刺殺に至る病   作:月島しいる

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08話 排除の暗黙的合意

「今日の議題は刑法と更生について、だ」

 何度も通った面会室。

 何度も通った金属探知機。

 そして、いつもの充血した目でボクを見る叔父。

「刑事政策における一つの重要なテーマが更生保護だ。現行法は法を破った者を排除するだけでなく、更生させて再び社会に順応させることを目的としている」

 ここに入院してから、叔父にはパーキンソン病の初期症状が現れていた。

 それでも、この時の叔父は昔の弁舌を失ってはいなかった。

「ここで問題とすべきなのは、更生を目的としているのならば、更生が不可能な者はどうするべきか、という点だ」

 例えば、と叔父の低い声が響き渡る。

「強い破壊衝動を持ちながらも、他人への共感性を一切持ちえない残虐なテロリストがいればどうする? それは一体どれほどの時間、どのような更生プログラムを与えれば更生可能であると判断するのかね?」

 あるいは、と叔父の充血した目がボクをじっと見つめる。

「私のように責任能力がないと判断された場合はどうする? 更生そのものが見込めない者はどうする?」

 ボクの横では、父が油断なく叔父を観察していた。

 その視線は、驚くほど冷たいものだった。

「答えは簡単だ。とてもシンプルなものだ」

 すう、と叔父が息を吸い込む。

 そして病院中に響くような大声で叔父は叫んだ。

「ただひたすら、こうやって閉じ込めるのだッ! 法の理念も人権も、あらゆる倫理をかなぐり捨てて社会から切り離そうとするのだッ!」

 透明なアクリル板が、振動するように揺れた。

 隣の父が、ボクを守るように半身を乗り出すのが見えた。

「人権で食っているような奴らはッ! 私のような者を見ない振りをするのだッ! 薬漬けにされて、正当な判決すら受けずに不当に閉じ込められ続ける事に誰も意義を唱えないのだッ!」

 自然と呼吸が早くなるのが分かった。

 獣のように叫ぶ叔父は、ボクが知っている以前の叔父ではなかった。

「更生が不可能な存在というのは、あらゆる思想にとって都合が悪いからだッ! 現行システムにとっての脅威であり、例外として扱うしかないからだッ!」

 だからこそ、と叔父が叫ぶ。

「どれだけ生存権が高らかに叫ばれる国家でも、国家的権力による射殺が公然と許されるのだッ! 憲法も刑事政策も人権も、あらゆるものは建前に過ぎないッ! 我々の社会はどれだけ成熟してどれだけ理屈をこねようと、社会契約から逸脱した人間を完全排除する暗黙的合意をなしているではないかッ!」

 父が立ち上がり、ボクの腕を取る。

 その間も、叔父は叫び声を上げ続けていた。

「私はただッ! 現行システムによって裁けない悪を裁いただけに過ぎないッ! その私を現行システムが排除するというのかッ!」

 力強く父に引っ張られる中、ボクは最後に振り返った。

「……なあ、言ったじゃないか。私は無罪だって。司法の番人たちが揃ってそう判決したじゃないか」

 叔父はもうボクたちを見ていなかった。

 中空に向かって何かに教えを乞うように、ただ嘆きの声をあげ続けるだけだった。

 

 

 

