救済の魔女 Kriemhild Gretchen 作:Takan
目が醒めた後の一時、その僅かな時間は実に億劫なものだと思う。
独特の倦怠感と眠気、外気の寒々しさ。茫洋とした意識が鮮明になるまで、それらを捻じ伏せて体を起こすのは難しい。
とはいえいつまでも布団の中にはいられない。誰も、いつだって、心地の良い夢の中に居続けることはできないのだから。
「……」
まだこんなにも眠いのに、けれど必ず起きなければならない。まだ眠っていたいのに、世界も人も、自分さえもそれを許してはくれない。
だからもう、いい加減に起きないと。
「んぅ……」
なんとか、重い瞼を持ち上げる。起きたばかりだからか、あまり意識がはっきりしていない。そのせいで、自分は今まで何をしてたのかなんて、そんな疑問に囚われてしまう。
きっと長い夢でも見ていたのだろう。頭も重いし。
まあ、こういうのはいつも通り少し時間を置けば解消される。であれば、今日もまたいつものようにそうすればいい。
「………」
そう思って何もせずに天井を見つめていたら、寝起き特有の喪失感は徐々に薄れていって。それと同時に、自分が何なのかはっきりしていく。
うん、いつもの通り、何の取り柄も無い私だ。
微睡みから覚めれば、そこはもう夢の中では無い。特に何がある訳でもない現実があるだけ。今日は退院の日ではあるけれど、だからといって何が起こるわけでもない。
ともあれ、いつまでもこうしているわけにもいかない。目が覚めた以上、これから退院の準備をするべきだ。そんなことを考えながら、私は顔を上げて濡れていた目元を拭った。
「……あれ?」
何気なく溢れる涙を拭っていたら、つい先ほどまで自分が泣いていたことに気付かされた。不思議だ。なんで、どうして、私は涙なんて流していたんだろう。そんな疑問が溢れてくる。
心当たりは特にない。思い当たるものといえば夢くらいのものだろう。となれば、考えて分かるはずもない。
そのはずなのだけれど、なんなのだろう。なぜだか、うまく体が動かせない。動かそうという気になれない。そんなよく分からない感覚が、頭にこびりついている。
なんで私は、こんな気持ちを抱いているんだろう。よく分からない。
「………」
いつものようにぼやけた視界が、今日は一段と霞んでしまっている。それと同じように、直前まで抱いていたはずの胸の苦しみもまた、その原因が掴めない。
この感覚は夢から覚めた時によくある独特のものだ。意識してみてもどんどん夢の内容は霞んでいく。それが当然のことであるかのように、いや、事実当然であるからか、ただただ忘れていく。
そうしていつものように無理に思い出そうとせず、なんとか起きあがって背伸びをしていたら、夢の内容はいつのまにか思い出せなくなってしまって。こうなってはもう、自分の涙の理由は分からないままだ。
少し気になるとは言っても、所詮は夢。あまり気にする必要は無いだろう。
「……ん、あれ?」
自然に薄れていく疑問を振り払ってやっと立ち上がってみたら、今度は違和感に襲われた。なんだか、体が異常に重い。風邪でもひいているみたいだ。思い通りに体が動かせない。ふらついてしまって転びそうになる。それに頭だって、なんだか靄が掛かっているみたいだ。
なんだろう。本当に風邪でも引いてしまったのだろうか。せっかく退院の日だっていうのに。
「体温計って、どこだっけ?」
熱でもあるのだろうか。そう思って体温を測ってみたけれど、結果は平熱。それに気付いたら風邪のような感覚は薄れて消えてしまっていて。
なんだか、よく分からない。どうにも腑に落ちないけれど、かといって思い当たる節があるわけでもない。こうなってくると、全てが気のせいだったとさえ思えてくる。
「体力、ないからかなぁ……」
とりあえず、気にしていてもしょうがないと見切りをつける。
そうだ。そもそも体力が無い。碌に運動もできなかった体だ。うまく体を動かせないのは、寧ろ当然。
そう考えると、逆にどうして腑に落ちないなんて思ってしまったんだろうか。今となってはそちらの方が疑問に思える。どうして、私はそんなことを疑問に思ったんだろう。
「……?」
駄目だ。考えても分からない。全く、何も――――。
退院して数日、私はすっかり新しい生活に馴染んでいた。
「……」
早朝、目覚めてすぐ、私は身支度を整えて見滝原市を散策し始める。ここ数日の日課だ。といっても、なにか目的がある訳では無い。ただなんとなく、私はそうすべきだと思って今日もこうして市内を散策している。
