刺殺に至る病   作:月島しいる

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06話 最大多数の最大幸福

「法曹三者と呼ばれる裁判官、検察、弁護士のうち、最も門戸が狭いのが裁判官だ」

 叔父の声には、いつもの生気がなかった。

「現在、日本における裁判官は約三〇〇〇人。この数だけで裁判官になるのがどれだけ難しいか分かるだろう」

 叔父の瞳は昏く、どこか虚ろだった。

「そして、与えられる業務も辛く険しいものばかりだ。宮仕えである彼らは仕事を選ぶ事が出来ない。正解の見えない選択肢を毎日のように与えられ続ける。二、三年で転勤が繰り返され、最愛の家族と共に気を安らげる事も難しい」

 こつん、と叔父の指がテーブルを叩いた。

 その音は静かなリビングに波紋のように広がっていった。

「人が人を裁く事はとても難しい。そこに正解はない。だから、時間が必要だ。どのような罪が相応しいのか、じっくりと考えなければならない」

 ゆっくりと、叔父が立ち上がる。

 椅子が床に擦れて嫌な音が響いた。

「私はね」

 叔父の声が、粘りつくように鼓膜に張り付いた。

「ずっと考えているんだ」

 こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩く。

「世の中にはどうしようもない悪人がいて、誰かが罰を与えなければならない時がある。そういう時があるんだ」

 叔父の様子がおかしくなったのは、過去の想い人に会いに行ってからだった。

 彼の中で危険な衝動が産声をあげようとしていた。

「最大多数の最大幸福と悪人の人権は、果たしてどちらが重いのだろうか」

 叔父の瞳が、窓の外に向けられる。

 灰色の雨雲が圧迫するように広がっていた。

「米国はテロリズムに対抗するため、悪人の人権を無視することにした。罪なき人々と悪人の命は、等しいものではない」

 窓の向こうの雨が徐々に強まっていく。

「日本もまた、重犯罪を犯した者は死刑とする事が許されている」

 これはつまり、と叔父は言葉を続けた。

「選択的な臓器くじが許されているということだ。臓器くじは知っているかな?」

 叔父の視線が僕に向く。

 僕は言葉もなく、ただ首を横に振ることしかできなかった。

「国民の中からクジで一人を選び、その臓器を病気の人々に移植する。その結果、一人の尊い犠牲によって多くの命が助かる。果たしてこの制度は善か悪か?」

 叔父の顔に歪んだ笑みが浮かんだ。

 加虐的な笑みだった。

「多くの人間は、この思考実験に対して強い嫌悪感を示す。自分がクジに選ばれ、大衆の為に臓器を差し出す未来を想像するからだ」

 けれど、と叔父は言った。

「これがクジで公平に決定するのではなく、悪人だけが選ばれるならばどうだろう。そして、病気の人々のために臓器が移植されることもない。ただ悪人が無為に死ぬだけだ。この制度は果たして善と悪のどちらに属すると思う?」

 こつん、とまた叔父の指がテーブルを叩いた。

 叔父がテーブルを回り込むようにして、ボクの目の前に立つ。

「大勢の人間はこう思っている。最大多数の最大幸福はとても望ましいものだが、そのために無実の人間が犠牲になることはとても悲しい。しかし、悪人ならば最大多数の最大幸福にさほど寄与しなくても犠牲になるべきだ、と考えてしまう」

 叔父の虚ろな瞳の奥で、何かが蠢いていた。

「悪人は例外なく排除されるべきだ。問題はどのように裁くか。それだけだ。私達の世界はずっと単純に出来ている」

 

 

 

「わ、私、デートってしたことがないんだよ」

 土曜日。

 待ち合わせの駅前。

 私服姿の沙耶はどこか落ち着かない様子で、聞いてもいないのにそんな告白をした。

「ボクもないよ」

 思わず苦笑しながら答えると、沙耶は怪しむように目を細めた。

「嘘つくなよ。お前、幼馴染のあいつがいるだろ」

「花梨と遊んだことは勿論何度もあるけど、デートと呼べるようなものじゃないし、ボクらはそういう関係じゃないよ」

「そ、それでも、男女二人きりで遊んでるならそれはデートだろうが!」

 沙耶が声を張り上げる。

 予想していなかった沙耶の反応に思わず頬が緩んだ。

「それよりその私服、似合ってるよ」

 話題を切り替える。

 途端、面白いように沙耶の顔が赤くなった。

「そ、そうか?」

 沙耶は戸惑うように自身の服を見下ろした。

「へ、変じゃないか? 二年前に買ったやつだし……」

「よく似合っているよ」

 ころころと変わる沙耶の表情を観察しながら、さて、と目的地に目を向ける。

「そろそろ行こうか」

「ああ……どこに行くんだ?」

「図書館だよ。近いんだ」

「図書館?」

 沙耶が不思議そうな顔をする。

 ボクは沙耶がそれ以上の疑問を抱く前に手を握った。

「恋人らしく手でも繋いで歩こうか」

「お、お前、やっぱりなんか慣れてるな……」

 顔を真っ赤にした沙耶が睨むように上目遣いでボクを見る。

「も、もしかして幼馴染のあいつといつも手を繋いでるんじゃないだろうな?」

「小さい頃はともかく、互いに思春期を迎えてからはそんなことしてないよ」

「ほ、本当か?」

 沙耶の目には一体、ボクと花梨がどういう関係に見えているのだろう。

 彼女の疑念を適当に捌きながら、すぐ近くの図書館に入る。

「ところで、なんで図書館なんだ?」

 沙耶の疑問の声。

 ボクは無言で笑って、そのまま奥のホールへ向かった。

「お、おい?」

 沙耶が声を落として戸惑った様子を見せる。

 ボクは沙耶の手を握ったまま、空いたテーブルに向かった。

「とりあえず、ここに座ろう」

「お、おう?」

 キョロキョロと周囲の書棚を見渡す彼女を横目に、カバンから数冊の本を取り出す。学校の教科書だった。

「沙耶。少し小耳に挟んだんだけど、あまり学校の成績が良くないらしいね」

「はあ? なんで今、そんな話を――」

 沙耶の視線が、ボクの教科書に釘付けになる。

 そこでようやく、彼女はボクの意図に気づいたようだった。

「せっかくだから今日は一緒に勉強しようと思って」

「お、おい! 今日はデートだって……」

「そうだね。勉強が終わってから映画でも見に行ってそれから晩ごはんにしよう。でも、その前にやるべきことをするべきだ」

「お、お前、もしかして初めからそのつもりで……」

 教科書を開きながら言う。

「ただ遊ぶばかりが、デートじゃないと思うよ」

 沙耶は一瞬言葉を失うように黙った後、諦めたように全身から力を抜いた。

「……わかったよ。終わったら映画行くんだな?」

「ああ、その予定だよ」

「やってやるよ」

 僕がテーブルに転がしたペンを、沙耶が拾い上げる。

 やる気を見せる彼女を、ボクは微笑ましく見つめた。

 沙耶は良くも悪くも素直だ。それが見ていて気持ちいい。

 彼女はもっと自由になるべきだった。

 解決すべき課題は多い。沙耶をあらゆるしがらみから解放するには長い時間が必要だった。


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