人を好きになり、告白し、その相手と結ばれる。
それはとても素晴らしいことだと、誰もが口を揃える。
だがそれは間違いである!!
恋人たちの間にも明確な力関係が存在する。
搾取する側とされる側! 尽くす側と尽くされる側! それ即ち勝者と敗者!
もし貴殿が誇り高く生きたいというのであれば、決して敗者になってはならない。
恋愛は、戦!
好きになった方が負けなのである。
そしてこの日も恋愛という戦の舞台で互いのプライドをかけた決闘が巻き起こり、それに振り回される者たちの知られざる悲喜こもごもが起きていた……。
「うえっぷ」
初夏の空気をはらみ始めた蒼天のもと、一人の少女が立っていた。白一色のシンプルなワンピースという出で立ちでありながら、むしろそれが彼女が生来持って生まれた怜悧な美しさを際立たせており、道行く人の視線を集めている。しかし当の本人はそれを全く意に介することなく、青い顔をしてじりじりと軋む胃痛にこみ上げてくる吐き気のダブルパンチに口元をハンカチで押さえることで耐えていた。
彼女の名前は四宮かぐや。
総資産200兆円、鉄道・銀行・自動車など千を優に超える傘下企業を抱え四大財閥の一つに数えられる四宮グループ。その本家本流四宮雁庵の長女としてこの世に生を受けた、正真正銘の令嬢である。その血統の優秀さを語るがごとく、芸事・音楽・武芸、いずれの分野でも華々しい功績を遺した正真正銘の“天才”。それが彼女である。
しかしながら、今この瞬間はひたすら緊張からくる諸症状に耐える少女であった。
「……ねえ、胃薬とかない?」
「もう少しですので我慢してください」
自身がここまで乗り付けた黒塗りの高級車に寄りかかりながら、脇に立つ黒いサングラスにスーツという如何にもな恰好をした護衛に胃薬を求める姿は、遠目から見れば物憂げな美少女にしか見えなかったのだが、ここでその耳につけられた小型インカムから入った情報が耳に届いた瞬間、一瞬でその雰囲気は消し飛ぶことになる。
『……こちらB地点、対象が現れました。現在ママチャリに乗ってC方向へ進行中』
『こちらC地点、自転車置き場。対象はママチャリを留めた後シネマ方面へ移動』
「……いきます」
「はっ。――ご武運を」
「ええ。ありがとう」
寄りかかっていた車から背を離すと、恭しく頭を下げるサングラスに声をかけてから共もつれずに歩き始める。
総資産200兆円を抱える財閥の令嬢としては、あまりにも無防備に見える歩みであったが、その周囲を囲む通行人や店の前で客を呼び込む店員ですら実は四宮家が用意したエキストラ。見る者が見れば一発でその道のプロだとわかる動きで主君である四宮かぐやを防護していた。普段なら方々から集まる人々で賑わうこの界隈であるが、今この瞬間、この場にいる人間でいえば一般人のほうが少ないくらいの厳重な警備体制だった。
『対象進行中! ランデヴーポイントまで残り――……』
その通信が聞こえ、対象がポイントに到達した時点でかぐやは耳からインカムを外すと手持ちのバッグの中へと丁寧にしまい、歩を進める。青かった顔色はすっかり健康的な血色を取り戻しているが、別段胃痛と吐き気が収まったわけではない。四宮家長女にとって、顔色を操作するくらいの技術は基礎の基礎であった。
歩みのままに目線を目的地である待ち合わせ場所として有名な銅像の前に向ければ、彼らも誰かと待ち合わせているのだろう、スマートフォンの画面に目をやる老若男女の中に立っている一人の男子の姿が目に入った。
色素の薄い髪に鋭い目。顔の造形は整っているが、目の下に浮かんだ濃い隈と眉間に寄せられた皺から生まれる目つきの悪さが近寄りがたさを醸し出している。
彼の名前は白銀御行。四宮かぐやと共に都内屈指の名門校、秀知院学園に在学し、質実剛健・聡明英知と称えられ、天才である四宮かぐやを抑え学年模試は不動の1位。全国模試でも日本全国の天才たち頂点を競い互角以上に渡り合う猛者。多才なかぐやとは対照的に学力一本で全校生徒から畏怖と敬意を集め、その模範的な立ち振る舞いから幼等部まで存在し、そこからエスカレーター式で繰り上がってくる“純院”が多数を占める秀知院学園で、高校からの試験編入である“混院”でありながら生徒会会長に抜擢された“秀才”。休日であるはずの今日、初夏の気配漂いだいぶ気温が上がって来ているのにもかかわらず身に付けている黒の制服、その首元の純金飾緒の輝きは秀知院200年の歴史である。そんな彼を四宮かぐやは副会長として補佐しており、日ごろは他の生徒会のメンバーとともに秀知院学園生徒会として活動している。
そんな彼がなぜ今この待ち合わせの聖地と呼ばれている場所に佇んでいるかといえば、無論いまそこへ向かっている四宮かぐやが関わっている。
遡ること半年と少し前。白銀会長率いる新生徒会発足から幾ばくか経った頃、秀知院学園の生徒たちの注目の的であったのは1年生でありながら生徒会長に抜擢された白銀御行と、彼の指名で副会長となった四宮かぐやは付き合っているのか? という1点であった。
当然ながらこの両名も秀知院学園の生徒。人のうわさに戸を立てられるはずもなく、間もなく双方の耳に入る。
しかしここで両名、これをくだらない噂と切り捨てる!
