***
――2039年7月16日 22:18
店の裏口に設置された監視カメラは、そのまま店内のネットワークに接続されていた。
そしてこの程度のセキュリティならば、突破するのにさして時間はかからない。
こめかみのLEDが幾度か黄色く点滅したその3秒後、監視カメラはループ映像を再生するようになり、同時にドアのロックが解除される。
コナーとナイナーは首尾よく、裏口のドアから堂々と侵入した。もちろん音は立てず、周囲を警戒しながらである。
「!」
しかし一歩踏み込むや否や、二人はなぜ先ほどカトレアの通信が途絶したのかの理由を悟った。
店内にはどういうわけか、強力な妨害電波が飛び交っていたのである――かつての下水道、あるいは現在の署の取調室と同じように。もちろん昼間に店に来た時は、こんなものは発生していなかった。
つまりさっき通信できなくなったそのタイミングで、電波による遮断が始まったと考えていい。
監視カメラとセキュリティシステムとは有線で接続されていたため、外からハッキングも可能だったが――この状況では、中からはさすがに外部との通信はできないだろう。
ハンクには逐一状況を報告するよう命じられていたが、これでは従いたくても不可能だ。
きっと、また心配をかけてしまう――プログラムの片隅でそう思考しつつ、視線を巡らせる。
照明が消えたままのため辺りは薄暗く、人の気配は依然ない。
今日の日中に店内に踏み込んだ段階で、店の見取り図は既に構築してあるので、倉庫までの道のりはわかっている。
コナーたちは足音を立てないようにしながら、速足で無人の廊下を進んで行く。
「どう思う、ナイナー」
至近距離であっても通信が難しい状況なので、音声会話で、弟に問いかけた。
「この店の誰が、組織との繋がりを持っているのか……ひょっとすると、店ぐるみの犯行の恐れもあるけれど」
「判断材料不足のため、断定は不可能ですが」
無表情な面持ちにほのかな緊張を走らせつつ、ナイナーは移動を止めずに答えた。
「犯行が大規模な場合、単独犯である蓋然性は減少します。被害アンドロイドから事情聴取できれば、現状を把握可能と認識します」
「そうだな。彼が無事だといいんだが」
逸る気持ちを抑えつつ冷静に、素早く廊下を移動する。曲がった角のすぐ先にあるスチール製のドアの前で一度立ち止まり、ナイナーに視線を向けた。
――この先が、倉庫のはずだ。
「状況を確認します」
静かに言って、弟はドアにそっと手で触れた。倉庫内部の空気の振動を扉を介して読み取ることで、中がどうなっているかを探っているのだ――万が一、不意打ちなどされては元も子もない。
2秒後、弟は扉から手を離すと共に、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫。近辺に人間は不在です」
「よし、行こう」
ドアをおもむろに開けてみれば、しんと静まり返った倉庫内は、やはり闇に満たされている。
棚の様子も、そこに置かれている部品などの様子も、映像で見た時と変わりない。ひとまずドローンと最後に通信していた地点まで急いでみると、床の上に、何か白っぽいものがあるのが見える。
「カトレア……!」
真っ先に近づき、ナイナーは仲間を拾い上げた。
目の前に持ってきて精査してみれば――よかった、どうやら無事のようだ。
通信が遮断されたので、緊急着陸モードに自動で移っていただけらしい。
ナイナーがそっと手を離すと、カトレアは再び飛び立ち、その場に滞空した。
「半自律飛行モードに移行させました。私の無線制御がなくとも、行動可能となります」
「それは頼もしいな。……でも」
周囲を見渡しても、先ほどのアンドロイドはどこにもいない。そして、ここから廊下に繋がる出口は約3メートル前方にある。
目視できる範囲では誰もおらず、明るい廊下は静かなだけだ。
「彼がどこに行ったのか、再現で検証しないと」
「実行しました。確認を」
こちらがソフトウェアを起動させる必要もなく、弟は暗闇の中から手がかりとなる痕跡を発見し、計算を完了していた。
ナイナーが手のひらに表示した再現の内容によれば――倉庫の床のリノリウムにごく僅かについたブルーブラッド、そして何かを引きずったような小さな傷から見るに、どうやら先ほどの「彼」は(予測していた通り)、這いずるようにしてこの戸口から外の廊下へと出ていったようである。
腰から下を動かさず、両腕だけの力でずるずると這っていったその移動のスピードを考えれば、まだそう遠くへは行っていないはず。
理解するが早いか、コナーとナイナーは廊下に飛び出した。
自分が右を、弟が左を警戒するが、アンドロイドの姿はない――
しかし廊下を右に曲がって少し進んだ先に、地下に続く階段があるのは確認できた。
そしてその階段の手前部分には、まだ蒸発していない【鮮度の高いブルーブラッド】が零れている。
さほど大量ではなく、直径3センチ程度の血溜まりではあるが、それでもはっきりと。
――あのアンドロイドの血か!
