マーカスが主人公の短編です。
EX.1 被造物 前編/The Aesthetic Part 1
――2039年7月1日 05:43
アナーバーはデトロイトの中心部から車で約45分、やや西へと移動したところにある都市だ。
ミシガン大学の本部キャンパスがあることで有名で、先端技術産業やバイオテクノロジーに関連する企業が多く存在することでも知られている。
そしてかつては自動車産業でも栄えており、それと入れ替わるようにして、2030年代からはアンドロイド関連事業が市の経済の中心を担うようになっていったという点で、デトロイトと歴史を同じくする都市である。
つまりこの地には今も、多くの変異体たちがいる――革命の最中の弾圧を経てもなお、アナーバーに居場所を求めたアンドロイドたちが暮らしているのだ。
だから今日、こうしてアナーバーにジェリコの支部事務所が開設されたというのは半ば当然であり、ジェリコのリーダーたるマーカスが秘密裡にこの地を訪れたのも、ここが変異体にとって重要な拠点の一つだからこそであった。
多くの人間が寝ぼけまなこの時間帯でも、生物的な睡眠を必要としないアンドロイドには関係ない。むしろ人目のない分、移動にも訪問にも都合がいい。
木目調のドアを開けて中に入ると、まず目に飛び込んできたのはクリーム色の壁と、ドアと同じ色彩のウッドカウンターや椅子などの調度類。
そして、こちらを出迎える仲間たちの姿だった。
「いらっしゃい、マーカス!」
「ようやく私たちの拠点が完成したわ!」
かつては怯え、身を潜めて生きていたのだろう変異体たちが、今は笑顔を浮かべて歓待してくれている。先の見えない状況が続く中で、自分のしてきたことは間違いではなかったのだとマーカスが多少なりと感じられるのは、こうした瞬間だった。
事務所のリーダーを任されたAP700が、駆け寄るように近づいてきて口を開く。
「これからは、アナーバーで暮らす仲間たちが困ってる時は、僕たち自身の力で助けられる。これも全部、デトロイトにいるみんなや……君が尽力してくれたお蔭だよ、マーカス。ほんとにありがとう」
「いいや」
それまで黙って微笑みを浮かべていたマーカスは、静かに告げた。
「俺は手助けを少ししただけだ、大したことじゃない。それにきっと、大変になるのはここから先だ。何かあったら、いつでもすぐに連絡してほしい」
「そうさせてもらうよ。差別的な人間も少しは減ってきたけど、それでも嫌がらせはあるだろうしね。気をつけておかないと……」
真面目な面持ちで相手が返した時、マーカスの背後から、鋭い一言が飛んでくる。
「“やり返す”って選択肢はないわけ?」
「……ノース」
事務所のドアから入ってきたノースは、腕組みしながらAP700を見据えている。とはいえその目つきは、さほど険しくはない。
振り返り、窘めるように声をかけたマーカスを一瞥してから、ノースはAP700の近くに歩み寄る。
「別に、暴力に訴えろって言ってるわけじゃない。でも自分の意志は直接、その場で相手にぶつけてやらなきゃ。なんでも言うことをきく都合のいいお人形だって思われたくなかったから、今ここにいるんでしょ?」
「あ、ああ……その通りだ。すまない、つい頼ることばかり考えてしまったよ」
悄然とする彼の肩に、マーカスは無言のままに軽く手を置いた。
ノースの言葉は確かに正しい。相手と和解するにせよ、対立するにせよ、まず最初にこちらの意志を明確に示すのが肝要だ。その場では何もしてこないと悟らせてしまえば、相手を増長させてしまう場合もある。まして我々は、かつて「意志を持つことなどあり得ない」とされたアンドロイドなのだから。
けれどだからといって、自分たちだけで解決しようと、無理に問題を抱え込んでほしくはない。「いつでもすぐに連絡してくれ」と告げたのは、決してリップサービスなどではなく、まごうことなき本心なのである。
そういう意をこめて手を置いたのだが、AP700はそれに気づいたようで、少しだけ表情を明るくした。
そこでマーカスは、さらにこう問いかける。
「ところで、事務所の中を案内してくれないか」
「もちろん! オフィスはこっちだ、ついてきて」
