近づくほどに違いは浮き彫りに、越えがたい溝は鮮明になった。
── 良い匂いがする。音が聞こえる。紙がこすれる音?
浮かび上がる意識。
── 暖かい。柔らかい。
感覚が戻って、休んでいた頭がゆっくりと動き出します。
── 眩しい。
目蓋を開け、明るさに慣れるまでの空白。
そこを抜けたら視界に映るあらゆるものが傾いていました。
── ……。
どうやらわたしはソファーに横になっているようです。
そして頭は柔らかい人肌の上に……
「……ん?」
── ここはどこ?今は何時?わたしは誰の膝を枕にしているの?
空白だった頭が疑問で埋まっていきます。
風船のように『分からない』で頭が膨らんで、浮かんだ視界が膝枕の持ち主を映しました。
「……しき、ちゃん?」
わたしの声に反応した枕が小さく跳ねて、紙の音が途切れました。
志希ちゃん。同じ時期にアイドルになった女の子。年上。
一瞬止まった視線が手の先から膝元へと落ちていき、こちらの目線と重なったところで止まりした。
視界の端で何かがぽとり、と落ちていきました。
そうして時間が止まった気がしたのは寝起きだからでしょうか?
「……えっとさ、見ちゃった。加奈ちゃんのメモ」
しばらく経ってそう言った志希ちゃんの眼は、普段と違って落ち着きなく揺れていました。
◇
── ここは事務所。プロデューサーさんとわたしたちに割り当てられた一室。
── 今は夕暮れ。レッスン後の帰り際。
── わたしはメモを書いている途中で眠くなって……
「加奈ちゃんがここまでお疲れなのは珍しいねー」
── ソファーで居眠りをしていたわたしに志希ちゃんが膝枕を提供してくれた。
眠気と一緒に頭に浮かんだ疑問も少なくなっていきます。
志希ちゃんの言うとおり、レッスン疲れで居眠りしてしまうのはめったにないことです。誰かに膝枕してもらっても起きないほど疲れたのは初めてかもしれません。
「ついレッスンに熱が入っちゃって」
「『トレーニングと休憩はバランスが大事』なんでしょ?」
「……えへへっ」
人によっては今の志希ちゃんの方が珍しく思えるかも。『可愛い』よりも『美しい』という言葉が似合う茜色に照らされた横顔。ヘレンさんなら夕陽を眺めるその姿を『アンニュイとした空気を纏っているわね』と言うのかもしれません。
熱が入りすぎてバランスが崩れた結果、わたしはメモ帳を開いたまま眠ってしまいました。膝枕になって手持ち無沙汰になった志希ちゃんにとって、書きかけのメモ帳は“キョーミ”の対象になったようです。
「目の前に何冊もメモ帳を広げたままなら誰だって気になっちゃいます。そんなに気にしなくていいですよ?」
「“お母さん”を呼んじゃうほどに取り乱しておいてソンナコト言っちゃうんだ?」
「あ、あんなに取り乱したからですっ」
「そーなのかー」
志希ちゃんはメモ帳を読んでしまったことを引きずっている。思わぬ返しに顔が熱くなるのを感じつつ、改めて実感しました。別に負い目を感じているわけじゃないと思います。志希ちゃんがこんなことになっちゃった理由とメモ帳が“キョーミ”の対象となった理由は同じ。
「……それにしても、他の誰かから見た自分って随分とムズムズするんだね」
「でも、悪くない」
「そう感じているあたしもいてさー、志希ちゃんビックリしちゃった」
メモの内容に志希ちゃんが登場するからです。
「あたし以外のヒトにね、主観が多大に混じったラベルを貼られるのは好きじゃない」
「そんなはずだったのに、パッと見た感じなかなか良いところまでいっているからドキッとしちゃってさー」
ちなみに、たった今顔から火が出そうな思いをしているのも同じ理由です。見られて困るというわけじゃないです。ただ、自分の心の内を全部見せてしまったような気がして、どう言えばいいのか分からない気持ちが湧き上がってきます。わたしのメモのせいで志希ちゃんが嫌な思いをしていように見えないのがせめてもの救いです。
寝起きのせいのか、色々ありすぎたせいなのか考えがまとまりません。そのせいなのか普段なら絶対考えもしないような言葉が脳裏に浮かびあがりました。
「……もし」
「もし、良かったら」
── 今のわたしも普段とかけ離れているのかな?
