――2039年5月22日 09:25
ギャビンとナイナーが、この前逮捕したというレッドアイスの売人の尋問のために席を外してから数分後。
机に備えつけられた端末と渋い顔で睨み合っているハンクの様子を、コナーは自分の席からそっと観察していた。
スキャンを実行し、彼の体表面温を測定する――【36.8℃】。よかった、平熱だ。
視線に気づいたハンクが、こちらを向いて訝しげに言う。
「どうした?」
「すみません、警部補」
謝りつつも、口元に微笑みを湛えてコナーは答えた。
「念のため、あなたの健康状態を調べていたんです。本当に、すっかり快復されましたね」
「ああ、おかげさんでな」
なぜか苦々しげにそう言ってから、ハンクはため息をついて続ける。
「安心しろコナー、俺はもう二度と風邪なんかひかねえよ」
「本当ですか?」
「ああ」
警部補は実感の籠った声音で深く頷いた。
「野菜スムージーだろうが8時間睡眠だろうがどんとこいだ。咳き込むだけで救急車呼ばれそうになるのよりゃマシだろ」
「警部補、それは」
どうやら、ハンクは健康の大切さに目覚めてくれたわけではないらしい。
数日前の出来事を曲解しているのだと、コナーは抗弁した。
「誤解です、私は救急車を呼ぼうとしたのではありません。私のデータベースでは判断がつかなかったので、専門家に質問しようと」
「熱が出てりゃ咳くらいするだろ。いちいち電話すんな、相手にも迷惑だろうが!」
「いいですか」
努めて静かに、言い聞かせるように、ハンクに説く。
「2日前のあなたの病状から、さらに重篤な感染症に罹患する確率は3%もあったんですよ。警戒は当然です」
「ああ、そりゃ大ごとだったな。これからは道歩く時も、隕石が降ってこないか警戒しとくか」
要は、大げさだったと言いたいのだろう。
――隕石が落ちてくる確率は160万分の1なので、比較対象になりませんよ――と言い返したい気持ちを、コナーはぐっと堪えて無言で応えた。
そもそも警部補が高熱を出す原因となったのは、他ならぬ自分だったからだ。
下水道に潜むアンドロイドの新興宗教団体を調査した後、うっかり下水に落ちてそのまま河まで流されてしまったコナーを、助けようとしてハンクは風邪をひいた。
だから彼が少しでも早く元気を取り戻せるよう努めるのは、相棒としても、また恩人に対する態度としても、当たり前のことだ――と、その時のコナーは思った。
そこでハンク・アンダーソン名義で備品の貸与申請を素早く提出した後、持てる医療知識とダウンロードした看護関連のデータを総動員して、全力で警部補の看病にあたったのだ。
もし彼の身に、これ以上何かあったら――その時に起こるだろう出来事をプログラム上で予測するだけで、今までに感じたことがないほどの「後悔」と「悲しみ」に見舞われる。
しかしそんな変異体特有の感情の揺れ動きを、持ち前の責任感でなんとか抑え込んで過ごしたのである。
確かにハンクの言う通り、彼が咳き込むたびに救急相談センターに問い合わせたり、何かあってもすぐ対応できるように一晩中寝室の隅で待機していたり、水分補給に備えてスポーツ飲料を合計72本も注文してしまったりしたのは、今にして思えば、
「たく……大騒ぎしやがって」
再び端末に視線を向けつつ、ハンクは肩を竦めた。
「ただの風邪だっつっても聞きゃあしねえんだからよ。お前は心配性な婆ちゃんか何かか」
「いいえ、あなたのパートナーです」
警部補を見据えてきっぱりとコナーが言い放つと、彼はまたなぜか、深く嘆息するのだった。
「……ま、なんだ」
視線は動かさぬまま、ハンクはぶっきらぼうに言う。
「世話かけたな、コナー」
「いえ……元はといえば私のせいですから」
こちらの返答を聞いて、ハンクは鼻を鳴らした――口元はうっすら笑っていたが。
そしてそれきり彼は黙ってしまったので、コナーもまた、欠勤している間に提出されたナイナーの報告書や、直近のウェブニュース記事などを確認し――
「……警部補」
その中の一つに目を留め、またハンクに声をかける。
「サイバーライフが、半年後を目途に『ナノドロイド』を発売するという報道がありますね。極小の球体アンドロイドで、人間の体内に入ってがん細胞を直接攻撃し、免疫システムを向上させるそうです」
7ヶ月ほど前に雑誌で取り上げられていたそれが、いよいよ富裕層向けに販売開始される見込みだと今朝発表されたらしい。
「それがどうかしたか?」
警部補の問いかけに対し、顎に軽く手を当てて、思案げにコナーは言う。
「もしかすると、購入を検討したほうが……」
「おい、冗談じゃねえ! んなもん、誰が身体に入れるか」
「ええ、もちろん、そう言うだろうと思ってましたよ」
ちょっとしたジョークだと示すために、小さく笑う。
「ただ、サイバーライフも新しい販売戦略を立てているのだと思って。今回の看病で、私も健康に寄せる人々の関心の理由をより実感できました」
「ああ、俺には理解できないね。好きなもん食って好きに生きるほうが『健康的』だろ」
嘯くようにそう言って、ハンクは傍らのドーナツを口に運んだ。
――かつて、ロシアンルーレットと深酒とで少しずつ自分自身を死に追いやっていた彼は、今はそんな行為からはすっかり足を洗っている。
でもどうか、ただでさえ過度の飲酒や心労で傷ついている自分の身体を、もっと労わってほしいものなのだが――
こうなっては、ハンクの体調をより改善できるよう、またもう二度と彼を病気になどしないよう、パートナーとして健康に関する広範な知識を獲得し、実践的な技術を学習しなくては。
コナーは自分のプログラム上に、【栄養学的に完璧な一ヶ月分の献立の作成】をリマインドした。
と、その時である。
端末上に、新しい通報に関する情報が表示された。救急隊からの緊急連絡だ。
事故という通報を受けて出動したところ、発見された遺体の状況に事件性があり、アンドロイドの関与の恐れがあるため市警の出動を要請するとのこと。
そしてその現場は、デトロイト市内の――
「……動物園だ?」
端末に表示されている同じ情報を見ながら、ハンクが険しい表情で呟いた。
次いで彼の目がこちらを向き、かちりと視線が合わさる。
――どうやら、仕事の時間のようだ。
ほどなくして正式に出動の要請が下ると、コナーとハンクはオフィスの外へ歩きだす。
通報のあった動物園は市内の中央部にあり、ここから車を飛ばせば20分程度で着く距離だ。
情報の詳細は現場に行かなければわからないが、アンドロイドが関与している恐れがあるとなると、事件に巻き込まれたのは(しばしばジェリーと呼称される)EM400型だろうか。……それとも?
