朝。トロが私の家に住み込んでから何度目かの朝。
まだ指で数えられるくらいしか過ごしてないけれど、この数日の間。トロと過ごして分かった。
前にも言ったトロが背負っているもの。それはとても悲しいもの。
いつも無邪気に私の話を嬉しそうに聞くトロの顔が、たまに曇ることがある。
ふと私の母さんの愚痴を言った時。ふとトロの飼い主について聞いた時。
まずいことを言ってしまったかなと思うと、もう遅い。
トロは一瞬寂しそうな表情を見せて、すぐいつもの無邪気なトロに戻る。
そして私の胸もチクチクと曇ってしまう。
何が言いたいか。そう、私はまた変わった。いえ、『変えられた』。
今度はトロによって。昔の私ならこんなことで深く考えたりしない。
「どうしたの?」
こうして深く考えている間にも、いつもトロは観察してくる。
今私はどんな顔をしていたのだろうか。トロが心配そうに見つめている。
ダメね、なんだかおかしくなってるわ。最近の私。
「いえ、なんでもないわ」
心配そうに見てくるトロに素っ気なく返し、台所へ向かう。
そういえば朝ごはん、トロは何を食べるのかしら?
「あなたは何を食べるの?」
「トロ?トロは〜…お寿司のトロが好きかニャ〜」
「朝ごはんを聞いているのだけど…」
それにしてもトロがトロを食べるのね。
もしかしたらそれが名前の由来?だとしたら飼い主は相当単純な方なのね。
「朝ごはん?朝ごはんって胸キュン?」
「む、胸キュン…?いえ、朝ごはんは朝に食べるご飯のことよ」
「あぁ〜。ブレックファーストのことニャー」
「…………えぇ、そうね」
前の飼い主は一体どんな教育をしてたのかしら?
こういった会話は結構な頻度である。やっぱりこんなにスラスラと喋っていても、人間の言葉は難しいようだ。
たまに言葉がちぐはぐだったり、使い方がおかしかったりする。
それを一から訂正するんだもの。世の母親の大変さがわかった気がするわ…。
朝食を食べ終わって、学校の準備をしているところに、トロがトコトコと走り回る。
「そういえばトロ、今日は…」
「学校ニャー!」
「あら、覚えてたのね」
流石に覚えてきたわね。最初は私が学校に行こうとするとついて来ようとして大変だったわ…。
「覚えてるのニャ〜。平日は毎日学校!トロは寂しくお留守番…」
自分で言って少ししょんぼりするトロ。
やめなさいよその顔。甘やかしたくなっちゃうじゃない…!
そんな目をしてもダメよ!やめなさい、その上目遣いをやめなさい…!
…………
…………
…………
はぁ、分かったわよ。
「良い子にお留守番してたら、好きな絵本読んであげるわ」
「絵本…絵本!やったー!楽しみだニャー」
「その代わり良い子にしてるのよ?誰かきても部屋を出ないこと。いい?」
セキュリティがしっかりしているマンションだから大丈夫だと思うけれど、トロは警戒心がなくて困る。
もし、万が一にでも不審者が、そうね、目の腐った猫背のだるそうな不審者が私の家にきたら。
それこそ不審者の魔の手からトロを守らなければいけないわ。
「わかってるニャ。でももし悪い泥棒さんが部屋に入ってきたら…」
「来たら?」
「トロの必殺技でとっちめてやるニャ〜。…あぁ!でも泥棒さんがパンさんだったらどうするの〜!パンさんだったら可愛くてとっちめられないよ〜」
…頭が痛くなってきたわ。私も余計なことを教えるべきじゃなかったわね。
パンさんの可愛さを何時間にも渡って語ってしまった、ツケが回ってきたわね…。
「違うでしょ?泥棒が入ってきたら逃げること。いいわね?」
「わかったニャ」
本当に分かったのかしら…?相変わらず間抜けな顔で私を見上げてるけど…。
「まぁいいわ。行ってくるわね」
「バイバイニャ〜」
トロの見送りの声を背中に受けながら、少しの不安を胸に家を出る。
しっかりと戸締りしてからマンションを後にし、いつものように学校へ向かう。
今日も始まったわね…1日が。
早朝ランニングをしている中年のおじさん。犬の散歩をしているお爺さん。いそいそと会社に向かう会社員たち。
いつもと変わらない風景を眺めながら、その足は意識せずとも自然に学校へ進む。
そういえば今日は由比ヶ浜さんがお休みだったかしら?
