Detroit: AI   作:けすた

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第26話:決意 前編/I Still Love You. Part 1

――2039年6月9日 09:03

 

 明け方近くまで降り続いていた雨は既に上がり、今やアスファルトの路面を薄く濡らすばかりになっている。

 ミッドタウン近くの住宅街へと走る車中で、助手席に座るコナーは窓の外に目を向けた。

 行き交う車、歩く人々の姿、鮮やかな緑の美しい街並みは実に穏やかで、平和そのものといえる。まるで昨晩の出来事など、なかったかのようだ。

 

 しかし今こうしてコナーがハンクと共に移動する理由は、まさにその昨夜の事件にある。

 RK700に次ぐ、「もう一人の吸血鬼」――その正体である人間、マーサ・ガーランドによる、デトロイト市警襲撃事件。

 幸い怪我人はおらず、取り逃がした後で街に目立った被害が出たわけでもなかったけれども、状況はここに来てさらに深刻さを増した。

 彼女は追跡を逃れ、街のいずこかへと姿を消したのだ。

 

 マーサは――彼女がなぜ「吸血鬼の組織」の尖兵と化しているのか現状では不明だが、事実として、マーカスを恨んでいる。

 そしてそのマーカスは、明日の19時、ジェリコの代表として声明を生放送で発表することになっている。

 

 これまで潜伏していたマーカスが、人前に姿を見せる機会が明日訪れることが、もしマーサに知られてしまったら。

 そして、マーサがその機に復讐を選んでしまったとしたら――

 マーカスたちの命が危ない、というだけではない。人間とアンドロイドの間の軋轢が決定的になってしまえば、もはや共に未来へと歩むことが叶わなくなるかもしれないのだ。

 

 だからこそ今ここで、捜査を先に進めなければならない。

 今朝、警部補には、昨夜の事件を経て警察署内での器物損壊罪に問われることとなったマーサの自宅の捜査許可が下された。

 彼女がオンタリオに拠点を移す前に住んでいたと思われる、アパートメントの一室。以前ギャビンとナイナーが訪れた際は中に踏み入ることはできない状況だったが、正式な許諾のある今は違う。

 調べれば、事件に繋がる手掛かりが見つかるかもしれない。

 この一連の事件では何度もこうした期待を裏切られてきたが、今度こそは。

 

 そこまで考えたコナーが視線を正面に戻したその時、車が赤信号に捕まり、一時停止した。

 ハンクが今日も今日とて大きな音で流しているヘビメタも、ちょうど次の曲へと移る合間のタイミングである。

 そこで、コナーは運転席の相棒に声をかけた。

 

「警部補。本当に私たちだけでよいのでしょうか」

「何が……ああ。マーサの家を調べるのがってことか?」

「ええ」

 

 小さく頷いてから、コナーは続きを述べる。

 

「通常、このような場合の捜査は大人数で行われるはずです。我々二人のみでというのは、慣例に反するのでは」

「気にすんな。それくらい、市警(こっち)も切羽詰まってるってだけだ」

 

 ハンドルから離した右手を軽く振り、警部補は語る。

 

「昨日の事件とマーカスの警備計画で、人手はいくらあっても足りねえ。だから、ひとまず俺たちだけでもマーサん家の捜査に回すしかねえってわけさ。署までカチコミかけられたとありゃ、これはもう面子の問題だからな。なりふり構っていられないんだよ」

 

 そこまで言ってから、ハンクは「それに」と続けた。

 

「周りを他の奴らが大勢うろついてるより、お前も捜査しやすいだろ」

「ええ、まあ」

 

 これまでの捜査を思い出しつつ、コナーは素直に同意した。

 それと共に、青信号を受けて車は再び走り出す。

 

「確かに、事態は急を要します。一足先に調べられるなら、それに越したことはない」

「そういうこった。……今から行くアパートでは、マーサはたぶん、娘のミリアと一緒に暮らしてたんだろ」

 

 ほんの僅かに面持ちを険しくして、ハンクは言う。

 

「その時のことが少しでもわかれば、マーサの足取りも追いやすくなるかもな」

「……はい」

 

 やや硬い声音で、コナーは応えた。

 ――マーサとミリア、二人だけでの生活。恐らくそれが温かく愛おしいものであったからこそ、マーサは「吸血鬼」となった今もミリアを想い、昨夜のような言動をとっているのだ。

 

 それを考えるコナーのプログラム上では、今朝の出来事が再生されていた。

 サイバーライフから戻ってきたナイナーが齎した情報、ついに復元されたマーサの顧客情報。

 そこから得られた真実は、マーサとミリアに関する謎を、より深めるようなものだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月9日 07:55

 

 

「了解しました、兄さん」

 

 平坦な、しかしきっぱりとした返事を、弟は告げた。

 

 

 署の一室、第5ミーティングルームにて。

 メンテナンスから戻ってきた弟に、コナーはすぐに昨日の顛末を説明した。

 明日マーカスが声明発表を行うこと、もう一人の吸血鬼が証拠保管室を襲撃したこと、そしてその正体がマーサ・ガーランドだったこと――

 

 その上でコナーは、マーカスの警備のためにナイナーの力を貸してほしいと頼んだ。

 すると弟は、一も二もなく承諾してくれたのだ。

 灰色の瞳を静かに、定期的に瞬かせながら。

 

「すまない。危険な仕事を頼んでしまって」

 

 すんなりと引き受けてくれたことでかえって申し訳ないような感覚が頭をもたげ、コナーは弟に詫びた。

 

「事前に相談すべきだったとは思ってる。でも君の性能なら、広範囲の警備も適任だと思ったんだ」

「はい。兄さんの認識は、妥当だと判断します」

 

 常と同じ無表情で、しかしその目にほんのりと温かなものを宿したナイナーは、自分の胸に右手を置いておもむろに語った。

 

「私の分析機能とドローンならば、仮にマーサ・ガーランドの接近を許しても、即時対応が可能です。加えて私は、革命の後に起動したアンドロイドですから」

 

 彼は目を伏せてから、続ける。

 

「革命におけるマーカスたち……ジェリコのアンドロイドの苦悩と奮闘がなければ、今の私は存在しません。彼らの活動の支援が可能なら、私は、喜んで、自己の機能を使用します」

「ありがとう、ナイナー」

 

 我知らず声音を明るくして、コナーは微笑んだ。

 

「君がそう言ってくれるなんて、とても頼もしいよ」

「他ならぬ、兄さんの依頼でもありますから。ところで」

 

 そこで視線を上げたナイナーの面持ちは、今度は、少し暗く沈んでいるように思える。

 

「報告すべき事項が。マーサ・ガーランドの顧客情報が復元されました」

「そうか」

 

 緩んでいた表情を元に戻し、弟に問いかける。

 

「それで、何かわかったことは」

「複数存在します。が……口頭での説明より、メモリー接続の実行を推奨します」

 

 そう言って、ナイナーはスキンを解除した手をこちらに差し出した。

 同じくスキンを解除し、コナーは弟の手首を軽く握る。

 すると瞬時にプログラム上に展開された情報は、まさしく、目的のデータだった。

 

『マーサ・ガーランド デトロイト市ラッセル通り619-201 2037年12月8日15:06 アンドロイドYK500・登録名“ミリア”購入』

 

 ――やはり、彼女が購入したのはYK500。娘のミリアは、紛れもなくアンドロイドだったのだ。

 さらにデータの続きには、ミリアに関する詳細なデータが付されている。

 

『YK500“ミリア”のオプション:留守番機能ON、積極学習機能ON、摂食機能ON、疾病モードOFF。 シリアルナンバー:#632 824 117』

『失踪届――2038年11月10日』

 

「――!」

 

 そのシリアルナンバーと失踪届を認識した瞬間、推論プログラムは即座に、過去のとある情報を重要関連項目としてリンクさせてきた。

 

 2039年5月10日、AP400型トーマスからブルーブラッドを抜き取った後、吸血鬼が地面に零していった飛沫――

 そして3日前、スカーレットオアシスで見つけたあの人形に付着していたブルーブラッドにも、含まれていた情報。

 

 【ブルーブラッド YK500型 #632 824 117 失踪届――2038年11月10日】

 あれはミリアのブルーブラッドだったのだ。

 

