Detroit: AI   作:けすた

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第16話:奪還 前編/Machina’s Kitchens Part 1

 

――2039年6月3日 07:16

 

 

「カーラ、いってきます!」

 

 元気よく手を振るアリスに、カーラは晴れやかな笑顔を向けて手を振り返した。

 

 そして遠ざかるスクールバスはやがて黄色の点となって、放牧場に挟まれた道路の彼方へと消えていく。

 ――今日も無事に、いつものように、アリスは学校に行った。

 微笑みを浮かべてそれを見届けたカーラは、見送りに来た他の保護者たちと同じく、家に帰ろうとする。

 

 今日は日中、牧場で働く他のアンドロイドたちと一緒に牧草を収穫する仕事が待っている。早朝に出産を終えたばかりの牛の面倒をルーサーに任せてしまっていることだし、そろそろ戻らなくては。

 

 そう考えたカーラが道路に背を向けると、後ろから声が掛けられた。

 

「あら、カーラ?」

 

 この声は、どこかで聞いた。

 ――そうだ、メモリーによれば【マーサ・ガーランド】。この前、牧場直営の売店で人形を買ってくれたお客さんだ。

 

 振り返りながらカーラが記憶を呼び起こすと、果たして、声の主はマーサだった。

 ごく一般的な自動運転車を路肩に停め、運転席の開いた窓の中からこちらを見ている彼女は、今日もあの日と同じように、柔らかな微笑みを浮かべている。

 黒く長い髪、少しやつれてはいるが白い肌も相変わらずだ。

 

「マーサ。久しぶり」

 

 カーラはにこやかに挨拶した。

 それを受けて、マーサはさらに嬉しそうに小さく笑う。

 

「こちらこそ、久しぶり。覚えていてくれて嬉しいわ」

「もちろん。お客様だもの」

 

 少し冗談めかすようにカーラが応えると、マーサは「ああ」と小さく声を発して、続ける。

 

「娘がね、あのお人形を本当に気に入ってくれたのよ! 今も、大事に抱っこしていて……あら」

 

 と、後部座席を振り返って確認したマーサは表情を曇らせる。

 

「……やだ、ごめんなさい。うちの子ったら寝ちゃってるわ。せっかく、大好きなお人形の作者さんにご挨拶できるっていうのに」

「朝早いんだもの、仕方ないわ。どうかよろしく伝えておいて」

 

 カーラとしても、あの人形を大事にしてくれているという娘さんにはぜひ会いたいところだったが――仕方がない。

 そう思いつつ、後部座席のほうに視線を向ける。だが内部は、外からはうかがい知れないようになっていた。スモークガラス仕様になっているからだ。

 これから暑くなる季節に合わせて、紫外線や熱中症の対策をしているのだろうか――と、カーラは思った。

 

 一方で、どこかへ行く様子のマーサが気になり、彼女に尋ねる。

 

「これからお出かけ?」

「ええ、また仕事でデトロイトに。しばらく家を空けることになるから、娘も学校を休んで一緒に行くのよ」

 

 マーサはまた口元に例の薄い笑みを湛え、続けて語った。

 

「せっかくお知り合いになれたのに、なかなかお店に伺えなくて……それにお引き留めしてしまって、ごめんなさい。またぜひ、娘と一緒に遊びに行かせてね」

「ええ、もちろん。いつでも大歓迎」

 

 カーラは屈託なく応えた。

 

「デトロイトまで、どうか気をつけて」

「ありがとう。それじゃあ、またね。カーラ」

 

 徐々にせり上がる運転席の窓ガラスの向こうで、彼女は軽く手を振っている。

 カーラもそれに応じ、やがて窓が完全に閉まると、マーサは車の運転AIに発車を告げたようだ。

 車はスムーズな加速で、道路の向こうへと去っていく。

 こちらが見えなくなるまで、マーサはカーラに微笑みかけていた。

 

 マーサを見送ったカーラは、今度こそ帰路についた。

 思いがけなく出会った知人と、何気ない世間話をする時間――これもまた、少し前の自分にとっては得がたいものだった自由の一つだ。

 かつてよりはましでも、決して治安がよいとまではいえないデトロイトでの、マーサとその娘さんの安全をカーラは真摯に願う。

 

 しかし――

 ふと、一つだけ不思議に思うことがあった。

 マーサは、娘さんが「学校を休んで」一緒に行くと言っていたけれど――

 その娘さんは、どこの学校に通っているのだろう? アリスと同じ学校だろうか。

 もしそうなら――10歳なら、アリスも同学年のはずだ。しかし半年前、アリスと同じ時期に、同じ学年に転校してきた他の女の子なんていなかったはずである。

 

 とはいえ。

 学校といってもいくつもあるし、もしかしたら近所でも違う学区に通っているのかもしれない。

 そう自分で納得すると、眩い朝の光の中を、カーラは足取り軽く歩いていったのだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月5日 09:34

 

 

 土曜日。今朝のデトロイトの空は、雲一つなく晴れている。

 その澄んだ青は、もうじき来る夏の熱気と陽気を予兆するかのようだった。

 それともそれがひときわ美しく思えるのは、今日が久方ぶりの休日だから、だろうか。

 

 まばらに人が行き来するのどかな住宅街の道を、ハンクの自宅へと歩きながら、コナーはこめかみのLEDリングを光らせて彼と通話している。

 

「ええ、ですから」

 

 コナーは真面目くさって言った。

 

「まだ教室までは時間があるので、これからあなたの家のキッチンの掃除をしようかと」

『掃除だぁ?』

 

 返ってきた相棒の声はだいぶ不機嫌そうである。

 どうやら待ちに待った休みの日とあって、さっきまで寝ていたらしい。

 

『お前、こんな日にまで俺ん家に来るつもりか。暇を潰すなら、他でできるだろ』

「お邪魔するつもりはなかったんですが、最近あまりそちらのメンテナンスができていないのが気になって。炭酸水素カルシウムと金属塩による汚染率が、許容できないレベルになってるんです」

『炭酸……?』

 

 要領を得ない、と言いたげな返事をするハンクに、コナーは短く応えた。

 

「つまり水垢を落としたいんです。シンクの」

『はぁ、ご苦労なこったな』

 

 嘆息混じりに、いかにも呆れ果てたという声が聞こえた。

 しかし結局のところ、ハンクが本気でこちらの来訪と掃除を拒んでいるわけではないというのは、経験上、コナーも既に理解している。

 

 ハンクのことだから、せっかくまる一日の休みという時に、人の家の掃除なんてつまらない真似をする必要はないと言いたいのだろう。恐らくは。

 

 けれどコナーにとっては――まず自身のメンテナンスは2日前に万全に終えたばかりなので必要ないし、ナイナーはギャビンと捜査に出たので第5ミーティングルームにいても一人だし、今日の『用事』は午後からだし――

 というわけで、他に行く宛がないのだ。

 

 それにアンダーソン邸の台所を現在一番使っているのは自分なのだから、当然掃除の責任も自分にある。

 それより、何より――重要なのは、今着ているこの服の感想を、ぜひともハンクに聞いてみたかったのだ。

 

 ジーンズはいつもの仕事着と同じだが、上に着ているTシャツは昨晩自分で買ったものなのである。

 与えられた制服でも、捜査のための変装でもなく、自分自身のために服を()()()()()だなんて、まったく、かつての自分では考えられない状況だ。

 

 そのきっかけをくれた警部補に、感謝を伝えたい。

 キッチンの掃除は重要なミッションではあるが、いわばそのための口実に過ぎないのだ。

 

 ちょっと誇らしい気持ちになって自分の服の裾を軽く撫でた後、コナーはハンクに告げた。

 

「すみません、とにかく、あと約13分でそちらに着きます。お休みになっていたのなら、どうぞお構いなく。勝手に入りますから」

『そうはいくか、起きてるよ。ちゃんとチャイム鳴らせよ』

 

 窓割って入って来ねえようにな、と言い残し、ハンクは通話を終了した。

 

