レベルが高くても勝てるわけじゃない   作:バッドフラッグ

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マザーズ・ロザリオ編
61話 夕暮れの少女(1)


――2025.08.26――

 

 

 オーディナルスケールでSAOのラスボスを倒してもエリの記憶は戻らなかった。

 彼女の記憶を取り戻すカギはユイちゃんからもたらされた『死の恐怖』を乗り越えるという曖昧なものだけ。

 それに縋るように私たちはアップデートで順次解放されていく、新生ALOの空に浮かぶアインクラッド城のフロアボス攻略にエリを連れて挑み続けた。

 

 効果は……一応あった。

 彼女が以前SAOで倒したフロアボスを撃破したときには、断片的な記憶を思い出すことがあった。とはいえそれは一時的に過ぎず、しばらくすれば元の状態に戻ってしまう。

 いいや。元の状態というには語弊がある。むしろ……。症状は徐々に悪化していた。

 初めはSAOに囚われていた頃の記憶だけが欠けていたのだが、最近ではSAOに関連する記憶全般が失われてしまっている。2週間前に皆で倒したばかりの、新生アインクラッド第20層ボスのことをエリはすでに憶えていなかった。

 

 このまま攻略を続けて、エリの記憶が本当に戻るのか……。

 そんな不安がパーティーに広がりつつあった。

 すでに現在解放されている20層までの攻略を終え、次のアップデートを待つだけの期間となっているのも間が悪い。

 そこに重なった夏季休暇で、ALOにログインする機会が減ったことが止めを刺したのだろう。

 懸念は最悪の形となって彼女に降り注いだ。

 

「うそ……」

 

 ユイちゃんから送られたメールに私は目を白黒させた。

 そこにはエリの容体が悪化したことが綴られていたからだ。

 急ぎユイちゃんと通話で状況を確認すると、私はエリの記憶を取り戻すのに協力してくれているパーティーメンバーに連絡を送った。

 夏季休暇中とはいえメンバーの多くは社会人。全員がすぐに集まれるわけではない。かくいう私も夏期講習があったが、急遽休みの連絡を入れてALOでの会合に向かった。

 

 集合場所は11層にあるキリト君のプレイヤーハウス。

 個人用の住宅にしては大きく、値も張るそこは、SAO時代に彼へ残された月夜の黒猫団のギルドハウスであった。

 前回のアップデート以降は作戦会議で頻繁に訪れるようになった黒猫の看板のかかったウッドハウスの扉と叩くと、家主のキリト君が出迎えてくれる。

 彼の表情は暗く、奥からはユイちゃんの泣き声が響いていた……。

 リビングにはすでに今来れるほとんどのメンバーが集まっていた。

 リズやシリカちゃん、エギルさんと、それにスリーピング・ナイツのユウキたちだ。リーファちゃんはすでに部活に出ていないようだ。

 ここにクラインさんやシンカーさん、サクヤさんやアリシャさん、ユージーンさんなどの領主たちを加えれば私たちの攻略パーティーの主軸はフルメンバーとなる。

 

「アスナさん……。お姉ちゃんが……、お姉ちゃんがっ……!」

 

 ユイちゃんは私に気がつき顔を上げた。

 SAOに負けず劣らずALOも感情表現がオーバーであるが、それにしても酷い表情だった。

 愛くるしい彼女の顔は涙で泣き腫らしており、堪えきれない感情が嗚咽となってこぼれ出している……。

 見るに堪えず、かといって目を背けるわけにもいかない。

 この場にいる全員が彼女の悲痛な感情に、口を閉ざさずにはいられなかった。

 

「うん……。ゆっくりでいいから、なにがあったか皆に説明できる?」

「はい……」

 

 ユイちゃんはぽつりぽつりと、なにがあったかを話し始めた。

 

「今朝、お姉ちゃんが目を覚ましたら様子が変だったんです……。わたしを見るなり不思議そうな表情をして……。声をかけたらとても丁寧な口調を返されました……。普段とはまるで別人のような距離感のある口調で。それから寝ぼけているみたいですから顔を洗ってきますと言って、でも意識がはっきりした後も様子は改善されませんでした。その後お姉ちゃんはっ……!」

 

 再び泣き出してしまったユイちゃんの背を、隣に座っていたリズが優しく擦る。

 

「……すみませんが、どなたでしょうか? ってわたしに言ったんです」

 