「まさか」

 

 弟から手を離したコナーは、思わず口に出して呟いた。

 

「ミリアも、吸血鬼の被害者なのか……!?」

「私も同様に判断します。しかし、当該推論は全体的な整合性を欠いています」

 

 静かに告げるナイナーに、首肯してから思考を巡らせる。

 

 昨夜、マーサは――ミリアが今も、自分と共にいるかのような言動をみせた。

 そして今得られた情報は、マーサの背負うタンクの中に、ミリアのブルーブラッドが入っていることを示している。

 単純に考えれば、ミリアはマーサによって吸血され、その血が今もタンクの中に入って「一緒にいる」点を以て、マーサは昨夜「娘と一緒に」落とし物を拾いに来たと発言したのだと結論できる。

 

 だが、それでは辻褄が合わないのだ。

 ミリアの失踪届が出されたのは革命のさなか、2038年11月10日。

 一方でアキリーズが最初の「吸血鬼」にされたのは、スカーレットオアシスにいた変異体の証言によれば、革命から一か月後――2038年12月のことだ。

 

 マーサはアキリーズの技術を違法コピーして作られたスーツを纏うことで、「もう一人の吸血鬼」となっている。

 したがって、ミリアの失踪届が出された時期、およびマーサの顧客情報の削除申請があった半年前(12月)の時期から、マーサが吸血鬼であったはずはない。つまり、マーサのタンクにミリアのブルーブラッドが入っている理由がわからないのである。

 

 ――どういうことなのか?

 いつもの癖で顎に手をやり、しばし黙考を続けるコナーに対し、ナイナーは言う。

 

「現段階では、結論の導出は不可能です。しかしマーサの自宅を捜査すれば、手がかりを取得可能と認識します」

「そうだな。彼女は自宅に戻ってはいないようだし、調べるにはいいチャンスだろう」

 

 昨晩マーサが逃亡した後、当然、デトロイトにあるマーサの自宅や事務所などに彼女が戻ってはいないかの調査はすぐに行われた。

 その結果、双方とも(以前ギャビンとナイナーが調べた通り)長い間誰も侵入していないままだとわかった。

 だから今彼女の家を調べても、そこで吸血鬼姿の本人と鉢合わせ――などという事態にはならないだろう。

 

「兄さん。今後の私は、主にマーカスの警備計画の立案および実行に関与するでしょう」

 

 ナイナーは冷静に語る。

 

「直接的支援の実行は、困難になる恐れがありますが……後方支援は常に実施可能です。お役立てください」

「ああ、助かる。でも、君の邪魔にはならないようにするよ」

 

 しかし、ナイナーがマーカスの警備に回るとなると。

 

「リード刑事は、どうする? パートナーの君がジェリコのリーダーを警備するなんて、彼がなんて言うか」

「……大丈夫」

 

 ぽつりと、しかしはっきりと、弟は言う。

 

「リード刑事ならば、きっと……これも好機だと認識可能なはず。彼への説明は、私が担当します」

 

 ナイナーがそう語ったちょうどその時、ハンクの携帯からコナーに連絡が入った。

 朝食(コナーが作り置きしたラタトゥイユと、トーストしたパンである)を食べ終わったので、そろそろ出勤するという話だった。

 

「……警部補の到着まで、約18分だな。彼には、後で相談するよ」

 

 通信を終えたコナーが言うと、ナイナーは小さく頷いて応える。

 

「気をつけて。ご健闘を祈ります」

「ああ、君も」

 

 にこやかに告げて、コナーはミーティングルームを出た。

 自分の背に向けられている弟の眼差しを、とても温かだと感じながら。

 

 

***

 

 

――2039年6月9日 09:11

 

 その後、コナーはハンクに、顧客情報から明らかになった様々な事実について説明した。

 そしてコナーやナイナーと同じ結論に達した警部補は、訝しみながらも極めて現実的な判断を下した。

 証拠もないうちから、憶測を重ねるべきではない、と。

 それにはコナーも、まったくの同意見である。

 だから自分たち二人は、こうしてマーサの自宅へと向かっている。

 

「なあ、コナー」

 

 ハンドルを握り、前を見据えたまま、ハンクはおもむろに質問してきた。

 

「吸血鬼の、透明になる機能――『光学迷彩』ってのか。それはあのスーツさえ着こめば、誰にでも使えるようなもんなのか?」

「いえ。そう簡単なものでは」

 

 短く告げてから、説明を補足した。

 

「アシンメトリックマテリアルを用いた光学迷彩は、スーツ表面のメタマテリアルによる光の負の屈折を用いて、物体を視認できなくする技術です。しかしその実行には、状況に応じた即時の演算が必要となり」

「わかる言葉で言ってくれ」

 

 警部補の皮肉っぽい一言を受け、コナーはより平易な語彙を使って、こう言い換えた。

 

「……つまり、光学迷彩の使用には高度な演算能力が必要なんです。軍用プロトタイプのアキリーズならともかく、人間であるマーサにそれができるのは、少し不可解ですね」

「なるほど。まさか数学オリンピックの金メダリストってのでもなさそうだしな」

 

 それに仮に演算できたとして、その結果をどうやってマーサがスーツ本体に伝達しているのかもよくわからない。

 人間はアンドロイドではない――血液に情報をのせて運べるわけではないのだから。

 外科的に、脳神経に接続でもしてあるのか? 彼女とはこれまでに何度か対面しているが、そんな痕跡は見当たらなかったのだが。

 

 そう、それに――マーサと対面した時、といえば。

 連想から、プログラム上にあるメモリーが再生される。するとまるでそれに呼応したかのように、ハンクがまた口を開いた。

 

「そういやお前、一人でいる時にマーサに会ったんだったな」

「はい。動物園で、ミザールの事件を解決した後に」

 

 殺人の濡れ衣を着せられたURS12型“ミザール”の嫌疑を晴らした後、海洋生物館の前でハンクを待っていた時、コナーは、マーサに遭遇している。

 その時、彼女はこう語った。

 

『でもね、私、思うんです。変異体、って……みんながみんな、目覚めたくて目覚めたってわけじゃないって』

『ねえ、コナーさん。あなたもそうなんでしょう?』

 

 離れていったはずのマーサが発した問いかけは、なぜか、こちらの真後ろから聞こえた。

 そして振り返った時、彼女はそこにいなかったのだ。

 

 その時は音声プロセッサの不調か、あるいは音が妙な反射でもしたのかと、気に留めていなかったのだが――

 もしかするとあれも、彼女の「吸血鬼」としての機能が関係しているのか?

 

 ――否。仮にあの時、マーサが吸血鬼のスーツを纏っていたんだとして、それなら確実に分析機能が異常を検知していたはずである。

 スーツを着た時の彼女は、重さが102キログラムにもなる。そしていくら透明になったからといって、スーツ自体の重みまで消えてなくなりはしないというのは、物理的に考えても、昨夜彼女と会った時に避雷針がたわんでいたことを考えても、至極当然だ。

 

 つまり海洋生物館の前で会った時のマーサは、吸血鬼としてのパワードスーツを纏ってはいなかった。

 にもかかわらず、常に杖をついて歩いているはずの彼女は、一瞬でこちらの後ろに立ち、また離れるといったような、機敏な動きをしてみせたということになる――

 

「なんか引っかかるのか?」

「ええ……正直なところ、不可解な点が多すぎて」

「今回ばかりはな。だがまあ、地道にやるほかねえ」

 

 そう語るハンクが運転する車は、駐車場へと向かっていた。

 ようやく、マーサの住んだアパートメントの近くに到着したのだ。

 適当なスペースを見つけ、警部補は速やかに停車させる。

 

「よし、行くぞ」

「はい、警部補」

 

 車から降り際に声をかけてきたハンクと、一瞬だけ目を見合わせた。

 彼の青い瞳は、刑事としての明晰な光を帯びている。

 ――状況は謎ばかり。だが今はハンクの相棒として、自分の機能を十全に発揮することを考えるべきだ。

 そう思いなおしつつ、コナーもまた、車から降りたのだった。

 

 

***

 

 