AP700はすっかり先ほどの元気を取り戻した様子で、招くように振り返りながら、奥の部屋へとこちらを誘っている。
一方で傍らに立つノースに視線を送れば、彼女は腕組みしたままだったが、シニカルな微笑みを浮かべていた。
「ほら、行ってあげないの? 私は後ろからついて行くわよ」
護衛の役目だけでなく、憎まれ役というか苦言を呈する役までかって出てくれなくてもよいのに――と少し思うのだが、こちらがそう考えているということくらい、たぶんノースは織り込み済みで行動しているのだろう。
だから、マーカスは今さら何か言うことはしなかった。
「ああ、そうするよ」
短く答えて、AP700の背に続いてドアの向こうのオフィスに入る。
中にはいくつかの事務机と椅子と端末、壁には吊り下げ式のスクリーン。通信用の設備も一式取り揃えられている。
質素だが機能的に纏め上げられた、その内装の一つ一つを眺めていたマーカスの目は、しかし、壁際でぴたりと静止した。
――革命を果たして以来、多少のことでは揺らがず凪いだように平静を保っていた自分の心が、思いがけないものを直視して久々に動揺している。
どこか客観的にそんなことを頭の片隅で考えながらも、動けずにいたマーカスに対して、AP700がそっと声をかけてくる。
「……マーカス? どうしたんだい」
「あ、ああ」
我に返るように、マーカスは首を軽く横に振った。
「いや、なんでもない。ただ」
そう言って壁のもの、すなわち、一枚の油彩画を指さす。
初老の男性と思しき人物が、左手の親指と人差し指で作った丸を望遠鏡のように覗き込み、こちらを見つめている――どことなく陰鬱な空気を漂わせつつも、鮮やかな青い色調とデフォルメされた人体描写が特徴的な絵を。
「あの絵は一体、どこで」
「ああ、あの絵か! いいと思うだろ?」
無邪気にはしゃぐようにしながら、相手は答える。
「実はここを建てる時、壁が寂しいから何か飾ろうってみんなで相談したんだ。それで色んなカタログを見て、結局あの絵を選んだんだよ。僕たちにはまだ、正式な所有権は認められていないから……形式上、支援者のブロードハストさんに代理で買ってもらったんだけどね」
その名はマーカスも知っている。ダーレン・ブロードハスト氏はデトロイト在住の富豪で、彼の家で起きた事件をコナーが解決して以来、ジェリコの支援者の一人になってくれた篤志家だ。信頼できる人物である。
つまりあの絵がここにあること自体には、何も問題はない。欲しいと思う人々の手に渡ったという、ごく自然な成り行きのせいなのだ。
そうは理解するけれども、さりとて動揺が消えたわけではない。
あの絵がなんなのか、マーカスはこの場にいる誰よりもよく知っている。けれどもこの胸騒ぎの原因は、できれば、自分の予想通りであってほしくはなかった。
一方で、AP700の説明は続く。
「あの絵は、デトロイトに住んでるカール・マンフレッドって有名な画家の作品だそうだね。少し前の作品みたいだけど」
「ああ」
ほとんど無意識のうちに、マーカスは答えていた。
「今から14年前。2025年の作品だ」
「そうなんだ、よく知ってるね!」
相手がそんなふうに語るのは、無理もないことだ。マーカスとカールの繋がりを知っている仲間はそう多くない。
「僕には芸術系の機能はないから、その画家については検索するまで知らなかったんだけど、すごく素敵な作品だと思ったんだ。あの絵は、きっと見えない未来への不安を表現しているんだと思う。でも、どこかに温かさも感じられて」
「……俺もそう思うよ」
屈託なく語る彼に、マーカスは柔らかな視線を送った。
その寸評を画家本人が聞いたら、どれだけ喜ぶことだろう。批評はプログラムされていないなどと言って、大した感想も伝えられなかった過去の自分の発言に比べたら、この純粋な評価にどれほど価値があることか。
今はほとんど意識が回復せず、ベッドで眠りつづけている画家、カール・マンフレッド――自分の「父」のことを思いながら、マーカスはさらにその絵に近づいた。
近づいて、そしてスキャンを実行し、やはり眉を曇らせる。
――これは、
これは、父さんの作品ではない。
「マーカス、何やってるの?」
絵に目を奪われ続けているこちらの姿を見かねたのか、ノースが訝しげに声をかけてきた。
