「命は平等ではない」
その日の叔父は調子が良かった。少なくとも、当時のボクにはそう見えた。
川原を散歩しながら叔父は饒舌に舌を回し続けていた。
「私達は、常に自己の命を優先する権利を持っている。生きる為に他人の命を奪う事は罪ではない」
例えば、と叔父は川の方に目を向けた。
「あの川で溺れたとしよう。そして偶然にも板切れが浮いていてしがみつく事が出来た。この板切れは小さくて、一人分をかろうじて支えられている状態だった」
叔父の口調はどこか荒く、鬼気迫るものがあった。
「そこに他の溺れている人が近づいてきた。もし二人で板切れにしがみつけば沈んでしまうかもしれない。さあ、どうする?」
ボクは何も答えなかった。
最初から叔父はボクの答えを期待していない。
その瞳は、ボクを見ていない。
どこか遠くへ向けられていた。
「正解はこうだ。生き残る為に板切れを独り占めにし、近づこうとしてくる人を突き放すんだ」
叔父は大げさに手振りを交えながら、脅かすように大声で叫んだ。
「他にも溺れているやつがいたら、片っ端から沈めていくんだ! 板切れを守るという大義名分の為に、私達にはそれが許される!」
叔父はそこで何度か咳き込んだ。
身体を折り、苦しそうに顔を歪める。
そっと背中を擦ると、叔父は感謝するように何度も頭を下げた。
「法は罪を定義するが、悪は定義しない」
咳き込みながらも叔父は話を止めようとはしない。
「板切れは、あらゆる所に存在する。誰もが、板切れを守る為に他人を突き落とそうとする」
呼吸が落ち着いた叔父は、ゆっくりと空を仰いだ。
なにか大きなものに祈りを捧げるように。許しを請うように。
「それはお金だったり地位だったり、家族、そして愛しい人だったりする」
愛しい人。
そこだけ深い感情が込められていた。
「それぞれの板切れに用意された席は、一つしか存在しない。既に誰かがしがみついているならば、私たちはそれを突き落として奪うしかないじゃないか。そしてそれは、罪と定義されない」
雲ひとつない晴天から陽光が降り注ぐ。
叔父はどこか晴れ晴れしい顔でそれを仰いでいた。
「私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。誰もが、しがみつける板切れを探している。そして、突き落とし合っているだけに過ぎないのかもしれない。私はね、そう思うんだ」
あまりにも清々しく、達観した物言いだった。
この時、叔父は全てを覚悟していたのだと思う。
一度入った亀裂は元には戻らない。
後は広がり続けていくだけだった。
次の日、花梨は学校に来なかった。
次の日も、その次の日も。
沙耶と一緒に登校したのを見られた日から、花梨は学校に来なくなった。
携帯端末を開き、返信が来ていないか確認する。送信したメッセージも全て無視されていた。
「なあ、今日の放課後はどこへ行く?」
机に両肘を置いた沙耶がボクの顔を下から覗き込んでくる。
ボクは返事が帰ってこないメッセージアプリを閉じ、沙耶に目を向けた。
「実は今日も家に誰もいないんだけど……」
騒がしい教室の中、沙耶は声を落としてそう言った。
その瞳には、熱い光が灯っている。彼女はあれから毎日のように家に誘ってくるようになった。
あまり良くない兆候だと思う。
それだけ母親が長く家に帰ってきていないという事だ。
「今日はやめよう。別に用事が出来た」
「……用事ってなんだよ?」
「花梨の様子を見てくる」
「……放っておいてやれよ」
沙耶の目が鋭く細まっていく。
「理由くらい分かるだろ? お前が行っても惨めなだけだよ」
それに、と沙耶は怒気を滲ませた。
「彼女がいるのに他の女の家にのこのこ行くなよ。おかしいだろ、それ」
少し思案してから、沙耶に従う事にした。
「そうだね。そうするよ。けれど、遊ぶのはやめておく。今日は勉強しないといけない」
「え……そ、そうか」
あっさり引き下がった事と、誘いを断られた事に面食らったような顔をする沙耶。
「その代わり、明日は空いてるから」
フォローを入れると、沙耶の表情がみるみる明るくなる。
「だから、今日は沙耶もちゃんと勉強するんだよ」
「お、おう」
「明日、ちゃんと勉強しているか確認するからね」
「……おう」
途端に勢いがなくなる沙耶を見て笑いが漏れる。
それから、何でもない事のようにボクは尋ねた。
「ところで、母親はどれくらい帰ってきてないの?」
沙耶の表情が固まった。
同時に視線が揺れる。
「あ、えっと、五日くらい……」
「正直に話して欲しい」
被せるように言う。
観念したように沙耶の視線が伏せられた。
「……二週間くらい、だな」
「生活費の余裕は?」
「……もう殆ど、ない……」
沙耶は視線を外したまま、絞り出すように言った。
「多分、新しい彼氏が出来たんだと思う……」
母親の新しい彼氏。
ボクにとっては理解しがたい状況だった。
「彼氏って言ってもホストの事なんだけどさ……そうなると暫く戻ってこないから……」
目眩のようなものを感じた。
黙り込むボクに、沙耶が言い訳するように口を開く。
「いつもはしっかりしてて良い母親なんだ……どうせすぐに熱が冷めて帰ってくるから……」
「沙耶」
彼女の言葉を止める。
「家賃や光熱費は?」
「光熱費は振り込み用紙が来るから……まだ大丈夫だと思う。家賃は引き落としだからよくわからない……」
ゆっくりと息を吐く。
ボク達はまだ子供だ。
選択肢は多くない。
「……しばらくはボクが食費とかは出すから」
沙耶は否定しようとするように口を開いて、それから諦めたように口を噤んだ。
「……悪い」
短い言葉だった。
沙耶は悔しそうに唇を噛み締め、視線を落としていた。
ボクと沙耶は恋人関係にある。
対等な関係を崩したくはない。
「それか、久しぶりにボクがお弁当作ろうか」
「い、良いのか?」
沙耶が遠慮がちに言う。
「うん。それくらいなら負担でも何でもないよ」
話しながら考える。
何か手を打たないといけない。
それに花梨の事も気がかりだった。
思考の渦の中、叔父の言葉が脳裏をよぎった。
――私たちは皆、この世界でよくわからない何かに溺れ続けている。
――誰もが、しがみつける板切れを探している。
沙耶にとっての板切れは母親だ。
そして花梨にとっての板切れは……。