改めて考えてみると、なんでこんなことを? 自分が何をしたいのか、よく分からない。
「なにしてるんだろ、わたし……」
だというのに、そのはずなのに、どこか馴染み深い。そんなはずがないのに。
「ん~………」
退院明けだから、どこか感覚がおかしくなっているんだろうか。自分の行動の理由を考えても、それくらいしか思いつかない。
「まあ、いっか……」
たぶん、きっと、おそらくそういうことなんだろう。
こうして歩き回っているのは、街並みが物珍しいから。特に何も感じないのは、退院明けで感覚が麻痺しているから。理屈はよく分からないけど、そういうことにしておこう。
そうして気付けば、あっという間に登校初日がやってきた。
「……よし」
不思議と緊張感は無い。いつも通りの私で、いつも通りの今日だ。準備も終えて、教材の入った鞄を片手に外へ出る。今日から学校だ。
とはいっても、特になにも感じない。期待も、緊張も、なにも――――。
「……」
でもまあ、そんなものなのかもしれない。最近はどこかふわふわしてて現実味が感じられないから、特になにも感じない。そんなところだろう。
「学校、かぁ……」
自然な足取りで通学路を歩きながら、すっかり見慣れてしまった景色を眺める。といっても、特に何があるわけでもない。何があるわけでもないから、何を思うわけでもない。
景色を眺めるのも、その他にすることがないからだ。転入初日の自己紹介も、人前に立つ心構えも、特になにをするでもない。自己紹介といっても名前を言うくらいで。心構えといっても、よく分からない。なにをすればいいのか。
「……」
いつからなんだろう。いつから私は、こんなに無感動になってしまったんだろう。
分からない。少し考えてみたけれど、やっぱりなにも分からない。
学校へ到着して、教室へ。
実際に目にしてみればなにか感じるかと思ったけれど、やっぱりなにも感じない。
「暁美さーん、入ってらっしゃーい」
「はい」
いつものように早乙女先生の合図があってから、教室の中へ。いつもの校舎に、いつもの廊下。見慣れた教室に、いつものクラスメイト。何もかもが初めて見るもののはずなのに、なにもかもに見覚えがあって。
「暁美ほむらです。よろしくお願いします」
でも、そんなことってあるんだろうか。
そう思った矢先、一人のクラスメイトになぜだか視線が釘付けになってしまう。ついその人物を見つめてしまって、目が離せない。
「……?」
目が合ったその子は小さく手を振って、私に微笑みを投げかけてくれる。親しみ溢れるその所作に戸惑いを覚えるけれど、いや、そうじゃなくて。
胸が、苦しい。でも、それは決して嫌な感じではなくて。
「……」
それから少し、私は自分が何をしていたのか覚えていない。急に訪れた感覚が抜けきらぬままにホームルームは進行して、気付けば席に着いていた。
ホームルームを終えて休み時間になると、転校生に興味津々な生徒達に囲まれる。それからはクラスメイト達の質問攻めだ。少しボーっとしていたけれど無難な対応はできただろうか。それが少し心配だったけれど、気にしていても仕方がないことだと諦める。
「……」
それにしても、急にどうしたのだろう。急に胸が苦しくなるなんて。体調でも悪いのだろうか。
「……」
熱でもあるのかと思って、額に手を当ててみる。けれど、結局よく分からなかった。
「暁美さん、体調悪いの?」
そんな動作と怪訝そうな表情を見てか、クラスメイトの一人が声をかけてくる。どうやら心配させてしまったらしい。
「そうなのかも」
体調に関しては、自分でもよく分からない。悪いとは思えないけれど、良いとも思えなくて。だから、曖昧な返事しか返せなかった。
「あ、じゃあじゃあ、私保健委員だから、保健室まで案内するよ!」
そんな私の返事に、一人のクラスメイトが反応を示す。その声に目を向けると、先ほど目が合った少女がそこにいた。
「……えっと、あの」
どうしてか、急に言葉に詰まる。
跳ね上がった心音がうるさくて。息が苦しくなって。そのはずなのに、それが不快じゃなくて。風邪でも引いたみたいに、分かり易く体に熱を感じる。
「じゃ、いこっか」
「……うん」
促されるまま、つい廊下に出てしまう。ろくに考えが纏まらないまま、握られた手をただ握り返して。
それにしても、いつだったか。こうして手を引かれたことがあったように思う。こんな風に、温かくて小さな手に。