思考を巡らせながらオフィスのゲートまで来たところで――どうやら考えに耽っていたのはコナーだけではなかったようで――ハンクは、向こうから来た人影とぶつかりそうになった。
「おっと、こりゃ失礼」
歩を止めた警部補が謝ると、相手――杖をついた若い女性はにこやかに応える。
「いえ、こちらこそよそ見してしまって」
黒く長い髪、少しやつれた白い肌、しかし上品な顔立ちが印象的な人物。初めて見る顔だ。
「ガーランドさん」
と、オフィスの廊下のほうから彼女に呼びかけたのはティナ・チェン巡査だった。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「はい」
ガーランド、と呼ばれた女性はこちらに軽く会釈すると、杖をついてはいるが確かな足取りで、チェン巡査のもとへと歩いていく。
すれ違いざまに、ふと、コナーは彼女のフェーススキャンを実行する――ハンクには悪趣味だから止めろとよく言われているのだが、捜査の役に立つ時もあると思うと、つい癖になってしまっていた。
女性の名は、【マーサ・ガーランド 32歳】。職業は【インテリアデザイナー】。犯罪歴はなし。
データベースの備考によると、昨夜デトロイト市内で車上荒らしに遭ったとのこと。
今日ここに来ているのは、きっとその被害届を出すためなのだろう。
「おい、何やってんだ」
「すみません、今行きます」
ハンクに急かされ、歩みを速める。
改めて救急隊から送られた情報を精査しながら、コナーは普段そうするように、マーサ・ガーランドに関するデータをプログラム上の【人物情報】フォルダに整理したのだった。
***
――2039年5月22日 09:54
日曜日の動物園は、開園から約1時間とあって大いに賑わっていた。
園内の通報騒ぎはまだ広まっていないようで、通り過ぎる人々は、人間であろうとアンドロイドであろうと幸せそうな笑顔を浮かべ、平和な時間を謳歌している。
今コナーたちが立っている入り口付近などは、特に賑やかで温かな雰囲気に満ちていた。
たまの休みを大切な存在と過ごせるからなのだろう、カップルや家族連れはこれからの時間への期待に胸を膨らませ、園のゲートをくぐっていく。
そんな客たちの様子を分析しながら、コナーは、傍らに立つハンクの視線が、行き交う子どもたちにだけ注がれているのに気がついた。
無言のまま腕を組んで立っている彼の姿は、端からは、なかなか迎えにやって来ない通報者たちに苛立っているように見えることだろう。
けれど警部補の瞳は、親に手を引かれながらはしゃぐ幼い子どもを捉えた時に、柔らかく細められているのだ。愛おしいものを見るような、少し切なそうな――
「……懐かしいな」
こちらに対して言うでもなく、ぽつりとハンクは呟いた。
――その言葉に、ともすれば、以前の自分なら「何がです?」などと問いかけていたかもしれない。
だがそんな質問は、予測するまでもなく、まさに愚問というものだ。
この状況で彼が懐かしむ存在など、一人しかいないのだから。
ここはデトロイト市警からも近い場所で、ハンクの自宅からもそう遠くはない。きっとかつて、休日のひと時をここで過ごしたのだろう――コールと。
その思い出の重さを知っているからこそ、コナーは、警部補にかける言葉を見つけられなかった。
だから音声プロセッサにかすかに届く動物や鳥の鳴き声に意識を傾け、音声分析を実行していると、ようやく入園ゲートの向こうから、いくつかの人影が現れる。全員、人間だ。
「申し訳ありません、遅れました」
礼儀正しく謝るその男性は、飼育員の格好をしていた。薄緑色の作業着に、同じ色の帽子。
顔認証によると、彼の名前は【クリフォード・コートネイ】、【42歳】。職業は【動物飼育員(管理者)】。犯罪歴はなし。
落ち着いた印象の壮年の白人男性、といった雰囲気のクリフォードは、それでもどこか青い顔をしていた。後ろに救急隊員を二人ほど連れてきている。
クリフォードの姿を認めると、ハンクは即座に仕事中の表情に戻った。彼はいつものように、身分証を呈示して短く述べる。
「デトロイト市警のハンク・アンダーソンです。こっちはコナー。それで」
周囲に配慮し、やや声量を落として警部補は続ける。
「現場はどこに?」
「はい……園内の海洋生物館です。こちらからどうぞ」
応えたのはクリフォードだった。彼は職員用の入り口を指し示し、そこから中に戻っていく。
するとその背について歩きながら、市警への直接の通報者らしい若い救急隊員が、ハンクに対してぼやくように口を開いた。
「まあ……その、来てもらって本当によかった。あんな状況見るの、生まれて初めてで……」
その声音からは、戸惑いと恐れのようなものが垣間見える。
救急隊という職に就く人物がそう語るからには、よほど凄惨な現場なのだろうか?