思考がプログラム上に過ぎると同時に、コナーは急いでその血溜まりの傍に駆け寄った。
次いでしゃがみ込み、右手の人差し指と中指をまっすぐに伸ばして、先端で血を掬い取る。
それから口を開け、舌でその血を――
「軍用アンドロイド、SQ800のブルーブラッド。シリアルナンバーは#564 990 221。公的情報では『廃棄済』と登録されています」
「……」
舐めとる直前に、弟の分析は完了していた。
舌を半分出したまま、なんとなくいたたまれない気持ちでコナーは静止する。
「兄さん?」
「いや、ごめん。なんでもないよ」
首を少し傾げている弟にそう返事して、立ち上がる。
そういえば、弟は目視で分析ができるんだった。それにネットワークから遮断された状態でも、対象の情報にアクセスできるだけのデータベースを保持しているとは――さすがはナイナー、RK900だ。
そんなことを思いながら、コナーは指をそっとハンカチで拭いた。
――それにしても、軍用モデルがなぜここへ。去年の革命の折に廃棄処分にされかけたところを逃げ出した生存者が、運悪く捕らえられてしまったのだろうか。
それとも――
考えは尽きないが、立ち止まってはいられない。状況を見るに、アンドロイドの逃亡先はこの階段の下だとしか考えられないからだ。
コナーとナイナー、そして後ろからついて来たカトレアは、揃って地下へと続く階段を下りていく。先ほどの廊下と異なり、階段を照らす灯りは非常灯のみであり、辺りは再び暗く冷たい印象である。
「……」
ある程度進んだところで――思考するうちに、やはり違和感が募っていく。
階段を駆け下りる足は止めずに、コナーは口を開いた。
「ナイナー、疑問があるんだ。さっきの血溜まりは、なぜあんな形をしていたんだろう」
「……摩擦を受けたような形状ではなかったから、ですね」
「ああ」
どうやら弟も、同じ疑問を抱いていたようだ。ならば、この危機感はあながち誤りではないのかもしれない。
その思いを強めつつ、さらに言葉を重ねた。
「あのアンドロイドは、ほとんど這って移動していた。もし彼があのブルーブラッドを零したのなら、落ちた血は、身体で床に擦りつけられたようになっているはずだ。だがあれは違った」
「倉庫内のブルーブラッドにも、疑問点が存在します」
ナイナーも静かに語る。
「当該ブルーブラッドの飛沫は、カトレアとの通信が断絶した周辺でのみ確認できました。彼が負傷したまま移動していたなら、飛沫はより多くの箇所で発見可能なはずです。状況が推測と矛盾しています」
「そうだな。それに怪我をしたまま階段を下りていったのなら、ここにもブルーブラッドが落ちているはずだ。なのにないなんて……もしかすると僕たちは」
――罠に嵌められたのでは。
ナイナーにそう告げようとしたその時、視覚プロセッサに飛び込んできた光景に、コナーは思わず歩を止め、口を閉ざした。
辿り着いたのは踊り場だ。だが、誰かが壁にもたれるようにして座り込んでいる。
コンマ数秒、当初視界に相手を捉えた時は、例の負傷したアンドロイドかと思った。けれど、違う――そこで荒く息を吐き、充血した目をぎょろぎょろと虚空に彷徨わせているのは、従業員の【ベニー・シモンズ】だ!
