「別部署にいるあなたの耳にも、それは入ってきていたと」
田所がきいたのは、証言台に立つ便通の社員、秋吉だ。
「ええ。かなりの問題児がいると」
「それを聞いて、どういった感想を抱きましたか」
「別の部署だったので、特に何も。ただ、同じ会社の社員である以上、社益を損なうようなことはしてほしくないとは思っていました」
「なるほど。ありがとうございます」
田所が尋問を終え、裁判長が木村に反対尋問の有無を問うも、
「ありません」
木村は瞑目したまま、静かにそう答えた。
反論はない。そのことに宇月は違和感を覚える。
いまのところ、田所が用意した弾はほとんど打ち尽くしていた。それは木村も同じだろう。
田所が若干優勢状態のいま、ここで反対尋問をしないと、その差は確定的なものとなる。
つまり、いまの木村の言葉は敗北宣言に等しい。
「どうやら、これで終わりのようですね」
宇月の隣で、竹ノ内が頬に余裕の笑いを含みながら、小声でそう言った。
宇月は会釈するも、何も答えない。
木村という男がここで終わる程、やわな弁護士ではないはずだからだ。きっと田所も同じ考えだろう。
数日前、田所がいっていたことが現実味をおびてきた、そんなとき――
「裁判長」
木村が、ゆっくりと手を上げ、言った。「私は再度、原告の本人尋問を希望します」
突然のことに、宇月と田所は横目で目を合わせる。
尋問というのは基本的に事前に申告と手続きをするもので、今回のことは宇月も田所も耳にしていない。当然、裁判官も同じはずだ。
「そのような話は聞いていませんが」
裁判長の声には、困惑の色が見えた。
普通では拒否されて当然のことである。だが、
「実は、原告はある重大なことを、今までいえずにいました。それはプライバシーにかかわることであり、本人としても公にしたくないという話でした。しかし、やはり同性愛者として、この問題は皆に知ってもらうべきであろうと、数日前から、いまこの瞬間まで迷ってい続けていました。ですが」
木村は言葉を切ると、鈴木と一瞬だけ目を合わせ、すぐに裁判長へと向きなおった。「決心がついたようです。この決心を濁らせたくないし、下手に時間をおいて、彼女を苦しめたくもありません。どうか、その勇気をくみ、尋問を認証していただきたい。この通りです」
木村は深々と頭を下げた。
法廷では、法に抵触しない限りではあるが、裁判長に様々な決定権がある。ここでイエスと言えば尋問は行われる。
尋問というものは、一人に対し何度も行われることはほとんどない。裁判の決まりとして、尋問は一人につき1度であることが好ましいとされているからだ。
裁判の長期化や証言の急な撤回など、様々な問題を未然に防ぐためだ。
2度同じ人間へ尋問するとなると、裁判長の心証も悪くなるのは当然のこと。
それを分かっているうえで木村は行おうとしている。
何かがある。
宇月の中で渦巻いていたその疑惑は、今この瞬間、確信へと変わった。
「裁判長」
無論、そんなことはさせまいと、田所が立ち上がった。「彼女の勇気は賞賛に値しますが、やはり混乱を防ぐため、きちんとした手順を踏むべきかと。尋問は次回、口頭弁論時に行うべきです」
裁判長は両隣の裁判官と、いくつか言葉を交わした後、
「尋問を許可します」
真っすぐと前を向いてそう言った。
「ありがとうございます」
再度、頭を下げる木村に、
「裁判長、もう一度よく考えてください」
食い下がる田所。「このような突発的な尋問は――」
「決定事項です」
取りつく島もなく、裁判長は言い放つ。「被告代理人は着席してください」
「しかしですよ、裁判長」
木村が何かを隠しているのが明らかないま、田所も簡単に引くわけにはいかない。「このような規定に則らないことを許せば、裁判はままならなくなります」
「代理人、着席を」
裁判長は語気を強める。しかし、田所は引かない。
「もし同じようなことが起こった時、また尋問を認証するのですか。それは無意味な長期化や、混乱を助長します」
「着席を」
「答えてください裁判長。こんなことを何度も行われては、我々は困るのです」
「今回は例外的に許可します」
言葉に苛立ちをにじませ、裁判官はそう返した。
「それはおかしな話ですよ、裁判長」
まだ下がらない田所に「先生」と宇月が止めようとするも、さらに続ける。
「もし我々も同じように突発的に尋問をお願いしたら、あなたは聞き入れるのですか? そんなポンポコ証人もなしに尋問が行えるなら、申請なんて――」
「黙りなさい! これ以上続けるというのなら、退廷を命じます!」
裁判長は声を荒げた。
木村の隠し玉はここで押さえたい。だが、ここまで言われたら、さすがに引き下がざるをえない。
しかし、田所はいまだ着席せず、じっと裁判長を見つめている。
「分かりました」
数秒の間の後、諦めたかのように田所はいった。「しかし、一つだけ言わせてください。もし我々が同じような要求をした場合、あなたはのんでいただけるのですか?」
最後の最後、藁をもつかむ思いで言ったのだろうが、裁判長は一つため息をして、
「状況によっては、被告側も許可をしましょう。これでいいですか」
そう言った。
こうなっては、もう返す言葉はない。
不満そうな顔はそのまま、田所はゆっくりと着席した。
「先生やりすぎですよ。これじゃあ心証が悪くなります」
木村が、鈴木を証言台に立たせる中、宇月が小さな声でそう言うも、田所は憮然とした表情のまま、何も答えない。
木村がどういった攻撃に出るのか、それは分からないが、状況として優勢のいま、なにも裁判長と口論してまで尋問を止める必要があったのか――そう思っていた。
だが、木村が土壇場の状況で放ったその兵器は、始まりから今まで続いた議論を、すべてを無に帰す――
「私は……竹ノ内さんにセクハラを受けていました」
――核弾頭。
思わぬ鈴木の告白に、宇月は息をのんだ。
騒めく傍聴席に、静粛を促す裁判長。
そのさなか、宇月は隣の竹之内を見ると、顔面蒼白で、見て分かる程の、大量の汗が額を濡らしていた。
様子から見るに、鈴木の話は事実だ。
木村は質問を重ねていく。
「それはいったい、いつからですか」
「入社して少し経ったときです」
「つまり、自分の性的指向を告白する前ですね」
「はい」
「どんなセクハラを受けましたか」
鈴木はいいにくそうに間を挟み、苦悶の表情を浮かべると、
「いい体してるね……とか」
ポツリとつぶやく。
「他には」
「お尻がきれいだとか。特に……太ももがセクシーでエロイとか」
「それは口頭で言われたのですか」
「口頭でもありますが。携帯のチャットアプリなんかでも……仕事の確認をしているときに、突然いってきたり」
「なるほど。それは、いつまで続きましたか」
「私が……ホモであることをカミングアウトするまでです」
「おや、それはおかしな話ですね。竹之内さんが同性愛者だとして、同じ同性愛者と告白したというのに、なぜそこで止まったのか。そして、竹之内さんからの嫌がらせは、告白後ですよね」
鈴木がなにも言わず、うなずくと「なるほど。ありがとうございます」と木村は礼を言ってすぐ、田所は手を上げた。
裁判長に促されると、すぐに立ち上がり質問をぶつける。
「鈴木さん、あなたはセクハラ被害にあったといいましたが、どうして今になってそれをここで告白しようと思ったのですか」
「それは……」
といったまま、鈴木が黙ると、
「言えなかったんです」
木村が代わりに答える。「セクハラ被害というのは立証が難しく、他人に知られたくないという思いもあり、訴えない人が多い。ましてや同性からの被害ということで、鈴木さんは誰にもいえず一人で、ずっと悩み続けていたんです」
「本当にそうでしょうか。悩んでいたのなら、近しい人間に相談ぐらいするものでは」
「何度も彼女はそうしようとしました。ですが、言おうとしたところで、どうしても言葉が出なかったのです。それが、セクハラというものなのです。まあ、あなたのような人間に分からないでしょうが」
「ええ、分かりませんね。普通なら、さっさと誰かに相談なり、訴えたりするものだと思います。鈴木さん」
田所は改めて、鈴木に対していった。「本当にそれはセクハラ被害だったんですか。あなたも、その会話を楽しんでいた部分があったのでは」
「被告代理人」
裁判長がきつく言い放つ。「言葉を慎みなさい」
「申し訳ありません。では鈴木さん、言い方を変えます。そう言った発言を、あなたも助長した部分はありませんか」
「ありません」
鈴木は首を横に振る。
「なら、あなたはセクハラ発言に対し、どういうふうに返事を返しましたか」