――まあ、四宮から告白して来たら考えんでもない。向こうは俺に惚れているようだし。
――会長が身も心も故郷さえ捧げるというのなら、応えてあげないでもないわ。
そうやってどちらともが待ちの姿勢に入ったのなら、事態が動くことなどあり得ないのは自明の理! 事実、そうこうしている間になにも起こることなく半年という時間が過ぎた!
その間に2人の思考は「向こうから告白して来たら付き合ってもいい」から「いかに相手から告白させるか」に移行し、互いの魂を賭けた頭脳の決闘が開幕したのである!
……とはいえ実際のところこの両名、双方がお互いに“相手は自分に惚れている”という確信を持っている。しかしながら恋愛は好きになった方が負けという戦。そうした中で動いた四宮かぐやが繰り出した作戦こそが、この状況を作り出した原因であった。
四宮かぐや立案のこの度の作戦、振り返ってみれば当初は“男女一緒に行くとカップルになるというジンクスがある映画に白銀御行のほうから自分を誘わせる”という目的を設定しての発動であったが、あと1歩のところまで白銀を追い詰めておきながら同席していた生徒会の鬼札、藤原千花書記から提示されたカオス理論によって初期段階で失敗。その後も白銀との1対1の“相手に言うことを1つ聞かせられる権利”を賭けたババ抜き勝負で自身を誘うように誘導しようとし、紆余曲折あって勝者の権利を“落ちていた2枚の映画招待券の内から1枚受け取る”ということに行使した白銀から、『もしかしたらこの偶然、これを使うときにたまたま会うかもしれんな?』という言葉をかけられたかぐやはその日から四宮家の力を使い白銀の家を常時監視。既に判明していた彼の少ない休日であったこの日に映画館に出向くだろうと予測をつけ、待ち合わせの時間から2時間も前から待ち構えたのである。
既に初期目標からとうに逸脱し、“会長と一緒に映画に行けるといいな”くらいのものに変化しているのはお分かりであろう。しかしながら一度発動した作戦を途中で投げ出すなどかぐやのプライドが許さない! その結果生まれたのが今日という日、今ここでの待ち合わせなのであった。
――銅像の前に到達したかぐやが一息吐いたあとよし、と心中で気合を入れると、じくじくと痛んでいた胃痛もこみ上げてきていた吐き気も消え失せ、腹の奥底から熱がこみ上げてくるのを感じ取った。緊張感を乗り越えた者のみが味わえる高揚感である。その高揚感が失われる前に只ふと視線を向けた、という体で彼のほうを見れば、同じようにこちらを見てくる白銀御行と目が合った。
「あら、会長。偶然ですね」
「おう、四宮。奇遇だな」
無論、奇遇ではない。四宮かぐやは財力と権力を存分に利用しこの地点に白銀が到達するのを待ってこの場所に来ており、白銀御行はこの銅像前が開けた広場であるから当然接近してきていた四宮かぐやの姿に気付いていた。しかし、双方がその事実を相手に知られた場合、「自分はこんなにあなたに逢いたかった!」という告白をしているものと同義だと判断し、暗黙の了解としていまここで会ったのは“偶然”“奇遇”ということにしたのである!
