「私は今でも、自分が道を間違えたとは考えていない」
精神病院という看板を掲げた監獄。
第一回目の面会で、叔父はボクにそう語った。
「善の遵守は、法の遵守より優先されなければならない」
この頃の叔父は視線の動きも発声もまだしっかりしていた。
「尊属殺重罰規定違憲判決というのは知っているかな」
ボクの隣では、母親が怪訝そうな顔で叔父を見つめていた。
清潔感を体現したような白い面会室に、叔父の声が静かに響き渡る。
「日本で最も有名な判例の一つだ。裁判所が法律そのものを違憲と判断した初めての判例で、法曹のあるべき姿を示した代表例でもある」
こつん、と叔父の指がテーブルを叩いた。
それがボクの耳を妙に強く打った。
「概要はこうだ。とある父親が実の娘に性行為を強要し、5人もの子供を産ませていた。娘が成長し、まともな恋愛を経験するようになって結婚願望を抱くようになると父親は激怒して娘を監禁するようになった。そして娘は睡眠中の父親を絞殺するに至った」
一瞬、話の内容が理解できなかった。
理解するより早く、叔父が話の続きを語り始めた。
「問題はここからだった。親の殺害は通常の殺人とは異なる尊属殺人と呼ばれ、199条の単なる殺人罪ではなく200条の規定によって死刑、もしくは無期懲役という非常に重い刑罰が与えられる。父親から一方的に強姦され、五人もの子供を産まされた娘に対して、この刑罰は果たして正しいと言えるだろうか」
こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩いた。
横で母親が身を乗り出すのがわかった。
「ねえ、やめましょう。そんな話は今するべきではないでしょう」
「こんなものが正しいはずがない。大勢の人間がそう考えた。娘を重刑から逃がすには200条を無効とし、199条の殺人罪を適用させる必要があった。弁護人は法の下による平等を主張し、尊属殺と普通殺の区別の撤廃を求めた。結果的に一審で違憲判決、高裁で逆転合憲判決、最高裁では刑法200条を憲法14条に違反して無効とし、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年となった」
叔父は母親の静止を振り切って、なにかに取り憑かれたようにボクに向かって教えを説いた。
「ここで重要なのは、弁護人が無報酬でこの大仕事を完遂したことだった。親子二代に渡る長き戦いを、彼らはいくつかのジャガイモだけで引き受けた。彼らは一切の見返りを求めなかった」
「ねえ、やめましょう。この子に聞かせるべき話ではないでしょう!」
母親の怒声。
叔父は動きを止めると、歯を剥き出しにして怒鳴り返した。
「私は今、正義の話をしているんだッ! 善悪の境界ッ、法の限界ッ、それ以上に大事な話がどこにあるッ!」
いつも穏やかで紳士的な叔父が怒鳴る姿を見たのは、それが初めてだった。
眼の前で唾を飛ばして叫ぶ叔父を、ボクは呆然と見上げることしかできなかった。
「人間らしさの本質とは、善悪の境界とは、法とは別のところにあるッ!」
立ち上がった叔父に対し、母親が驚いたように後ずさった。
遠くから複数の足音。
「私は善の遵守を選択したッ! 私は、私であることを、人間であることを選んだだけだッ!」
叔父の後ろで扉が開き、室内に複数の男性看護師が入ってくる。
看護師に囲まれて椅子に座るように誘導されながら、叔父は突然大人しくなって小声で呟いた。
「だから私は、あいつを刺したんだ」
「帰ろうか」
いつも通りに部活を終えて、いつも通りに花梨から声をかけられる。
けれど、この日の返答はいつも通りにはいかなかった。
「ごめん、一人で帰ろうと思う」
断りの言葉を吐き出すと、短い沈黙が落ちた。
花梨は意味を理解できなかったように小首を傾げて、それから目を瞬いた。