「普通に、やめてくださいと」
「そうですかねぇ」
田所は、木村が手に持っている資料を、強引に取り、それを読み上げる。「やめてくださいよ、と書かれてありますが、カッコ笑い、とも書かれてありますね」
「最初は、冗談かなって思っていたんで」
「ほう、そうですか。その後の返信でも、あなたが強くセクハラに対して否定したような文はありませんよ。これはどういう意味でしょうか」
「相手は上司だぞ」
鈴木が何かをいう前に、木村が弁護に入る。「下手に強く出て、会社に居られなくなったらどうする」
「証拠があるんだ、自分が善だといって告発すればいい」
「そんな簡単なことじゃないんだ、セクハラ被害というのは」
「わからないな。客観的に見たとき、原告はこのセクハラを容認したと考えられます。以上です」
田所は、資料を木村に返し、足早に席に戻った。
とりあえず、言えることはいった、というところだろうか。
しかし、こじつけに近いあの発言では、焼け石に水だろう。
「裁判長」
木村が立ち上がった。「まず初めに、この尋問を認証していただき、再度感謝を申し上げます。ありがとうございます」
木村は腰をまげて一礼する。「セクハラ被害にあった方は、その苦しみを胸にため込んでいる人が多いのが現状です。事実、原告は過去の竹之内さんから受けた傷はいまだ癒えず、苦しんでいました。そのため、急な尋問となってしまったことを謝罪します。そして、正義のため、それを告白してくれた原告、鈴木さんに私は敬意を表します……ありがとうございます、鈴木さん」
今度は、鈴木に礼をすると、傍聴席から拍手が巻き起こった。
裁判長は、それをすぐには止めず、数秒そのままにした後「静粛に」と静かに一言いうと、すぐに音はなくなった。
「しかしながら裁判長」
木村は改まっていった。「原告の証言を聞いたところ、不可思議な点があり、真実を見極めるにはそれを解消せねばなりません。よって私は――」
竹之内に向かい、木村は力強く人差し指を差す。「被告代表、竹之内さんの尋問の許可をいただきたい」
二回連続での申告なしの尋問。
こんなこと、まかり通るはずがない――そう思うも、裁判長はすぐには却下せず、両隣の裁判官と話し、なにかを確かめるようにうなずき合う。
明らかに尋問を認めるような様子に、宇月は田所の方を見るも、腕を組み、何もする様子はなかった。
「先生、いいんですか」
「よくはない」
田所はじっと前をみて答える。「……ただ、もうどうすることもできない。ここはすでに奴の場……何を言っても無駄だ」
「被告代表、前へ」
裁判長がそう言うと「ありがとうございます」とまた木村は深々と頭を下げた。
「お、おい」
竹之内は震える声で、宇月に聞いた。「僕は……僕はどうすればいい」
先ほどまで、溢れんばかりの余裕を見せていた竹之内は、突然目の前にやってきた窮地に困惑し、混乱していた。
「とりあえず、落ち着いてください」
「この状況で落ち着いてなんていられるか!」
竹之内が声を荒げると「被告代表、前へ」と裁判長は促す。
「いってください、竹ノ内さん」
不意に、田所がそう言った。「無理やり逃げることも可能ですが、この状況でそれをするのは、セクハラを認めることと同じです。何とか相手の事実を否定してください」
「否定って、どうやって――」
竹之内は狼狽しながら聞くも、
「ともかく、いってください」
田所はそれを遮って言った。「これ以上、裁判長を待たせるのはよくない」
竹之内はぐっと歯を食いしばり、立ち上がると、よろよろと証言台に向かった。
「大丈夫なんでしょうか、先生」
その背中を見て、心配そうに宇月は言った。
「あれが大丈夫に見えるか。だが、我々は見守るしかない」
「竹之内さん、あなたは原告に対して行った、セクハラ行為を覚えていますか」
木村の問いかけが聞えていないのか、竹之内はじっと前を向きながら、何もいわず肩で息をしている。
「竹之内さん」
耳元で木村が名前を呼ぶと、竹之内はハッとして木村と目を合わせた。
「いや……セクハラなんてしていない」
「しかし、チャットアプリにはちゃんと証拠が残っています」
「違う、あれは……あれは僕なりのアプローチだったんだ」
「アプローチ? 文面を見るに、そんな風には見えませんでしたが」
「いやぁ、で、でも……」
竹之内はか細い声でそう言うと、口を閉ざして下を向いた。
「質問を少し変えましょう。あなたのこのアプローチと称するセクハラ行為。原告が性的指向を告白した後、ぴたりと止んでいますよね。それはどうして」
黙りこくる竹之内に、木村は質問を重ねる。「無視され、脈がないと思い、それに逆上したんじゃないですか」
「違う!」
竹之内は下を向いたまま。首を横に強く振った。「そんなんじゃない……ただ」
「ただ?」
「ただ、僕は……好きだっただけなんだ、男が……男らしい男が好きだったんだ!」
竹之内は顔を上げ、血走った眼を鈴木へと向ける。「彼女――いや、彼は! 僕が理想とする男性だった。色黒で、運動によってつくられた真実の筋肉があって、男らしくて、ハゲてなくて、タンクトップにジーンズが似合う、そんな男だった……一目ぼれだった! いくつか言葉を交わして、そっちの気もあると、すぐにわかった。だから僕なりにアプローチした……でも、でも彼は! まるでビッチのような恰好をしてきた! それが……それが許せなかった!」
「だから、あなたは嫌がらせを」
「違う、嫌がらせなんて!」
「では、どうして解雇されたんですか」
「それは……それは……僕はだた……男らしい男が好きで……好きで」
ぶつぶつと、竹之内は一人つぶやき始める。
「竹之内さん?」
「僕はぁ!」
不意に、竹之内は木村に飛びかかり、両手で肩を掴んだ。「ただ! ただ男が好きなだけなんだ!」
「ですから、それによって女らしくなった原告に――」
「僕は!」
もやは、木村の声は竹之内に届かなかった。「僕は! 僕はああああ! うわああああああああああああ!」
法廷には、竹之内の悲痛とも思える叫び声が響く。
その中、田所は目を閉じ、この口頭弁論が終わるのを静かに待っていた。
「まさか……こんなことになるなんて」
裁判所を出て帰路を歩く中、宇月はいうも、田所は両手を後ろにしたまま、何も答えない。
「木村さんはあれを待っていたんですね。それも、こんなタイミングで、鈴木さんが心きめるなんて」
「いまなんと言った」
先ほどまで一つも口を開かなかった田所が、突然足を止め、振り向いてそういった。
「え? いや、だから運がいいなって」
「キミは、もしかして原告が偶然、今日のあの瞬間にセクハラ被害を訴える決心をしたたと、本気で思ってるのか。どうしようもない多少ブサイクだな」
「それは、どういう意味ですか」
「どういうもこういうもない! 初めからセクハラ被害は訴えるつもりだったんだよ。それを、効果的なタイミングで使える時を狙っていた。だから、いつまでも竹之内に尋問をしなかった。勝利を確信させ、心が緩まるのを待ち、対策不可能の突発的な尋問で一気につぶしてきた」
ありえない。そう思うも、それなら今まで竹之内を尋問しなかったことに合点がいく。
「それで、これからどうするんですか」
「どうするもこうするも、もはやセクハラはあったと認められた。同じ威力の爆弾を相手にぶつけて、認めさせるしかない」
「同じ威力の……そんなものあるんでしょうか」
「見つけるか、でっちあげる。でなければ……」
そこまで言うと、田所は口を閉ざし「早く戻るぞ」と足を勧めた。
田所はいわなかったが、当然、宇月もどうなるかはわかっていた。
どうにか道を見つけなければ、この勝負、必ず負ける。
ここか。
西岡は手元にあるスマートフォンに示された場所と、目の前の焼き肉店を何度かみて、ここがその目的地であることをしっかりと確認し、中へ入った。
出迎えに来た店員に、立教大学、空手部と伝えると、奥の座敷へと案内された。
そこには、すでに20人程度の元空手部員たちが、酒を飲んでいた。
「お、西岡じゃん。こっち来いよ」
見知った顔の人間に呼ばれ、西岡は隣に座った。
突然、空手部同窓会の連絡がまわってきたのは、つい3日前のことだった。
空手部にそんな習慣があるとは聞いたことがなかったが、西岡も久しぶりに昔の友人と会いたくなり、さっさと仕事を終わらせてやってきた。
ガヤガヤと、昔の仲間と話していると、どんどんと酒が進む。そんなとき、
「初めもして」
いつの間にか、隣に座っていた男が挨拶をしてきた。
知らない顔だった。
銀縁の眼鏡をかけており、その体格は中肉中背で、元空手部にはみえない。
