お弦さんといっしょ   作:とりなんこつ

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優しい世界です。


番外編 お爺ちゃんもいっしょ

 

 

 

 

 

 

 

元旦の早朝。

風鳴弦十郎の姿は、都内の風鳴家所有の屋敷にあった。

かつて装者たちに様々なトレーニングを課した広大な敷地は、普段住まいには広すぎる。

なので官舎へ居を定めている弦十郎なのであるが、先日の大晦日から大規模な煤払いに訪れていた。

ほぼ丸一日かけて綺麗に掃除を済ませた屋敷で迎える新年は実に清々しい。

さっそく紋付袴を身に着けた弦十郎の横には、実に艶やかな晴れ着姿の小柄な影が付き添う。

赤い振袖も目に鮮やかな雪音クリスである。

 

「どうした、おっさん?」

 

そんな彼女は、(かんざし)の刺された結い上げた頭を弦十郎へ向けて傾げて見せた。

 

「いや、実に綺麗だと思ってな」

 

「ッ!! …ありがと」

 

たちまち茹蛸のように顔を真っ赤にするも、それからぼそりと礼をいうクリスがいる。

その姿を認め、弦十郎もなんとも面映(おもは)ゆい。

世間的に、弦十郎とクリスは夫婦ということになっていた。

二人が入籍に至るまでは、多分に政治的な背景と事情が存在している。

いわば偽装であり、仮初であった夫婦関係も、いまや様々な紆余曲折をへて、ぎこちなく、それでも完全な夫婦という形に昇華する途上にあった。

なのでこれらのやりとりは、当事者たちにはともかく、傍目には初々しい新婚カップルに見えたかも知れない。

 

「さあて、連中が来るまで仕上げねえとなッ!」

 

振袖に襷をかけて腕まくりをするクリスがいる。

元旦なので、さっそく装者や職員たちが年始の挨拶に来る予定だ。

弦十郎は組織の長で挨拶を受ける立場にあるわけだが、官舎では狭すぎる。

その点、この屋敷は多勢の来訪にもってこいだ。

ついでに、餅つきをして餅を振る舞う予定で、クリスは先日からその準備に余念がない。

 

「…それにしても、この量は尋常ではなくはないか?」

 

思わず呟く弦十郎の視線の先は、まるで特大のタライのような鍋がぐつぐつと煮えていた。全て雑煮用の汁である。

 

「へッ、どうせあのバカがバカみたいに喰うに決まってるだろッ?」

 

彼女の言うところのバカは立花響のことに他ならない。

『好きなものはごはん&ごはん!』と公言して憚らない彼女は、かなりの健啖家である。

おせち料理もかなりの量を用意してあるのは、響の来訪に備えてのことだろう。

 

…口では何のかんのいっても、クリスくんにとって響くんは掛け替えのない友人なのだろうな。

我が嫁ながら、実に友情に厚い娘だ。

 

そう微笑ましく弦十郎が思っている視線の先で、クリスの横顔は邪悪そうに歪む。

 

「へっへ、あのバカも晴れ着で来るっていってたからな。しこたま餅を喰らわせて腹を膨らませて、精々苦しませてやるぜ…ッ!」

 

「…う゛~む」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「師匠ッ! 明けましておめでーとーございま~すッ!」

 

「うむ。あけましておめでとう、響くん」

 

「明けましておめでとうございます、弦十郎さん」

 

「未来くんも、今年もよろしく頼むぞ」

 

立花響、小日向未来のペアを皮切りに、次々と装者たちがやってくる。

玄関先で弦十郎とクリスの挨拶を受けると、招待客は次々と中庭へと回された。

開け放しの縁側には既に縁台などが設えてあり、中央には臼と杵が準備されている。

 

「あけましておめでとうございます! 招待して頂きありがとうございますッ!」

 

友里と藤尭に付き添われた晴れ着姿のエルフナインの来訪で、当座の来客は全員集合。

 

「それではそろそろ始めるかッ!」

 

「あいよッ!」

 

弦十郎の襷がけを手伝ったあと、クリスは厨房から蒸したてのもち米を持ってくる。

それを臼の中へと放り込み、弦十郎が杵を持つ。

 

「よし、いくぞ、クリスくんッ!」

 

「よっしゃ!」

 