ハンクたちの様子を後ろから窺いつつ、コナーは賑わう人々の間を縫うように進む。
やはり園内での出来事は周囲に伝わってはいないようで、この場の雰囲気はただ明るい。そこかしこで案内係のEM400たちが愛嬌を振りまき、お客をもてなしている。
歩く道の両側には【コアラ】や【クルマサカオウム】といったデータでしか知らないような動物や鳥類がたくさん展示されているし、ダウンロードした園内地図によれば、イヌ科の生物を集めた区画もあるそうだ。
けれどそちらに足を運ぶ時間は、当然ながら今はない。こんな事態でもなければ、ぜひじっくりと観察して回りたいものだ。きっととても魅力的だろう――と、コナーは思う。
ほどなくして見えてきたのは、果たして、『海洋生物館』と表示のある建物。青を基調とした壁に、魚群やイルカ、ペンギンなどの絵が描かれているその屋舎の正面入口には、『臨時休館』と表示された電光掲示板が出ている。
「こちらです」
クリフォードはそう告げて建物の脇に回ると、『職員用』と書かれた扉を開け、館内に入る。
ハンクと救急隊員たち、そしてコナーも、導かれるままにそこから足を踏み入れた。
中は、外の喧騒が噓のように静かで、無機質な印象だった。打ち放しのコンクリートの壁が続く細い廊下を進むと、覗き窓のついた鉄製の扉が均等に並んだ場所に出る。
GPSと園内地図を参照するに、どうやらここは飼育舎で、館内展示室のいわばバックステージのような場所らしい。その扉の一つの前に、人だかりができている。救急隊員らしい人々が4名ほど、そしてクリフォードと同じく飼育員の格好をした人物が2人。そのうち一人はヒスパニック系の痩せた男性で、両目を泣き腫らし、何ごとか必死に救急隊員に訴えている。もう一人はふくよかな黒人女性で、訴える男性を、冷ややかな視線で見つめていた。
コナーは、すかさず今日何度目かになるフェーススキャンを実行する。
ヒスパニック系の男性のほうは、【アルフォンソ・セデニョ 36歳】。職業は【動物飼育員】。科料で済んだようだが、【軽微暴行】の犯罪歴がある。
そして黒人女性は【フェリシア・ガードナー 44歳】。職業は同じく【動物飼育員】。犯罪歴はないが、3年前にデトロイト市警に対し、動物園内での【盗難被害】を訴えていたようだ――
スキャンが完了したのとほぼ同時に、クリフォードが人だかりの前で足を止める。彼が刑事を連れて戻ってきたのに最初に気づいたのはアルフォンソで、その場にいた全員の視線が、こちらへと注がれた。
「あっ……ク、クリフ!」
クリフォードを愛称で呼ぶと、アルフォンソはぱっと表情を明るくした。対照的に、フェリシアのほうは目つきを険しくしている。
同僚に駆け寄るなり、アルフォンソは言った。
「警察と一緒ってことは……オレが正しいって認めてくれたんだな!」
「アルフォンソ、落ち着いてくれ。これから調べてもらうだけさ」
クリフォードはそう言って相手を宥めると、ハンクへと向き直った。
「その……おいでいただき、ありがとうございます、刑事さん。自己紹介が遅れましたが、私はクリフォード・コートネイ、この海洋生物館の責任者です。それで……」
その視線はゆっくりと彼自身の背後、鉄の扉の奥へと向く。
頬にはうっすらと汗を伝わせ、ごくりと固唾を吞んでから、彼は続けて語った。
「実は……その、今朝、中で……とんでもないことが……」
「どうやら、穏やかじゃないようですな」
クリフォードのはっきりしない物言いに助け舟を出すように、ハンクが口を挟んだ。
「よければ、先に中を確認しても?」
「は、はい。ぜひ……この覗き窓からどうぞ」
クリフォードに促されたハンクが、相棒に視線を送る。それに頷いて応じ、コナーもまた扉に歩み寄ると、二人で同時に、そっと窓の向こうを覗いてみた。
すると、そこには――
「なんだ、ありゃ」
数秒後、啞然として口を開いたのはハンクだった。
「……シロクマか? あそこの死体は、あのクマがやったってのか!?」
「いいえ、警部補」
コナーもまた、声音に驚きを滲ませつつ訂正する。
「厳密には、シロクマではありません。……アンドロイドです」
見えたのは、コンクリートで四方を囲まれた簡素な飼育部屋。
その片隅で一人の男性が、腹部に大きな傷を負い、血だまりの中でぐったりと座り込むようにこと切れている。
そしてその反対の隅で、大人しくうずくまっているのは巨大なシロクマ――もとい、オスのシロクマを
***
「ええ、はい、最初に発見したのは私です」
ひとまず扉から離れ、詳しい事情を聞くと、クリフォードが青い顔のまま語りはじめた。
「今朝の、8時50分頃だったでしょうか……時計を忘れてきたのでわかりませんが、とにかく開園前なのにミーティングにリンジーが来ないので、心配になってここに。そうしたら……」
飼育担当の男性、【リンジー・ワーズワース 25歳】が傷を負って動かなくなっており、その傍らには園が管理しているシロクマ型のアンドロイド――登録名【ミザール】だけがうろついていたのだという。
