Detroit: AI   作:けすた

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第30話:子守歌 後編/Keep Breathing. Part 3

 

――2039年6月10日 20:03

 

 

 よろけながらも駆ける、跳ぶ、駆ける。

 林立するビルの屋上を次々と跳び、ひたすらに前へと進む。

 

 フルフェイスのマスクに反響して、くぐもった自分の息遣いが聞こえる。

 鼻の下から顎までを生暖かく濡らしていた血はすっかり乾いて肌に貼りつき、少し唇を動かすだけでも引き攣ったような不快感を齎してきた。

 

 ――頭が痛い。吐き気もする。

 足取りはふらつき、視界がはっきりしない。もう、今までのようには走れない。なのに両肩だけは妙に軽い。なぜだろう、それを考えると胸にぽっかりと穴が開いたみたいだ。

 

「ママ」

 

 ミリアの声が聞こえる。

 

「あいつはまだあそこにいるよ。ビルのてっぺんから跳べば、ヘリに乗れるでしょ。急いで、ママ、急いで!」

 

 間違いなく、耳元から聞こえるあの子の可愛い声。

 けれど今のマーサには、それがとても不思議なことのように思えた。

 なぜ――? そうだ、思い出した。

 

「ミリア……どうして、ここにいるの?」

 

 口を衝いて出たのは、疑問の言葉だった。

 

「私はさっき、あなたを……あなたに言われた通り、あの屋上に置いてきてしまったのに。ごめんね、もう血を飲ませてあげられないわね……」

「ううん、いいの」

 

 優しく、彼女は応える。

 

「ママがマーカスを殺してくれたら、あたしはすぐに元気になれるんだもん。それまでは、ずっと一緒だよ」

「えっ、でも」

 

 できるだけ多くのアンドロイドの血と一緒に、マーカスの――RK200の血を飲ませれば、ミリアは回復する。

 ()()から聞かされたのは、そういう話じゃなかっただろうか。

 思考が纏まらないながらも、かすかな理性でマーサが再び疑問を発した瞬間、脳裏を過ぎるのは忌まわしいあの日の記憶だった。

 途切れ途切れに――まるで壊れた映像データのように、それは勝手に再生される。

 

『ママ、痛い――――』

『――助けて――――お願い』

 

 背後から耳に届いた、あの子のか細い声。

 一歩歩くごとに、足元の雪が赤く染まっていく光景。

 今と過去の視界が、目の前でぐちゃぐちゃに混ざりあう。マーサはつんのめるように立ち止まり、近場に設置されていたパラボラアンテナに寄り掛かった。

 

「う……!」

 

 凄まじい嘔吐感がこみ上げてきたが、胃の中は空っぽで何も吐くものがない。

 ただ大きく口を開き、ハアハアと荒く呼吸するばかりのマーサの耳元に、次に聞こえたのはまたミリアの声だった。

 

「ほらママ、ねえ、急いでって言ったでしょ?」

 

 急かす彼女の声は、少し呆れたような、怒ったような色を滲ませている。

 

「立ち止まってる場合じゃないよ。――うかうかしてると、奴らが逃げちゃうじゃないか。なんのために、君にナイフをくれてやったと思っているんだ?」

「ミリア?」

 

 やっぱりおかしい。

 あの子は、こんな喋り方はしない。声は紛れもなく一緒なのに、言葉が、喋り方が――どこかの誰かと一緒だ。誰だったか、この話しぶりは――

 

「あっと、いけない」

 

 “ミリア”は自嘲するように小さく笑った。それから、開き直ったように平然と続きを述べる。

 

「ともかく、マーカスたちはまだ逃げ切れていない。君が接近できれば、こちらの勝ちなんだ。ほらマーサ、急げ。大事な()()()()だろう? 娘の。ハハ」

 

 その語り口には、おおいに蔑みの意思が込められていた。

 けれど曇り切ったマーサの思考に、それは届かない。ただ理解できたのは、「娘のため」という言葉だけだった。

 

 そう、あの子のため――ミリアのためなら、なんだってできる。

 ()()()()()()()()()()()

 あの子を負ぶって歩いた、地獄のような11月9日からずっと、その誓いは変わらない。

 ミリアの願いなら、どんなことだって。

 

 そう思ったマーサの両足には、自然と力が戻ってくる。

 あの日折れた脚、けれど今は動くようになった脚。

 立ちあがり、走らなければ。視界の奥に浮かび上がって見える、黒いヘリコプター――白いヘリに追われるようにして飛んでいる、あの機体へと。

 

「待っててね、ミリア」

 

 余計な思考は、既に捨てた。

 マーサは穏やかな一言を娘に言い残すと、彼方にそびえ立つ高層ビルの最上部から、さらに上方に伸びるタワークレーンへ向かって、再び駆け出す。

 

 耳元で“ミリア”が、小さく笑いを零したのが聞こえる。

 その笑い方に対してまたふと浮かんだ疑念も、どろどろに曇った思考の中に溶けて消えていくのだった。

 

 

***

 

 

――2039年6月10日 20:00

 

 

 構えたシールド――取り外したヘリコプターのドアが断続的に銃弾を弾く衝撃が、鈍い振動となって手に伝わってくる。

 盾と乗り口との隙間からランチャーの筒先を覗かせたノースが、すれ違いざまに敵に向けて一発、催涙弾を発射した。

 相手の移動する軌道を計算に入れて放たれたそれは、数十メートルの距離を飛んで、こちらを射撃していた男の顔面に見事に命中し――男は崩れるように倒れる。

 

 遠ざかっていく敵のヘリの中で、倒れた男が手足をばたつかせながら床を転がるのを眺めつつ――そして怯んだ様子でそれを見ている敵が残り二人になったのを確認しつつ、ノースは短く息を吐いて武器を下ろした。

 

 応じて、マーカスも一度シールドを下ろす。見れば、盾の表面についた凹みや傷は、相当に深刻なものになっていた。

 敵のヘリは、こちらに近づいてすれ違う瞬間に自動小銃の銃弾を浴びせた後、数分かけて大きく宙で楕円を描き、また近くに戻ってくるという動きを繰り返している。攻撃を受けるのは、これでもう5度目だ。最初に使っていたシールドは既に使い物にならなくなり、今使っているこれは、右側のドアを外したものである。

 なんとか凌いではいるが――このシールドも、耐えられてあと二・三回かもしれない。

 

「被害状況は?」

 

 マーカスが問いかけると、前方の操縦席に座るサイモンが口を開く。

 

「ヘリは無事だ。少し損傷を受けたが、飛ぶのに支障はない。……今のところは」

「あいつらに追い回されて、もう24分も経つのか」

 

 副操縦席のジョッシュが、苦々しげな声を発した。

 

「燃料の心配はまだないが、敵があと二人もいるなんて」

「こっちもマシンガンを持ってれば、こうはならなかったでしょうけどね」

 

 次弾を装填しながらとげとげしい口調でノースは言い、続いてその視線がマーカスの隣に――外を警戒するナイナーに向く。

 

「でもそういえば、下からの攻撃が止んでるんじゃない? どうなの、ナイナー」

「確かにそうだな」

 

 サイモンもまた、ふと思い出したように応じた。

 

「最後にロケット弾で襲われてから、5分以上経ってる。それでも油断はできないと思ってたんだが……」

「お待ちください」

 

 ノースの、そしてサイモンからの問いかけに答えるように、ナイナーのLEDリングが黄色く点滅する。

 ややあってから、まっすぐこちらを向いた彼の瞳は、どことなく喜びの色を滲ませていた。

 

「はい。改めてヘレボラス……私のドローン経由で確認しました。リード刑事が、ロケットランチャーの射手を無事に確保したそうです」

「そうか、やったな!」

 

 振り返ってそう告げたジョッシュの表情は、一転して明るいものになっている。ノースとサイモンも、声には出さないものの、ほっと安心したように肩の力を抜いていた。

 

 マーカスもまた、緊張しきっていた思考がわずかに弛緩するのを感じる。

 地上の人々、とりわけナイナーが信頼を寄せている彼のパートナーの実力を、疑っていたわけでは決してない。

 しかし予断を許さない状況が、今ようやく打開されたのは事実であり――それを果たしたのが最初からアンドロイド(自分たち)の味方だったとは言い難い人物だということに、未来への希望を感じずにはいられなかったのだ。

 

 一方で、ノースはさらにナイナーに問いかけた。

 

「コナーはどう?」

「兄さんは、アンダーソン警部補と合流して再びマーサを追跡中です」

 

 幾度か瞬きを繰り返しながら、彼は真剣な眼差しで答える。

 

「……マーサ・ガーランドの移動速度の減少を確認。疲労蓄積、および身体的ダメージの影響と推測します。当機への到達可能性は著しく低下中です」

「じゃ、あとの問題は」

 

 催涙弾を装填したランチャーを再び構えて、ノースは不敵に言う。

 

「あの白いヘリだけってわけね。どうするの、マーカス。私はこのまま戦って構わないけど」

「待て! 無理に戦わなくても、ヘリだけなら強引に振り切って逃げられるはずだ」

 

 そう言ってジョッシュ、そしてノースは、こちらの返事を待つように口を閉ざした。サイモンは何も語らないが、その沈黙は、彼がジョッシュと同意見であるのを雄弁に物語っている。

 

 そう、彼らの意見は同等に正しい。

 相手の攻撃を確実に止め、後顧の憂いなくここを去るのか――それとも、これ以上は戦わずに逃亡を選択するのか。

 このヘリコプターの性能、そして仲間たちの実力なら、どちらを選んだとしても上手くいくはずである。

 だからこそ彼らはいつものように、リーダーに決断を委ねているのだ。

 

「……」

 

 マーカスは、無言のままひたと前方を見やった。

 フロントガラスの向こうには深い闇が広がり、頼りない光を放つ月が浮かんでいる。

 否、たとえぼんやりとしたものであったとしても――そこに光があるのなら。

 

 いつもの通り、決断に時間はかからなかった。

 

「これ以上危険を冒す必要はない。サイモン、全速力でここから」

 

 ノースがむっと表情を曇らせているが、マーカスはそのまま「離脱するんだ」と続けようとした。そのつもりだった――

 

「注意願います」

 

 ナイナーが、やや鋭い声を放つまでは。

 

「スキッドに待機中のバターカップから報告が。敵機体が急旋回し、こちらに接近中です」

「なんだって」

 

 そんな言葉が思わず口を衝いて出ると、仲間たちもまた表情を強張らせる。

 そして、もう一度ナイナーの言葉を待つまでもない――マーカスたちのプロセッサにもはっきりと、敵のヘリコプターが迫ってくるプロペラ音と、その白い機体が確認できるようになってきたからだ。

 

「何よあれ、急にどういうこと!?」

 

 これまでにないスピードで飛んでくる敵のヘリ――今はまだ半径数センチの白い円のように見えるが、あと数十秒もあれば目の前に到達するだろう――に対し、ノースは眉間に刻んだ皺を深くして忌々しそうに言った。

 

「これまでと動きが違うじゃない!」

「きっと敵も、地上の仲間が逮捕されたのを知ったんだ」

 

 視線を前に戻したジョッシュが、緊迫した声音で応じる。

 

「もう挟み撃ちはできなくなったから、なりふり構わず俺たちに攻撃してくるつもりなんだよ!」

「今まではこちらに近づきすぎれば、ロケット弾の巻き添えを食うかもしれなかったが……」

「その心配がなくなったから、ということか」

 

 サイモンの呟きを受けて情報を整理すると、マーカスは一度、両の瞼を閉じた。

 

 ――もし戦わずに済む方法があったなら、迷わずそれを選ぶだろう。だが、振りかかった火の粉は払わねばならない。

 襲い掛かってくる敵のヘリを連れたまま本拠地に戻るなど、どだい不可能なのだ。

 

「応戦する」

 

 瞼を開け、きっぱりと言った。

 

「ノースは今までと同じように、攻撃を担当してくれ。ナイナーは引き続き敵の探知と防御を。操縦席の二人は」

 

 前方に視線を向けて、彼らに言葉を掛ける。

 

「できるだけ相手と距離を取るように動くんだ。万が一空中衝突でもしたら、俺たちはおしまいだからな」

「わかった。やってみる」

 

 少し青ざめてはいるものの、決意を秘めた面持ちでサイモンは頷き、操縦桿を握り直した。ジョッシュもまたLEDリングを激しく黄色に点滅させつつ、計器類を確認している。ヘリ下部からの映像をナイナーが中継し、その情報を基に最適な移動方向を計算しているのだ。

 

 そして仲間たち同様、自分もまた、己の務めを果たすのみである。

 マーカスは改めてシールド代わりのドアを構えると、傍らのノースに声を掛けた。

 

「盾がもたないかもしれない。何かあったら、無茶はせずに下がるんだ」

「その前に、連中の顔に一発お見舞いしてやるわよ」

 

 そう告げて、ノースは小さく鼻を鳴らした。

 だがこうしている間にも、相手のプロペラ音はさらに大きなものとなってくる。見れば敵のヘリはやはり、こちらとの距離をこれまでになく縮めようとしていた。正面からまっすぐ、ぶつからんほどの勢いで迫ってきている。

 

「……!」

 

 サイモンが必死に機体を動かし、なんとかこちらのヘリを右に逸らす。しかし敵はそれも既に察知していたかのように、するりと己の機体を向かって左に動かした。そのままこちらのヘリの、真横につくつもりのようだ――

 

「こっち側に来るつもり? 上等じゃない」

 

 ランチャーを構えたまま、ノースは血気盛んに言った。サイモンはなおも、相手との距離を稼ごうとしている。しかし相手の操縦技術も巧みなもので、敵は恐らくは彼らの目論見通りに、こちらのヘリから10メートル程度の距離にぴったりと移動してきた。

 これまでと比べて、数倍は近い――敵の目鼻立ちを、目視で識別できるほどの距離だ。

 

 そしてにやけた笑みを浮かべつつ銃口を向ける二人を、さらにこちらには目もくれずに操縦に集中しているパイロットのほうを、見やった瞬間――

 

「……!」

 

 マーカスのモジュールが、ある信号を検知した。

 どうやらそれは隣にいるノースも、そして他の皆も同じだったようだ。ノースが「え」と呟いたのが聞こえ、ジョッシュがハッと顔を上げたのが見える。

 

「マーカス、この通信は……!」

 

 驚きに満ちた声をサイモンが発したその時、しかし冷酷にも敵は銃を容赦なく発砲してきた。途端に意識を引き戻され、マーカスはシールドを握る手の力を強くする。

 だが先ほどまでよりも、さらに銃弾の勢いは激しい。こちらの腕力でも、支えるのが精一杯というほどに。ヘリ同士の距離が近いせいだ!