 ぞっとする話だった。

 大切な人がある日、自分のことをすべて忘れていまったら……。

 ユイちゃんにとってエリはずっと一緒にいた存在だ。私からすればお母さんだとか、そういった長い時間を一緒にいた人に例えられる。

 朝起きて、お母さんに「貴女、誰?」なんて言われた日には――正気でいられるとは思えない。

 

「お姉ちゃんの記憶がなくなっているのは明白でした……。だからどこまで憶えていないのか確認するため質問をしたところ、どうやら今年に入ってからの記憶はなにもないようです」

「そんな! じゃあボクたちのことも!?」

「はい……。ユウキさんたちのことも。それどころかここにいる皆さんのことは誰一人として憶えていません」

「………………」

 

 金槌で頭を殴られたような衝撃を錯覚した。

 SAOでの思い出を無くしたと聞いたときも相当動揺したが、帰還者学校やリハビリ生活での記憶があったためまだ私たちの関係は良好であったのだ。

 それすら失われたとすれば? どうなるのだろう……。

 かつてのように私を避けるようになってしまうのだろうか。それは……とても辛い。

 

「わ、私のことは?」

 

 予想に反してユイちゃんは首を横に振った。

 

「憶えていません。おそらくですが、記憶は中学生の頃のものもいくつか失われています」

 

 それを聞いて私がほっとすることはなかった。

 どの道苦しいだけだ。あの日、友達になれたエリとの思い出が失われていることに変わりはないのだから……。

 

「お姉ちゃんには現状を把握してもらうために簡単な説明をしました。もちろん、わたしのことも……」

 

 ユイちゃんの話はそれで終わりではなかった。

 

「――そしたらお姉ちゃん、どんな表情をしたと思います?」

 

 ユイちゃんは涙を流しながら笑っていた。

 眩暈のするような笑顔だった。

 彼女が言葉を区切ったせいで場が静まり返ったが、それは別の意味を持って凍り付いたかのような怖気を放っていた。

 こんな表情ができるものなのか。ALOというシステムが、ユイちゃんという女の子が、これをしたのかと考えるとより怖ろしく感じてしまう。

 

「……まるで物を見るみたいに、わたしのことを見たんです。そうです! わたしは人間じゃない! ただのAIです! そんなことは理解しています! でも! でもっ! お姉ちゃんにそんなふうに見られるなんて、耐えられないんです! どうして!? わたしはお姉ちゃんの妹です! そうじゃなければわたしはなんなんですか!?」

 

 甲高い慟哭をあげ、ユイちゃんは頭を抱えて長い黒髪を掻き毟った。

 

「あの人はわたしのお姉ちゃんじゃない! お姉ちゃんはどこ? お姉ちゃんを返してください! 全部わたしが悪かったんです! 謝ります! だからお姉ちゃんを! お姉ちゃんを元に戻してくださいよぉ! ああ……! うあああああああああああ……!!」

 

 空気が震えた。

 大切な人と引き裂かれた彼女の悲鳴は、聞く者の心さえ引き裂かんばかりの鋭利な刃となった。

 一瞬頭の中が真っ白になる。

 それほどまでに彼女の叫びは痛ましかったのだ。

 あまりの苦しさに、私の目尻からも大粒の涙が溢れ出していた。

 呼吸すら忘れて彼女の叫びに呑まれていた。

 全身が麻痺の状態異常を受けたようにピクリとも動かない。

 

 そんな中で唯一動けたのは――リズだった。

 

 リズはユイちゃんを抱きしめていた。

 彼女の腕から逃れようともがく理由はきっと本人でもわかっていない。

 それでも暴れるユイちゃんをリズは懸命に抑え込んでいた。

 

「あんたは悪くないわ。大丈夫よ。エリはきっと思い出してくれる。あんたが信じてあげなくて、誰が信じるのよ」

「でも……!」

「辛いなら泣いてもいいわ。けどあんたが悲しいと、同じくらい悲しいって思うやつがここには大勢いるのよ。だからもう少し皆を頼りなさいな」

「りずさああああああああん!」

「はいはい……。手間のかかる姉妹ね、まったく」

 

 悪態を吐きつつも、リズは穏やかな笑みを浮かべていた。

 ユイちゃんは依然としてリズの胸に顔を埋めたまま泣いているが、先程までの今にも壊れてしまいそうな危うさはなく、母親に甘えるような子供らしさが戻っていた。

 全員がきっと安堵に胸を撫で下ろしたことだろう。

 