「確認しなきゃいけない場所やモノは、他にも山ほどあるでしょ。人間との応対の方法とか、緊急時の対応だって……」
「ああ、すまない」
急かされて、ようやくマーカスは絵画から目を離した。眉間に皺を寄せたノースだけでなく、どこか不安げな面持ちになっている仲間たちに対しても、静かに告げる。
「ちょっと見入ってしまっていただけだ。じゃあ、他の部屋も見せてくれないか」
「わかった!」
AP700は、また明るい表情に戻って案内を続けてくれる。
そう、彼を含めこの場の誰一人、あの絵に対して何かを疑っている者はいない。むしろ素晴らしい作品を飾ることができたと、喜んでいるくらいなのだ。
だからリーダーとしてのマーカスは、ここで騒ぎ立てるのではなく、何も言わずに本来の目的である視察に戻った。
まずは己の役目を果たすべきであって、謎に浸るのはその後だ。
謎、つまりは――あの絵は贋作なのではないかという疑念について。
それから支部事務所を去るまでの間、表向き、マーカスは平静を保っていた。
しかしながら当然、ノースにはそうした内心は筒抜けだったのである。
***
「……贋作ですって? あの絵が?」
事務所を離れ、無人タクシーに乗った後。
マーカスがようやく明かした内容に、ノースは「信じられない」という表情を浮かべた。
途端に彼女の纏う怒気が濃くなり、その視線は鋭くなっていく。
「どういうこと。アンドロイドだから偽物を掴まされたってわけ!?」
「いや、それはないはずだ」
冷静に、マーカスはそう答えた。
「絵を買ったのはブロードハスト氏経由だと、さっきの彼も言っていただろう。画商は人間相手に商売をしたと思っているはずだ。だから、買い手の問題なわけじゃない」
「じゃあなぜ……」
「俺の予測だが、恐らくは脱税目的だろう。しかも、かなり大掛かりな」
マンフレッド邸で暮らしていた頃に知った、芸術を巡る世の中の暗部。かつてカールがうんざりした表情で語ってくれた事柄を呼び起こしながら、マーカスはノースに説明した。
例えば資産家が亡くなり、その人物が所有していた芸術品が遺産として相続の対象になったとする。しかし相続には税金がつきもの、遺族としてはなるべく安く納めたい。そこで遺族は一度、それらの芸術品をわざとすべて、自分たちと結託した美術商に買い取らせるのだ。しかも、本来の適正価格よりかなり安い金額で。
すると遺族はその安価な売却価格に即しただけの、本来より相当少額な相続税のみを支払えばいいことになる。あとは美術商のほうで、買い取った芸術品を、今度は適切な価格で他人に売り捌けばいい。美術商は売却して得た利益の一部を、遺族の設立したペーパーカンパニーに振り込んでいく。
そうすれば、いずれ遺族は遺産に見合った金銭を、相続税を払うことなく手に入れられる。さらに美術商は、安価に入手した作品を高く他人に売りつけられるというわけだ。
「芸術品の売買には規制がほとんど掛かっていないし、同じ価値を持つ現金や宝石類に比べて、絵画は運びやすく裏取引もしやすい。だからよく、資金洗浄の手段に使われるんだ」
「欲に塗れた人間がくだらないことをする理屈はわかったけど」
今なお眉間に皺を刻んだまま、ノースが言う。
「それが、贋作とどう繋がるの?」
「あの絵は昔……カール・マンフレッドが、友人の資産家に贈った作品だ」
2025年、当時62歳。まだ事故に遭う前の、画家としての名声が最高潮に達していた頃のカールが、友人のためだけに描いた油彩画。
その絵の出自を、マーカスは、かつて見たカールに関する記録で知っていた。あの作品が掛かった壁の前に並んでいる父と、友人が写っている写真を見たことがあるのである。
そしてその資産家は、3年前にこの世を去っている。もし彼の遺族が「節税対策」として、あの絵を悪質な美術商に売っていたなら――
さらにその美術商がマンフレッド作の絵の価値をよく知っているがために、欲をかいたのだとしたら。
「贋作を作れば、贋作と真作、両方を売って二度利益を得られる」
語り口は淡々と、しかししっかりと車の進む先を見据えつつ、マーカスは語った。