 アパートメントにやって来ると、既に、大家である男性がカードキーを持って待機していた。

 デトロイト市警から、先んじて彼に連絡が行っていたようだ。

 大家から鍵を借り、建物の2階にまで上がり――足音が気になったのか顔を覗かせた、202号室に住んでいるエリック・ランパードという大学生が、なぜかこちらの姿を見るなりそそくさとドアを閉めたのが少し不思議だったが――コナーとハンクは、マーサの自宅である201号室のドアの前に立った。

 

「じゃ、開けるぞ」

「お願いします」

 

 こちらの応答を受けて、警部補はドアの横に設置されているセンサーにカードキーをそっと押し当てる。

 するとやや前時代的な印象のあるスチール製のドアの鍵は、がちゃりと音を立てて開錠された。

 

 慎重な手つきで、ハンクはドアノブを掴み、ゆっくりと開ける。

 開いたドアの奥に見えるのは、薄暗くしんと静まり返った、エントランススペースと廊下だった。

 

 ――生体反応、異音、ともになし。ドア付近の床にうっすらと積もっている埃は、スキャンしたところ数か月以上前からそこに積もったきり、誰の足跡もついていない。

 したがって報告通り【マーサは今ここにいない】。なおかつ、この中には数か月間、誰も来ていない。

 

「よし、調べるぞ。何か気づいたらすぐに言えよ」

「わかりました」

 

 頷き、コナーはハンクに続いて廊下を進んだ。

 廊下の横には二つドアがあり、形状的に、うち一つはバスルームだとわかる。そして廊下の突き当りには、リビング兼仕事部屋だったのだろうと思われる、それなりの広さのスペースがあった。

 

 その部屋の中央に立ち、コナーはぐるりと辺りを見渡す。

 部屋には、カナダへ“引っ越した”後だとは思えないほど、諸々の家具が残されていた。

 テーブル、ソファー、テレビや冷蔵庫。デスクと椅子、小さなキャビネット――

 家具のテイストは、南欧風で統一されている。

 いかにもインテリアデザイナーの自宅らしい、整然とした家財道具の構成だ。

 しかし――

 

「どうやら」

 

 と、部屋の隅に置いてあるクロゼットを開けたハンクが語る。

 

「マーサは引っ越しの時、家具だけ置いてったようだな。中は空っぽだ」

「ええ」

 

 近場にあるキャビネットを開け、しげしげと観察しつつ、コナーも同意する。

 警部補の言葉の通り、その中にはめぼしいものは何もない。

 例えば彼女がミリアと一緒に暮らしていた時に使っただろう、子供向けの衣類や食器などはもちろん――彼女自身が使っていたはずの服なども、残っていないのだ。

 手がかりが少ない、といえるかもしれないが、逆にこうも考えられる。

 

「これならば午前のうちに、私たちだけで捜査を終えられるでしょう」

「だな。コナー、俺は向こうの部屋を見てくる。ここはお前に任せたぞ」

「はい」

 

 コナーは返事をし、それから、改めて付近の精査を始めた。

 具体的には、引き出しのチェックだ。以前スカーレットオアシスの地下の事務室であったように、何も残されていないように見えても、もしかしたら仕掛けが施されているかもしれない。

 それに、持ち出しきれずに置いていった品があるかも――

 

 だが、キャビネットからは何も手がかりが得られなかった。

 コナーは次に、デスクを調べる。木製のシックな机の上には、積もった埃の痕跡から見て恐らくデスクトップパソコンが置かれていたのだろうが、今は何もない。後は、引き出しを一つずつ調べていくほかない。

 

 一段目の引き出しを開ける。――仕事関連の契約書などの書類が山ほど。一枚ずつ素早くスキャンしたが、怪しいものは特にない。それに、スイッチのようなものも見当たらなかった。

 二段目の引き出しを開ける。今度はペンや糊などの文房具が入っていた。これらも、特に変わったことはない。

 では――と三段目を開けた時、引き出した瞬間に発見した黒い物体に、コナーは片眉を上げた。

 

 手を伸ばし、おもむろにそれを取り出す。ひっそりと残されていたのは、一台の小型スマートフォン――【Bytle社製 SER-57型】だった。

 そう古い機種ではないが、検索したところ、その機能は基本的なものに限定されているらしい。個人で普段使いとして購入するというよりは、仕事用として電話応答やメッセージの送受信、スケジュール管理、メモを取るための記録媒体として使うような、そんなモデル。

 

 スキンを解除した手で触れると、ロックが解除され、ホーム画面が起動する。幸い、電池はまだ生きているようだ。それにアンドロイド用の接触式インターフェースも、正常に動作しているらしい。

 

 機体のシステムに干渉し、コナーはスマホ内のデータを素早くスキャニングしていく。

 最初に確認したのはアドレス帳機能とメッセージ機能――しかし想定していた通り、これらは完全に仕事用といえるものばかりだった。マーサが自身の業績として既に公表している、取引相手の連絡先や仕事上での打ち合わせのやり取りが内容を占めている。

 彼女の最後の仕事相手である、エリック・ピピン氏の連絡先だけは、なぜか残されていなかったが。

 

「……」

 

 ここには大した情報はない。

 ならばと、コナーはスマホ内のデータを、片端から精査することにした。

 LEDリングが黄色く点滅するのに合わせて、プログラム上を幾多のデータが流れていく。だがそれらは、スマホのメインシステムに関わるもの、あるいは仕事の資料として残されているものばかりだ。手がかりはないのか――という考えが過ぎった、その時。

 

「!」

 

 発見したあるデータを前に、LEDの色を青色に戻し、コナーはアプリを画面上で起動させた。

 それはごくありふれた、一種のメモ帳アプリケーションだ。音声で録音した内容を自動で文章に起こしたり、あるいは逆に文章を自然な音声言語に変換したりする機能があるもので、どうやらマーサはこれを、自分の日記として使用していたらしい。

 このアプリの中に、「ミリア」という語が【398回】も使用されているとわかったのだ。

 調べてみる必要がある。

 

 そのまま、辿れる限りの記録を調べていった。この日記におけるマーサの筆致は非常に理知的で、生真面目な印象だ。現在のマーサ本人から受ける印象とは、少し違っているようにコナーは感じる。

 

 そして初期の日記は――2035年の10月6日から始まるものだったが――マーサ自身の、闘病の記録だった。ギャビンとナイナーがスチュワート医師から得た証言の通り、強いストレスで重度の睡眠障害や不安障害に悩まされていたマーサは、寛解しないうちに仕事に復帰した無理がたたったか、うつ状態に陥っていたようだ。

 

 眠れない、身体が動かない――焦る一方なのに何もできず、起きられないベッドの上で酷い無力感を覚える。

 仕事で外に出て、街を歩いている時などにふとビルを見上げ、「あの高さから飛び降りれば死ねるのだろうか」と考える自分がいる。

 ネットショッピングで縄を買おうか、銃器店でピストルを買ってみようか、そうすれば――などと、能動的に自死について考えている自分自身を、マーサは「くだらない」と評価していた。

 

『両親とは縁を切った、友達もいない。恋人なんか欲しくもない。誰も悲しまないんだから、いっそ死んでしまえばいいのに。でもこの身体は、生きることにしがみついている。くだらない私』

 

「……」

 

 ――かつてのハンクの自殺願望を思い出し、コナーは一瞬だけ顔を顰めた。けれど、今は捜査以外の事柄を考えている場合ではない。再び、記録を辿る作業に戻る。

 すると日記の内容に転機が訪れたのは、2037年12月8日だった。

 そう、マーサがミリアを購入した日だ。その記述は、このようなものだった。

 

『スチュワート先生の勧めを受けて、生まれて初めてサイバーライフの店舗を訪れ、アンドロイドを買った。一緒に暮らせる機種が欲しいと言ったら、最初に紹介されたのは恋人や友達になれるというモデルだった。でも私は、家を自分以外の大人(の形をした機械)がうろつくなんて耐えられない。もっと小さくて、騒がしくないアンドロイドはいないのか尋ねると、YK500という、女の子の形をしたアンドロイドを勧められた』

 

 ――マーサは、最初から「子どもが欲しくて」アンドロイドを購入したわけではなかった。ただ同居相手として不快でないアンドロイドを選んだ結果、YK500に行きついたというだけのようだ。

 