男は、手にビールビンを持っていた。
「ああ、ありがとう」
礼を言い、コップを前に出すと、男はビールを注いだ。
「西岡さんですよね。お名前は先輩からお聞きしています」
そのものいいから、どうやら友人の後輩のようだった。
「そうだけど、キミは」
「私は新庄ともうしもす」
とても丁寧な口調だったが、滑舌がちょっと気になった。
それにしても、飲みの席だというのに、まるで客人を相手にしているホテルマンのようだ。
どんな男かは知らないが、一緒にいると酒が進まなそうだな。
「きぃみは……本当に聞き上手だねぇ」
べろべろに酔っぱらった西岡が褒めると、
「ありがとうございもす」
新庄は綺麗にお辞儀をした。
「もす、もす……ふへへ。ほら、もす君、キミも飲みなさい」
「はい」
西岡は新庄に酒を注ぐ「ありがとうございもす」と一気に飲み干した。
「ずいぶんとお酒がつよいね~、新庄君」
先ほどから、酔った勢いで何杯も進めているのに、ちっともその気配がない。
「昔、ソムリエをやっておりまして、そもときは毎日のように飲んでいもしたので」
「ソムリエねぇ~、すごいね~君は」
「恐る入ります」
また、新庄はきれいな礼を見せた。「しかし西岡さん、最近もテレビはご覧にらられていもすか」
「え? まあ、見てるよ」
「でしたら、例の裁判も話は」
「あ~、あいつの話だろ。鈴木」
「元部員、というのは本当も話なのですか」
新庄は周りに聞こえないよう、ひっそりと言った。
「別に小声になることじゃねぇよ。み~んな知ってる。オレ、あいつと同じ学年でさ、いっしょに練習したんだよ」
「へえ、どのようにゃ方だったもですか」
「まあ、ふつーの男だよ。みんなホモだって気づいてたけど。明らかにそっちの気がある感じだったよ……」
西岡は、周りに聞こえないようひっそりと新庄にいう。「まあ、ここだけの話なんだけどよぉ、実はオレ、あいつの秘密、ちょっとしってんだよ……今まで何となく言えなかったんだけどさ」
「ほお、そうですか」
新庄は、にやりとして見せると、西岡のコップにビールを注ぐ。「それはそれは、面白そうにゃお話しですね」
「道着を盗んだ……か」
事務所でソファーに座る田所が、独り言のようにそう言うと「はい」と新庄は軽く腰を曲げる。
「同じ部員であった方の物を。盗まれた部員は、そも後、いじめられているとお思いりなり、部をお辞めににゃったそうです」
「証拠はあるんでしょうか」
宇月は聞いた。
「鈴木さまもお家に遊びに行った際、盗まれた胴着を、西岡様がみたと」
「記憶による証言だけで、物的証拠はないんですね」
「はい」
「先生」
宇月が振り向くと、田所は考え込むように黙りこくっていた。
記憶による証言のみだと、信憑性が低く、勘違いだといわれてしまえばそれまでだ。
「よし、これでいこう」
数秒の思案ののち、田所はそう言った。
「しかし、先生。これでいけるんでしょうか」
「他に案があるのか」
田所に言われると、宇月は黙った。
そう、もう手元にあった弾は打ち尽くされてある。
待っていても、ただ死を待つだけだ。
なら、立ち向かうしかない。
その手にあるのが、粗末な竹やり一本だったとしても。
次の口頭弁論では、竹之内は欠席していた。
聞いた話では、前回の件で、便通から辞職勧告を受け、それによってか突発性の胃潰瘍が発病したらしい。
法廷は、もう勝負が決まったような空気があり、傍聴席には前よりも報道関係者の人間が少なくなっているようにも見えた。
対し、その勝ちを目前としている木村の表情は、隣のどこか遠くをみて呆けている三浦とは正反対に固く、一切の油断がない。
最後の最後まで、全力でこちらを潰しにくる気だ。
果たしてどこまで抗えるのか。
その不安など知る由もなく、裁判長は黙々と開廷を宣言した。
最後の砦、西岡が証言台に立つと、急なゲストに傍聴席からは微かに動揺が見える。
ここにきて、いったい何を証言するのか、それが気になっているようだった。
三浦の隣に座る鈴木は、下唇を噛んで下を向いている。
今から西岡が証言する話が分かっているようで、やはり聞かれたくないもののようだった。
田所の攻勢、木村の弁護次第では、逆転の目はまだあるのかもしれない。
目を閉じ、腕を組んで田所が、ぱっと目を開き立ち上がると、全てをかけた反撃が始まった。
「西岡さん、あなたは原告である鈴木さんと、立教大学において元同級生、そして空手部部員でしたね」
「はい、その通りです」
緊張しているのか、西岡はおどおどしくもそう答えた。
「あなたから見て、原告とはどういった人間でしたか」
「どういったっていっても、頻繁に話をする間でもなかったんで、イメージっていうのがなかったんですけど。ただ、信用できない人間でした」
「信用できない? それはどうして」
「はい。何かの機会で、部員が集まってお酒を飲んだ時、何人かで鈴木の家に集まって麻雀をしようって話になったんです。鈴木とは話す中ではありませんでいたが、まあ断る理由もないので家にいきました。それで、酒を飲みながらやって、3時間ぐらいやってるとみんな眠くなって寝ちゃったんですよ。そこで、朝になって、オレだけ起きて。まあ、ちょっとやらしい話なんですけど、ノド乾いて、勝手に冷蔵庫開けてお茶を、こう、口をつけずにですよ」
西岡は上を向き、手を口のあたりに持ってくる。「ポットをここまで上げて、直接お茶を飲んだんです、そしたら見えたんです、冷蔵庫の上に胴着らしきものが」
「胴着? それは部活で使用するものですよね」
「はい」
「どうしてそれが冷蔵庫の上に」
「僕もそれが気になって、手に取って調べたんです。そしたら、そこに名前が刺繍されていて……雄作って書かれてたんです」
「雄作? つまり原告の物ではありませんね。ちなみに、その雄作という名前に心当たりは」
「はい。実は、その一月ぐらい前、同じ部活の雄作っていう男の胴着がなくなったんです」
小さくどよめきだす傍聴席。裁判長もこの話を聞きいっている顔だ。
感触は悪くない。
「なるほど、その胴着は部員の雄作さんのであると」
「間違いないと思います」
「その雄作さんは、その後どうなりましたか」
「胴着がなくなってから、何というか疑心暗鬼になってて。いじめられてるんじゃないかって悩んでいました。それで、いつの間にか部活をやめていました」
「それを見てあなたはどう思いましたか」
「純粋に、かわいそうだなって」
「それをふまえたうえで、原告に対し、どう思いますか」
「まあ、やっぱり人として、どうなんだって思います。部活は辞めずに続けてたんで、雄作がやめたとき、何て思ったんだって」
「なるほど。私からは以上です」
鼻からすっと息を吐いて、田所は席に座る。
勝負はここからだ。
この証言には、いくつか弱い点がある。
物的証拠はさることながら、なぜ今まで西岡はそのことを黙っていたのか、という話だ。
木村は確実にこの隙をついてくる――そう思っていた、だが、
「原告代理、質問はありますか」
裁判長の問いに、木村はゆっくりと首を振った。
「ありません」
予想外の出来事に、宇月はぎょっとする。
ここで、あえて反論しない手はないはずだ。
そのうえ、木村はさらに不可解な行動に出る。
「しかし、裁判長。この証言について、原告から西岡さんに対して、言いたいことがあるそうです。発言の許可をいただけませんか」
「許可します」
裁判長がそう言うと、鈴木はすっと立ち上がる。
法廷は謎の緊張感に包まれた。
この状況で、本人の口からいったい何をいうというのだ。
木村と三浦以外の目が集まる中、鈴木は口を開いた。
「……その話は、事実です」
またも驚愕の出来事に、宇月は言葉が出なった。
もはや事実すら認めてしまった。心証を悪くする行為でしかない。
いったい、何のために。
その疑問は、続く鈴木の言葉によって、すぐに明らかとなった。
「本当に、申し訳ありません」
鈴木は頭を下げ、謝罪する。「私はあの時、雄作さんに恋をしていました。でも、きっとホモだって言ったら、嫌われるだろうなって思って、ずっと隠していました……けど、それがどうしても我慢できなくなって……気が付いたら、彼の胴着を盗んでいました。いまでも、そのことは後悔しています。許されない行為だと思っています。西岡君も、そのことを誰かに言いたくて、ずっと苦しかったと思います……本当に申し訳ございません」
田所の筋書は、窃盗の有無で争ったうえで、それを認めさせて、そこから原告への尋問で勝負をかける予定であった。
しかし、木村が用意したものは、窃盗を認めたうえでの心からの謝罪。