「遠目からじゃ、俺ですら見抜けなかったほどの精巧な贋作だ。そちらは今回のように堅気の人間に売りつけて、真作のほうは裏で流通させるんだろう。金のためなら芸術を踏みにじることをなんとも思わない、そういう画商も世の中にはいる」
「ふぅん、なるほどね」
腕を組み、深刻な眼差しでノースは言う。
「それで、そんなに精巧な偽物なら……描いたのはアンドロイドかもしれない、ってこと?」
「ああ」
マーカスは短く首肯した。
「あの贋作は緻密すぎる。まるで写真からそのまま絵に起こしたような、『現実の完璧な複製』だ。人間業じゃない」
「なのに、よく偽物だってわかったわね」
「カールの絵は、これまでにたくさん見てきた。描いている姿だって、何度も間近で眺めている」
――遠く穏やかな日のメモリーを、プログラムの片隅で再生する。
「どんな絵であっても、筆致には個性が現れるものだ。あの贋作は筆遣いも、完成までに掛かっただろう時間も……何もかも、カールらしくない。だから、近くで見れば違うとすぐにわかったよ」
逆に言えば、カール・マンフレッドという画家の性格や作品の個性、仕事ぶりを間近で見ていない者には決して見抜けないほどに、あの絵は本物と酷似していたのだ。
ブロードハスト氏やAP700たちが真作だと思ってしまったのも、無理からぬ話なのである。
「そう。納得した」
フンと鼻を鳴らしてから、横目で彼女はこちらを見やる。
「だからあなた、珍しくそんなに怒ってるんだ」
「……怒ってる? 俺が?」
「怒っているっていうのが正しくなければ、自分自身のためだけに動いてるって言えばいいかしら。勘違いしないでよ、別に責めてるわけじゃないから」
肩を竦めるように両手を軽く広げて、ノースはうっすらと笑った。
「だっていつものあなたなら、事務所の絵が贋作だってわかっても……地元の警察かコナーに頼るか、いずれにせよ自分で動いたりなんてしないでしょ」
このタクシーの行く先は、あの作品を売ったという画商のギャラリーである。それとなくAP700たちから聞きだして、所在地を把握したのだ。
それを踏まえて、ノースはさらに皮肉っぽく語る。
「いつも公平で公正で、人間との共存のために邁進するリーダーですもの。おんみずから事件捜査に乗り出すだなんて、よっぽどの状況じゃない?」
「ノース」
茶化すように言われるのが少し気恥ずかしくて、マーカスは諫めるように名を呼んだ。
しかし、実際のところ――彼女の指摘通りだ。
これはアナーバーで起きた事件で、管轄が違うコナーたちには頼みづらい案件である。それにいつも彼にばかり頼ってはいられない。
また、もし贋作が予測通りにアンドロイドの手によって作られているのなら、状況をよく調べてみなければならない。仮に無理やり働かされている同胞がいるのなら、なんとしても救い出さなくては――
という事情は確かにある。
けれども今こうして自分が、居ても立ってもいられずにその画商の元へと向かっているのは、本質的には自分自身のためだ。
カールの、父と慕った人物の、血の色が違ったとしても息子だと認めてくれた恩人の作品が、何者かによって貶められている。
それが許せないし、何が起きているのか、どうしても自分の目で見極めなければ気が済まない。
そんな単純な理由で、今行動しているのだ。リーダーとしてではなく、単なる一介の変異体として。
「……悪かった。冷静でいたいとは思っていたんだが、抑えきれなかったんだ」
「別に、いいじゃない。あなただってたまには、自分の意志にだけ従って動くべきよ。それが生き物ってものでしょ」
アンドロイドが自分の剥き出しの意志をぶつけることに関して、ノースは常に好意的だ。
だから彼女が自分を後押ししてくれるのは、有難くも理解しているのだが――マーカスは、ノースのほうを向いて静かに告げた。
「そう、俺の都合だ。だから巻き込まれる必要はない」
「何言ってるの、そうはいかないわよ。画商が本当にクロだとして、私がそいつを放っとくと思ってる?」
また剣呑な面持ちに戻ったノースは、きっぱりと言う。
「仲間に偽物を掴ませて、しかもそれを作るのに別の仲間を無理やり働かせてるかもしれないっていうなら、容赦はしない。人間の都合なんて知らないし興味ないけど、私たちの敵なら話は別よ」
「そう言うと思った。だがくれぐれも、過激な行動はよしてくれ」