たとえ、今の時刻が2人がつかみどころがない駆け引きの末に決めた集合時間の1時間も前であっても、偶然であり奇遇なのである!
「ふむ、四宮は映画を見に来たのか?」
「ええ、そうです。もしかして会長も?」
「今日は久しぶりに1日フリーでな。あの招待券を使うにはちょうどいいと思ったわけだ」
「まあ、それは。私もたまたま今日見に来ようと思ってきたんです」
「……」
「……」
「で、では一緒にいくか。同じ映画を見に来た知り合いと顔を合わせてじゃあサヨナラ、というのも変だしな」
「そ、そうですね、ここは一緒に見に行くのが普通ですね」
ぎこちなく、傍から聞けばあまりにも拙い会話を交わしたのちに、どちらからともなく映画館に向かって歩き始める両名。そんな2人の向かいから、髪を金色に染めたギャルが1人歩いてくる。電話片手に通話しながら歩く姿は危なっかしく、喋るのに夢中でかぐやと肩がぶつかりそうな距離ですれ違い――
「――貴女たちももう引き上げて構わないわ」
「――かしこまりました」
もちろんこの女子高生ギャルも四宮家の者! それも四宮かぐや専属
すれ違った瞬間に早坂にのみ聞こえる音量で主人であるかぐやから下った撤収の許可は早坂からの「はーい撤収でーす」という通信として速やかに全部隊に通知され、その各々がいかにもこれから目的地に行きます・家に帰りますという体を装い四方八方へ散っていく。
その様子をさも“主人からの無茶ぶりをようやくこなせた近侍”という表情で見届けた早坂は、周囲から四宮家の関係者が消えたことを確認すると表情を正して耳につけられた小型インカムを外し、胸ポケットからそれとは別のインカムを取りだし装着する。
「……お嬢様がそちらに向かいました。あと作戦通りに」
『了解した』
平坦になるように努めた早坂の声に応えるのはくぐもった低い声。この通信相手を知るのは早坂のみであり、相手が連絡を取るのも早坂のみであった。
そのまま二言三言会話をするとインカムの電源を切って外した早坂は、ここでようやく一仕事終わったと言いたげにため息をつくと一瞬で今度は『きゃるん☆』という効果音が付きそうなギャル――その見た目相応な――の仮面を被り、主人が映画を見終わるまでの時間をいかに潰すかを考え始めるのだった。
――唐突ではあるが、前述したとおり、四宮家は国内屈指の富裕層、四大財閥の一つである。
グループ傘下に収める企業は千を超え、ありとあらゆる分野に影響力を及ぼし、この国で生きているならその名前を聞かないなどあり得ない超巨大グループである。その巨体をとり纏める四宮家に仕える臣下もまた凡庸であることなど許されるはずもなく、かつて四宮家と覇権を争った仇敵でありながら敗北した後はその血を見込んで取りこまれ、それからは側近として名を成した名門早坂家を筆頭に、忠誠を誓う名族・名血には錚々たる名が並ぶ。
そんな中で微塵も目立たず、四宮グループを語る際に全く話題に上がることの無い影の家――その名は遠野家。遥か戦国の世から血を繋ぎ、いつからか四宮家に忠誠を誓った忍びの血統である。
早坂家が四宮の右腕であるならば、この遠野家は四宮家の懐刀。四宮家当主しかその存在を知りえず、光差さぬ闇から主家の血筋を守り、時には汚れ仕事すらこなす隠密専門の家系。それこそが遠野家。そしてその一族から四宮かぐや専任の護衛として派遣された男こそが遠野家本家本流、当主遠野大国の長男、遠野
その暗闘に特化した現代に生きる忍びが、今この場で……。
「ペンたーん! こっち向いてー!」
「ペンたんが手ぇ振ったー!」
――着ぐるみに身を包み子供たちと戯れていた!