 窓――そういえば彼はあのエデンクラブの事件の後、サイバーライフ社に弁償の申請を出したのだろうか。

 革命後、久しぶりに警部補の家を訪れた時には既に窓ガラスが張り直された後だったので、今まで気に留めていなかった。

 

 スモウと初めて対面した、コールの存在を初めて知った――ハンクの憂悶の一端に触れたあの夜が、今や随分と昔のように思えてしまうのは、プログラムに生じた軽微なバグなのか、それとも感情を得たからなのだろうか。

 

 ――きっと後者だろう。

 そう思いながら、コナーは今に至るまでのここしばらくの出来事をメモリー上で反芻した。

 コナーが今日のような休日を過ごすことになったのは、数日前のハンクとの会話が発端である。

 

 

 

――2039年5月30日 18:34

 

 

 その日、デトロイト市警にてアシュトン・ランドルフの取り調べを行った後、各種調書の準備や意見交換も一通り終わり――

 そろそろ帰宅するという段になって、ハンクは突然何か思い出したような顔で、コナーに机の上のタブレット端末を手渡した。

 

 受け取ったコナーが訝しむと、警部補はぶっきらぼうに言う。

 

「捜査とは別の話だ。お前、今度の休みどうせ暇なんだろ?」

「ええ。とりたてて用事はありませんが」

「じゃ、それに参加してみるのはどうだ?」

 

 タブレット端末に表示されているのは、デトロイト市警の職員向けクラウドサービスツールの画面だった。

 そこには『市警職員と関係者限定 一日料理教室開催のお知らせ』とある。

 なんでも市内のレンタルキッチンで、高級レストランのごとき豪華なディナーメニューの作り方を、熟練のAX400が講師となって教えてくれるらしい。

 

「こういうイベントが、たまにあるんだよ」

 

 ハンクは肩を竦めつつ言った。

 

「俺は料理なんてゴメンだし、休みの日にまでここの関係者になんざ会いたかないが、お前は興味あるかと思ってな」

「ええ……そうですね」

 

 タブレット端末をスワイプして詳細を確認しながら、コナーは静かに応えた。

 しかしその瞳は、我知らず好奇心に満ちて輝いている。

 

 連日の努力の甲斐あって、コナーは、ようやく料理のレパートリーを多少増やしつつはあった。

 しかしいかに最新鋭のプロトタイプアンドロイドとはいえ、仕様外の物事の独学には限度というものがある。

 平凡な家庭料理ならレシピを見て作れても、この教室で扱うような料理――例えば「牛フィレ肉のロッシーニ風」、つまり牛フィレ肉のステーキの上にソテーしたフォアグラとトリュフを乗せた料理など――は材料費的にも手が出せそうにない。

 

 一方で、この教室で作った料理は持ち帰ってもよいようだ。

 これなら、上手くすればその日はハンクに豪勢な夕食を摂ってもらえるだろう。

 それはとても魅力的なことのように、コナーには思えた。

 

 参加費を確認すれば、私費で出せそうな額である。

 コナーはタブレットをハンクに返し、微笑みと共に応えた。

 

「ありがとうございます、警部補。せっかくの機会ですし、参加してみようかと」

「そうか、そりゃいい。これでお前も、ちっとはましなモンが作れるようになるだろ」

 

 言葉は鋭くも、彼の声音と青い瞳はおどけた色を宿していた。

 コナーはその場で、参加のための申請を出し――

 

 

 そして昨日の夜――6月4日、19:21。

 いよいよ教室を明日に控えた時になって、しかしコナーは、イベント参加のキャンセルを検討していた。

 

 ――吸血鬼の組織に迫る手がかり、レーヴァングランドに残された暗号が解読できるようになるまで、あと2日。あるいは、明日の夜遅くには解読が完了する可能性がある。

 しかし吸血鬼事件解決に向けて、それ以外の糸口は一切見つかっていない状況だった。

 

 そんな中で、自分の娯楽に時間を費やしていていいのか?

 休日を返上してでも、事件に関する情報の洗い直しなどをやったほうがいいのではないだろうか。

 署のオフィスにて、責任感を抱えながらコナーがハンクにそう相談すると、相棒は思い切り顔を顰め、盛大にため息をついた後に言い放つ。

 

「たく、何を言い出すかと思えば……いいか、よく覚えとけ。刑事ってのはな、休むのも仕事のうちなんだよ」

「しかし、警部補」

 

 とコナーは抗弁した。

 

「人間の刑事と違い、私には肉体的疲労はありません。僅かな時間でも捜査に費やしたほうが」

「それで肝心な時に動けなかったらどうすんだ? 身体は疲れなくても、お前には心があるんだろ」

 

 とん、と警部補の指先がこちらの胸元を軽く突いた。

 そこにあるのはシリウムポンプであって、いわゆる心や精神に該当する中枢部は人間と同じく頭部にあるのだが――

 それを指摘するのは無粋というものだろう。

 コナーが曖昧に頷くと、ハンクは指を下ろし、渋い顔で続けて言った。

 

「お前みたいな奴をな、『仕事人間』つうんだよ。変異体になったんなら、いい加減楽しい休暇の過ごし方ってのを学習するんだな」

「ナイナーとはいつも楽しく遊んでいますよ」

「弟がいなくても一人で遊べるようになれよ」

 

 すっぱりと言い返されてしまった。

 コナーは、しばし黙考する。

 ――確かにハンクの言う通り、自分の精神的疲労を無視して活動するのは、機能不全の原因になりかねない。

 それに制度上の捜査担当である彼が不在の時に、補佐の自分が勝手に捜査資料を漁るというのは不適切な行為だともいえるし――

 

 どうあがいても、近いうちに暗号は解読できる。そうなれば、きっと休息の間もなく捜査に明け暮れることになるのは確実だ。

 今のうちに余暇を楽しんでおけ、という相棒の指摘は、至極正しいのかもしれない。

 

 納得したコナーは、おもむろにハンクに告げた。

 

「確かに……あなたの言う通りだと思います。すみません。遠慮なく、明日は参加してきます」

「最初からそう言えってんだ。ああそうだ、それと」

 

 まだ何かあるのだろうか。

 彼の視線は、こちらの服装に向けられている。

 

「お前、せっかくならその服もなんとかしたらどうだ」

「この格好では、不適切ですか?」

「前々から思ってたが、休みにまで制服着てる奴がいるかよ」

 

 ハンクは腕組みしてそう言った。

 ――実際のところ、コナー自身は、この制服について特に悪い感情は抱いていない。

 機能的だし、清潔だし、どんな場所に行ってもそれなりに礼を失しない服装のため、捜査補佐というこの仕事に実に合っていると思っているからだ。

 

「……調理の際は、ジャケットくらいは脱ごうかと思っていましたが」

「もうじき夏になりゃ、死ぬほど暑くなるだろ。お前、それでもその格好でいるつもりか?」

「私の初めての任務は8月15日でしたが、その時からずっとこうですよ」

 

 きっぱりとそう告げると、ハンクはげんなりした顔になった。

 

「暑苦しいことこの上ねえな。これだからサイバーライフの連中は……」

「あなたの言いたいことはわかります」

 

 と、コナーは少し眉を顰めて言う。

 

「夏の時季に合わせて、服装を変えるべきだというのですね。確かに真夏でもこの格好では、長時間の活動に支障をきたすかもしれません。悪い意味で目立ってしまう可能性も……」

「ああ……ま、そうだな」

 

 若干面倒くさくなったような口調だが、ハンクは後ろ頭を掻きつつ同意した。

 

「お前、シャツ一枚買うくらいの金は持ってんだろ?」

「はい。最初期にサイバーライフから支給された活動費の残りと、ファウラー署長から備品維持費として支給されているものを合わせれば」

 

 法的にモノであるアンドロイドたちには、現在財産権もなく、つまり給与を貰う権利もない。しかしアンドロイド保護条例のもと、彼らを“雇う”人間には、最低限の「維持費」を支給するという義務が発生するようになった。