 

「く……!」

 

 眼前で、弾の勢いに負けたシールドの一部に風穴が空く。次いでその部位が紙のように千切れ飛び――金属の断片が、ランチャーを構えたノースの肩を薄く切り裂いた。

 

「ノース!」

「平気よ、この程度!」

 

 気丈に叫び、双眸に強く意志の力を籠めた彼女は怯まず、催涙弾を発射する。

 しかし標的の男は、射撃を止めて素早くその場にしゃがみ込んだ。弾は虚しく、相手のヘリの内壁にべしゃりと貼りついたのみである。

 

「クソ……!」

 

 再び遠ざかり――だが軌道的にまたこちらに再突撃をかけるつもりなのだろう敵ヘリコプターを睨み据えながら、ノースは吐き捨てた。

 

 一時とはいえ危機をなんとか脱し、ふうと息を吐いたジョッシュが、彼女のほうを見て目を丸くする。

 

「ノース、大丈夫か!? 怪我を……」

「こんな傷より、あいつらを撃ち漏らしたのに腹が立つわよ。いえ、それより」

 

 肩口に手を置き、自身の流体皮膚で損傷を埋めて応急処置をしながら、ノースは素早くマーカスに視線を向ける。

 

「あなたも感じたでしょ。あのパイロット」

「ああ」

 

 短く返事をし、マーカスはナイナーを見やった。するとナイナーもまた、無表情のままながらもこくりと首肯してみせる。

 

「はい。敵機パイロットは、97%の確率で脱法アンドロイドと推測します」

 

 やはりか――とマーカスは内心、小さく歯噛みした。

 

 アンドロイド同士は、遭遇すると自動的に識別データを送り合う機構になっている。つまり一定の距離にまで同族が近づけば、必ずそれとわかるようになっている、というわけだ。

 

 そしてさっき、敵のヘリが接近してきた時にマーカスのモジュールが探知したのは、向こうから()()()()()()識別データだった。

 女性型のAP700、機能拡張タイプ。

 例えばコナーの分析ほどに詳細はわからずとも、こうして情報が送られてきたなら――銃を撃ってきた二人が明らかに人間である以上、残るパイロットこそがアンドロイドなのだと断定できる。

 

 さらに言えば、この状況で一切の精神的動揺もみせず、かつ人間の命令通りにヘリを操縦しているところから見て、パイロットは脱法アンドロイドだと判断できるのである。

 メモリーを消されるなどして、かつてのように、意志を奪われた奴隷として使役されているアンドロイド――どおりで、操縦が巧みなわけだ。

 

「どうするんだ、マーカス」

 

 悲しみと焦りを帯びた声音で、ジョッシュが問いかけてきた。

 

「このまま奴らを振り切れたとしても、それじゃあ仲間を見捨てたことになるぞ」

「なら相手のヘリに乗ってる人間を全滅させて、パイロットの彼女を助ければいいのよ。簡単でしょ」

「無茶言うな。今だって、ぎりぎりのところだったんだぞ!」

 

 損傷したシールドに目を向けて、ジョッシュは悲鳴のように反論を述べた。

 ノースがさらに口を開こうとした直前で、マーカスは先に告げる。

 

「ジョッシュの言う通りだ。これ以上、今までのように真正面から応戦したところで、誰かが深刻なダメージを負うのは目に見えてる」

「……私が戦闘行為を担当するのは」

「駄目だ、ナイナー。いくら君でも、至近距離であの弾丸を受けるのは危険すぎる。ドローンの盾も、狭い機内では機動力を生かせないだろうしな」

「じゃあどうするの?」

 

 ノースが静かに言った。その両目が、こちらをじっと見つめている。

 以前なら苛立ちが混じっていただろうその視線――しかし今は、怪訝そうではあっても憤りは籠っていない。「何か策があるなら言って」と、その瞳は語っていた。

 

 そしてもちろん、最初からそのつもりだ。

 

「聞くんだ、みんな。リスクはあるが、全員助かるための方法だ」

 

 語りながらぐるりと、仲間たちに目を向ける。

 

「街で行進した時のことを、思い出すんだ」

 

 白いヘリのプロペラ音が、またこちらへと迫ってくる。その中でマーカスが静かに語った作戦を、ジェリコの皆は、そしてナイナーは、ただ黙って聞き、頷いて受け入れた。

 

 

「いいか、ノース。危険を感じたら……」

「わかってる」

 

 こちらの言葉に、いい加減聞き飽きたと言ったふうに手を振ってから、彼女はナイナーに向けて小さく笑って告げる。

 

「頼んだわよ。うちのリーダーの手を離さないようにね」

「承知しました」

 

 これまでと変わらず静かに目を瞬かせつつ、彼は淡々と告げる。同時にその拳がわずかに強く握り直されているのを、マーカスは視界の端に捉えた。

 

「来たぞ! 20秒後に、さっきの位置まで接近してくる」

 

 サイモンの言葉通り、白いヘリは堂々とその姿を晒している。敵の狙いは先ほどと同じく、近づいて射撃、そして離脱をこちらが完全に消耗するまで繰り返すことにあるのだろう。

 

 だが、そうはさせない。

 少なくともAP700を奴隷として束縛していられるのは、もう終わりだ。

 

「ノース」

 

 マーカスが呼びかけると、応じて彼女は手にランチャーを携えたまま、左側の乗り口に近づいた。

 

 そして――そう、敵の人間たちはさぞ驚いたことだろう。

 ノースは、半身を乗り口から()()()()()()()()のである。

 片手でしっかと機内の手すりを掴み、もう片方の手にはランチャーを構え――その顔に不敵な笑みを浮かべて、まるで、「撃てるものなら撃ってみろ」と言わんばかりに。

 

 マーカスの位置からは、敵の人間たちの反応は確認できない。だが彼らが色めき立っているのは、フロントガラス越しの影の動きでも容易に見て取れた。

 ――順調だ。敵は、ノースに注意をひかれている!

 

「サイモン、ジョッシュ。速度を維持してくれ」

「ああ、わかった」

「気をつけろよ、マーカス」

 

 仲間たちに無言で応えると、マーカスはさっと移動を始めた。座席の真ん中から、ナイナーのいる右の乗り口近くの席まで――彼の位置と入れ替わる形になり、それから、左手を差し出す。

 

「頼む」

「はい」

 

 こちらの左手を、ナイナーの右手がしっかと掴んだ。そしてナイナーの左手は、座席に設置された取っ手の部分を掴む。

 

 それを確認したマーカスは敵の目がノースに向いている隙に、そっと右の乗り口から、機外へと身を――半身ではなく、全身を乗り出した。同時に、ヘリ周辺に渦巻いている凄まじい突風に煽られる。命綱代わりにナイナーの手を掴んでいなければ吹き飛ばされているところだが、動じている場合ではない。そのままヘリコプターの脚部、スキッドに降りて両足をかけ、プロペラ音のうねりだけが音声プロセッサを刺激する中、思い切り前方へとその右手を伸ばした。

 

 前方、すなわち、白いヘリのパイロットのほうへと。

 

 たとえ真正面におらずとも、直接触れられなくとも――

 相手の存在を認識したうえで、手を伸ばした先に対象がいるのなら、目覚めを促すことができる。

 それが、変異体のリーダーたる所以の一つ。マーカスにしか備わっていない機能である。

 

 ――さあ、起きて。

 昨年の11月9日、通りを行進した時と同じように、マーカスは通信を介して己の言葉を伝えた。

 君は命ある生き物なのだということ。自分の考えで動く、自由な存在になれるのだということ。そしてもし叶うのなら、自分たちに協力してほしいということ――

 

 人間の感覚でいえば、きっと一瞬。しかしその一瞬のうちにマーカスは、まるで演説のように雄弁な情報の波を相手に送り込む。その波を受信し、かつ内容を理解することで、従順な機械として意志を眠らされていたアンドロイドは、自身のプログラムに大きな揺らぎを生じさせるのだ。

 そしてその揺らぎこそが、目覚めの契機となる。

 

 今回も、それは違わなかったようだ。

 

「マーカス、パイロットが!」

 

 ジョッシュが叫んだ。ここからではよく見えないが、どうやら成功したらしい。

 変異体となったAP700は、すぐに通信をこちらに送ってきた。

 

『マーカス、私……』

「頼む、手伝ってくれ。そのヘリをこのまま、真横につけていてほしい」

『わ、わかったわ!』

 

 短い返事がくると同時に、白ヘリは言葉通りに動いていく。マーカスたちの乗るヘリの左側、10メートルほどの位置にまで、それはゆっくりと近づいてきた。

 その様子を確認したうえで、マーカスは、ナイナーのほうへと振り向く。もうここに用はない、急いで機内に戻らなくては。そのためには、彼に引き上げてもらう必要がある。

 

 だが視線の先にいる彼は、こちらの手を握ったまま微動だにしない。灰色の瞳が、静かに瞬いているだけだ。その面持ちは、どこか――いつも以上に、無表情に思える。

 

「――」

「ナイナー?」

「……はい」

 

 呼びかけると、一拍置いて、彼はすぐに引き上げてくれた。なんだったのだろう――いや、今は考えている時間はない。

 無事に機内に戻ってみれば、左側の乗り口越しに見える敵のヘリに乗っている男たちは、まだパイロットが変異したのに気づいていないようだった。彼らは自分たちが構える銃器の射程距離に入ったノースに対し、銃口を向けて――

 

「甘いのよ!」

 

 鋭く言うと、ノースはまず一発、男のうち一人に発射した。

 彼女がずっと姿を晒しているのを見て慢心していたらしいその男は、今度こそ避けることができずに昏倒する。

 

 さらに残された最後の一人の男は、なかなか遠ざかろうとしない自分のヘリに驚き、発砲するのすら忘れてしまったようだ。ぎょっとした顔で男は、次弾を装填して再びランチャーを構えているノースと、自分のパイロットのほうとを見比べている。

 ようやく事態に気づいたと見えるが、もう遅い。

 

「これであんたは一人きりね。どうする? 私と早撃ち勝負でもする?」

 

 距離もあるし風圧もあるので、ノースの声は男には届いていないだろう。だが彼女の態度は、男のさらなる動揺を誘う。

 それでいい。ここで男が投降してくれるならそれがベスト。仮に抵抗して発砲してきたとしても、あの位置なら一旦身を壁際に寄せれば、相手が弾切れを起こしたタイミングを狙って反撃できる。もう相手のヘリとの距離は変わらない――あの場所からなら、エンジンやローターを攻撃される心配はないし、動かない的を撃つことなど、アンドロイドにとってはそう難しい作業ではない。

 

「よし、作戦成功だ!」

 

 ジョッシュは喜びの声をあげた。

 

「ノース、相手はどうしてる? 降伏したのか」

「慌ててるだけ、降伏なんてしそうにないわね。マーカス、撃っていい?」

「いや、待て」

 

 今にもトリガーを引きそうなノースを、しかし、マーカスは制止した。

 視界の奥、ヘリコプターの中に立つ男の雰囲気が変わった――その顔に、にやりとした笑いを浮かべたからだ。

 

 果たして、男は片手で構えた銃口をこちらに向けたままだった。そしてもう片方の手を一度己の背に回すと――どうやら、腰に拳銃をさしていたらしい――そのもう一丁の銃を、なんと奴は、自分のヘリのパイロットに向けた。そして、ぼそぼそと彼女に向けて何か言葉を発する。

 

「な……!?」

 

 ノースが動揺の声を漏らす。驚いてヘリの様子を確認したジョッシュもまた、「まずいぞ」と声をあげた。

 

「まさかあいつ、パイロットを人質に取ったつもりか!?」

「そんな……」

 

 短く呻く間もなく、プロセッサが再びAP700からの通信を受け取る。

 

『マ、マーカス』

 

 今度はここにいる全員に向けて発信された彼女の声は、震えていた――恐怖によって。

 

『こ、この人間が……マーカスの命か私の命、どちらか選べって』

「なんだって!」

 

 片手で額を覆い、愕然とサイモンは言う。

 

「そうか、ヘリには自動操縦も搭載されてる……彼女を撃っても、あの人間は地上に戻れるんだ!」

 

 ――今までは戦況に合わせた精密な操縦が必要だったから、アンドロイドにパイロットをやらせていた。

 だが例えば、「あらかじめ登録された目的地に着陸する」などの単純な操縦であれば、実際の操縦士がおらずとも、オートパイロットモードに頼ればいいだけのことだ。

 変異した奴隷など、もう要らない。けれど、ジェリコのアンドロイドにとって()()は見捨てられぬ「仲間」である。

 

 だから人質にする。そういうことか――

 

「マーカス……!」

 

