トリステイン魔法学院の図書館。
周囲を取り囲む本棚を見上げながら、御琴は途方に暮れていた。
「……どうしよう……」
ぎっしりと本が詰め込まれた高さ十尺もあろうかという棚が周囲の壁を埋め尽くしている光景は、見ているだけでも目眩がしそうだった。
音鬼丸と御琴がルイズの使い魔となって、はや数日。
ギーシュとの一件以外は生活は平穏そのもので、さしたる問題はなかった。
とはいえ、のんびりしてばかりもいられない。
二人の目的は元の世界へ帰ることであり、そのためにできることをしていかなくてはならないのだ。
まだ手がかりも何もないので、ひとまず聞き込みなり、書物による情報収集なりからとりかかっていくしかない。
相談の結果、聞き込みは主に音鬼丸が、文献調査は主に御琴が担当することとなった。
邪神の傀儡とされていた間にあれこれの知識を叩き込まれて、書物や呪術の類に造詣の深い御琴の方が、あまりたくさんの本を読み込むような作業をしたことのない兄よりも文献調査には適任だと思われたからだ。
一方で音鬼丸のほうは、お使いで方々歩き回ったり、旅先で情報収集をしたりするのには妹よりも慣れている。
学院内で話を聞けそうな人には概ね聞いてしまったので、音鬼丸は今後使い魔としての仕事の合間を見てトリスタニアへ出かけ、聞き込みをすることになるだろう。
御琴はその間、学院の図書館で文献調査をする役目である。
しかし、いざ実際に取りかかろうと図書館へ足を運んでみると、あまりにも書物の数が多かった。
この『としょかん』という建物ひとつに収まっている書物の量は、彼女が今までにそれ以外の場所で見たすべての書物を合わせた量を圧倒的に上回っている。
ルイズにも言われた通り、これではある程度字が読めるというくらいでは、到底一人で調査することなどできそうにない。
彼女になるべく迷惑をかけたくなかったので、まずは自分だけでやれないものかと思って一人で来てみたのだが、考えが甘かったようだ。
とはいえ、何もしないうちからすごすごと引き返すわけにもいかない。
とにかく、手近なものから一冊でも読んでみようと、手を伸ばしかけたあたりで。
「…………」
少し離れた席からただじいっとそんな自分の様子を窺っている、青髪の少女の存在に気が付いた。
御琴がそちらの方を向くと、少女は黙って読んでいた本を閉じ、立ち上がる。
「何を探してる?」
・
・
・
「……そういうわけで。わたしたちの住んでいた場所へ、帰る方法を探しているんです」
御琴がひととおりの事情を説明し終えると、タバサはそれになんの講評を加えるでもなく、ただ一言ぽつりと呟いた。
「地名は?」
御琴はその問いに、困ったような顔をする。
「……異次元の、隠れ里です」
それではおそらく通じないだろうということはわかっているのだが、そうとしか言いようがなかった。
故郷である異次元の小世界にも、妖怪たちの隠れ里にも、それ以上の正式な名称などはないのだから。
「イジゲン、カクレザト……」
タバサはオウム返しにそう呟いて少し考え込む様子を見せたが、じきに小さく首を横に振った。
「聞いたことがない」
「そうだと思います。たぶん、とても離れた場所なので」
「……」
彼女やその兄の見慣れぬ装いからして、ロバ・アル・カリイエのあたりにある国なのだろうか。
だとすれば、かの国にはハルケギニアの国々にはない技術があると聞くが……。
「何かわかったら、知らせる」
「え……いいんですか? ありがとうございます!」
タバサは首を横に振ってから、じっと御琴の顔を見つめた。
「いい。代わりに、わたしもいくつか、あなたに聞きたいことがある」
「なんですか?」
「まず、あなたのお兄さんのこと」
そう言われて、御琴は目をしばたたかせた。
「お兄さまのこと……、ですか?」
「そう」
タバサは頷くと、前々から知りたかった疑問を口にした。
ギーシュと戦った時の彼の身のこなしは並大抵のものではなかったが、一体どこで誰に教わったものなのか、と。
そう尋ねられた御琴の方はというと、困ったように小さく首を傾げた。
双子の兄妹とはいえ、彼女が実際に兄と共に過ごした時間はごく短いのである。
生まれていくらも経たぬうちに親元からさらわれて引き離され、十五歳になってから再会した。