お休みというのは学校の事ではなく、私が部長を務める部活、奉仕部のお休みだ。
依頼のない普段は何もしていないけれど、一言でいうならボランティア部のようなものだ。少し違うのだけれど。
ただ生憎最近は依頼が入る事もなく、由比ヶ浜さんがお休みでも特に問題はないでしょう。
でも必然的にあの男と二人きりになるのよね──ねぇ、
「比企谷くん」
「んあ?」
いつのまにか。ついさっきまで朝日を浴びていたかのような錯覚を感じるが、いつのまにか私の、私と比企谷くんのいる部室には赤い夕日が差し込んでいた。
今日も何もない日を過ごした。
いつも通り授業を受け、いつも通り一人で昼食を食べ、いつも通り一人で部室に向かう。
べ、別に寂しいわけじゃないわよ?最近は由比ヶ浜さんも三浦さんに付きっきりみたいで、お昼は部室に来てくれないけれど、決して寂しいとかそんなんじゃないわよ?それに今までも一人だったわけで今更…
「……おい、なんだよ。呼んどいて無視かよ。なに、新手のイジメ?」
そういえば居たわね、比企谷くん。完全に忘れてたわ。
と、心の中でしっかりと罵倒しておく。ただそれをぐっと飲み込んで
「…い、いえ。紅茶飲むかしら?」
「お、おう。頼むわ」
やはり由比ヶ浜さんがいないと静かすぎるわね。
いえ、うるさい…騒がしいのが好きなわけじゃないわよ?
ただやっぱり少し気まずいというか…いえ、今までもこんなことは何度もあったのに、今更気にする私の方がおかしいわね。
事実、比企谷くんは何の気なしにライトノベル…だったかしら?とにかくそれを読んでるのだから。
「今日は…マックスコーヒーじゃないのね」
「…………お、おう?」
…………。
「なんで疑問形なのかしら?」
「いや、なんつーか。…お前、今日どうした?」
怪訝そうに私の顔色を伺ってくる比企谷くん。
そんなにおかしなことを言ったかしら?
不思議そうに比企谷くんの顔を見つめると、気まずそうに目を逸らして口を開く。
「勘違いしないで聞いて欲しいんだが…。今日部室入った時も罵倒の一つもなかったし、それ以上に最近ほとんど罵倒してこないし、何故かよく話しかけてくるし、それに…「比企谷くん…………」
「お、おう。食い気味だな…」
「…………」
「…………」
「…………な、なんだよ」
「マゾヒスト?」
「おい、散々溜めてそれかよ。勘違いしないで欲しいと言ったはずだが?」
だってそれしか考えられないじゃない。
そんなに私の罵倒が欲しいならいくらでも言ってあげるのだけれど。
「ちげーよ。大まかに言うと、なんか変だって話だ」
『変』ね…。比企谷くんごときが随分な言い草ね。と言いたいところだけど、私も自覚しているので強くは言えない。
ここ最近はもちろんのこと、トロが来てから更に変わった。
変なことを深く考えるようになって、考えれば考えるほど意識してしまう。
そしていずれ自然というものが分からなくなって、そして今比企谷くんに不自然な対応をしている。
つまり…
「変なのは…主に貴方のせいなのだけれど」
「あ?なんだ?」
ボソッと呟いた私の言葉は、比企谷くんには聴こえてなかったらしい。
それでも何かを察したのだろう。比企谷くんは気まずそうな顔をしてそわそわしている。
「まぁ、その…なんだ。相談に乗れるなら乗ってやる。お前が嫌じゃなければな」
そう言ってそれ以上詮索しないとばかりに、わざとらしくそっぽを向き本に目を移す。
少し腹たつわね…。
この雪ノ下雪乃が比企谷くんに気を使われて、助けられようとしている。
いつだったか。『いつか私を助けてね』なんて恥ずかしい依頼をしたような気がするが、こういう事じゃない。
「比企谷くんの癖に…生意気よ」
それでも私はこの言葉しか言うことが出来なかった。
「…そうかよ」
また、気を使われてしまったわね…。
その後はしばらく沈黙が続いた。
聞こえるのはカラスの鳴く声と、紙をめくる音。
一枚、一枚とその音が聞こえてくる度に、部室に入ってくる夕日の角度は変わってゆく。
「なぁ、雪ノ下」
「………なにかしら?」
珍しく比企谷くんが話しかけてくる。
「この前、猫の餌について聞いてきたが、飼うのか?」
何故今その話なのだろう。そんなことはわかりきっている。
比企谷くんなりに会話を繋ごうと、何の気なしに聞いたことなのだ。
「そう、ね。でもそのネコは普通の猫とは少し違うみたいなの」
「違う?」
「えぇ、お寿司が好きで、自分で立つことが出来て、喋ることが出来る。そんなネコなのよ」
「…………なんだそりゃ」
一瞬驚いたように目を丸くして、そしてまた一瞬で取り繕うように笑いながら言葉を紡ぐ。
私がジョークを言ったとでも思ったのでしょう。
「ねぇ、比企谷くん。もしそんなネコがいたら、貴方はどうする?」
「え?あー、取り敢えず驚いてから、飼い主に返す…か?」
……ホント、相変わらずね。
比企谷くんは私とは違い、良い意味で何一つ変わっていない。
「まるで、驚く事も工程の一つかのような言い草ね」
「…まぁそうかもな」
私の言葉に当たり障りない言葉で返してくる。
でも、それが貴方らしさなのよ、比企谷くん。
卑屈で卑怯で捻じ曲がってて。いつも人の裏を読んで、欺瞞や偽善を見透かして。
それなのに『純粋』で。
終わらない関係なんてあるはずない。別れがない関係なんてあるはずない。
それでもずっとそれを欲している。
私だって随分前に見限ったというのに。
比企谷くんは結果以上に工程を重要視する人だ。
親しい友人がいるよりも、親しい友人を作るということ自体に重点を置いている。
物を作るという達成感より、物を作っている時を楽しむ人だ。
だからずっと今の状況が続いて欲しいって。彼はそう思ってる。
そんなこと、あり得ないのに…
本当に、誰よりも馬鹿な人…。
夕日のさす部室に、再び沈黙が訪れた。
そして私達はこれ以上言葉を発することなく、1日は終わっていった。
「ただいま」
「ユキノ!ユキノ!お帰りニャー!」
私が帰ってくるや否や、トロが嬉しそうにぴょんぴょんと出迎えてくれる。
「ご飯食べてから、絵本の約束だったわね」
「うん!楽しみだニャ〜」
嬉しそうにはにかむトロを横目に、私はリビングに入る。
夕ご飯。何にしようかしら。基本トロはなんでも食べられるらしいけれど、折角だから好きなものを食べさせてあげたい。
そうね…納豆かしら?でも納豆を使った料理、なにがいいかしら。
私が試行錯誤している間、トロは楽しそうに私を眺めている。
トロが楽しそうならいいのだけれど、退屈してないかしら?
