刺殺に至る病   作:月島しいる

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02話 善悪の境界

「法は人間の善悪を規定するものではない」

 フレーバーティーの甘い香りがするリビングで、叔父はそう語った。

「しばしば私たちは法というものを絶対的な壁のように認識してしまうが、それは正しくない。例えば嫌がらせを繰り返して周囲の人間を追い詰めることは悪であるが、法で裁けないことも多い。しかし誠実に生きてきた人間が車を運転していて突然出てきた人影に接触すれば法で裁かれる事となる」

 法曹の道に進みはしなかったが、法学部を出ていた叔父はこういった話をよく好んだ。

 父も母も家にいないことが多いボクは叔父の家に預けられ、聞き手に回ることが多かった。

「構成要件こそが善悪の判断基準なのだという考え方は間違いだ。人間を人間たらしめるものはもっと別のところにある」

 力強く語る叔父はボクに向かって微笑みかけ、ゆっくりと言葉を続けた。

 そこからは確かな思慮深さと、正義感の強さを感じることができた。

「例えば、川で溺れている人間を通りすがりの人間が見捨てることは罪ではない。しかし、実の子が溺れているのを両親が見捨てた場合は罪となる。これは不作為犯論の話だ。そう、不作為犯論の話であって、善悪や人間らしさの話ではない。法の線引きは善悪の線引きに直結しない」

 人間の本質というものは、と叔父は語調を強めた。

「もっと別のところにある。この話において、両親が泳げなかったらどうするのかとか、台風の後で増水していて助けるのが明らかに不可能だった場合はどうなるのかとか、そういった作為可能性というのは重要ではない。重要なのは善悪を遂行する揺るぎない意思であり、私たちはそれによって結果的に法を遵守することになる。法の遵守は結果的に得られるものであって、目的であってはならない」

 そして、と叔父は言った。

「善に殉じた結果、法に触れることもありうる。ありうるんだ。個々の善悪と法は乖離していて、私たちはそういった極限の状況に追い込まれることもありうる。その時、私たちはきっと法の遵守ではなく善の遵守を選択しなければならない。それこそが人間を人間たらしめる本質であるはずだ」

 この時、すでに叔父は精神疾患を患っていた。

 けれど、ボクには叔父の抱える孤独感や悩みというものが見えなかった。少しだけ正義感が強い人、という認識だった。

 叔父が刑事事件を起こす数ヶ月前の出来事だった。

 

 

 