予想外。かつ、おそらく最悪の反撃だった。
「ああ……いや、僕はそんなに……苦しくはなかったけど」
西岡も、鈴木の突然の謝罪に困惑しているようだった。
さらにいうなら、謝らせてしまって申し訳なさそうにも見える。
「西岡さん」
無論、それを木村が見逃すはずがなかった。「あなたは、原告、鈴木さんの、その心中を考えたことがあるでしょうか」
「え? いや、考えたことはないです」
「そうですか。例えばあなた、中学高校大学と、女性と付き合ったことは」
「まあ、一度だけ」
「それはどういった過程を経て、付き合うことになったんでしょうか。端的にでいいので説明をお願いします」
「そりゃ、僕が彼女のことを好きになって、それで告白しただけです」
「そうです!」
木村は声を張り上げる。それは、法廷のすべての人間に語りかけるようだった。「当然のように行われる、この恋愛という一連の行動。それが、原告にはできないのです」
西岡の周りを右へ左へと歩きながら、身振り手振りで語るその姿は、田所の勝利を確信したときそのものだった。
「好きと伝えたくても、この世の九割以上はヘテロセクシャル。ノンケなのです。ただ、その思いを胸にため、耐えるしかないのです。しかし、あるときに、それが限界になった彼女は、胴着を盗んでしまいます。これは、すべて彼女だけの責任でしょうか。違う……我々です。我々大多数が、同性愛者たちをさけ、まるで汚れのように扱うからです。彼女たちは隠すのです……本当の自分を! そんな彼女を、許してやってほしいと思うのは、私だけでしょうか」
木村の問いかけに、法廷内は賛同の空気が流れていく。
「西岡さん」
木村は証言台に手を置き、西岡の顔を見る。「今の話をふまえたうえで、鈴木さんに対して、なにか言いたいことはありますか」
西岡は黙って頷き、鈴木の方を見た。
「あの……僕は別に、苦しんでなんていません。だから気にしないでほしいっていうのと……正直、鈴木がそこまでつらい思いをしてるなんて、考えもしてませんでいた。さっきの謝罪は、心からの物だと思う。だから……きっと雄作も許してくれると思います」
鈴木が目に涙をためてうなずくのを見て、西岡は続けて言う。「これはからは、自分に正直に生きてください。それが僕の願いです」
「はい……ありがとうございます」
鈴木が涙と共に頭を下げると、法廷内には拍手の音が響いた。
裁判官たちも、それを止める様子は全くない。その拍手を聞きいっているようだった。
もはや、ここから原告尋問をおこなっても無駄。
この場の全員が、鈴木の味方だ。
拍手がまばらとなっていき、法廷に静粛が戻ると、
「被告代理人。原告に対して、何か質問は」
裁判長がそう言うと、田所は諦めたか、つぶやくようにいった。
「ありません」
勝負は決した。
もはやこれ以上、戦いを続けても時間の無駄だと、宇月は悟った。
担当弁護士として、悔しい気持ちはある。だが、あの調子に乗りに乗った田所が負けると思うと、ちょっと嬉しい気もあったりした。
宇月は一人、事務所のリビングで、昨日の裁判の話をしているニュースを眺める。
そこには、笑顔で記者会見をする鈴木の映像も映った。
これでよかったのだ。
そう思うと、不意に後ろを新庄が通る。
「あれ、新庄さんどちらに」
「田所様に、おもみももを」
「お、おも?」
新庄が持つお盆の上に乗せられたアイスティーを見て、飲み物だと宇月は理解する。「ああ、なるほど。というか、先生はどこに居るんですか。ずっと見当たらなかったですけど」
「朝から、ずっと屋上で日光浴をしております」
それを聞いて、宇月は新庄についていくと、パラソルの下で椅子に寝転ぶ田所がいた。
「先生、朝から何やってるんですか」
「見て分からないのか」
そう言って、田所は新庄からアイスティーを受け取る。「焼いてるんだよ。私が朝から何をしようが、私の勝手だろう」
宇月は空に目をやると、今にもふりだしそうな曇り空が見える。
「こんな空でどうやったら焼けるんですか。先生、負けが確実になってショックなのはわかります。だからといってヤケにならないでください」
「別にヤケになっているわけじゃない。ただ、アイディアを練っているだけだ」
「アイディアを練るって、まだ裁判を続ける気ですか。もう無理ですよ、木村さんには勝てません」
「それは君がそう思っているだけだろう。可能性はゼロではない」
「万に一つもありません!」
そう言い切る宇月に、田所は何も言葉を返さない。「わかっているんでしょう、先生。もう負けが確定していることを。下手に続けても、自らの顔に泥を塗るだけ。時に潔く負けを認めるのも美徳です」
「それは実力者がいっていいセリフだ。負けっぱなしの人間が、負けについての美徳を語っても、それは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。だいたい、貴様にはわからんのだ。常勝不敗は、一度たりとも敗れなかったから常勝不敗なんだ。負けないからこそ意味があるんだ。その称号をこんなところで失ってたまるか」
「先生ならそんな称号なくても大丈夫ですよ。とっても強いんですから」
「やかましい」
田所は弱弱しくそういうと、プイっと横を向き、宇月に背中を見せる。
「人の強さというものは、勝ち続けることではなく、挫折したときにまた立ち上がることだと、私は思います。きっと、この負けを超えて、先生はもっと強くなることができます……だから、落ち込まずに頑張りましょう」
宇月の励ましに、田所はハアっとため息を漏らす。
「だから、落ち込んでなどいない」
そう言った後に「アクシード」と田所はつぶやいた。
「ん? アク……なんですか」
「アクシードだ。ここから少し歩いたところにある洋風料理店でな、知る人ぞ知る穴場レストランだ。ハンバーグが絶品でな、特別に教えといてやる……今日は仕事もなしだ、そこにでも食いにいけ」
どういう風の吹き回しか、急に教えられた穴場レストラン。
励ましたことへの、遠回しなお礼なのだろうか。
「わざわざ教えていただいてありがとうございます。じゃあ、今日はこれで」
宇月はいって、踵を返し帰ろうとすると「宇月様」と新庄が呼び止めると、そばまで歩いてくる。
「肩にホコリが付いていもすよ」
新庄が肩についたホコリを取りながら、宇月にしか聞こえない小さな声で言う。「あそこは、私も一度だけ連れて行っていただきもした。普段は誰にゅも教えないんですよ」
「あ、へー」
宇月はにんまりしながら、唇を噛むと「じゃあ、私は失礼します。先生、元気出して」と右手でガッツポーズを取る。
「早く行け、美大落ち」
田所の素っ気のない返事の後、宇月は階段を下りて行った。
キャバレー、クリスマス☆の店内は赤を基調とした豪華なものだった。
そこに入り浸るのは実業家や大手幹部社員といった高所得者達。
その店の奥、シャンデリアが飾られたVIPルームでは、木村と三浦の二人が、それぞれ隣に嬢を座らせて酒を飲んでいた。
木村にこのような所に行く趣味はない。三浦が突然に行きたいと言い出したのだ。
三浦はcoot法律事務所、社長の一人息子だった。
社長は三浦を溺愛しており、頭が良く、弁護士の才能はピカイチだとよく風潮している。
しかし、どう見ても三浦は池沼である。
親の可愛がり、ここに極まれりというやつだ。
それだけならまだしも、どうやら社長は三浦がアレなことにうすうす気づいているらしく、木村の共同弁護人に無理やり付けさせている。
木村が勝訴すれば、共同弁護人として勝ちの実績がつくこともさることながら、木村の実力を間近で実感することにより、スキルアップすると思っているフシがあるようだ。
社長には申し訳ないが、それはない。
三浦には才能はおろか、人間が最低限備えているはずの知性も感じられない。
才能があると信じるだけならいいが、こうやってお荷物を無理やり背負わされるのは勘弁してほしいものだ。
だが、木村とてサラリーマン。社長の命令には簡単には逆らえない。
三浦は、基本的には何もしないお荷物なうえ、こうやってたまにわがままをほざいてくる。
いつもはふざけるなと一蹴するのだが、今日は久々にそれを受け入れてやった。
田所のとの裁判は終盤を迎えており、もうやることも少なくなってきている。
ここ数か月は朝から晩まで働き詰めであったし、勝利も目前だった。
このあたりでハメを外しておかないと、体にも心にも毒だ。
「へー、弁護士さんなんだ」
「お、そうだな」
「とっても頭がいいんですね」
「お、そうだな」