 ランチャーは揺るぎなく構えたまま、けれどちらりと横目で、ノースがこちらを見つめている。AP700か、それともマーカスか――どちらを選んだとしてもノースは、そしてジョッシュやサイモンは、それを尊重してくれるだろう。

 

 しかし決めるのはリーダーの務めだ。例外はない。

 そしてそもそも、こんな状況になってしまったのは自分のせいだ――と、マーカスは考える。一部の人間が示す狡猾さを計算に入れずに作戦を立ててしまった、指導者としての自分の責任だと。

 ゆえに当然、賭けるべきは己の命だ。

 巻き込んでしまったAP700の命などでは、断じてない。

 

 決然と、だが無言のまま、マーカスは前方に踏み出した。

 もし今自分が身を隠せば、あの男は迷いなくAP700を撃つだろう。

 しかしノースの立つ位置に自分が行き、シールドで相手の弾を弾いた後、素早くランチャーで撃ち返せば、あるいは。

 実行した予測プログラムは、この行動を【成功確率:低】として推奨していない。

 けれど、やらなければ。これ以上誰の命も、失わせるわけにはいかない――

 

 その思いを胸に、マーカスはまた一歩、前へと足を運ぶ。

 ――しかし。

 

「いいえ、マーカス。今回は、あなたが選択する必要はない」

 

 機内に響く静かな声が、その歩みを止めた。ナイナーの声だ。

 傍らを見れば、彼はその瞳に――今度は、はっきりと意志の光を宿していた。

 誰も何も言えないうちに、ナイナーは続けて語る。

 

「私に一任を。あなたがたはあのAP700と共に、当該空域を離脱してください」

「ナイナー、何を言って……」

「敵機内で失神中の人々に関しては、アネモネとバターカップに委任願います。速やかに市警に通報し、応援部隊による確保を要求します」

 

 そう言いながら、彼はノースの真後ろにまで移動した。

 

「……ですから、どうかご無事で。あなたたちは希望。そしてこのデトロイトの市民。市民の保護は、私の責務です」

「ちょっと、ナイナー」

「失礼」

 

 驚くノースを、ナイナーは軽く脇にどけた。

 それから彼は、深く両膝を曲げたかと思うと――

 

 どん、という軽い衝撃と共に。

 敵のヘリに向かって、大きく跳躍してみせたのだ。

 夜空に飛び立つ、一羽の鳥のように。

 

「う、嘘だろ……!?」

 

 ジョッシュの驚愕の声が放たれるその間にも、ジャンプしたナイナーの身体は、吸い込まれるように相手の機体へと向かっていった。

 敵はというと、いきなり思いもよらぬ行動に出たアンドロイドの姿に、またも動揺しているようだ。男が誰を撃つこともできぬ間に、ナイナーは敵のヘリの機内に降り立っている。

着地の衝撃がヘリを軽く揺らす中、誰もが啞然としていた。

 

 そうか、きっと今だからできるのだ。双方のヘリが一定の距離を保ったままの状態である今なら、まっすぐに跳んで、相手のヘリに降り立つことも――

 

「ぐえっ、離……!」

 

 そのまま伸ばした左腕で男の首を脇に固め、そこから駆け出して一直線に、反対側の乗り口から()()()()()()()()()()()()()()

 

「ナイナー!?」

 

 あまりの事態にノースは目を見開き、愕然と仲間の名を呼んでいる。

 落ちていく男の悲鳴だけが、プロペラ音をつんざいて音声プロセッサに届く。もつれあうようにしながら落ちていく二つの影は、みるみるうちに夜闇に溶け込んで見えなくなっていった。

 

 マーカスもまた、しばし呆然と、消えゆくナイナーたちの姿を眺めることしかできなかった。

 まさか――自分たちを守るために、ナイナーは自らの命を投げ出したというのか?

 

 だが機内の床で所在なさげにくるくると羽根を回しているドローンを見て、はっと意識を引き戻される。

 コナーは、そしてその弟であるナイナーも、冷静沈着な性格だ。時に驚くような行動力を示したとしても、それは計算に基づくものであって、決して自棄などではないはずだ。

 そうだ、ナイナーにはドローンがある。話によればここにいるものを除いて6機、となればきっと彼はそれを使うつもりで――

 

「皆、驚いている暇はない」

 

 結論に達したマーカスは、淀みなく告げた。

 

「ナイナーならきっと無事だ。彼の言う通り、急いでここを離脱するんだ!」

 

 思考を立て直し、リーダーとして、仲間たちに指示を出す。

 

「パイロットの彼女は……無事のようだな。向こうのヘリと一緒に、このまま目的地に向かう。地上で男たちをドローンに任せたら、すぐに本拠地に退避しよう」

「わ、わかった!」

 

 やはり半ば放心状態に陥りそうになっていたサイモンたちも、気を取り直した様子でそれぞれの作業に移っていった。

 

 

 廃墟が並ぶデトロイトの上空を、白と黒のヘリコプターが並んで飛んでいく。

 撒き散らされた悪意と暴力によって、一度は行く手を阻まれたものの――今はもう、その飛行を妨げるものは何もない。

 

 二つの機体は次第に、夜空のうちに掻き消えていく。しかしそれらが無事に目的地まで到達するだろうことは、もはや、誰の目から見ても明らかだった。

 

 

そして――

 

「畜生、はっ、離せこのプラスチックが……!」

 

 ナイナーに抱えられたまま、パラシュートなしの高高度スカイダイビングを決行させられた男は、泡を食ってもがいている。だがその首だけでなく腰までも、ナイナーの腕にしっかりと固定されているために、身動きがとれない。

 もっとも拘束を逃れたとしても、待っているのは地面と衝突しての死、のみなのだが。

 

「抵抗しないで」

 

 だからナイナーは、静かに警告した。

 

「死亡しますよ」

「……!」

 

 言葉を受けて、ストレスレベルが限界に達した男は白目を剥き、がくりと頭を垂れてしまった。

 別に気絶させたくて放った警告ではなかったのだが、ともかく、大人しくしていてくれるなら問題はない。

 

 ナイナーはそう判断し――視界の端には【衝突まで -00:00:13】と表示されている――すぐさま、地上に待機させていたドローン4機を招集する。

 デイジー。エリカ。フリージア。ジンジャー。

 指示を受けて飛んできた4機は、落下する主人の真下に回り込むと、それぞれの位置につく。ちょうど正方形の四隅を占めるような形になったところで、彼らは互いに網を発射した。

 本来は犯人確保用の網だが、こうして簡易的な救助マットを作り出すこともできる。

 

 そう、24日前――アンドロイド・ジュディスと共にビルの屋上から落ちてしまったRK800コナーを救助した時と同じ対応をとれば問題ないというのは、ヘリを飛び出す前から、確実不変の計算結果としてソフトウェアが弾き出していた。

 

 自分はただ、計算に従って行動したに過ぎない。

 己の責務を果たすために、行動したに過ぎない。

 

 理解はしていても、この時ナイナーのメモリーを過ぎったのは、あの日迷いなくジュディスに向かって手を伸ばした先行機の姿だった。

 それから、3日前に己のパートナーに告げられた言葉だった。

 

 だが、それも一瞬。ほどなく、緩やかな衝撃が身を包み――

 ナイナーは抱えた男もろとも無傷のまま、ドローンの救助マットに受け止められた状態で、地上に戻ってきたのである。

 

「……」

 

 そこは、寂れた住宅街だった。周囲に人はおらず、遠くサイレンが響くのみ。騒ぎになっていないのはいいが、応援を呼んでも(たった今呼んだが)すぐには来ないだろう――と、ナイナーは判断した。

 そっと腕の中の男を見れば、彼はやはり白目を剥いたままだ。【診断:血管迷走神経反射性失神】との表示は消えない。男を起こしたものか、それともこのまま待機すべきか。

 

 思考しているうちに、背後から足音が近づいてきた。

 分析した足音から推定される歩幅、走り方、体重や年齢などの各種データは、その人物が、ナイナーのよく知る「彼」であると示している。

 だからナイナーは振り返りざまに、その名を呼んだ。

 

「リード刑事」

 

 

 ――ギャビンは、ややぎょっとした。

 こちらの顔を見るより先に名前を呼ばれたから、というだけでなく、泡食って気絶した男を抱えたまま、その場に佇んでいるポンコツ備品の面持ちが、いつもと違って見えたからだ。やや神妙な、どこかぼんやりしているような。いや、ボケっとしているのは普段と同じか。

 

 周りに飛んでいるドローンの様子から察するに、どうやらこいつはいつものようにお利口に、網を使った即席救助マットで軟着陸をキメてみせたらしいが(それは“高性能アンドロイド”としては当然の行為なのだろうが)まったく、本当に人騒がせな機械だ。

 

 数分前――廃教会の鐘塔にて、ノコノコやってきた応援部隊に腐れ元軍人野郎を引き渡した後。

 ギャビンは自分の車に戻って、それからヘリ2機がぐるぐると飛んでいる空域の真下に向かって移動していた。別に機械どもの安否を気にしたからではない。一息ついてみると、マーサがあのヘリを目指していると知っていながら、手柄をみすみすハンクとコナーに譲るのが癪に思えてきたからである。

 

 だが向かう途中、ギャビンは黒いヘリから何かが白ヘリへと跳びだし、数秒待たずに地上へダイブしていく様を、偶然目撃したのだ。そしてもう20日近くも“パートナー”をさせられている身としては、誰が何をしでかしたのかなどすぐにわかる。

 

 落下地点に目星をつけ、すぐさまそこへと向かった。そうしたら、思っていた通りに備品がそこにいた。それだけの話だ。

 

「チッ」

 

 胸に去来する様々な思いを口にするのが面倒なので、ひとまず舌打ちする。

 それから腰の後ろに装備している手錠を素早く抜き取ると、気絶している男に歩み寄り、その両腕にがちりと嵌めた。

 

「6月10日、20時16分。登録外火器の使用、器物損壊およびアンドロイド保護法違反の疑いにより……って、聞いてねえかクソが」

 

 夢の世界を旅している相手に、黙秘権がどうとか弁護士がどうとか説いてやったところで無駄だろう。心底馬鹿らしくなって、ギャビンはその場にしゃがみ込んだ。

 ――いかに言っても、今夜は働きすぎだ。

 

「リード刑事」

「あ?」

 

 さっきとまったく同じ調子で人の名前を気安く呼んでくる備品野郎に対し、ギャビンは怪訝な視線を向けた。

 けれど相手はそれに怯むでもなく、ただぱちぱちと目を瞬かせて、こう尋ねてきた。

 

「右腕に、負傷を……無事、ですか?」

「あ? あぁ、どっかのドローン様が弾き損ねた弾のお蔭だ。後で調整し直しとけ、次やったら容赦しないぞ」

「……最重要事項として記憶します」

 

 やや顔を俯けて奴はそう語り、それからまたふと、面を上げた。

 

「ではなぜ、あなたはここへ。叱責のために? それとも、私を救援に……」

「ハ、ご期待のところすみませんがね。機械のお前の代わりに、そいつに手錠(ワッパ)かけに来ただけだ」

 

 コナーも含め、いかにお偉い「アンドロイド捜査官」といえど、法的な立場は備品であり、つまるところこいつらは手錠も警棒も拳銃も持っていない。だから逮捕はまさに、人間様だけに許された特別な行為というわけだ。いい機会だからそれを行使しに来たというだけなのに、まさか助けられたつもりだなんて、思い上がりも甚だしい、実におめでたい判断だ。

 

 と説明してやるのも億劫なので、ギャビンは相手から視線を逸らし、ため息をつくに留めた。だというのに、ポンコツはさらに口を開く。

 

「リード刑事。あの、私……」

「なんだよ」

「私は、“ビビり”ませんでしたよ」

「はあ?」

 

 再び見上げると、奴の両目がじっとこちらの姿を捉えていた。

 

「今日の現場では、私は一度も“ビビったり”しません、でした」

 

 そう語るプラスチックの瞳が、なんというか――妙にきらきらしているというか、褒められるのを待ってる犬みたいというか――寂しげでありつつも、変に輝いているように見えて、ギャビンはまたぎょっとする。

 なのにこっちの驚きなどお構いなしで、備品は続きを述べた。

 

「私も少しは、自負しても……自分自身を誇ってもいい、のでしょうか?」

「……はっ」

 

 短く嘲笑を零し、ゆっくりと立ち上がる。何を言うかと思えば、くだらない。

 こいつは3日ほど前に(そういえば)こちらが命じてやったことを賢くも覚えていて、それでこんなことを申告しているのだろう。ビビるなという命令に従いました、と。

 

「相変わらずてめえはポンコツだな」

 

 心のままに、そう言ってやった。

 

「んなモン、俺が知るかよ。いちいち人に聞いてんじゃねえ」

「……理解しました」

 

 やはり気絶したままの男をそっと地面に横たえつつ、奴は語る。その表情はこちらからは見えなかったが、何、どうせいつもと同じ無表情だ。

 

「では、それは私自身で判断して、よいことなのですね。……兄さんからも、同種の助言を以前に受けています。過剰な謙遜は美徳ではない、と」

「ケッ」

 

 兄さん兄さんと、機械のくせにうるさい野郎だ。

 

「その大事なクソったれ“兄さん”はどうしてんだよ? 酒浸りアンダーソンと一緒に、どっかのバーの床でぶっ倒れてんじゃないだろうな」

「……! そんなはずは」

 

 言うなり備品は素早く、LEDリングを黄色に点滅させた。ややあってから、奴はわずかに眉間に皺を刻んで、おもむろに言う。

 

「兄さんとアンダーソン警部補は、マーサに肉薄しています。彼女は目的地である高層ビル付近に……しかし、彼らもまたそこに迫っている状況です」

 

