分かっていることがある。分かっている事実を知っている場合だ。
分かっていることは更にある。分かっていない事実を認識している場合だ。
しかし、分かっていないこともある。分かっていないという事実すら見落している場合だ。
〇月〇日
初めてのレッスンを受けた日
プロデューサーさんは魔法使い ← 重要!
こんなわたしでも初めて見たダンスを踊れた!しかもメモをしまっていたのに!
ペンを取り上げられたときは不安でいっぱいだったのに気が付いたらレッスンが終わってて、何も書いてないのにどうやって動けばいいのかを忘れてなかった。プロデューサーさんは特別なことはやっていないって言っていたけど、わたしはいつものように必死で覚えようとしただけ。だから慶さん(青木慶、トレーナー)やプロデューサーさんが何か魔法みたいなことをしたんだと思う。アイドルとして活躍している先輩たち、デビュー前の子たちも可愛い子ばかりで、本当にすごい人だらけ。
その中でも志希さんは飛び切りだと思う。一ノ瀬志希さん。レッスンを終えて帰る前にメモをとっていたら、後ろから急に抱きつかれてメモを落としちゃった。プロデューサーさんも “匂いフェチ”だと言っていたから志希さんが後から言っていた通り、本当にわたしの匂いにつられて“ハスハス”しちゃったみたい。今日はレッスンに飽きて失踪していたらしく、なんとなく夕方に事務所に行ったらわたしの匂いに気付いて……、まるで絵本から飛び出してきたかのようなアイドル。
プロデューサーさんは女の子が可愛くなれる秘訣を知っている、アイドルに変えてしまう魔法を使える人。もしかして、こんなわたしでも志希さんのような可愛い女の子になれるすごい魔法も知っているのかも!
「……ふむ」
隣で志希ちゃんはどんな表情でうなずいているんだろう?
「志希さん、か。なつかしーって言えばいいのかな?」
メモ帳には沢山の出来事や思い出が詰め込まれています。いつも通りの普通から大きな出来事まで色んなことが記されています。
書いたメモを見返すことでその時のわたしが見えてきます。今使っているメモ帳なら2週間ほどページをさかのぼると、舞台の主役のお仕事が決まったことを喜んでいるわたしがいるはずです。
なにか切欠があればそのたびに読み返します。覚えていないことを確認するため。忘れたことを思い出すため、忘れたくない想いを確認するため。道を振り返って何かを決めるため。かつての自分が見落としたことを見つけるため。元々メモを確認する習慣はあったけど、その理由はアイドルになってからたくさん増えました。
そんなわけで過去に自分を見ることは慣れています。色々なことが分からなかった昔の自分も暖かい目で見つめることが出来たはずなんです。
「加奈ちゃん大丈夫―?なんかスゴク刺激的な匂いになっているよ?」
志希ちゃんの嗅覚は今のわたしを的確に感じ取ったようです。その精度は未開封のお茶とそばつゆを判別するなんてことは序の口で、“調子がいい”と匂いだけで人の心まである程度分かってしまうほど。
── 他の誰かと一緒に読むのって、こんなにムズムズするの?!
「だいじょうぶです。はじめてのかんかくでびっくりしているだけです。」
「そう返せるなら大丈夫……なのかはともかくとして、どうする?落ち着くまで待ってもいいよ?その間キョーミ深いニオイを観察できそうだしね」
この気持ちはなんて表現すればいいんだろう?悪いものではないです。恥ずかしいは違う気がします。照れるという言葉が近いのかな?今は考えても答えが出るのか自信がありません。心のメモ帳に書いて未来の自分に答えを探してもらうことにします。
「だいじょうです。かんばります。かなかなふぁいふぁいです」
コップに注がれたお茶を飲んで頭を冷やします。
「うん、大丈夫みたいだね」
わたしの様子に安心したのか、既にキョーミが移っていたのか、いつの間にか視線がメモ帳に戻っていました。
「それにしても加奈ちゃんが言ってたことって本当だったんだねー。志希ちゃん、磨かれる前から光って見えてたか!」
そう言って、キョーミの赴くままにページを進め始めました。読み飛ばしながら、気になる箇所だけを確認していっているみたいです。
〇月□日
ボーカルレッスンの日
今日も志希さんが“ハスハス”してきたことにビックリだけど、志希さんが今の事務所に所属したのはたった数週間前だと知った時のほうがもっとビックリだった。わたしが志希さんの活躍を覚えていないだけ。昨日はそう思ってたけど誤解だったみたい……。あと、プロデューサーさんの担当アイドル(候補生)は志希さんが一人目でわたしは二人目らしい。どちらもウソみたいな本当のこと。二人とも笑って許してくれたけど、同じような間違いをしないように気をつけなきゃ。
初めてのボーカルレッスンは大きな声を出すというもの。メモはいらないかな?と始めは思っていたけどやっぱり必要だった。レッスンが終わる直前、志希さんに“ハスハス”された時が一番大きな声が出てたらしいことを考えると先は長そう。あそこまで大きな声を可愛く出せることが初日で分かったことは嬉しい誤算ですと慶さんはほめてくれた。悲鳴なんて普通なわたしにも出来ることなのであまり実感がわかないけど、そのうち分かるときがくるらしい。
次のレッスンではお姉さんにも来てもらうと言っていたけど何をするんだろう?