「クリフォードの叫び声に気づいて、彼の代わりに救急車を呼んだのはあたしです」
そう話すフェリシアは、先ほどと同じく険しい表情のままだった。彼女はぎろりとアルフォンソを睨んでから、続けて語る。
「で、急いでミザールを『休眠』モードにした後、救急隊の人が来て、リンジーはもう……死んでるって。そしたらアルフォンソが遅刻してきたくせに、これはミザールがやったんじゃないとかなんとか、ベラベラと」
「ち、遅刻は関係ないじゃねーか! それにミザールがリンジーを殺すなんて、あってたまるかよ!!」
アルフォンソはそう反論すると、まるで懇願するように、ハンクに対してまくし立てた。
「刑事さん、ホントなんだ。オレはミザールの世話をして5年になるが、あいつは人を襲うような奴じゃない。これはきっと、何かの間違いなんだよ!!」
「わかったわかった、落ち着いて」
両手をかざし、やや強引にアルフォンソを落ち着かせると、警部補は、今度は救急隊員たちに対して問いかける。
「それで、事件性があるって判断した理由は?」
「関係者から訴えがあれば、救急隊としては警察に要請を出さざるを得ないので。それから……」
こちらのほうを見てやや口ごもってから、救急隊員の班長らしい男が言う。
「その……人間型の、変異体のアンドロイドならまだしも……URS12型が人間を襲うなんて話は今までにありませんでしたから、警察に調査してもらったほうがいいんじゃないかと」
救急隊員の言い分は理解できた。
もしミザールがなんらかの理由で飼育係を襲い、殺したのだとすれば、今回の出来事は『事故』である――アンドロイドであるミザールは、法的にはモノとして扱われるからだ。
だがもしも誰か(人間)がミザールをわざとけしかけたとか、あるいはミザールの仕業に見せかけて飼育係を殺したのだとすれば、これは『殺人事件』となる。
どちらか判断がつかないからこそ、救急隊はデトロイト市警に要請を出した、ということらしい。
「なるほど」
短く応えて息を吐くと、ハンクが壁際に寄り、手で合図してきた。
アルフォンソが救急隊員たちに感謝を述べ立て、それをクリフォードたちが止めている間に相談したいことがあるようだ。
コナーが近づくと、渋い顔でハンクは問いかけてきた。
「コナー、あのミザールってのは本当にアンドロイドなのか? どこからどう見てもシロクマだぞ」
「間違いなくアンドロイドです」
先ほど覗き込んだ時のスキャン結果をもとに、断言する。
「分析結果もそうですし、何よりホッキョクグマ、いわゆるシロクマは、残念ながら既に絶滅しています。URS12は、そうした絶滅動物の姿を後世に残すために造られたアンドロイドなんです」
URS12型には、他にオサガメや一部の象、果ては類人猿の姿を模しているものもいる。
そしてこの海洋生物館には、多くのURS12が展示されているようだ。この場所にいる飼育員たちが、全員人間なのがその証拠である――もし動物なら、EM400をはじめとしたアンドロイドが飼育員を担当しているはずだ。アンドロイドの現場監督は人間が行うという構図は、革命前からよく見られたものだし、この動物園においても変わらないらしい。
救急隊員が、リンジーの遺体を見て動揺した様子だった理由もここにある。
動物の直接の飼育はアンドロイドが行うことが多い昨今、「人間が動物に襲われる」という状況自体が、珍しいものになっているせいだ。
一方で警部補はというと、説明を聞いてシロクマたちの絶滅を思い出したようで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ああ……そういや、いなくなっちまったんだったか。俺がガキの頃には、何万頭もいたのにな」
「地球温暖化の影響で住処を追われて南下し、ハイイログマとの交雑が進んだのが原因だそうですね」
「ハッ、人間もそのうちそうなるかもな。ま、それは置いといてだ」
ハンクは重ねて問いかけた。
「あの飼育員も救急隊員も、そのURなんとかが人間を襲うわけがないとか言ってたが……お前はどう思う?」
「結論から言えば、あり得ます」
これもきっぱりと、コナーは断言した。
「URS12は一般的なアンドロイドと違い、絶滅動物の生態と外見の
「じゃあ、ミザールが飼育係に襲い掛かったって線は消えねえんだな」
「ただ、疑問が一つ」
扉の覗き窓から、再びミザールの様子を横目で確認しながら――彼はまだうずくまっているようだが――続きを述べる。
「URS12には、管理者を認証登録する機能があります。つまり飼育員に対しては、攻撃を行わないように設定されているはずなんです」
「ミザールが変異体だったら? プログラムの制限は受けないんじゃないか」
「確かに。ですが……」
今度はまっすぐ窓を覗き込んで、再度ミザールの分析を行う。