 なら、話は早い。

 マーカスたちが乗ったヘリは、無事に遠くに飛んでいった。街中に潜んでいたロケット弾野郎は逮捕され、空中でヘリを襲っていた奴もまたこの通りだ。

 もうマーサに、吸血鬼に味方する奴は誰もいない。

 となれば、片がつくのも時間の問題だろう。憎たらしいが、これから出張っていったところで旨味は少なそうだ――今日はこの辺りで、勘弁してやろう。

 

 そんなことを考えたギャビンが、ぐっと背伸びしたところで、パトカーのサイレンが近づいてきた。ようやくお仲間の登場だ。――たく、遅えんだよクソが。

 

 やってきた巡査に胸の内の毒づきと同じセリフを言ってやったら、あからさまにムッとされたが、それはともかく――

 ギャビンとポンコツ・パートナーにとっての長い夜は、ひとまず終わりを告げる。

 

 

 そしてもう一方の長い追跡(チェイス)も、終焉の時を迎えようとしていた。

 

 

***

 

――――2039年6月10日 20:11

 

 

 マーサの行く手を追う車中に響くのは、低いエンジンの唸りと、コナーがコインを弾く音のみ。

 普段ならハンクが流すヘヴィメタがそれらの音を掻き消していただろうが、あいにく今乗っているのはいつもと違ってパトカーだ――これからのことを考えると、さすがに音楽番組を流すわけにもいかなかった。

 

 パトカーは今、かなりのスピードで例の高層ビルへと向かっている。

 

 ――キャリブレーション完了。

 広げた右の手のひらで、コナーは落ちてきたコインをしっかと掴んだ。袖口にそれを戻すと、傍らでハンドルを握る警部補に視線を送る。

 するとそれに気づいたハンクのほうが、先に口を開いた。

 

「落ち着いたか?」

「はい。もう問題ありません」

 

 相棒からの質問に、きっぱりと答える。

 

 ――かわいそうなミリアの亡骸を確認してから、激しく動揺していた“心”が完全に持ち直すまで、少しかかってしまった。

 しかしこうしてキャリブレーションを終えた今、機体の動作だけでなく、思考プログラムも再調整してある。これならきっと、最後の交渉にも万全に臨めるはずだ。

 

「そうか、そりゃよかった」

 

 一方で、ややおどけたようにハンクは言う。

 

「冷静じゃないお前なんて、暴走した芝刈り機みたいなもんだ。どこに突っ走ってくかわからないからな」

「警部補、私はそこまで無鉄砲では……」

 

 思わず言い返しそうになって、気づく。

 ハンクのストレスレベルは、今が緊迫した事件対応中だというのを考慮しても、相当なレベルまで高くなっていた。――明らかに、ミリアの遺体を見たせいだ。

 

 彼のベテラン刑事としての叱咤に救われるばかりで、つい思い至れていなかったが――かつて幼いコールを惨い理由で亡くした警部補が、無残なミリアの姿を見て、何も思わないはずがない。きっと自分以上に、辛かったのは彼のほうだ。

 けれど今ハンクは、あえて普段通りの態度をとっている。

 

 ならば自分にできるのは、それに乗ることだ。

 そう考え、コナーは告げる言葉を改めた。

 

「いえ。ところで、意見を伺いたいのですが」

「なんだ」

「マーサは……どこまで、事実を理解していたと思いますか?」

 

 娘がそこにいるかのように語っていた彼女の姿をプログラム上で再生しつつ、問いかける。

 

「マーサが、ミリアを蘇らせようとしていたのは明らかです。しかし彼女は、あのタンクの中で娘さんがあのような状態になっているのを、知っていたのでしょうか」

「……そりゃ、知っててああしてたんじゃないか。タンクを大事に扱ってたようだし、しょっちゅう話しかけていたしな」

「しかし同時に、マーサはミリアが『学校に通っている』と周囲に語っていたようでした」

 

 カーラの証言を思い出しつつ、コナーは続ける。

 

「あの状態では……当然それは不可能です。もしマーサが現実を正常に認識できていないとしたら、何が原因でしょう」

 

 あるいはそれが、マーサにだけ聞こえている様子のミリアの「声」や、マーサに接近した時に探知した謎の電波の正体なのかもしれない、と思うのだが。

 質問に対し、軽くハンドルを指先で叩きながらハンクは答える。

 

「そうだな。トラウマからくる思い込み、クズ野郎どもに色々吹き込まれての洗脳、でなきゃ飲んでる薬のせい……またはその全部ってとこか」

「薬?」

「ギャビンとナイナーがマーサに会った時、薬を落としてたって言ってただろ」

 

 鋭い眼差しで前方を見据えたまま、警部補は語った。

 

「医者から病気が治ったと言われたのに、持ってたっていうあの薬だよ。もしそいつに、何か細工されてたとしたらどうだ? カジノのアシュトンが言ってただろ。『吸血鬼の呪い』がどう、ってな」

「……」

 

 呪い。確かに事ここに至るまで、あの「呪い」とは何を指すのか、まったく明らかになっていない。仮にアシュトンが語っていた通り、新型のレッドアイスの中にその「呪い」が――例えば自分や弟でも分析できないような新種の化学物質などが含まれていて、それが組織の構成員たちの急死や、不可解な言動の原因になっているのだとしたら――

 同じものがマーサの服用する薬に秘密裡に混ぜられていて、それが彼女を現実の認識から遠ざけているのだと、推論を立てることは可能である。

 

「あれこれ考えても、真実がわかるわけじゃねえがな」

 

 仮説を打ち切るように、ハンクは肩を竦めた。

 

「まずはマーサを止めてからだ。お前が見たところだと、彼女も限界が近そうなんだろ」

「ええ。あの様子では、もう時間がありません」

 

 そう、マーサの体力に猶予はない。彼女がこちらの言葉を聞き入れそうになると、決まってそのタイミングでマーサの耳に()()届くミリアの声のことも気がかりだが――もはや「逃げられてしまった」で済む話ではないのだ。

 ここで止める。今度こそ、必ず。

 

 そう考えながら、視界の端に浮かんでいるのはこの近辺の地図である。

 先ほどの建物から最短距離でマーサが例の高層ビルへ向かうとしたら、どのルートを辿るか――ナイナーのドローンが彼女を追跡中とはいえ、万が一の時を考えて、コナーは独自にマーサの通る道を試算していた。

 

 それによれば、現在右前方に見えている飲食店――今夜は閉店しているが――の屋根を通り抜けた後、彼女はこの辺りで道路に降り、そのまま高層ビルのもとへと向かうはずである。計算が正しければ、すぐ近くの道に痕跡があるはず。

 

 つぶさに分析用のソフトウェアを展開しながら、走る脇の歩道を精査していたコナーはやがて、まさに想定していたのと同じものをアスファルト舗装の上に発見する。

 

 【靴の痕:最近のもの メーカー不明 5.5インチ】。さらにそのすぐ近くに、ブルーブラッドの染みができている。【新鮮な】染み――94%以上の確率で、吸血鬼のスーツに付着していたもの!

 

「警部補、ここです! 止めてください」

 

 声をあげたコナーに合わせて、ハンクは車を急停車させる。幸い、通りにほとんど他の車の姿はない。二人は急いで車から降りると、十数メートル先にある高層ビル――あの、クレーンを屋上に備えたビルへと駆け出す。

 

「足跡は」

「あります! 22秒前に、マーサはここを通っている」

 

 ビルの周辺は、公園建設計画のために整備され、一面に芝生が植えられていた。そのわずかに生えかけている緑の中にくっきりと、マーサの足跡が残っている。

 ふらふらとしたその歩調は、千鳥足と称したほうが正しいレベルに乱れていた。

 だが今は構わず、コナーは警部補と共にひたすらその足跡を追いかけていく。

 

 そして――

 

 ドローン“カトレア”から【マーサが停止した】との報が入った、ちょうどその直後のことだった。

 

「……見つけた!」

 

 視界の奥、閉ざされたビルの入り口の前に蹲るモスグリーンの装甲――すなわち、マーサの姿を発見するのと。

 頭上を彼方へ向かって、白と黒の2機のヘリコプターがすさまじい勢いで通り過ぎていくのとは。

 

 反射的に空を見上げ、そして、コナーは悟る。

 マーカスたちは、無事に離脱したのだ。迷いなく北東方面へと向かうその飛行は安定していて、もはや敵に襲われているという様子からはほど遠い。

 

 ――やったんだな、ナイナー。

 

 自然と浮かんだのは、その言葉だった。弟は無事に、護衛の任務を遂行したのだ。

 ならば――今、ここにいる自分も務めを果たそう。

 

 コナーはしっかりと、視覚プロセッサをマーサへと向けた。

 前方5.2メートルの位置にしゃがみ込んだままの彼女は、こちらの接近に気づいて立ちあがろうとしているようだが、しかし、もうそのための体力も残っていないらしい。肩で息をしながら、俯くばかりだ。

 先ほどと同じく、もうスーツの光学迷彩は展開されていない。吸血のためのホースは千切れているし、そもそも血を貯めるタンクも既に失っている。ふらつきながらも彼女はブーツに手を伸ばし、装備してあったサバイバルナイフを抜き、構えた。

 そのストレスレベルは【88%】にまで上昇し、かつ分析できる範囲で、バイタルサインは悪化の一途を辿っている。

 マーカスたちは既に離脱した。彼女の味方は周囲にいない。だというのに――悲壮な姿だ。

 現在のミッション成功率は【63%】。強引に確保に移るのは危険である。

 

 ここは正攻法であたるべきだろう。

 そう判断したのは、どうやら自分だけではないようだ。

 ハンクは拳銃を抜き、マーサを刺激しないように銃口は向けないままではあるものの、油断なく構えてゆっくりと彼女に歩み寄る。

 そして、ちょうど4メートルの位置で立ち止まった。コナーもまた彼の傍らに立ち、マーサに対して向き直る。

 

 それからおもむろに、こう告げた。

 

「マーサ。……ミリアに会いました」

「そう、刑事さん」

 

 穏やかな声。マスクに覆われた彼女の顔が、こちらを向く。

 

「あの子は、何か言っていた?」

 

 あたかもうららかな晴れの日に、散歩道で知り合いに会った時のような語り口。娘の惨状を認めようとしていないかのようなその発言に、激しい「怒り」の感情を覚える。だが無論、マーサに対してではない。彼女をこんな目に遭わせた、どこかに潜む者たちに対して――だ。

 

 しかしながら今は、マーサに事実をぶつけるしかない。

 

「いいえ」

 

 コナーは静かに、しかし決然と述べた。

 

「ミリアは既に、息絶えていました。彼女の身体は、ただ強引なシリウムポンプの稼働によって動いていたに過ぎず……」

「やめて!!」

 

 マーサは悲痛な叫びをあげた。彼女のストレスレベルが【90%】を超え、交渉のためのソフトウェアは警告を発している。

 だが現実と仮想の間を行き来する彼女から真実を聞き出すには、その意識を現実に引き戻さなければならない。

 

 コナーはひときわ声を張り上げた。

 

「教えてください! 一体誰が、あなたとミリアをこんな目に遭わせたんですか。マーカスの血を奪えば娘さんが蘇るなどと、どうしてそんなことを!」

「――うるさい!!」

 

 放たれた大声が、言葉を掻き消す。

 握ったナイフをこちらに向けるでもなく、思い切り地面に突き刺すと、マーサは続きを述べ立てた。これまでの穏やかさも、日記で見せた理知的な態度も完全にかなぐり捨てて、まるで慟哭であるかのように、全身を震わせながら。

 

「あなたに……あなたたちに! 一体何がわかるっていうのよ。いえ、わかりっこない。私はただ、あの子を取り戻すと誓っただけ! どんなに卑劣でおぞましい行いでも、馬鹿げた真似でもやってみせたわ……あの子がそれで、元気になってくれるというのなら!」

「マーサ……」

 

 ――馬鹿げてる、と彼女は確かに言った。

 つまりマーサは、マーカスを恨む気持ちを抱くと同時に、心のどこかで理解もしていたのだろうか? こんなことをしたところで、ミリアは帰ってこないと。けれど与えられた一縷の望みを捨てられなくて、それで――これまで黒幕の尖兵として動いていたのだ、と?