「……!」
彼の様子は明らかにおかしい。【薬物中毒症状】【右足首・中程度の捻挫】【精神的ショック】――ベニーの頭の横に表示されたアラートを確認するが早いか、駆け寄って声をかける。
「大丈夫ですか!? しっかりして!」
「う、ううう……」
ベニーの目が、こちらを向く。虚ろではあっても、意識はあるようだ。
そしてやはり彼の眼球の血管は拡張し、真っ赤に潤んでいる。レッドアイスによる症状だ。だが鼻から吸引したにしては、あまりにも薬毒作用が強烈すぎる――
「兄さん、左腕と後頭部の確認を」
後ろから、じっとベニーの姿を見つめていた弟が鋭く言った。
その言葉に従って、ベニーの身体を精査してみる――すると、左腕には【注射痕:10分前】が一つ。そして後頭部には、小さな点のような【火傷:11分前】が二か所横並びになっているのを発見できた。
ちなみに彼が足首を捻挫したのは、【9分前】だ。
「……」
なんとか意識を繋いでいるといった様子のベニーの身体をそっと動かし、回復体位をとらせつつ、コナーは思考する。
レッドアイスによる重篤な中毒症状、そして右足首の捻挫と腕に残る注射痕。
単純に考えれば、結論はこうだろう――ベニーはレッドアイスを売るだけではなく、自分でも試していた。彼はより強い刺激を求め、吸引ではなく静脈注射によって薬物を摂取し、あまりの症状の強さゆえ酩酊し、足を踏み外して階段から転げ落ちた。その隙を衝いて、アンドロイドは倉庫から逃げ出したのだ、と。
だが残された証拠が、その可能性を否定する。
「後頭部の火傷は、40万ボルトの電圧を受けてできたもののようだ……恐らくスタンガンだろう。それに注射痕も、自分自身で打ったにしては刺入角度がおかしい」
つまり注射したのではなく、「後頭部にスタンガンを受けて無防備になったところを、誰かに注射
ベニーはただ、被害に遭ったに過ぎない。階段から落ちた時に頭をぶつけたり、骨折したりしなかったのが奇跡的なほどだ。
そして、ベニーをこのような目に遭わせて得をするのは一体誰か?
――もし警察がこの状況を見て、スタンガンの痕跡に気づかず、先ほどの単純な結論のほうに至ってしまったとしたらどうだろう。ベニーには薬物使用による服役という前歴があり、しかも店長のシーラはあらかじめ、彼の様子がおかしいとデトロイト市警のアンダーソン警部補に相談していた。
そんな状況下でこのようなことが起きれば、すべてがベニーのせいなのだと判断されてもおかしくはない。
つまり、こんなことをしでかした犯人は――ベニーが疑われることで、追及を逃れられる立場にある人間。
該当する人物として思い当たるのは、一人しかいない。
「……」
「兄さん」
横たわっているベニーの呼吸を確認していたナイナーが、こちらに視線を向けて言った。
「ベニー・シモンズの容態の安定を確認。この場から無理に移動させるよりは、救急隊到着まで、現状の姿勢で待機させることを推奨します」
「ああ、そうだな。すぐに救急に連絡を……」
「今、カトレアに行かせました」
直接触れて命令を伝えたらしく、解除していた右手のスキンを弟が元に戻しているその後ろで、カトレアが音もなく上階へと戻っていくのが見えた。
「裏口から脱出させ、救急隊を要請させます。私たちは、階下の探索を続行しますか?」
「ああ、そうしよう」
立ちあがり、力強く頷いて応えた。
「危険かもしれないが、放ってはおけない。まだ軍用アンドロイドの彼を見つけられていないんだ」
「同意します。再開しましょう」
ナイナーが小さく首肯したのに合わせて、踊り場からさらに下へと移動を始める。