もちろん彼が今ここでこうしているのにも理由がある。四宮かぐやが計画・立案・実行した“会長と映画を見に行く作戦”、近侍としてその全てを知る早坂愛から全容を伝達された遠野は直ちに行動を開始。全体の指揮を執る為にあまり動けない早坂の代わりに主君が定めた決戦の舞台である映画館に前もってアルバイトとして潜入。勤勉な態度と多少の家庭背景を匂わせて同僚からの好感度を引き上げ、四宮かぐやと白銀御行がこの映画館を訪れるであろう時間帯のシフトでの勤務ができるように調整したのである。
そして任務の秘匿上、護衛対象であるかぐやにすら己の存在を隠している遠野が姿を晒さずに、されど近くで護衛する必要性を鑑みてとった手段がこの度公開されたアニメーション映画“12匹のペンギンG(グレート)”の広報用に用意されたが、視界が悪く重いし息苦しいとスタッフ一同から敬遠されていた、主人公ペンたんの着ぐるみ! よもや子供たちにじゃれ付かれてよたよたとふらつく丸っこいペンギンのキャラクターが、主君の危急の事態とあらば着ぐるみのままでも50メートル5秒台で距離を詰めてくるような護衛をその内に収めているとは誰も思わない。完璧な擬態であった!
『――では、あとはお願いします。私は上映終了まで待機しているので』
「委細承知」
インカムから聞こえてくる情報源兼同僚である早坂愛の声に返答しつつ映画館の入り口である1階からの直通エレベーターに目をやれば、まさに今この瞬間に護衛対象である四宮かぐやと此度偶然行き会った白銀御行が開かれたエレベーターから降り、遠野が待ち受ける映画館ロビーに足を踏み入れたところだった。そして護衛を早坂に任せて朝方からこの劇場に先入りしていた遠野は、この日初めて主君の四宮かぐやの姿を目にしたのである。
白を基調にしたワンピース。それはすらりとした四宮かぐやのボディラインを美しく飾り、同時に艶やかな黒髪とその髪を纏める紅のリボンによく映え、何より彼女の紅玉のごとき瞳を際立たせていた。一言でいえば早坂グッジョブ。着ぐるみの中でその姿を確認した遠野は同僚に賛辞を送り、
(はああああああああああああ!! かぐや様! 今日もお美しいいいい!!!!!!)
同時に一瞬でキマった。
何を隠そうこの男、四宮かぐやのことが大好きである。
かつては国の盟主と謳われ今でさえ国の心臓として在る四宮家の護衛を先祖代々務めてきた遠野の家に生まれ、修行の日々で育まれた主家への強固な忠誠心が類まれな美少女である四宮かぐや個人への崇拝ともいえる物へと変化する際に若干狂い、四宮かぐや至上主義ともいえるモノへと変貌していた。
これは下手をすれば彼女に近づく男子を根こそぎ闇で始末しかねない危険なものではある。事実、着ぐるみの下に隠された目は血走っており、ギロリという音すらしそうな動きで主君であるかぐやの隣にいる男――秀知院学園生徒会長、白銀御行に向けられる。この男の頭の中で、今まさに彼が血祭りにあげられる光景が繰り広げられているかといえば――
(ハァハァ……。それにしても会長休みの日も制服なのか。どうなんだろう、ファッション的に。俺もいつも黒装束だから評価できん。しかしながらかぐや様のお隣に立っていても見劣りしない存在感は流石だ……!)
――否。己の栄誉を何一つ望まず主家の為に尽くす家に生まれ、そしてそこで育まれた信念が一人の少女との出会いでバグった結果生まれたのは“かぐや様が幸せならいいや”という境地! 最高の主君であるかぐやが選んだ男であるのなら、最高の男に違いない。文句など浮かべることすら不敬である、という鋼の忠誠心と崇拝が遠野弘邦の胸中には根付いている。
キマったせいで乱れた呼吸を整え、じゃれ付いてくる子供たちの頭を撫でたり一緒に飛び跳ねたりしながら主君とそのお相手の様子をうかがっていた遠野であったが、彼の第六感ともいえる感覚が、背後に潜む“何か”を鋭敏に感じ取る。
怪しまれないようにゆっくりと、されど最短で背後をうかがえるように体を動かせば、背後の柱に身を隠し、コソコソと白銀とかぐやの様子をうかがう者が一人。整った顔、色素の薄いロングヘアーに清楚さを感じさせるファッションが人目を引くが、鼻息荒く一点……というか主君と会長の二人を凝視しているせいで近づきがたい雰囲気を醸し出している少女……、この少女に遠野は覚えがあった。
(――何故ここにいる、紀かれんっ!)
そう! 四宮かぐやが通う秀知院学園での護衛ブラックリストに載せるか否かの瀬戸際にある部活動、マスメディア部に所属する二年C組の女生徒、紀かれんの姿があったのである!
