「ヒャハハハハハハッ!!」
クラディールが天を仰ぎ哄笑していた。
フロアにはやつの声が五月蠅く反響している。
エリのアバターは死亡演出のため、みるみるうちにポリゴンへ変換されていく。
俺の頭は氷塊を入れられたかのように冷え切っていた。
内側から頭蓋を叩かれているような痛みを感じている一方で、機械仕掛けのごとく最適解を模索して実行に移す冷静さが同居している。
左手がオブジェクト化したアイテムを収納しているポーチに伸びる。
指先の感触だけで目当てのものを探し出す。
右手はメニューウィンドウを開きクイックチェンジのショートカットに触れていた。。
本来なら装備フィギアを一々選択しなければならない動作を、わずか2アクションで終わらせる。
新たな装備オブジェクトが手元に生成される前に、俺は取り出したクリスタルを力一杯に握りしめる。
「――蘇生、エリ」
ソードアート・オンラインの正式サービスが始まってから、おそらく初めて使われたであろうコマンドを、俺は唱えた。
手にしていたのは『還魂の聖晶石』。
クリスマスイベントのフラグボスからドロップし、エリから譲り受けた蘇生アイテムだ。
あの日交わした約束を、俺は果たす。
HPバーだけが残り、中が透明となっていたエリのHPが急激に補充されていく。
「ヒャハハハ、ハ、ハ、ハ、ハ……?」
クラディールがそれに気がついた時にはもう、俺は動き出していた。
「――カハッ!?」
クラディールはたたらを踏み、蘇生されたエリから数歩だけ離れる。
俺は下段に構えた剣で浅くやつの足を切り裂くと、HPが少しだけ減少する。
「てめぇ、そいつは……!?」
――剣が打ち合ったときに奏でる音とは違う、鈍い反響音がした。
クラディールは反射的に俺を振り払おうとしたのだろう。
乱雑な横薙ぎは、それが振り切る前に押さえつけられ、やつの望んだ行動にはならない。
振りかぶられた大剣の正面。俺の左手には鉄の壁があった。
……壁と形容するにはいささか小さいか。
大盾ならまだしも、これは中盾。カイトシールドと呼ばれる分類の物だ。
凧の形を模した鉄の板にはギルドの紋章。
月を背にする黒猫が一匹、佇んでいる。
「クラディィィィイイイイイル!」
立て続けに行うシールドバッシュは、さながらボクシングのジャブだ。
ダメージこそミリで削る程度だが、視界を奪い、剣技を行わせない鉄壁の攻め。
バランスを崩せばエリュシデータがすかさず肌を斬り、距離を取ろうと下がれば追い打ちを仕掛ける。
使わなくなって久しいスキルだったが、身体は当時のことを鮮明に憶えていた。
俺が盾スキルを習得したのはもう1年以上前になる。
月夜の黒猫団がまだ6人だった頃。
サチに盾の扱いを教えるため、エリを頼ったことがあった。俺たちはサチがどんな気持ちで引き受けたかなど一切考えていなかったが、初めて会ったばかりのエリがそれを見抜き、俺たちを叱りつけてくれた。
それを切っ掛けにサチはタンクに転向する道を止め、代わりに俺がタンクを引き受けることになったのだ。
エリには色々とレクチャーしてもらったが、結局俺はタンクとしては欠陥品で、仲間を守る事が出来ず、のうのうと独りだけ生き延びてしまった……。
攻略でこれを使う機会はない。左手をフリーにして、体術スキルの使用の幅を広げた方がDPSが上がることを
なぜ、俺は使わない盾を持ち歩いていたのか……。
盾を使う俺はあの日を境に死んだ。今ここにいるのは月夜の黒猫団を背負う亡霊としての俺だ。それでも俺は望んでしまっていたのだろう。
あの頃に戻りたいと。
あるいは――。
あの日できなかったことを、やり直したかったんだ……。
助けられなかった彼らを今度こそこの手で!
この盾で、守り抜きたかったんだ!!