 ハンクにその金額を教えたら、「道端でレモネードでも売ったほうがマシだな」と顔を顰められてしまったが。

(ちなみにレーヴァングランドで使用および荒稼ぎした金銭は、捜査完了に伴いすべて帳消しになっているため、当然ながら現在は手元にない。)

 

 ともかく、物事にはなんでもきっかけというものがある。

 夏期の捜査活動の際の服装にも転用できるような、【新しい服の入手】。

 暗号解読の次に重要なミッションとして、コナーはプログラムのリマインダーにそれを加えておいた。

 

「ご助言ありがとうございます。この後、さっそく買ってこようと思います」

 

 コナーは明るくそう言って、実際にその後、一人で市警近くの店をいくつか回り、納得のいくものを一枚購入した。

 

 検索したところ、適切なファッションの条件というのは基本的に【清潔感があり】【体格に合っていて】【奇抜な色使いでない】という点にあるようだ。

 さらに言えば、【自分の好みに合っている】ものならより優れているらしい。

 確かに、他者に合わせるあまりに自分の気に食わない格好をするというのであれば、それはお仕着せの制服と何も変わらない。

 そして変異体となってまだ半年程度しか経っていない自分であっても、自身が何を好んでいるのかは理解しはじめているつもりだ。

 

 

 そういうわけでコナーは、料理教室当日のこの日、意気揚々とハンクの家に向かっている。

 今朝、出動前の弟にもこの服装を見せたところ、たいへんな好評を得られた。

 きっと警部補も悪くないと言ってくれるに違いない。

 

 そんなふうに考えながら歩いているうちに、ようやくハンクの家の前に到着した。

 事前に念を押された通り、コナーは礼儀正しく玄関脇のチャイムを押して鳴らす。

 ――鳴らす。

 7秒ほど押し続けたところで、ドアの向こうからドタドタと足音が近づいてきた。

 

「はいはいはい、わかってるよ!」

 

 聞こえてきたのは、やはり相棒の声だった。

 直後、ドアが開く。

 

「出てくるまで鳴らし続ける奴があるか、ったくお前はいつも……」

 

 予測していた通り、その頭にはまだ寝ぐせが残っている。いかにも休日らしいTシャツと下着姿のハンク・アンダーソンは、ぼやきながらもこちらに目を向けて――

 なぜか、その目は大きく見開かれたまま硬直した。

 

「お、お前」

「おはようございます、警部補」

 

 コナーはいつもの通りにこやかに挨拶した。

 それから彼の感想が待ちきれなくなって、小首を傾げて問いかける。

 

「どうです? 言われた通り、新しい服を購入してきました」

「お前……そんな、こりゃあ……」

 

 ――おかしい。

 ハンクはまるで酸鼻を極める事件現場に遭遇した時のような顔つきになっている。

 ただ驚いているだけというだけでは、彼のストレスレベルが急上昇している理由にならない。

 まさか――!

 

「警部補、どうされたんです?」

 

 彼の目を覗き込むようにしながら、コナーは真剣な面持ちで再度問いかけた。

 

「私がいない間に、何かあったんですか!?」

「何かあったはこっちの台詞だ!」

 

 力強くこちらの左肩に手を置くと、ハンクは極めて深刻な眼差しでまっすぐ問い質す。

 

「まさかお前……お前がアンドロイドだからって、そんな服しか売ってもらえなかったってのか!?」

「服?」

 

 なんだ、やはり、彼はこちらの服装を気にしているだけだったようだ。

 プログラムにないところから胸の内に広がる「安堵」を覚えつつ、コナーは穏やかに言う。

 

「落ち着いてください、ハンク。あなたの言いたいことはわかります」

「……?」

「『このプリントよりスモウのほうが可愛い』。でしょ?」

 

 と、コナーは自分の胸元――正確には、今着ているTシャツに大きくプリントされているセントバーナードのイラストを指した。

 

 そう、セントバーナードだ。こげ茶の生地に浮かび上がるように、精悍なセントバーナードの顔が、視力0.1の人間が5メートルの遠方から見ても判別できる程度の大きさでくっきりと印刷されている。

 さっきハンクに言った通り、このシャツの犬よりもスモウのほうがより勇壮かつ可愛らしいのは否めないが、彼に敵うような犬はなかなか他にいないので、そこは仕方がない。

 大切なのは、これを着ることで常にスモウと一緒にいるような充足感が得られるという点で――

 

 と説明しようと思っている間に、ハンクはこちらの肩に手を置いたまま深く俯き、大きく嘆息した。

 次いで向き直ると、彼は鼻先に人差し指を突きつけてきた。

 

「そこで待ってろ。いいな、絶対動くんじゃねえぞ」

 

 厳命するように言うと、彼は玄関のドアを閉めてしまった。足音が遠くへ去っていく。

 ――よくわからないが、待っていろというのなら待つしかない。

 コナーが首を傾げつつ佇んでいると、17秒後、ハンクは戻ってきた。

 

 彼はその手に、幾ばくかのドル紙幣を握っていた。

 そして素早く、それをこちらの右手にねじ込んでくる。

 

「買ってこい」

「えっ」

「いいから、別のまともなシャツを買ってこい!」

 

 別の、まともな――?

 語義を理解した瞬間、コナーは自分の視界の端に、【納得できない】という文字が大きく表示されるのを認識した。

 

「ハンク、なぜです!? この服のどこが問題ですか」

「全部だ、全部! ああ畜生、まさかこんなことになるなんてな」

 

 片手を額に当てて、警部補は苦々しく声をあげた。

 

「どこの世界に、そんな珍妙なTシャツ買うやつがいるんだよ!」

「……少なくともここにいますが。警部補」

「一丁前にムッとしてんじゃねえ。よく考えりゃわかるだろ、派手だし変だし気色悪いぞ!」

 

 ――派手?

 

「お言葉ですが、あなたが普段着用しているシャツのカラーリングと比較すれば、この服がどれほどシンプルかよくわかるはずですよ。茶と白と黒しか使われていなくて……」

「ああ、ああ、そうかい。そりゃ悪かったな。ともかくお前がその服を着てる限り、うちの敷居は跨がせねえからな」

「そんな!」

 

 愕然とコナーは叫んだ。

 

「今朝、ナイナーはこの服を褒めてくれましたよ!」

「そりゃ感想じゃなくて、兄貴に対する気遣いってんだ!」

 

 こちらの語気に負けないくらいの声をあげると、彼は再び指をこちらに突きつけた。

 

「いいからとっとと別の店に行って、まともなやつを買ってこい。半袖で無地で身体に合ってるやつならなんでもいい。でないと本気でうちには入らせねえし、スモウとも接触禁止にするぞ!」

「キ、キッチンの清掃は」

「んなもん端から要らねえって言っただろ」

「……」

 

 ――言い負かされてしまった。

 忸怩たる思いと共にコナーは自分の服の胸元を掴み、俯きつつ踵を返す。

 

「わかりました、警部補」

 

 小さく相棒に告げる。

 

「この服は裏返して、シャツの下に着ます」

「お前、そこまで気に入ってたのか……」

 

 ハンク・アンダーソンの呟きは、青天に溶けて消えていく。

 こうしてコナーは、よりシンプルな、薄い青色の襟付きシャツを着て午後の料理教室に行くことになったのだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月5日 11:02

 

 

 コナーとハンクが、服装に関して不毛な議論を交わしてから数時間。

 アンダーソン邸から遠く離れた、デトロイト北部の旧工場地地帯――

 その南端、中心地の賑わいの残滓が僅かに残る街並みを、ギャビン・リード刑事とナイナーは歩いていた。

 

 理由は昼食の買い出しだ。

 これからギャビンとその“相棒”のポンコツアンドロイドは、とある廃工場を捜査することになっている。

 旧工場地には打ち捨てられた工場がいくらでもあるが、そのうちの一つで、不可解な現象が起きているとのタレコミがあったのだ。

 近所に住んでいるホームレスや食い詰め者たちが、何人もそこに入っていくのを見た、だの――

 既に稼働していないはずの場所なのに、日中トラックが行き来して何かを運んでいた、だの――

 夜中に、誰かの叫び声が聞こえてきた、だの。

 

