――2025.05.05――
所沢にある総合病院は俺にとってすっかり馴染みの場所となってしまっていた。
そこはかつてアスナとエリが入院していた場所だったからである。
あの日、ヒースクリフを倒してSAOから解放された俺は、見知らぬ病院のベッドで目を覚ました。その数十分後に訪れた総務省の役人である菊岡誠二郎という男と、SAOでの情報を条件に交渉して、アスナの居場所だけは家族に仲介してもらうことができた。
だが彼女は目覚めておらず、他にも300人の未帰還者がいることを俺は知った。
それから彼らがアルヴヘイム・オンラインに幽閉されているとの情報を、エリのナーヴギアからアクセスしたユイに教えられ、その元凶たる須郷伸之を倒したのは記憶に新しい。
エリと面会できたのはALOでの出来事からしばらくしてからで、アスナの協力がなければそれさえも叶わなかっただろう。
エリは後遺症なのか全身不随となり、一時はどうなるかと思われたが、最新の医療用デヴァイスのおかげでどうにか学校に通えるまでに回復してくれた。
今でも週に2度、検診のための通院をしているとのことだったが、学校で見せるエリの笑顔に俺はようやくSAO事件が終わりを感じ胸を撫で下ろしていた――はずだった。
自宅から40分。片道15キロの道のりを俺はマウンテンバイクで走り抜ける。
トレーニングの成果かこの日はだいぶ早く辿り着いてしまい、アスナとリズの2人と約束した時間まではしばらくあった。
高級ホテルのロビーめいた受付で、俺は馴染みの看護婦さんに面会を求めると、しばらくして通行パスを受け取ることができた。
かつてはこう上手くいかなかったことを考えるに、エリの容体は思っているほど深刻ではないのかもしれない。
SAOクリアを記念して、エギルの店でオフ会を開いたあの日。
風林火山の連中が時間になっても来なかったため、近くで開催されていたオーディナルスケールのイベント会場に俺たちは足を運んだ。
エリは激しい運動ができないため、シリカとユイと一緒に待ってもらったはずだったのだが、どういうわけか彼女はそこから少し離れた場所のベンチで気を失い倒れているのが発見された。
異常に気がついたユイが、エリのオーグマーに搭載されているモニタリング機能を使ったGPSですぐに見つけてくれて、彼女は救急車で近くの病院に搬送されたのが一昨日のことだった。
「桐ヶ谷和人だ。入ってもいいか?」
「どうぞっす」
ノックをすると普段通りの声が返ってくる。
横開きのドアをスライドさせると、ベッドの上で浅葱色のパジャマを着たエリが上半身を起こして手を振っていた。
白い肌に華奢な手足。SAO時代からだいぶ変わった彼女の姿は、黙っていれば窓際の令嬢に見えなくもない。事実、エリはお嬢様なわけだが、俺にとっては悪友という評価がしっくりくる。
「わざわざ悪いっすね」
「いや。それはいいんだけどさ。その……大丈夫なのか?」
「見ての通りピンピンしてるっすよ。お医者さんが言うには貧血かなにかだろうって話なんすけど、倒れる前の記憶がちょっとあやふやで……。検査入院ってだけで、明日には退院できるっすから休み明けからは学校に通えるっす」
力こぶを作るように肘を曲げて見せるが、今にも折れそうな細い腕には脂肪さえほとんどついていない。
「はぁ……。無事でよかったよ」
「心配かけちゃってごめんっすね」
「まったくだ」
恥ずかしそうに頬を掻く仕草を見て、本当に平気なのだということが伝わり、俺は気が抜けてそのまま椅子に座り込んだ。
ふと彼女の姿にどこか違和感を覚える。なにかが足りない。よく見ればそれがなんなのかはすぐにわかった。
首元に、彼女が必要とするはずの物が装着されていないのだ。
「桐ヶ谷君?」
「え、あ! なあ、首につけてたあれ、どうしたんだ?」
「ああ。あれっすか。なんだかもう大丈夫みたいで。怪我の功名っすかね」
「本当か!?」
「嘘ついても仕方ないじゃないっすか」
「そうだけどさ……。でも、よかったな」
「はいっす」
エリが自然と微笑む。かなり嬉しい知らせだった。
いくら歩く事が出来るようになったとはいえ、首から下の感覚をフルダイブ技術のアバターに置換したそれは実際の感覚とはズレがあるだろう。それに普段の生活でもすぐに息を切らしたり、アスナやリズの手を借りている姿は見ていて胸の痛くなるものだった。