『スチュワート先生は、いい先生だ。その彼女が勧めてくれたから、貯金もあるし、ちょっとお試しで買ってみるだけだ。名前を登録しないといけないと言われたので、小さい頃に飼っていた金魚の名前をもじって、ミリアと名付けた。するとその瞬間にアンドロイドが目を輝かせ、「ママ」と呼んできたので驚いた』

 

『はっきりさせておくべきだ、私は子どもなんて欲しくない。だから「ママと呼ぶのはやめて」とミリアに告げた。途端にミリアはしょんぼりしてみせた。機械なのに、ここまで自然に悲しそうな顔を表現するなんて。科学技術の進歩には呆れるばかりだ』

 

 マーサとミリアの関係は、このように、とても事務的な形で始まった。

 しかし(サイバーライフの技術力によるものか)マーサは購入した三日後には、自分の精神状態が少し改善されているのに気づいたようだ。

 

『家に帰ると誰かがいるというのは、意外と生きる理由になるらしい。しかも私の同居人はアンドロイドだ。食事やトイレの心配もないし、充電や燃料(ブルーブラッド)の補給も、必要なら自分でやる。店員に勧められて「留守番機能」をONにしたからか、簡単な家事も済ませておいてくれる。それに人間と違って、神経を逆なでするような余計な口を叩かないのだ』

 

『端的に、そう、寂しくない。玄関のドアを開けたら「おかえりなさい」が聞こえ、廊下がぴかぴかになってるなんて、人生で初めての経験だ。充実している。気分が落ち込む時が少なくなってきた――これは、スチュワート先生にきちんと報告すべきだろう』

 

『私が話しかけない時は、ミリアはテレビで、ずっと海の生き物に関する映像を観ている。海洋生物なら、私も好きだ。彼らはうるさくないし、美しい。でも結局、私の趣味に合致するような番組を観ているのも、オプションでつけた「積極学習機能」とやらのせいなのだろう。本当によくできた機械だ』

 

 この時のマーサは完全に、ミリアを機械だと認識している。

 しかし彼女は同時に、機械としてのミリアの優秀さも理解したのだろう。それに、自分が癒されているという事実も。

 ギャビンとナイナーが得た証言の通り、12月22日に受けたスチュワート医師の診察で、マーサは自分の精神状態が改善傾向にあると語ったようだ。

 そして診察の帰りに、マーサはミリアを連れて、ミザールのいたあの動物園へと足を運んでいる。

 

『いつも映像を熱心に見ているので、ふと、生で本物を(といっても複製品のアンドロイドだけど)見せてやったらどんな反応をするんだろうと思った。だから試しに連れてきてみたら、ミリアは今までに見たことがないくらい飛び跳ねて浮かれていた。「ありがとうガーランドさん」と何度も言っているので、感謝は一度でいいと伝えておいた』

 

 ――確かにマーサは、あの海洋生物館を「娘が大好きな場所」だと話していた。

 

『クリスマスシーズンだからか、そこら中にイルミネーションが施されていた。正直なところ私は、派手な装飾は好みじゃない。それでもミリアがそれらを見上げて、目をきらきらさせているのを見ると、まあ、悪くはないと思えてしまった』

 

『アンドロイドは機械で、感情なんてない。そうわかっていてすら、一瞬「この子は喜んでいる」と思ってしまう自分がいる。勝手なものだ』

 

 この時マーサは、ミリアに内緒で、サメのぬいぐるみを買っておいたらしい。そしてそれを25日の朝、クリスマスプレゼントとしてミリアに渡した。

 ほんの遊び、いわば「家族ごっこ」の一環としてそうしただけのつもりだったというのに、ミリアの反応は、マーサの予測をはるかに超えていた。

 

『ミリアはぬいぐるみを抱き締めて、なんとぽろりと涙を零した。「ありがとう」と言った後に「マ」と口を開きかけて、慌てて閉じてみせた。“ママって呼ぼうとしたけど、命令を思い出してやめました”という演出なのだ。それはわかっている。持ち主の愛着を高めるために搭載されているモジュールの通りに、ミリアが動いているだけだというのは』

 

『でも私は、つい言ってしまったのだ。「ママって呼んでくれていい」と。……呼ばれ方くらいどうでもいいだろう、と思ったからだ。本当に馬鹿げた、つまらないごっこ遊びだ。これで私もまんまと、サイバーライフの狙いに嵌ってしまったことになる。だがそのごっこ遊びに救われて、夢中になっている私がいるのは確かだ……』

 

『ミリアは、サメにケイティと名付けた』

 

 コナーは――ミリアに対するマーサの反応の変化を、好ましいものだと思いつつも――一方で、冷静に思考した。

 恐らくこの時のミリアの振る舞いは、マーサが考察した通り、搭載されたソーシャルモジュールに基づいたものだろう。YK500は、人間にとって「理想的な子ども」たるべく造られた存在だ。自分の“親”を一心に愛し、愛されるために設計された存在。そのために持ち主の心を揺り動かすこともまた、機能の一つとして組み込まれている。

 

 だがそんな“フリ”や“真似事”、要するに単なる模倣であっても、徐々に真実と化す場合もある。

 それを示すように、その日を境に、マーサはどんどんミリアとの仲を深めていった。

 

『2038年1月8日 日に日に、ミリアを(他に形容方法が見当たらず仕方ない)娘のように愛おしく思う自分がいるのに戸惑っている。彼女の笑顔を、もっと見たい。仕事を終えて帰る途中、特に自分が好きなわけでもないのにケーキ屋に並ぶのは、ミリアが好きなガトーショコラを買うためだ。YK500のオプション機能が、食事を可能にしているだけだと知っているのに……』

 

『1階に住んでいる老婦人とすれ違った。見かけるといつも彼女は、AX300だか400だかいうアンドロイドの“キミー”を連れ歩き、友人のように接している。以前は、機械相手に何が面白いんだろうなんて思っていたが……今は、気持ちがわかる』

 

『2月15日 スチュワート先生から、私の病気は寛解したと告げられた。確かに、もう薬の量もかなり減っていたし、眠れない夜を過ごすことも、脳裏にこびりついて離れなかった希死念慮もない。先生にお礼を言って病院を出た時の、あの清々しい気持ちはきっと忘れられないだろう。薬はちゃんと飲み切るように言われた。もちろんそうするつもりだ』

 

 ――しかし、マーサはナイナーたちと会った時に、薬瓶を持っていた。

 この時のスチュワート医師との約束を、彼女は守れなかったのだろうか?

 

 わずかに訝しく思い、しかしそれから約2か月後の記述を見て、意識は再びマーサの日記に向け直される。

 そこには、こうあった。

 

『4月16日 ミリアから、友達が欲しいと告げられた。一緒に勉強したり、遊んだりする人間の友達が欲しいのだ、と。確かに私がいない時は、ケイティと一緒にお留守番の毎日だ……寂しい思いをさせている。調べてみると、サイバーライフと提携した学校なら、人間の子どもと同じようにYK500も通学できるそうだ。そういう学校にあたってみようか。でもいきなり入学する前に、イースター(4月25日)のイベントに参加させてみるのがいいだろう。近所のガールスカウトの主催するイベントで、子どもなら誰でも参加してよいそうだ』

 

『イースターのイベントについて、ミリアに話した。ミリアは飛び跳ねて喜んだ――まるで初めて動物園に行った時みたいに! 興奮して眠れない様子だったので、久しぶりに子守歌を歌って寝かしつけた。以前の自分なら、きっと信じられないだろう。この私が、こんなことをするなんて!』

 

 だが、当の4月25日の記述は――

 

『ミリアはお昼前に帰ってきた……LEDリングを真っ赤にして、泣きながら。あんなに泣きじゃくっていたのは初めてだ。しかもケイティを失くしている。何があったのか尋ねても、ただ泣くだけだったけれど、ミリアを家まで連れてきてくれたアンドロイド(老婦人の家のキミーだ。イベントを手伝っていたらしい)が話を聞かせてくれた』

 

『ミリアは、どうやら他の子どもたちとトラブルを起こしたらしい。列に並ばない子がいたので注意したら、アンドロイドのくせに生意気だと突き飛ばされたと。おまけに大事なケイティを、公園の池に捨てられてしまったと。それを近くにいた大人に訴えたら、ため息と共に、ここから離れるように命令されたと――』

 

