刺殺に至る病   作:月島しいる

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03話 死に至る病

「カフェインは苦手なんだ」

 叔父はそう言いながら、フレーバーティーを淹れてくれた。

「A、T、C、Gの4つの遺伝情報のうち、一部の遺伝情報がAではなくCに置き換わっただけでカフェインの分解速度が遅くなってしまう。けれど、この香りが好きでいつも買ってしまうんだ」

 叔父はそう言って、柔和な笑みを見せた。

 協調性のなさから仕事が長続きせずに職を転々としていたけれど、叔父はボクの前では穏やかで紳士的な姿しか見せなかった。

「体質と好みは必ずしも一致しない。人は不可思議で非合理的な行動を選択してしまう」

 叔父の身体がソファに沈み込み、ゆっくりと息を吐き出す音が室内に響いた。

 それがボクの目には、ひどく疲れているように見えた。

「正解は分かっている。カフェインを摂取しなければいい。それだけだ」

 けれど、と叔父は首を小さく振った。

「ダメなんだ。毎日のように飲んでしまう」

 叔父の視線が消えかけの灯火のように揺れていた。

「必然性と可能性の間で遊離が発生しているのは分かっている。キルケゴールはこれを死に至る病と称した。それが信仰心に至るのだとも。しかし私は神を持たない。ならば私はどうすればいいのだろう」

 叔父の瞳は、すでにボクを見ていない。

 彼の言葉は彼自身に向けられていた。

「分解できないものを積極的に摂取するのは、緩慢な自殺に他ならない。自己保存を放棄し、死へ至ろうとする思考は合理的ではない。自らを殺すのは、他者を殺すのと相違ない。理解しているはずだった。なのに実行してしまう。そこから生じるのは決定論的な絶望で、それが私を押しつぶそうとしているのは明白ではないか」

 当時のボクには叔父の言葉が理解できなかった。

 退屈そうなボクの様子に気づいたのか、叔父は苦笑いを浮かべてティーカップを豪快に飲み干した。

「すまない。くだらない話をしてしまった。今日は天気がいい。散歩にでも行こう」

 頷くボクに叔父は微笑を浮かべると、ゆっくりと立ち上がってグレーのジャケットを着込んだ。

「日光は良い。自律神経を正してくれる」

 叔父の柔らかい手がボクの手を包み込んだ。

 優しくエスコートするように叔父は前を歩いて、黒くて重い玄関扉を開いた。

 眩しい太陽光が差し込む中、玄関から一歩出た叔父が足を止めた。

「ああ……」

 叔父の視線を辿ると、ボクと同じ学年の女子がすぐ前の通りを歩いていた。

「懐かしいなぁ。初恋の人があんな感じだったよ」

 過去を回想しながら、叔父は噛みしめるように言った。

「相手にはされなかったけれど、ずっと好きだったんだ。愛していたと言ってもいい」

 叔父の視線は、女子生徒に固定されたまま動かなかった。

「本当に、ずっと好きだったんだ」

 後悔するように吐き出した言葉は、遠ざかっていく女子生徒には届かない。

 

 

 

「……今日も時田さんとお昼一緒にするの?」

 昼休みに入ると同時に不機嫌な声が届いた。

 振り返ると、呆れたような顔の花梨が立っていた。

「わざわざお弁当まで作って、なんでそこまでするの?」

「何となく。気になって」

 本音だった。

 なにか明確な理由があったわけじゃない。

 ただ、何となく放っておけないと思ってしまった。

「……あまり優しくすると勘違いされるよ?」

 一段と低い声で、花梨はそう言った。

「そういう感情はないよ。ただ本当に気になるだけ」

 そう言って、ボクは弁当箱を持って教室を出た。

 隣のクラスに向かうと、一人で机に突っ伏す時田の姿があった。

「時田さん」

 喧騒の中、廊下から声をかける。

 時田はすぐに顔をあげて慌てた様子で立ち上がり、こちらへ駆け寄ってきた。

「お前、本当に天使みたいなやつだな!」

「中庭、行こうか」

「おう!」

 中庭は校舎から丸見えだから男女で昼食を食べているとすぐに変な噂が立つ。

 そのせいか人が少ない。

 ボクも時田も人の噂を気にする方じゃないから都合が良い。

「今日も財布忘れたの?」

 中庭に着いて、ベンチに腰掛けながら時田の分の弁当箱を手渡す。

 時田はそれを受け取りながら、顔をしかめた。

「んなわけねえだろ。うちはムカつくくらい貧乏なんだよ」

 開き直るように時田はそう言って、弁当を貪るように食べ始めた。

 正直に家庭事情を話してくれるようになったのは大きな進展だった。

「……昨日の晩ごはんは?」

「食ってない」

 あっけらかんと話す時田に、ボクは正直言葉を失っていた。

「……これ、晩ごはんに持って帰っていいから」

 自分用の弁当箱を差し出すと、時田はバツが悪そうに視線を外した。

「いらねえよ。お前だって腹が減るだろ」

「ボクは適当に食堂でパン買うから」

 弁当箱を押し付けると、時田は渋々といった様子で受け取った。

 それから怪訝そうにボクを見上げた。

「お前さ……もしかして私に惚れてんの?」

「まさか」

 肩を竦めると、彼女は拗ねたように唇を突き出した。

「傷つくから即答するなよ」

「勘違いされるとややこしくなるから」

 じゃあ、と時田の視線が空を向く。

「なんでこんなに良くしてくれるんだ?」

「なんでだろうね」

 そう言いながら、脳裏に叔父の言葉が甦っていた。

 

「例えば、川で溺れている人間を通りすがりの人間が見捨てることは罪ではない。しかし、実の子が溺れているのを両親が見捨てた場合は罪となる。これは不作偽犯論の話だ。そう、不作偽犯論の話であって、善悪や人間らしさの話ではない。法の線引きは善悪の線引きに直結しない」