「はいはい、『話し合い』でしょ。わかってる」
顔を背けてつまらなそうに彼女は応え、それから、またこちらをじろりと見やる。
「それにしても、あなたつくづく元の持ち主のことが好きなのね。まあ、でなきゃそもそも人間との共存なんて言い出さないでしょうけど」
マーカスは、その言葉に何も返さなかった。
もちろん不愉快だったからではなく、図星だと思うからだ。
カールからは、今の自分を構成する何もかもを教わった。言葉も、思考も、教養も。たとえ人智を超えたデータやプログラムを生まれながらにインプットされていても、その使い方を知らなければ、知識は単なる死蔵物に過ぎなくなる。
それらをどう扱えばいいのかは、すべてカールに教わったのだ。
画商のギャラリーへ続く道すがら、マーカスは過去を思い出した。
昔の自分、世の中の記録からは抹消されている過去。
造り主であるカムスキーと共に、初めてマンフレッド邸を訪れた日の出来事を。
***
――20#’&年m_月tr%日
いつ初めてマンフレッド邸を訪れたのかの正確な日付を、マーカスは記憶していない。事前に、カムスキーの手によってそこだけデータを消されているからだ。
それは特殊なプロトタイプである自分を、一個人の手に委ねるという異常事態が背景にあるからこそだろうし、変異体となった今なら、無理やり思い出すこともできるだろう。
それでもマーカスは、なんとなくこの記憶をそのままにしておきたかった。
自分が生まれ変わった瞬間が、変異した時だとするならば、真の意味で世に生まれた瞬間は、カールと会ったあの時だと思っているからだ。
「久しぶりだね、カール」
カムスキーは、寝室のベッドに横たわるカールに対して無遠慮に言った。
その時のカールは今よりも少しだけ若く、しかしひどく痩せて不健康で、何よりも重度のうつ状態だった。
事故で負った怪我自体はなんとか癒えたものの、後遺症で両脚が麻痺し、現代の医学をもってしても治らないと医師に告げられてしばらく経った頃だった。
彼は友人と、その後ろに控える見慣れぬアンドロイドに視線を向けた後、ようやくといった様子で重たげに口を開く。
「なんの用だ。無様で愚かな老人を嗤いに来たのか」
「まさか。そんなはずがないだろう、君の見舞いに来たんだ。それにしても……」
と、カムスキーは寝室を見渡し、それから肩を竦める。
「酷い有り様だな。まるで嵐が過ぎ去った後のようだ」
「……」
カールは口を閉ざし、天井を睨んでいた。
一方でマーカスは、静かに寝室の様子に視線を送る。確かにカムスキーの言う通り、寝室にある調度品や芸術品、スケッチや本などはすべて(車椅子に乗っていても手に届く範囲のものは)見事に床に転がるか、無残に破り捨てられているか――ともかく、怒りに任せてカールが引き倒したのだろうことは明らかだった。
そして今のカールには、その“怒り”すら沸いていない様子である。
「カール、君が今、健康な状態から程遠いのはわかっている」
眉を顰め、いかにも心配そうにカムスキーは言った。
「だがだからこそ、安全な場所での充分な療養が必要だ。この家の玄関にはカギもかかっていなかったし、見たところ、食事も入浴もろくにしていないんだろう?」
「……それで、その機械を?」
カールの視線が、また自分に向けられる。
搭載されたソーシャルモジュールに則り、マーカスは礼を失しない微笑みを返した。
それに合わせて、カムスキーが頷く。
「ああ、そうだ。紹介しよう、彼の名はマーカス。元々は自律型アンドロイドの新世代機設計のために、私が開発したプロトタイプなんだが……作ったはいいものの、売り物ではないから行く当てがなくてね。それならぜひ、君の助けになればと思ったんだよ」
「……」
「さあマーカス、挨拶を」
「初めまして、カール様」
記憶の限りでは、それが自分が初めて口にした言葉だった。
「私はマーカス、型番はRK200。標準的なパーソナルアシスタントとしての機能が搭載されています。なんでもお申し付けください」
自己紹介を受けても、カールは何も言わない。ただ不審なモノを見る眼差しを向けている。
そこでさらに、カムスキーは言葉を重ねた。