「よお、法月」

 昼休みが始まり、机の整理をしていた時、声をかけられた。

 顔をあげると、教室に時田が入ってくるところだった。

「悪いな。この前は助かった」

「気にしないでいいよ」

 答えると、時田は周囲を気にする素振りを見せて、それから顔を近づけて小さく口を開いた。

「なあ、小耳に挟んだんだけど、お前の親って両方とも医者なの?」

「……そうだよ」

 一体誰から聞いたのだろう。

 自分からわざわざ両親の職業を喋った覚えはないのに、隣クラスの時田すら知っているのは不思議だった。

「あのさ、それでお願いがあるんだけど」

 時田は僅かに視線を逸し、気まずそうに言葉を続けた。

「悪いんだけどまた金貸してくんない? 財布忘れて昼食買えなくてさ」

「いいけど」

 席から立ち上がり、自然と時田を見下ろす格好になった。

「時田さんは嘘が下手だね」

「え? あ、いや、嘘なんて」

「いいよ。奢るから」

 嘘を指摘されて狼狽する時田に一言付け加えると、彼女は一瞬で表情を変えた。

「え、マジ?」

「ああ」

 食堂に行くために戸口に向かうと、後ろから慌てて時田がついてきた。

「いや、マジ助かるわ。ごちです!」

 うしし、と満面の笑みを見せながらついてくる時田を見て少しだけ、犬みたいだな、なんて思ってしまった。

「やっぱ医者って儲かるわけ? 小遣いとか多かったり?」

「普通よりは多いかも」

 他の生徒の小遣いなんて興味ないけれど、きっと平均よりは多いのだろう。

「マジか。くっそ羨ましいな」

 じゃあさ、と時田が何気なく言葉を続ける。

「お前も医学部とか行くわけ?」

「継ぐ病院があるわけじゃないし、法学部に行きたいと思ってる」

「法学部? 弁護士にでもなんの?」

「法学部を出た人が全員法曹になるわけじゃないよ」

「ホーソー?」

「法律に携わる仕事をしてる人のこと。それ以外にも就職先はいっぱいあるから」

「へー。詳しいんだな。身近にいるわけ?」

「叔父が法学部卒だった」

「マジか。エリート一家じゃん」

 心の底から感心するように時田は目を丸くして、それから悪意のない様子で言葉を続けた。

「医学部じゃなくて法学部目指すなら、両親よりその叔父さんのこと尊敬してるってことか?」

 一瞬だけ言葉に詰まった。

 尊敬、しているのだろうか。

 数ヶ月に一度面会に向かうくらいには、尊敬していたのかもしれない。

「……そうかも」

「ふーん。弁護士って格好いいもんな。裁判を逆転させたりするドラマ好きだわ。よくわかんないけど」

「だから弁護士じゃないんだって」

 そんな会話を繰り返していると、食堂にたどり着いた。

 食券機の前に並ぶと、時田が急にそわそわした様子を見せて、遠慮がちに口を開いた。

「な、なあ。A定食頼んでもいいか?」

 A定食は食堂で一番高いメニューだった。

 といっても、それほど抜きん出て高いわけでもない。

 なのに高価な誕生日のプレゼントをねだる子供のような姿に、ボクは思わず小さく笑った。

「うん、いいよ」

「うお、マジか。一回食ってみたかったんだよなあ。卒業前に食えて良かったぁ!」

 時田の屈託のない満面の笑みを見て、悪い気はしなかった。

 独特の人懐っこさで、ボクのような内向的な人間も喋りやすい性格をしている。

 寸借詐欺を繰り返しているとはいえ、時田は善の領域に位置する人間に見えた。

 となれば、彼女の慢性的な金銭的問題の理由は限られてくる。

「時田は」

 食堂の喧騒の中、時田の双眸を観察しながら口を開く。

「親と仲が悪いの?」

 劇的な変化があった。

 それまではしゃいでいた時田の表情が崩れ、何かを誤魔化すような曖昧な笑みになった。

「は? 親? なにが?」

 咄嗟に回答を先送りにし、話題をずらそうとしている。

 決定だった。

「弁当、作ってもらってないみたいだから」

「え、ああ、お前だって作ってもらってないじゃん」

「ボクのところは二人とも忙しいから。時田さんの親はどういう仕事してるの?」

「あ、え、仕事? いや、まあ、普通の会社員だけど」

 具体的な回答を避けた。

 これまでの会話で無知を恥じる様子がなかった時田が隠そうとする職業。

 おそらく無職か水商売。

「そうなんだ。親が忙しいなら今度弁当作ってあげようか」

「え? マジ?」

 話を戻してあげると、時田は僅かに安堵した様子を見せた。

「いつもジャンクばっかり食べてそうだから」

「なんだよ。お前もだろぉ?」

「ボクは家だといつも料理作ってるから」

「へえ。私は料理とか全然ダメだわ。つーか洗い物が無理」

 列が進み、券売機に札を入れる。

 時田は嬉しそうにA定食のボタンを押して、先に列を離れていった。

 ボクもボタンを押して券売機から離れた時、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 取り出すと、花梨からの着信だった。

「もしもし」

『あ、那智くん? 今どこ? 昼食一緒に食べようと思って』

「ごめん、今日は食堂で他の人と食べるから」

『え? 誰と?』

「隣のクラスの時田さん」

『へ、え? なんで時田さんと?』

 花梨の戸惑ったような声。

 それに重なるように前方から時田の呼び声が聞こえた。

「おい、法月。早くこいよ」

「ごめん。呼ばれてるから切るね」

『あ、待っ――』

 通話を切り、スマホをポケットの中に落とす。

「A定食が私たちを待ってるぞ」

 騒がしい時田に苦笑し、ボクは彼女のもとへ歩いた。

 ポケットの中でもう一度スマホが震えた気がしたけれど、出る気にはなれなかった。


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