四宮かぐやという少女は容姿に優れている。どれくらい優れているかといえば恐らく一目見れば誰もが忘れないと断言し得るほどである。それ故に、それを写真として記録して保存したいという欲求に駆られる者は校内外問わず多い。しかしながら人相が広まるということは誘拐などの標的として狙われやすくなる危険性が高まるということであり、故に当人やその周辺には家の方針として写真NGを周知させ、それでも勝手に撮る輩は護衛たちがひっそりと処分している。もちろん影の護衛である遠野も従事している職務である。
いま背後にいる少女、紀かれんが所属するマスメディア部も、何度となく四宮かぐやに何度も面と向かって取材と称した撮影を申し込み断られていながら諦めることをせず、時には無断でその姿をファインダーに捉えてきた最重要警戒対象である。しかしながらなぜか毎度シャッターを押さずギリギリで写真を撮らないために処分対象としてブラックリストに載せることができないという、護衛する側としては実に面倒くさい存在なのである!
(何故ここに――。いや、そんなことはどうでもいい!)
端的に言えば紀かれんは出版社社長である父親からもらった招待券を用いて映画を見に来たところ偶然白銀御行と四宮かぐやの両名を見つけただけなのであるが、遠野にとって重要なのは毎度毎度撮りそうで撮らないこの警戒対象から主君であるかぐやの姿を隠すこと! いままで撮らなかったからといって今日も撮らないとは限らないのである!
じゃれついてくる子供たちから怪しまれないように徐々に動き、チケットカウンター前に立つ四宮かぐやの姿を、背後の柱の陰から覗き見る紀かれんの視線から遮るように移動する!
(これでいい!)
心中でガッツポーズをする遠野であったが、ここで自身に向けられている視線に気づく!
(――何故)
――何故こちらを見ている白銀会長!
そう、これまた何故かかぐやとは別のチケットカウンターの前に立っている白銀御行がこちらをじっと見ているのである!
まさか、この隠密がばれたとでもいうのか。気配察知の天才でもあるかぐや様でさえ見抜いたことがないこの俺の隠密術を、一般人のあの男が見抜いたと? まさかそんなはずは……。というかそもそもなんで――。
(――なんで別々のカウンターでチケットを交換している!?)
紀かれんに気を取られていたために、白銀御行に視線を向けられていることに気付いた今になってようやく理解した事態ではあるが、白銀御行と四宮かぐや、この二名が何故か同じカウンターに連れ立っていくことなく別々のカウンターの前に立っているのである!
これは四宮かぐやが国内最富裕層に属する少女であるがゆえに、生まれて初めて訪れた映画館の座席指定などのシステムやカウンターでのやり取りを知らなかった結果発生した悲劇であった。しかしながら四宮家との関係を秘匿するためにあえて公立の小学校へ通学させられ、ある程度一般的な常識をわきまえている遠野にはそれが分からない!
偶然(を装ったかぐや様の策略ではあるが)一緒の映画館に来たんだからそのままの流れで一緒にカウンターに向かい、隣同士の席にして「こっちのほうがスクリーン正面だけどどうする?」「私はこっちでいいよー」などの掛け合いをするのが筋では? ついでにポップコーンとか頼んじゃって「どの味がいい?」「私キャラメルー!」などの会話をし、上映中にポップコーンを摘まむ互いの手が触れあってしまいスクリーンよりあなたのことが気になっちゃう……なイベントを起こすべきでは?
遠野は混乱した。混乱しつつも着ぐるみの中で眼球は必死に動き、こちらを見る白銀の意図を探ろうとする。その視線に気づくことなく白銀はこちらから視線を外し、きょろきょろとあちこちを見巡らしている。……そのときになって遠野の脳裏に電流走る!
(そうか、見ていたのは……
――そう、ペンたんである! 確信をもって右腕に持つ看板に目をやれば、書かれているのはこのペンたんが主役を張るアニメ映画のタイトル!
(“12匹のペンギンG(グレート)”……“G”に“12”! 間違いない、
遠野弘邦会心の思考! 「会長もさぁ、普通に口頭で伝えればいいじゃんね」という己の脳内回答を秒速でねじ伏せ、かぐやに自分の席番号を遠回しに伝えるための目印を探していまだ視線を巡らす白銀御行の目に留まるように行動を開始する!