そんなことを思いながらも、私はフライパンに油を敷いて料理を始める。
私はこの時間が好きだ。
特に言葉も交わさず、静かな時間ではあるが、トロと、きっと私の表情も穏やかだ。
なぜなら、私が食材を切る音に合わせてトロは左右に体を揺すってみたり、鍋から香る匂いを嗅いでうっとりしていたり、私にとっても、トロにとっても癒しの時間だからだ。
ずっと…この時間が続いてくれればいいのに。
「あのね、あのね…ユキノは学校楽しい?」
ただ今日はその時間もあまり長くは続かないらしい。
「……なんでかしら?」
「だってだって、いつも寂しそうな顔して帰ってくるから。まるで考え事してる時みたいニャ」
心配そうにこちらを覗き込んでくる。
ダメ、ダメよ。この子にこんな表情させては。
この子はよく私のことを見ている。それはもちろん奉仕部について考えている時も。
「そ、そうかしら?」
違うのよ。最近少し変なだけで、普段は普通なの。
ただ自分が今まで突き通したものを、見失っちゃっただけなの。
だからこんな時比企谷くんならって、由比ヶ浜さんならって。人の事ばっかり気にしちゃう。
それこそ私を見失う事につながるっていうのに。
奉仕部に比企谷くんが来て、由比ヶ浜さんが入部して。
私の周りの環境はあの日から大きく変わっていった。
そう、そして私も変わっていった。変わることが悪い事だなんて思っていない。
でも、私は今まで真っ直ぐに生きてきた。自分の方法で。自分だけのやり方で解決してきた。
それ故に私の周りには人がいなかった。
だから私とは全く違う方法で、斜め上のやり方で問題を解消する比企谷くんに影響された。
心の底から人と接しているのに、世渡りが上手な由比ヶ浜さんに影響された。
そのせいで、私はぐにゃぐにゃ曲がっていった。
そして影響を受けた事を私のプライドが許さなくて…つまり全て自分の所為なのよ。
案の定比企谷くんにまで変と言われる始末。変になったのは貴方のせいなのに。
「それならいいけど…」
未だ心配そうな顔をしている。
ごめんなさい、全て私の我儘なの、だからお願い。いつものトロに戻って。
「さ、さぁ、ご飯が出来たわ。食べましょう?」
「………ニャ!!」
しばらく考えたような仕草をしたあと、トロは元気よく答える。
取り敢えず今はご飯を食べましょう。今はね…。
「ふぅ〜、美味しかった〜」
満腹とばかりにお腹をさするトロ。
そこまでたくさん食べてくれるのは、作り手としては嬉しいわね。
「それで、読みたい絵本はあるのかしら?」
「二つあって〜、どっちにしようか迷ってるニャ〜」
約束していた絵本を、トロは真剣に選ぶ。
基本パンさんの絵本しかないのだけれど、私が小さい時にディスティニー繋がりで買った絵本がここで役にたつとは思わなかった。
ふと窓から空を見上げると、満点の星空が広がっていた。
明日は晴れるのかしら…?
「決まったニャー!」
一つ絵本を嬉しそうに掲げてトロが叫ぶ。
「そう、なんの本かしら?」
「腹ペコイモムシさんニャ〜」
「パンさんじゃないのね…」
今日も一日が終わってゆく。
そしてまた明日が始まる。このジレンマから解放される日は、いつか来るのかしら?
でも、深く考えすぎないのが一番、よね。
そう、今はこれでいいのよ。これで。『今は』…ね。
会話に視点を置いて書いてみました。