 沙耶と交際して二ヶ月が経過した。

 ボクたちの関係は、さして大きな問題もなく続いていた。

 だから、それはある意味で予定調和のような一言だった。

「なあ……今日はずっと親いないんだけど……うち来ないか?」

 図書館で勉強が終わった後の小休憩中。

 沙耶はペンを指で回しながら、何でもない風を装ってそんな事を口にした。

 僅かに赤く染まった頬と、珍しく自信のなさそうな視線から真意は容易に察することが出来た。

 逡巡。

 自分でも嫌になるほど打算的な考えが頭を掠めた。

 万が一の場合、ボクも彼女も大学進学を含めたあらゆるリスクを抱え込む事になる。

 父はわからないが、恐らく母は強く反対するだろう。うまく説き伏せる準備も整っていない。

 沙耶との関係が一時的か、あるいはもっと長期的なものになるか定まっていない段階で余計な事をするつもりはなかった。

 そのはずだった。

「……那智?」

 不安そうにボクの顔を覗き込む沙耶の表情が、自然と口を開かせた。

「たまには、そうだね。家庭訪問も良いかもしれない」

 茶化したように言うと、沙耶は安心したように笑った。

「多分、那智の家に比べたら小さくて汚い家だろうけど……」

「気にしないよ。ついでに食材を買って、そのまま一緒に晩御飯にしようか」

「お、いいなそれ! なんか……新婚夫婦みたいで」

 最後は消え入るような声だった。

 からかうのは止めて、沙耶の手をとって立ち上がる。

 普段より大人しい沙耶と共に図書館を出て、慣れないバスに乗る。

 空いたバスの中、隣に座った沙耶は一言も話さずにボクの手をじっと握っていた。

 気の利いた言葉が思いつかなくて、ボクも何も言わなかった。

 無言のまま、最寄りのバス停で下りてそのまま近くのスーパーに寄る。

 そこでもボクたちは一言二言くらいしか喋らなかった。

 スーパーを出た時には既に暗くなっていて、人通りのない路地を並んで歩くことになった。

「静かなところだね」

 声をかけると、沙耶はどこか上の空で曖昧な返事しかしなかった。

 そのまま会話が弾む事もなく、ある木造アパートの前で沙耶は足を止めた。

「ここなんだけど……マジでちょっと狭いかも」

「気にしないから大丈夫だよ」

 外階段から二階にのぼり、沙耶が鍵を開ける。

 それからやや気恥ずかしそうに、入れよ、とボクを急かした。

「じゃあ、おじゃまします」

 促されるまま、先に部屋に入る。

 まず最初にダイニングキッチンが目に入った。キッチンは古く、あまり機能的ではなさそうだった。

 後ろで鍵のかかる音。

「奥の和室にテレビあるから……」

 沙耶がそう言って横をすり抜けて先に歩いていく。

 明かりがつくと、あまり女性らしくない質素な部屋が目に入った。

「……つけとくか」

 そう言って沙耶がリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。

「……なんか好きな番組とかある?」

「……最近、あまりテレビ見ないから」

「え、ああ、そうなのか」

 どこかちぐはぐな会話。

 沙耶は暫くリモコンをいじっていたが、大した番組がやっていない事に気づくと操作を中断した。

「まあ、座れよ」

「うん、ありがとう」

 近くにあった座布団を引き寄せて適当に座ると、沙耶はボクに密着するように隣に腰を下ろした。

 見たこともないマイナーなテレビ番組が流れている中、沈黙が落ちる。

 そっと観察すると、沙耶は見たことがないくらい顔を赤くしてじっと畳を見つめていた。

「……この時間、あまり良い番組やってないんだな」

「そうみたいだね。先にご飯作ろうか?」

 助け舟を出したつもりだった。

 けれど、立ち上がろうとしたボクの服の裾を沙耶の手が掴んだ。

「なあ」

 沙耶の真っ赤に染まった顔が、意を決したように真っ直ぐとボクに向けられる。

「女の家に男が来るって、そういうことだよな?」

「……沙耶、必ずしもそういう――」

「――良いんだよな?」

 ボクの声を遮るように、確認するように沙耶が繰り返す。

 同時に沙耶に押し倒されるように畳の上に背中から転がる。

「嫌じゃないよな?」

 上からじっと見下ろす沙耶に、できるだけ優しい声をかける。

「沙耶、別に急ぐ必要はないよ」

「お前……なんか冷静だな」

 上から垂れる沙耶の髪が頬をくすぐった。

「……慣れてるのか? ……あの幼馴染と、こういう事したことあるのかよ」

「花梨はただの幼馴染だよ。そういうのじゃない」

「……じゃあ、初めてなのか?」

「何もかも、沙耶が初めてだよ」

 沈黙があった。

 横のテレビから流れる雑音が一層大きく聞こえた。

「なあ……良いよな?」

 繰り返し確認するような問い。

「……食材、冷蔵庫に入れないと」

「……そんなの、後で良いだろ」

 それは何時間後になるのだろう、と疑問は沙耶に口を塞がれた為に言葉にする事は出来なかった。

 

 

 

 枕が違うと眠れないのが常だった。

 しかし、昨晩はいつの間にか眠ってしまったらしい。

 目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。

 沙耶を叩き起こし、慌ただしく支度を済ませる。

「一回くらい遅刻したって問題ないって」

 沙耶はそう言いながらも、てきぱきと着替えを済ませていた。

 朝起きた時から、彼女はずっと機嫌が良い。

 一緒に家を出て、慣れないバスに乗り込む。

 その間も、沙耶はずっとニコニコしていた。

 通勤時間帯であるために車内は混雑していたが、沙耶は気にせずにずっとボクの手を握っていた。

 そんな沙耶の様子に、ボクも少しだけぼんやりとしていた。

 登校時間をずらすとか、一つ前の停留所で降りるとかそういう考えが思いつかなかった。

 最寄りの停留所で降りた時、周囲には多くの学生がいた。

 そして、その中には花梨の姿もあった。

 ボクは普段、バスで登校することはない。幼馴染の花梨はそれをよく知っている。

「……おはよう」

 沙耶と手を繋いでバスから降りたボクを、花梨は一瞬唖然とした顔で見て、それから素っ気なく挨拶を口にした。

「……おはよう」

 それ以外に適切な言葉が見つからなかった。

「うっす!」

 朝から機嫌の良い沙耶だけが特に気にした風もなく元気な声をあげる。

 花梨はなにか言いたそうな目でボクを見た後、そのまま何も言わず校門の方に踵を返した。

「あー……完全にバレてるな」

 どこか他人事のような沙耶の呟きが、耳に残った。


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