片手で持っていた“G”と“12”が書かれている看板を両手で高く掲げ、まるで行進する旗手のごとくその場で足踏み! 突如始まったペンたんの不可思議動作に一瞬きょとんとする子供たちであったが、やがてその動きを真似るように動き出す!
「ペンたん行進してるー!」
「かわいー!」
子供特有の高く澄んだ笑い声は映画館のホールに容易く通り、彷徨っていた白銀の視線を再び呼び寄せることに成功。遠野の目は看板を見やり「よし」の形に唇を動かして頷く彼の姿を確かに視界に収め、そのままカウンター席の女性店員に伝えているのを確認する。
そして差し出されたチケットを受け取った白銀はもう一つのカウンターにいるかぐやに歩み寄り……神経を集中することで常人以上の聴力を二人の会話にのみ向けた遠野の耳には、子供たちの声に阻まれることなく「ペンたん」「印象に残った」という会話が届いていた!
(成し遂げたっ!)
歓喜に震え看板を持った右手を突き上げる
それを横目にそのままホールを横切り売店に向かうに向かう白銀。かぐやはその背中を見やったあとに(彼女は知らないのだが)自身の護衛が中に入った着ぐるみを数秒眺め、確信を得た表情でチケットを交換。二人分と考えたのであろう大きめのポップコーンを抱えた白銀と合流して劇場の両開きの扉の中に二人の姿が吸い込まれていくのを確認し、遠野は本日の特別任務が完遂された実感を噛みしめる。
「いけない、私も早くしないと……」
そんな彼の横を小走りでペンたんの横を走り抜けていく紀かれん。視線塞がれてまだ後ろにいたのか……というか男女で来ると恋が叶うという噂の恋愛映画を一人で見に来たのか……という思考が一瞬遠野の脳裏によぎるが、もはや過ぎたことだと考えないことにした。
「たっくーん、そろそろ映画始まるよー」
「わかったー」
「ばいばいペンたーん!」
そしてじゃれついていた子供たちも“12匹のペンギンG(グレート)”の上映時間が近づいたことで離れていき、徐々にロビーから人がいなくなっていく。
(では俺も劇場内に……)
護衛の任を果たすため、そして隣り合った二人が上映中にどうなるかを確かめるためにこの場を離れようとした遠野であったが。
「遠野君、あと一時間くらいだから頑張ってね」
「あ、ウス」
人が少なくなったからか、売店から出てきたバイト仲間に声を掛けられ、そこでようやく理解した。
――着ぐるみ着たままじゃ……というか職員は上映中劇場の中は入れないじゃん。
……バイトの勤務時間が終わるまで、この場を離れられないことに今更気付いた遠野であった。
……そしてその日の夜半。主であるかぐやが眠りについたのを確認し、自身も自室に戻って寝支度を整えた四宮かぐや専属近侍――早坂愛が自作のパソコンにて日課の動画視聴をしていると、その背後に音もなく現れる影が1つ。
「……で、どうだったんだ」
「――っ」
突然かけられた男の声に身を固くして振り返る早坂であったが、そこにいたのは黒い装束に身を包んだ影。言うまでもなく遠野弘邦である。流石に頭巾を外し素顔を晒している忍びの姿を確認した早坂は、ため息1つと共に強張った体から力を抜くと腰を下ろしていた椅子を回転させて背後にいた遠野と向き合う。
「毎度のことですけど気配消して真後ろに立つのやめてください。心臓に悪いんですよ貴方」
「すまないな。習性なんだ、気配消して生きるの……」
「……というか“俺はお前だけでなくかぐや様にも秘密の存在なのだ”とか言ってたくせにもう普通に私の前には出てきますよね」
「もちろんいまも禁じられている。ばれたら京都の遠野が物理的に黙らせにくるからちょっとシャレにならんのでお互い気を付けような」
「問答無用でばらしてきたのそっちなのに……」
――この両名の関係は中等部入学前日にまで遡る。
同性であり身近に仕える護衛も兼ねた近侍ではあるが、人間である以上休まなくてはいけない時間が出てくる“表”の側近早坂家の娘と、護衛ではあるが性別の違いと護衛対象にすら姿を隠さなければならない存在ゆえに常時張り付くわけにはいかない“裏”の側近遠野家の息子。1人では無理が出てくるこの体制、2人で共同してあたればよいのでは? 今日と同じように唐突に後ろに現れた黒尽くめが持ちかけてきた提案を、早坂が飲んだ時からの間柄である。