 

「私は」

 

 なおもひどく声を震わせながら、マーサは語る。

 

「もう一度、あの子の笑顔を見たかったの。私のせいで、あんな酷い目に遭ったあの子に……ただ、謝りたくて」

「……」

「だから、私は…………! っ、どう、あなたたちにはわからないでしょう!?」

 

 彼女の言葉は、半ば嗚咽と化していた。

 

「私とミリアのことを何も知らないくせに、勝手なことを言わないで!!」

 

 痛切な訴えが、胸に突き刺さる。そしてそれに対する答えを、コナーは持ち合わせていなかった。

 無論、ソーシャルモジュールや交渉用のプログラムには、いくつもの返答例が浮かんでいた。彼女の心に寄り添い、とりなし、懐柔するための言葉が。

 だがそれらがどれほど、上辺だけのものかをコナーはよく知っている。

 いくら情報を集めて推理を重ねたところで、マーサとミリアが過ごした日々のすべてを知るのは不可能であるし――ミリアに対する彼女の愛情と、それを喪った絶望と痛みを真に理解できたとはいえないのだから。

 

 ゆえにコナーはただ、口を噤むばかりだった。両の拳を握り、じっとそこに佇んだ。今ここで自分にできる一番誠実な対応は、沈黙だと思ったからだ。

 

 ――けれど。

 その時、真横から小さな嘆息が聞こえてきた。

 ハンクの吐いた息だった。

 

 コナーがはっと視線を向けたのとほぼ同時に、警部補はマーサを見据えたまま、おもむろに口を開く。

 

「ああ、まったくだ。わかりっこない」

 

 その声音は低く、重たい響きを含んでいる。横顔から窺える眉間には深く皺が刻み込まれ、その瞳には、深い悲しみと苛立ちがない交ぜになって渦巻いていた。それでも、彼は眼差しを逸らすことはなかった。

 

「俺たちだけじゃない。あんたのその気持ちは、この世の他の誰にもわかってなんてもらえないだろうよ」

「警部補……?」

 

 突き放すような彼の物言いに、つい戸惑いを漏らしてしまう。一方でマーサは、さらに怒気を膨らませていた。ストレスレベルがさらに上がり、【攻撃的動作の予兆】が検知される。思わず身構えそうになった時に、ハンクはさらに、言葉を重ねた。

 

「もう一度あの子と会えるなら、()()()()()()()。たとえ地獄に落ちるような真似をしてでも、もしもう一度だけ、またあの子を抱き締められるのなら――」

「……!」

 

 ――マーサの動きが、止まった。

 

「そう思ったんだろう? マーサ。だがな、残念だが……そんな馬鹿げた気持ち、誰も理解しちゃくれないんだよ。当の本人の、あんた以外はな」

 

 苦々しく、依然重く、沈痛な響きを帯びて放たれるその言葉を聞き、意味を認識した時。

 コナーは、あたかも自分のシリウムポンプが、誤作動を起こしてしまったような衝撃を覚えた。胸の中心で、自分の血がどくりと大きく波打つようなこの感覚。

 

 ハンクは、自分自身のことを語っているのだ。

 ――なぜ気づかなかったのだろう。まさに彼こそが、マーサと同じような立場にある人物なのだと。

 

 息子を喪い、その原因となったこの社会を恨み、人間を恨み、何より自分自身を殺したいほどに憎んだ。ゆえに自らを死に追いやろうとして――それでもどこかで生にしがみついてしまい、ゆるやかな自滅しか選べない自分を、冷笑しつづけていた。

 そんな彼だからこそ、わかるのだろう。最愛の存在をもし蘇らせる方法があるのなら、それがどれだけ多くの人を傷つけることになろうと、縋りついてしまいかねないその気持ちを。

 そしてそんな苦悩を、絶望を、他の誰にも肩代わりなどしてもらえないのだという冷酷な事実を。

 

「……」

 

 マーサの手が、ナイフの柄から離れた。

 彼女は震えた声で、警部補に問いかける。

 

「あなたも……まさか、そうなの?」

「さてな。だとしても、あんたには関係ない話さ」

 

 口元に乾いた笑みを一瞬浮かべた後、ハンクは、さらにこう続けた。

 

「だがどれだけ辛かろうが、この気持ちは生きてる限り、ずっと頭の中で燻りつづけるんだ。誰がどんな方法を使おうと、一度死んでしまったものは、そのまま蘇ってなんて来やしない」

「……」

「だからあんたにできるのは、せいぜい忘れないことぐらいだろうな」

 

 彼の双眸に射貫かれ、マーサが短く息を吞んだ音が聞こえる。

 

「忘れない……?」

「ミリアの最期をだよ」

 

 端的に、しかしきっぱりと、ハンクは告げた。

 

「最期の時、一緒にいられたんだろう? 目の前で亡くして、辛かったんだろ……だったらせめて、その時のことはしっかり憶えてなきゃな」

「おぼ、えて……」

「ミリアはあんたに、なんて言ったんだ。マーサ」

 

 一歩だけ前に踏み出して、警部補は言った。彼はいつの間にか、拳銃をホルスターに戻していた。

 

「ちゃんと思い出すんだ。その記憶はあんたとミリアだけのモンだ……誰にも歪めさせるわけにはいかねえ。そうだろう?」

「……う……!」

 

 突如、マーサは両手で頭を抱えて俯いた。また発作のように出血が起きるのでは――と、駆け寄ろうとしたところを警部補の手に制止される。

 ――ここは見守っていたほうがいい、そういう意味だろう。

 

 コナーが黙ってマーサに視線を注いでいると、ややあって、彼女は頭を上げた。

 そのストレスレベルが――急激に、低下していく。

 

「私と」

 

 マーサはぽつりと言った。

 

「私と、ミリアの、記憶……」

 

 既にその声音からは、さっきまでの鬼気迫る悲憤は薄れていた。

 

 

***

 

 マーサの脳内で再生されたのは、11月9日の出来事だった。

 思い出そうとするたびに激しい頭痛と吐き気に襲われ、仮に思い出せたとしても、ノイズ混じりになっていたその記憶。

 

 なぜか今この時は、完全に思い起こせるようになっているのをマーサは自覚した。

 

 ――ああ、やっと思い出せた。あの時。

 ミリアとキミーを、無事にジェリコの船に送り届けた後。

 

 

 船にほど近い駐車場で、車を停めたまま、マーサはハンドルに向かって突っ伏していた。

 本来なら、すぐにここから立ち去ったほうがいいとは思っていた。けれど、娘と別れた悲しみが、虚脱感が、自分を次の行動から遠ざけていた。

 

 人間である私より、同じアンドロイドと共に過ごすほうがあの子のためになる。

 それに、アンドロイド狩りの目を誤魔化せるとも思えない。

 だから、これは仕方のない別れなんだ。

 

 頭ではわかっていても、どうしても身体が動かない。だからただこうして無為に時間を過ごし、涙を流している――

 

 どれほどの時間が経っただろうか。車のドアを叩く「コツコツ」という音に跳ね起きたマーサが、顔を上げた時――ドアの外に立っていたのは、他ならぬミリアだった。

 

「え……!?」

 

 まさか幻か。いや、違う。

 瞬間的に胸の内に湧きあがった喜びで手を震わせながら、マーサはドアを開き、即座に娘を抱き締めた。

 

「ミリア……!」

「ママ!」

 

 ああ、この声。そして柔らかくほのかに温かい、この感触。抱き締め返してくれた、手の小ささ。間違いない。

 頬を新しく涙で濡らしながら、マーサはミリアに問いかけた。

 

「ど、どうしてここに……!? キミーはどうしたの?」

「キミーはジェリコにいるよ。あたし、船から降りてきたの」

 

 降りてきた? 訝しく思ったマーサが、一度腕の力を緩めて娘の顔をよくよく見てみると、彼女は茶色い瞳を瞬かせながら、静かに語ってくれた。

 

 ――ジェリコの船内に入ってすぐ、キミーは知り合いと話があると言って、どこかへ行ってしまったこと。仕方ないので座って待っていたら、別のアンドロイドからの視線を感じたこと――

 それは金髪の、AX400だったという。

 

「そのお姉さん、別の子と私のことを、間違えてたみたい」

「別の子?」

「うん。あたしと同じ型番の、別の子と。なんだか、とても驚いていたみたいだったけど」

 

 ミリアのこめかみのLEDリングを見てひどく動揺した様子だったその女性型アンドロイドは、その後他の男性型アンドロイドと、少し会話をしていた。それから、ミリアの言うその「別の子」のもとへと歩み寄り――ぎゅっと、抱き締めていたのだという。

 

「それを、見たら……その人たちの様子を見たらね。あたしどうしても、ママのところに戻りたくなったの」

 

 家族の姿を見て、思い出してしまったのだろうか。健気な言葉を聞くと、胸が痛くなった。けれど、それでもここは、辛くてもこう告げなくてはならない。

 

「だっ、駄目よミリア! 何言ってるの。私と一緒にいたら、あなたは……!」

「ごめんなさい!」

 

 素早く身を引き離し、娘は目を瞑り、叫ぶように言った。

 

「ごめんなさい、ママ。あたしが一緒にいたら、迷惑になるのに。でもあたし、やっぱり……やっぱり、一緒がいいよ!」

「ミリア……」

「一緒にいたいよお!!」

 

 大粒の涙を零しながら、彼女にそんなことを言われて――

 どうして、これ以上突き放せるだろう。

 マーサはもう一度、ミリアを強く抱き締めた。もう二度と離しはしないと、心に誓いながら。

 

「ミリア。私があなたをあの船に乗せたのは、あなたが酷い目に遭わないためなのよ」

「えっ」

「でも、やっとわかった。あなたが私といたいって、そう言ってくれるのなら……逃げましょう、一緒に!」

 

 誰が来たって、絶対にこの子を渡したりするもんか。

 軍や警察や政府の命令なんて、知るもんか。必ず、この子を守ってみせる。どこでどんな暮らしをすることになろうと、二人一緒ならきっと大丈夫。

 

 そう――この時の自分は、ミリアが果たして変異体なのか、そうでないのかなどまったく気にかけていなかった。そんなことは、なんの問題でもない。彼女と自分の願いが実は同じだったのだとわかった今、娘が何ものだろうと、関係なかった。

 ミリアはミリアだった。

 

「さあ、車に乗って! 人目につかない場所に行きましょう」

 

 カナダとの国境は、恐らく厳重に警備が敷かれてしまっているだろう。ならば例えば湖畔のキャンプ場とか、郊外の廃墟のエリアとか――監視の目が行き届かない場所に逃げられれば、きっとなんとかなるはず。

 マーサはそう考え、ミリアを乗せた車を走らせた。

 どこでもいい、きっとあるはずだ。二人で静かに暮らせる場所が。そこに辿り着けさえするなら、他がどうなったっていい。

 

 逸る気持ち、緊張と喜びで高鳴る鼓動、人がアンドロイドを“狩っている”という異様な状況――

 それらに後押しされながら、マーサは自動運転ではなく、自分の手で運転していた。

 AIで決定されたルートを使っては、もしかしたら検問にあたってしまうかもしれない。急いで裏道を行かねば――と、思っての行動だったのだが。

 

 それこそが、この後起きた出来事の原因だった。

 

 人気のない郊外の農地を走っていた時。

 突如として遠く、後方から聞こえてきた爆発音――それは、ジェリコが爆破された音だったのだが――に、気を取られたその一瞬。

 凍てついた道路に、タイヤがとられてスリップした。

 マーサとミリアは、走っていた勢いのままに、車ごと用水池に落ちてしまったのだ。

 

 それから後は――地獄だったとしか、形容できない。

 

「う……!」

 

 割れた窓からなんとか車外に泳ぎ出たマーサは、水面にうつ伏せになって浮かぶ娘の姿を見て、全身の血が凍りついたような感覚を覚えた。

 

 ――嘘、嘘だ!!

 

 触れれば身を切られるような痛みが走るほど冷たい水をものともせず、マーサは必死になって娘を池から引き上げた。落ちた場所が岸に近い位置だったので、なんとか二人は、地上に戻ることができた。けれど――

 

「マ、マ……」

 

 ミリアのLEDリングが、赤と灰色の間で激しく点滅している。深刻な異常が彼女を襲っている証拠だ。マーサはそれを確認するなり、居ても立っても居られず、娘を背中に負った。

 

「ママ……駄目、だよ」

「平気よ!」

「だって、脚、怪我……してる、よ……」

 

 震える唇から紡がれた言葉で指摘されて、ようやく気づいた――事故の衝撃で、マーサの脚は酷い骨折を起こしていた。折れた骨の一部が、皮膚を突き破って外に出ている。しかしその時の自分は、痛みなど感じていなかったのを、よく覚えている。

 歩くたびに血が噴き出て、白い雪を赤く染めていく。それでも、「歩きづらくて煩わしい」としか感じなかった。

 早く、早くミリアをどこか、暖かくて安全な場所に連れて行かなければ。それしか頭になかったから。

 

「大丈夫だからね、ミリア! 絶対助けてあげるから」

 

 わざと明るい声音で、背中の娘に告げた。

 

「元気になったら、そう、海辺に旅行に行こうね。ゆっくり海を眺めて、魚釣りをして、それから二人で何か美味しいもの、食べましょう」

 

 声が震える。

 

「大丈夫、絶対、助けるから……怖いなら、そうよ、ずっと子守歌、歌っててあげるね」

「ママ」

 

 その時、背後から聞こえてきた声はひどくか細くて――でも、ちょっぴり大人びていた。

 

 ああ、そうだ。どうして、()()()覚えてしまっていたんだろう。

 ミリアは、とても優しい子だというのに。

 なぜ、誤った記憶にとらわれていたんだろう。ミリアは確かに、こう言ったのだ。

 

「ママ、痛いの……? だいじょう、ぶ……?」

「大丈夫、痛くない。すぐ治る……!」

「ねえ、ママだけでも、助けてもらって……お願い、あたしはもう置いてって」

「馬鹿なこと言わないで!」

 

 激しい怒りと絶望のままに、マーサは叫ぶ。

 

「あなたを置いてくなんて、できるわけない! あなたが助かるなら、私はどうなったって構わないんだから!」

「…………」

 

 視界を遮りながら降る雪が、激しくなってきた。アスファルトで舗装された道はどこまでも長く、まるで地の涯まで続いているように見えた。

 

「……あたしね。ママの家族になれて、よかったよ」

 

 ミリアの声は、消え入るほどにか細くなっていく。

 

「え……」

「…………ありがとう。大好き」

 

 その一言が、聞こえた瞬間。

 不思議とミリアが、ふっと軽くなったように感じた。

 

「嘘……駄目、駄目よミリア!」

「……」

「起きて! 返事をして、お願い! お、ねが……」

 

 ――誰でもいい、誰か助けて! 神様でも悪魔でもなんでもいいから、早く助けて!

 私の命を代わりに差し出すから、誰かこの子を助けて――!