 明らかに、そこでは何かが起こっている。

 それに工場ならば、例の新型レッドアイスの精製が行われているとしてもおかしくはない。

 そうでなくても、悪事が行われている恐れがあるならば、そこには苦しむ人が必ずいるはずである。

 捨て置くわけにはいかない。

 

 ――というようなことを、朝からポンコツ備品がポンコツのくせにボソボソと主張してくるのが、ギャビンにとってはうざったくてたまらない。

 

 ここ連続7回にも及ぶ捜査の空振りは、ギャビンの意気を完全に失わせていた。

 やっと「当たり」に出くわしたかと勢い込んだところで、前々回の廃工場は偽ブランド製品の生産所で、前回の廃ビルは違法風俗店舗に改造されていただけだった。

 どちらもきっちり逮捕し(パクっ)てやりはしたが、肝心の吸血鬼の足取りも手がかりも、一向に掴めていないのだ。

 見えない誰かにコケにされているような気がして、それがたまらなく不愉快だった。

 

「リード刑事」

 

 と、歩道で傍らを行くデカブツが口を開いた。

 

「確認させてください。昼食は、車中で摂る予定ですか?」

「そうだっつったろ」

 

 面倒なことに、まずは車の中からその廃工場の様子を観察し(要は張り込みだ)、人の行き来がないと判断してから工場内に踏み入る必要がある。

 でないと、入った途端に最悪蜂の巣なんて羽目に陥るからである。

 

 とっくに説明したはずなのに理解できないなんてマジでポンコツだな、と相手を睨み上げてやると、デカブツは例の無表情のままに、視線だけこちらに向けて言う。

 

「それならば、昼食は私がドローン経由で購入して配達可能です。徒歩で移動してまで、あなたが購入する必要性は低いと判断します」

「ああそうかい、そりゃお優しいことで。だがお断りだ、ウスノロ」

 

 言い捨ててやると、ポンコツはポンコツなりにきょとんとしたような表情を浮かべている。そんな顔で隣を歩かれるとイライラするので、ギャビンはさらに続けて言った。

 

「誰がてめえのドローンなんかの世話になるか。だいたい、その万能空飛びマシーンが車に近づいたとこを、誰かに見られて怪しまれたらどうすんだ。あ?」

「なるほど。理解しました」

 

 ぱちぱちと何回か瞬きした備品は、いかにも納得したようにゆっくりと頷いた。

 

「機密漏洩の回避ですね。守秘の重要性に関するリード刑事の顧慮には、私も感服、するところです」

「フン」

 

 さも嫌そうに、ギャビンは鼻を鳴らす。

 ここ数回の捜査のせいか、いけ好かないコナーとの仲良し兄弟ごっこのせいか、あるいは配属されて3週間も経ったからだろうか――

 最近のポンコツ備品は、ポンコツのくせにこうして意見を言ったり、こちらを(こいつなりに)褒めたりすることが多くなった。

 人間に取り入ろうという、ご立派なプログラムの働きだろうか?

 ――所詮機械のくせに、いい子ぶりやがって。

 

 そうは思うものの、こいつがいるお蔭で捜査も取り調べも調書の作成も、ごく短時間で終わるようになったのは認めざるを得ないところである。

 この調子で、ハンクとコナーが見つけてきたというご大層な暗号とやらもとっとと解いてほしいものだ。

 そうしたら、堂々と手柄を自分のものにできる。

 あの酒臭アンダーソンとペットロボ野郎に、これ以上でかい顔をさせてたまるか――

 

 そう思いながら、ギャビンは足を止めた。ちょうどそこに、適当なベーグル屋を見つけたからだ。

 店構えも汚くないし、雰囲気的に味も悪くなさそうだ。ここに決めてしまおう。

 

 結論づけたギャビンは、備品に釘を刺す。

 

「ついて来るなよ。てめえが入ると店が狭くなるからな」

「了解しました。他の利用客への配慮ですね」

 

 何か勘違いした言を吐くと、備品は静かに歩道の端に立ち、後ろ手を組んで待機の姿勢になった。

 そもそもアンドロイドに食事なんて必要ないはずなのに、このポンコツはどこにでもついて来ようとするから困る。

 とはいえ聞き分けが悪いわけではないから、こうして言いつけておけば大人しく外で待っているようにはなった。たちの悪い大型犬か何かのようなものだろう。そんなもの飼ったこともないが。

 

 ギャビンはまた鼻を鳴らすと、とっとと店に入ろうとした――

 

 のだが、そこで戸口から出て来た別の客とぶつかりかけた。

 その客の女は、杖をついて歩いている。

 長い黒髪で、痩せていて、肌がとても白かった。

 

「あっ、すみません」

 

 女性が謝るが、当然ギャビンは謝らない。

 するとなぜか、備品のほうが口を開いた。

 

「こちらこそ、申し訳ありません」

「い、いえ」

 

 思わぬ方向から聞こえた謝罪に、少し驚いたのだろう。

 女は戸惑いつつも微笑んで――それで、備品を見て目を丸くする。

 

「あら、あなた……コナーさん?」

「いいえ」

 

 備品は律儀に否定した。

 

「正確には、私の名称はご発言の通りコナーです。しかしあなたが認識しているのは私の兄だと推測します。私はナイナー、あなたとは初対面です」

「ああ……そうだったの、ごめんなさい。前にお会いしたものだから、つい」

「謝罪は不要です。それより」

 

 と、アンドロイドの視線は道路の舗装に向かう。

 いや――その灰色の瞳は、そこに落ちている小さな薬瓶に向いていた。

 次いで、音もなく屈んでそれを拾う。

 

「落下しました」

「あ……ありがとう」

 

 ポンコツが差し出したそれを、女は少し慌てた様子で受け取った。

 

「……本当にごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」

 

 そう言って、そそくさと女は向こうへ行ってしまった――

 

 そのどこか訳ありな様子に刑事としての“勘”を刺激され、ギャビンは備品に詰め寄ってこそこそと問う。

 

「おい、あの女が落としたのはヤクか?」

「いいえ」

 

 ポンコツは定期的に瞬きしながら即答した。

 

「分析によれば、一部の医薬局で処方される最先端の抗不安薬です。化学式はC15H10Cl2N2O2、商品名は……」

「チッ、ああそうかよ」

 

 合法的な薬と聞いて、ギャビンは途端に聞く気を失くした。

 ポンコツの説明を打ち切らせて、今度こそとっとと店に入ることにする。

 ――まったく、今日はどうも物事が上手く噛み合っていない気がする。

 この調子じゃ、また空振りだろうか。

 

 鼻筋の古傷がムズムズしだしたのを不快に感じながら、ギャビンは店に入った。

 無駄な会話をしていたせいか、カウンターまでの店内の列は長く伸びてしまっている。

 クソが、と内心で吐き捨てた後、ふと窓の外の備品の様子を振り返って見た。

 

 備品は道端の雑草(花が咲いている)をじっと見つめた後、今度はなぜか空を見上げていた。

 相変わらずの無表情だが、その顔はどことなく、ここにはいない誰かを思い浮かべているような――いや、機械にそんな「情緒」なんてものがあるとも思えないが、なんとなくそんな様子だった。

 

 そういえば今朝、あいつの兄の型落ちクソロボット刑事が今日は休みで服がどうで教室がどうたらこうたらと、備品が備品のわりに口数多く喋っていたような気がする。

 半分以上聞き流していたので覚えていないが、もしかしたらここにいないそいつのことでも考えているのだろうか。

 

 ――だからなんだってんだ?