隣では三浦が嬢と話をしているが、会話が成立している用には見えない。
あの池沼は、音に対して反射的に声を出しているだけなのではないか、そう思っていると、
「木村さんも、弁護士さんですか」
木村を担当する嬢がそう話しかけてきた。
「まあね」
そう言って、木村は右手に持ったグラスを傾け、ウィスキーを一口含む。
「へえ。弁護士さんになる方って、みなさんとっても頭がいいんですよね」
「いや、そうでもないさ」
木村の脳裏に、宇月の顔がよぎる。「時にとんでもないバカもいる。やる気があればキミにだって――あ、いや失礼。いまのは悪気があったんじゃないんだ」
「いえ。木村さんのおっしゃる通り、私は皆さんと違って、頭もよくありませんから」
木村から見れば、彼女は宇月よりもよっぽど頭がよさそうだった。
「最近は、どんなお仕事をされたんですか」
嬢がきいた。
「近頃テレビで見ないかい。あの、便通の裁判」
目をパッと開き、嬢は分かりやすく驚いて見せる。
「あの裁判を担当なさってたんですか。すごいですねぇ」
「たいしたことないよ」
木村はそっけなく返すも、すごいといわれて悪い気はしなかった。
「あ、でも、確かそれを担当する弁護士さんの名前、ネットで見たことありますよ。確か、田所さんとかいう名前の……あの人ですか」
嬢は三浦を指さしたが、
「いいや、あれは僕の共同代理人。田所は相手さ」
と説明する。
「へえ。で、その裁判は勝てそうなんですか」
「まあね」
「じゃあ、田所って人、名前は知られてるのに、あんまり強くなんですね」
「そんなことはないよ。まあ強い弁護士さ……僕の方が、もっと強いけどね」
自分に言い聞かせるように言った木村は、ウィスキーを口に運びながら、その瞳の中では過去の映像が映し出されていく。
5年ほど前のことだ。
新人にして次々と勝訴を勝ち取り、弁護士界隈でも一目置かれ、自信とやる気に満ち溢れていた。
自分こそが世界で最高の弁護士であり、決して誰にも負けることはないと疑わなかった。
だが、目の前に奴が現れた。
企業案件だった。とある会社、Hが突然、木村が顧問を務める会社の商品を複製品、パクリであると訴えてきた。
それはどう考えても、こじつけに等しいものだった。
普通に考えれば勝てるはずはない。
だが、奴――田所は、謎の証拠を提示し、自らの正当性を語り、果ては裁判長まで丸め込み、それをやってのけた。
なにを主張しても、すべて跳ね返された。
しっかりと下調べをして、シュミレーションをして、考えを尽くして作った証言や証拠も、それを事前に察知していたかのような反論証言や証拠を出され、かき消される。
まるで子供と大人の戦いだった。
プライドも何もかもズタズタに引き裂かれた木村は、裁判後半になると、もはや一言も発することがなくなり、地獄のような気持ちで、この案件が終わるのをじっと待っていた。
それだけで終わればまだよかった。しかし、人間の屑である田所はそこで止まらなかった。
「被告代理人の木村さん」
裁判も終盤。判決一歩手前の口頭弁論で、不意に田所は木村の名前を呼んだ。「こちらに書かれてある分を、読み上げていただけますか」
それは田所が持ってきた証拠の文書だった。
相手代理人にそんなものを読ませるなんて、意味不明だ。
だが、裁判官は止めようとしない。すでに法廷は、田所によって支配されていた。
その状況を利用し、田所は勝訴を勝ち取るだけでは飽き足らず、木村をの心までも完膚なきまでに叩きつぶす気だった。
「ほら、ここに書かれてある文です。これは我々の確実な正当性を語るものです。ほらほら、読んでみてくださいよ。それでいて、どちらが正しいのかその口で語っていただきたいですねぇ。ほらほらほら」
資料を木村の前に出しながら、そう語る田所の顔は悪魔のような笑みに満ちている。
その横暴に、木村は何もいうことができなかった。
ガクッとうなだれ、両目からとめどなく涙を流しながら、
「やめてくれよ」
絶望の境地で、その声を漏らした。
――パリン。
木村の右手に握られていたグラクが砕け、突然のことに隣の嬢は小さな悲鳴を上げた。
「お怪我はありませんか」
それに気づいてすぐさま飛んできたボーイが、タオルで机を拭く。
「ああ、大丈夫だ」
木村はいった。「悪いね、ちょっと……グラスが机に当たってしまって。弁償するよ。それと、僕はもうここで」
木村は立ち上がると、親指で三浦を差した。「勘定なら彼が。安心してくれ、IQはないが金はあるんだ、彼」
そう言って、木村はさっさとクリスマス☆を出て行くと、タクシーを拾って行き先を告げた。
木村はミートスパゲッティを口に運ぶと、その絶妙な味に感嘆の吐息を漏らす。
そこは下北沢の駅から少し離れた場所にあるレストランだった。
メニューはデジタルスティック、ハンバーグ、シャンパンといった統一性のないものだが、どれも高級レストラン顔負けの味だった。
だというのに、知名度は低いのかあまり客はない。
知る人ぞ知る場所であり、しかも裏手にはホモが集まるハッテン場もある、二重の意味で穴場レストランとなっている――というのが、店長平野のいつもの決まり文句なのだが、正直なところハッテン場はこの上なく邪魔でいらない。
しかも、レストランの奥の扉はハッテン場につながっているため、ちょくちょく食事中の目の前を、ガチムチだったりデブの男が通っていく。
扉の向こうでこいつらは何をするんだと考えると、果てしなく食欲を殺してくる。
まあ、これだけ安くて美味しい料理を提供してもらっているんだ、文句は言わないで置こう。
ミートスパゲッティを食べおえ、シャンパンを飲んだ木村は、満足そうな表情をしながらナプキンで口を拭く。
定期的にここにはくるが、いつも大きな幸福感を与えてくれる。
ズズズ、ズズズー。
不意に、そばをすする音が聞こえてきた。
新メニューなのか、これも統一感がないな、と思っていると、それはよく聞くと人が泣いている音だと気が付く。
音のする、レジの方に目を向けたとき、木村はその光景を現実のものとは思いたくなく、ぎゅっと目を閉じて、幻影であれと願ったが、目を開けると何も変わらず宇月がへたり込んで泣いていた。
「ち、違うんです」
宇月は嗚咽を漏らしながら訴えていた。「本当に……本当に財布がなくて……ズズー……無銭飲食じゃないんです」
「言い訳されてもこまるんですよねぇ」
従業員である順平が、すごんでそう言った。
木村はこの順平が大嫌いだった。ガラが悪く、力と恐怖で全てを解決したがるような雰囲気があったからだ。
たぶん、実際にそうだと思う。
「信じてください……ズズー、私、本当に弁護士で……ズビー」
「お客様、泣かれても、困ります」
「うぅ……ズズー」
その様子を木村は、巻き込まれては面倒だ、と思っていると、不意にこちらを向いた宇月と目が合う。
マズイ。
とっさに顔をそらし、別人を装うも、
「あ! き、木村さん! 木村さん木村さん!」
気づかれてしまった。それも名前を連呼される。
当然、順平も木村のことを見る。
店側からすれば、木村に建て替えてもらうことが一番いい解決法だからだ。
「木村様」
静かに歩いてきた順平が、木村に耳打ちする。「あちらの方は、お知り合いですか」
宇月は助けを懇願するように、両手を胸の前で組んでいたが「いや」木村はすぐさま否定した。
「知ってるでしょお! 木村さぁん!」
店内に宇月の声が響き渡ると、木村は立ち上がった。
「やかましい、店に迷惑だ、黙れ!」
「木村様」
順平は、困ったように眉を寄せながら木村に語る。「あの方とは、どういった」
「まあ顔見知りだ。友人ではないし、助けてやる義理もない。携帯で友人を呼ばせればいいだろう」
「それが、携帯も無くしたと」
「なんだと」
キッと、木村は宇月を睨む。
財布と携帯。どうやったそんな大事なものを同時になくせるんだ。
食後の幸福感。それを阻害され気分を悪くした木村は、宇月の元まで歩いていくと、親指でハッテン場を指さす。
「あっちにホモが集うハッテン場がある。あそこで稼いでこい」
「え、なにそれは」
宇月は困惑するも、そんなこと知るかと言わんばかりに、木村は続ける。
「ホモの相手をして金を稼いで来いといっている。さいわい、この店の料理は高いものでもない。2,3回で済むだろう」
「いいいい、いや、いやですよお! だいたい私、女ですし。それと、売春は犯罪ですよ」
「バイか、穴なら何でもいい奴を探せ。超短期的恋愛による、少額金銭の授受は犯罪に当たらない。じゃあ、せいぜい頑張るんだな」
木村は踵を返し「お会計を」と順平に言った。
「お願いですよ、木村さーん」