弦十郎が杵を突き、クリスは突かれたもち米を濡れ手で引っ繰り返す。

実にリズミカルな挙動でたちまち一臼目が突きあがり、響が感嘆の声を上げた。

 

「うわ~、さすが夫婦だね、息がピッタリ!」

 

そんな響をクリスは真っ赤な顔で睨んだが、結局何も言わなかった。

突き立ての餅は小分けにされ、さっそく来客へと振る舞われる。

雑煮だけでなく、納豆、餡子、黄粉に海苔と醤油まで準備されていた。

 

「突き立てのお餅ってこんなに美味しいんデスか!」

 

「スーパーで売ってる切り餅を焼いたのと全然違うね切ちゃん!」

 

感激の声を上げながら餅をパクつく暁切歌と月読調に、

 

「こらこら、美味しいからって慌てて食べて喉に詰まらせちゃ駄目よ?」

 

とマリア・カデンツァヴナ・イヴは新年早々甲斐甲斐しい。

 

「確かに美味だが、なかなかにカロリーが高い上に腹で膨らむのはな…」

 

苦笑する風鳴翼の発言は、トップアーティストとして節制を課している彼女ならではとも言える。

無論、そんな外野の声を一切合財気にしない例外も存在した。

 

「う~! 美味しい! 美味しすぎる! お替り!」

 

「…バカなッ! 餅は飲み物じゃねえぞ!?」

 

唸り声を上げるクリスの前で爆食する響。

 

「はい、響。こっちのバターを海苔で巻いて醤油を垂らしたのも美味しいよ!」

 

唯一彼女に直言できる未来が、わんこそばよろしくせっせと食べさせる餅の準備をしているのだから、その消費量は言わずもがな。

実に突き立て餅の半分量を胃の腑に納め、響は声高に宣言する。

 

「クリスちゃん! お餅お替り!」

 

「わーったよ、いま新しいもち米が蒸し上がるから」

 

もっとも、この勢いはクリスにとっての想定内。

さっそく新しいもち米を持って来て臼へ放り込み、自身は杵を持って響へと声をかける。

 

「おら! おめーが一番喰ったんだから、手伝いやがれッ!」

 

「あ、はいはい、了解ですッ」

 

クリスが突き手で、響が返し手。

 

「それじゃいくぜッ!」

 

「はい、どうぞッ!」

 

「ちょっせえッ!」

 

「うわッ! クリスちゃん、いま、わたしの手を狙ってなかった!?」

 

「あん? 気のせいだろ?」

 

「…そうかなあ? まあ、いいや、はいッ」

 

「ちょっせえッ!!」

 

「やっぱりわたしの手を狙っているでしょー!?」

 

「うるせえな、いいから早く引っ繰り返しやがれッ」

 

などと小規模な争いが勃発するも、二臼目もどうにか突き上がる。

一臼目は遠慮していた弦十郎ら大人組も餅を口にする中、まるで勢いを衰えさせることなく餅を平らげていく響。

そんな彼女にお替りを所望され、三臼目は大人組が杵を握る。

 

「緒川さんの一人分身餅つき! お見事ですッ!」

 

翼が激賞して突きあがった三臼目の餅を頬張り、とうとう響にその時が訪れた。

 

「…うッ、未来。少し苦しいかも…!」

 

「だ、大丈夫!? 帯を緩めるよッ!」

 

「駄目だ、それくらいじゃ追い付かないよ…ッ!」

 

「響…ッ!」

 

「ううっ、未来…ッ!」

 

妙な愁嘆場が発生。

その光景を横目で見やり、ようやく自分の目論見が図に当たったとほくそ笑むクリスがいる。

…これであのバカも大人しくなって、他の連中もゆっくり食えるだろうよ。

ところが、事態は彼女の予想の斜め上を行く。

 

「未来…ッ! こうなったら奥の手を使うよッ!」

 

「ええ!? でも、響! それは…ッ!」

 

「いくよッ! …アーマーパージだッ!」

 

「ッ!?」

 

クリスたちが目を見張る中、帯と晴れ着が宙に舞う。

元旦の晴れ渡った寒空のもと、中庭に降り立つはスポーツブラとスパッツ姿の立花響。

実に清々しい笑顔で彼女は再び箸を取ると、

 

「ふーッ! 楽になったー! これでもっと食べられるよ~ッ!」

 

