荒野に生命の気配はふたつだけ。その地平には戦乙女と契約者のみが立っていた。
数十秒前まで貧弱な人間を喰い殺そうとしていた魔獣の群れは、その前に立ち塞がったワルキューレによって完膚無きまでに滅ぼされた。彼女、正確に言えば彼女たちの振るう神槍が一切の不浄・魔性を焼き尽くしたのだ。
魔力探知をすり抜け、突如上空より飛来した竜種の群れに気付いた金髪の戦乙女───スルーズは、契約者である藤丸立香に令呪の使用を要請。カルデアの発電所が一日かけて編み上げる膨大なリソースを三画投入し、間一髪で連続展開された宝具によってマスターの生命は守られた。
「ご無事でなによりです、マスター」
「スルーズ、ありがと……死んじゃうかと思った…………」
みっともなく腰を抜かしたまま、藤丸が礼を言う。その気の抜けた笑顔を見た瞬間、戦乙女は張り詰めていたものが切れると同時に胸の疼痛に気がついた。
それを些細な
視界が狭まる。眼前のマスター以外の景色が急速に消え失せ、大神によって定められた根本原理が音を立てて崩落して行く。世界が回り、足元が揺らぎ、少女は乾いた大地に膝をついた。複写された
明らかに様子がおかしいスルーズを心配したのか、マスターが少女の顔を覗き込んだ。
「連続で宝具使わせてごめんスルーズ! 大丈夫!? 魔力ちゃんと通ってる……?」
「はい、霊基に損傷は見られません。ですが……」
その時、戦乙女にあるまじき感傷が頬を伝った。少女はそれを指先で拭い、そのまま自らの唇へと運ぶ。
「これ、は」
大神の入力通りに行動する彼女らにとって意識外の行動などありはしない。だがしかし、現に理解不能の挙動が少女の霊基を支配している。
溢れる涙は止まらない。じくじくと響く胸の痛みと、安堵にも似たこれ以上無い多幸感が続く。
実のところ、少女は近いものを経験したことがあった。
それは数ヶ月前。ノウム・カルデアへ再召還された戦乙女の長姉──ブリュンヒルデと数千年越しの再会をした際。その時に感じた、氷が溶けるような胸のあたたかさ……不明な感覚に似ていた。
ただ、その時とは明確に違うものがある。
それは高鳴る鼓動と熱い頬。駆け足の拍動は思わず自らの胸へ手を当てるほど。白磁のようだった少女の肌は今や鮮やかに上気し、暴走する感情が露見していた。
「スルーズ、大丈夫?」
令呪の痕が残る手のひらが、いたわるように少女の肩へ添えられた。華奢な肩が跳ね上がった。
「私、は」
少女は必死に舌を動かし、言葉を紡ぐ。しかし、荒れ狂う感情の嵐へ墜ちた霊核は冷静な思考を編むことなどままならない。
やがて少女は思考を放棄し、衝動のままに藤丸の手のひらを自らの頬へと導き、その白い手を重ねた。
「スルーズ?」
「少しだけ、このままで」
眠るように下された目蓋から、次々と感情の雫が溶けてゆく。それを優しい指が、静かに拭った。
冷たい外気に晒されていた手のひらは熱い頬と体温を交換し、少しずつ温められて行く。
──やがて、永遠のようで一瞬の時が通り過ぎ、少女がようやく口を開いた。濡れた紅玉の瞳は、未だ感情に揺らめいている。
「あなたが死んでしまったら、戦う理由が無くなってしまう」
「……ふたりともちゃんと生きてる。こうやって触れ合えるのが何よりの証拠だよ」
藤丸は空いた手で少女の髪を撫でる。黄金でできた絹糸のような金髪が指の間を通り抜けた。
くしくしと側頭部を撫でられる少女はくすぐったそうに口元を綻ばせ、泣き笑いの表情となっていた。
「私っ、私はっ、ワルキューレ失格です。魂の行き先なんかよりも、あなたの笑顔しか考えられない」
嗚咽交じりのその告白に、藤丸の心臓が同じように跳ねた。
「本当に、護れてよかった」
少女はそのまま藤丸に抱きつくと、静かに啜り泣き始めた。
エーテルによって編まれたかりそめの心臓は、鼓動を愛しき人へと伝え続ける。少女が落ち着く頃にはゆっくりと歩くような拍動へと変化していた。
▽
「ご心配をおかけ致しました」
「ああいや、平気ならいいんだけど。それに心配させたのはこっちだし……本当に大丈夫?」
藤丸の声には懸念が滲む。少女は頬を染めたまま視線を外し、羞恥の色を見せていた。
「ええ、単なるデバッグのようなものですから。それに、ようやくお姉さまのことを理解できた……ような気がします」
少女は意を決したようにマスターへ向き直り、首を少しだけ傾けて微笑んだ。その可愛らしい、少女然とした仕草に藤丸は少しだけどきりとした。
想い人の五指に自らの五指を絡めて握り直す。そして、透き通った瞳を見つめる。ただそれだけのことで、少女はくたびれた霊基に力が漲るような気がした。
「さあマスター、帰投しましょう。きっと皆さんがあなたを待っているはずです」
腕を引かれるマスターは、困惑しながらも笑顔をこぼした。
▽
レイシフト特有の一瞬の浮遊感、足裏へ伝わる硬質な床の感触。無事に作戦は終了し、戦乙女とマスターはカルデアへ帰還した。カルデアで待機していたスルーズの同型機───桃色の髪の戦乙女、ヒルドが駆け寄る。
「おっかえり〜……って、どしたのスルーズ?」
「…………」
「スルーズ?」
コフィンの向こう、バイタルチェックを受けに行くマスターの姿が見えた。
スタッフたちと話す、楽しげな背中。
その背中を見つめていると、スルーズは再び不思議な感覚に陥った。もはやヒルドの声すら耳に入らない。
「えっ、怖っ! 今日のスルーズ、なんか変だよぉ!!」
「静かになさい、ヒルド」
もやもやした何かがつきまとい、胸を締め付ける。先程の感情とはまた別のものであり、どちらかといえば不快な要素が強い。更にいえば、戸惑いの成分が大きい。
『あの人が、私以外と、楽しそうに話すのは、なんとなく、気に入らない』
少女が戸惑うのも無理はない。戦乙女には本来存在しない、傲慢かつ浅ましい嫉妬の炎なのだから。
と、熱を持って見つめるスルーズに気付いたのか。マスターの身体が翻り、少女を見据えた。そして、笑顔で手を振った。
そして戦乙女の胸に大輪の花が咲く。先程と同じく全身を多幸感が駆け巡り、心臓が高鳴る。その表情、その仕草、その声、ありとあらゆる要素が少女の心を揺り動かす。
「……やっぱおかしいよ今日のスルーズ!」
瞬時に赤面し頭の羽根をパタパタと動かすスルーズの隣、疑念に満ちた表情のヒルドが首を傾げた。
恋する戦乙女は大慌てで平静を装い、淑やかな笑顔で言葉を返す。
「……本当に、おつかれさまでした、私のマスター」
そして小さく息を吐き、書物で得た情報、かつての長姉の姿、それらと自らの状態を照らし合わせ、ようやくひとつの確信を得る。
(ああ、やはり。これが───恋、なのですね)
▽
スルーズはその日、戦乙女の記録同期を行わなかった。本来あってはならない、私的な理由である。