息をついてくれた。
「…私から見ても、司令と雪音さんは似合いのカップルだと思いますけど?」
目を座らせた友里がグラスを空にしていた。
「はっ、冗談だろう? 俺はこんなおっさんだぞ?」
自嘲して見せると、藤尭の目も座っている。
「司令はなんでそんなに自己評価が低いんですか?」
新婚旅行先でマリアにもそう指摘されたことを思い出し、弦十郎は苦笑い。
「そういわれてもそれが性分だからな。年齢の差もあるが、クリスくんはやはり俺なんぞには勿体ない」
歯を剥く寸前の表情になる友里と藤尭の横で、ただ一人、緒川のみが優しい眼差しで尋ねてくる。
「よもやと思いますが、そんな風に雪音さん本人にも言ったり接したりしていないでしょうね?」
「無論しているに決まっているだろう? 現実的にも、真実的にも、偽装結婚ということに変わりはあるまい」
不思議そうに言い返すと、部下三人は全く同じ動作で天井を仰いでいる。
「…そりゃあ雪音さんがブチ切れるのも分かりますわ…」
藤尭はバーテーブルに突っ伏す。
「『真実でさえ、時と方法を選ばずに用いられてよいということはない』って言葉を、司令は御存じですか?」
友里が目を三角にして詰め寄ってきた。
「ミシェル・ド・モンテーニュだろう? 懐かしいな」
弦十郎は学生の頃の記憶に目を細める。あの頃は、手当たり次第に乱読したものだ。
「モンテーニュのおっさんも、結婚に対してはロクな格言残してないんだよなあ…」
くだを巻くようにしてそう口にした藤尭は、友里にキッと睨まれている。
「格言なら、俺は『正直ほど富める遺産はない』を座右の銘にしてもいいくらいだ」
「シェイクスピアですか」
緒川の言に、弦十郎は首肯する。
嘘を一つつけば、その嘘を隠すために更に嘘をつき続けなければならない。
これは精神的にもストレスになる上に、遠からず破綻する。
そして重ねた嘘の分だけ、そのしっぺ返しも増大するものだ。
ゆえに常日頃から正直であれ。
弦十郎はそう自説を展開。
「だとしてもッ!」
友里が食い下がってくる。顔は赤く染まり、吐息は既に酒臭い。
「時には残酷な真実より、優しい嘘の方が大切なときもあるんですよッ!?」
「なんだその格言は? 友里謹製か?」
「一般論ですッ!」
叫ぶようにそういって、友里は弦十郎の手に持っていたグラスをひったくる。
そのままストレートのウイスキーを一気呑み。タンッ、とテーブルの上で空になったグラスが跳ねる。
「いいですか、司令。世の中には良い嘘と悪い嘘ってのもあるんですッ!」
「ふむ。嘘も方便というやつか?」
「バレなきゃ嘘にはならないってのもありますね」
混ぜっ返した藤尭は、やはり友里の一睨みで沈黙。
「相手を思いやっての嘘なんて許されるんです! そんな嘘をついたことなんて、一生黙っていればいいんですよッ! 墓場まで持っていけば、あとに残るのは真実だけでしょッ!?」
なんとも強引というか強烈な言葉だが一理あると思う。
しかし、俺の性分にはやはり反する。
「だがな、友里…」
言いさして振り向けば、友里あおいはテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
「やれやれ」
苦笑しつつ、弦十郎はもう一人の部下を見やる。
「なあ、緒川」
「はい?」
「…いや、なんでもない」
間もなく、明日も仕事があるし解散ということになった。
弦十郎も本部に泊まるつもりだったが、部下たちの強い勧めで帰宅することに。
仕事でもないのに結婚したばかりの新妻を放っておいて外泊はおかしいでしょう? と言われれば、弦十郎も反論出来なかった。
タクシーを乗り継ぎ帰宅すれば、時刻はとっくに日付を回っていた。
さすがにクリスくんも寝ているだろう。
そう思って、そっと自宅のドアを開けた途端、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。
「おかえり」
「まだ起きていたのか?」
驚く弦十郎に、パジャマ姿でストレートヘアーのクリスは屈託なく笑う。
「ちっと面白い深夜ドラマを見てたからなッ」
そうは言っているものの、リビングにテレビの点いていた気配はない。代わりにキッチンには煌々と明かりが灯り、テーブルの上には読みかけらしい雑誌が置かれていた。
クリスはさり気なくその雑誌を椅子の上に移動しながら訊いてくる。
「今日は友里さんたちと飲み会だったんだろ?」
「あ、ああ」
「呑んでばっかで腹減ってねぇか?」
「…言われてみれば、小腹が空いたな」
「そっか。なら丁度良かった」
嬉しそうに言って、クリスはコンロにかけてる土鍋の蓋を開ける。途端に芳醇な匂いがあふれ出す。
「今日の夕飯の米が残ってたからな。夜食がてら雑炊を作ってみたんだぜ」
小鉢によそってテーブルの上に出してくる。
レンゲで熱々のそれを一口啜りこみ、弦十郎は感嘆の声を上げた。
「美味いッ!」
「だろ? だろッ? 我ながら美味く出来たと思ったんだ」
自画自賛して食卓に肘をつき、両手で頬を支えながら弦十郎を見てくる。
何が楽しいのか、笑顔を浮かべっぱなしだ。
そんな彼女は、夜食に作ったと言う割には、自分で食べようとはしない。
弦十郎はいまさらながら気づく。
ひょっとして俺のために…?