なお盛大に餅を頬張る響に他の参加者は絶句。

寒風吹きすさぶ中、クリスは鼻水を啜りあげてどうにか声を絞り出す。

 

「まさかバカは風邪引かないってのを逆手に取るとは…ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どれ。それではそろそろお開きとするか」

 

宣言し弦十郎が腰を上げたのは、お昼も少し過ぎたところ。

 

「いや~、食べた食べた。ご馳走さまでしたッ!」

 

屋敷に置きっぱなしだったジャージを着て響がそうのたもう。

 

「ご馳走様でしたデス!」

 

「ご馳走さまでした」

 

丁寧に頭を下げてくる切歌と調を、クリスは呼び止めている。

 

「おい、待て、おまえら」

 

「? どうしたんデス?」

 

「ほれ、お年玉だッ」

 

「なななななんデスとぉ!?」

 

「貰っていいんですか!?」

 

驚きの声を上げる後輩二人に、クリスはふふんと胸を張る。

 

「目上の者が目下の者にお年玉をあげるのは当然だろ? なにせあたしは大人で人妻だからなッ」

 

そんな様子を見てマリアは苦笑い。

 

「あなたにそんなことされちゃ、私の立つ瀬がないんだけど…」

 

「いいじゃねえか、二人も喜んでるみたいだしよ」

 

「つ、月読に暁! 剥き身で悪いが私からもお年玉を…ッ!」

 

「先輩も無理しなくていーから」

 

年長者二人を軽くいなすクリスの前に、揉み手をする響の姿が。

 

「えへへ、クリスちゃん? あの、わたしには~…?」

 

「おお? 欲しいか? 欲しいのか?」

 

ほれほれ、とクリスが振るぽち袋に合わせ響が頭を左右に動かす様は、さながら犬のごとし。

 

「もう、クリス、イジワルしないで」

 

「ん? ああ、そうだな」

 

未来の言に苦笑しつつ、クリスは響へとぽち袋を渡す。

 

「ありがとう、クリスちゃ~ん!」

 

受け取って満面の笑みを浮かべる響。

さっそく中を開けて、彼女の笑顔は凍りつく。

 

「あの、クリスちゃん、これは…?」

 

「図書カードさ。どうせおまえに現金渡しても買い食いするだけだろ?」

 

「うぐっ」

 

図星を突かれて言葉に詰まる響を横目に、クリスは未来へもぽち袋を渡している。

 

「ま、それで本でも買って勉強しろよ、バカ」

 

「…新年そうそう、わたしって呪われてるかも~」

 

「貰っておいて呪いとか抜かしてんじゃねえッ!」

 

バシッと響の頭を叩くクリス。

これには周囲からも失笑が漏れた。

 

「ほれ、おまえにもだッ!」

 

「ボ、ボクもよろしいんですかッ!?」

 

感激するエルフナインを後目に、今度は弦十郎が総司令として改めて装者たちへとお年玉を渡していく。

もっとも受け取った面子はクリスと同様の年少者組に留まり、マリアや翼は謹んで辞退している。

 

「それでは諸君、今年もよろしく頼むぞ」

 

「はいッ!」

 

挨拶を返し、三々五々装者たちと部下も帰って行く。

 

「どうやら一仕事終わったなあ」

 

そう呟いて、我ながら声が冴えていない自覚はあった。

なぜなら、これからより気が重くなる仕事が控えている。

他の装者たちが帰ったのち、一人だけ残った翼と目が合う。

なぜに彼女が残っているのかと言えば、風鳴という同姓を冠するがゆえ。

これから鎌倉への本邸へと向かい、毎年恒例の風鳴宗家の年賀会へと参加せねばならぬ。

浮かぬ顔の姪を見やり、しみじみと弦十郎は独りごちた。

 

あの威圧感の権化ともいうべき親父と席を同じくするのだ。これは、気を重くするなという方が無理な相談かも知れないな…。

 

「おら、とっとと行こうぜ」

 

だが、片付けを終えて発破をかけてくるクリスがいる。

その雄姿に、弦十郎の頬は我知らず綻ぶ。

一応でも夫婦であれば、クリスも風鳴一族と見做されるは自明。なので彼女も年賀会へと招待されていた。

クリスが弦十郎の嫁となった事情などは、兄である八紘によって風鳴の親族にも周知されているはずだが、若すぎる彼女に対し口さがない連中もいることだろう。

 

