「私も昔は、人並みに恋をしていたんだ」
フレーバーティーが香るリビングで、叔父はやや気恥ずかしそうに言った。
その時のボクは、壁際に置かれたズボンプレッサーに目を奪われていた。
ボクの家にはないものだったから物珍しくて、あれは何なんだろう、と好奇心を隠せなかった。
今思えば、叔父はいつも身なりに気を遣っていた。ズボンには綺麗な折れ目がついていたし、靴下だって丁寧にアイロンがかけられていた。体格が良かったから、ダブルのジャケットもよく似合っていた。
「小学生の時からずっと好きだったんだ。周囲の子とは雰囲気が違ってね。ずっと大人びていた」
注意散漫なボクに構わず、叔父は過去の恋愛話を続けた。
「高校にあがって何度かアプローチをかけたけれど、相手にされなかった。そうこうしている内に取られてしまったよ。相手は学年一の俊才で、負けを認めるしかなかった」
苦い思い出だよ、と叔父は軽く笑った。
ティーカップを握る指が、こつん、と神経質そうにカップを叩いた。
「彼女とはそれっきりだった。誰にでもある、青春の一ページでしかない」
けれど、と叔父の目が遠くを見つめる。
こつん、と叔父の指がカップを良く叩いた。
「最近、SNSを見て知ったんだ。彼女はそのまま結婚したけれど、うまくいかなくて離婚したらしい」
ボクは違和感のようなものを覚えて、テーブル越しに叔父を見上げた。
叔父の目は、遠い日の何かを見つめたまま動かない。
「小さい子どもがいて、親に子どもを預けながら飲食店でアルバイトをして生計を立てているらしい。彼女は真面目だから、一人で色々なものを背負い込んでいるんだと思う」
だから、と叔父は続けた。
その間にも叔父の指が何度もカップを叩く。
こつん、こつん、と鳴り響く音が徐々に早まり、何かに焦っているようにも見えた。
「一度、会ってみようと思うんだ」
掠れるような声で、けれどしっかりと叔父はそう言った。
「遠くから見るだけでもいい。もう一度、彼女の姿を見てみたいんだ」
うまくいくわけがなかった。
この時、叔父は無職だった。
片思いしていた相手に会うタイミングとしては最悪なはずだった。
「そう、見るだけでいいんだ」
叔父の目は、遠い過去を見たまま動かない。
その瞳は、現在に向けられていなかった。
「ねえ、法月くんって隣のクラスの時田さんと付き合ってるの?」
騒がしい教室に、そんな声が響き渡った。
ノートから顔をあげると、よく見知った顔があった。花梨の友人グループの一人だった。
「そうだよ」
嘘をつく必要もない。
正直に話すと、周囲から黄色い声が上がった。
「うわ、本当だったんだ。法月くんって時田さんみたいなのがタイプだったの?」
「自覚はなかったけど、どうやらそうだったみたいだね」
周囲の女子が集まってくる。
「え、っていうか花梨は? 隠してるだけで花梨と付き合ってると思ってた」
「私たちはただの幼馴染だから」
振り返ると、花梨の姿があった。
彼女は小さくため息をついて、面倒くさそうに周囲の質問に答えていた。
「私は憧れるけどなぁ。幼馴染同士で結婚とか定番じゃん。一度も考えたことないの?」
「……そんなの、現実じゃありえないよ」
「そうなんだぁ。じゃあ時田さんと法月くんのことも応援するの?」
「んー、そうだなぁ。那智くんはちょっと変わり者だからなぁ。時田さんにうまく転がせるかな?」
花梨の冗談に笑い声が響く。
「まあ、ぼちぼち遠くから見守ってあげる所存です」
和やかな空気の中、教室のドアが開く。
見ると、沙耶の姿があった。
「那智! 飯いこうぜ!」
「あ、今日も手作り弁当なんだぁ?」
周囲からからかうような声。
「まだまだ新婚なので」
適当に言葉を返して立ち上がり、沙耶の元へ向かう。
最後に振り返ると、にこにこと笑みを浮かべる花梨と目が合った。
ボクは何か口にしようとして、けれど結局正しい言葉を思いつかなかった。
「ほら、早く行こうぜ」
沙耶に急かされて、そのまま教室を出る。
ごく自然な動作で、彼女の腕がボクの腕に巻き付いた。
そのまま、いつも通り中庭にたどり着く。
他の生徒の姿はない。
「今日はなんなんだ?」
「トマト煮だよ。好きなんだ」
ベンチに座り、弁当箱を手渡す。
「それに、冷めても美味しいから」
「へえ」
沙耶は嬉しそうに弁当箱を受け取って、包みを解いていく。
ボクはそれを横目で見ながら、何でも無い風に言った。
「沙耶の母親は、昔からそんな感じなの?」
一瞬、沙耶の動きが止まった。
それから困ったように曖昧な笑みでボクを見た。
「……ずっとじゃないんだ。頑張ってる時もある。けど、一度ハマると暫くダメなんだ」
ハマる。
その意味を考えていると、沙耶は恥じいるように言葉を続けた。
「うちの母親、ホストに貢いでんだよ」
小さい声だった。
そのまま沙耶は言い訳するように言葉を続ける。
「本当に一時的なものなんだよ。飽きたら普通の生活に戻れるんだ。けど、ハマってる時は生活費も全部使っちゃってさ」
どこかで母親を憎みきれない部分が垣間見えた。
親に対して強い反抗心を抱かないのは、日常的に距離があるからだ。おそらく、沙耶が言うような一時的なものではない。それなりの期間、沙耶は放置され続けている。
「ストレスの溜まる仕事ってことは分かってるんだ。だから、同業に話を聞いてもらうのも大事なんじゃないかって」
職業は、やはり水商売。
年齢的にそれほど稼ぎに余裕があるとは思えない。
それ以外の生き方を知らず、行き詰まりを感じている。
「父親は?」
「……小さい頃に離婚してる。よくわかんねえ」
おそらく養育費が発生していない。
負担能力がないか、もしくは手続き能力がない。
あるいは、認知すらしていない可能性もある。
「いや、本当にずっとそういう状態なわけじゃないんだよ。昔はもっと普通だったし……」
「祖父母や親戚は?」
「は? え? いや、会ったことねえけど……」
縁切りしている可能性が高い。
どの方向とも持続的な人間関係の構築が出来ない、もっとも破滅的な類型。
問題は、沙耶自身がそんな母親に対して情を抱いてしまっていること。
「どれくらいの頻度で帰ってくるの?」
「……一週間に一回くらい」
沙耶の声がどんどん小さくなっていく。
頃合いだった。
「そっか」
短く答えて、弁当箱を空ける。
「食べようか」
「え、ああ、そうだな」
食べ始めると、沙耶の表情に色が戻る。
それを眺めながら、思考を巡らせた。
時田沙耶の抱える問題は、時田沙耶本人に由来するものではない。
だからこそ、解決が難しい。
「沙耶」
弁当を一心不乱に食べる沙耶の横顔に、声をかける。
「今度、デートしようか」
勢いよく顔をあげた沙耶は、何度か目を瞬いてから、にい、と嬉しそうに笑った。
「ああ!」
その頬は、ほんのりと桜色に染まっていた。
綺麗な笑顔だと、心の底からそう思った。