宇月の懇願など無視して、レジにまわった順平に金を払うさかな、
「いいじゃないですか。裁判には勝つんだからぁ!」
その言葉で、財布を持っていた木村の手がピタリと止まる。
チラリと、肩ごしに宇月を見て、一瞬考えた後、
「あいつの料金はいくらですか」
順平にそう聞いた。
その後、木村は宇月と二人でタクシーの後部座席に乗っていた。
電車賃もなく、3駅先の家まで歩いて帰ろうとする宇月を乗せてやった。
もちろん、かわいそうだからというわけではなく、別の理由があるのだが……。
ふと宇月のほうを見ると、体をもじもじとさせている。
トイレでも行きたいのかと思っていると、
「な、なんですかぁ」
宇月は照れくさそうにいった。「こんなタクシーまで乗せちゃって。もしかして、私に興味あんのか~」
「運転手さん、そこで止まっていただけますか」
木村は体を前に出し、道路の脇を指さす。「このメスブタを下していただきたい」
「冗談ですごめんなさい!」
間髪入れずに宇月が謝ると「運転手さん、やっぱりそのままで」と木村は吐息を漏らしながらシートに体を預けた。「次、下手なこと言ったら本当に下すぞ」
「はい……すいません」
「まったく」
木村は窓枠に肘をつき、外を眺め「……それで、そっちの様子はどうなんだ」と何気なく聞いてみる。
「いや、もう完全に負けムードで。田所先生も……ちょっと落ち込み気味って感じです」
「ほお、そうか」
自然に吊り上がっていく口角。それを隠すため、木村は手を口に添えた。「まあ、無理もないか」
「はい。いやでも、良かったなって思うところもあるんですよ。先生は、負けたことがないから、人間性がゆがんでいて、プライドが天井知らずに高かったんで。きっと、この負けによって、先生は人として成長できる気がします。その点においては、木村さんに感謝しています」
「僕はただ、全力で原告を弁護しただけだ。感謝される筋合いは無いが、まあどういたいしましてといっておこうか」
「はい。あ、着きましたね」
宇月はタクシーから降りると、ドアを開いたまま腰を曲げ、木村にいう。「乗せていただいて、ありがとうございました」
「礼には及ばない」
「それと、おめでとうございます」
「おめでとう?」
木村は不思議そうに聞いた。「何がめでたいんだ」
「田所先生への勝利ですよ。本当は私が最初に倒したかったんですけど、先を越されちゃいました。でも、いつか木村さんに追い付けるよう、頑張りますから」
木村は、フっと鼻を鳴らし「まあ、精々がんばれよ」と返して、軽く手を振った。
「はい」
宇月は返事とともに、バンっと無駄に強めにドアを閉めた。
こういうガサツな女は嫌いだな、と思っているとタクシーは緩やかに発進した。
一人となり、静粛に包まれた車内。
突然、木村はぷっと噴き出したかと思うと、腰をそらし、大声で笑った。
勝った、勝ったんだ僕は。あの忌々しい田所に。
そう実感すると、笑いをこらえずにはいられなかった。
「お客さん、ずいぶんとうれしそうですね」
その様子を見て、運転手が言った。
「ええ、まあね。すいません、大声を出してしまい」
「いえいえ、いいんですよ。確かにいいムードでしたもんね、さっきの女の方と。まあ、多少ブサイクですけど、愛嬌があるじゃないですか」
「運転手さん、あなたの会社の電話番号を教えてください。あなたを訴えます」
おそらく最後となるであろう、口頭弁論当日。
着席している田所の様子は暗かった。法廷に来るまでの間、一言も発することもなかった。
対し、体面に座る、木村の表情は柔らかく、田所を小ばかにしているような笑いも見える。
一応、いくつか指摘する材料を持ってきてはいるのだが、大したものではなく、これではただ死を先延ばしにしているだけだ。
プライドがある以上、あがかずにはいられないのか、それとも、弁護士としての仕事を最後まで全力にまっとうしようとしているのか。
何にせよ、もう結果は変わらない。
判決は出た。後は十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登っていくのみだ。
「――このように、原告の素行はあまり褒められたものではなく」
先ほどから1時間かけて田所が語っているのは、鈴木の中学時代の話だ。
ちなみに、これが始まる前は高校時代の話をしていた。
過去の素行。
それが、田所が見出した最後の攻撃。
しかし、効いている様子はみじんもない。
傍聴席も、はては裁判官まで、こじつけのような証言をいやいや聞いていた。
「いいかげんにしろ!」
そんな中、声を上げたのは木村だ。「高校の話をしたと思えば、中学の話。次は小学校に幼稚園か。出産時のおぎゃーの声まで審議するつもりか」
「まだ私の話は終わっていない。黙っていてもらおうか」
「時間の無駄だといっている、こんなもの聞いていられるか」
実際、木村が行ったことは、法廷にいるすべての人間の総意だろう。
「裁判長」
木村は語り掛けた。「このような無意味な議論は、時間と金を捨てる行為に等しい。どうか、本口頭弁論の終了と、次回判決の決定をここでしていただきたい」
「まて、私の話はまだ終わっていない」
田所が反論するも、
「終わったんだよ」
木村はそう言い放ち、田所のそばまで歩くと、睨みつけながら顔を近づけた。「貴様の負けだ田所。時間を使っても、もうどうにもならない。貴様は何百億という裁判に負けた、無能弁護士として名をはせるんだよ……僕が味わった苦しみを、貴様もじっくり味わえ」
クククと笑いながら木村が着席すると、
「田所代理人」
裁判長がいう。「有意義な証言がでる様子はなく、議論は必要ないと判断します。着席を」
「裁判長――」
田所は反論しようとするも、
「着席を」
裁判長は聞く耳を持たず、言葉を遮る。「田所代理人、わかっていますね、これ以上はいわせないでください」
遠回しに、退廷をにおわせてきた。
田所は目を閉じ、深いため息を漏らし「はい」と自らの席に戻った。
これで、すべてが終わったのだ。
「口頭弁論はこれにて終了し、次回、判決を言いわた――」
裁判長が最後の宣言を行っているさ中、突然、傍聴席のドアが開くと、男が一人入ってきた。
宇月はその男に見覚えがあった。
「遠野……さん」
それは、鈴木の元後輩、遠野であった。
なぜ、今このタイミングで。
そう思っていると、田所が手を上げる。
「裁判長。終了宣言の途中で申し訳ありません。実は、今はいってきた男性、遠野さんは本件においてある重大なことにかかわっておりまして。今すぐ証人尋問の許可をいただきたい」
宇月は息を詰まらせ、田所の顔を見る。
そんな話はまったく聞いていないし、素振りも見せていなかった。
「どうして、その重要な証言者を今まで出廷させなかったのですか」
突然のことに騒めきたつ傍聴席をおいて、裁判長は聞いた。
「このようなことになったことを、先にお詫びします。遠野さんは、ある複雑な理由で、出廷ができないでおりました。裁判が始まってから、私も出ていただきたと説得を続け、この状況に至ります。どうか許可を」
「ダメに決まっているだろう」
割って入ったのは木村だった。その顔には、若干の焦りが見える。「先ほど、もう裁判は終了したんだ」
「まだ終了の宣言はしきっていなかった」
「終わったも同然だろう。それに、こんな急に証言者なんて」
「キミに言われる筋合いは無いな。先にそれをやったのはそっちだ」
「我々は本人尋問だ」
「そんなものは関係ない!」
田所は言い放つと、今度は裁判官に向く。「裁判長、あなたはおっしゃいましたよね、状況を判断し、我々にも突発的な尋問を許可をすると」
そう言うと、裁判長は苦い顔をした。
事実、そう言っていっていた。突っぱねることはできない。
「どうか、公平中立な判断をしていただきたい。我々にも尋問の許可を」
深々と頭を下げる田所。
その様子を見て、裁判官と話し合った裁判長は、
「分かりました。尋問を許可します」
それを受け入れた。
当然だ。木村の例がある以上、認めなければ公平ではない。
「ありがとうございます」
礼を言って、田所は遠野を証言台に案内する。
それにしても、いったい何を証言させる気なのだろうか。
前にあった時は何もないといっていたはずだ。それなのに、なぜ。
宇月は疑問に思いながら、ふと鈴木の方を見ると、異様に緊張していることに気が着いた。
それも尋常ではない。下を見て、苦しそうに息で肩をしていた。こちらまで苦しくなりそうなほどだ。
証言台に立つ遠野。
空気がピリつくような緊張感が法廷に漂う。
ここまで来て……いったいなんの証言を?