―――であれば、自分などより余程クリスくんにとっては試練ではないか。

 

努めて明るい顔を作り、弦十郎は頷いてみせる。

 

「そうだな。クヨクヨしていても始まらんし覚悟を決めるかッ」

 

すると、不思議そうにクリスは首を捻って、

 

「なんでクヨクヨする必要があるんだ?」

 

「それは…なあ」

 

翼と顔を見合わせ、互いに苦笑するしかない。

厳粛で格式ばった古式ゆかしい年賀会である。

そこに面白みを見出すのは難しい。

ましてやあの風鳴赴堂と同じ空間で対峙するのだ。

しかし、次にクリスが口にした台詞は、弦十郎と翼、二人の度胆を抜く。

 

「あたしは結構楽しみにしてたんだけど…?」

 

「なんだとッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉の風鳴本邸の有する広大な敷地。

その駐車場には、いまや黒塗りの高級車が回遊魚の群れのごとき様相で詰めかけていた。

 

「…すげえなあ。いったい、どれくらいの人数が来ているんだ?」

 

「さてなあ」

 

クリスの質問に、弦十郎も明確な返答が出来ない。

経済界の大物は言うに及ばず、保守系の政治家の姿も散見された。

加えて彼らのSPなども含めた人数は膨大。日本国における赴堂の多大な影響力の証左であろう。

しかも年々増えていることに戦慄を禁じ得ない弦十郎である。

 

駐車場に車を停める。

車を降りれば、使用人たちがやってきた。

恭しい仕草で案内されたのは呆れるほど広い大広間。

そこにずらりと端座する背広や紋付袴姿の招待客たちにクリスは目を剥く。

もっとも風鳴一族の直系である弦十郎らは、そんな彼らを横目に上座へと誘導。

最奥に坐する赴堂の両脇に縦に並んだ形で腰を降ろせば、ちょうど正面に風鳴八紘が座っている。

弦十郎と翼にとっては毎年の光景なのだが、赴堂の威圧感はもとよりその背後に設えられた甲冑の迫力にクリスは息を飲んでいる。

 

 

「これより、風鳴本家、年賀の会を執り行います」

 

家令の落ち着いた声に、大広間の客たちは一斉に居住まいをただす。

一人一人名前を呼びあげられ、風鳴一族が見守る中、当主である赴堂の前へ罷り出てくる。

各々がご機嫌伺いのような年始の挨拶を施していく様を、まるで惣登城だな、と弦十郎は眺めている。

国の象徴であるやんごとなき方を朝廷とすれば、まさに赴堂は現代の征夷大将軍といったところか。

実父であれど、誇らしさより畏怖が勝るのは、やはり彼の人の尋常でないカリスマ性に由来する。

数々の政敵から怪物と揶揄されているのは、まさに正鵠なのだろう。

 

一通り来客の目通りが済むと、一族の挨拶が始まった。

直前の八紘と翼親子の挨拶に赴堂はさして表情を変えず受け、次は弦十郎とクリスの夫婦ということになる。

坦々たる新年の挨拶をする弦十郎と黙って頭を下げるクリスをじろりと一瞥し、赴堂は矍鑠(かくしゃく)と言い放った。

 

「未だ子を成さぬのか?」

 

「…彼女は学生の身でして」

 

唇を噛みしめて辛うじてそう口にする弦十郎は、隣で頬をパッと赤くするクリスを見る。この回答に至るまでの詳細など説明するつもりは毛頭ない。

 

「ふん」

 

さして面白くなさそうに風鳴家の現当主は鼻を鳴らし、弦十郎夫妻の挨拶はそれで終了。

その後は招待客を含めた全員に膳が配され、新年を祝う宴と続く。

まずは、翼とクリスの前に朱塗りの盃台を持った使用人がやってきた。

渡された朱塗りの盃を持つ翼にならい、クリスも盃を持ち上げると、酒器から液体が注がれる。

 

「…なんだこれ?」

 

小声で尋ねてくるクリスに弦十郎は答える。

 

「屠蘇だ」

 