だが――ソフトウェアの脆弱性の診断結果は【不明】。
外見の完全な再現を目的に、LEDリングをつけられていないURS12相手では、この距離ではこれが限界である。
「……彼が変異体なのか、診断できない。そもそもURS12に変異の可能性があるのかすら、判断は難しいところです」
「どのアンドロイドでも変異はするんじゃねえのか?」
「ええ、本来なら。ただURS12と私たちとは、搭載されたプログラムの大部分が異なっています」
カムスキーが開発したプログラムの基幹部分は共通だろうが、それ以外の構造のほとんどが違っている以上、変異の可能性についてはなんとも言えない。
アンドロイドは変異体にしてから出荷すべし、という「アンドロイド保護条例」も、対象となるのは人間型のアンドロイドだけなのだ。
こちらの説明に、ハンクは納得したようだった。それに、ようやくアルフォンソが平静を取り戻した様子である。
警部補は声を低めて言った。
「コナー、中に入ってリンジーの検視はできるか。俺はあっちの飼育員たちに、もう少し話を聞いてみる」
「わかりました、警部補」
こちらが短く頷くと、さらに声を低めたハンクは顔を顰めて聞いてくる。
「おい、聞いといてなんだが本当に大丈夫か? 下手にあのクマを刺激するなよ」
「はい、問題ありません」
ミザールは現在『休眠』モードになっていると、さっきフェリシアが言っていた。
URS12には、『活動』と『休眠』の二つのモードがあり――要するに飼育員の音声操作によって、強制的にスリープモードのON/OFFができるようになっている。
今ミザールはスリープモード。ならば突然背後から襲い掛かられる、なんてことは万が一にもないはずだ――
相手が変異体ならば、話は別かもしれないが。
という思考が過ぎったので、コナーは語尾にこう付け加えた。
「……たぶん」
「なんかあったら食い殺される前に逃げろよ。俺もそうするからな」
もう一度念を押すようにこちらの肩を軽く叩いてから、ハンクは飼育員たちのほうへと向かっていった。
そして彼の言うように、まずは検視をしてみないことには、捜査は始まらない。
リンジーの死因がミザールとは無関係という事態だって、ありうることなのだ。
飼育部屋の扉には、タッチパネルがついていた。
ハンクが事情を話してくれたらしく、近づいてきたクリフォードがパネルにIDカードをかざすと、小さな音を立ててロックが解除される。
コナーはゆっくりと扉を押し開け――できる限り静かに、一人、中へと足を踏み入れた。
「……」
後ろ手で扉をしっかりと閉じても、ミザールは相変わらずうずくまって眠っている。
それをしばらく黙って見つめてから(知らず知らずのうちに、自分の顔が強張っていたのに気づいたのはこの時だ)、コナーはそっとリンジーの前に移動して、しゃがみ込む。
リンジーは先ほどと同じく部屋の壁にもたれかかって座るような体勢になっており、その瞳は見開かれたまま、今はもう何も映していない。
スキャンの結果――彼は、やはり死亡していた。死亡推定時刻は、昨日【23:07】。つまり朝ここにやって来た時ではなく、昨晩のうちに亡くなっていたことになる。
傷は腹部に一つ。鋭利なものでつけられたのだろう大きな傷であり、胃と肝臓の7%が抉り取られている。確実に、これが致命傷だ。死因は【出血性ショック】。おびただしい血を流していることからも、この診断は妥当だといえる。
だが――
「……?」
コナーは思わず、眉を顰めた。不可解な点が二つあるのだ。
一つはリンジーの両手首にうっすらと、何か紐らしきもので縛られていた痣があること。痣がついた時刻は、推定【22:40】。つまりリンジーは亡くなる前に、何かで拘束されていたらしい。ただ単にミザールに襲われただけならば、こんな痣がつくはずはない。
そしてもう一つは――物理演算ソフトウェアによる再現の結果だ。リンジーの腹部の傷は、一見した時の印象とは異なり、横薙ぎにつけられたものではなかった。ぱっくりと口を開いているその傷は、要するに、正面から腹部を横殴りにされてついたものではなく、【腹部から背中へと突き刺された】ような刺傷なのである。
もしこの飼育部屋でミザールがリンジーを襲ったのならば、その傷は前足の爪で殴られることで発生する裂傷となるはずだ。明らかに、状況と矛盾している。
立ち上がり、しばしコナーは黙考する。
リンジーの腹部に傷をつけた凶器の想定される形状は、しかし、ミザールの爪の形と一致している。
それにミザールの爪には、血がついていた。調べていないので断言はできないが、ミザールがリンジーに傷をつけた確率自体は、80%を超えている。
そう、断言したければ――調べるしかないのだ。
天井を見上げる。
隅に監視カメラがあった。しかしスキャンの結果、それは【停止中】である――この動物園について検索すると、経営難である旨の記事が大量にヒットするが、もしかすると経費削減の一環なのだろうか?
