叔父が人を殺した。
刺殺だったらしい。
前兆はあった。当時小学生だったボクに、それらしい計画を零していたからだ。
全てが終わってから、ボクは事の大きさに気づいた。
そして今、叔父は刑務所ではなく病院にいる。
庭には二重フェンスと人感センサー。
入口には金属探知機。
廊下には等間隔に並ぶ非常ボタン。
頑丈なセキュリティゲート。
その奥に、叔父はいる。
そして、面会に行くと必ずこう言うのだ。
「善の遵守は、法の遵守より優先されなければならない」
叔父は同じ話を繰り返す。
何度も何度も。
敬愛していた頃と変わらず、まるで法学部の教授のように法と正義を語る。
それは呪詛のようだった。
投薬の影響でまともに呂律が回らないのに、叔父は未だ変わらず自らの思考を吐き出し続ける。
その呪詛はボクの心の中に染みわたり、悪性の腫瘍のように大きく育っていく。
通常の病巣と異なりそれは死に至る病にはならないけれど、いずれボクを怪物にするだろう、という予感があった。
「那智(なち)くんって優しいよね」
部室で鞄の整理をしていた時、幼馴染に声をかけられた。
ボクは鞄を持ち上げて振り返った。
「そうかな」
「そうだよ。後輩に怒ったりしないし」
幼馴染の花梨(かりん)はそう言って笑った。
「というか、那智くんはどんな状態でも怒らないよね」
花梨はそう言って、部室の扉を開けた。
傾いた夕日が差し込んでくる。
「それは大体のことが怒るようなことでもないからだよ」
花梨が開けてくれた扉をくぐって外に出る。
晩秋の冷たい風が肌を撫でた。
「帰ろうか」
「うん」
誰もいなくなった部室を施錠し、鍵をポケットに落とす。
弱小テニス部の部長とマネージャー。
それがボクと花梨の関係だった。
あるいは幼馴染や腐れ縁という表現のほうが正しいかもしれない。
極端に引っ込み思案な花梨は小学校の時に女子のグループで浮いていて、叔父のせいでクラスで浮いていたボクと何となく一緒に行動することが多くなった。
「あ」
隣を歩いていた花梨から小さな声が漏れる。
釣られるように彼女の視線を辿ると、同じクラスの男子生徒と女子生徒が手を繋いで帰っていくところだった。
「……あの二人、付き合ってたんだ」
花梨が好奇心を隠そうともせず、二人の姿を目で追いながら言う。
「たぶん、夏休みからじゃないかな。一度、一緒にいるところを繁華街で見かけたから」
「ふーん。そうなんだ」
花梨はどこか羨ましそうに二人の背中を見送ると、くるりと振り返ってボクを見上げた。
「那智くんはさ」
花梨の瞳が、泳ぐように左右に揺れる。
「好きな人、いるの?」
遠くでカラスが鳴いていた。
傾いた夕陽で、ボクたちの影は長く伸びていく。
さっきまで泳いでいた花梨の瞳が、真っ直ぐとボクに向けられていた。
「……いないよ」
答えると、花梨の身体が小さく震えた。
「じゃあ……」
花梨の声が、一段と大きくなった。
彼女の瞳がボクを見つめたまま固定される。
「女の子と付き合いたいって思ったことはある?」
「あるよ」
夕焼けの中でも、花梨の顔が真っ赤になっているのがわかった。
彼女は紅潮した顔で、一生懸命言葉を紡ごうとしていた。
「あの、じゃあ……じゃあ……」
徐々に声量が落ちていく。
ボクは微笑を浮かべて次の言葉を待った。
けれど、次に耳に届いたのは想定外の声だった。
「あのさ、いい雰囲気のところ悪いんだけどお金貸してくんない?」
乱暴だがどこか気遣うような声だった。
驚いて振り返ると、いつの間にか制服を着崩した茶髪の女子が近くに立っていた。
彼女は気まずそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
「財布落としちゃってさ。バス代貸してくんない?」
見覚えのある顔だった。
隣のクラスの時田(ときた)だった。
「マジで困ってんだよ。な、頼む。この通りだから」
時田はそう言って、手を合わせながら頭を下げてくる。
ボクは思わず花梨を見た。先程までの雰囲気は消え去り、花梨は警戒するように時田を睨みつけていた。
「……またですか?」
また、という言葉に引っかかりを覚えて時田を見る。
時田は一瞬顔をしかめて、それからすぐにヘラヘラとした笑みを取り戻した。
「私、こう見えてもドジっ娘でさー」
「これで三回目です」
話が見えてきた。
おそらく、寸借詐欺というやつだろう。
あまり学生がやるような手法じゃないが、随分と手慣れているようだった。
「いや、本気で困ってるんだって。このままじゃ学校で野宿なんだよ」
時田の顔からヘラヘラした笑みが消え、どこか真剣味が増した表情で食い下がる。
「困ります。もうこれ以上はお貸しできま――」
「いくらだ?」
花梨の声を遮って前に出る。
時田は驚いたようにボクを見たあと、ニヤっと唇を歪めた。
「330円」
「それくらいなら返さなくていい」
どうせ返って来ないのだから、と思いながらボクは財布から取り出した400円を時田に向かって放り投げた。
「お、マジ? えっと、隣のクラスの法月だっけ? サンキュー!」
時田はそう言って、本当に嬉しそうに笑った。
「ちょ、ちょっと、那智くん?」
横から花梨の困惑した声。
ボクはそれを無視して踵を返した。
「帰ろう」
「え、あ、うん」
花梨は困ったような表情を浮かべながらもボクの後をついてくる。
後ろから時田の声。
「ありがとうなー!」
ボクは無視してそのまま校門に向かったけれど、花梨は時田のことが気になるようでしきりに後ろを振り向いていた。
「……那智くんは優しすぎるよ」
呆れたようにぼそっと呟く花梨に、ボクは思わず苦笑する。
優しいわけじゃない。
叔父の言葉が頭をよぎっただけだった。
人間を人間たらしめるのは善なる行いだ、と。
最後に一度だけ振り返ると、校門前のバス停には誰もいなかった。