弦十郎のマンションに帰りつくなり、クリスはソファーへと倒れ込んだ。
そのままクッションを抱いてジタバタと足を動かしている。
「…明日から、どんな顔して学校に行けばいいんだよ…ッ!!」
「別に普段通りに行けばいいのではないか?」
弦十郎が素直にそう言うと、凄い目つきで睨まれた。
まあ気持ちは分からなくもない。
しかし、いつまでも周囲に黙っておくわけにも行かないことも確かだった。
結婚したのに周囲の誰も知りませんでした、では、さすがに一発で偽装と看破されしまう。
英国から突かれても胸を張れるだけの体裁は整えておきたいものだ。
そんな弦十郎の内心をよそに、クリスはクッションを振り回して悶えていた。
「心構えの問題だッ! あんな場所で、いきなり…ッ!」
「ひょっとして迷惑だったか? こんなおっさんが結婚を宣言してしまったのは」
「迷惑千万だッ! あ、い、いや、そ、そっちの方は別に迷惑ってわけじゃないけれど…」
「なるほど」
よく分からん。
適当に相槌を打ちつつ、弦十郎はジャケットに袖を通す。
普段の赤シャツ一枚姿に見慣れてるためか、不思議そうな顔をするクリスに、
「どれ、クリスくん、出かける支度をしてくれ」
「え? ど、どっか行くのか?」
「夕食は外に食べに行こう。なんでも、夫婦でもデートはするそうだからな」
ソファーに座っていたクリスの顔がみるみる赤くなる。
続いてバネ仕掛けの人形のように立ち上がったクリスは、自室の和室へ向けて全力疾走。
むう、これは今回も逃げられたか?
などと弦十郎が思案していると、部屋からクリスが上半身だけを覗かせて、
「悪いッ! あと十分! いや、あと十五分だけ待ってくれッ!」
どうやら大慌ててで支度をしている模様。
「急がなくてもいいぞ」
弦十郎はそう苦笑で応じた。
どうやらよほど腹が減っていたと見える。
まだ色気より食い気といった年頃なのだろうな。
弦十郎は愛車を走らせる。
助手席のクリスはやたらヒラヒラとした服を着ていた。
よく分からないが、こういうのを『こけてぃっしゅ』とかいうのだろうか。
とりあえず、
「似合っている。可愛いぞ」
と褒めると、一瞬だけ嬉しそうな顔をしたがすぐ顔を伏せてしまう。
どこか褒めるポイントを間違えてしまっただろうか。
結局、それ以上どう言葉をかければいいのか分からず、弦十郎は無言でハンドルを操るしかない。
妙な沈黙が続き、不安な気持ちが鎌首をもたげたころ、クリスはようやく口を開く。
「…ところで、何を食べに連れてってくれるんだ…?」
「美味いものだぞ」
「………」
また会話が止まる。
「そ、そういえば、クリスくんは苦手な食べ物はあるのか?」
弦十郎がそう言うと、今度のクリスはしみじみと溜息をついた。
「普通、そーゆーのは先に訊くもんじゃねぇのか?」
「あ、むう、そうだな、すまん」
謝ると、クリスは窓の方へ顔を向け、なにやらぶつぶつと呟いている。
辛うじて『野暮天』『唐変木』とかいった単語が聞き取れた。
まあ、これくらいの悪口には甘んじよう。半ば無理やりの結婚という酷いことを強いている自覚はある。
駅前のビルの駐車場に車を止めた。
「ここから少し歩くぞ」
「上のレストランじゃないのかよ?」
ビルの最上階には有名なレストランがある。
小首を傾げるクリスは、車から降りる段になってよろけた。原因は厚底のブーツ。
隣で手を取り支えながら、今度は弦十郎が首を傾げる番だった。
「なんでそんなに丈の高い靴を履くんだ?」
素朴な疑問のつもりだったが、頬を膨らませた挙句、脛を蹴られた。
大して痛くはなかったが、今朝、額をかち割られた件を思い出し、弦十郎はそれ以上言葉を重ねるのを止めた。
きっと男が思いも及ばない深遠な理由があるのだろう。
「で、どこに連れてってくれるんだ? 言っとくが、あたしはテーブルマナーなんてさっぱりだぞ」
決して威張れることではないことを胸を張って言うクリスに、弦十郎は苦笑する。
クリスがなかなかユニークな食事の食べ方をすると、調査部より報告は上がってきている。
「仮にも嫁さんに恥を掻かせるつもりはないさ」
「…!!」
その言葉にクリスは顔を真っ赤にし、直後思い出したようにまた脛を蹴ってくる。