この時の私にとって、志希ちゃんは雲の上の存在でした。ステージの上で輝いている、デビュー済みの先輩アイドルだと勘違いしてしまうほどに。
だからこそ ──
〇月▽日
ベーストレーニングの日
慶さんはとても優しい人。そしてすごいトレーナーさん。
体育座りも辛くてあおむけになるほど走ったのは今日が初めて。そして電柱と電柱の間がとても遠いことも今日知ったこと。自分だけだったら本当の限界まで走れなかった。励ましてくれたり、休み方を教えてくれる人がいたからできたんだと思う。次はもっと走れるといいな。
そういえば志希さんは初めてのレッスンの日から、レッスンが終わる時間やその後になると事務所にやってきて“ハスハス”しにくる。よく考えたら今日のようにニオイが強くなりそうなレッスン以外の日も“ハスハス”している。
……わたしって結構匂うのかな?
〇月△日
初めてのビジュアルレッスン日
事前に聞いていたけど、イメージ通りに狙って表情を出すことは本当に難しかった。慶さんがいうには少なくとも驚きの表情については数日前に見たから指導しやすいらしい。そうしてから他の表情に移る、そういうことを聞いた。
追記
思い切って志希さんにわたしの体臭について聞いてみた。
“とてもイイ匂いだからダイジョーブ!”らしい、良かった。
── “ハスハス”は形を変えながら続いていくし、志希「ちゃん」と呼べるような関係になるなんて言っても、あの時のわたしは信じないだろうな。
◇
読み進める音が唐突に途切れました。
「ちょっと借りるね」
一旦メモ帳から手を離した志希ちゃんは、テーブルの上に置かれていたペンと付箋を手に取ります。
「……もう大丈夫だよね、プロデューサー?」
そう言って何かを書き始めました。
「加奈ちゃん」
ペンが紙の上を移動する音が途切れました。
「キミが初めてレッスンを受けた日、あたしが今井加奈という存在を知った日」
ページが捲られ、メモの日付がはじまりの日まで巻戻ります。
「実はね、この日に事務所に来たのは“なんとなく”じゃないんだ」
志希ちゃんの付箋が、メモ帳の片隅の空白に張られました。
事務所に来た本当の理由…『志希に匹敵するかもしれない逸材をスカウトできた』と興奮するプロデューサーの声を電話越しに聞いたから
「……ぇ?」
「あーあ、教えちゃったー」
言葉と裏腹に、その声は何処か楽しげで。
「凄かったんだよ?あの日のプロデューサー。テンション吹っ切れてるのが電話越しに伝わるし、気になって事務所に行ったら本能全開のギラギラした眼をしていてさ」
声の方を向いたらその顔は何処か誇らしげで。
「判断の根拠を聞いたら『ティンときた』ってとんでもなくイイ顔で答えたんだよ?」
本当のことを言っていると否応なしに伝わってきて。
「そこまで言われたなら気になっちゃうよね、仕方ないよね」
心ここにあらず。その瞳に映るわたしは、その言葉がよく似合うほどに固まっていました。
「かくしてその日、あたしは一際いい香りがする女の子に出会ったのであった!」
── 衝撃の真実、という言葉はこういう時のためにあるんだ。
『なにかピンときたんだ』
確かにそういわれたことはありました。プロデューサーさんの魔法の対象になりうる範囲はそれだけ広いんだと理解していましたが。
わたしが逸材?それも、志希ちゃんの名前が出てくるほどの?平凡なはずのわたしの中に、プロデューサーさんは何を見たんだろう?
そんなことを呑気に考えている私がいます。事実の衝撃で心から弾き飛ばされたのかな?
「さあ加奈ちゃん、呆けている暇はないよ?時間は有限だからね」
ふと視線が向いた先、窓の向こうは茜色に夜の色が混ざり始めていました。
「ページを今へと進めていこう!ちなみにあたしが知りたいこと、伝えたいことはまだまだあるよ?」
志希ちゃんの言葉に、わたしはただただうなずくことしか出来ませんでした。