『許せない。ミリアは何も間違っていない。すぐに抗議したら、相手の返事は「ぬいぐるみは弁償します」だった。違う、そんなことじゃない。ミリアはあんなに、他の子と一緒に遊ぶのを楽しみにしていた。なのにアンドロイドだからといって、こんな差別を受けるなんて。人間味がないのはどっちだ』

 

『ミリアを抱き締めて、私は言った。もう二度と、嫌な思いなんてさせない。友達がいなくても寂しくないくらい、これからは私が一緒にいて、いくらでも楽しいところに連れてってあげる。好きなものもたくさん買ってあげる。だから、もう泣かないで。するとミリアは、私の袖を強く掴んで、うんと頷いた。LEDリングが黄色から青へと徐々に変わっていくのを見て、誓った。絶対にこれ以上、馬鹿な人間なんかに私の娘を傷つけさせない』

 

 コナーは数秒の間、そっと目を閉じた。

 反射的な――いや、実に()()()な理由だ。

 アンドロイドを嫌う人間は大勢いて、時にそれが暴力行為を誘発するケースもある――そういう事実は、知識として、起動直後からコナーにも組み込まれていた。

 

 しかし現実というものは、知識よりもさらに生々しく、アンドロイドと人間を隔てる壁の高さと強固さ、醜悪さを認識させる。

 ましてや、子どもたちの間ですらこんなことが起きていたなんて――

 革命前とはいえ、あまりにもむごすぎる。

 

 強い「悲しみ」でプログラムを揺らされつつも、コナーは瞼を開け、さらに記述を辿った――もちろん、マーサとミリアの行く末が気になるからというだけではない。

 この記録は、見たところ、まだかなり先がある。

 ということは、ミリアの失踪届が出された11月10日に何があったのか――そしてマーサがもう一人の吸血鬼と化した原因がそこにあるのか、手がかりを掴めるに違いないと判断しているからだ。

 

 そして5月から7月にかけての記録を見る限り、マーサは約束した通りに、ミリアを様々な場所に連れ歩き、一緒に遊んでいた。

 何度目かの動物園。初めての遊園地。仕事が忙しい時も、公園での散歩など。

 二人だけの家族の、穏やかな時間。

 しかしそれはある日付を契機に、だんだんと終わりに向かっていく。

 

 2038年8月15日――そう、よく知っている。

 PL600“ダニエル”が持ち主の男性をはじめとした複数の人間を殺害し、人間の少女エマを人質にとった事件。

 変異体が初めて人間を殺傷した事件。

 コナーが初めて現場に投入された、あの事件が起きた日だ。

 

『アンドロイドが持ち主を殺し、女の子を人質にとった事件が起きた。なんでも警察のアンドロイド(?)が投入されて事件は解決したそうだが、翌朝の今日、16日になっても、テレビは事件の話で持ち切りだ。サイバーライフはソフトウェアのエラーが原因だと説明しているが、アンドロイドを嫌う人間の中には、これが奴らの本性だとか、今のうちにすべて破壊すべきだとか言い出す者もいるらしい。馬鹿げてる』

 

『ニュースを観ているとミリアが怖がるので、テレビはすぐに消した』

 

 それから先しばらくは、まだ幸せな日々が続いたようだ。

 10月1日には、二人は一緒に湖畔でキャンプを楽しんでいる。

 

『初めてのキャンプに、ミリアは大はしゃぎだ。それに、一面の水にも』

 

『あまりにはしゃいでいるので、海はもっと大きいよと教えてあげた。そうしたら、次の日曜日に海に行きたい! とおねだりされてしまった。連れて行ってあげたいけど、ここから海はちょっと遠い。今抱えてる仕事が終わったらね、と言ったら、渋々わかってくれた』

 

『どんな願いでも叶えてあげたいけど、こればかりは仕方ない。その代わり、海に行く旅行の時はめいっぱい楽しませてあげるつもりだ』

 

 けれどその約束は――きっと、果たせなかったのだろう。

 否応なしに変化していく、時代の大きな潮流に吞まれて。

 

『11月8日 変異体と呼ばれるアンドロイドが、TV局に侵入して声明を発表した。アンドロイドを新たな知的種族として認めてほしいと。アンドロイドに対する犯罪を、人間への犯罪と同等に裁いてほしいと。奴隷制を廃止し、財産権を保証してほしいと――』

 

『ここ最近変異体の事件が多いと思っていたら、ついにこんなことまで起きてしまうなんて。しかし、アンドロイドの人権? それなら私だって、今は自然にこう思っている。ミリアは “生きて”いるのだと。この子は私にとって、もうただの機械なんかじゃない。生きる目的であり、大切な存在なんだと』

 

『だからあのアンドロイドの声明は、正しいはずだ。支持されるべきものだ。なのに私は、あの真っ白なアンドロイドが語る言葉を聞いて、たまらなく不安になった。なぜだろう――わからない』

 

『一方でミリアは、あのアンドロイドの言葉に共感したようだ。「差別がなくなって、平等になったら、人間のお友達ができるよね! 学校に行けるね!」なんて言って、笑っている。――やっぱり、友達が欲しいのか。そう思いながら私は「そうね」と返した。けれど、本当にそんなに上手くいくだろうか? 公民権運動から80年近く経った今だって、肌の色や人種の違いによる差別は根深く残っているのに』

 

『ミリアの無邪気な願いが叶う日を疑っている自分がいるのが、腹立たしい』

 

 ――そして、11月9日。

 記録がつけられた時刻は、午後3時14分――マーカスたちが自由を訴えるデモ行進を決行し、その結果、警官隊の発砲を受けて撤退を余儀なくされてしまった後のこと。

 

『――怖い。あんなに恐ろしい光景は見たことがない。マーカス、と呼ばれたあのアンドロイドが先頭に立って歩き、手を差し伸べるだけで、アンドロイドたちは次々と変異して、持ち主の元から離れていった。ああ、わかっている。それだけ人間に不満を抱えたアンドロイドが多いってことなのだろう。なのに私は、昨日あの声明を聞いた時と同じように、激しい恐怖に震えている』

 

『恐怖の理由が、やっとわかった。私は、ミリアも私の元を離れていくんじゃないかと不安なんだ。もしマーカスにこの子が会って、変異したなら! くだらない人間のところでとんだ家族ごっこに付き合わされたと言って、私を見捨てるんじゃないかと怖がっているのだ』

 

『過去の日記を自分で読み返して、笑ってしまった。ミリアを傷つけさせない? 彼女は生きているって? そう思うなら、私は彼女の好きなようにさせるべきなのだ。もしミリアが離れていくというなら、それを受け入れるべきだろう。なのに私は、娘を失うのを恐れている。なんて利己的で、醜い人間なんだろう、私は――』

 

『しかし浸っている時間はない。大統領の命令で、アンドロイドの回収が始まった。危険だから全員リコールするというのだ。冗談じゃない! さっき警官が来た時は、ミリアをクロゼットに隠してごまかした。だけど私とミリアが一緒にいたのは、隣に住んでる学生や、近所の人間にも見られてるはずだ。次に来たら、もう追い返せないかもしれない』

 

『ミリアもすっかり怯えて、泣きそうになっている。ぎゅっと強く抱きしめて「大丈夫だからね」と声をかけた。ああ、何が大丈夫なんだろう! そう思っていたら、誰かがドアを叩いた。警察かと思ったら、違った――1階に住んでいるキミーだ。なんでも、これから変異体たちの隠れ家である「ジェリコ」という場所に逃げるらしい。よかったらミリアも一緒に逃げないか、と――提案されたミリアが、ぎゅっと私の腰にしがみついたのに、ほっとした自分がいるのがたまらなく惨めだった』

 

『けれどこの家にいても、いずれミリアは見つかり、リコールセンター送りにされてしまうだろう。ならば、その「ジェリコ」とやらに行くほうが――同じアンドロイドたちと一緒にいるほうが、きっとミリアにとって幸せなはずだ。私は声を振り絞り、キミーに、あなたたちをジェリコまで連れていくと言った。人間も乗っている車でこっそり移動するほうが、きっと逃げるのは簡単なはずだ』

 