「盾出したくらいで調子に――クッ!」
右腕と左腕が別々の思考を持って動いている。
スポーツ選手などが、極度の集中状態になることをゾーンに入ると形容するが、今の俺はまさにそれだった。
クラディールが大剣を振ろうとしていた。すでに左腕の盾が初動で抑えていた。
盾で弾けばその衝撃で一瞬の隙が生まれる。すでに右腕のエリュシデータはやつの胴体を切り刻んでいた。
上半身に意識が行っていて足元の注意が甘くなっているはずだ。すでに俺の身体は体術のソードスキルが発動済みで、追撃は終わっていた。
最適解は考え終わる前に実行され、結果の後に思考が追い付く。
俺は結果から逆算することでそれをようやくなにをしたかを理解し、その間にもあらゆることが正確無比に成されていた。
クラディールのHPはすでにイエローゾーン。
絶え間ない左右の連携がこれまでの差を覆していた。
「だったら、もう一度殺してやるよォオオオオ!」
「させるかぁぁぁあああああああああああああ!」
……サチ。今だけでいい。君の大切な人を守るために力を貸してくれ。
クラディールが充血した瞳で俺を睨み、再び『カラミティ・ディザスター』を放った。
これまでの戦いの中で最速の動きを見せたやつのソードスキルは、発動前の準備モーションの段階で止めることは叶わなかった。
下段からの3連撃を盾で逸らす。剣で受けるよりもずっと簡単にそれは行われ、続く横薙ぎまでも完璧にガードしきった。
だがガードは相殺と違いダメージ貫通がある。剣で防ぐよりも圧倒的に小さなダメージだったが、それでも俺のHPはレッドゾーンに入ってしまった。
そしてカラミティ・ディザスター最大の難所。刺突系突進攻撃が始まる。
受け流せばやつは再びエリの元に辿りつく。かといって力づくで受ければ俺のHPは持たないだろう。
二者択一ではない。俺が死ねば間違いなくやつはエリを殺す。
だからここで死ぬわけにはいかない。
研ぎ澄まされた精神は、ある日のフロアボス戦を俺に思い出させていた。
サブタンクとしてボスの攻撃を受けていたエリが、回復を終えたヒースクリフとスイッチを行ったときのことだ。
大型のボスモンスターには重攻撃系のソードスキルでもノックバックさえ発生させられないことは多々ある。あのフロアボスもそうだった。
だからエリはフロアボスの攻撃を利用して、自身がノックバックすることでダメージを減らしつつ距離を離すという技を使っていた。
俺はあの技を再現する。
体勢を崩さないために腰をしっかりと落とす。受ける個所は盾の中心。腕を引いて力を受け流すのではなく、勢いを身体に浸透させるように腕を一本の棒と化す。接触の寸前。動かすのは腕ではなく足首。そのスナップで身体を数ミリ浮かして地面との摩擦を断つ。
突進攻撃の速度が伝達して俺の身体は後ろ向きに急加速した。視界の利かない方向への強制移動は思いの外バランスを取るのが難しい。
俺は浮かせていた足を地面に戻すと靴底が削れるような感覚を覚えながらも速度が減衰した。
わずかにHPが減る。だがほんのわずかだ。それは俺を殺すには一歩足りない。
最後の振り下ろしは本来振り向きながら行われるものだが、俺が正面にいるため純粋な上段に振り上げてからの斬撃に変更された。
俺の右手にあるエリュシデータがソードスキルのエフェクトを輝かせる。
クラディールは狙いが外れ驚愕が顔に出ていた。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!!」
――片手直剣上位ソードスキル『ノヴァ・アセンション』。
片手直剣のソードスキル中、最速を誇る上段からの斬撃が、カラミティ・ディザスターの最後の一撃と交差する軌道で交わった。
鍔迫り合いにもつれ込み、しかして互いのソードスキルは終了に至らない。
激しいエフェクトの火花が散り、刀身が燃え尽きるのではないかというくらいの輝きを見せる。
剣の重さや威力では、両手剣は片手剣を遥かに上回る。
だがエリュシデータが持つ規格外な性能のせいか、それともやつのソードスキルが完全な威力を発揮する前に衝突したせいか。もしかすれば俺の祈りが届いたからなのかもしれない。
エリュシデータはやつの両手剣に
ソードスキルの発動中は、武器の耐久値減少量が増大する。
だが破壊ともなれば、武器の耐久値が残りわずかな状態でなければならず、PvEでもPvPでもそういった状況はそうそう起こらない。
やつの両手剣が装飾過多で耐久値に劣る代物だとしても、手入れを怠ったとかそういう下らない理由でもなければこの現象はありえないはずだった。しかし現実にそれは起こっているのだ。
両手剣の刀身は半ばで寸断された。
切断面からポリゴンの欠片がこぼれていく中、俺のソードスキルは続くモーションへと移る。
ノヴァ・アセンションの連撃数は他のスキルカテゴリーでもまずない10回。残りの9回の斬撃が新星の輝きのように発光し、クラディールのアバターを貫いていく。