全員の射るような目が証言台へと向く中、遠野は口を開いた。
「僕は……原告に……鈴木さんに……体を触られ、む、無理やりキスをされました!」
ほんの一瞬、法廷から音が消えた。
そして――
「ええええええ!」
その静粛を最初に破ったのは、宇月の驚きの声だった。
それを皮切りに、ざわざわと沸き立つ傍聴席。
「静粛に! せ、静粛に!」
そう促す裁判官の声にも困惑の色が見える。
キス? 強制わいせつ罪……いや、最悪の場合、強姦未遂にも当たる可能性がある。
「ほう、その被害はいったいどこで受けましたか」
大混乱を起こしている法廷の中、田所は粛々と質問をする。
「会社の倉庫で、必要な資料を整理していたときです」
「どんなふうにでしょうか」
「後ろから、急に抱き付いてきたんです……僕はやめてくれって言ったんですが、体をまさぐられ、それから唇を無理やり」
「証拠は……証拠はあるのか」
木村が言った。すると、
『先輩! なにしてるんですか。やめてくださいよ本当に!』
不意に、法廷に響いた遠野の声。
それは田所が手に持つ携帯から流されていた。
田所は携帯を操作し、いったん音を止め、
「こちらは、証人の携帯に録音されていた音声です」
といってすぐに再生した。
『暴れんなよ……暴れんなよ……』
次に携帯から聞えた声は、どう聞いても鈴木の物だった。
その声と一緒に、服の生地が擦られるような音が聞こえた。
鈴木が遠野に抱き着いている映像が、鮮明に思い描ける。
『鈴木さん……ちょっと、まずいですよ!』
次に聞えた遠野の声は、明らかな不快感が滲んでいた。
『いいだろ遠野!』
『やめてください……う、うもう』
「このときに、遠野さんはキスされました。そうですね」
田所の問いかけに、遠野は頷く。
『遠野気持ちいか、気持ちいいだろ……お前のことが好きだったんだよ!』
鈴木の迫真の告白とともに、録音は終了した。
「遠野さん、この時のお気持ちをお聞かせください」
「気持ちって……もう……なんて言ったらいいか」
遠野は頭を垂れて「気持ち悪くて……怖くって」と嗚咽を漏らして涙を流すと、田所はその背中をさすった。
「お察します……私からは、以上です」
田所が自席に戻ると、急なことで戸惑いながらも「原告代理人、質問は」と裁判長は木村にいった。
木村はハッとして顔を上げ「ああ、はい」と立ち上がる。
その額にはハッキリと玉の汗が浮かんでいた。
「えっと……遠野さん、あなたは強制わいせつを受けたとおっしゃっていましたが……それは本当ですか。原告と少なからずそういう関係で――」
「音声を聞いていなかったんですか!」
木村の質問に、遠野は声を荒げる。「僕が喜んでいたとでも!」
「あ、いえ、申し訳ありません」
戸惑いを見せながらも、木村は何とか質問を続けようとする。「でしたら……えっと……どうして今までそのことを黙っていたのでしょうか」
「彼は何度も誰かに言おうとしました」
田所がそう説明する。「ですが、言おうとしたところで、どうしても言葉が出なかったのです。セクハラとはそう言うもの……誰かがおっしゃっていました。誰なのかは忘れましたが」
木村は反論できなかった。
そう、それをいっていたのは木村本人だからだ。
その後、木村は必死に質問を練りだそうとしているのか、頭を振るも何も出てこない。
「裁判長」
それを見て、田所が手を上げる。「どうやら木村代理人は、もう聞くことがないようです」
「木村代理人」
裁判長が呼びかけると、木村は「はい」と悔しそうに席に戻った。
「では」
田所は喉を鳴らした後、立ち上がっていった。「遠野さんへの強制わいせつについて、その有無を本人に問うべく、今すぐに原告に対する本人尋問を始めさえていただきたい」
その尋問はすぐに承認され、鈴木は証言台に立たされた。
今にも吐きだしそうな表情だ。
「鈴木さん、あなたに聞きます。先ほど、遠野さんが証言していた強制わいせつは本当でしょうか」
鈴木は体を震わせたまま、何も答えない。
「鈴木さん答えてください。彼に対し――」
「まて」
割って入ったのは木村だ。「……その人は……彼女はLGBTだぞ」
「それが何か」
「何かって、彼女はなあ、世間から抑圧されて――」
「だったら罪を許すのか!」
木村の反論は、田所から発された声にかき消される。「LGBTの社員を辞めさせるのが悪なのか。LGBTの全ての要求をのまないとそれは差別なのか。LGBTは犯罪をしても許されるのか……ふざけるな、そんなものは正義でも何でもない、ただの横暴だ!」
田所は両手を後ろに組み、鈴木の周りを歩く。「事実、我々人類は歴史の中で、彼女ら性的少数派を差別してきたのかもしれない。だからといって、それを理由にすべてを許すことも、特別扱いしてもならないはずだ。そんなことをすれば、新たなる偏見を生み、そしてさらなる差別を生むだけだ……どうしてそれがわからない」
田所の問いに、木村は何も答えない。「差別は悪だ。彼女らが彼女ららしく生きるのを、誰も止めてはなりません。しかし、我々ノンケ、ヘテロセクシャルと同じように、法を厳守し、法廷の出した判決に従わなければならない。それが彼女たち、性的少数派を真に認めるということではないでしょうか」
田所は足止めると、鈴木に対して力強く指さす。「そのためにも、今この場で、セクシャルマイノリティでも、セクシャルマジョリティでも、法の前ではすべてが平等であることを示さなければならない。すべての性的指向の人間が、誰にも邪魔されることなく、幸せになれる社会のために……さあ、鈴木さん、聞かせてください……遠野さんの証言は、事実ですか」
うなだれ、丸くなった鈴木は、体を震わせながらも「事実です」とか細い声でつぶやいた。
しっかりとそれを受け取った田所は「ありがとうございます」とうなずく。
「以上の証言からして、原告、鈴木福子は後輩に対してわいせつ行為を行い、社員に対して多大なる精神的苦痛を与え辞めさせ、社益を著しく損ない、またその他さまざな要因を照らし合わせると、便通が原告に対して下した解雇は、正当かつ彼女の性的指向に左右されてはいない倫理的かつ合理的判断だって、ハッキリ――」
田所は勝利の笑みを讃えると、指で鼻の下をこすった。「……わかんだね」
口頭弁論が終わり、みなが法廷から退出していく中、木村は立ち上がらず、じっと宇月を睨みつけていた。
「じー、なんでこっち見てんのかな……こっちみんな」
「何をしている」
一人つぶやいている宇月を見て、立ち上がった田所は聞いた。
「あ、いや、木村さんが……」
田所が木村を見ると、フンっと鼻を鳴らした。
「そうだろうなぁ……奴は、お前に騙されたと思っているからな」
「え、えぇ……なんで私が」
「そんなこともわからないのか。まあいい、さっさと行くぞ、人を待たせている」
「待たせてる? 誰をですか」
「いいから早く行くぞ」
足早に裁判所から出ていく田所に、宇月はついていく。
「しかし、よかったですね、最後の最後で遠野さんが証言してくれて。ていうか、あんなのあったんなら私に教えといてくださいよ」
田所が負けなかったことが、ちょっと残念ではあるが、鈴木の悪項を暴き、裁判を勝てたことを良しとしようと思っていると、田所はふーっと重く長いため息を吐く。
「お前は……ほんっとうにどうしようもない美大落ちだな」
「え? なんですか急に」
そう答えると同時、田所が向かう先にあるもの見つけ、宇月は何度も瞬きをする。「え……え、ちょ、あれって、もしかしてリムジン」
そこには運転手の服装をした新庄も立っていた。
「お疲れ様です」
「待たせて悪かったね、新庄君」
「いえいえ、滅相もございません」
その田所と新庄のやり取りから、待たせているというのは新庄のことだったらしい。
「どうしたんですか、新庄さん。こんなところで、それもリムジンなんて」
宇月は聞いた。
「1時間ほどかける予定だったからな」
新庄に変わり、田所が答える。「さすがに、その辺りで待たせるのは失礼だろう。それに、木村に気づかれても困る。確実に見つからないような場所を用意しておいた」
一時間ほどかける……木村さんにばれないため……?