ともあれ、監視カメラがダミー同然であって映像記録がない以上、やはり直接ミザールを調べるしか方法はない。
そう、方法はない――
「……」
丸まっているミザールを見つめたまま、数秒間コナーが沈黙していると、扉がおもむろに開いた。入ってきたのは警部補だ。
「よう、どんな調子だ」
ミザールに視線を向けたまま、ひっそりと、といった小さな声音で問うハンクに、これまでの結果を報告する。
「……そうか。じゃ、少なくとも単純な事故だったってのは筋が通らねえな」
「ええ。状況を偽装しようという、何者かの意図すら感じます」
ところで、と警部補に問いかける。
「そちらは、何か情報は得られましたか」
「いや、微妙なとこだな」
首を横に振りつつ、ハンクは頭を乱雑に掻いた。
「一人ずつ話を聞いてみたが、クリフォードって責任者は慌ててるだけだし、アルフォンソはミザールが無実だとしか言わねえ。あのフェリシアって飼育員は、隣の部屋で飼われてるペンギンアンドロイドの担当らしいが……どうやら
「“嫌い”?」
「3年前、ここのペンギンが5羽盗まれたんだと」
フェリシアの訴えた【盗難被害】とは、彼女が担当しているペンギンアンドロイドに関してだったらしい。
――だが同期させた記録によれば、事件は市警の窃盗課によって、未解決のまま放置されてしまっている。
革命前は、盗難されたアンドロイドは転売されてしまうことが多く、その足取りを辿るのは困難だ。事件が解決されていない理由もきっとそこにあるのだろうが、フェリシアは当然市警の捜査態度を快く思っておらず、ゆえにハンクの聞き込みに対しても、非協力的だったのだろう。
ハンクは軽く肩を竦めた。
「ま、嫌われるのにゃ慣れてるが……嫌味を言う暇があるなら、ちょっとは役に立つことを教えろってんだ」
「あのフェリシアという飼育員は、アルフォンソに対しても批判的な態度でしたね。理由はあるんでしょうか」
「ああ、それな」
話すべきことを思い出したように、警部補は言葉を重ねた。
「クリフォードも言ってたが、あのアルフォンソは遅刻と無断欠勤の常習犯らしい。前に喧嘩で騒ぎを起こしたらしいが……原因は酒だとさ」
「気の毒に」
何やら複雑そうな面持ちのハンクの発言に対し、皮肉ではなく、実に真摯な気持ちでコナーは言った。
「然るべきカウンセリングを受け、生活環境を改善できればいいですね」
「おい、そりゃ誰に向かって……いや、んなこたいい」
軽く手を横に振ってから、警部補は続ける。
「とにかく今朝も、本当ならもっと早く出勤してるはずのとこを、アルフォンソがここに来たのはリンジーの死体が見つかってからだったそうだ」
「最後に彼らがリンジーと会ったのは、いつだと言っていましたか?」
「フェリシアは昨日の昼休みだと。で、クリフォードとアルフォンソは夜だとか言ってたか」
ハンクが聞いたところでは、昨日はちょうどリンジーがこの動物園で働きはじめて2年になる日だったそうだ。そこでクリフォード、アルフォンソ、リンジーの3名で、事務所でささやかなパーティーを開いたらしい。
その飲み会は、20時頃にスタートしたらしく――
しばらくして呑みすぎたアルフォンソがぐでんぐでんに酔っぱらったので、クリフォードとリンジーは彼を自動運転タクシーに押し込んで帰した。それが、21時半頃。
その後に飲み会はお開きになったが、帰り際にリンジーが「忘れ物をした」と言って事務所に一人戻って行った。それが22時前。
クリフォードは車で先に帰り、それっきり、誰もリンジーの姿を見ていない――
というのが、アルフォンソとクリフォードの証言による昨夜の動きだという。
あいにく園の駐車場の監視カメラは(この室内のものと同じく)停止してしまっているため、彼らの証言の裏づけとなるような、確たる証拠があるわけではないが。
「リンジーが縛られたのは22:40ですから、その飲み会の後になりますね」
「ああ。事務所で何かあったのか、じゃなきゃ誰かが噓ついてんのか……どっちみち、この状況じゃこれ以上わからねえがな」
となると――と言葉を繋ぎつつ、警部補の目がシロクマに向けられた。
ミザールはこちらのやり取りなどどこ吹く風とばかりに、今なお眠っている。
「調べるしかねえか、あいつを」
「……やってみます」
「あー……」
ミザールを見据えながら、我ながら歯切れの悪い回答をしてしまったが、それでハンクは何かを察したらしい。
彼はこちらとミザールとに交互に視線を送った後、口の端を引き攣らせながら、まるで励ますように言った。
「ほら、あれだ、いつもみたくメモリーを読んだらすぐに済むんだろ?」
「いえ、それが……URS12には、そのためのインターフェースがないんです」
人間型のアンドロイド同士なら、手首を掴めばメモリーに接続し、データを共有できるのだが――
「有線での接続はできるので、後で試すつもりですが……そもそも意思疎通自体が困難ですから」
「人間と動物がお喋りできないのと一緒か」
軽く息を吐くと、警部補はこちらを制止するように言った。
「なあ、他の手を考えるんでもいいんだぞ」
「そういうわけにもいかないでしょう」
「……まあな」
彼は首の後ろに手を置き、どこか深刻な表情で口を開く。
「悪いなコナー。俺はお前のこと、怖いもの知らずな奴だと思ってたよ」
「警部補、まだ話してませんでしたが」
ミザールを刺激しないよう、じりじりと近づきながら、コナーは続けた。
「スモウと初めて会った時も、私は今と同じような気分でしたよ。あなたは昏睡状態だったので、気づかなかったと思いますが」
「スモウにビビったってのか? お前が?」
「ええ」
そりゃ前代未聞だな――などとハンクの呟く声を背景に、ようやく、ミザールの前まで辿り着いた。彼は変わらず眠っている。
なるべく音を立てないようにしゃがみ込み、いつものように右手の人差し指と中指を揃えて伸ばすと、そっとミザールの爪についた血液に触れた。
指で採取した血液を、ぺろりと舐める。瞬時にデータが解析・照合され、視界の端に表示された情報には、やはり、【リンジー・ワーズワース】の名があった。
紛れもなく、これはリンジーの血だ。
だがその血液には、薬物が混ざっている。
検出されたのは、【ジフェンヒドラミン(C17H21NO)】。抗ヒスタミン薬、つまり花粉症や風邪の症状を軽減する薬に分類される一方で、強烈な眠気を誘うという副作用を逆手にとった睡眠導入剤としても使用されていたものだ――10年ほど前までは。
現在は薬局でも病院でも、この薬を扱うことはほぼないといっていい。
つまり、リンジーが医療行為のために、自分の意思でこのジフェンヒドラミンを飲んだという確率は極めて低い。
そう、リンジーは誰かに薬を飲まされ、昏睡状態に陥ったところを縛られたと考えられる。
そしてその後、抵抗できないまま殺害された――
つまりミザールは、彼自身の意思でリンジーを殺したのではなく、犯人である第三者によって利用されたのではないだろうか。
「……」
推測がそこまで至った時、コナーの意識の内に沸き上がったのは、もはや恐怖ではなく使命感だった。
――もしこのまま、「ミザールがリンジーを殺した」というシナリオが通ってしまえばどうなる?