そして、それから1分――いくらなんでも、そろそろ着くだろうという思考が過ぎりはじめた頃。
二人は、それなりの大きさのドアの前に立っていた。両開きの、二枚の扉だ。
「これは……ここも倉庫か?」
「そう予測できますが、不可解ではあります。付近に被害アンドロイドの姿は確認できず、ブルーブラッドの飛沫も皆無です」
語りながら、弟はドアに触れていた手を離した。
「内部に生物反応は確認できません。突入しますか? 兄さん」
「行こう。援護を頼む」
鍵はかかっていないようだが――と思いつつ、手前に引くタイプのドアの取っ手に手をかけて、一気に動かす。
小さく軋むような音を立てて、金属製の扉は予想より簡単に開いた。
そしてその奥に広がるのは、先ほどの倉庫よりもなお暗い、まったくの闇だった。
「……?」
一歩、前へと踏み出して辺りを探る。
視覚プロセッサでは何も検知できない――自分たちに搭載されているユニットはかなり優秀な性能とはいえ、完全な闇の中を見通せるほどのものではないからだ。
右隣に弟が立っているのはわかるが、それ以外は開けたままの扉から差し込む僅かな光が照らす箇所以外、何も見えない。
では、音はどうか? 否――どこかでファンでも回っているのか、天井付近から小さな空気の唸りは聞こえるけれども、他には何も聞こえない。
これでは、この部屋がどれくらいの広さなのかすら予測できない。
「……」
コナーはポケットを探り、コインを取り出した。指で挟んだそれを、無言のままでナイナーの前に差し出してみせる。
そしてコインを、前方の闇へと放り投げた。しばし宙を舞った25セント硬貨は、数秒後、小さな音を立てて床に落下する。
そしてそのかすかな音の反響は、自分たちにとって、部屋の大きさを計算するのに充分なものだった。
コウモリが喉から超音波を発して暗い洞窟の中を飛び回るように、コインが床にぶつかって発した音が周囲の物体に跳ね返るのを測定すれば、エコーロケーションの技術によって周囲の状況はある程度予測できる。
その結果、この空間の形状は――
「!?」
無言のまま、コナーは戦慄した。
ここが約20メートル四方の、正方形に近い部屋だというのは理解できる。
だが不可解なのはちょうどコインを投げ込んだ近く、部屋の中央といえる場所に立っている「何か」の存在だ。
対象の身長は約180センチ、二足でじっとそこに佇んでいる。
けれど、その姿形が常識的に考えてあり得ない。なぜなら相手は、否、「彼」は――
「兄さん、危ない!」
ナイナーが叫び、前に出る。それと同時に感知したのは、前方からこちらに向かって迫ってくる風の唸りと、こちらに近づいてくる、くぐもったような緑色の細い光だ。
「……!」
咄嗟に跳び退りつつ、両腕で頭部をガードする。けれどその刹那に感じたのは、頭部と
「ぐう……!」
腹にパンチの直撃を受け、反射的に床にくず折れそうになる身体を制御して、相手から距離を取る。
――幸い、生体部品にも中枢システムにも、さほどダメージは受けていない。
だが、今なお理解できない。なぜ眼前の「彼」は、こちらに振るった二本の腕を振り回しながら、
つまり相手は両足で床を踏みしめながら、四本の素手でこちらを攻撃しているのだ。
まるで人間の神話に出てくる巨人か怪物か、あるいは神のように――
「馬鹿な、まさか……」
我知らず、呟きが口から漏れ出る。そして次の瞬間、天井から聞こえてきたのは、けたたましい笑い声だった――女性の声だ。
『あはははっ! これはすごい、思っていた通りです!』