「どうして?」
「沙耶と付き合うことになったから」
「え?」
花梨の口から、小さな声が漏れた。
誰もいない部室の前で、ボクたちは向かい合ったまま互いの瞳を暫く覗きあった。花梨の澄んだ瞳の奥で、瞳孔が収縮するのが見えた。
「聞き間違いかな」
花梨の唇の端が釣り上がり、身体から力を抜くようにふらふらと左右に揺れた。
「時田さんと付き合うことになったって聞こえたんだけど」
「ちゃんと聞こえているみたいで安心したよ」
花梨は半笑いのような表情で、ふらふらと左右に身体を揺らしながら足元に目を移した。
「いやいや、だってついこの前、時田さんに対して恋愛感情はないって話してなかったっけ」
「そうだね。だから自分でもびっくりしてる」
正直に、胸の内を話す。
「恋愛感情は確かになかったはずなのに、いまは間違いなく意識してる。自分でも単純だなって驚いてるよ」
「んー、よくわからないなぁ」
花梨はふらふらと身体を揺らしたまま、曖昧な笑みを浮かべていた。
その目は足元に向けられたまま、一度もボクを見ない。
「時田さんに何かされたの?」
「キスされた」
揺れていた花梨の身体が、ぴたりと静止した。
半笑いのような顔が無表情に戻り、じとりとボクを見上げるように眼球が動いた。
「……それって順番が違うんじゃない?」
「そうかもしれないね」
答えながら、ボクは慎重に花梨を観察していた。
ボクたちは幼馴染だけど、男と女でもある。
その場の流れで少しだけいい雰囲気のようなものになったこともあった。
互いに恋愛感情と呼べるほどのものまで昇華はされなかったけれど、最も身近な異性であることに変わりはない。
例えば、花梨にある日突然彼氏ができればボクは軽いショックを受けるだろうし、その相手が花梨を幸せにできる相手なのか見定めようとするだろう。
ならば、逆に花梨がそういう心理を働かせることもありうる。
花梨が沙耶に対して嫌な態度を取るのは、ボクが望むことではない。
「へー。まあ時田さんってそういうの軽そうだしね」
どこか嘲笑うかのような言い方だった。
やはり、花梨にはそういう心理が少なからずあるようだった。
「沙耶は人と付き合うの初めてらしいよ。孤立しがちだったから」
「ふーん。それ大丈夫なの? まともな友人関係さえ築けない人が恋愛関係なんて築けるのかなぁ」
花梨の表情が、さっきの半笑いのようなものに戻っていく。
ゆらりと揺れた身体が、夕陽を受けて黒く染まっていく。
「沙耶の問題の大半は家庭の事情に収束すると思う。沙耶の対人能力は平均よりも遥かに優れていると思うよ」
「あー、それもちょっとねぇ」
ゆらゆらと揺れる花梨の瞳に、赤く燃えるような夕陽が反射して煌めいた。
「家庭の事情ってどうなんだろうね。男女交際ってどれだけ綺麗事を言っても最終的には家と家の付き合いなわけだし、凄くややこしくないかなぁ?」
まあ、と花梨は笑みを深くした。
「一時的な遊びならいいんじゃない? 人生経験ってやつ? うんうん。那智くんもそういう事がしたい年頃なわけだし」
いつもの柔らかい笑みではない。
どこか昏さを感じる笑い方だった。
「うーん。でもやっぱり時田さんは正直どうかと思うけどなぁ。他に普通のいい子いっぱいいるんじゃないかなぁ」
「花梨」
意識的にゆっくりと彼女の名前を呼びかける。
途端、花梨はまるで叱られた子供のようにボクを方をじっと見つめた。
「それでも、沙耶のことが好きなんだ」
冷たい風が吹いた。
花梨の長い髪が大きく舞い上がる。
「そっか、そっか」
花梨は何かを我慢するような表情で足元を見た後、にっこりと顔をあげた。
「じゃあ私は遠くから二人を応援することにするよ」
同時に彼女の後ろで夕陽が校舎の裏に吸い込まれていき、世界が暗闇に覆われた。