 こちらに関係あるのは、今日はあいつもハンクも休みだから、顔を合わせずに済んで実に働きやすいという一点だけだ。

 ギャビンは余計なことを考えるのを、早々に辞めたのだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月5日 12:25

 

 

 コナーが清潔かつ(相棒に言わせれば)まともでまったく問題のない薄青のシャツといつものジーンズという格好で足を踏み入れたのは、デトロイト市警からそう遠くない場所にあるレンタルキッチンの一室だった。

 5分前集合のつもりでやって来たのだが、中には20人程度の人がいる。老若男女様々だが、市警で見かけたことのある職員はほとんどおらず、関係者なのだろう、まったくの初対面の人々のほうが比率としては多かった。

 

 4人で一つの班になって習うということで、コナーは前方のスクリーンに映し出された割り当て表を確認し、自分の席に向かう。

 コンロや基本的な調理器具が揃った机に備えつけの椅子には、既に3人座っていた。白髪を纏め上げた上品そうな老婦人――顔認証によれば【サマンサ・ヘインズビー 73歳】と、眼鏡の奥の吊り上がり気味の目でこちらをじっと見据えているもう一人の老婦人【ベティ・ヨーク 72歳】、そして――

 

「ウィルソン巡査」

 

 よく見知った彼を確認し、コナーは微笑みと共に挨拶した。

 署のオフィスではコナーの背後の机を使っている、あの気のよい黒人男性の巡査である。

 

「こんにちは。奇遇ですね」

「ああ、お前こそ」

 

 ウィルソン巡査は片手を挙げてこちらに応える。

 

「驚いたよ、こういうのに来るもんなんだな。お前なら習わなくても、料理なんてなんでも作れちまうのかと思ってたよ」

「なかなかそうはいかないので、見聞を広めるために来ました」

 

 彼の隣の空いている席に座りつつ、続けて問いかける。

 

「あなたも、料理をするんですか?」

「ああ、いや……つまり、俺は……」

 

 と、にわかに彼は口ごもり、視線を逸らしてしまった。

 

「俺は、うちのが色々……この間も家事を……いや、気にするなよ」

 

 首を横に振ると、ウィルソン巡査はそれっきり黙ってしまう。

 ――そういえばコナーが初めて署のオフィスに足を踏み入れた日も、それ以降の日も約2週間おきだろうか、彼がしばしばパートナーと電話で揉めているのは確認していた。

 俺も会いたいとか、俺も愛しているとか、頼むから職場に電話してこないでくれとか――

 

 恐らくそういった深遠な事情が関係して、彼はここにいるのだろう。

 コナーは短く頷き、それ以上は何も聞かないことにした。

 

 すると、向かい側の席に座っているサマンサとベティとが、こちらをじっと見つめているのに気がついた。サマンサはにこにこと穏やかに、ベティはよくアンドロイドに不慣れな高齢者がやるように、眼鏡のつるに手をやってじろじろと。

 そういえば、彼女たちには挨拶がまだだった。

 コナーは姿勢を正し、いつもそうするように、明朗かつ簡潔に自己紹介する。

 

「はじめまして、私はコナー。デトロイト市警のアンドロイドです。今日はよろしくお願いします」

「あらあら、まあ、はじめまして」

 

 サマンサはころころと笑った。

 

「あなたが噂のコナーさんね。ハンクは元気かしら?」

「はい、お蔭さまで。……彼をご存知ですか」

「ええ、もちろん。私、デトロイト市警で働いていたんだもの」

 

 その言葉を聞いて、コナーは素早く顔認証の個人データを参照した。

 確かにこのサマンサという女性は(ベティもそうだが)前職がデトロイト市警の警官だと記載されている。

 ――ハンクの先輩にあたる人物と、こうして面と向かうのは初めてだ。

 ひょっとしたら、何か興味深い話を聞けるかもしれない。

 そう思っている間に、サマンサは思い出を刺激されたのか、隣のベティに話しかけている。

 

「ねえベティ、ハンクは新人の頃から立派だったわよね。特に刑事になったばっかりの時なんてほら……なんていったかしら、あの大きな麻薬カルテルを潰しちゃったでしょう」

「フン、どうだったかね」

 

 ベティ・ヨークは不機嫌そうに返事した。

 

「あたしはよく知らないよ、あんたと違ってずっと受付係だったからね。ほら、今はアンドロイドに取って代わられた受付係だよ」

「現在はまた、受付は人間の職員が担当していますよ」

 

 よかれと思ってコナーは口を挟んだ。

 

「市警で働いていたアンドロイドは、ほとんどが革命を機に退職してしまったので」

「フン、革命ね」

 

 ベティはじろりとこちらを睨み、肩を竦めた。

 

「あたしゃゾッとしないね。人間が減って、アンドロイドが増えて、あたしたちゃ機械に支配されるってのかい」

「ちょっとベティ、失礼よそんな言い方!」

 

 と、サマンサは友人を窘める。

 

「ごめんなさいねコナーさん、気を悪くしないで。彼女、普段はこんなじゃないのよ」

「いえ、お気になさらず」

 

 真摯な気持ちでコナーは応える。

 というのも、ベティのバイタルサインを確認するに、どうも彼女が本気でこちらに対する敵意を抱いているようには判断できなかったからだ。

 一方でサマンサは、なおもベティに非難がましい目を向けている。

 

「ベティ、なんてこと言うの。だいたい、今日の講師の先生だってアンドロイドなのよ?」

「先生は別だよ、今までだって世話になってるしね」

「まあ、呆れた。素直に、ハンクの相棒の彼に嫉妬してるんだって言ったらどうなの」

「な!? なんてこと言うのさ」

 

 ベティの心拍数が急上昇し、彼女は傍らのサマンサの肩を軽く叩く。

 

「やめてよ。あたしはあんな坊や、別に可愛いとも思ったことないね」

「嘘ばっかり。20年くらい前、ハンクが怪我して署に戻ってきた時、あなた大騒ぎしていたじゃないの」

「そんな昔のこと忘れたよ!」

 

 サマンサが語るごとに、ベティは顔が真っ赤になっていく。

 二人の会話を聞くうちに、コナーは――失礼だとは思ったが――ソーシャルモジュールにはまったく依らない「笑い」が自分の内側からこみ上げるのを感じていた。

 ――まったく、ハンクのことを「坊や」と呼ぶ人がいるなんて、思ってもみなかった。

 

 ついに堪えきれずにふっとコナーが小さく笑いを零してしまうと、サマンサは目ざとく見つけてベティの肩をつんつんと突く。

 

「まあ、ほら、恥ずかしいこと」

「うるさいよ!」

「すみません、笑うつもりはなかったんですが」

 

 コナーは真剣に応えた。

 

「ただ、お二人の話を聞けただけでも、今日はここに来た甲斐があったと思います」

「あらまあ、それはよかったわ。でも、きっと先生の授業が始まったら、もっと来てよかったって感じると思うわよ」

 

 サマンサは陽気に言う。

 

「先生が料理の講師を始めたのは革命の後かららしいけど、本当に教え方が上手なの。先生に習えば、どんな料理下手だって、一流シェフみたいなディナーが作れると思うわ」

「そうですか」

 

 それならば――自分程度の技量でも、相棒を唸らせるだけのものが作れるだろうか。

 その光景を想定したコナーは、また自然と、自分の口元に微笑みが浮かぶのを覚えた。

 

「それは……楽しみですね」

「ええ、ほんとよ! ねえ、ベティ」

「フン」

 

 そっぽを向いてしまったベティの肩を、なおもサマンサが突いているのを、コナーは穏やかに眺めていた。

 しかし――

 

「なあ、コナー」

 

 ウィルソン巡査がそっと声をかけてきたので、そちらのほうを向く。

 

「なんでしょう」

「ああ、いや……ほら、もう12時半過ぎてるだろ」

 

 彼が指したのは、壁に掛けられた時計だ。時刻は12時41分。

 確かに、コナーの内蔵時計でも時刻は【12:42】。料理教室開催の予定時刻を、もう12分もオーバーしている。

 そして、未だに講師たるAX400は姿を見せていない。

 

「遅刻でしょうか」

 

