刺殺に至る病   作:月島しいる

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09話 カルネアデスの板

「命は平等ではない」

 その日の叔父は調子が良かった。少なくとも、当時のボクにはそう見えた。

 川原を散歩しながら叔父は饒舌に舌を回し続けていた。

「私達は、常に自己の命を優先する権利を持っている。生きる為に他人の命を奪う事は罪ではない」

 例えば、と叔父は川の方に目を向けた。

「あの川で溺れたとしよう。そして偶然にも板切れが浮いていてしがみつく事が出来た。この板切れは小さくて、一人分をかろうじて支えられている状態だった」

 叔父の口調はどこか荒く、鬼気迫るものがあった。

「そこに他の溺れている人が近づいてきた。もし二人で板切れにしがみつけば沈んでしまうかもしれない。さあ、どうする?」

 ボクは何も答えなかった。

 最初から叔父はボクの答えを期待していない。

 その瞳は、ボクを見ていない。

 どこか遠くへ向けられていた。

「正解はこうだ。生き残る為に板切れを独り占めにし、近づこうとしてくる人を突き放すんだ」

 叔父は大げさに手振りを交えながら、脅かすように大声で叫んだ。

「他にも溺れているやつがいたら、片っ端から沈めていくんだ! 板切れを守るという大義名分の為に、私達にはそれが許される!」

 叔父はそこで何度か咳き込んだ。

 身体を折り、苦しそうに顔を歪める。

 そっと背中を擦ると、叔父は感謝するように何度も頭を下げた。

「法は罪を定義するが、悪は定義しない」

 咳き込みながらも叔父は話を止めようとはしない。

「板切れは、あらゆる所に存在する。誰もが、板切れを守る為に他人を突き落とそうとする」

 呼吸が落ち着いた叔父は、ゆっくりと空を仰いだ。

 なにか大きなものに祈りを捧げるように。許しを請うように。

「それはお金だったり地位だったり、家族、そして愛しい人だったりする」

 愛しい人。

 そこだけ深い感情が込められていた。

「それぞれの板切れに用意された席は、一つしか存在しない。既に誰かがしがみついているならば、私たちはそれを突き落として奪うしかないじゃないか。そしてそれは、罪と定義されない」

 雲ひとつない晴天から陽光が降り注ぐ。

 叔父はどこか晴れ晴れしい顔でそれを仰いでいた。

「私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。誰もが、しがみつける板切れを探している。そして、突き落とし合っているだけに過ぎないのかもしれない。私はね、そう思うんだ」

 あまりにも清々しく、達観した物言いだった。

 この時、叔父は全てを覚悟していたのだと思う。

 一度入った亀裂は元には戻らない。

 後は広がり続けていくだけだった。

 

 

 

 次の日、花梨は学校に来なかった。

 次の日も、その次の日も。

 沙耶と一緒に登校したのを見られた日から、花梨は学校に来なくなった。

 携帯端末を開き、返信が来ていないか確認する。送信したメッセージも全て無視されていた。

「なあ、今日の放課後はどこへ行く?」

 机に両肘を置いた沙耶がボクの顔を下から覗き込んでくる。

 ボクは返事が帰ってこないメッセージアプリを閉じ、沙耶に目を向けた。

「実は今日も家に誰もいないんだけど……」

 騒がしい教室の中、沙耶は声を落としてそう言った。

 その瞳には、熱い光が灯っている。彼女はあれから毎日のように家に誘ってくるようになった。

 あまり良くない兆候だと思う。

 それだけ母親が長く家に帰ってきていないという事だ。

「今日はやめよう。別に用事が出来た」

「……用事ってなんだよ?」

「花梨の様子を見てくる」

「……放っておいてやれよ」

 沙耶の目が鋭く細まっていく。

「理由くらい分かるだろ? お前が行っても惨めなだけだよ」

 それに、と沙耶は怒気を滲ませた。

「彼女がいるのに他の女の家にのこのこ行くなよ。おかしいだろ、それ」

 少し思案してから、沙耶に従う事にした。

「そうだね。そうするよ。けれど、遊ぶのはやめておく。今日は勉強しないといけない」

「え……そ、そうか」

 あっさり引き下がった事と、誘いを断られた事に面食らったような顔をする沙耶。

「その代わり、明日は空いてるから」

 フォローを入れると、沙耶の表情がみるみる明るくなる。

「だから、今日は沙耶もちゃんと勉強するんだよ」

「お、おう」

「明日、ちゃんと勉強しているか確認するからね」

「……おう」

 途端に勢いがなくなる沙耶を見て笑いが漏れる。

 それから、何でもない事のようにボクは尋ねた。

「ところで、母親はどれくらい帰ってきてないの?」

 沙耶の表情が固まった。

 同時に視線が揺れる。

「あ、えっと、五日くらい……」

「正直に話して欲しい」

 被せるように言う。

 観念したように沙耶の視線が伏せられた。

「……二週間くらい、だな」

「生活費の余裕は?」

「……もう殆ど、ない……」

 沙耶は視線を外したまま、絞り出すように言った。

「多分、新しい彼氏が出来たんだと思う……」

 母親の新しい彼氏。

 ボクにとっては理解しがたい状況だった。

「彼氏って言ってもホストの事なんだけどさ……そうなると暫く戻ってこないから……」

 目眩のようなものを感じた。

 黙り込むボクに、沙耶が言い訳するように口を開く。

「いつもはしっかりしてて良い母親なんだ……どうせすぐに熱が冷めて帰ってくるから……」

「沙耶」

 彼女の言葉を止める。

「家賃や光熱費は?」

「光熱費は振り込み用紙が来るから……まだ大丈夫だと思う。家賃は引き落としだからよくわからない……」

 ゆっくりと息を吐く。

 ボク達はまだ子供だ。

 選択肢は多くない。

「……しばらくはボクが食費とかは出すから」

 沙耶は否定しようとするように口を開いて、それから諦めたように口を噤んだ。

「……悪い」

 短い言葉だった。

 沙耶は悔しそうに唇を噛み締め、視線を落としていた。

 ボクと沙耶は恋人関係にある。

 対等な関係を崩したくはない。

「それか、久しぶりにボクがお弁当作ろうか」

「い、良いのか?」

 沙耶が遠慮がちに言う。

「うん。それくらいなら負担でも何でもないよ」

 話しながら考える。

 何か手を打たないといけない。

 それに花梨の事も気がかりだった。

 思考の渦の中、叔父の言葉が脳裏をよぎった。

 

 ――私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。

 ――誰もが、しがみつける板切れを探している。

 

 沙耶にとっての板切れは母親だ。

 そして花梨にとっての板切れは……。


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