それが治ったというのだから祝福しないはずがない。
「これも桐ヶ谷君たちのおかげっすかね」
「俺はなにもしてないけどな」
俺も顔が綻び、それにつられてかエリも笑顔が増した。
エリがこれほど嬉しそうに笑う姿を見るのは、初めてかもしれない。それだけ彼女も不満を抱えていたということなのだろう。
「私よー。入ってもいい?」
「どうぞっすー」
そうこう話しているとドアがノックされ、リズの声が廊下から聞こえて来た。
扉が横にずれて、リズとアスナの姿が現れる。
アスナの手には小さな包み。なにか生菓子が入っているのだろう。
「無事……、みたいね」
「もう。心配したんだからね」
2人も、エリの姿を見て一安心といった様子だった。
「愛されてるっすね、私。ちょっと感動しちゃうっす」
「馬鹿なこと言ってないの」
「はうっ」
リズがエリの額を指で軽く押すと、エリの頭がストンと枕に沈んだ。
安堵と嬉しさのせいか、リズの目は少しだけ赤くなっていた。
「あ、ちょっと!」
リズはベッドに寝そべったエリに捕まり、引きずり込まれていく。
「こら。エリは病人なんだから大人しくしなくちゃ駄目よ」
「はーい」
「あとこれ。お見舞いの品」
アスナがテーブルに広げた包みの中には色鮮やかなケーキが収められていた。
数は4つ。プラスチックフォークとウェットタオルもきちんと揃っていた。
「今回はちゃんとキリト君の分もあるからね」
「え、どういうことよ?」
「あー……。エリ。説明頼む」
「……え? えっと……いつの話だったっすかね」
「ほら。22層の」
「ああ! そうだったっすね。あのときは2人分しか……」
「なに言ってるのよ。私がエリのところに行って、ユイちゃんのことを知らなかったから3人分しか買っていかなかったでしょ?」
「そ、そんなこともあったっすね」
「ええ!? 忘れちゃったの!? 11月の1日! 私と仲直りした日だよ!」
アスナは跳びかかるほどの勢いでエリに顔を近づけて、その顔をまじまじと見つめた。
流石に日付までは記憶していなかったが、俺もあの日のことはよく覚えている。
エリとアスナの関係が劇的に変わったのがその日であったし、俺がエリからもらった直後のワインをしこたま飲まれた日でもあった。
「あ、いや。そんなことないっすよ。忘れるわけないじゃないっすか。ちょっと、ほら、思い違いをしてただけっすよ」
エリは明らかに動揺していた。その仕草さえ、なぜか違和感を覚えるものだった。
だが俺たちはその場で問い詰めるようなことはせず、ひとまずはケーキを食べることにした。
俺はいつものようにタルトを選んだ。
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あの後俺はエリの様子に不自然さを感じ、病院の敷地から出てユイに連絡を取っていた。
オーグマーのAR表示での呼びかけに答えたユイが、虚空から現れる。
普段は元気な姿を見せる彼女の表情は、今日に限ってとても暗いものだった。
それはまるで、ALOから解放されたエリの容体を聞いた後に見せたような表情だ。
「ユイ。なにがあったんだ?」
「………………」
ユイはすぐには答えようとしなかった。
顔を伏せて、今にも泣き出しそうな顔をするばかり。
だからこそ俺は聞かないわけにはいかない。
「エリが、アスナと仲直りをした日のことを忘れてたんだ……。他にも、上手く言えないけどいつもと様子が違う気がした。ユイなら、なにか知ってるんじゃないのか?」
エリは記憶力のいい方だと俺は思っている。
少なくとも、あの日のことを忘れるようなことはないはずだ。
ユイは何度か俺を見て視線を外す仕草を繰り返す。その表情はどこかエリに似ていた。
俺は無言で辛抱強く待つと、しばらくして彼女はようやく口を開いてくれた。
「……お姉ちゃんは、SAOでの記憶が、思いだせないみたいなんです」
「なっ!? あの日のことだけを思いだせないわけじゃないのか?」
小さく頷くユイ。心臓の脈打つ音が耳鳴りのように聞こえてくる。
「昨日の時点ではいくらかの記憶はあったんです。でも、今朝になるとまったくといっていいほど思いだせなくなって……。――わたしと……、一緒に暮らしてたことも、もう、思いだせないんです……」
涙ながらに語る彼女の声は、悲痛に満ちていた。