 そう言いながらも、コナーのプログラム上を過ぎったのは一抹の「不安」だった。

 まったく根拠もない、ただの曖昧な憶測である。

 けれど――

 講師がアンドロイドである以上、寝坊や記憶違いなどによる遅刻というのは考えられないし、ざっと検索したところ、市内の交通網で遅延などのトラブルがあったというニュースもない。

 

「何もなければよいのですが」

 

 我知らず眉を曇らせ、コナーは呟くのだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月5日 12:44

 

 

「おらっ!!」

 

 軽い気合の声と共に、ギャビンは廃工場の錆びた鉄扉を蹴り開けた。

 大した抵抗もなく扉は内側に開き、ほんのりと暗い工場内部には、どうやら動く人の気配はない。

 

 一歩前に進み、戸口から首だけ覗かせたギャビンは、小さく鼻を鳴らす。

 ――やはり、誰もいないらしい。

 内部の壁や床はあちこちが錆び、塗装が剥がれて不気味なありさまになってはいたが、意外と綺麗に整備されている。

 元々設置されていたらしい、自動車の部品を作成する機械やコンベアは完全に停止してもう何十年も経っている様子だけれども、それ以外――

 なぜか壁一面に取り付けられた大型の冷凍庫、あるいは冷蔵庫? のような装置は、低く音を立てながら今なお動いているようだ。

 

 ――明らかに怪しい。

 

 ビンゴ、そうでなくては困る。

 こっちはわざわざきちんと車中で張り込んだうえで(エビアボカドクリームのベーグルサンドの味はまずまずだった)、今ならいけそうだと思ってここへ来たのだ。

 せいぜい、出世のための糧になってもらわなくては。

 

 拳銃を構えたまま、ギャビンは堂々と中に入ろうとした。

 だがその襟首を、後ろから誰かに掴まれて「ぐえっ」と声をあげる。

 誰が掴んだか、などと考える必要もない。

 ギャビンは怒りを顕わにしながら振り返り、背後に立つポンコツアンドロイドを睨めつけた。

 

「おい、クソ備品が何しやがる! 窒息させる気か、てめえ」

「申し訳ありません、その意図は皆無です。ただ、捜査開始直後の突入は推奨しません」

 

 ぱちぱちと備品が瞬きする間に、白色と黒色で塗られた奴のドローンが5機ほど、一斉に戸口から工場内へ突っ込んでいった。

 

「私のドローンに先行させ、状況を把握した後の任務遂行を提案します」

「提案? もう勝手にやってんだろうが」

 

 ケッ、と吐き捨てたギャビンは苦々しい表情でポンコツを再び睨みつけた。

 しかしポンコツはといえば、自分の管理者の顔色よりも工場の中の様子のほうに興味津々らしい。

 青から黄に色を変えたLEDリングが何度か点滅した後(つまりデータの送受信というのをやったのだろう)、備品はこちらにまっすぐに視線を向けてきた。

 

「……エントランス、および中央作業場には、人間の生体反応およびアンドロイドの反応は存在しません。稼働中の機器は、壁際に設置された大型業務用冷凍庫15台のみ。ただし当該冷凍庫の扉には、高度なパスロックが設定されています」

 

 それから、と、ポンコツはもう一度LEDリングを点滅させてから続けて言う。

 

「正面から見て2時の方向、中央作業場と連結する形で、本来は当該工場の管理者のバックヤードスペースであったと予測される部屋が存在します。扉は南京錠でロックされている模様ですが、リード刑事の身体能力で物理的に突破可能です」

「それだけ言えば充分なんだよ、ポンコツ」

 

 まったくこいつときたら、結論から喋るってことを知らないらしい。

 ソーシャルモジュール(とやら)がないので喋るのが苦手、というようなことをいつだったかこいつが言っていたような気がするが、最新鋭アンドロイド様なら、つべこべ御託を並べずにとっとと学習したらどうなのだろうか。

 

 ともかく備品を従えて、工場内に足を踏み入れる。

 入ってみてわかったことだが、壁際の冷凍庫の間には、何やらプラスチック製の箱のようなものがいくつも転がっていた。両手で抱え持ってちょうどいい程度の大きさだ。

 油断なく銃を構えたまま、ギャビンは足でそれを蹴り転がして観察してみた。

 

 箱は、アンドロイドのパーツやブルーブラッドを運搬するためのものと少し似ているようだが――内側が一面、白く盛り上がっているのが違っている。

 そう、この白い塊は恐らく保冷剤。

 するとこの箱は、クーラーボックスのようなものだろうか?

 

 だが、なんのためにこんなに大量に――?

 

 内心で訝しんでいると、隣で箱を拾い上げて観察していたポンコツが、次に床に視線を向けて、そのまま声を発した。

 

「リード刑事」

「今度はなんだ」

「警戒願います。情報不足のためDNA鑑定は不可能ですが、工場内の箱の67%、および床の一部に人間の血液反応があります」

 

 相変わらずの無表情で、しかしきっぱりと、備品はグロいことを口にした。

 

「血液反応だ?」

「私の視界と同期させました。確認を」

 

 そう言って、ポンコツは手のひらをこちらの目の前に突き出した。

 仕方ないので見てやると、奴の手のスクリーンには、言葉通りこいつの視界がそのまま映っているらしい。

 今視線が向けられている箱には、拭き取られたようだが血液の痕跡がついており(【ヘモグロビン反応:12日4時間7分前】と横に表示されている)、またこいつが視線を動かした先、床のほうには、やはり点々と血の跡がついている。

 ご丁寧なことに、その血の跡は例の扉――さっき備品が長々と説明した、あの南京錠のかかった部屋へと続いていた。

 

 ついでにいうと、壁際に積まれている箱の(恐らくは言葉通り67%なのだろう)大半には、さっきの箱と同じく【ヘモグロビン反応】との表示が横に出ている。

 

 要するにこの工場は――拭き取られ、あるいは蒸発しているために人間の肉眼ではわからないが、そこらじゅうが血まみれなのだ。

 そしてあの扉の中に、ここの秘密が隠されているのは明らかというわけで――

 

 こういう状況になった時、ギャビンの思考を支配するのは、当然恐怖ではなく功名心である。

 一体、どんなヤバい事態が起こっているのか?

 殺しか? ヤクか? その両方か。

 あるいはようやく、新型レッドアイス関連の何かに迫れるのだろうか。

 ニヤリと笑みを湛えると、ギャビンは傍らの備品の肩を(寛大な)労い代わりにバシンと叩いてやった。

 

「悪くねえ情報だな、ポンコツ。その調子で……」

 

 役に立ってみせろよ、と続けようとしたところで、備品が首だけ向けてこちらを見たせいで、奴の手のひらのスクリーンに自分の姿が映ってぎょっとする。

 姿どころか、顔認証システムとやらのせいだろうか、自分のデータが名前のみならず証明書の顔写真、生年月日、職業、現住所までズラズラと表示されている――

 

「おい、気色悪いモン見せてんじゃねえ! あっち向け」

「……申し訳ありません」

 

 強引に下から相手の顎を押し上げると(重い)、ポンコツは単調な口調で謝り、手のひらのスクリーンを消した。

 

「私の分析および顔認証機能は自動的のため、任意でのシステム停止は不可能です」

「聞いてねえよ、クソが」

 

 切り捨てるように言って、ギャビンはさっさと例の扉に向かった。

 前に立ってみれば、確かに南京錠で施錠されているが、充分蹴り破れそうである。

 窓などはないため、ここから中の様子を窺うのは無理そうだ。

 

 静かに、そっと扉に耳を当ててみた。

 ――もしかしたらそれもポンコツにやらせたほうが「精度」が高いのかもしれないが、こいつばかり前に出させるというのは、それはそれで自分が無能になったような心地がして癪なのだ。

 

 しかし――中から、人の話し声のようなものは聞こえてこない。

 ただ、低い唸りのようなものは微かに響いていた。

 空調設備の音なのか、あるいは人間か動物の声なのかははっきりしないが。

 

「……内部に負傷した人間がいる確率、72%。リード刑事、突入しますか?」

 

 どういう仕掛けで判断しているのかは知らないが、横で扉に片手をついた備品がそう言って、こちらを見て小首を傾げている。

 ――問われるまでもない。

 

「フン!!」

 

 もう一度気合い一発、ギャビンは扉を思い切り蹴り開けた!