「私はね、鹿目まどか、まどかって呼んで!」
その子は、とても明るい女の子だった。元気で、とても良い子で、素敵な家族に囲まれた、とても強い子。
「……うん、わかった」
遠く、過ぎ去った時間に思いを馳せる。それはもう二度と手にすることのできない、失われた時間で。
「えっと、私は、ほむら、です。暁美、ほむら」
「うん、ほむらちゃん、よろしくね!」
ふわふわとしていて、肝心なことはなにも分からない。どこか茫洋とした意識は変わらず、ただ感情だけが溢れてくる。
「……まどか」
どうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこんなに切なくて、なのに嬉しいんだろう。どうして――、
「なあに? ほむらちゃん」
知らないはずがない。私はまどかを知っている。
「まどか、あのね」
初対面であるはずがない。初対面だというのなら、どうして私はこんな想いを抱えているのか。
「うん」
知っているのに、初対面じゃないのに、私はまたこうしてまどかに自己紹介をしている。
でも、じゃあどこで会ったというのだろう。分からない。なにも分からない。でも、いや、そうじゃなくて。
「……えっと、ごめんなさい。なんでもないの」
ふと、彼女を見た。
その表情は嬉しそうで、楽しそうで、分かり易く笑みを浮かべていて。なんだかそれだけで、いろいろな事がどうでもよくなってきて。
「そう?」
どうしてまどかは、そんなに嬉しそうなんだろう。
そんなことを思ってしまうけれど、いや、それこそなんでもいいかもしれない。だって、彼女が嬉しければ、それだけで私も嬉しい。ならもう、それでいいだろう。
「でも遠慮しないで、なんでも聞いてね」
疑問はある。違和感も、どこまでも堆積していく。けれど今の私にとって、それは重要なことではなかった。
ただ、なにもかもがどうでもいい。まどかが嬉しそうにしていれば、ただそれだけで。
「うん」
言いたいことは、きっとたくさんある。疑問も違和感も同じくらい一杯で、頭の中はぐちゃぐちゃだ。状況が呑み込めない。なにも分からない。たくさんの疑問のせいで言いたいことは纏まらなくて。何を口に出すべきなのかも思いつかない。
「それにしても嬉しいなぁ、すぐに名前で呼んでくれて」
「………」
けど、なんだか。なんだかもう、それでいい気がする。なにを思う必要も、なにを言う必要も。なにもかもがどうでもいい。
「いいよ、無理して何か話そうとしなくても」
優しく、包むように頬に手を添えられてしまえば、もうなにをする気にもなれなくなって。
「………」
気持ちを苛む焦燥感も消え去っていって。疑問もただ流されていって。なにもかも、忘れていく。
「まどか……」
なにもかも、分からなくなっていく。それこそ、最初から何も無かったかのように。でも、きっとそれでいい。分からなくても、何も無くても、ここにはまどかがいるんだから。
「私はね、ほむらちゃんと一緒にいられれば、それだけでいいから」
ただここにいて、生きている。それこそが、私にとっての救いだ。ならもう、それでいいだろう。
「………」
「ほら、泣かないで」
立ち尽くしていた私の頬を、まどかは優しく撫でてくれる。嬉しい。
でも、まどかはどうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。そんな疑問を抱きながらも、まどかの手を拒むことなんてできなくて。
「えっと、ごめんなさい。急に」
でも、情けなさと申し訳なさが溢れてきて、咄嗟に離れようとして。
「いいよ、気にしないで」
でも、まどかは離してくれない。手に僅かに力を込めて、私の体を縛り付けてくる。
「……ごめんなさい」
私がその手を振り払えるはずはなくて。拒めるはずなんてなくて。ただ、されるがまま。
「どうしてほむらちゃんが謝るの?」
頬に触れる、柔らかくて温かな手。その手から逃れる術を、私は知らない。
「………」
だから、ただなすがまま、私はまどかの慰めを受け続けるしかなかった。泣き疲れて意識を失ってしまうまで、ずっと、ただ静かに――――。
温かく柔らかい、布地の感触。その居心地の良い場所から抜け出す気力は、なかなか湧いてこない。
「あ、気が付いた?」
優しく響く声がする。安心する音だ。心地良い。でも、安心してしまうとなかなか起き上がることができなくなってしまって。