「一昨日の夜。いったいなにがあったんだ? ユイならログデータが見れるんじゃないのか?」
エリのオーグマーは医療用の特別製だ。常にバイタルデータをモニタリングして、それをオーグマーを中継して脳に出力し、逆に脳から発せられた信号を体へ出力する機能が搭載されている。
また、周囲の地形は視界情報などから3Dオブジェクトとしてデータ処理することで接触時の感覚をアシストする機能もあった。
原理的には事件当時にエリの見たものを、確認することができるはずだ。
「……ありません」
だが彼女は首を横に振る。
「ログデータは、すべて削除されています。わたしは、なにも、知りません……」
「そんな……。ハッキングされたってことなのか?」
「わかりませんっ!」
ユイの涙は止まらず、それどころか勢いを増して溢れていた。
力になれない悔しさが、頬からこぼれて俺にもひしひしと伝わってくる。
「ごめん……。ユイも、辛いよな……」
俺はいつの間にか強く握りしめていた手をゆっくりと開いて、昔サチにそうしたように、彼女の頭を優しく撫でた。
「ごめんなさい……。強く言ってしまって……。でも、どうしたらいいか、わからないんです……。なにがお姉ちゃんのためになるのか……。いくら考えても、良い方法が見つからないんです。なにが正解なんですか!? なにが正しいことなんですか!? ……人間の感情は複雑すぎます。わたしなんかでは、処理しきれません」
ユイは思いの丈をありのまま叫んでいた。
彼女は幼いサチの姿をしているが、その実態は高度な人工知能である。
だがこうして見れば、その内面は人間そのものだ。誰もこの姿をプログラムが最適な行動を取らせているだけだなどと言いはしないだろう。
仮にそう言い出す人間がいれば、そいつにとって人間もまた、プログラム通りに動く存在にしか見えまい。
「俺にもそれはわからないよ……。たぶん、それが人間ってことなんだと思う。それでもなにかしてあげたいって思う心は、きっと間違いじゃないはずだ」
「……キリトさん」
「俺は医者じゃないし、ユイみたいに頭がいいわけでもないけどさ。話を聞くことぐらいならできる。ユイの抱えてるものを、俺にも少し背負わせてくれないか?」
「………………」
真実が知りたいとか、そういうことではない。
ただ、このままにしておくことが正しいとは思えなかった。
かつてエリがサチにしてくれたように。
かつて俺がそうしてきたように。
踏み出さなければ、なにも変わらない……。
「……お姉ちゃんの脳には限定的な記憶スキャニングが行われた形跡があります。おそらくSAO時代の記憶を強く想起させることによって、記憶のキーになっている単一ニューロンを特定して、そこに電子パルスを集中させて強制的にイメージを読み取ったのだと考えられます。都内でも同様の症例が数件報告されているようです。彼らに共通にしているのは……」
「オーディナルスケール、か」
SAO時代の記憶を想起させた原因は、あのボスモンスターだろう。
他のイベントバトルにも参加している俺は、登場するのがかつてSAOで俺が倒したボスモンスターであることを疑問に感じていた。
ALOとのコラボイベントかとも思っていたが……。
「なら原因はオーグマーにあるってことか?」
オーグマーはアミュスフィア同様絶対安全が謳われていた機械のはずだが、俺はテレビでやっている偉そうな人間の言葉よりもユイの言葉の方が信じられた。
「可能性はあります」
「……エリは、大丈夫なのか?」
「脳そのものに基質的な異常はないようです。電子パルスでスパインを縮退させた結果、記憶の再生障害が起こっているのだろうとお医者さんは言っていました。ただ……。症状がこれだけに留まるかはわからないとも……」
「――っ!」
さらに記憶を失うこともあり得る、ということだ。
ぞわりと、PKと戦ったときのような、嫌な汗が額に浮かぶのを俺は感じていた。
「それと……。お姉ちゃんがオーグマーを装着していないのには気がつきましたか?」
「あ、ああ……」
「お姉ちゃんの全身不随は原因が不明でしたが、今回のことを受けて徐々に回復していっています。そのことから、前例はありませんが、心因性のものだったのではないかという話もあるんです」
「つまり記憶が戻ればエリはまたオーグマーに頼らないと生活ができなくなるってことか?」