 南京錠はあえなく千切れ飛び、扉は軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。

 

 そして、その中には――

 

「は? ……なんだこりゃ」

 

 思わず、ぽつりとそう呟いてしまうような光景が広がっていた。

 まず目立つのは、黒いビニールでコーティングされたベッド3台。

 ベッドといっても毛布やシーツの類はなく、譬えるならマッサージ店にあるような、ただ横たわるためだけのものだ。

 それぞれの脇にはスチール製の小さなデスクがあり、その上には一見すれば誰でもわかるような、あからさまな手術道具が――つまりメスだの鉗子だのが、びかびかギラギラと輝いている。

 

 さらにその奥には、工場には場違いなことに、鉄格子が嵌まったスペースがあった。

 要は、今どき留置場にもないくらいに堂々とした、いわゆる「牢屋」だ。

 

 歩み寄ってよくよく見てみれば、そこには何人もの男たち――身なりからして、恐らく通報にあった浮浪者の連中だ――が、ぎゅうぎゅうに押し込められている。

 座り込んだり、立ち尽くしていたり、あるいはうつ伏せになっていたり、様々だ。

 何人かは、腹に包帯を巻いていた。それが痛むのか知らないが、低く唸っている者もいる。

 恐らくさっき扉を介して聞こえてきた音は、こいつらの声なのだろう。

 

「……ケッ」

 

 誰に憚ることもなく、ギャビンは鼻を摘まんで男たちを観察した。

 こんな状況なら、大抵の人間は泣き叫ぶとか、出してくれと騒ぐとか、ともかくじっとしてはいないはずである。

 だがここにいるこの連中ときたら、虚ろな目でぼんやりと宙を眺めているか、あるいはひたすら床を見据えている。

 その口の端からはヨダレが垂れており、「私はマトモじゃないです」という看板を首から下げているのと同じだった。

 目は充血していない。ということは、レッドアイス中毒ではないようだが――

 

「モルヒネによる中枢鎮痛状態。言語による尋問は不可能と判断します」

 

 傍らでじっと男たちを分析していたらしいポンコツが、淡々と続ける。

 

「また、彼らのうち何名かの臓器に甚大な損傷が見られます。傷病ではなく、人為的な切除によるものと断定。中央作業場の血痕との因果関係が認められます。それから」

「まだなんかあるのかよ」

 

 備品はこちらを向いた。

 

「牢は電子回路で施錠されていますが、ハッキングすれば開錠可能です。あるいは、応援部隊に彼らの救助を要請することも可能です。判断を希望します、リード刑事」

「聞かれるまでもねえよ、ポンコツが。見てわかんねえのか」

 

 こちらの言葉にまた首を傾げている備品に対し、ギャビンは構えていた拳銃の銃口を使って、床の一点を指し示してみせた。

 床の一部に、不自然な細長い凹みがある。また、その凹みを囲う正方形の溝が。

 ――要は、地下に続く扉だ。

 

 腹に包帯を巻いた浮浪者の一人が、さっきからやたらと床ばかり見つめていると思い、その視線の先を辿ったらこれだ。

 こんなものもわからないなんて、最新鋭アンドロイドとやらも大したことはない。

 

 内心で嗤いつつ、ギャビンは続きを述べた。

 

「こいつらの救助は後回しだ、どうせすぐに死にゃあしないだろうしな。なら、先にこっちだ」

「我々のみで地下への突入を? 受傷事故の発生確率が62%です、推奨できません」

「ハッ!」

 

 大仰に肩を竦めて、ギャビンは盛大に鼻で笑い飛ばした。

 ここまで随分と捜査の“運”というのにコケにされてきたのだ。

 今さら身の危険程度で怯んでいられるか。

 

 ここで市警に応援を呼べば、なるほど確かに暇な連中が大挙してやって来て、ここを安全に制圧してくれるだろう。

 地下に誰がいたところで、物量に勝てるはずもない。

 だがそうなれば、手柄は当然その人数分で折半だ。

 冗談じゃない。ここを最初に見つけたのは、このギャビン・リードなのだから。

 

 ポンコツ備品のありがたいアドバイスは無視して、ギャビンは地下に続く扉に近づいた。

 とはいえ、真正面から開けるような間抜けな真似はしない。

 横側に回り込んで、手だけ凹みに伸ばし、指先を引っかけるようにしてそれを引き開ける。

 

 すると――

 乾いた音と同時に、地下から天井に向かって、銃弾が飛んできた。

 

 

***

 

 

――2039年6月5日 13:05

 

 

 強制給餌のない長期飼育を行う契約農場から仕入れたフォアグラを用いた、「牛フィレ肉のロッシーニ風」。

 季節のトマトとグリーンピースをふんだんに使った初夏の薫りを感じる「グリーンサラダ」。

 鶏肉と香味野菜をじっくり煮込んだ琥珀色の「コンソメスープ」――

 

 なるほど、今日の献立はやはり魅力的だ。

 それだけに――

 未だに待機を強いられているこの35分間は、実際以上に長く感じられる。

 

 教室の備え付けタブレット端末に表示されている資料を確認してから、コナーは静かに壁の時計を見上げた。

 もちろん時計を見ずとも時刻はわかるが、目を向けたかったのはざわめく教室の様子である。

 

 サマンサたちによれば、今日の講師のAX400(女性型でイザベラという名だそうだ)は朗らかながら真面目な性格で、これまでにこんなに遅れてきたことは一度もないそうだ。

 サポートスタッフたちが慌てた様子で、あちこちに連絡を取ろうとしている点からもそれは明らかである。

 しかし、イザベラ本人とはどうやっても連絡がつかないらしい。

 

「今日の料理、楽しみにしてたのに……先生、どうしたのかしらねえ」

「さてね。近頃も物騒だしね」

 

 それまで賑やかに話をしていたサマンサとベティも、不安げな表情で黙りこくってしまう。

 するとウィルソン巡査が、こちらに向かって口を開いた。

 

「なあコナー、もしかして市警(うち)のほうに何か連絡が来てるんじゃないか? もし講師が事件か何かに巻き込まれてるなら、通報があるはずだろ」

「そうですね」

 

 短く頷き、コナーは市警との回線を開いた。

 今日は休日だと思い、あえて通報に関する情報を自動で取得しないようにしていたのだが、こうなってはそうも言っていられない。

 

 さてデータベースを検索すれば、今日も今日とて大量の通報が朝から寄せられているが――その中に、アンドロイドが事件や事故に遭遇したというような情報は、今のところない。

 

 ということは、イザベラは無事なのか。

 いや、まだ通報されていないだけという場合もある。

 

 顎に手を置き、プログラムを走らせながら、コナーはしばし黙考し――

 だがその瞬間、新規の通報に関する情報が追加された。

 内容を認識すると同時に、コナーは席を立つ。

 

「これは……!」

「どうした、コナー?」

「この建物の裏口です。イザベラが負傷した状態で現れたそうです」

 

 言うが早いか、コナーは裏口に向かった。

 教室前方のスクリーン脇にある扉を開け、講師の控室を突っ切ったところに通りに面した裏口があり、そこにはスタッフたちの人だかりができている。

 駆け寄って見てみれば、その中央で蹲っているのは【AX400】――【登録名:イザベラ】。講師のイザベラだ!