 

 多分、それが答えだった。

 実の子に食事を与えなければ罪になるが、見知らぬ人に食事を与えなくても罪にはならない。

 無意味な線引だった。

 そこに善悪の区別はない。善悪を決定づける領域はもっと別のレベルに存在する。

 叔父が繰り返し説いた教えは、今もボクの中に残っている。

 けれど、時田にこれを告げても理解されないだろう、と思った。

「味つけはどうかな」

「味? ああ。全部うまいよ」

「そっか」

 なら、それを答えにしよう。

「ボクはコックさんを目指していて、味見のために時田さんに食べてもらっている。そういうことにしよう」

「はあ? 法学部を目指してんだろ?」

「その設定は一旦忘れてほしい」

「はあ……?」

 時田は何度も目を瞬いて、おかしそうに笑った。

「法月って変なやつだよな」

「そうやって噂されることはあるけど、真正面から遠慮なく言ったのは時田さんが初めてだよ」

 笑い返すと、時田はひどく穏やかな顔で告げた。

「沙耶でいいよ。時田っていう呼び方はあまり好きじゃないんだ。うまく言えないけど、お前とはもっと仲良くなれる気がする」

 

 

 

 時田沙耶は学校では浮いた存在だった。

 寸借詐欺を繰り返したため、クラスの派手なグループにも溶け込めずに孤立している事が多かった。

「時田さん、身体を売ってるって噂もあるみたいだよ」

 授業間の小休憩中、花梨が声を落としてそんな噂話を口にした。

「ホテルが並んでる場所でよく見かけるんだって」

「……その噂は外れだと思うよ」

 もしも身体を売っていれば、もっとまともな食生活を送れているはずだった。

 寸借詐欺以外の悪事に手を染めているようには見えない。

 彼女の生活は、学校と家の往復だけで完結している可能性が高かった。

「……そんなことどうして言い切れるの?」

「毎日のように話していればわかるよ。沙耶はバカだけど悪人じゃない」

 花梨の目がすうっと細くなる。

「……呼び捨てするほど仲良くなったんだ?」

「そうだよ。だから大体の事情はわかるし、身体を売ってないこともわかる」

「そんなのわからないよ。火のないところに煙は立たないっていうし」

 花梨は引き下がらない。

 必要以上に沙耶を警戒しているようだった。

「花梨」

 意識的に柔らかい声色を作る。

「心配してくれているのは分かるけど、杞憂だよ。沙耶は悪い子じゃない」

「……ねえ。那智くんは、時田さんのことが好きなの?」

「まさか」

 沙耶の時と同じ答えを返すと、花梨は少し安心したように表情を緩めた。

「そっか。うまいこと騙されてるんじゃないかって思っちゃって」

「騙されてるわけじゃないよ」

 ただ、と叔父の言葉を思い出す。

「気になるんだ。他人だからって放置したくない」

「そっか。那智くんは優しいもんね」

 花梨は納得したように頷いて席に戻っていった。

 ボクと沙耶が付き合うようになったのは、その一週間後だった。

 

 

 

「毎日私のために味噌汁を作ってほしい」

 いつものように中庭で昼食をとった後、沙耶は真面目な顔でそう言った。

「まるでプロポーズみたいな言葉だね」

「まさにそのプロポーズをしてるんだよ」

 茶化すボクに、沙耶は表情を崩すことなく告げた。

 彼女の言葉を正しく理解するには、それなりの時間が必要だった。

 動きを止めたボクに対し、沙耶は頬を赤く染めながら言葉を続けた。

「その、笑われるかもしれないけど、本気なんだ。最近、ずっとお前のことばかり考えていて、本当、病気なんじゃないかってくらい他のことが何も考えられなくて」

 恥じらう様子を見せながらも、沙耶の力強い双眸が真っ直ぐとボクを射抜く。

「本気で好きなんだ。だから付き合って欲しい」

 言葉を失った。

 彼女の真剣な姿勢に対して、どう接すればいいのか皆目検討がつかなかった。

「釣り合ってないのは分かってる。お前は頭がよくて、私はバカで、お前の親は立派な医者で、私の親はどうしようもないヤツで……でも好きなんだ」

「沙耶……」

 心臓が締め付けられるような感覚があった。

 これだけの想いを伝えてくれているのに、既にボクの答えは決まっていた。

「……前も言ったけど、ボクは沙耶に対して恋愛感情は――」

「――頼む。お試しでいいからチャンスをくれないか」

 見たことのない表情で、沙耶はボクの手を握った。

「本気なんだ。絶対に後悔させないから。振り向かせてみせるから」

 だから、と沙耶は荒い息を吐いた。

「ゼロからスタートさせて欲しい」

 吐息がかかるほどの距離で、沙耶の双眸がボクを見上げていた。

 言葉が出てこない。

 決まっていたはずの答えは、どこかに消え去ってしまっていた。

「本気なんだ」

 沙耶の顔が近づいてくる。

「避けないってことは、そういうことだよな?」

 小さく囁く沙耶は、これまで見たことがない表情をしていた。

 上気した顔が、すぐそこにあった。

 沙耶の手が、ボクの肩をそっと掴む。

 その手が震えていることに気づくと同時に、互いの唇が優しく触れた。

 一瞬の静止。

 それからゆっくりと顔が離れて、沙耶は真っ赤になった顔で、うしし、といつもの笑みを見せた。

「ここまでやったんだから、今更ノーとは言わないよな?」

 恥ずかしさを誤魔化すようにため息をつく。

 すでに答えは決まっていた。

「……明日の味噌汁は、どんな具材がいい?」

 


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