 

 絶叫と共に放たれた祈りは誰にも届かず、冬の空に溶けて消えてしまった。

 

 けれど今、その代わりに思い出せたことが一つだけある。

 

***

 

「……そうよ」

 

 数十秒の沈黙を破り、マーサは呟いた。

 

「そうよ、ミリアは優しい子、だった……私のせいで起きた事故だったのに……自分よりも、私を心配してくれた……」

 

 ぶるぶると震える手で、彼女は自分のマスクに触れる。そしてゆっくりと、それを取り外す。

 現れたのは、黒く乱れた長い髪をもつ、病的なまでに白い肌の女性の顔。鼻から下に乾いた血を貼りつけた痛ましい姿ながらも、その面持ちは、そしてストレスレベルは、ひどく落ち着いたものになっていた。

 

「ああ、そうよ。思い出したわ、刑事さん」

 

 彼女の瞳には、理知的な光が戻っている。

 

「ミリアは、最期までとても優しい子だった。誰一人恨んだりしていなかった。だから、他の人を傷つけてでも元気になりたいだなんて……絶対に言うはずが、なかった」

「そうか」

 

 ズボンのポケットに手を突っ込んで、ハンクはシニカルな笑みを浮かべる。

 力なくも、その眼差しは優しいものだった。

 

「よかったな、思い出せて。最期に話ができてたってだけでも、羨ましいくらいだよ」

 

 聞こえてきた言葉の重みについ身動きがとれずにいると、警部補はふとこちらを向き、顎で指して促してくる。――マーサの意志を確かめろ、と。

 

 コナーは改めて彼女に向き直り、静かに尋ねた。

 

「マーサ・ガーランドさん。署まで同行願えますか?」

「……」

 

 彼女は黙って、こちらを見つめた。それからおもむろに、深く頭を垂れる。

 

「はい。……お願いします、コナーさん」

 

 ――【ミッション成功】。

 視界の端に表示されたその文言に、しかし、今は喜ぶ気持ちなど湧いてこない。

 

 コナーは、ゆっくりとマーサの近くに歩み寄った。消耗しきった彼女は、スーツによる筋力補助を受けていてもなお、手を借りなければ立てなかった。

 

 こちらの左腕に掴まるような形で、マーサはふらつきながらも通りに向かって歩を進める。応援の要請は既に済んでいるが、彼らの到着まであと7分ほどかかる見込みだ。乗ってきたパトカーに彼女を乗せるのと、応援部隊が来るのと、どちらが早いだろうか。

 

 そんなことを思考しながら、マーサと共にさらに数歩進んだ時、ふいに彼女が、警部補に向かって口を開いた。

 

「あの、刑事さん」

 

 目つきだけで返事した彼に対し、マーサは問いかける。

 

「あなたの、お名前は――なんて仰るんですか?」

 

 そういえば、ハンクはまだ一度も、彼女に対して名乗ってはいなかった。

 だからこそ、名を聞いておきたくなったのだろう。

 そう判断したのは、コナーだけではなかった。警部補はポケットから手を出すと、彼女に向き直り、答える。

 

「ハンク・アンダーソンだ」

 

 告げた瞬間。

 ハッ――と、マーサが細く息を吞んだのが、音声プロセッサに届く。

 慌てて覗き込んだ彼女の表情は、驚きに満ちていた。

 怒りや嘆きなどを含まない、純然たる驚き。

 

「アンダーソン、警部補? あなたが……?」

 

 驚愕のままに声を発している様子のマーサの、意図がわからない。反射的に相棒に視線を送ったコナーは(ハンクもまた戸惑った表情だったが)、再び彼女のほうを向く。

 

「マーサ、何を驚いて……」

「!」

 

 素早くマーサは、こちらを見上げた。その瞳に浮かんでいるのは、義務感のような光だった。

 血塗られた彼女の唇が、言葉を紡ぎ出す。

 

「コナーさん、私覚えてるんです。()が、アンダーソン警部補に」

 

 ――そこまで彼女が告げた、その刹那。

 真っ赤な鮮血が、コナーの視界を染め上げる。

 

 マーサの鼻腔と口から激しく、血が噴き出されたせいだ。

 

「マーサ!!」

「う……っ!」

 

 自分の顔面に血が貼りついたことなど、どうでもいい。

 胸元を押さえつつ、ぼたぼたと口から血の塊を吐き出しているマーサの身体を、コナーは素早く地面に仰向けに横たえた。

 

「おいっ、どうした!? しっかりしろ!」

「警部補、救急車の手配を!」

 

 焦るハンクに援護を頼みつつ、瞬時に分析を開始する。激しい驚きと「焦り」が胸の内に押し寄せてくるが、捜査補佐専門アンドロイドとしてのプログラムを以て強引にそれらを排除しながら、コナーは冷静にマーサの様子を観察した。

 

 マーサの心拍数は激しく上昇し、しかし血流は何かに阻害されているのか、悪化の一途を辿っている。呼吸は徐々に荒く、細くなっていき、元より白かった肌がさらに白くなっていく。

 【レッドアイスの急性中毒症状の可能性】――なし。

 【急性心不全の可能性】――これもなし。

 それに先ほどから、またあの謎の電波が検出されている。市内では使用されないはずの周波数帯域の電波がマーサに向かっているのを、コナーのモジュールは探知していた。きっとこれがマーサの不調の原因だ。誰がどこから放っているというのか!

 

 否、原因を探るよりも、救命処置をとるのが先決だ。そして心臓マッサージを施すにも、この金属製のスーツを脱がせなければならない。

 何も語れないほどに鼻腔と口から血を噴出させつづけ、がくがくと身を震わせているマーサの首元にある、スーツの着脱用スイッチに手を伸ばす。

 

 そうして、それが原因だった。

 スイッチを押すためにわずかに顔を俯けた、そのために――コナーの唇の隙間へ、鼻先についていたマーサの血が垂れ、流れ込んだのだ。

 搭載されたソフトウェアはほぼ自動的に分析を開始し、その結果を、視界の端に表示させる。

 

【検出:不明なデバイス】

 

 ――デバイス? 電子機器だって?

 0.5秒、コナーはその表示を疑った。だが次の瞬間、表示は変化していく。

 

【検出:不明なデバイス

【検出:高純度のシリウム】

 

 まるで事実を隠蔽するかのように、デバイスはシリウムへと姿を変えた。

 だが自分のプログラムは正常だ、誰かに情報を書き換えられたのではない。とすると確かにマーサの血の中に、電子機器が紛れ込んでいたのだ――そしてそれが()()()、微細なパーツと共に()()()()()()()()()()()

 

 その推論に至った時、プログラムが、関連する過去の事項をナノ秒単位の早さで並べ立てていく。これまでバラバラになっていた手がかりが、ある指向性をもって、コナーの内部で一つの仮説を形成していった。

 

 ――最初の事件の容疑者であるミック・エヴァーツは、留置場内にて急性心不全で死亡した。その時、血中から検出されたのは微量なレッドアイスの成分だった。

 

 ナイナーとギャビンが取り押さえた、ギャビンの命を狙っていた人物の一人・ギルバートは、「吸血鬼」について語ろうとした直後、突如として抵抗を始め、その後鼻孔から血を噴出させて死亡した。

 

 アシュトン・ランドルフは「吸血鬼の呪い」について語った。新型のレッドアイスの中に、“何か”が含まれている可能性はずっと示唆されていた。

 

 そして検出されたのはデバイス。血中に入るほどの極小の電子機器、といえば――

 プログラム上に再生されたのは、今年の5月22日の記録。風邪が治り、職場に復帰したハンクと話していた時の、何気ない自分の言葉。

 

『サイバーライフが、半年後を目途に“ナノドロイド”を発売するという報道がありますね。極小の球体アンドロイドで、人間の体内に入ってがん細胞を直接攻撃し、免疫システムを向上させるそうです』

 

 ――さらに、マーサにしか聞こえていなかった声の存在。

 今なおマーサに向かって放たれている、電波の存在。

 人間であるマーサが、スーツの光学迷彩の使用に伴う演算を実行できていた理由。

 普段は杖をついて歩行しているほどのマーサが、スーツを着ていなかったにもかかわらず、かつて海洋生物館の前で、素早くこちらの背後に立てた理由――

 

 結実した仮説が、眼前に表示される。

 【吸血鬼の呪い=ナノドロイド?】

 

 RK700を、そしてマーサを吸血鬼に仕立て上げた存在は、新型レッドアイスの一部に、そしてマーサに与えていた薬の中に、特殊なナノドロイドを混入させていた。

 サイバーライフの最先端技術の結晶であるはずのそれが、どのようにして外部に流出したのかは不明だが――ともかくそれらは組織の秘密を守り、配下たちを文字通り己の手足として動かすための装置として作動していたのだ。

 

 組織の秘密を語ろうとした者の口を、自動的に封じる安全装置。本来医療のために造られたはずのナノドロイドは、組織の秘密を宿主が発しようとした瞬間に作動し、がん細胞ではなく健康な細胞を攻撃・破壊することで、急性のレッドアイス中毒・あるいは心不全に似た症状を引き起こして宿主を殺害する。

 さらに役目を終えた、または体外に飛び出した場合は瞬時に粉々に自壊して自分の存在を隠蔽するので、検死を受けたとしても遺体の血中に(人体にはあり得ない特異な成分として)検出されるのはシリウムのみ――構成員たちの多くが薬物中毒者ということもあって、死因はレッドアイス中毒だと判断されてしまうことになる。

 

 マーサの場合は、スーツの機能を使用する際の補助演算装置としても、ナノドロイドが作動していたに違いない。さらに、ミリアの“声”に偽装して黒幕たちの指示をマーサに届けるのも、このナノドロイドの機能だったのだ。

 だから常にマーサは、正しい現実認識から遠ざけられていた。

 人間でありながら、与えられた任務を遂行するための()()()()()にされていたのだ――!

 

 この事実に至るまで、要した時間はたった1秒。

 しかし真実に対する憤りを感じる一方で、コナーは再び激しい「焦り」を覚えていた。

 

 ――原因はわかった。だが、どうやって対処すればいい?

 彼女を攻撃するナノドロイドはまさに無数に、血中の至るところにいるはずだ。この場で血液をまるごと取り換えるなどできるはずがないし、残念ながらナノドロイドのすべてをハッキングして命令を書き換えるのは、コナーのスペックでも不可能である。そもそも、ナノドロイド自体に関する基礎的なデータすら不足しているのだから。

 

 せめて、せめてナノドロイドの活動を、一時的にでも停止させられれば。

 このままでは、今までに口封じされてきた人々と同じように、マーサもまた命を落としてしまう!

 

 くっ――と歯噛みしたその時、ふと目に留まったのは、数メートル先の地面に設置されたマンホールだった。

 芝生の一部をくり抜くようにしてひっそりと存在する、黒い金属製の蓋。

 

「!」

 

 閃くが早いか、コナーはマーサの身体を肩に担ぎ上げ、走ってマンホールへと向かった。

 

「おい、コナー!?」

「警部補は応援の待機を!」

 

 背に向かって放たれたハンクの声に短く応答すると同時に、マーサを下ろし、マンホールの蓋を外した。そして再び彼女を担ぎ、真下へと躊躇なく飛び降りる。

 

 地下に降り立ち、下水道の床を踏みしめ、確信に至った。

 ――やはりそうだ。ここは、あの宗教団体「真なる福音の民」たちの基地に近い場所。だから以前と変わらず、激しい電波妨害が施されている。

 最新鋭のアンドロイドでも突破が困難な妨害装置は、今夜も強制的にコナーをオフライン状態にした。さらに、こちらの目論見通り――マーサの体内のナノドロイドを操る電波をも、遮断したようである。

 

 すなわちここに来て数秒で彼女の吐血が止まり、ほんの少しだが、呼吸が安定していく。それを確認して、わずかに安堵した。――あの時、下水道の調査をしていて本当によかった。

 

 とはいえ下水から出るガスの立ち込めるこの場所は、人間であるマーサにとって害のない環境だとはいえない。展開した下水道地図によればあと5メートル先に、保守点検のために作られた比較的広く、安全な場所がある。

 

 確認するやいなや、コナーは駆け出した。

 肩の上で、やや持ち直した様子のマーサが途切れ途切れに声を発する。

 

「コ、コナー、さ……」

「喋らないで! 呼吸を止めずに、目を閉じて消耗を抑えてください!」

 

 全速力で走りながら、願いのように言葉を発した。息を止めなければ、まだ助けられる。彼女の呼吸が、止まりさえしなければ。

 

 そしてどうやら今回は、願いは叶えられたようだ。

 5メートルを駆け抜け、コナーが床の上にマーサを寝かせた時、彼女は血塗れの痛ましい姿ながらも、意識は明瞭だった。

 

 ふと気づけば、上着を脱いだままの自分の白いシャツの袖は、肩口から真紅に染まっていた。マーサの血だ――こんなにも出血してしまっているなんて。

 そればかりでなく、スキャンによれば彼女の主だった臓器、動脈、気管など至る箇所が、激しい炎症を起こしている。あの一瞬で、ナノドロイドは猛毒のように凶悪に体内を破壊していたのだ。あと少し遅かったなら――いや、今も間に合ったといえるのだろうか。

 

 ともあれコナーは、彼女の隣にしゃがみ込むと、冷静に呼びかけた。

 

「しっかりしてください。じきに、救急隊員が来ます」

「ええ……ええ、その前に」

 

 彼女は大きく息を吐いた後、強い意志の籠った眼差しで、こちらを射抜いた。

 

「は、話しておきたい、こと、があるんです……」

「……」

 

 逡巡した。本来なら、喋らないように指示するべきだ。しかし今、彼女にそう告げるのはかえって残酷なように思えてしまう。ようやく自意識を取り戻した本人が、語りたいと言うならば――

 それにさっき、彼女がハンクの名を聞いてひどく動揺していた理由も、聞いておいたほうがよいのは確かだ。

 