今日は本部に泊まるかも知れないといったのにも関わらず。
食べ進めるうちに、弦十郎は腹でなく胸がいっぱいになってしまう。
健気だ。そして本当にいい娘だと思う。
「…こういう風に家で誰かを待っているってのは、いいなッ」
にししと笑いながらの呟きも、また泣けてくるではないか。
…やはり、例の話を進めよう。
今日の飲んでる最中に緒川に声をかけかけて止めたこと。
内容は、緒川のイギリスへの派遣だ。
彼に捜査に専念してもらい、完全にイギリスの思惑を退ける証拠を見つけてもらうのが弦十郎の目論見である。もっとも今回の件は一応の落着を見ている以上、S.O.N.G.のエージェントのエースである緒川慎次の投入は難しいと思われた。
だが、その無理を通してでもクリスを自由にしてやらねば。
こんな良い娘を早く解放してやり、より相応しい相手に添わせてやらねばなるまい。
翌日も定時で発令所を出て、本部の廊下を歩く。
辺塞寧日なしということだが、ここしばらくは平和で、基本的に結構なことだ。
ふと視線を上げると、廊下の向こうからリディアンの制服姿が駆けてくる。見覚えのあるリボンが激しく跳ねていた。
「…クリスくん?」
息を咳き切らせ、弦十郎の3メートルほど手前で足を止めたクリスの顔は青ざめていた。
おまけに涙目で半笑いのような表情になっている。
昨日の今日で急転直下の彼女の様相に、弦十郎は嫌な予感を覚えた。そして最悪なことに、この予感は外れたことがない。
「…なあ、おっさん。あたしは、別にアンタが昔、誰と付き合ってたって構いやしないんだ。あたしと違って大人だからなッ」
拗ねているような声音が震えている。
「なんだ、藪から棒に?」
そうは言ったものの、彼女が左手に持った書類袋が小刻みに震えているのが見て取れて、弦十郎の不安を煽る。
「じゃあ訊くけど、これは一体、どういうつもりだ?」
クリスは右手に小箱を取り出す。新婚旅行の時に、弦十郎が贈った結婚指輪だった。
「…どういうつもりだもなにも、何の話だ?」
未だによく事態を呑み込めない弦十郎に、クリスはハッと笑う。
「この指輪の宝石はサファイアだろ? だけど、なんでサファイアなんだ?」
「……」
「あたしだってバカじゃない。あたしの誕生石じゃないことくらい知ってるよ。なら、誰の誕生石なんだって話だ。おまけに指のサイズも合っていない」
―――それは、彼女のために用意した指輪だからだ。
素直に答えるには、クリスの声音が必死すぎた。
我知らず、額に脂汗が滲んむ。
口中が急速に乾いていく。
正直であれ。
弦十郎が己の胸に秘めた指針だ。
その先端が、まるで胸に刺さってくるよう。
ふと、天啓のように昨晩の友里の声が蘇る。
残酷な真実より、優しい嘘を。
しかし―――。
「当てて見せようか? これは、櫻井了子に贈るつもりの指輪だったんだろ?」
クリスの口調。縋るような表情。
全身で彼女は訴える。どうか否定してくれ。あたしの予想を裏切ってくれ。
ぎりりと弦十郎は歯噛みする。
なぜに真実を口にするのがこれほど苦しいのか、自分でもよく分からぬ。
それでも、毅然と顔を上げる。
やはり性分は曲げられない。
「…そうだ」
頷くと、途端にクリスの全身から力が抜けた。
天を仰いだクリスから、短くも絶望的な笑い声が一つ虚空へ放たれた。直後、何かが勢いをつけて飛んでくる。
咄嗟に受け止めてみれば、指輪の入った箱だった。
「クリスくん…!」
顔を上げた弦十郎の先で、乾いた表情のまま、クリスは冷たく言い放つ。
「―――離婚だ」