その日の放課後、授業が終わると中野五月は一人、図書室に向かった。いつも利用している席に座り、ノートを広げ、早速今日教わった授業の内容を復習する。一つ一つ丁寧に、わからない箇所は調べつつ、それでもわからなければ、後で『彼』に教えてもらう為に付箋を貼って、少しずつ自分のペースで進んでいく。
(今日は静かですね……一花は仕事で、二乃はケーキ屋のバイト。三玖は日直で、四葉はバスケ部の助っ人………ということは……今日は彼と二人きり……ッッ!?)
内心で考えたことに驚き、思わずブンブンと首を振る五月。突然の五月の奇怪な行動に、周囲にいた生徒がギョッとした様子で目を向ける。そんな周囲の視線を感じたのか、五月は恥ずかしそうに身を縮こませた。
(わ、私ったら何て事を考えて……べ、別に他意はないです……そう、二人きりで勉強するという意味で……だってあの人は、彼は教師で、私は生徒なんですから。そんなことあるはずないです。あっていいはずが……)
脳裏に思い浮かべるのは、自分たち五つ子姉妹の家庭教師をしている男性のこと。自分たちと同じ年齢で、自分と同じクラスの同級生である──上杉風太郎という男の子のこと。
○
彼と初めて出会ったのは、半年以上前、転校初日のこと。午前中に校舎を一通り見て回り、お昼にしようと学食を利用した。その時偶然にも同じ席に鉢合わせたことが始まりだった。
「あ、あの!私の方が先でした、隣の席が空いているので移ってください」
普段の自分であれば、もっと穏やかな口調であっただろう。見知らぬ他人にいきなり喧嘩越しに、一方的に捲し立てるなどとても自分とは思えない。今思えば、人生でやり直したいことの一つだ。
だがこの時は普通ではなかった。午前中、校舎を見て回ったせいで足が限界であったのに加え、おまけに、あくまでおまけとしてお腹が空いていた。だから普段よりも気が立っていた。故に仕方がなかった、不可抗力だったのだ。
もしもこの場に五つ子の四女がいれば、「五月、それじゃあ、飢えたライオンさんだよ……」と言い放っただろうが、生憎この場には五月しかいなかった。
見知らぬ少女から発せられた突然の言葉に、目を丸くしていた男子生徒だったが、すぐに状況を理解したのか、苦笑を浮かべながら五月に向けて口を開く。
「ああ、悪かったな。席、どうぞ」
「え!あ、あの……あ、ありがとうございます」
そう言ってイスを引き、五月に座るように促す。思わぬ男の行動に驚く五月であったが、足が限界であることを思い出し、お礼を言って大人しく席に腰かけた。それを見て男は隣の席に移り、腰をおろしながら五月をチラリと見やる。
「あんた見ない顔だな、転校生か?」
「え……あ、はい。今日から転校してくることになりました中野五月と言います」
「ご丁寧にどうも。俺は上杉風太郎、宜しくな」
軽く頭を下げる男の子、上杉風太郎。それに対し、こちらこそと言いつつ五月も軽く頭を下げる。風太郎はそれに頷きながら続ける。
「あんたのその制服って……黒薔薇女子のやつだろ?」
「え、ええ、そうですけど……詳しいですね……」
まさかそんな趣味が……と思わずジト目で彼を見やる五月。それに対し、風太郎は違う違うと手を振り否定する。
「いやいや他意はない。妹がいるんだが、そこの制服が可愛いって言ってたことがあってな。その時制服の写真を見せられたことがあるから覚えてたんだよ」
「あ、そうなんですか……」
なるほど、と安心したように呟く五月に、風太郎は「誤解が解けたようでなにより」と笑う。
「まあ残念ながら、妹が着ることはないだろうがな」
「えっ……どうしてですか?」
「そんなの決まってるだろ、お金がないからさ」
「あ……」
「お嬢様が通う金持ち学校なんて、とてもじゃないが通わせてやる余裕、家にはないからな」
と、少し悲しげな顔を浮かべながら、昼食を食べ始める。今気づいたが、彼が食べている昼食はとても質素なものであった。
白いご飯にお味噌汁そしてお新香。
食べ盛りの男の子が食べる昼食にしては余りに少なく、味気ないものだ。
それに比べて、と五月は自分の昼食を見る。
(うどんに、トッピングで海老天二個に加え、いか天、かしわ天、さつまいも天に、おまけでデザートのプリン……ううっ……何だか自分が情けなくなってきました)
もしかしたら、自分は食べ過ぎなのかもしれないと思う五月。目の前に穴があったら、入りたいくらい恥ずかしい。
「あ、あの……よかったら私の分少し」
「けどまあ、貧乏だけど必死に生きてれば良いこともあるもんだな」
「え?それはどういうことですか?」
彼が言っている意味が分からず、キョトンとした顔になる五月。風太郎はそんな五月を見やり、片手で頬杖をつき、少し口の端をつり上げる。
「そんなの決まってるだろう?」
「?」
「アンタみたいな可愛い子と知り合えたってことだよ」
「ッッッ!!??な、何を言って!!??」
風太郎の言葉にこれ以上ないほど動揺する五月。中学から女子校に通っていたせいで、同い年の同じ年齢の男の子と話したことなんて小学生の時以来であったし、男の子に可愛いなんて言われたのは生まれて初めてであった。顔どころか耳まで真っ赤になっている。
「か、からかわないでください!」
「いや、本音だったんだが……まあいいか、じゃあな」