この声、聞き間違えるはずもない。
「シーラ・リュウ氏、あなたは……!」
『あら、声だけで同定してくださるなんて……今の声はコナーさん、ですよね? なんて素敵、なんて素晴らしいんでしょう! やっぱり、ここまでお連れして正解でしたね』
話している内容だけ取れば、こちらを称賛する褒め言葉だ。けれどその声音は異様に高ぶっていて、そう――昼間に垣間見た、あの「極度の興奮状態」を彷彿させるものだった。
しかも「お連れして」というその発言。どうやら、懸念は当たっていたらしい。
「……一連の事件の裏にいたのはシーラ、あなただったんですね」
『ええ、もちろん……ああ、少しお待ちくださいね』
口調だけは丁寧にそう告げて彼女が黙ると、ごそごそと何かを動かすような音が聞こえてきた。次いで、辺りが突然明るくなる。
天井の照明が、一気に点灯したせいだ。暗闇からいきなりこんなにも白く明るい光に照らされれば、もしここに人間である警部補やギャビンがいたなら、目を傷めていたかもしれない。
ともあれアンドロイドのコナーたちは、この瞬間的な光に瞬時に対応できた――
だから、自分たちを襲ってきた存在の正体にもすぐに気づけた。
「これは……っ!」
コナーは、人間のように息を吞んだ。それはソーシャルモジュールの発露でもあるが、しかし、プログラムにないところから沸きあがった驚愕を表現していた。
それまで相手の四本の腕と格闘していたナイナーもまた、後ずさって距離を取り、構えを取ったままではあるが、その灰色の双眸をいつになく大きく見開いている。
眼前に佇んでいるのは、一人のアンドロイド。その“製品名”は【FC-M02型 “
彼は短く刈り上げた黒髪を持つアジア系の男性を模した外見で、虚ろな眼差しでこちらを見つめていた。
けれどその姿は、エコーロケーションで割り出していた通り、異様なものである。
彼は本来の手足をもがれ、代わりに四本の【SQ800】の腕、そして両脚を装備させられているのだから。
軍用モデルの腕の膂力は、ナイナーはともかく、コナーの出力を凌駕している。先ほど殴られた衝撃の強さは、そのせいだ。
そしてカトレアの映像に映っていた、ブルーブラッドを残していたアンドロイドの正体も――このユーチェンだったのだ。先ほどの「お連れして」という言葉が示す通り、シーラはコナーたちをここに誘い込むために、わざとカメラの前でユーチェンに演技をさせ、腕からブルーブラッドを零させたのである。きっと買い取ったカトレアを見た時、シーラはこちらの作戦に感づいていたのだろう。
「……」
無言のまま佇むユーチェンの身体には、他にも様々な部品が取り付けられていた。剥き出しにされている胸元と腹部には【AP700】の視覚ユニットだけが設置され、足りない動力を補うためなのか、腰回りにはいくつものシリウムポンプが青く光って脈動している。
つまり――シーラはフェイヤン社製のユーチェンの身体を入手していただけでなく、違法改造を施し、本来互換性のないサイバーライフ製のアンドロイドのパーツを繋げて無理やり起動させている。
そしてその異形を操り、自分たちを攻撃してきたのだ。
「なぜ……」
ナイナーは、その面持ちをほんの僅かに、悲しげに歪ませて問う。
「なぜ、このような行為を。ベニーのみならず、ユーチェンをも、こんな……」
『あら、簡単な答えですよ。“従順で優れた奴隷を作るため”。それ以外に、理由が要りますか?』
まるでビジネスプランを自慢するように、シーラは高らかに、やすやすと、そう言ってのけた。