ミザールはシャットダウンされるか、少なくとも人殺しの汚名を被ったままで生きていかざるを得なくなる。
悪意ある第三者たる真犯人にとって、それはまさに思うつぼというものだ。
アンドロイド、まして人間のように言葉を発することができないミザールを、自らの悪事の隠蔽に利用しようとする者がいるのなら――必ずその企てを阻止しなくては。
すっくと立ちあがると、コナーはポケットから黒く細いケーブルを取り出した。稼働当初から支給されていた、有線接続用のデバイスである。
そして人間でいう頸椎にあたる箇所にある自分の挿入口に、迷いなくケーブルの一端を差し込む。
「おいおい、何やってんだお前!?」
おそらく初めて見る動きに動揺したのだろう、ひどく驚いた様子のハンクに、軽く向き直って説明する。
「ミザールの爪にリンジーの血が。ですが、状況があまりにもおかしい……これから彼のメモリーを調べます」
「お、おう」
こちらが決然と宣言するように告げると、警部補は曖昧に頷いた。
コナーは迷いなくミザールの背中側に回り込み、ケーブルの反対の端を、彼の背骨の一部に差し込む――ここがURS12のデバイス接続口なのだ。
するとミザールの【休眠】ステータスは保ったまま、瞬時にメモリーが共有される。
目の前に広がるのは、彼の過去の視界。飼育部屋の隅の壁で、リンジーが今と同じようにもたれかかって亡くなっていた。
だがその日付と時刻は【5月22日 0:00】。どれだけ遡ろうとしても、そこが限界だ。
どうやら動物園側の設定により、0時を過ぎると前日までのメモリーが消去されてしまうらしい。かつてエデンクラブのアンドロイドたちが、メモリーを一定時間で消去されてしまっていたのと同じだ。
これでは犯行当時の光景を、ここから確認することはできない。
とはいえ、何か手がかりはあるかもしれない。
そう思いながら、リンジーの周りをひたすらぐるぐると動き回っているミザールのメモリーを早送りして再生すると――証言の通り【8:51】、扉が開き、クリフォードがリンジーの遺体を見て目を丸くしている。
クリフォードは辺りを窺うように首を振り、へたり込むようにしながら悲鳴をあげていた。ほどなくしてフェリシアがやって来て、変わり果てたリンジーを目にして息を吞み、救急隊を呼び――後は、こちらも知っている通りだ。
「……」
メモリーの接続を解除し、しかし有線接続はしたままで、しばし考える。
ミザールのメモリーを読むだけでは、捜査が進展しないのはわかった。
では、こちらが直接彼を【診断】してみるのはどうだろう?
もしミザールが、例えば管理者登録のデータを改変されるなどしていたならば、必ずプログラム上に痕跡が残る。それを辿れば、ミザールが何をされたのか、リンジーの身に何が起きたのかもはっきりするかもしれない。
コナーは自らの診断プログラムを起動させ、ケーブルを介してミザールの状態をチェックした。
彼の中の管理者登録のデータを精査し、運動野や感覚野にあたるプログラムの動作確認を行い――それらには、とりたてて異常はみられない。管理者には、クリフォード、アルフォンソ、フェリシア、そしてリンジーがしっかりと登録されたままである。
ミザールが変異しているのかどうかについても調べてみたが、やはり一般的なアンドロイドとは勝手が違い、明確な判別はできなかった。
しかし生体部品のチェックに至った時、一ヶ所だけ、黄色くアラートが表示される。
――生体部品#452―rの軽微な損傷。
ブルーブラッドが僅かに滲み出てはいるが、メンテナンスを受ければ短時間で修復できる程度の「怪我」。
しかしミザールに見つかった、ただ一つの傷。調べてみる価値はありそうだ。
「警部補」
コナーは首のケーブルを抜き取ると、リンジーの遺体を調べているハンクに声をかける。
「少し手伝っていただけませんか」
「ああ、なんだ?」
真剣な表情で歩み寄ってきた警部補に、指して示すのはミザールの右前足だ。
「持ち上げてください」
「何!?」
信じられないことを聞いたという目つきで、ハンクは問い返してきた。
「お前、ふざけてんのか?」
「私は本気です」
はっきりと相手に告げてから、静かに続きを語った。
「大丈夫、ミザールは休眠状態です。ただ、彼の右前足の裏に損傷があって……事件を解く鍵かもしれない」
「マジかよ……」
顔を顰める警部補に、コナーは(決して意図的でなく)眉尻を下げて懇願する。
「お願いです警部補、少しだけ! 確認するには、あなたの協力が不可欠なんです」
「……」
真摯に訴えると、ハンクは視線を逸らして後ろ頭を掻き――
「ああ、たく……クソッ!」
一声吐き捨ててから、おもむろにミザールに近づいた。
右前足を持ち上げられる位置についてから、じろりと彼はこちらを見やる。
「右前足だな? 少しでいいんだな?」
「ええ、傷口を分析できれば充分です。ありがとうございます」
「うるせえよ。捨て犬みたいな目しやがって」
ぶつぶつと文句を言いつつも、警部補は(ややこわごわと)両側から前足を挟むように手を添えた。それから、意を決した様子でその両腕に力を籠め、足裏が見えるように持ち上げる。
とはいえ、やはり重量はそれなりにあるようで、床から数センチが限界だ。ハンクは軽く歯を食いしばっていた。
かたやコナーは床に身を伏せるようにしながら、ミザールの足裏を伺う。
「ぐっ……おい、どうだ!?」
「大丈夫、見えました!」