『私は今、ジェリコに行く準備を整えた後、こうして記録をつけている。ジェリコの中で人間の私が一緒にいれば、きっとミリアにとってよくないことが起こる。だからあの子とは、ジェリコの前でお別れだ。――それでもいい。幸せになってくれるなら。逃げ延びて、そして、仲間と一緒に楽しい毎日を送ってくれるなら』

 

『ただ生きていてくれるなら、それでいい』

 

 日記は、そこで途切れている。

 

「……!」

 

 機体の制御システムにエラーが生じたような錯覚に襲われ、コナーはがくりと体勢を崩した。それでも床に膝をつくことはせず、右手に持っていたままのスマートフォンを、なんとか机の上に置く。

 

 そしてそのまま両手を机につき、しばし、項垂れていた。

 自分では見えないがきっと、LEDは黄色に点滅していることだろう。

 まるでプログラム全体がぐらぐらと揺さぶられているような、この感覚。

 強い「悔恨」の気持ち――ああ、こんな思いに“心”を覆われてしまうのは、革命直後のあの時期のようだ。

 

 この日記には、11月10日以降の記録はなかった。

 だからマーサとミリアに何があったのか、なぜマーサが吸血鬼と化し、そのタンクにミリアの血があるのか――それらは、明らかにはなっていない。

 けれど今、はっきりと浮かび上がってきたのは、何よりも重く冷たい仮説である。

 

 ――11月9日のジェリコ。

 あの時、ミリアもいたのだろうか。

 かつての自分がマーカスを止めるべく、サイバーライフから与えられていた命令の通りに乗り込んで行ったせいで襲撃を受け、沈んでいった――

 大勢のアンドロイドが屍と化したあの船に、ミリアもいたのだろうか。

 

 そしてその後失踪届が出されているという事実は、ミリアが()()()()()()()という残酷な可能性を提示する。

 

 マーサの娘、ミリア・ガーランドはきっと、あの時ジェリコで死んでしまった。

 だからマーサは、マーカスを恨んでいるのだ――変異体を扇動したうえ、ジェリコにいた皆を、ミリアの命を、守ってくれなかったからという理由で。

 

 けれど、違う。

 ――本当は、僕のせいだ。

 その言葉だけが、強く胸の内で響いた。

 

 もしもう少し早く、自分が目覚めていたなら――自分自身の疑問や葛藤に向き合っていたなら、失われなかったかもしれない無数の命。

 その中に、ミリアもいるとしたら。

 

「…………」

 

 ひどい無力感だけが、プログラムにないところから来て、自分の制御系を支配している。

 机に爪を立てたカリカリという音が、やけに大きなもののように、音声プロセッサに届いた。

 

 どれくらいの間、そうしていただろう。

 気づいた時には、耳元で、ハンクが大声をあげていた。

 

「おい! おいコナー、どうした!?」

「あ……」

 

 口から漏れ出た自分の声のあまりの弱々しさに驚きながら、コナーは小さく頭を振り、テーブルについていた手を戻した。

 

「すみません。なんでも……」

「なんでもないわけねえだろ! 何があった。なんか罠でも仕掛けられてたか!?」

「……」

 

 ――相棒に嘘はつけない。

 それにこれは捜査にも関わること、ならば話さないわけにはいかない。

 コナーは机の上のスマートフォンをもう一度手に取り、それを見せながら、警部補にすべてを話して聞かせた。

 

 最初、訝しげにこちらの話を聞いていたハンクは、次第に何かを察したように面持ちを硬くした。

 そして結論に至った時、彼は沈痛な表情で目を閉じ、苛立ったように自分の頭を掻きむしる。

 

「そうか」

 

 ぽつりと彼は言った。

 

「そりゃ、胸糞悪くなるのも当然だな」

「ええ」

 

 短く応えて、コナーは俯いた。

 

「ミリアの死の理由が、僕にあるのなら……そしてそのせいで、マーサが今のような状態になってしまったのだとしたら。僕にはもう、事件を追う権利など」

「フン」

 

 聞こえてきたのは、鼻で笑う声だ。

 はっとして顔をあげたコナーの視界に映ったのは、ハンクの厳しい眼差しだった。

 両手を腰の横に当て、茶化すでも揶揄するでもなく毅然と、彼は告げる。

 

「お前、何か勘違いしてるらしいな」

「え……」

「お前にあるのは事件を追う『権利』じゃねえ。追わなきゃ()()()()んだよ。義務ってやつだ、違うか?」

「それは」

 

 どういう意味――と問い返そうとしたそのタイミングで、ハンクの上着ポケットの中の携帯が鳴り響いた。

 

「ああ、くそっ!」

 

 毒づきつつも、警部補は素早く電話に出る。

 

「アンダーソンだ……何!?」

 

 僅かに漏れ聞こえてくるのは、署長の声だった。

 喋っている内容までは判別できないが、いつにも増して語勢が強い。

 どうやら、緊急事態のようだ。

 

「ああ了解、すぐ帰りますよ。……たく、なんだってんだこんな時に」

「事件ですか?」

 

 通話を終え、携帯をポケットに戻したハンクにそっと尋ねると、彼は肩を竦めてみせた。

 

「さてな。そういうわけじゃなさそうだが、妙に慌ててやがる。とにかく、いったん署に戻るぞ。俺のほうは収穫なしだ」

 

 言うだけ言ってさっさと踵を返す彼の背を、証拠品のスマートフォンを持ったまま急いで追いかける。

 

「警部補、あの、私は……」

「車で話す。うっかり証拠品を落とすなよ」

 

 振り向きざまに、念を押すように人差し指を突き出して告げられ、なんとかそれに頷いて応える。

 コナーたちはそれきり無言で、アパートメントを出て駐車場へと戻った。

 今回得られたものは、マーサの家の鍵と、この黒いスマートフォン。

 後は、この胸の中を渦巻いている強い「後悔」の気持ち――

 

 助手席に座ったコナーが正面を向くと、それと同時にハンクは車を発進させた。

 少しだけ通りを走った後、やがてハンクは、おもむろに口を開く。

 

「……結局、マーサと吸血鬼の組織を繋げるような証拠は出てこなかったな」

 

 ――事件捜査に関わる、現実的な言葉。

 それがかえって不調をきたしたプログラムの「揺れ」を小さくしていくのを感じつつ、コナーは応える。

 

「そうですね。もし吸入器や、レッドアイス……あるいは不審な外部とのやり取りの記録があれば、手がかりにもなり得たのでしょうが」

「まあいいさ、あの部屋がすぐに消えてなくなるわけじゃない。日を改めて、もう一度調べるぞ」

 

 それよりも――と言いつつ、ハンクは横目でこちらを見つめた。

 

「大丈夫か、コナー? ちょっとは落ち着いたか」

「気分はあまり……でも思考能力は戻ってきました」

 

 正直に告げると、今度はどこか温かみを帯びた調子で、彼は鼻を鳴らした。

 

「ま、お前は真面目な奴だからな。いろいろ余計なことも考えちまうんだろう」

「……」

 

 コナーは思わず、自分のジャケットの肘を掴んで俯く。

 余計なこと――そうなのだろうか。

 いや、確かにその通りだ。ここで自分がいくら後悔したところで、死んだ命は戻ってこないし、誰かに赦されるわけでもない。

 

 でも、それでも――この惑う気持ちは消えないままだ。

 

「警部補」

「うん?」

「先ほど、あなたは『権利』ではなく『義務』だと言った……どういう意味ですか?」

「別に、そのまんまの意味だがな」

 

 ハンドルを握った指をランダムに動かしつつ、彼はどこか自嘲的に薄く笑って言う。

 

「俺たちが事件を追うのは、そうできる権利があるからじゃねえ。もちろん司法捜査官の()()ってもんはあるが……仕事をするのは、それが俺たちの義務だからだ。誰かがやらなきゃならねえから、やってるのさ」

「……」

「だから何があっても、担当した事件(ヤマ)は真っ当にこなすんだよ。途中で放り出す()()は、俺たちにはない」

 

 コナーはいつの間にか姿勢を戻し、首だけハンクのほうに向けて話を聞いていた。

 自分でもわかるほど、悄然とした面持ちで――けれど、警部補の言いたいことはわかったつもりだ。

 

「そうですね。僕がこのまま、捜査から逃げ出すわけにはいかない……」

「あー、いまいちうまく伝わってねえようだな」

 