「まだ推測です……。でも……」
足元が音を立てて崩れていく。そんな気がした。
記憶と身体、どちらかを取れと言われれば俺なら記憶を選ぶ。サチを、月夜の黒猫団の彼らを忘れることなんて許されないことだ。
だがそれはあくまで俺の考えであって、エリの考えではない。
「お姉ちゃんの記憶は、戻らない方がいいのかもしれません」
そしてユイの考えはそちらに天秤が傾いていた。
「辛いことが、たくさんあったんです……」
知っている。彼女は俺とは比にならないくらい多くの仲間を失った。
それだけじゃない。ラフィンコフィンに捕らえられた彼女を見つけたときの光景は、俺の脳裏から薄れることはないだろう。当人であればどれだけの恐怖を感じたか。男である俺には想像さえつかない……。
「お姉ちゃん、夜に突然目を覚ますんです。誰かが近くにいないとそのまま錯乱してしまうから、寝ている間はずっとわたしが側にいるんです。一緒にいることは苦にならないんですけど、苦しそうにしているお姉ちゃんを見ていると、わたしも苦しくなっちゃいます……」
それを俺も1度だけ見たことがあった。
ユイと会ったあの日、エリは錯乱してユイに斬りかかる寸前だった。
あれは……、目にするだけで心をかき乱すような光景だった。
「だから、このままでいた方がきっと……」
だがそれはユイと一緒に過ごしたあの時間を失うということだ。
もう現実に戻ってきてから過ごした時間の方が長くなったとはいえ、彼女たちの姉妹関係がどうやって作られたのか。サチが誰だったのか、思いだせなくなってしまうことになる。
それでも、2人は今までの関係でいられるのだろうか?
「だからキリトさん……。オーディナルスケールの攻略はもう止めてくださいね」
「……でも他にも犠牲者が出るかもしれないんだろ?」
「それは菊岡さんに任せましょう。キリトさんがするべきことじゃないはずです。キリトさんまで記憶がなくなってしまったら……。わたし、寂しいです」
「………………」
オーディナルスケールは今や日本で最も注目を浴びているゲームだ。
オーディナルスケールはランキング制で、上位層のプレイヤーは多くの人間の目に留まる。だから俺はランキングを上げ、月夜の黒猫団の名を少しでも多くの人に知ってもらえれば、なんてことも考えていた。
「オーディナルスケールのことを自分で調べるのも、止めてください。もし、お姉ちゃんの記憶を取り戻せる方法が見つかったら……。キリトさんも苦しい思いをしちゃいますから」
それだけ、ユイはエリの記憶が戻ってほしくないと考えているようだ。
「アスナさんやリズさん。それからシリカさんにも、わたしから伝えておきます」
「いや。それは俺がするよ。ユイにばっかり任せてはいられないしな」
「……ありがとうございます」
ヒースクリフを、オベイロンを、クラディールを倒すだけなら楽だった。
敵がいて、剣があって、それで相手を斬れば解決できたのだから。少なくとも簡単に勝てる戦いではなく、辿りつくまでの間も大変だったが、少なくとも迷うことはなかった。
倒していいのかさえわからない相手は、俺にとって未知の脅威だ。
「今日は話を聞いてくれて、ありがとうございます」
「話を聞くだけになっちゃったけどな」
「それでも、少しだけ気分が楽になりましたから」
「そうか……」
かつて放送されていた、SAOのCMソングが流れる。通話の着信だ。
相手は――エギルからだった。
「悪い。ちょっと出る」
「はい」
俺は一度ユイに断って、テレビ通話を開始した。
ARの仮想モニターにはいつもは不愛想な黒人が表示されるが、この日の彼は額に汗を掻いて険しい表情をしていた。大柄な彼の背後には病院らしき建物が映し出されている。
「キリト、クラインから連絡があった」
「なんだって?」
「どうやらオーディナルスケールのイベント中にトラブルに巻き込まれたみたいでな。大事にはなってなかったんだが見舞いに行ってきたところだ。それでな、落ち着いて聞いてほしい」
そう言うエギルの方が、取り乱しているようだった。
「あいつら、どうやらSAOでの記憶がなくなっちまってるらしい」
SAOで茅場を倒し、ALOで須郷を倒したというのに……。
オーディナルスケールに潜む新たな怪物の影が、すぐそこまで迫ってきているような気配を俺は感じていた。