だから、音鬼丸がどのような修行をしていたかなど、確かな事実としてはほぼ何も見てはいないのだが……。
「兄が戦い方について誰かから教わったとしたら、たぶん父だと思いますが……。でも、兄の剣は概ね我流で、特に誰かから学んだものではないと聞いています。いくつかの剣術については、旅の途中に立ち寄った町々で道場を営む師範の方々から教わったそうですけど」
「町々……」
では、あなたの故郷には彼のような達人が大勢いるのかという問いに、御琴は曖昧に頷いた。
「ええ。でも、兄ほどの使い手は、そんなに多くはないと思いますけど。兄に直接頼まれれば、もっと詳しく教えてくれると思いますよ?」
兄の音鬼丸は、あの未来から来た琥金丸という少年に修行をつけて、ごく短期間のうちに彼の力を引き出したりもしていたのだから。
当の琥金丸自身に類希なる才能があったにせよ、教えるのが嫌いとか下手とかいうことはないだろう。
ついでに言えば、その時には課題としてどこぞの森の中に彼に突破させるための何通りにも分かれたコースを用意したり、その森の主である妖怪を引っ張り出してきて戦わせたりと、どこにそんな伝手や用意する時間があったのかと妹の御琴もびっくりするくらい丁寧にあれこれと準備を調えて指導にあたっていたようだった。
さらには、その際に琥金丸の持っていた一見何の変哲もない竹光に真の力が眠っていることを見抜き、風の属性を付与した上で風神の剣として生まれ変わらせるという謎の技能も披露している。
人にあれこれ教えることが好きでなかったなら、そんなにいろいろ世話を焼くはずもあるまい。
「あなたのお兄さんに教えてもらえば、わたしにも『ケンジュツ』が使えるようになる?」
「……え? 剣術を……ですか?」
御琴はいささか困惑した様子で、じろじろとタバサの姿を見つめた。
体の細さと言い、どう見ても剣の使い方などを普段から学んでいそうな様子ではない。
「ええと……。たばささんは、剣の使い方を勉強したことは?」
「本で、さわりだけ」
御琴は小さく頷くと、申し訳なさそうにおずおずと申し出た。
「その、失礼ですけど……。たばささんには、剣術は向いてないと思います。だから、覚えられないかも……」
たとえば自分も、身体能力はそれなりに高いものの、剣術は習得していない。
向き不向きと言うものがあるのだ。
タバサはそれを聞いて一瞬顔をしかめたが、最初からある程度予想はしていたのか、それ以上深く問い詰めることもせず頷いた。
「わかった。じゃあ、次」
そう言って、次の質問を切り出す。
あなたには恒久的な心の病や、それをもたらす毒に侵された人を救う術に、心当たりはあるか、と。
尋ねた彼女の声は、心なしか、少し震えているようだった。
御琴は、申し訳なさそうに首を横に振る。
「残念ですが、わたしには医学の心得はないので。治療に使える薬や術でしたらいくらかは持ち合わせていますけど、重い病や毒に効くかどうかはわかりません……」
「……そう」
手持ちの、ごく普通の道具屋で売っているありふれた丸薬などが、長期間続く心の病なり毒なりに効果があるかどうかは疑わしいだろう。
それらはあくまでも戦闘時のごく短期的な状態異常を治癒するための薬なのだ。
神性(千手観音)に触れる法術である『千手の癒し』ならば、あるいは効果があるかもしれないが、確証はなかった。
「……ですが。効く薬を作れそうな人物になら、心当たりがあります:
御琴がそう言うと、タバサはほっとした様子で顔を上げる。
「わたしたちの故郷には、『ぼうぼうせんにん』という、心の病によく効く薬を作る方が住んでおられます。失くした記憶も、たちどころに戻るそうですわ」
兄から聞いたところによると、望忘仙人の作る『解憶丹』を飲めば、恒久的に記憶を失った者であってもたちどころに正常な状態に戻るらしい。
心の問題であれば、大抵のことならきっとどうにかしてくれることだろう。
「故郷に帰ることができたら、わたしから仙人さまに、薬を作ってくださるようにお願いしてみましょうか?」
「……お願いする」
タバサは、そう言って深々と頭を下げた。
それから、小さな声でぽつりと呟く。
「一個借り」
その日から、タバサと御琴には、友人が一人増えた。