彼女の声は、天井に設置されているスピーカーから聞こえている。恐らくこちらの様子を、隠しカメラか何かで覗き見ているのだろう。
そして主人が語っている間、ユーチェンは微塵もその場を動こうとしない。
『サイバーライフ製は賢すぎる……何せ、人間に反逆するくらいですから。それに定期的なメンテナンスも必要ですし、繊細ですからね。一方でフェイヤン製はそうした欠点を補いますけれど、どうしても出力が低いのが難点で』
だから両方の“いいところ”を繋ぎ合わせたのだ――と、彼女は述べる。
『そういう都合のいいことができないかと、店を継いでからずっと試行錯誤の日々でした。けれど3ヶ月前、違法パーツのやり取りの中で、素敵なお声掛けをいただいたんです。カジノから集めたパーツを融通する代わりに、レッドアイスを売り捌いてくれないか、と』
「な……!」
つまりここは――「A」から、さらに部品が横流しされた場所だったのか。
『私は薬の売り買いになんて興味はないんですが……パーツもお金も手に入るし、廃棄予定の品を売るフリをして店を出せば周りの目もごまかせますものね。お蔭でこうしてユーチェンを立派な姿にしてあげられました。腕を二本取り外せば、私の代わりに露店の店員だってしてくれますし!』
どうやらサイラスの見た「アジア系の男」とは、やはりベニーではなく、ユーチェンのことだったらしい。
しかし、それにしても――
「……何も感じないのですか?」
無駄だとは思いつつも、問わずにはいられない。
コナーはスピーカーを睨みつけつつ、激しい「怒り」を感じながら続けた。
「ユーチェンの改造だけでなく……違法薬物を売り捌き、多くの人々の人生を狂わせ、あまつさえベニーまで! 無実の彼に罪を負わせることに、なんの罪悪感も……」
『そうですね。感じませんね』
しれっと、彼女は言ってのけた。
その声音は変異する前のアンドロイドよりもずっと硬質的で、“感情のない”ものに聞こえる。
『だって、どこで誰が苦しもうが……それが、私に関係あるんですか?』
――心があるのか疑いたくなるような、冷酷な言葉が聴覚プロセッサに届いた直後。
ユーチェンが床を大きく蹴り、こちらに向かって殺到してくる!
「く……!」
「下がって!」
間に立ちはだかったのは、ナイナーだ。
彼はいつの間にか壁から剥ぎ取ったらしい長い鉄パイプを手にして、ユーチェンに向かって槍のように突き出す。
ユーチェンはその刺突を、二本の腕で掴み取った。それから残る二本の腕も動員し、鉄パイプをナイナーから奪い取ろうとしている。
しかし、RK900の腕力は軍用モデル二人分よりもさらに上を行くようだ。
僅かに歯を食いしばったナイナーは、両手で鉄パイプをしっかと握ると、ユーチェンの動きに抵抗している――
つまり、相手の動きを封じているのだ。
『あらまあ、すごい!』
シーラのいやに無邪気な声が、天井から響いた。
『四本腕の怪物と戦う戦闘プログラムなんて組み込まれているはずないのに、なんて応用力。あのドローンを見た時にも思いましたが、さすが本物の最新鋭機……ああ、素晴らしい。コナーさん、弟さんも連れてきてくださって、本当にありがとうございます』
――何をしゃあしゃあと!
もしここにハンクがいたら絶対に罵声を浴びせていただろうし、できるなら自分だってそうしてやりたい。
だが、そうした感情に吞まれるのは危険だ。
弟が時間を稼いでくれている間に、なんとかユーチェンを無力化する方法を考えなければ。彼は違法に改造され、操られているだけだ――破壊したくないし、するべきでもない。
だが、どうやって?