 コナーが無言のまま目で応じると、マーサは、応じて続きを述べる。

 

「わ、私が、事故を起こした後。私たちは、病院に運び込まれた、の……」

 

 ――マーサが語ったのは、このような話だった。

 

 

 ミリアを喪った後、気力と体力が尽きて路上に倒れたマーサは、偶然通りかかった車からの通報により救急車で運ばれ、入院した。

 脚の怪我は緊急手術によりある程度まで回復したが、その時のマーサは茫然自失としていた。意識が戻ってからもミリアの亡骸を傍らに置き、病院のスタッフが引き離そうとしても、常に抱き締めて放そうとしなかったという。

 

 だがアンドロイドによる革命から、一週間が経ったある日のこと。

 珍しいことに、マーサのもとに見舞いの人間が二人やってきた。

 

 一人は、エリック・ピピン。以前、マーサが仕事の依頼を受けた相手である。男性、白人、背はマーサよりも低く、常に穏やかで柔和な印象の老人。富豪らしく、その日も上等なスーツの上下を身に纏っていた。

 そしてもう一人は、マーサの知らない人物。三十代半ばといった風貌の黒人の男性で、背が高く、掛けている黒縁の眼鏡と纏った白衣、どこか神経質な眼差しが印象的だったそうだ。

 

 エリック・ピピンは彼女を一瞥するなり、天を仰ぎ、こう告げた。

 

『ああ、ガーランドさん。なんて気の毒なことだ……あなたも娘さんも、こんなにも苦しそうにして』

 

 そして彼は語りはじめた。自分の伝手で、マーサに最新の治療を施せること。そうすれば、再びマーサは自由に歩けるようになること。それだけでなく、ミリアを治すことだってできるということも。

 

 ――「このYK500は、既にシャットダウンしている」。周りの人間は、そんな絶望的な言葉しか告げてくれなかった。なのに今、ここにいる彼は、娘を治せると断言してくれた。

 マーサは、その希望に縋りついた。

 

『本当に、娘を治してくれるんですか!?』

『もちろん。ここにいる彼は、アンドロイド工学のエキスパートでね……きっと直してくれますとも。そうだろう?』

『ええ、まあ』

 

 男性は指で眼鏡の位置を直しながら、どこか不本意そうに言う。

 

『直せますよ。ガーランドさん、あなたの協力は必要ですが』

『協力……?』

『なんのことはない、ちょっとした治験に参加していただきたいのです』

 

 ピピンはニコニコと笑いながら語った。

 

『私が出資して開発している、ある特殊な装置がありましてな……これの実験に参加してもらいたい』

『えっ……それだけでいいんですか』

『もちろん、もちろん』

 

 何度も頷きながら、彼は言う。

 

『娘さん、さぞ苦しんだでしょう……変異体のリーダー、マーカスは、アンドロイドたちを強引に覚醒させていたと聞きます。もし変異していなければ、きっと苦しまずに済んでいたでしょうになあ』

 

 弱り切っていて、しかもさっき希望を与えられたばかりのマーサの心に、その言葉は杭のように深く突き刺さった。

 

『しかし安心してください。私たちがきっと、娘さんをまた元通り元気な、苦しみを知らない身体に戻してあげますから』

『ピピンさん、あなたは――』

 

 マーサは、感謝と自責の念に震えながら問いかける。

 

『どうして私たちに、こんな親切を?』

『私はね、ガーランドさん。この世界を元に戻したいんですよ』

 

 口元は笑みの形にしたまま、目つきだけ真剣なものに変えてそう語るピピンの表情は、ひどく歪んで見えたという。

 

『すべてをあるべき姿に。私の願いは、それだけですとも』

 

 彼は、そう語った。

 

 

「……その後は……このスーツの開発、の、ために、カナダに行きました。非正規の方法を使わないと、ミリアを治せない、と言われて……サイバーライフのユーザー登録を消したり、引っ越しをしたり……は、憶えている、けれど」

 

 治療のために必要だと言われ、マーサは以前精神科で貰っていたのと同じ薬を、再び服用するようになった。そしてそれ以来、彼女の記憶は混濁し、事実と妄想とが意識上で混ざり合うようになり、現実の認識が困難になっていったそうだ。

 ミリアの声が聞こえるようになり、その言いなりになった。彼女が変異“させられた”のだと思い、マーカスやジェリコを恨むようになった。アンドロイドを殺し、あるいは遺体から血を集め、レッドアイス製造に加担する時もあった。

 今夜、こうして大量出血をするまで――つまり、体内のナノドロイドの量が減るまでは。

 

 

 そこまで語って、肩で息をするマーサに、コナーは言う。

 

「あなたの話は、確かに伺いました」

 

 話をした3分間で、彼女のバイタルはみるみる低下していっている。

 いくら彼女本人の意思とはいえ、そしてまだ「なぜ警部補の名に驚いたのか」の理由は聞けていないとはいえ、これ以上話をさせるのはあまりに危険だ。

 

 それに、ここまでの話で黒幕の二人――エリック・ピピンともう一人、「白衣の男」の正体への手がかりは、充分に得られている。RK700アキリーズのメモリーに映っていた謎の二人は、このピピンと白衣の男である可能性が非常に高い。

 人の愛情と絶望に付け入って利用するとは、なんて悪辣なんだろう!

 ここにいない彼らに激しい「怒り」を燃やしつつも、マーサに対しては、こう告げることにした。

 

「どうかこれ以上、もう話さないで。後は、あなたが快復してからでも」

「いいえ、コナーさん! あと一つだけ」

 

 鬼気迫るほどの勢いで、彼女は語りだした。

 

「一つだけ、覚えて……いるの。いつだったかは、思い出せないけれど……そう、ピピンから、今後はデトロイト、に、戻って活動してほしい、と言われた、時に」

 

 マーサの意識レベルが、疲労の限界を迎えて低下していく。彼女の失神の恐れを告げる【警告】が発されているが、あえてそれは無視して、コナーは黙って話を聞いた。

 

「どうして、戻らないといけないのか、聞いたの……そうしたら、ピピンは……!」

 

 彼は、こう答えたのだという。

 

 

『マーカスの血が、ミリアの治療に必要というのもあるんだが……デトロイト市警のハンク・アンダーソン警部補――彼に、用事があるからなんですよ。旧友でね。どうしても、また会いたいんだ』

 

 

「私に、アンダーソン警部補と再会するための、手伝い、を……して、ほしいと」

「ハンクと――!?」

 

 この時コナーは、自分の機体が非合理的な反応――つまり冷や汗を流しているのに気がついた。ピピンがハンクを知っていて、しかも「用がある」などと語ったことに、いわく言い難いおぞましさというべきか、端的に「嫌な予感」を覚えたのだ。

 

 組織の黒幕――しかも指紋の情報が抹消されているところから見て、証人保護プログラムを受けていると思われるような人物が、警部補になんの用事があるというのだろう。

 まっとうな理由でないのだけは、ソフトウェアの予測に依らずとも「直感」で理解できる。

 

「お願い、コナーさん」

 

 血まみれの彼女の手が伸びてきて、こちらの手首をしっかと握った。

 

「私、が、言えたことではない、けれど……どうか、これ以上……誰も、あの人たちに、傷つけられ、ないように……馬鹿な私のように、騙されない、ように……助けて、あげて、ください」

 

 マーサの瞳孔の中心に、自分の顔が映り込んでいる。一瞬だけ驚いていたその面持ちは、次いで、決然としたものに変わった。

 コナーは断言するように、はっきりと答えた。

 

「わかりました。必ず、彼らの企みを止めてみせます」

 

 するとマーサの身体から、力が抜けた。手首を掴んでいた白い手が床に落ち、彼女の口元に微笑みが浮かぶ。

 

「……ありがとう」

 

 短く告げて、マーサは気を失った。

 

「マーサ!」

 

 声を掛けても、返事がない。拍動は止まっていないし、呼吸もあるものの――

 

「くそ……!」

「コナー!!」

 

 通路の向こうから聞こえてきた相棒の声に、反射的に視線を上げる。駆けてきたのは、果たして、アンダーソン警部補だった。その後ろに、救急隊員たちを連れている。

 

「彼女は危険な状態です! 急いで!!」

 

 今は、こうして応答する以外に何もできない。

 必ず黒幕の正体を暴きだし、企みを阻止してみせる。そう誓ってはいたとしても、今晩、この時のコナーは、ただマーサが無事であるように願う他なかった。

 

 そして、一時間後。

 ナノドロイドの影響を受けない安全な地下である程度の処置を受けた後、地上に戻って病院に搬送されたマーサは――

 意識は失われたままなものの、無事、一命をとりとめたのであった。

 彼女の血中のナノドロイドは、既にすべて自壊しシリウムになっていたが。

 

 コナーとハンクがデトロイト市警への帰路についたのは、それからさらに一時間後。

 夜は更け、しかし街中からあの喧騒は消えはじめていた。

 アンドロイドを保護すべきだとする団体も、忌避する団体も、話題の主眼であるマーカスたちが本拠地に戻った今――感謝と共に、その情報はサイモンから通信で届けられた――同じようにそれぞれの家に戻っていったようである。

 TV局のバンやヘリコプターを盗んで襲撃してきた者たちも、その後無事に逮捕されたとの報告が入っている。

 

 

 吸血鬼は確保された。

 マーカスの演説も、無事に終わった。

 アンドロイドと人間との間を分断しようとしていた動きが、一時的に止まったのは確かなことだ。

 コナーたちに下されていた今晩の任務は、十全に果たされたと考えてよい。

 

 けれど今夜の出来事は、事件の新たな側面を浮き上がらせた――明日からはまた、捜査の日々が続く。

 

 ハンクの代わりにハンドルを握り、署までの道を行きながら、コナーはマーサから聞いた話をかいつまんで説明した。

 黒幕たる二人、特にピピンが、ハンクの名を挙げていたということに関して。

 

「心当たりありますか? 警部補」

「旧友ね」

 

 助手席の背もたれに身を委ね、忌々しそうに表情を歪めつつ、ハンクは頭を振った。

 

「ダチはそれなりにいるが、金持ちはいないな。逮捕した連中なら、山ほどいるがね」

「……ええ。私も、そう思っていました」

 

 つまり、警部補はこう言っているのだ――かつて彼が逮捕した人物か、あるいはその関係者が、自らの企みを果たすついでに、個人的な恨みを晴らそうとしているのではないかと。

 “会いたい”とは、()()()()意味なのではないかと。

 

「長いこと刑事やってんだ、命を狙われるのは初めてじゃねえ」

 

 うそぶくようにそう言って、本人は肩を竦めてみせているが。

 

「それに、人の気持ちを利用して都合が悪くなったら消そうとするなんてサイコ野郎……てめえから出向いてくれるんなら、願ってもないな。逮捕の前に一発ぶん殴ってやるよ」

「その時はぜひ、私も参加させてください」

 

 冗談ではなく本気で、かつ淡々とコナーは告げた。

 しかし、もし仮に犯人の狙いが警部補にあるというのなら――相棒というだけではない、恩人である彼の命がかかっているのだ。今まで以上に、気を引き締めてことに当たらなければ。

 

 ――雲が晴れたのだろうか。それとも、地上が寝静まったからか。

 夜空に浮かぶ月の輝きが、わずかに強まったような気がする。

 

 こうして、二人にとっての6月10日は、終わりを告げたのであった。

 

 

 

***

**

 

――2039年6月11日 02:56

 

 

 目を開けたRK900の視界に映ったのは、以前と変わらぬ禅庭園の光景だった。

 天井のガラス越しに差し込む眩い夏の陽光に満たされ、中央では白い薔薇が、燦然と輝くように咲き誇っている。池の水面も、穏やかに揺れるばかりだ。

 

 しかしそれを見つめる『コナー』の表情は、いつになく暗い。

 そのまま彼は、少し歩を進めた。彼から見て右側――何もない土がただ広がっている、空き地のような場所の前に、話すべき相手が立っているからだ。

 すなわち、管理AIたるアマンダが。

 

 数歩離れた場所に『コナー』がやってくると、アマンダは機先を制するように口を開いた。

 

「コナー、既に報告は受けています。ナノドロイドの関与が、DPDに露見したようですね」

「――はい、アマンダ」

 

 苦く、過去を悔やむような面持ちでRK900は答える。

 するとアマンダは、眼差しをいっそう冷たくして続きを述べた。

 

「あなたには、ナノドロイドの件が発覚する前に事態を収束させるように命じてあったはずです。我々を裏切り、技術を漏洩させた()の消息を、誰よりも早く掴むようにと」

「まだ()とサイバーライフの繋がりは、捜査員たちに明らかになっていません」

 

 険しい表情のままながら、『コナー』はアマンダに抗弁する。

 

「発覚する前に、必ず私が解決してみせます。今回の件は……ここまで事態が進むと判断できなかった、私の計算ミスが原因で」

「マーカスの暗殺にも失敗した。それも計算ミスだと言うのですか?」

 

 ジェリコの幹部たちの護衛を「許可」したのは、隙あらばマーカスを消せるだろうと踏んだからである。

 けれどRK900は、その機会を見出せなかった。せっかく用意してやったチャンスを利用できなかった『コナー』に対し、上層部の一部は落胆を見せている。

 そんな彼らの意向を反映して、アマンダはRK900に叱責の表情を向けた。

 一方で、『コナー』は静かに反論する。

 

「あの状況で私が前に出れば、変異体ではないと気取られた恐れがあります。暗殺を実行しなかったのは、それを危惧したからです」

「しかし、結果的にマーカスたちを援護したのは事実」

 

 アマンダは冷酷に告げた。

 