「い、いやだ……。死にたくねえ! この……人殺し野郎がアァアアアアアア!?」
クラディールが悲鳴を上げていた。
やつのHPはすでに0となり、破壊された剣と同じようにアバターはポリゴンに変わっていく。
俺はソードスキルのターゲットを変更して、やつを殺さないということもできたはずだ。
無我夢中だった――わけではない。
俺の頭には、その選択肢が思い浮かんでいた。だがそれを自らの意思で破却したのだ。
こいつを生かして黒鉄宮の牢獄に繋いでおくなんて我慢がならなかった。エリをこんな目に合わせたやつらの仲間で、あまつさえ殺す寸前までやったこんなやつを、俺は殺してしまいたかった。
アスナを助けるために手違いで殺したのとはわけが違う。
俺は俺の殺意によってクラディールを殺した。
達成感はなかった。かといって今のところ悔いもない。俺は間違っているはずだが、正しいと、どこかで思ってしまっているのだろう。
床に倒れたクラディールを冷めた目で見下ろす。ついに死亡猶予時間の10秒が経過して、ポリゴンが激しいSEを奏でて爆散した。
「Congratulation」
乾いた拍手の音。PoHからは隠しきれない殺気が漏れ出ていた。
俺もきっと、これと同質のものをまき散らしているのだろう。
やつとの距離がまだ離れていることは幸運だった。俺はPoHから目を離さずに、ポーチから回復結晶を取り出してHPを補給する。
「やるじゃねえか、黒猫の剣士」
「褒めるならもっとそれらしく言うんだな」
「………………」
クラディールより間違いなく格上のプレイヤー。そんな敵からエリを守りつつ勝利をもぎ取れるのか? 俺は疑問を無視して、ほとばしる殺意に任せ剣を構えていた。
「そいつはくれてやる」
PoHが投げた銀の鍵は床に転がる。
物を投げて視線の奪われた隙に攻撃するというのは意外に有効な技だが、PoHが仕掛けてくる様子はない。
それどころか、やつは見せびらかすように転移結晶を取り出した。
「逃がすと思うか?」
「おいおいおい。テメェこそやる気か?」
そっちがその気ならいつでも相手になってやる。
そう言いたげな怒気の込められた口調だった。
「今回は見逃してやる。テメェとやり合うのにはもっと相応しい舞台がいるからな。それまで、せいぜい生き延びることだ。――転移」
PoHのアバターが転移のエフェクトに包まれる。
今のあいつは無防備だ。確実の高威力のソードスキルを叩き込める。
だがそうしたら……。
PoHもそれを理解して俺ではなく、背後にいるエリに視線を送ってるように思える。
やつの姿は十数秒後に消える。名称指定ではなく、マーキングした地点への転移。もうやつの足取りを追うことはできない。
俺は結局、殺意に任せてやつを斬れなかった。それが幸運だったのかどうかはわからない。
だが、エリを死なせずに済んだ。
「――エリッ!」
俺は床に転がる鍵を拾い、すぐさまエリに駆け寄った。
よく見れば、彼女の手足に巻き付く鎖には鍵穴があり、そこに填めるとあっけなく拘束は解除された。
支えを失い倒れそうになるエリを抱きとめる。
裸の女の子を前に、興奮ではなく深い悲しみしか感じられない。
「キリ、ト。わたし……。わたしっ…………!」
声にならない声を上げ、エリは幼子のように泣いていた。
彼女が泣いてるように見えたことはあれど、こんなにも素直に泣いているところは見たことがなかった。それだけ彼女が感じた恐怖や苦痛は大きかったんだと、俺は無言でなにかに責め立てられているような気がした。
エリをゆっくりと床に座らせると、俺はアイテムストレージからギルドコスチュームのコートをオブジェクト化してエリの肩にかけた。
本来ならプレイヤーの身長に合わせて装備はサイズが変更されるが、これはオーダーメイド設定でその機能がオフとなっているため、やや彼女には大きい。
「ごめん……」
俺は色々なことに対しての謝罪を口にした。
彼女は俺のコートを掴んで引き寄せると、胸の中で声を漏らしながら泣いていた。
俺は背に手を回して、彼女が泣き止むことを待つしかできない。
かける言葉は見つからなかった。
こんな目に遭わせてしまって、エリは俺を許してくれるのだろうか……。
許してくれなくてもいいと思う。
罵詈雑言を浴びせられてもいいと思う。
死んだ人間はもう許してくれないし、恨んでさえくれない。
そうしてくれるのは、生きている人間だけの持つ特権だ。
エリは生きていた。
彼女の持つ体温はそれを俺に教えてくれる。
たまらなくなって、俺の目尻からも涙がこぼれ落ちた。
キリト「(サチ。今だけでいい。君の大切な人を守るために力を貸してくれ)」
二刀流はないけれど、月夜の黒猫団を背負い、盾を構えるキリト君。
サチはスキル編成はこのまま続けるけれど、タンクにならないと結論を出したので、14話でエリに助言された通り、あの後キリト君がタンクに転向していました。