……遠野弘邦に与えられた任務は別邸にて四宮かぐやのみならず、そこで彼女に仕える者全員に気付かれることなく護衛として守るというものであった。しかし四宮かぐや至上主義に目覚めたこの男、“1人と1人でやるより2人掛かりの方がかぐや様の生活をよりサポートできるじゃん!”という即断即決のもと、着任から10分で先祖代々の家訓・主義を平然と捻じ曲げた。早坂も数年の付き合いで彼のいきすぎたかぐや至上主義は当然理解しているので、2度目のため息とともに不満を無理やり押し流して話を切り替えることにした。
「……で、どうとはなにがですか」
「なにがもなにも、今日の映画館での話だ。俺は上映中に中には入れなかったし、終わった後も立て込んでいたからな。お前ならかぐや様からことの顛末を聞かされているだろう。手ぐらい握った? それは無理でもポップコーン共有して手と手が触れあっちゃった! くらいあった?」
上映終了後、並んで映画館のホールを歩く白銀会長とかぐやの後ろを紀かれんがふらふらとついていき、その後の2人を尾行しようとしているのを察知した遠野。再びかれんの前に躍り出ると、穏やかに映画の感想を語りながらエレベーターに乗り込む生徒会の2人を背に着ぐるみを着たままパフォーマンスを開始、人を呼び込んで通行の妨げとすることで追跡を阻んだのである。当然映画館スタッフのチーフから怒られたがかぐや様のためならば如何なる苦難であろうと耐えきる男に後悔はなかった。
やり切った感にきらめく遠野の眼を見て3度目のため息をつきながら、早坂は先ほどまで主君から聞かされていた劇場内での顛末を語り出す。
「会長はG列の12番に座ったそうです」
「だろうな。近くには寄れなかったがそう聞こえた」
間違いなく自身のアピールの結果である。白銀会長はそれをかぐや様にそれとなく伝えていた。であればかぐや様は会長の隣に座ったのであろう。主君の逢引の役に立つことができた感慨に浸り、腕を組んでうんうんと頷く遠野に早坂は顔を引きつらせる。
「なんで聞こえて……、聞くだけ無駄ですね。それでですね、かぐや様はH列の12番に座ったそうです」
「ほうほう。……え、なんで?」
なんで斜め後ろ? かぐや様ペンたん認識してたよね? と頭の上に疑問符を浮かべ始める遠野を見ながら、早坂は疑問に答えるように続ける。
「なんでも会長がペンたんをやけに強調してくるから、ペンタン……元素記号でいうとC₅H₁₂のことだと判断し、C列5番が既に埋まっていたためにH列12番を選んだと」
「ええ……」
「ポップコーンは座席の背もたれ越しだったそうです。手と手が触れ合うはずもないですね。見終わった後も特になんもなく解散でしたし」
「なんで……っ」
「え、ちょっ!」
早坂からすれば素直に口で番号を伝えればいいのに、回りくどいことしてるからこうなるんだと言いたくなる自滅のごときすれ違いの顛末を伝え終わると同時に遠野は顔を覆ったまま崩れ落ち、そこまでショックを受けるとは思っていなかった早坂は驚いたようにその肩に手を伸ばす。小刻みに震える肩に遠野の受けた衝撃の強さを感じ、彼がこの日の為にこなしていた諸々を知っていたために流石に彼女も眉を下げて同情する。
「そうですよね、貴方今日の為だけに半月前から仕込んでましたもんね。そりゃあショックも受けて……」
「……す、」
「す?」
「すごすぎる……」
「は?」
遠野の顔は部屋の絨毯に伏せられ表情は伺えなかったが、漏れだしてきた声からこの震えは悔しさによるものではないと早坂はすぐ感じ取った。
「咄嗟にペンタンの元素配列出てくるとか流石だ……流石かぐや様だ……賢すぎる……すごしゅぎぃ……」
「大の男がしゅぎぃとか言わないでよ……」
歓喜が極まり舌が回らなくなったガタイのいい黒尽くめの男を見下ろしながら、この日最後のため息をつく早坂愛であった。
――余談だが、後日ネットに『ブレイクダンスを踊るペンたんがいた!』という題名でこの時の動画が投稿され、映画館の支配人から引き続き着ぐるみ役をやってもらえないかという依頼が来たが丁重にお断りした遠野だった。