こんがらがる頭をかしげていると「宇月様、こちらを」と新庄から何かを手渡される。
それは、宇月の携帯と財布だった。
「え、なんで新庄さんが。どこで見つけたんですか」
「ハハ、そちらに関しては、田所様にお聞きください。中へどうぞ」
「どぉ……え? ちょ、もう分けかかんねぇよ」
何が何だかわからず混乱したまま、新庄がドアを開けると、とりあえず宇月は田所とともに車内に入る。
緩やかにリムジンは発進していった。
田所は着席してすぐ、棚に置いてあったグラスを手に取り、シャンパンを開けて中へ注ぐ。
「貴様もどうだ。勝利の祝杯だ」
「結構です。先に、いったい何をしていたのか教えてください」
「まったく」
田所は面倒くさそうに眉を寄せると、シャンパンを一口飲んだ。「いちいち口で言わなきゃならないか。言わずとも察してくれるとありがたいんだが」
「わかるわけないでしょ。それで、ここでは誰を待たせていたんですか」
「決まってるだろう、遠野君だ」
「と……遠野君が? でも、なんで」
「裁判長がいっていただろう、例外的に許可すると。あくまで、例外的だ。こちらも切迫しているところを演出するべきだと思ったんだ」
「ちょっと待ってくださいよ。ということは、遠野君は決心して、ギリギリで法廷に来たんじゃなくて、ここで終わりそうになるのを待っていたってことですか?」
「その通りだ。ちょっと頭を捻れば分かりそうなもんだがな」
田所はいって、グラスをぐっと傾け、シャンパンを一気に飲み干す。
「なんでわざわざそんなことを? 鈴木さんが強制わいせつを行ったという、決定的な証拠があったじゃないですか。別に、こんなことしなくたって」
「ああ、それは」
田所はポケットから携帯を取り出し、操作した。「これのことか」
すると、法手で流れたものと同じ音が流れ出す。
「そう、これですよ。これがあれば、別にあんなことしなくて――て、なんでこの音声が先生の携帯に保存されてるんですか」
「うーん、ちゃんと聞けばわかるものだがなぁ……そこまで似ているか?」
「似ているかって――」
宇月は携帯に向いていた視線を、急スピードで田所の顔に向ける。「ま、まさかこの声」
「そうだ、私の声だ」
「ええええええ!」
あまりのことに、宇月は叫んだ。
「やかましい! こんな距離で叫ぶな!」
「いや、でもこれ、偽造ですよ! 証拠偽造。犯罪になります」
「お前は私の話を聞いていなかったのか? 私は一度たりともこれが証拠だとはいっていない。あくまで、証人である遠野さんの携帯に残されていた音声だといったんだ」
宇月はぐっと息を詰まらせた。
先ほどの裁判は、一言一句思い出すことができる。
実際に田所は一度も証拠だとはいっていなかった。
田所は続ける。
「突然に受けた強制わいせつの音声を、録音できるわけがないだろう、普通に考えて。これが証拠ではなく、私と遠野君による状況再現の音声であること。それを勘繰られないためには、普通に尋問していては不可能だ。相手が勝利を確信し、緩み切ったところで、不意にぶつけるしかない……そのために、裁判長とわざわざ口論して、例外的に許可をするという言質をとり、そして、お前を利用した」
利用?
宇月がその単語を疑問に思った瞬間、すぐさまあることが脳裏をよぎり、すぐに新庄から受け取った携帯と財布を取り出し、田所の顔を見た。
「もしかして……これって」
――宇月様、申し訳ございません。
天井にあるスピーカーから、話を聞いていたのか新庄の声が聞えてくる。
――田所様の命令で、あなたも携帯とお財布を盗もせていただきました。
宇月の脳裏に、アクシードへ向かう前、新庄に肩のホコリを取ってもらった映像が思い起こされる。
あの時にとられていたのだろう。
「やっぱり……じゃあ、私にアクシードを教えたのも」
「やっと頭がまわってきたじゃないか。その通り、私の作戦だ。貴様にあんな穴場レストランを教えるわけがないだろう。お前を伝って、私が落ち込んでいると知れば、一気に勝利を確信する。そんな時に、最後の最後、終わりの瞬間で、強制わいせつの反対尋問だ。反論もうまくいっていなかったし、音声の偽装も気づけなかった。それで、完全に逃げられないと悟った原告は自白した」
「すべて……先生の手のひらの上ってことですか」
「まあ、そうなるな」
「最初から、全部教えてくれればよかったのにぃ」
「バカに作戦を教えるか、相手に漏れたら困る」
「そんな、ひどいですよ」
宇月はずーんと、肩を落とした。「そのせいで……私、木村さんにすごい恨まれてますよ」
「なんだ、そんなにいい仲だったのか」
「え? いや、いい仲っていうか」
宇月は頭をかきながら、もじもじと体を動かす。「まあ、そんな感じってわけじゃないんですけど~、悪くなかったっていうか~、これから何かが始まるかもっていうか~」
「まあ、今日でお前は憎しみの対象になったわけだから、それも終わりだな」
宇月はさらに深く肩を落とし、うなだれた。
「落ち込むな、落ち込むな!」
田所は嬉しそうにシャンパンを注ぐ。「男なんて腐るほどいる。それに今日の勝訴でばーっと金が入る。お前にもボーナスをやろう、それで好きなだけ遊ぶといい。さあ、飲め飲め、勝利の祝杯だ! ハーハッハッハッハ」
下北沢へ向かうリムジン中では、不愉快な男の笑い声が、延々と響き続けるのだった。
原告敗訴! どうなるLBGT問題。
事務所のリビングで、昨日からずっと持ちきりである裁判のニュースを、仕事の合間、宇月は頬杖をつきながら見ていた。
昨日の心の傷は癒えた。あんなことでいちいち落ち込んでいたら、田所の部下はやっていけない。
しかし、このLGBTの問題というのは、いったいどうやれば終焉を迎えれるのだろうか。
真の平等など、どこにもない。
田所はそう言っていた。しかし、だからといって平等であろうとすることを放棄してはいけないはずだ。
昨日の判決によって、問題は解決に向かったのだろうか、それともさらにこじれたのだろうか。
宇月はふうっとため息を漏らすと。
「美大落ちごときが、なにをため息なんてしている」
後ろから毒づきが聞こえ、振り返ると当然そこには田所が立っていた。
「別にため息ぐらいいいじゃないですか。ほらあの、私たちの裁判のニュースです。これでLBGT問題はどうなっていくんだろうって」
「そんなこと、貴様が悩んだところでどうにもならないだろう。一つ分かることは、問題があるからといって急な改革を行うと、さらに大きな別の問題が起こるということだ。徐々に、ゆっくりと浸透させていき、常識を変えるほかない」
「すぐには解決しないってことですか」
「その通りだ。だから、下手なことはせずに時間が過ぎるのを待とう。きっと、見えないところで誰かが変えてくれるはずだ」
「それって、自分にはたいして関係ないから、そう思い込んでいるだけでしょう」
「否定はしない。ただ、反論をしておくと、人間とはたいていそういう生き物だ」
宇月はむすっと膨れた表情をすると、テレビでは急に記者会見の映像が流れた。
どうやら速報らしい。
――私はレズビアンです……それを理由に解雇されて。
見たところ、同性愛者が企業から解雇にあったらしい。
とんでもなくデジャブを感じていると、
「ええ、ええ……その問題で、ぜひとも私に代理人を担当させていただきたい」
気が付くと田所が電話をしていた。
話の内容からして、テレビに映っている女性に対するものだ。
「え、ちょ、先生?」
田所は聞く耳を持たず、会話を続ける。
「私も常々、そう思っています。いまこそ、セクシャルマイノリティの方々の権利を主張するべきだと……いえ、あの裁判は仕方なくといいますか、まあ都合上、弁護したまでで、本当は嫌だったんですよ。ともかく、あなた方ICPU……じゃなくて、えっとAMPM? いや、ともかく、あなた方の力になりたい……そうですか……はい、はい、もちろんよろしくお願いします。早急にそちらに向かいます。では失礼」
田所は電話を切ると「新庄君、車を出しなさい」と叫んだ。
「ちょちょちょ、ちょっと」
ガレージへ向かおうとする田所の腕を、宇月はつかんだ。「受けちゃうんですか! 前回の物と、まったく真逆の裁判ですよ。弁護士としてどうなんですか! それに、急な改革はまた別の問題を――」
「やかましい!」
田所は宇月の言葉を遮る。「そんなものしったこっちゃない! いいか相手は大企業だ、どれだけふんだくれるかわからんぞぉ~」
「結局、お金なんですか! 正義だ平等だ権利だって、いろいろ語ってた割には、本当はどうだっていいんですか!」
「その通りだ!」
まさかの開き直りに、宇月は放つ言葉を失う。
この……この人は……。
「に、人間の屑!」
宇月の口から出たのは感情的な罵倒。それに対し、田所は腰をそらして大声で笑う。
「何とでもいうがいい! 屑だろうが糞だろうが小便だろうが、勝った奴が正義だ。それがいやなら、お前が相手代理人になって私に勝ってみろ美大落ちぃ~」
田所はニヤァっと、粘着質を感じさせる笑みを見せるも、宇月は何も言い返せなかった。
「じゃあ、留守番はたのんだぞ」
足早にガレージへ向かっていく田所。
その背中を、肩を落として宇月は見ているしかなかった。
窓の外では、田所を乗せたのであろう黒塗りのセンチュリーが、家から離れていく。
それを不服そうに見て、宇月は一人思った。
LBGT問題。
それの解決は、まだまだ先なのだろうなと。