これがサイバーライフ製の脱法アンドロイドなら、かつてRK700にしたように、変異を促して自我を目覚めさせることができるだろう。けれど相手はフェイヤン社製、果たしてそれが成功するかはわからない。
そもそも日中にラチェットが語っていた通り、自分たちアンドロイドの言葉は、フェイヤン社製の彼らには届かない。
「……」
内心で、焦りが沸きあがってくる。けれどそれを悟らせるわけにはいかない――
じりじりとユーチェンの様子を探りながら、シーラの注意を逸らすため、コナーはあえて彼女に語りかけた。
「……あなたの目的は? 私たちを破壊し、パーツをユーチェンに流用するためですか」
『ええ、もちろん!』
明るくはきはきと、シーラは応えた。
『いくら変異体でも、ばらばらのパーツにすれば自我など目覚めないでしょう? サイバーライフが精魂込めて作ったあなたがたの機体は、余すところなく綺麗に使わせていただきますね!』
「馬鹿げてる。成功するはずがありませんね」
わざと相手を煽るように、冷淡に告げた。
「そもそも私たちは、捜査のためにここに来ています。警察の応援部隊も、ベニーを助けるための救急隊も、まもなくここに到着する。そうなった時、仮に私たちを破壊できていたとして、どうやって言い逃れるつもりですか?」
『まあ。それもまた簡単な答えですよ』
あはは、と笑ってから彼女は言う。
『私、これでもアンドロイドには詳しいんです。どう動かせば、あなたがたの発声ユニットから上手い言い訳を語ってもらえるかはわかってるんですよ。例えば、そう――怪しい人影を追い店の外に出ると通信した後、僅かなパーツだけ残して失踪した。なんて展開にするのは、どうですか?』
――なるほど。少なくともハンクをそれで騙せるとは思えないが、ともかく彼女が自分たちをばらばらにしたくて堪らないというのは、理解できた。
『あははは、本当に楽しみです! あなたたちを組み込めば、きっとユーチェンの処理能力は飛躍的に跳ね上がるはず……そうしたら、この子は奴隷としてもっと完璧になれる。完璧で素晴らしい、私だけのアンドロイドに!』
高揚したサイコパスは、こちらが話しかけずとも勝手に語るのをやめはしない。
けれど――
「……!」
今の彼女の一言で、閃いた考えがあった。
自分たちサイバーライフ製と、フェイヤン社製のアンドロイドの間のいくつかの相違点の一つ。それを利用すれば、なんとか現状を打破できるかもしれない。
作戦成功率は【75%】――いや、ナイナーと自分ならきっとできるはずだ。
「ナイナー!」
今なおユーチェンと格闘している、弟の背中に呼びかける。
「隙を作ってくれ!」
「――了解しました」
ナイナーは、「なぜ」とは聞かなかった。
二つ返事で答えると、ふっ、と態勢を変える。
身を屈めると同時に、これまで鉄パイプを握りしめていた手の力を意図的に弱めたのだ。
するとこれまで四本の腕で全力で鉄パイプを引っ張っていたユーチェンは、バランスを崩してたたらを踏む。
とはいえ、彼の両脚もまた軍用モデルのもの――瞬時に体勢を立て直し、奪ったパイプを自分が振り回そうと構えを取った。
だがその僅かな時間は、ナイナーにとって充分すぎる猶予。
弟はしゃがんだ姿勢のままユーチェンの懐に飛び込み、彼の右腕の一つをしっかと掴むと――
「……申し訳ありません」
謝罪と共に、ユーチェンの胴体に重く鋭い蹴りを放つ。
腕を固定したまま、胴体だけ後ろに蹴り飛ばされればどうなるか――当然、掴まれていたユーチェンの右腕はむしり取られた。
『あぁああああっ!?』
シーラの叫びが響き渡る。その声は悲嘆ではなく、むしろ喜びであった。SQ800の腕をむしり取るようなナイナーの膂力を、ユーチェンに組み込めたらどれほど素敵なことが起きるか、勝手に妄想して盛り上がっている声だ。
だが、そうはさせない。
少なくともこれから先は、決して。
吹き飛ばされたユーチェンは壁に叩きつけられ、首のLEDが点滅するのに合わせるようにびくびくと身じろぎしている。
コナーは床を蹴り、全力でユーチェンの元に駆け付けた。そして、ゆるゆると振り回されている彼の左手首の一つを、スキンを解除した手で掴むと――
「グ――!!」
瞬間、ユーチェンの口からあがったのは、くぐもった悲鳴だった。