「……まどか?」
いや、それはだめだ。その心地良さに甘えてはならない。起きなくちゃ。
「うん、まどかだよ。ほむらちゃん」
声のする方を見れば、そこにはまどかの姿がある。
そういえば、私はどうして寝ていたんだったか。――いや、そうだ。
「……まどかっ、授業が」
気付き、慌てて起き上がる。
まどかに授業を欠席させてしまった。どうしよう。
「えへへ、サボっちゃった」
そんな私の様子をどう見てか、まどかは舌を出しておどけてみせる。どうやら気を遣わせてしまったらしい。
「ごめんなさい……」
「あー、ほむらちゃんは何も悪くないから、ね?」
彼女はそう、努めて明るく振る舞う。その気遣いが嬉しい反面、罪悪感が心を苛んで。
「それよりほむらちゃん、放課後は暇?」
「……え?」
不意に、話題が変わる。――放課後、特に何もないけれど、それがどうかしたんだろうか。
「今日は放課後、どこか一緒に遊びに行かない?」
「……?」
急な申し出に、一瞬思考が停止する。
「なにか、用事があるかな?」
呆気に取られて黙っていると、まどかに残念そうな顔をさせてしまった。――いけない。とにかく何か言わなくちゃ
「……えっと、特に何もないけど」
なんとかその表情を変えたくて、必死に声を絞り出す。その甲斐あってか、まどかの表情はすぐに明るくなってくれた。
「そお? じゃあ遊びに行こ!」
その様子を見て、ちょっとだけずるいなと思う。なにも、あんな表情をしなくてたって。どうせ、私はまどかの誘いを断れないんだから。
「どこに遊びに行くの?」
「ん~、まだ決めてないけど、いろんなとこ行ってみたいよね」
まどかの楽しそうにはしゃぐ姿を見ているだけで、私も嬉しくなってくる。
手を握ってくれて、笑いかけてくれて、ただそれだけのことなのに私は満たされてしまって。この時間が永遠に続けばいいのにと、そんなことをつい願ってしまう。
「まどかが行きたいなら、どこにでも」
この、穏やかな時間を。いつしか縁遠くなったこんな一時を、私はきっとどこかで求めていた。
「じゃあ手当たり次第に!」
「分かったわ、まどか」
仲の良い友達と、放課後の約束を交わす。なんだかまるで、普通の少女みたいだ。
「どこにいこっかなぁ~」
ふと、思う。幸せってなんなのだろう、と。それはたぶん、きっと――――、
*
どこか、そうではない日々。けれど、幸せで満ち足りた日々。
求めていたものはここにあって、けれど求めるべきものはここにはなくて――――、
「ほむらちゃん、今度はあっちに行ってみよ」
「うん」
ありふれた日常を生きることは、ただそれだけで幸せなことだ。大事な人と共にその時を過ごせるのだとしたら、それ以上に求めることなんてなにもない。
「はやくはやく!」
「待って、まどか」
休み時間のお喋り。テスト前のお勉強。放課後の約束。時には面倒を見てもらったり、手助けしたり、持ちつ持たれつ互いに支え合ったりして。
「……」
ある休日には、二人で映画を見に行った。特にすることがない日は、まだ見ぬ景色を追い求めて見滝原市を散策したりした。気になったお店へ入ることもあったっけ。他にも、ショッピングしたり、お泊りしてみたり。
「今日はどこにいこっか」
「あっちの方は、まだ行ってないかな」
「じゃああっち!」
頷き合って、笑みを交わして、手を取り合って。――温かくて安らかな日々はささやかで。ここには悲劇なんか存在しなくて、誰が悲しむこともない。
「まどか」
ああ、そうだ。私はただ、それだけを求めていたんだと思う。でも――、
「ほむらちゃん?」
不意に、足が止まる。
「ありがとう」
きっと、言うべきことはたくさんある。でも、何を言えばいいのか私には分からない。
「どうしたの? 急に」
それでも、気持ちは伝えなくちゃいけない。それだけはきっと、やらなくちゃいけないことだと思うから。
「まどかと出会えたおかげで、私はとっても幸せになれたから」
「なあに? もう、大袈裟だなぁ」
照れくさいことを言っているとは思う。まどかも照れくさそうだ。――でも、これが私の偽りのない本音。伝えるべき気持ちだと思うから。
「そうかな?」
「そうだよ! こんなの普通だよ! 普通!」
これだけは、感謝だけは、どうしても伝えなければならない。
「だったら、良かったのにね」
「……」
ここは居心地が良すぎる。――きっと、私はここにいるべきじゃない。だって、私にはするべきことがあるんだから。