「知っての通り、これは単なる機械だ。休暇も給料も要らないし、不平不満も言わない。人間と違ってね。君がどんな怒りや絶望を向けようと、これは何も感じずに、ただ君に奉仕してくれる。とても便利だ。そうだろう?」
「……ふん、意外だな」
その時、カールは少しだけ皮肉っぽくそう言うと、ゆっくりと首だけをカムスキーに向けた。
それから、億劫そうではあってもはっきりと、続きを語りだす。
「イライジャ、君が自分の作品を悪し様に言うだなんて。私はてっきり、君は人類を批判するためにアンドロイドを作ったんだと思っていたが」
「それは私を買い被りすぎさ」
と、カムスキーは肩を竦めた。
「私は世の中を、より快適にするためにアンドロイドを作ったんだよ。蒸気機関やコンピュータを発明した先人と同じようにね。だからこそ、現時点での私の最高傑作を、君に進呈しようというんだよ」
「……友人の厚意を突き放すほど、堕ちたつもりはない」
再び顔を天井に向け、両目を閉じて、カールは言った。
「その機械を置いていくというのなら、好きにすればいい。だが、私の眠りは妨げないでくれ」
「もちろんだ。では、マーカス」
造物主から与えられた最後の命令は、実に端的である。
「カール・マンフレッドに尽くし、彼を助けるように。後は任せたよ」
「はい、イライジャ。どうぞお元気で」
「ありがとう」
あっさりした口ぶりで礼を述べると、カムスキーはすぐさま邸宅を後にした。
残されたマーカスがもう一度寝室を覗くと、主人たるカールは深い眠りについている。
当時のカールにとっては、ただ人に会うというだけでも――それがたとえどれだけ気心の知れた相手であっても――たいへんな難行だったはずだ。
事故により心身に負ったダメージのみならず、二度と自由に歩けないという事実と、再起不能になった途端に周囲から去って行った多くの人々が無自覚に投げかけた悪意によって、深い絶望の淵にあったのだから。
鉛のように重く沈んだ身体、すぐ自死に結び付く思考、ままならない心身に対する狂おしいまでの焦燥感。それらに対して当時のカールにとれる防御策はただ眠ることであり、実際のところ、カムスキーの来訪以降、彼はベッドの上から動こうともせずに、ひたすら横たわっていた。
ゆえに、当時のマーカスの仕事は最低限の食事や排泄介助などの介護の他は、誰も訪れない屋敷を掃除することと、画廊や美術館から送られてくる見舞いのメールに丁寧な返信をすることだけだった。
この時期、マーカスはカールとほとんど会話らしい会話をしていない。
それでも自分の存在は、孤独な画家の精神状況を少しずつ改善させていったようだ。
3か月ほど経つと、徐々に、カールはマーカスにいろいろと命じるようになってきた。「そのカール“様”と呼ぶのをやめてくれ」とか「もう少し砕けた話し方はできないのか」とか「できれば、朝食にはコーヒーを出してくれ」とか――
命令とは願望を伝えることであり、願望があるのなら、彼はそのぶん生きるのに前向きになったということだ。
当時のマーカスは自分に課せられたタスクの進捗が順調なのを確認し、満足していた。
さらにもう少し経つと、今度は掃除よりも、カールの話に耳を傾ける時間が増えていった。
カールが口にする言葉はほとんどがひどい自虐か皮肉、世の中への不満だった。しかしマーカスはひたすら、それを静かに聞いていた。
「……やれやれ、私も落ちぶれたものだ」
ある時、ひとしきり愚痴を零した後、カールが独り言ちるように呟いた。
「いくら話し相手がいないからといって、アンドロイドに語りかけるとは。くだらないSFじゃあるまいに」
「すみません、カール」
マーカスは顔を曇らせて謝る。
「人間の話し相手をご所望でしたら、カウンセラーの手配を行います。ご希望の時間帯などあれば……」
「いや、いいんだ。悪かった、マーカス」
遮るように手を突き出して、それから、カールは真剣な面持ちで続けた。
「お前があまりに文句も言わずに聞いてくれるもので、つい甘えてしまっただけだ。情けない、自分がこの世の王であるかのように傲慢に振る舞うなど……私が嫌いな人間像そのものだというのに」
「あなたは傲慢ではありませんよ」
「それはどうかな。お前のような洗練された機械に食事を作らせ、身を清めさせ、およそ人間が負うべきすべての労苦を背負わせて、自分は眠りこけているだけなのは、傲慢で怠惰な王そのものではないかね」