まったくなんなんだ。
駅のすぐ裏路地を入ったところに、その店はあった。
「ここは…」
クリスをして一目で高級そうな佇まい。
委細構わず、気軽に弦十郎は引き戸を開ける。
「へいらっしゃい」
大将の張りのある声が出迎えてくれた。
「二名ですが」
「はいよ、こっちにどうぞ」
大将の前のカウンター席に案内される。
カウンターの上には新鮮な魚の切り身がケースに並べられていた。
「風鳴さん、ずいぶんと久しぶりですね」
丸顔の初老の大将は、テーブルの上に二つの湯呑を置きながら話しかけてきた。
「ああ、御無沙汰してました」
弦十郎はお手拭で手を拭いながら答えた。
年長者には敬意を持った言葉づかいを心掛けている。
「こちらの方は?」
声をかけられペコリと頭を下げるクリスがいる。
「クリスくんだ。一応、俺の妻ということになっている」
そう答えると、クリスがあからさまに狼狽えた。そして、さすがに大将も動揺したようだ。
「ははは、ここに通ってしばらくになるが、大将が驚くのは初めて見たぞ」
カウンターテーブルの下でクリスにゲシゲシと足を蹴られながらも、朗らかに笑う弦十郎。
「そりゃあ驚くなって方が無理なことですよ。しかも、こんな可愛らしい、いや綺麗なお嬢さんと」
そういわれ、クリスは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「しかし、風鳴さんが結婚ねえ…」
大将がその件に関して感想らしきものを漏らしたのは、その一言が最後だった。
「さて、今日も美味いものをお願いします」
「あいよ、お任せでいいですかね? …おっと、お嬢さん。いやさ、奥さん。苦手なネタとかありますかい?」
「い、いいえ」
クリスが首を振ると、大将は満面の笑みを浮かべて手酢をつけた手を打ち鳴らした。
「はいよ、先ずはコハダからね」
大将の寿司を握る流れるような手つきに、クリスは息を呑んでいる。
まずは一貫ずつ載せられた皿が二人の前に来た。
「箸で食べてもいいが、難しいなら手掴みでOKだ。それに、ここは大将の気遣いで、女性でも食べやすく半分になるよう隠し包丁が…」
解説する弦十郎の横で、クリスは寿司を一口で頬張り、目を輝かせている。
「…まあ、好きに食べればいいか」
その後も、次々と素晴らしい手際で寿司が握られてくる。
弦十郎もクリスもいちいちそれらを楽しんだ。
一通り握り終えると大将が話しかけてた。
「さて、何か気に入ったネタはあったかい? 別に握るよ?」
「え…」
「遠慮は無用だ、クリスくん。好きなだけ食べると良い」
そういわれ、クリスはぐっと言葉に詰まる。
なにやら葛藤しているらしいが、その時間は決して長くはなかった。
「そ、それじゃ、ウニと大トロをお願いしますッ」
「あいよ」
湯呑を傾けながら、弦十郎はクリスの健啖ぶりを温かく見守る。
まだ17歳だからな。たくさん栄養を取れば、少しは背も伸びるだろう。
とにかく、機嫌も直ったようでなによりだ。
「…ちょいと風鳴さん。手持ちは大丈夫かい?」
「はは、大丈夫ですよ」
「そうはいうけれど…」
大将がこっそりと伝票を渡してくる。
数字を確認し、弦十郎は目を剥く。
ついで、何個目かも知れぬ大トロを頬張るクリスと目があった。
「本当に物凄く美味いなッ!」
その姿に、もうこれくらいで止めておけと言うのは流石に
「…この店、カードは使えましたか?」
「すんません、うちはちょっと扱ってなくて」
「……申し訳ないが、ツケといて下さい……」
「いやあ、喰った喰った♪」
上機嫌のクリスに、弦十郎は己の顔が若干引き攣っているのを自覚していた。
すっかり財布の大減量に成功してしまった。
まあ、それでクリスの機嫌が回復してくれたのなら安い出費か…。
ともあれ、今度は店を選ぼう。
さすがに時価の店で好きなだけ食べさせるのは無謀だった。
食べ過ぎたわけでもないのに、胃のあたりがチリリと痛む。
「さあて、お次はどこに連れていってくれるんだ? デートは終わりじゃないだろ?」
完全にいつもの調子のクリスに、弦十郎は考え込む。
小洒落たバーでグラスを傾けたい流れだが、相手が未成年ではそれもままなるまい。
結局、車に乗って再移動。