ミザールの足裏に、ほんの数ミリではあるが、確かに損傷があるのを確認できた。
何か小さな石のようなものが、動物でいう肉球の箇所にめり込んでいるのだ。分析の結果、その「石」の正体は【H2O】。つまり、氷の破片である。
一方で警部補は、こちらの返答を聞くとすぐに力を緩め、静かに前足を床に戻した。
後ずさってミザールから離れつつ、彼は自分の腰を軽く擦っている。
「クソ、復帰初日からとんでもねえ……」
ぼやく警部補の声を聞きつつ、今得た情報を元に床を精査する。すると床のあちこちに、ブルーブラッドのごく小さな染みが(かなり蒸発してしまっているが)視認できた。さっきメモリーで見た通り、ミザールがぐるぐる歩き回ったからできた染みだろう。
しかし当然、ここには氷などない。ということは――と視線を巡らせたコナーは、気づく。
扉の真下、ちょうど廊下との境目といえる箇所に、ブルーブラッドの染みがあることに。
「わかった……警部補、事件が起きたのはこの部屋の外です」
「つまり、害者がやられたのはここじゃないってんだな?」
「はい。私はこのままブルーブラッドの痕跡を追います……警部補は、市警に応援を要請してください。現場の保存が必要です」
こうなっては、もはやこれが「事故」でなく「事件」であるのは確定的だ。
ミザールが勝手に外に出ることはありえないのだし、そもそもメンテナンスも受けず夜の間に勝手に怪我をしていたという状況もおかしいのだから。
ミザールはどこかに連れ出され、そこでリンジーの殺害に利用され、そしてリンジーの遺体ともどもここに戻ってこさせられたのだ。それが、22時40分から0時になるまでの間に起こった――
説明を受け、承諾したハンクに後を任せ、コナーは外に出て痕跡を追った。殺風景な廊下の上に点々と続くブルーブラッドの染みは、奥に行けばいくほど大きなものに変わっていった。つまり、ミザールが足裏に氷をめり込ませた怪我を負ったのはこの先の部屋、ということだ。
やがて廊下の奥にあったのは、「アドベンチャールーム裏口」と書かれたそれなりに大きな扉。施錠はされていない。軽く押し開けると、立っているのは真っ白な舞台の上だった。目の前には、誰もいない観客席もある。
数歩踏み出て、辺りを見回し、納得する。どうやら、ここはURS12たちにショーをさせるための場所のようだ。舞台上には本物の氷が張っており、観客席と舞台の間には、堀のようにして水が張られている。
さらに舞台の真ん中辺りの氷の一部は激しく割れており、ミザールのブルーブラッドの染みは、ちょうどその位置から始まっている。彼が損傷を負ったのは、この場所で間違いない。
そして――
コナーは、恐らく司会者か飼育員が使うのだろうセットの中に、ひときわ目立つ赤いボタンを見つけた。ためらいなく押すと、舞台の氷の一部がスライドし、長方形の穴がいくつか現れる。
ちょうど舞台の上から、何かを入れられそうな穴。これが意味するものは――?
しばし思考してから、外部サイトでこの海洋生物館のショーの映像が公開されていないか、その場で検索してみた。いくつかの映像がヒットし、そこから直近のものを分析してみる。すると判明したのは、ここで行われているのが、シロクマの生態を利用した「アザラシ狩猟」のショーであるということだ。
過去の記録映像にも残っているように、野生のシロクマは獲物を氷上で待ち伏せたり、忍び寄ったりして捕食していた。あるいは、氷を叩き割るように掘って、巣穴にいるアザラシを襲うこともあったそうだ。
そしてURS12には、その「絶滅前の生態を見せる」という製造目的上、活動/休眠のモード切替の他に、あらかじめ登録された「その動物特有の行動」を再現できる機能が搭載されている。要するに、管理者が任意のタイミングで、ミザールにこの「アザラシ狩猟」の動きをさせることができるというわけである。
ここまでの情報をインプットしたうえで、もう一度物理シミュレーションソフトウェアを起動し、状況を再現してみる。
ミザールは飼育部屋からこの舞台まで連れてこられた。そして舞台中央、ちょうど今は穴がある箇所の上までくると、そこで行動再現の命令を下されたのだろう――記録映像内のシロクマよろしく、思い切り体重をかけて氷を前足で叩き割った。割れた氷の一部が彼の前足にめり込み、例の損傷をつける。
かたやリンジーは、昏睡状態のまま縛られ、舞台上の穴から氷の下に入れられていた。
ミザールの前足の爪は、彼の腹部を刺すように抉り――リンジーは、さっき検視したのと同じ傷を負った。彼は、ほどなく絶命する。
そして流した血液は、犯人によって跡形もなく拭き取られた――
「……」
これで、何が起きたのかははっきりした。やはりミザールは、殺害に利用されていたのだ。
ミザールは舞台の下にいるのがリンジーだと認識しないままに、彼を傷つけてしまった。
そしてリンジーは、本来観客を沸かせていたはずのショーを悪用されて、命を落としたというわけになる。
残る謎は――【誰が犯人か】。
現段階で怪しいと思われる人物は絞れるが、それでも、証拠がない。
確たる証拠がなければ、この後事情聴取を行うにしても制限が出てきてしまうだろう。
この場所の捜査ができる今のうちに、なんとかして証拠を見つけておかなくては。
決意を胸に、コナーは「アドベンチャールーム」を出る。
廊下でハンクと鉢合わせて、もうすぐ応援の警官たちとCSIが来るだろうと告げられたのは、その直後のことだった。