 しばらくするとユイちゃんをあやしていたリズが「なにか言いなさいよ」とばかりに私へアイコンタクトを送ってくる。

 このまま有耶無耶に解散とはいかない、か。

 つまり便宜上リーダーを任されている私が締めなければならない場面であった。

 

「皆さん。今回のことは大変残念な結果です。しかしこれで望みが断たれたわけではありません。私たちの最大の目標は25層の攻略。この階層はエリの所属していたギルドが大きな打撃を受けた地点であり、その作戦には彼女も参加していました。このフロアボスを攻略できれば彼女の記憶が戻る可能性は大変高いと考えています。クラインさんの件もあり分の悪い賭けではないはずです。どうか、最後まで協力をお願いします」

 

 クラインさんはSAOのラスボス戦に参加したときにはすでに記憶が戻っていた。

 それに彼とエリでは使っていたオーグマーの出力も大きく異なる。

 そういった細々とした差異を度外視して、私は士気高揚のためにもそう言わざるを得なかった。

 ……だからといって信じていないわけではないのだ。

 きっとエリは思い出してくれる。

 ユイちゃんだけでなく私もそう信じなければ、友達甲斐がなくなってしまうから。

 

 

▽▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 ユイちゃんはあの後眠ってしまい、今はリズが付き添って寝室で横になっている。

 キリト君辺りに詳しく聞けば、蓄積したエラーが――などと説明をしてくれるだろうけど、私には泣き疲れた子供のようにしか思えなかった。

 彼女は自分が人間でないことにコンプレックスを感じているが、そうと知らずに相対すれば誰も彼女が人間でないことには気がつけないだろう。

 不気味の谷はとっくに越えている。

 彼女の見せる感情が本物でないのだとしたら、この世界に本物と呼べるものはないとさえ感じていた。……それが悲しみに暮れた感情でなければどれほど良かったことか。そう思わずにはいられない。

 

「……アスナ。ちょっといい?」

 

 これからフィールドに出掛ける気分にもなれず手持ち無沙汰にしていたところ、私はユウキに声をかけられた。

 

「いいけど。どこか行くの?」

「あー。うん……。話しがあるんだ」

 

 気分転換に行こうという雰囲気でないのはすぐにわかった。

 理由をここでは話したくないのだろうと察した私は、ユウキの後に続いて外周区の縁まで飛ぶことになった。

 普段は彼女と一緒にいるスリーピングナイツの皆は着いて来ていない。

 道中、ユウキは終始浮かない横顔をしていた。

 

「あ。ユウキたちってユイちゃんの事情知ってたっけ?」

「もちろん。エリから聞いてるよ」

 

 それは一安心だ。

 彼女のことはエギルさん経由でALOの新規運営チームに許可をもらっているものの、表沙汰になると快く思わないプレイヤーも出るだろう。

 言いふらすような真似をする人たちではないだろうが、先程の場に領主たちがいなかったのは不幸中の幸いだった。

 

「話しっていうのはユイのことじゃなくて……。いや、ユイのこともかな……?」

 

 歯切れが悪く、誤魔化したいという気持ちを堪えるようにユウキは喋った。

 それからばつが悪そうに頬を掻き、苦笑いをしてみせる。

 

「アスナにお願いがあるんだ」

 

 けれどもユウキの瞳はどこまでも真っ直ぐに私を見ていた。

 

「もう少しでスリーピング・ナイツは解散すると思う」

「……え? ええ!?」

 

 思わず声を張り上げて驚いてしまう。

 私の声量はSAOで鍛え上げられたちょっとした特技だ。それを存分に発揮してしまい、アルブヘイムの大地を見下ろす空にとても響いてしまった……。ここが人気のない外縁部でなければ赤面ものだ。

 ギルドの解散は珍しいことではないが、彼らがそうなるとは夢にも思っていなかった。

 

「どうして!? 皆あんなに仲が良かったじゃない!」

「喧嘩したとか、そういうことじゃないんだよ。これはずっと前から決めてた事でさ……。もし解散しなくてもボクは……もうじきここには来れなくなるんだ」

 

 リアルの事情でゲームから離れるというのも珍しくない話だ。

 そういった友人は今のところ私にはいなかったが、キリト君やエリがMMO時代の話を聞かせてくれて、知識としては知っていた。

 リアルのことについて聞くのはSAOに限らず、どのゲームでもタブーだ。

 けれどユウキはそれを聞いてほしくて呼んだのだと思い、私は一歩を踏み出すことにした。

 