漢方の生薬を酒やみりんに漬け込んで作る縁起物で、名が表す通り悪鬼などを屠る効果があるとか。

市井では出来あいのものも流通しているが、風鳴家では古式に則り、厳選した薬草と赤酒を用いて作られている。

また、飲む順番も若年から老年という順番で、これは若者の活発な生気を年長者が飲み取るという意味があると言われていた。

 

「一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」

 

一息に飲み下し、翼がそう唱える。

その横で匂いに顔を歪めるクリスに、弦十郎はこっそり耳打ち。

 

「無理して飲まなくても」

 

構わないぞ、と続けようとする寸前、クリスは一気に盃を煽っていた。

んべ、と舌を出して不味そうな表情を見せたのも一瞬のことで、翼と同じく、

 

「ひ、一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」

 

と唱える。

それから年少の順に盃が回され、弦十郎自身は車を運転しなければならないので形ばかりの口をつけた。

最後に赴堂が盃を飲み欲し、屠蘇の儀式は終了となる。

あとは無礼講の宴会が始まった。

 

「なあ、おっさん。無礼講ってなんだ?」

 

豪華な山海の珍味で構成されたおせち料理をつつきながら首を捻るクリスがいる。

 

「一般には、地位や身分の上下を取り払い楽しむということになっているが…」

 

説明しつつ、弦十郎は頬に苦笑を刻む。

来客の宴は互いに酒を酌み交わしそれなりに盛り上がっているも、風鳴一族の上座へと好んで足を向けるものは少ない。

主催で、かつ同じ大広間という空間にも関わらず隔絶されているような雰囲気は、風鳴という血統は敬われているのと同等、もしくはそれ以上に畏怖されている存在であることの証明だ。

 

「まあ、それも建前だな」

 

弦十郎がそう述懐すると、クリスは「タテマエ?」とまたもや首を捻っている。

 

「雪音、酌をしに行こうか」

 

翼が立ち上がっている。

この場において、彼女は一番の目下である。目上の者へ酒を注ぎに行かねばならないのは毎年のことだが、今年からクリスという道連れが出来たことは彼女にとって喜ばしいことかも知れぬ。

 

「うん、分かった」

 

そういってクリスも立ち上がったが、その足がフラついた。

 

「だ、大丈夫か、クリスくん?」

 

「ん、へーきへーき」

 

陽気に答える彼女に弦十郎は微かな違和感を覚えたが、ちょうど口に含んでいた昆布巻きと一緒に飲み込んだ。

赴堂の席まで歩いて行った二人はその前に正座。

 

「新春を寿ぎ謹んでご祝詞を申し上げます…」

 

格式ばった挨拶を口にする翼に続き、クリスも赴堂の大きな盃へと酒を注ぐ。

一気に酒杯を煽った赴堂は、まったく酔いを感じさせない視線で二人を睥睨。

 

「楽にせよ」

 

そう口にされて、背筋をピンと伸ばす翼がいる。

無論この発言も建前であり、実際は赴堂直々の言葉を賜わる前段階。

元旦だからといって赴堂が口にするのは慶賀ではなく、内容は半ば説教に近い。

縁者の殆どが一々耳に痛い直言を受ける形となり、新年早々翼の気が滅入っていた原因はこれであった。

 

「んじゃ、お言葉に甘えて」

 

ところが、いきなり膝ごと相好を崩すクリスがいる。

 

「ゆ、雪音ッ!?」

 

思わず翼が諌めるも、

 

「先輩、無礼講だろ、ブレーコー♪」

 

まったく取り合わないクリス。

 

「まさか…」

 

弦十郎の背筋を冷たい汗が流れる。

時折怖いもの無しの言動を取る彼女であるが、今の状態は常軌を逸していた。

考えられる原因は、先ほどの屠蘇だ。まさか、あの程度で酔っぱらっているのか…?