そう言って風太郎は席を立った、いつの間にか食事を終えていたらしい。気がつけば知らぬ間に昼休みも半分が過ぎていた。五月は慌てて昼食を食べ始める。転校初日から遅刻するなんて許されない。
「あ、そうだ」
「は、はい?まだ何か」
去ったと思った彼が立ち止まり、こちらを向いていた。風太郎は五月の目を見ながら、穏やかに微笑み、口を開く。
「同じクラス、なれたらいいな」
今度こそ去っていく風太郎。その後ろ姿を見送りながら、無意識のうちにスカートの裾を握りしめ、自分も同じことを思った。
彼と同じクラスになれたらいいな、と。
その小さな願いが叶ったのは午後のこと。同じクラスにいたのは先程会った男の子。正直言って驚いた、まさか本当に同じクラスになるなんて。少しの喜びが五月の胸を満たす。
さらにもっと驚くことになるのは翌日のこと。授業が終わり、今日から来る予定の家庭教師をむかえる為、家に帰ろうと席を立ったのも束の間、彼に声をかけられる。すると彼の口から出てきたのは驚きの言葉。なんと彼が自分達の家庭教師であるという。
昨日偶然会った優しい男の子が、偶然同じクラスで、偶然自分(達)の家庭教師……!
真面目で融通が利かないように見えるが、五月とて年頃の女の子、ドラマチックなシチュエーションに憧れていないといえば嘘になる。五月の胸はこれ以上ないほどに高鳴った。
もしかしたらこれは運命なのかもしれない、そう思うほどであった。
もしもこの時の五月の内心を当時の五つ子の長女が知ったならば「五月ちゃん……チョロすぎない?」と嘆いたことだろうが、生憎五月の内心を知るものはいなかった。そして後のことをいえば、長女はもっとチョロかった。
それはさておき、家庭教師初日となる放課後、高鳴る胸を押さえ、彼と一緒にマンションへと向かう。家に着くとまずは五つ子である姉達とのご対面。
同級生である彼が家庭教師であると知り安心する四葉と興味のなさそうな三玖に、いつもどおり眠そうにしている一花、人付き合いの上手な二乃がやたら不機嫌そうにしていたことは少し気にはなったが、彼が家庭教師である事に反対する者はいない。五月自身もこれから彼との家庭教師生活が始まるのだと思うと、苦手の勉強も少し楽しみになる気がした。
だが、家庭教師を受けるようになり、彼の家庭事情を知った。家計に余裕がないとの言葉どおり、いやそれ以上に彼の家は貧しかった。数年前まで自分達も同じ境遇だったのだ、その辛さは痛いほどわかった。
その夜、五月はベッドに寝転がりながら自己嫌悪に陥る。彼は家の為に真面目に必死に、自分達に勉強を教えようとしているのに、自分はなんて不純なことを考えていたのだろうか。そんな気持ちで彼に教えをこうなんて生徒失格である。
(そう、私は生徒、彼は教師。私達が頑張って成績を上げれば、それだけ彼の評価も上がりますし、それが一番彼の為にもなります)
そう決意し、真摯に勉強に取り組んだ。そのおかげで、一学期の期末試験では見事赤点回避、二学期の中間試験試験では平均点近くを取るなど順調に成績は上がっている。義父の彼に対する評価も上がったことであろう。
一方でその間、勉強以外でも彼と同じ時間を過ごしてきた。その度に彼の良いところも悪いところも見てきた。同じ時間を共有してきた彼と私達、彼は教師で私は生徒その関係性に変わりはない、あってはならない。
しかしながら、あの時抱いたあの想い、あの時の胸の高鳴りは──半年たった今もまだ、心の奥底で静かに燻っている。
○
「彼と出会ってから、もう半年になるのですね……」
五月は窓の外を見ながら、感慨深そうに呟く。そんなふうに過去の出来事を思い出していると、図書室の入り口がそっと開き、一人の男子生徒が入ってくるのがわかった。
彼は入り口で立ちどまり、周囲を見渡す。すると、その視線が五月を捉えたのと同時に少し安心したように微笑んだのがわかった。それを見た五月の胸がドクンと脈打つ。
「う、上杉くん」
「悪い、五月。遅れた」
やって来たのは同級生の男の子、自分達の家庭教師である上杉風太郎。先程まで彼のことを考えていたせいか、何やら後ろめたさを感じてしまう。そんな感情を悟られぬよう、五月は矢継ぎ早に喋りはじめる。
「遅かったですね、もう始めてますよ。今日の授業で分からないところ、教えてくれる約束でしたよね」
「ああ、そのことなんだがな……」
「?どうしたんですか?」
ばつの悪そうな表情を浮かべる風太郎を見て、首をかしげる五月。
「さっきバイト先の店長から連絡があってな、今日シフトの人が急遽体調不良で店これなくなったんだと」
「え」
「そんで、代わりに入れる人が誰かいないか探してたらしいんだが、誰もいないんだとよ……俺以外」
「……それは仕方ないですよ。むしろ行くべきです」
「ああ、そうだな。俺が行かないと二乃一人になっちまうからな、さすがにそれはあいつが可哀想だ」
「……ええ、そうですね」
「約束してたのに悪いな」
「……いえ、仕方ありませんよ」
謝る彼に対し、何でもないように振る舞う五月。だが心の中では、別の感情が渦巻いていた。
(仕方ない……ですよね。彼が行かないと皆が、二乃が困ってしまうんですから……仕方ないんです………………でも……でも、私のほうが先に……っぅぅ!!)