「はいはい! じゃあほら、行くよ、ほむらちゃん」
「うん」
でも、もう少しだけ。あと少しだけ、この居心地の良い夢に浸っていたい。
そう思うことは、果たしていけないことなんだろうか。
*
朝が待ち遠しいと思うことはこれまでなかった。いや、いつの日だったか、そんな日々があったようにも思う。でも、そんな日々は今の私には遠過ぎて、もう二度と手にすることはできないと思っていた。
「おはよ、ほむらちゃん」
「おはよう、まどか」
手を引かれて通学路を歩む。気付けば、もうそれが日常になっている。
「今日の放課後はどうする?」
「………」
些細な日常の一欠けらをとっても、ここは私にとって温かな場所だ。――でも、温かであることがそもそもおかしい。ありふれた日常であるのなら、人はそれをわざわざ意識することなんてないのだから。
「ほむらちゃん?」
呼ばれたことに気付いて、まどかを見る。
「…なに? まどか」
その表情はいつもの優しい笑顔だ。でも、そのはずなのに、なぜだかどこか泣きそうに見えてしまって。
「……」
心配して聞いてみても、まどかは答えてくれない。いつも悲しそうに笑うだけで、何も言ってはくれない。
「ううん、なんでもないよ、いこ!」
ここ最近では、こういう顔をする日が増えた。聞いてみても話を逸らされて、まともにとりあってくれない。先を歩くまどかの顔は見えなくなったけれど、きっと今も悲しそうな表情を浮かべているんだろう。
どうしたのだろう。とても心配だ。
「ごめんね、ほむらちゃん」
「………」
謝られても、その意味が掴めない。理由を教えてほしくても、言いたくないことを無理に聞き出したいとも思えない。
話してはくれないのだろうか。そう思うけれど、うまく切り出せない。
「……」
まどか、そんな顔をしないで。あなたが悲しいと、私も悲しい。
「まどか、あのね?」
それに、いつまでもここにはいられない。私にはやるべきことがあって、今はそのためだけに生きている。
「なあに?」
この気持ちを全て伝えるには、どうすればいいのだろう。伝えたいのに、励ましたいのに、うまく言葉が出てこない。言葉は喉元まで出かかっているのに、そのほとんどが音になる前に引っ込んでしまう。
「……ありがとう」
やっと言葉にできた音はありふれたもので。けれど、それが私の精一杯。
「私ね、もっと頑張れるから」
伝えたいこと。伝えるべきこと。それらはたくさんあるはずなのに、それだけしか声にはならなくて。言うべきだったことも、言いたかったことも、なにも選べない。
私は正解を引き当てることができただろうか。分からないけれど、どうか、そうであって欲しいと願うしかない。
「……」
まどかが、足を止める。つられて私の足も止まって。握った手に、少しだけ力が加わっていることに気付かされた。
「……まどか?」
いつからだろう。なんとなく、分かっていた。ここは夢なんだって。いつかは終わるんだって。――そしていつ終わるんだとしても、それでいいんだって。
「……」
だから私は、まどかにありったけの感謝を伝えてきた。――悔いを、残さないように。ただ直向きな感謝が伝わるように。謝り続けるまどかに、そんなこと言わないでって、そう伝えるために。
たとえ、醒めたら消える夢だとしても。それでも、まどかに謝って欲しくなんてなかったから。
「―――」
不意に、周りの音が遠ざかっていく。景色から色が抜け落ちていって、ただ白く、白く染まっていって。
「……」
不思議と嫌な感じはしない。なんとなく、当然のように感じられる。
だって、夢は醒めるものだから。いつだって、夢とはそういうものだから。
「……まどか、謝る必要なんて、ないから」
未練が無いわけじゃない。できることなら、いつまでもこうしていたかった。それは偽らざる本音だ。
まどかはどう思っていたのだろう。まどかも、そう思ってくれていたんだろうか。もしそうなら、やっぱり、どうしても嬉しいと感じてしまう。
「だから、そんな顔しないで」
だから、伝える。夢が終わり、その束の間に全ては溶けて消えていくのだとしても。
音が消えて、視界は白に染まって。夢から醒める。その、終わりの間際――、
「うん、わかった」
振り返ったまどかに、そっと抱きしめられる。
最期に見えた表情は、はたして笑顔だったのか、それとも泣き顔だったのか。――全ては白に溶けて、消えていってしまった。