 短い黒髪とアンドロイドの制服を自身のものらしきブルーブラッドで濡らしている彼女は、LEDを赤く光らせ、ひどく消耗した様子だった。

 

 すぐさまスキャンを実行すると、彼女は後頭部に【致命的ではないレベル2の損傷】を負っている。凶器は断定できないが、恐らくは金属バットか鉄パイプのような棒状の物体だ。怪我の状態から見て、【背後から殴られた】可能性が高い。

 彼女のブルーブラッドの残量と損傷具合から判断して、シャットダウンの危険性はないが――治療が必要であるし、ならば、話が聞けるうちに聞いておいたほうがいい。

 

 おろおろしつつも、とにかく警察への連絡を終えたという様子のスタッフの間を通り抜け、コナーはしゃがみ込んでイザベラに声をかける。

 

「大丈夫か? すまないが、何があったのか教えてくれ」

「っ、ブリックタウン駅から、ここに来るために、歩いていたら……」

 

 イザベラは、恐怖に声を震わせて語る。

 

「突然、知らない人間の、男に呼び止められて……に、荷物を寄越せ、って。心当たりがないって言ったら……後ろから、いきなり……」

 

 それで後頭部の損傷を負ったらしい。

 

「殴られて、それで私……今日使う材料を、運んでいたのに……男に、う、奪い取られて、しまって」

「材料?」

「クーラーボックスに入れた、フォアグラのパック……それに、トリュフとかも、ボックスごと……」

 

 近道しようと、路地裏なんて通らなければ――と。

 語るうちに悔しさが募ってきたのだろう、彼女の頬を涙が伝う。

 

 クーラーボックスを奪われたイザベラは、持ち前の責任感から男を追おうとした。

 しかし男は追いすがる彼女を蹴って退けると、停めてあった大型トラックに飛び乗る。

 そのまま、トラックは走り去っていき――

 彼女のほうは殴られたせいで通信機能に障害が発生し、通報もままならなかったが、それでもなんとかここに来ようと足を動かした。

 そして、今に至る。

 というのが、イザベラの証言だった。

 

「……!」

 

 話を聞き終えたコナーの胸中に膨らむのは、「怒り」の感情だった。

 なんの罪もないアンドロイドに強盗を働くだなんて――イザベラの負った損傷、そしてそれ以上の恐怖と精神的苦痛を思うと、とても平静ではいられない。

 しかも、それだけではない。

 どういう意図があってか知らないが、この教室の材料を奪うとは。

 サマンサたち、そしてコナー自身も、とても楽しみにしていたのに。

 今日の成果を、ぜひ警部補に振る舞おうと思っていたのに――!

 

 勢いよく立ち上がると、ちょうど後ろにウィルソン巡査が来たところだった。

 状況が呑み込めずに戸惑った表情の彼に、語気鋭くコナーは言う。

 

「巡査、どうかイザベラの応急手当と、市警への説明を頼みます。私はこれから、犯人を追います」

「お、追うだって!?」

 

 ウィルソン巡査は目を白黒させている。

 

「コナー、お前、今からか?」

「ええ、今すぐです。遅れれば遅れるだけ、犯人の足取りを追うのは難しくなる」

 

 イザベラの証言で得た情報から、事件現場はおおよそ割り出せた。

 ブリックタウン駅からこの建物までの間で、「近道のために通るような路地裏」はほぼ限定される。その場所近くの監視カメラの映像を分析し、犯人が乗ったというトラックを特定できれば――

 

「頼みました、巡査!」

「あっ、おいコナー!」

 

 一言言い残し、コナーは制止も聞かずに裏口から外に駆けだした。

 全力で走れば、事件現場と思しき場所まではすぐに辿り着けるはずだ。

 

 普段は遵守するようにしている交通法規――例えば赤信号で渡らないといったような――を【緊急事態につき】今はいくつか破った結果、6分ほどで、コナーは路地裏に到達した。

 高層ビルの狭間で作られたような、昼なお薄暗いこの場所には、残念ながらカメラが設置されていないらしい。

 だが地面に青い小さな血だまりを発見し、伸ばした指で掬い取って舌先で舐めれば、表示されるのは【ブルーブラッド AX400型 #287 965 331――登録名:イザベラ】という分析結果。

 

 間違いない、ここが事件現場だ。

 そしてこの路地裏を出た場所は、すぐに大通りに接続している。

 当然そうした通りには監視カメラが目を光らせているので、後はその映像を分析できれば、トラックの特徴やナンバー、走り去った方向も特定できる。

 

 しかし――

 付近の監視カメラを検索したコナーは、小さく歯噛みした。

 カメラ設置箇所は、合計で13もある。しかも、それらの映像のどこに有効な情報が含まれているのかは事前に予測できない。一つずつスキャンしているのでは、貴重な時間が刻一刻と失われてしまう――!

 

 ――仕方がない。

 コナーは有能な弟の助力を得るため、彼との通信を試みた。

 ナイナーの映像分析機能ならば、13箇所のカメラくらい瞬時にスキャンできる。

 恐らく(あの)ギャビンと任務遂行中である彼の手を煩わせるのは本当に申し訳ないが、状況が状況だ。

 後でしっかり謝ったら、許してくれるだろうか――

 

 そう考えているうちに、通信が接続された。

 今朝と変わらぬ、低く無機質ながらどこかに温かみのある弟の声が、通信デバイスを介して聞こえてくる。

 

『……はい。どうしましたか、兄さん』

「ナイナー、忙しい時にすまない。今大丈夫かな」

『……』

 

 弟は、なぜか2秒ほど沈黙した。

 しかしすぐに、彼は返答する。

 

『はい、問題ありません。用件をどうぞ』

「そうか、よかった。実は映像分析を頼みたいんだ」

 

 コナーは手短に、大型トラックを追っていることと、座標で現在地とカメラの位置を伝えた。

 

「できるかい? 実は、事件に遭遇して……どうしても、今すぐ情報が欲しいんだ」

『了解しました。11秒の待機を願います』

 

 間を置かずに了承してくれると、ナイナーはそのまま静かになった。

 ――しかしスキャニングを行う弟の次の言葉を待つ間、彼の音声プロセッサを通じて、微かに銃声のような音が聞こえてくるのが気になる。

 とはいえ、ナイナーは問題ないと言っていたし……ということは、ギャビンが癇癪でも起こして暴れているのだろうか? まったく本当に、どうして彼がコリンズ刑事のような立派な人物と同じ「刑事」の地位に昇れたのか、未だに理解できない。

 

 コナーのプログラムにそんな思考が過ぎりはじめた頃、弟の声が再び聞こえてきた。

 

『お待たせしました。捜索中のものと判断可能な大型トラックを特定しました。今、映像と座標位置を送信します』

 

 ――送られてきた情報が、コナーのメモリーに速やかに組み込まれていく。

 

「受信したよ。本当にありがとう、さすがナイナーだ」

『いえ……当然の行為です。健闘を祈ります、兄さん』

「ああ、君も気をつけて」

 

 感謝を述べて通信を切断すると、即座に情報の精査を行う。

 映像は、ここから北部へ向かうメリル通りの交差点付近のカメラのものだ。

 【12:09】に撮影されている。

 この路地裏から飛び出てきた男――残念ながらその顔はちょうど陰になっていてスキャンできないが、その男はクーラーボックスを小脇に抱え、すぐさま路肩に駐車されていた大型トラックに飛び乗っている。イザベラの証言と一致する映像内容だ。

 

 そのトラックは大手運送会社のものと酷似していたが、映像に残っていたナンバープレートを検索したところ、その番号の車はどこにも登録されていなかった。

 つまりトラックと、そのナンバープレートは偽装されたもののようだ。

 食材泥棒にしては大掛かりである。あるいは、大手の強盗団などだろうか?

 

 ともあれ、メリル通りから北部へとトラックが移動していることと、トラックの移動スピード、付近の交通状況から勘案すると、現在地の予測はおおよそ立てられる。

 ――急がねば。

 遠くに行かれてしまう前に、食材を奪還しなくては!

 

 コナーは通りに出て、走っていた自動運転タクシーを捕まえると、予測した場所へ移動を開始した。

 







コナーの選んだTシャツが見てみたい方は、「セントバーナード Tシャツ」で検索してみてください。

たぶん、どれかすぐにわかると思います(笑)


次話は29日朝6時に更新される予定です。
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