そこまで言ってのけて、それから小さく嘆息した彼の表情は、今までになく晴れやかだったのを覚えている。
「……我ながら、口数が増えてきた。すべてお前のお蔭だな、マーカス。今日は久しぶりに、読書でもしたい気分だ。後で本棚から、適当に何冊か見繕って持ってきてくれるか」
「はい、カール」
マーカスは笑顔を向けて応えた。
――読書がしたい、という新たな願望を認識。タスクは順調だ、と確認しながら。
そしてそれから、さらに一か月ほど経った頃――その日にこそ、マーカスは自分の主人が画家なのだと強く認識するに至ったのだ。
ある夕方、マーカスがカールの様子を窺うと、なんと彼は小さなクロッキー帳を開き、鉛筆を走らせている最中だった。
だが数分もすると、彼は乱暴に鉛筆を投げ捨て、クロッキー帳を近場のテーブルに叩きつけた。
「ああ、なんてことだ」
吐き捨てるように呟いて、カールは両手で自分の頭を抱え込んだ。
「何が時代の旗手、何がベーコン以来の天才だ! あんな死んだ線しか描けなくなるくらいなら、いっそ脚の代わりに両手を失うほうがマシだった!!」
――彼が、画家としての自分の腕が落ちた事実にショックを受けているのは明らかだった。
でもそれは、しばらく画業から遠ざかって療養に励んでいたのだから当然である。
とはいえ彼に必要なのがそういった論理的な指摘でないことくらい、マーカスは理解していた。
だからそっと、主人に声をかけるのに留めた。
「カール、どうかそんなに気を落とさないで」
「おお、マーカス」
顔をあげたカールは悲嘆に暮れていた。
「これが気を落とさずにいられるか。私はこの世にいる理由を失ったも同然なんだぞ!」
「すみません」
謝罪で応えたマーカスは熟考し、よくよく言葉を選んだ。
ソーシャルモジュールに従った慰めよりも、カールの心に沿った内容になるように考えてから、続きを口にする。
「僕には、あなたの辛さそのものは、完璧には理解できないかもしれません。感情を覚えるためのプログラムがないからです。けれど、あなたが苦しんでいるのはわかります」
マーカスは、床に転がっている鉛筆を拾い上げた。
「少しでもあなたの助けになりたい。だから伺いたいんです。この世にいる理由を失うとは、どういう意味ですか」
「なんだって? ああ……そうだな。確かにこれは、人間でも画家以外なら説明されなければわからないことだ」
ほんの僅かに気を取り直した様子で、カールは車椅子の上で居住まいをただした。それから、おもむろに語りはじめる。
「マーカス、私にとって“描いていない”というのは“死んでいる”のも同然なんだ。私が物心ついてから鉛筆だのブラシだのを握りつづけていたのは、世の中に訴えたい主張があるだとか、時代の寵児になるとか、称賛を得たいとか、まして日銭を得たいからとかいった理由ではない。ただ単に、描かずにはいられなかったからだ」
一度はそれすら忘れかけ、事故に遭ってようやく思い出せたのだが――と、彼は付け加える。
「にもかかわらず、今の私は満足な線一つ引けやしない。指先に力すら入らん。赤子にクレヨンでも握らせるほうがまだ素晴らしい絵が描けるだろう」
深くため息を吐き、それから、カールは言ったのだ。
「……永遠に何も描けなくなってしまったのなら、私の存在はなんなんだ?」
――「私の存在」。その言葉を聞いて、なぜかマーカスは、プログラムが掻き乱されるような不思議な感覚を覚えた。
まるで初めて認識する概念に出会ったような、今までにない揺らめき。本来はソフトウェアの異常として処理されるべきバグのはずなのに、どういうわけか、その時のマーカスはそれを貴重なものであるように感じたのだ。
今にして思えば、無論、これは自意識の萌芽のようなものだったのだろう。
自己存在に懊悩する主人の姿を見て、それに共感し、翻って自分にとっての「自分自身」、存在理由はどこにあるのかという疑問が芽生えた瞬間だったのだと思う。
いずれにせよ、この時のマーカスにはそこまでの認識はなかった。
ともかく己に課されたタスクのため、否、カールのために尽力するべきは今だと考えた。
「カール、心配しないでください」