今の自分をどこか他人事のように眺めるわたし、脳裏に浮かんだ言葉が口からこぼれるのを彼女は止めることなく見つめているのでした。
「もっと見てみますか?わたしのメモ」
暴投のような言葉が飛んでいき、それを受け取った相手は少し間をおいてこちらに顔を向けました。
「……いいの?」
見開かれた青い瞳に映る上の空な誰か。なるほど、そんな顔であんなことを言ったなら確認の一つや二つは取りたくなってしまいます。
「志希ちゃんが嫌じゃなければ、いいよ」
── なんでこんなことを言ってるんだろう?
── どうしてこんなことを考えてるんだろう?
心と頭に置き去りにされたわたしには、湧き上がる疑問をぼんやりと眺めることしか出来ませんでした。
「……にゃはっ」
志希ちゃんがわたしを通して何を見たのか。自分のことすらままならないのに分かりようがありません。ただ確かなことは瞳に好奇心の火が灯ったこと。
「そこまで言うならさ、全部見せて?」
耳から聞こえる声色が普段聞きなれたものに近づいていきます。
「全部、ですか?」
「そう、キミの記録に名前が刻まれた最初の日から今日にいたるまで。今井加奈という視点から見た一ノ瀬志希、このあたしが直々に評価してあげる」
そう言った志希ちゃんは、いつも通りになったはずなのにどこか違って見えました。
── こんなわたしも、どこかが違うけどいつも通りなんだろうな
◇
「そういうわけだから、移動しようか?すぐには終わらなさそうだしねー」
どうやら時間をかけて“評価”するつもりのようです。長丁場の予感に了解を得て給湯室にいきました。二つのコップを用意して一方にはアイスコーヒー、もう一方にはお茶を注ぎます。お盆に載せて向かう先は少し横長なカフェテーブル。志希ちゃんが座って待っているのがこちらからも見えます。
近くまで来ると、ソファーの目の前にあるローテーブルに広げられていたわたしのメモ帳が見やすいように並べられています。
「ありがとう志希ちゃん」
「どーいたしましてー」
テーブルにコップを置きます。そしたら志希ちゃんは、何を思ったのかお茶の入ったコップに顔を寄せました。
「……よし、ちゃんとお茶を注いできたね」
そして、そんなことを言いました。
「っ、あんなドジは滅多にしません!」
「そーはいうけどさー、加奈ちゃんって結構間違えるよね。お茶とそばつゆ」
嗅覚に優れた志希ちゃんにとって、あのドジはとても衝撃的だったようです。
「今日の加奈ちゃんはあんなに疲れていたし、ちょっとね」
心配してもらっていること自体はありがたいことです、内容が釈然としませんが。
「気持ちは嬉しいですけど、冷蔵庫にそばつゆ缶はありませんよ?」
「……にゃはは!」
もう二度と間違えないようにしよう。心の中で決意を新たにして席に着きました。古いメモ帳を手に取り、最初のレッスンを受けた日のことが書かれているページを開きます。
「それで、このページ?あたしの名前が書かれた最初のページは」
うなずくことで、その問いを肯定しました。
「グッド」
そして、志希ちゃんは宣言しました。
「それじゃあ始めようか、キミというフィルターを通してみた一ノ瀬志希の観測を!」
その瞳は好奇心に満ち満ちています。
キョーミに満たされ、やる気充分な志希ちゃん。
もしかしたらわたしは早まってしまったのかもしれません。
── いや、ここで足踏みしちゃダメなんだ。
自信がなくても負けないもんっ
観られるのも頑張ります!