ついた先は、夜景の見えるちょっとした高台だ。
穴場のデートスポットではあるが、既に幾つかのカップルも散見された。
「へえ、いい眺めじゃん」
展望台の手すりから身を乗り出してクリスが言う。
続いて振り返った瞳には強気の色が浮かんでいた。
まるで、あたしはこんなもんじゃ満足してやらないぜ? と言っているかのよう。
苦笑して、弦十郎は上を指さす。
釣られて空を見上げ、クリスははっきりとした感嘆の声を上げた。
「わあ……ッ!!」
このスポットが人気なのは、何も眼下に望める夜景だけではない。
都会特有のスモッグなどで星が見られないことはしばしばだが、なぜかこの場所ではくっきりと星空が望めるのだ。
両腕を広げ、クリスはその場でクルクルと回っている。
その小さく細い肩を眺め、弦十郎は守ってやらねば、という決意を新たにする。
不意にクリスが尋ねてきた。
「それで? なんでおっさんはこんなスポットを知ってるんだ?」
その質問に弦十郎はギクリとした。そしてギクリとしてしまったことに驚きつつ答える。
「昔の仕事の一環でな。対象の尾行中に、こんな場所に来ることも珍しくない。おかげで詳しくなってしまった」
「ふ~ん…?」
クリスはたっぷりと疑わしげな目つきをしたあと、言った。
「あたしはてっきり、彼女と来たとばっかり思ってたぜ」
「公安時代、ハニートラップ対策で色々と先輩たちに手管を教えてもらったことがある。相手によってはデートもどきに付き合うこともあった。情報や信用を得るためにな」
半分は真実だった。そして、彼女とのことを否定していないことに、クリスは気づいただろうか。
弦十郎は空を見上げる。
確かに以前、彼女と一緒に来たことがある。しかし、彼女はもういない。
だからこれは浮気とかではなく―――いやいやそもそもが偽装結婚だ。何を考えているんだ俺は。
空を見上げたままでいると、クリスがじっとこちらを見ているのを感じる。
やがて、ぽつりとクリスが言う。
「そっか」
やれやれ、どうやら納得してくれたようだ。
決して外に漏れないよう、内心で胸を撫で下ろす弦十郎の前で、クリスは笑った。
不敵な笑みだ。
「あたしは、過去に囚われない女だッ!」
いきなりそう言われて面食らってしまう。
だが、思い返せば、これは弦十郎に向けた言葉ではあったけれど、同時に彼女なりの自身に対する宣言だったのではないだろうか?
しかし、前述したとおり、弦十郎がそのことに気づくのはしばらく後のことになる。
翌日、本部に出勤すると、友里がにこやかに司令席までやってきた。
「お疲れさまです。どうやら上手くやれているようですね」
「ん、ああ…」
弦十郎の返事は冴えない。
なぜなら、今朝、クリスを学院まで車で送っていったからだ。
「夫婦だから当然だろ?」という台詞に抗えず、学院前に車を止めると、無数の好奇の視線に晒される。
しかもそれが女子高生ばかりで、何やら黄色い歓声まで上げられるとなると、さすがに弦十郎をしても堪える。
「あたしの気持ちの万分の一でも味わいやがれ」と冷たい声を残してクリスは下車。
さすがに勤務時間上、迎えまでは要求されなかったが、毎朝これが続くかと思うと胃のあたりがチリチリしてくる。
今までにない経験に弦十郎が戸惑っていると、藤尭も朝の挨拶と一緒に声をかけてきた。
「司令、あの寿司屋さん、オレもまだ一回しか連れてってもらってないんですけど…」
やはり昨晩の行動は全て筒抜けか。
まあ、対英国への偽装工作みたいなものだからな。味方もモニターするのは当然だろう。
「分かった分かった。またそのうち連れていってやるから…」
「御馳走さまです、司令」
ちゃっかり友里もそう言って笑っている。
部下たちを見やり、しみじみと弦十郎は思う。
まったく、結婚生活は金がかかると言うのは本当なのだな。
しかし、これは仕事というよりやはりプライベートの領分に属する話だろう。
いい加減、本来の仕事に立ち返るべきだ。
気分を引き締め、弦十郎は背筋を伸ばす。
「では、友里、先日の首都防衛案の修正の件だが…」
次の瞬間。
今まで経験したことのないような痛みが腹の奥底から突き上げてくる。
同時に弦十郎の意識も暗転した。