桜の花弁が、暖かい風に舞っている。
今年は例年より開花が早いようだ。
「ただいまッ」
「おかえり」
自宅で出迎えた弦十郎の先には、制服姿のクリスがいる。
彼女の左手には赤い花束。右手には卒業証書の入ったらしい円筒。
目が赤いのは、おそらく卒業式で泣き腫らしてきたからに違いない。
本日のリディアン音楽院の卒業式に、弦十郎は呼ばれていなかった。
『アンタはあたしの保護者じゃないだろ?』
とクリスは言っていたが、おそらく泣き顔を見られたくなかったのだろう。
「…どうした?」
クリスが小首を傾げた。ストレートヘアがサラサラと流れて、春の陽光を反射している。
どうやら軽く見蕩れてしまっていたらしい。誤魔化すように弦十郎は咳払い。
にんまりとして、クリスが身体を預けてきた。
ごく自然な格好で、弦十郎が抱き止める形となる。
彼女の纏う香りとその身の柔らかさに慄く。
そんな弦十郎に委細構わず、クリスは腕の中から上目使い。
これは何かを言って欲しいときのアクションだ。
「…綺麗だぞ」
ややそっぽを向きながら言うと、クリスは満足げに笑った。
「ん、合格だッ」
その採点はさて置き、歌詞の文句ではないが、春が来てクリスは本当に綺麗になった。
二人並んで街中を歩けば、そのミスマッチ感はあるにせよ、振り向いてくる男のなんと多いことよ。
「女性は愛されて美しくなるんですよ!」と友里が力説していた。
もっとも、俺はまだこの子を本当に愛してはいないのだが…。
そんなことを考えていると、クリスに額で胸を小突かれる。
「…色々あったな」
「ああ、色々と大変だった」
今日という日に至るまでも、本当に様々なことが起こっていた。
さりとて、偽装の結婚生活は破綻なく経過している。
いや、もはや偽装ではなくなった。
法律上でも、世間的にも、二人は間違いなく夫婦であると周知されている。
しかし―――。
「約束の件、覚えているだろうな?」
クリスが長いまつげを伏せ、小声で言ってくる。その頬は赤い。
「…ああ」
返答したものの、自分がどんな表情を浮かべているかよく分からない弦十郎。
かつての約束。
クリスが18歳になるまで、もしくは彼女がリディアンを卒業するまで、男女の関係は待って欲しいと約束を交わしていた。
その条件が二つとも満たされた以上、弦十郎は約束を果たさなければならぬ。
同時に今日は、己に対するクリスの想いに応えるつもりでもあった。
ゆえに、弦十郎なりに、今日という日へ向けて幾つもの台詞を考えている。
―――俺にとって、今はおまえが誰よりも愛しく思える。
―――おまえとなら、これから一緒に生きていけるかも知れない。
―――これからは、おまえが俺の一番の存在だ。
だが、この日のために用意したはずの言葉は、喉の奥に貼り付いて出てきてくれない。
…なぜだ。そこから派生する行動も念頭にあったのに。
一人苦悶する弦十郎。
それでもしばらくクリスは待ってくれていたが、再びこちらの胸の中に顔を埋めてしまう。
…呆れられたか?
弦十郎がそう懸念する中、クリスの華奢な肩が小刻みに上下。
やがてくっくっくという笑い声が立ち昇ってくる。
「いいんだよ。変に言葉を取り繕わなくたって」
「そ、そうか?」
「正直に、無骨に、力強く言い切る方がアンタらしいさ」
ならば、と弦十郎は思案する。
この胸の内と、この身の昂ぶりを、素直にクリスへと届けよう。
小さな身体を抱き上げて、耳元へ囁く。
「愛してるぞ。そしておまえに欲情した」
「…火の玉ストレートすぎるだろ、おいッ!?」
クリスに持っていた花束で頭を叩かれたが、弦十郎は存分に欲求を果たすことが出来た。