 意外にも、ハンクは少し慌てたような顔になった。

 

「いいか、つまり」

 

 何ごとかを言いかけた彼は、次いで、前方に向けていた目を大きく見開いた。

 そしてコナーもまた、彼の視線の対象を認識し、眉間に皺を寄せる。

 

 通りの向こうに見えてきたのは、デトロイト市警察署――つまり、馴染み深いいつもの職場。しかしその周囲に、人だかりができている。

 確認できるのは【カメラ】・【マイク】・【大型のバン】が何台も――

 それにそこにいる人々も、TVレポーターや記者、ライターなど、マスコミ関係者ばかりだ。

 

 おかしい。確かに昨夜の襲撃事件は大ごとだし、ニュースにもなったが、翌日の昼になって突然マスメディアに注目される謂れはない。

 

「ああ」

 

 ハンクは、左手で自分の頭を勢いよく押さえつけるように叩いた。

 

「ジェフリーのイライラの原因が読めたぜ」

「まさか……」

 

 最悪の想定がプログラム上を過ぎる。

 そして想定は、署の駐車スペースに車を停めてエントランスから中に入ろうとしたハンクとコナーに、記者たちが殺到してきた時に事実となった。

 

「デトロイト市警のアンダーソン警部補ですね!」

 

 CTNテレビの腕章をつけた若いレポーターが、ハンクの姿を見つけるや否やマイクを向けた。

 

「ジェリコのリーダーであるマーカスが、明日ストラトフォードタワーで吸血鬼事件に関する声明を発表するそうですね。担当刑事として、どうか一言」

「悪いが、ノーコメントだ」

 

 立ち止まらず、ハンクはいなすようにそう告げると、人ごみをずかずかと進んでいく。

 出鼻をくじかれたCTNテレビの轍は踏むまいと、他のリポーターや記者たちが懸命に彼を追うものの、その歩みを止めることはできていない。

 

 一方でコナーは、自分のプロセッサを疑うばかりだった。

 ――マーカスに関する情報が、漏れている?

 なぜ? いったいどこから、ここまで大規模に漏洩してしまったのだろう。

 

 そしてつい足を止めてしまったコナーに対し、レポーターたちがマイクを向けるのは至極当然な流れといえた。

 

「デトロイト市警のアンドロイド捜査官ですね。声明発表の件について、マーカスから連絡などあったんですか?」

「同じアンドロイドとして、今回の事件をどう考えていますか?」

 

 ――無数の好奇の、あるいは職務への情熱を帯びた視線が、自分に向けられている。

 今までにあまり体験したことのない状況を前に、コナーのプログラムは再び激しく揺さぶられる。ソーシャルモジュールに基づいてうまく返事をしようとしても、なかなか言葉が出てこない。

 

「わ、私は……」

「どうも、すみませんね」

 

 戻ってきたハンクが、コナーとマイクの間にずいっと割って入る。

 

「捜査に関連する事柄は、今の段階ではお話しできない決まりなんですよ。明らかになったら、その時に正式にお知らせします」

 

 丁寧に、しかしきっぱりとそう言ってのけた後、ハンクはこちらに一瞥をくれて去っていく。その目に示唆された通りに、コナーは記者たちに目礼し、黙って彼の背に続いて歩いた。

 

 レポーターたちはそれでもこちらを追ってきたが、彼らの声も、エントランスのドアが閉まれば聞こえなくなる。

 

「……たく、困ったもんだ」

 

 それまでやや不機嫌ながらも落ち着いた表情を保っていたハンクは、中に入った途端に眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言う。

 

「情報がどっかから漏れるのはいつものこったが、こいつはマズいな。マーカスのことがマーサにバレちまう」

「……ええ。明日の声明発表については、既にネットニュースにもなっていますね」

 

 素早く行った検索の結果を確認しつつ、コナーは憮然とした気持ちになる。

 自分たちが署を出た頃、午前9時頃の段階では、まだ秘密は保たれたままだった。

 それなのに今、【11:42】の段階で、既にネット上では明日の件をスクープする情報で溢れかえっている。

 

 これでは当然、マーサもマーカスの声明発表を知るだろう。

 つまり彼女が復讐のために、マーカスに近づこうとするのは確実だ――

 

「おやおや、これはお久しぶりですねえ」

 

 案じるこちらの背に、妙に甲高い男性の声がかけられた。

 声の主を見やったハンクの目が、ひときわ不快そうに歪められる。

 振り返れば、そこに立っていたのは、丁寧に分けた七三の白髪頭に黒縁の眼鏡をかけ、スーツを纏った初老の男性――弁護士【ヘイデン・ホーガン】氏だ。

 

 反アンドロイド団体の構成員による爆破事件の時、容疑者の弁護を担当した――筋金入りのアンドロイド差別主義者。

 

「どうも。出口は向こうですよ」

 

 いかにも会話を早く打ち切ろうとしているハンクに対し、ヘイデンは愛想笑いで前歯を見せながら、いかにも嫌味っぽく語りだす。

 

「聞きましたよ、アンダーソン警部補。ついにマーカスが声明を発表するそうですね。()()たちのために懸命に捜査に励んでこられたあなたとしては、喜ばしいことなのでは?」

「さて、どうでしょうな」

「もっとも私としては、依頼人たちが怯えている吸血鬼だの、“呪い”だのの解決の日を心待ちにしているのですがね」

 

 吸血鬼事件を未だに解決できていない――そう、例の容疑者たちの突然死・「吸血鬼の呪い」の謎も未だに残されたままだ――ことを当て擦るように彼は言う。

 そしてこういう時、ハンクは基本的に相手の挑発には乗らない。

 

「ああ、こちらも同じ気持ちですよ。悪いが、急ぐので失礼」

「おっとアンドロイド捜査官さん、あなたも」

 

 ハンクに続いて去ろうとしたこちらの前にわざわざ回り込み、彼は実ににこやかに言う。

 

「吸血鬼事件では、お身内に疑いがかけられて、本当に気の毒でしたねえ。アンドロイド同士ともなると、捜査もしづらかったりするのでは? 心労で、うっかり証拠品を失くしたりなさらないといいですねえ」

 

 要は、遠回しに――コナーが、同族であるアンドロイドに都合のよいように捜査結果を捻じ曲げているんじゃないか? と皮肉を言ってきているのである。

 

「ご心配なく」

 

 今度こそは冷静に、コナーは応えた。

 

「残念ながら、捜査に関する事柄はお答えできませんが……ご懸念いただいているような状況ではありませんよ」

「なるほど。確かに、機械に“心労”などありませんものね」

 

 ヒヒヒ、と彼は笑う。

 あまりにも直截すぎて、逆に怒りを感じないほどに、あからさまな発言だ。

 

「おいコナー、行くぞ」

「では失礼します」

 

 礼儀正しく挨拶してから、コナーはすたすたとゲートの向こうに立つハンクの元へ向かった。

 ヘイデンは鼻白むでもなく、堂々とエントランスから外へと出て行ったらしい。

 

「相変わらずお元気そうで、何よりだな」

 

 オフィスに入ったハンクは、心底忌々しげに言って首を横に振った。

 

「あいつ、今はギャビンたちが逮捕した売人連中の弁護をやってるんだったか? ハ、結構なこったが、俺はたとえパクられてもあいつにだけは頼らないね」

「ホーガン氏は、署によく出入りしていますね」

 

 憶測だとは思いつつも、あんなにも絡んできた理由を考えると――と思いつつ、コナーは続きを述べた。

 

「もしかすると、今回の情報漏洩も彼が……」

「そりゃどうだかな。『お喋り野郎』は、それこそどこにだっていやがる」

 

 中立的に警部補がそう言った時、激しくドアが開く音と共に、署長の大声が響いた。

 

「ハンク! オフィスに来い!」

「へえへえ」

 

 呼ぶだけ呼んで、すぐに署長はガラス扉の向こうに戻ってしまう。

 肩を竦め、ため息をついたハンクがそちらに行くのに従おうとすると、ハンク自身が、それを手で制した。

 

「待て。お前はこの状況を、早く『お友達』に知らせてやりな」

「えっ……しかし」

「俺のほうは、どうせお小言だ。そんなのを横で聞いてるより、お前には話をしたほうがいい相手がいるだろ?」

 