思わずスカートの裾を握りしめる五月。そんなどこか落胆した様子の五月がわかったのか、風太郎が声をかける。
「その代わり、お詫びと言っちゃなんだがな、ほれ」
そう言って、ポケットから風太郎は紙のようなものを取り出し、五月に見せる。
「何ですかこれ……って、ランチ無料券じゃないですか! しかも、あの有名ホテルのレストランの!?」
「ああ、今週の土曜日限定だがな。
「え、わ、私とですか!?」
風太郎の言葉に信じられない表情を浮かべる五月。彼が、私を誘う?何故? もしかして、からかわれているのだろうか。
「な、何で私なのですか!? 他に誘うべき人がいるでしょう?……例えば、そう、家族と、らいはちゃんと行くべきです!!」
「らいはは今週の土曜日は用事がある。学校の行事とやらで夕方までお出かけだ」
「あ、そ、そうなんですか……」
「前から決まってたことだから仕方ないさ……だからこそってわけじゃないが、五月なら喜んでくれると思って誘ったんだが……迷惑だったか?」
「そ、そんなことありません!……あ、ありがとうございます、う、嬉しいです」
「そうか。それは良かった」
五月の言葉に安堵したように微笑む風太郎。そんな風太郎の様子を見て、思わず五月の口元がほころぶ。彼が本気で誘ってくれたのがわかったのだ。真面目で色恋沙汰に興味ないようにしているが、五月とて年頃の女の子、男の子が自分を喜ばせる為の行動に嬉しく思わないはずがない。
「じゃあ土曜日、十一時くらいに、駅前で待ち合わせってことで」
「は、はい。わかりました」
「それと、この事はあいつらには内緒だぞ。バレたら何でお前だけって怒るだろうからな」
肩を竦め、困ったもんだと呟く風太郎。言われるまでもなくそのつもりであった。こんなこと言えるわけがない。脳裏に浮かぶのは自分と同じ顔をした姉達の姿。中でも一番、自分の勘が正しければ、特に気をつけないといけない相手は──
「ああ、それともう一つ。当日だがな」
「はい?何か──」
「精一杯おめかししてきてくれよ? 何せ、せっかくのデートなんだからな」
「っ!?な、なにを!」
冗談めかした口調でそう告げ、風太郎はバイトの時間だと言って去っていく。五月はスカートの裾を握りしめたまま、その後ろ姿が図書館の入り口から消えるのを最後まで見つめる。
(び、びっくりしました。あんなこと突然言うなんて……もう、上杉くんときたら、また私をからかって……)
「あ、あれ? 五月一人なの?フータローは?」
「あ、み、三玖」
そこに現れたのは五つ子の三女である三玖。どうやら日直の仕事を終え急いで来たようだ、息が軽く乱れている。
「え、えっと……上杉くんならたった今帰りましたよ。何でも急にバイトが入ったとか」
「あ、そうなんだ……勉強教えてもらおうと思ったのに」
せっかく日直の仕事終わらせてきたのに、と残念そうに呟く三玖。それを横目で見ながら、胸に手を当て、そっと息を吐き、呼吸を整える。
──まだ彼から言われた言葉が耳に残っている。胸のドキドキが止まらない。
すると、どこか挙動不審な五月を不思議そうに三玖が見つめる。
「どうしたの五月、顔真っ赤だよ?」
「!? な、何でもありません!」
「そう?」
「え、ええ。さぁ、私達も帰りましょう。お腹がすきました」
「……五月の食いしんぼう」
呆れたように呟く三玖に背を向け、歩きだす五月。チラリと窓ガラスを見ると、後ろにいる三玖と同じ顔立ちをした自分の顔が映っている。
(……よかった、いつもどおりです。全く、それもこれも全部上杉くんのせいです、突然変なこと言いだすから!)
風太郎に心の中で文句を言いながら、三玖とともに帰宅の途につく五月。もしこの場に五つ子の次女がいれば、五月、何か良いことでもあったの? と、聞いたことであろう。
家に帰る五月の足どりは、いつもより軽く、どこか楽しげなものであった。
原作でも風太郎と五月の初対面が上手くいってたら、絶対仲良くなってたと思う。二人は似た者同士だし。そして家庭教師も協力的で……でも二乃が余計に反抗的になるか。