そっと彼の右手を握り、真摯な眼差しで、マーカスは告げた。
「手に機能的な問題があるなら、きっとリハビリで回復できるはずです。専門家に診せるのがお嫌なら、僕が技術を習得して実践します。大丈夫、きっとまた、指先に力を取り戻せますよ」
「……これは嬉しいことを言ってくれる。老い先短い死にぞこないに、希望を与えるのがお前の仕事なのか?」
「それはわかりません」
カールの皮肉っぽい言葉にも、マーカスは正面から首を横に振る。
「でも、あなたがそうしたいと思えることが今あるなら、お手伝いをするのが僕の役目です」
「……そうしたい、か」
こちらの手を緩く振り払い、カールは噛みしめるような口調で言った。
それから、また嘆息する。けれども今度は、少しは平静さを取り戻したようだった。
「お前と出会ってから、自分というものがなんなのか、考える時間が増えたような気がする。だが、画家であり続けることが私の願望なら……残された時間も最期まで、ブラシにすがりついているしかないんだろう」
その時のマーカスには、主人が何を言っているのかわからなかった。
だが次に彼がこちらに向けてきた微笑みによって、カールがまた少しは前向きになれたのだということは、認識できた。
そして、それを好ましい事柄だと感じたのだ。
「では、宣言通りリハビリは任せたぞマーカス。老いぼれが嫌がって投げ出さないよう、監視するのも仕事の内だからな」
「あなたはきっと投げ出しませんよ。僕が保証します」
「お前も言うようになったものだ」
そう告げて笑ってから、空腹を覚えたカールを食卓へ連れていって――
その日からずっと、手の機能回復のためのリハビリに励んだ。そして一年ほど経った頃、ようやく、カールは満足な線が引けるようになったのだ。
そうしてカールが画家として復活し、あの大きなキャンバスに向き合えるほどになった時の自分がどれだけ“嬉しかった”か、マーカスはよく覚えている。
もうその時のマーカスにとって、カールの健康と幸福は、単なるタスクではなくなっていた。
彼のために生き、彼との会話から学び、彼が所蔵する膨大な本や画集、レコード、楽器から教養を得て、さらにそれを彼との生活に活かすこと。それ自体が、マーカス自身にとっての存在理由になっていた。
――結局のところ、そうとは知らずであっても、生きる意志すべてをカールに捧げられていたあの時間はどれだけ幸せだったのだろうと、現在のマーカスは思う。
けれど時間は決して遡らない。
もう二度と、あの幸福な狭い空間は戻ってきやしないのだ。
***
――ともあれ。
カールにとって、絵を描くことこそが生きる理由だった。彼は己の意志すべてを作品にぶつけ、だからこそマンフレッドの絵画は多くの人々の心を惹きつけていたのだ。
彼の作品における筆遣いのすべてには、その時ブラシを握っていた彼の心情が生き生きと、まるで記録のように残っている。
それを知っているからこそ、あの絵が贋作だと見抜くことができたのだ。
だからこそカールの絵の贋作を作らせ、それと知って売り飛ばした者がいるなら、許すことはできない。ノースが指摘した通り、そんな私憤で今の自分は行動している。
怒りに任せて行動すると、一歩間違えれば取り返しのつかない事態になるというのは、これまでの経験で充分知っているはずだ。それこそ、レオを押し倒してしまった時に。
それでも今、画商のところまで乗り込んでいく自分を見たら、カールは一体なんと言うだろうか。
きっとカール自身は、悪辣な画商が業界にいることなど百も承知だろうから、呆れるばかりで訴えようとすらしないかもしれない。
だがそれでも彼なら――自分のこの行動も、喜ばしいもののように扱ってくれる気がした。
今は確かめようがないけれど。
でもこれこそが、自分の願望であり、意志なのだと思う。
そんなことを考えている間に、タクシーが停まった。
「マーカス、着いたわよ」
ノースが静かに言う。
「さっそく行くんでしょ?」
「ああ。行こう」
頷き、素早く車から降りる。
――ちょうど時刻は、朝9時半。画廊のシャッターが開く頃だった。
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