「……それはどうして?」

「うーん……。えっとね……。あー……。あはははは……。どう説明するか考えてきたつもりでも、いざ言うとなると緊張しちゃうね」

 

 ユウキは一度深呼吸をして自分を落ち着かせる。

 

「ボクのことはエリからなんて聞いてた?」

「通うはずだったフルダイブ環境の通信制学校の友達だって。あとはオーグマーのことを調べてくれた恩人だとか、とっても強くて可愛いってこととかかな」

「知らないところで褒められてるとなんだか照れくさいね」

 

 彼女は照れ隠しに視線を逸らすと、空の彼方を見つめた。

 細められた瞳は蒼空の先にある、遠い日の出来事を眺めているかのようだ。そうしなければ見えないほどにエリが遠くへ行ってしまったかのような不安と寂しさが漂っていた。

 吹きつける風を頬に感じながら、私もユウキと同じ方向へと目を向ける。

 エリと最初に会ったのは中学校でのことだが、思い返すのはSAOでのことばかり。

 初めは反りが合わず顔を合わせるたびに嫌味を言われたり、邪魔をされたり……。私もそれに反発するように酷いことを言ってしまった。

 攻略組ということもあってエリの他にもそうした嫌がらせをしてくる人はいたが、彼らにいちいち構うようなことはなかったはずだ。

 友達になれたのはSAOがクリアされる直前であったけれど、今思えば会ったその日から無意識に近い距離を感じていたのかもしれない。

 リズやキリト君は大事な友達で、比べるものではないけれど……。

 エリは私の感じてきた辛さを一番理解してくれる人だった。

 

「ボクね――」

 

 ユウキの声にハッと意識が現在に呼び戻される。

 

「――もうすぐ死んじゃうんだ」

 

 驚いてユウキを見ると彼女は困ったように笑っていた。

 ユウキも視線を戻し、私たちは向かい合う形になる。

 

「この前の検査の結果が悪くてさ。たぶん年は越せないだろうって、お医者さんが」

「………………」

 

 なんて……声をかければいいのか……。

 突然のことでなにも思いつくことはなかった。

 

「スリーピング・ナイツはそういう人たちの集まりで、次に誰かが欠けたら解散することはもう皆で決めてたんだ。エリの記憶が戻っても戻らなくても、次のアップデートで解放される30層までしかボクは一緒に行けない。……他の皆がギルドを解散した後どうするかは、わからないけどね」

 

 どうして彼女がそんな目に遭わなければならないのか。

 どこに矛先を向ければいいのかわからず、私はただただ悲しさに襲われた。

 かつてSAOで攻略の鬼と恐れられていた仮面はとうに剥がれていて、当然のように涙が溢れてしまう。

 

「ボクのために泣いてくれて、ありがとう……」

「あたりまえよ! だって、ユウキは大事な仲間で……友達だもの!」

「嬉しいな……。エリと出会ってから、こうして沢山友達が増えたから。エリにはお礼を言わないとだね」

 

 ユウキはSAOサバイバーではないし、死線を一緒の潜り抜けた仲ではないけれど。この半年間で多くの場所を共に冒険したし、エリの記憶を取り戻すために必死で手を取り合った。

 この絆はSAOで培ったものに負けずとも劣らないものだ。

 

「……アスナ。ボクがいなくなった後、エリやユイのこと、お願いできる?」

「もちろんよ!」

 

 言われなくてもそのつもりだ。

 けどエリを残していくのを不安に思う気持ちもわかる。

 エリはトラブルに巻き込まれやすいのだ。SAOでもそうだったし、ALOでも、OS(オーディナルスケール)でもそうなってしまった。

 

「けど、その前に記憶を取り戻して見せるわ!」

「そうだね。最期に元のエリに会いたいし。エリを送り出すのはスリーピング・ナイツ最後の大仕事なんだ。だから絶対に25層の攻略を成功させようね」

「うん……!」

 

 決意を新たにした私の顔は、涙で見れたものじゃないかもしれないけど。

 それを恥ずかしいとはまったく思わなかった。




 マザーズ・ロザリオ編。
 お待たせしてしまい申し訳ありません。
 原作でも特に面白い部分であったりと、中々手強く、時間がかかってしまいました……。
 アインクラッドの階層アップデートは原作とズレがありますがご了承ください。

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