一気に場の空気が張りつめる中、晴れ着にも関わらず胡坐を掻くクリスに向けて、赴堂の眉が蠢いた。

 

「…何か言いたいことでもあるのか?」

 

すると、我が意を得たりとばかりにクリスは声を張り上げて、

 

「そうだよッ! さっきの早く子供を作れみたいなアレはなんだッ? まるっきりセクハラじゃねえかッ!」

 

その声を聞いた参列者が揃って目を剥いたのは、クリスの口の利き方かその内容ゆえかは判断がつかない。

 

「…ほう。儂の物言いが不躾と申すか」

 

赴堂の言に、クリスは勢いよく頷く。

尋常でない彼女の様子に、さすがに弦十郎も腰を浮かしかけたが、赴堂に目線で制された。

歯噛みする弦十郎の目前で、クリスの声は続く。

 

「子供なんかそのうちポンポン産んでやるよ。でもな、それは夫婦間の問題で、爺さんが口を挟んでくるもんじゃねえだろッ?」

 

この物言いに、さすがに翼も弦十郎も絶句するしかない。

静まり返った場の雰囲気に全く頓着しないクリスの瞳は、弦十郎には見えなかったが完全に座っていた。

 

「だいたいさ、古いしきたりとか礼儀とか重視する割に、あたしはまだ貰ってないもんがあるんだけど?」

 

「ふむ?」

 

訝しげに眉根を寄せる鎌倉の怪物と呼ばれた老人に、クリスは堂々と言い放つ。

 

「お年玉さ。目上のものが目下のものにくれるのは当然だろ、お爺ちゃん?」

 

室内の空気は完全に凍りついた。

赴堂に対してこのような大それた言葉を口にした人間は、空前にして絶後だろう。

ましてやそれが直系の息子の嫁となれば、どのような仕儀と相成るのか?

誰もが息を飲むのも躊躇うような沈黙は、きっと針が落ちた音さえ聞こえたに違いない。

赴堂の唇が震えた。

徐々にその振動は大きくなり、深い皺が刻まれた唇から溢れ出たものは、哄笑。

弦十郎は信じられないものを目にした表情で、その光景を見守るしかない。

 

まさか。あの親父が、愉快そうに笑っているだと…ッ!?

 

怪物と呼ばれた眉雪の哄笑が響き渡る。

驚愕と戸惑いが混合された人々のざわめきの中、肝心のクリスはきょとんとした表情で周囲を見回していた。

 

 

 

―――かくして今年の風鳴家の年賀会は例年にない展開を見せ、参列者の記憶に長く刻まれることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道の車のハンドルを握った弦十郎は、やや茫然とした眼差しを正面に向けていた。

 

年賀会はどうにか終了したものの、何を食べたか全く覚えていない。

赴堂の滅多に見られない態度が披露されたとて、場の空気が好転したわけでは決してなかった。

むしろその後は、他の親族から無言の詰問の視線に晒された弦十郎である。

クリスと夫婦となった以上、それは仕方のない仕儀ではあったが、正直針のむしろだった。

それらもどうにかやり過ごし、久々に親子水入らずで過ごすことにした八紘と翼と別れ、足もとも覚束ないクリスを車に誘導して乗せた後。

追い付いてきた家令に呼び止められ、「御前からです」と差し出された袱紗の中には分厚い封筒。

 

「…なんだ、これは?」

 

受け取って訝しげな声を出してしまう弦十郎に、

 

「んなもんお年玉に決まってんだろッ!」

 

陽気に断言したクリスが中身を確かめると、封も切られていない一万円の束が丁度百枚。

まさか、と弦十郎が家令を見やれば、恭しく首肯された。

 

「もしかして、クリスくんは親父に気に入られたのか…?」

 

呻く弦十郎だったが、嫁はケラケラと笑って屈託がない

 

「よっしゃ、将来のために貯金しとこうぜ♪」

 

その言に、弦十郎は厳つい頬に血を昇らせてしまう。

将来的に子供なんてポンポン産んでやるとクリスは放言してしまっていた。

無論、子供は女一人だけで作れるはずもなく―――。

 

 

 

 

「なあ、クリスくん」

 

ハンドルを操りながら弦十郎は助手席へと声をかける。

返事はない。

横目で見れば、袱紗を胸に抱くようにして、クリスはすいよすいよと寝息を立てていた。

そのあどけなくさえ見える寝顔を眺め、弦十郎は思いを巡らしている。

いかに酔っていたとはいえ、あそこまで正面切って親父に苦言を呈することが出来る人間がいるだろうか?

夢想だにしていなかったそれは現実に存在した。しかも自分の嫁とはな。

 

弦十郎の口元に笑みが浮かぶ。

我知らず、思いが口から飛び出していた。

それは、昔日の桜井了子にすら贈ったことのない言葉だ。

 

「―――まったく、大した女だよ、おまえは」

 

 

 

 

 

 

 

 

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