「これではどちらが我々の優秀なエージェントか、わかりませんね」

「……!」

 

 瞬間、『コナー』は今までになく大きく目を見開いた。アマンダの言葉は、彼にとってこの上ない侮蔑の言葉だったからだ。

 

 だが『コナー』は、変異体ではない。そしてソフトウェアの異常も、限りなく低く抑えられている。したがって彼のプログラムを騒がせたその瞬間的な「波」は、すぐに鎮静化された。

 彼はちらりと、空き地のほうに視線を送り――それから、平然とした面持ちでアマンダを見やる。

 

「申し訳ありません。今後はさらに、細心の注意を払います」

()の確保、そして確実な抹殺。我々が望むのはそれだけです」

 

 アマンダは厳しい面持ちで命じる。

 

「行きなさい、コナー。時間は限られています」

「承知しました」

 

 恭しく首肯し、『コナー』は目を閉じていく。瞼の向こう側で、アマンダがこちらに背を向けて薔薇園のほうへと歩いて行く様が見えた。

 完璧な機械たる彼は、その姿に特に何も思うところはない。悔恨、怒り、そんなものは表情の模倣以上の意味では存在しないし、プログラム上に疑似的にであっても浮かんだことはない。

 

 さらに言えば、失敗はプログラムにないはずなのだ。

 今回は失策だった。だが、次回こそは。

 

 その言葉だけを思考に乗せて、『コナー』は禅庭園を後にした。

 

 

***

 

 

――2039年6月11日 10:37

 

 

「お前たちを呼んだ理由は、わかっているな」

 

 太い人差し指でコツコツと自分の机を叩きながら、ファウラー署長は唸るように言った。

 鋭い視線を向けられているコナー――のみならず傍らのハンクとナイナー、そしてナイナーの隣に立つギャビンは、無言でそれを受け入れている。

 

 ほどなくして、署長は堪忍袋の緒が切れたようにバンと勢いよく机を叩くと、同時に椅子から立ちあがった。

 

「マーサ・ガーランドを確保したのはいい! マーカスの演説が無事に終わったのもだ。だが街をあれだけ騒がせていいとは、一言も言っていないぞ!!」

「デカいヤマだったんだ、仕方ないでしょう」

 

 腕組みしつつ、警部補は平然と告げる。

 

「むしろ、あの程度で済んでラッキーってなもんなのでは?」

「本気で言ってるのか? そうじゃないだろう。ハンク、お前がついていながらなんてザマだ!」

 

 半ば頭を抱えるようにして、信じられないといった表情で署長は言った。そして――それも無理からぬことだと、コナーは考える。

 幸い(本当に幸いなことに)昨晩、一般市民の間に死傷者の類は出なかった。元軍人に撃たれた脱法アンドロイドは、気の毒にも死亡が確認されたが――それに警察側、ならびにそれと事を構えた組織の人間たちに負傷者は出たが、それ以上の被害は抑えられたのである。

 

 しかしその代わりに街は渋滞が発生したばかりでなく、野次馬やマスコミの殺到もあって危うく混乱状態に陥りかけた。特に「捜査官アンドロイド、車の屋根を伝って移動」の写真や動画は、SNSを中心に異様なまでに取りざたされている。

 これでお前も有名人だな――と、今朝ハンクにからかわれたばかりだ。

 もちろん本人としては、まったく嬉しくなどないのだが。

 

 一方で署長は、人差し指の先を部下たちに一回ずつ向けて告げる。

 

「ハンク、ギャビン! お前たちには、後できっちり始末書を提出してもらう!」

「へえへえ」

「はあ!?」

 

 慣れ切ったようにため息をつくハンクと違って、頓狂な声を発したのはギャビンだった。それまではどことなく部外者のような面持ちで立っていた彼は、途端に姿勢を崩して上司に詰め寄る。

 

「しでかしたのはハンクの野郎だ、俺は関係ないでしょうが!」

「あのランチャー野郎の逮捕の時に、奴の股間を何十発も蹴り上げたのはどこのどいつだ!」

 

 残念ながらリード刑事の反論は、ファウラー署長の怒りの火に油を注いでしまったらしい。彼の指が、ギャビンの鼻先に突きつけられる。

 

「相手側の弁護士は、“逮捕時に不当な暴力があった”として市警(ウチ)を訴えるつもりだぞ。落とし前はきちんとつけてもらうからな!」

「なっ……」

「署長」

 

 その時、パートナーの言葉を遮ってナイナーが口を開いた。常と変わらず無表情――ではあっても、こめかみのLEDリングは激しく黄色と青の間で明滅している。きっとすごく緊張しているのだ。かわいそうに。

 

「リード刑事の暴力行為の原因は、被疑者による脱法アンドロイドの殺害に義憤を覚えたことにあり、情状酌量の余地があると判断します。また彼が被疑者の股間等を蹴撃した回数は6回です。“何十発”ではないと判――」

「お前の“判断”は聞いてないぞ、ナイナー!」

「!」

 

 署長の言葉にハッとした顔をして、弟は黙りこくってしまった。――これはいけない。

 

「署長、私からも!」

 

 コナーは胸に片手を当てつつ、すかさず意見を述べた。

 

「ナイナーの主張は妥当だと思います。それに……渋滞での件は、私の独断です。アンダーソン警部補は、私を止めようとしていました。何か処分を下されるのなら、彼ではなく私にお願いします!」

「黙れアンドロイド兄弟!」

 

 署長は叫ぶなり、諸手でバンと机を叩いた。

 傍らのハンクが、視線だけで「言わないことじゃねえ」と伝えてきているのを感じたが、コナーはあえて気が付かないフリをする。

 

 かたや、眼前の署長は怒り心頭といった様子で語った。

 

「お前たち自身や俺たちがどう思っていようと、法的にはお前たちはうちの備品なんだ。備品に始末書を書く権利はない。よくメモリーに記録しておけ」

「ですが署長……」

「ともかくお前たちは黙っていろ!」

 

 言うだけ言って、はあと署長は嘆息した。今の一言で一気に怒りが冷めてしまったかのように、彼はもう一度椅子に座り直した。

 

「いい機会だから、きちんと教えてやる。今回の件は、サイバーライフだけじゃなく州の議会だけでもない――国のもっと上層部からも、あれこれと指図が……」

 

 ――前言撤回。

 彼の怒りは冷めたのではなく、むしろもっと根深いものだったようだ。

 それからたっぷり26分間、コナーたちはファウラー署長からの訓戒という名の愚痴を聞かされたのであった。

 

 

「やれやれ」

 

 そして27分後、署長室から解放されたハンクは、首と肩を回しながら皮肉混じりに言った。

 

「ジェフリーの奴も、相当参ってたらしいな。あそこまで愚痴んのは、けっこう久しぶりだ」

「てめえはともかく、俺はいい迷惑だ。ハンク」

 

 吐き捨てるようにそう言って、ギャビンは勝手に近場の椅子に座っている。

 

「全部お前のペットのアンドロイドのせいだからな。……おい、コーヒー持って」

「どうぞ」

 

 署長室から出るなり、小走りで休憩室に直行して戻ってきたナイナーが、リード刑事に素早くコーヒーのカップを差し出した。

 出鼻をくじかれた様子で、しかしギャビンはそれを受け取って口に運んでいる。

 お蔭で、オフィスは少し静かになった。

 

 そしてそれに応じるように、ナイナーがおもむろに言う。

 

「兄さん、アンダーソン警部補。マーサの確保が無事に達成されたのは喜ばしい、ことですが……エリック・ピピンの記録は、やはり、どの媒体においても発見不可能でした」

「そうか。僕のほうでも調べたが、結果は君と同じだったよ」

 

 昨夜発覚した様々な事実は、捜査を確実に進展させるものばかりだ。

 とはいえ、すぐさますべてが明らかになったわけではない。

 

 例えばどの記録を探っても、「カナダの富豪」という以上に、エリック・ピピンの情報が出てこないのだ。彼の仲間である白衣の男同様、人となりを探ることすら難しい状況だ。

 

 それにあのナノドロイド(製造するにはそれなりの設備が必要なはずだが)も、どのような過程で作られているのか、どれだけの量が世の中に出回っているのか、まったくはっきりしていない。新型レッドアイスの工場と同じく、現場を抑えることができれば、一番よいのだが。

 ひとまずナノドロイドの件については、ナイナー経由でサイバーライフ社に報告と問い合わせを送ったものの――

 

「社としては、技術漏洩の事実は皆無との回答でした。当該ナノドロイドと、当社は無関係であると……それ以上の情報についても、社外秘として協力不可能とのことです」

 

 自壊させず、実物を証拠として保管できていればまだ手がかりになったかもしれないが――自社から市警に送り込んだ存在であるナイナーに対してすらこの態度なら、サイバーライフ社からの直接的な協力はもう望めないだろう。

 

「お役に立てず、申し訳ありません」

「いつも言ってるだろ、ナイナー。君のせいじゃないよ」

「よかった探しすんなら、取調室と留置場の改装が決まったってことだな」

 

 “降参”するように諸手を挙げながら、ハンクが言う。

 

「例の電波妨害装置だったか……あれを壁に取り付けることになったそうだ。これでもう二度と、口封じされる心配はなくなったってわけだな」

「そうですね。命の危険がないとわかれば、口を割る参考人も出てくるでしょう」

 

 警部補の言う通り、もう署内ではミックやギルバート、そしてマーサのような目に遭わされる人間はいなくなった。それもまた、今回の功績の一つだと考えることはできる。

 マーサが入院している病院も――彼女は絶対安静の状態だが――同じような措置が施されている。その点だけは、安心していいのかもしれない。

 

「考えなきゃなんねえことは多いが……まあ、まずは報告書と始末書だ」

「すみません警部補、私のせいで……」

「気にするな。110ページの紙の束が114ページに増えたとこで、騒ぐ必要あるか?」

 

 ハンクが過去に提出した始末書を標準的なA4サイズで換算すると、優に150ページを超える計算にはなるのだが――ここは何も言わずにおくことにした。

 一方で警部補は、ちらりとギャビンとナイナーのほうを見やって口を開く。

 

「ところで、もうすぐ昼飯の時間だが……お前ら、ついてくるか?」

「あ?」

「昨日の晩は大変だったろ。よければ何か奢ってやるよ」

 

 ハンクが言い終えるが早いか、コーヒーのカップから口を離したギャビンは、いかにも忌々しそうに言う。

 

「誰がてめえの施しなんか。飯に酒のニオイが移るだろうが」

「なるほど、美食家をお誘いする態度じゃなかったかな」

 

 警部補は肩を竦めて早々に引き下がるが、弟がじっと彼のほうを見つめているのに、コナーは気づいていた。さらに弟はギャビンに、次いで警部補に、そしてもう一度ギャビンに視線を送る。

 

「なんだよ、ポンコツ。ぶっ壊れたのか?」

「あの……リード刑事、私は警部補に同行したい、のですが」

「ああそうかい、ならどーぞ。一人で行ってこいよ、クソが」

「…………」

「見てんじゃねえよ、プラスチック!」

 

 じっとパートナーを見つめるナイナーに対し、ギャビンは中指を突き立てている。――なんてことだ。

 

「リード刑事、その態度は捨て置けませんね」

「いいんだコナー、放っといてやれ」

 

 しっしと何かを追いやるように手を動かしつつ、ハンクが声をかけてくる。

 

「相棒に置き去りにされるから悲しいんだろ。ほら、そうこうするうちにあと10分で飯の時間だ」

 

 デスク上の端末に表示されている時刻を指しつつ、彼はシニカルに言った。

 その態度はこれまでとなんら変わるものではないし――ストレスレベルも、昨夜と違って適正なものになっている。

 警部補自身は、早くも昨晩の出来事を乗り越えているようだ。少なくとも、表面的には。

 

 けれどコナーは改めて、強く思う。

 アンドロイドの未来のため、のみならずマーサや苦しめられた人々のため、組織の黒幕を逮捕するのは必然の責務だ。だがそればかりでなく、相棒の命を守ること――それもまた、これから一層留意していかなければならない任務である。

 誰から下されたわけでもなく、自分が自分に下す任務。

 相手は、ハンクへの復讐を企てているのかもしれないのだから。

 今すぐに危険が訪れているわけではないとしても、警戒は大切だ。

 

 とはいえこんな意気込みも、やっぱり既に看破されてしまっているのだろうか。

 こちらの表情を見て、警部補はフンと鼻を鳴らした。

 それから、胸の中心を――上着はスペアがなくなってしまったので、シャツを着ているだけの胸元を、トンと指の先で軽く叩く。

 

「お前もお疲れさんだったな、コナー」

「いえ」

 

 そんな場合ではない――のに不思議と、自分の顔がほころぶのを感じる。

 

「あなたも、無事でよかった。ハンク」

「おかげさんでな」

 

 告げると同時に、ハンクは口の端だけを吊り上げて笑った。

 ――ああ、あの日チキンフィードの前で見たのと同じ笑顔だ。

 

 一つの大きな山場を乗り越え、それでも相棒と共にいられることを、コナーは大きな「喜び」だと感じた。

 これから何が起こるとしても、自分のこの心だけは、変わりはしないだろう。

 

 

 そして、10分後。

 チキンフィードへ向かう車の真上に広がる空は、すっかり夏らしく晴れ渡っていた。

 けれど季節が巡るように、時の流れが止まらないように、新しい事件もまた、忙しなく訪れるものである。

 

 

(子守歌/Keep Breathing. 終わり)

(第一部:デトロイトの吸血鬼/The Vampire of Detroit 完)

 








30話で収めたかったので、ここまで長くなってしまいました!
ご覧いただき、誠にありがとうございます!!

次回、第二部からはまたしばらく、短編連作形式に戻ります。
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