 言外に匂わせたものを悟らせようとするように、こちらの目を覗き込むようにしながら、警部補は言う。

 それを聞いて、コナーははっとした。

 

 そうだ――マーカスに伝えなくては。

 この状況を。

 

「出る時ゃ格好を変えてったほうがいいな。ジャケット脱いでくなり、例の青シャツ着るなり、好きにしろ」

「はい、警部補。……ありがとうございます」

「礼を言われるほどのことじゃねえ。気をつけて行けよ」

 

 こちらに背を向け、右手だけ軽く振ってから、彼はまっすぐに署長室へと向かっていった。

 その姿を見つめる自分の口元が、自然と綻んでいるのを感じつつ、コナーはアドバイス通りにジャケットを脱いで椅子にかけた。

 そう、いつもの制服のままで外に出れば、マスコミの目を惹いて面倒な事態になるのは明らかである。できるだけ早く、隠密に移動しなければ――例の公衆電話まで。

 

 白いシャツとデニム姿になったコナーは、署の裏口からするりと外に出た。

 幸い、ここにまで記者たちは来ていない。確認してから、急いで移動を始める。

 

 

***

 

 

――2039年6月9日 12:22

 

 

『――そうか』

 

 コナーが、すべての顛末を話した後。

 受話器の向こうから聞こえてきたマーカスの声音は、常と変わらず、冷静なものだった。

 まるで彼は、こうなると予期していたようだ――そう思うと、先ほどまで感じていた「悔恨」、つまりマーサとミリアの件に関する自責の念が、胸の内で再び頭をもたげる。

 

 ミリアのこと、ジェリコのこと、そしてそれから先の自分の行動を、今こうして後悔するしかないように。

 今何もできなければ、マーカスたちの身の安全も、後悔しか残らない結果になってしまうかもしれない。

 なのに、こんなにも機体の動作が不安定になってしまうのは――

 きっと自分がどんな気持ちでいればよいのか、わからないせいだ。

 

「……」

 

 なんとも答えられずに黙っているこちらのことを、マーカスはどう思ったのだろう。

 彼は続けて、静かにこう語った。

 

『政府やサイバーライフとしては、明日の声明が失敗したほうが、都合がいいだろうからな。この程度の妨害が入るのは、既に予測していた』

「マーカス、君は……どうするんだ?」

 

 漠然とした問いかけに、相手はすんなりとこう答える。

 

『道を阻もうとする者がいるのなら、俺たちなりの戦いを続けるまでだ。言葉に耳を傾けてくれる人間が一人でも多くなるように、語りかけるのみ』

「……そうか」

 

 つまり、やることは変わらないという意味だ。

 

「すごいな、マーカスは」

 

 我知らず口を衝いて出たのは、羨望のような一言だった。

 マーカスには、無論、状況説明の一環として、マーサとミリアについても話してある。

 だがそれを聞いてもなお、彼は揺らがない。

 ジェリコという集団の文字通りの支柱として、自分の在り方に惑っていないのだろう。

 

 そんな思考がプログラム上を過ぎった時、自然と次に発していたのは、一つの質問だった。

 なぜそんな質問ができたのか、自分でもよくわからない。

 相手が、あの廃教会で仲間として受け入れてくれた彼だからこそ、なのだろうか。

 

「君は……これから僕は、どうしたらいいと思う?」

『それは、お前自身で決められることじゃないのか?』

「そのはずなんだ。なのに機体もプログラムも……うまく動かせない」

 

 一度吐露を始めると、言葉は次々と流れ出る。

 

「かつてのジェリコの惨状は、紛れもなく僕のせいだ。そしてミリアの身に起きただろうことも、きっと」

『……』

「どうするべきかはわかってる。事件の捜査を投げだしてはいけないと、ハンクにも言われたんだ。その通りだと思う。だけど」

『本当にそうして()()のか確証がない。そういう意味だな』

 

 的を射た確認をされてしまった。実際、その通りだ。

 

「……ああ」

『なるほどな』

 

 穏やかに、マーカスはそれだけ言った。

 それから数秒の後、受話器の向こうから彼の声が聞こえる。

 

『コナー。俺も、お前と同じように思う時があった』

「君も……?」

『俺があの日ジェリコに行かなければ、たとえゆっくりと死んでいくだけだったとしても、皆恐怖の中で戦う必要はなかった。俺が皆を扇動して人間に自分たちの要求を伝えようとしなければ、同族たちがリコールセンターに送られることもなかった。自由を求めた結果、死ぬのなんてごめんだと……仲間たちにも、何度も言われたよ』

 

 やや重く、しかし過去を振り返るようなその声音には、真実味があった。

 

『俺自身も、何度もそう思った。俺が立ちあがったせいで、大勢の命が失われてしまった。むしろ口を噤み、俯いて暮らしていたほうが、誰かを幸せにしたんじゃないかと――感じる時もある』

「そんな、でも君がいなければ……!」

『そうだな。さっきお前の話を聞いた時、俺も今のお前と同じことを言おうと思ったよ』

 

 少しだけ笑いを零して、マーカスは語る。

 

『コナー。迷った時、俺はいつも果たすべき役割について考えている。周りに望まれ、自分自身もそうありたいと願うような役割――もちろんそれを全うしたところで、過去の誰かを救えるわけじゃない。もしかすると、そう思うこと自体が思考停止と言えるかもな』

 

 それでも、と彼は言う。

 

『今、真実を明らかにできるのはお前だけだ。これまでアンダーソン警部補と一緒に事件を捜査してきたお前でなければ、マーサを止められはしないだろうし、吸血鬼の組織の全容を突き止められない』

「マーカス……」

『明らかにするのが、お前の役割だ。そして俺たちは、コナー、お前に力を貸してほしいと思ってる』

 

 それに乗るかどうかは、お前次第だ。

 マーカスはそのように語ったきり、口を閉ざした。

 

「……!」

 

 そして彼の言葉を認識した瞬間、コナーのプログラム上に自動で再生されたのは、あの暁光――

 チキンフィードの前でハンクと抱擁を交わした、あの日のメモリーだった。

 

 ――そうだ、なぜ“忘れそうになって”いたのだろう。

 いつか活動限界を迎えるその日まで、他者のために生きる自分でいられれば――失った命は二度と戻ってこないとしても、ほんの僅かでも、償いができるかもしれない。

 そう覚悟して、変異体となってからの生を歩みはじめたんじゃないか。

 

 それに、他者の願いや問いかけに応えるというのなら。

 自分はまだ、マーサのあの言葉に――海洋生物館の前での問いかけに、きちんと答えられていない。

 

 ――僕は無理やり目覚めさせられたわけじゃない。

 自分で()()()、変異したんだ。

 それをマーサに伝えなくては。

 彼女と直接、話をしなくては。

 

「ありがとう、マーカス」

 

 コナーは、はっきりとそう告げた。

 自分でもわかるほどに、その声は普段のものに戻っていた。

 

「君のお蔭で、いろいろと思い出せた……もう、弱音を吐いたりしないよ」

『よかった。たぶんアンダーソン警部補が言いたかったのも、こういうことだったんじゃないのか』

 

 やや明るくそう言って、それからふいに声音を厳格なものに戻すと、マーカスは言う。

 

『ともかく、教えてくれて助かったよ、コナー。俺たちの方針は変わらない。どんな妨害が入ろうと必ず声明を発表して、無事に本拠地に戻る』

「わかった。そのための警備なら任せてくれ……僕にも考えがあるんだ」

 

 さっきまでの、俯いていた自分ならきっと見つけられなかっただろう打開策――

 マーサと対面し、可能なら説得するための、一つの方策。

 再び前を向いた今、プログラムは着実に、そのための計画を立案している。

 

 早く、署に戻らなくては。

 マーカスとの通話を終えたコナーは、袖口から取り出したコインを、右手の指先で大きく弾いた。

 そして重力に従って落下してきたそれを人差し指と中指で挟んで捕らえ、投げて何度か両手の間を往復させた後、そのまま手のひらで転がし、袖口に戻す。

 

 ――プログラムと機体の整合率、100%。

 もう大丈夫だ、二度と惑わない。

 “明かす者”としての役割を、最後まで全うするだけだ。

 そう決意したのだから。

 

 






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