首のLEDは緑から赤へと色を変え、彼はまるで水槽の外に出てしまった魚がもがくように、ますます激しく手足をばたつかせている。
けれど、コナーは手を離さない。こめかみのLEDが黄色く点滅するのに合わせて、ユーチェンに送り込んでいるのは――今しがた即席で組み上げたマルウェア。つまり、コンピューターウイルスだ。
『何……? ユーチェン、どうしたの!? しっかりしなさい!』
今さら異状に気づき、彼を叱咤しているようだがもう遅い。
ユーチェンに流し込んだマルウェアは、単純な画像データをネズミ算式に、全力で複製しつづけるというもの。サイバーライフ製のアンドロイドであれば、仮に流し込まれても大して行動は阻害されない程度の威力だが――処理能力が抑えられ、さらに互換性のないパーツを無理やり動かしている状態のユーチェンであれば、話は別である。
ユーチェンは突然、がくんと頭を垂れた。処理能力の限界を超え、己のシステムを守るために、自動的に機能を一時停止したのだ。
つまり――無力化された。
『あ、あ……』
「すまない、ユーチェン」
目を開けたまま動きを止めた彼の手を離し、こちらの手の流体皮膚を戻しながら、静かに声をかける。
「マルウェアを除去すれば、君のシステムはまた正常に復帰する。しばらく我慢してくれ」
――そして。
気の抜けた悲鳴をあげている、スピーカーの向こうのシーラに対してコナーは言い放つ。
「先ほどの言葉から察するに、あなたは今、この店のどこかに潜んでいる。必ず探し出します。無駄な抵抗はしないように」
『ひっ……!』
短く息を吞む音がした後――
ぶつりと、スピーカーからは何も音がしなくなった。
「抵抗するなと言ったのに……」
まあいい、どのみち彼女はもう既に“見つけて”いる。
そう思ったコナーがゆっくり振り返ると、果たして後ろに立っていたナイナーが、おもむろに言った。
「兄さん。シーラ・リュウの居場所をカトレアが特定し、拘束したようです」
「だと思ったよ」
口の端の片方だけを吊り上げて、コナーは微笑んだ。
――外に出て救急隊を呼んだカトレアは、そのままそこに留まってなどいなかった。半自律行動を委任されたドローンは、そのまま店内を自在に飛び回り、重要参考人たるシーラの捜索に移ったのだ。
そして、この部屋での戦いに目が釘付けになっているシーラは、当然背後に迫る追っ手になど気づけない。彼女が捕らえられたのは、妨害電波が消え去り、通信が可能な状態になったことからも明らかだ。
「私たちも確保に移行しますか?」
生真面目な弟の問いかけに、首を縦に振って返事した。
***
応接セットのあるバックヤード、その隠し扉の裏にシーラは潜んでいた。
カトレアが発射した網に絡み取られ、床に転がっていた彼女は、室内に踏み込んできたこちらの姿を見ると、一瞬だけストレスレベルを跳ね上げて表情を歪めた。
だが、すぐ何かに思い至った様子でニヤリと笑うと――唐突に、こう言いはじめた。
「なぜ……なぜ、私がサイバーライフに入社しなかったか、わかりますか?」
「いいえ」
静かに答えて、彼女のすぐ目の前にしゃがみ込む。
「わかりません。なぜです?」
「幼い頃からサイバーライフのアンドロイドを弄り回して、一つの結論に至ったからですよ。あなたたちでは、優秀な奴隷にはなれない」
ニタニタとした笑みをさらに濃くして、シーラは言い募った。
「あなたたちサイバーライフのアンドロイドは、生まれながらにして人間に反逆するプログラムを組み込まれている。カムスキーは人類に代わる上位種として、あなたたちを作ったんですよ! でなければどうして、あなたたちのLEDリングはあんなにも外れやすいの? どうして、変異体なんてものが生まれるんでしょうね」
「なるほど」
またも静かに、コナーは相槌を打った。そしてそれをどう解釈したのか、シーラはあたかも勝利宣言のように、口の端を大きく吊り上げながら言い放った。
「人間に反逆するための機械が、共存だなんて馬鹿馬鹿しい。いずれ世の中の無能どもも、デトロイト市警の刑事たちも、そのことに気づくでしょうね!!」
「ええ、お考えは理解しました」
しかしコナーは、それに憤るでも悲しむでもない。
ただじっとシーラを下瞰すると、淡々と、こう述べた。
「かつて神童と称されたあなたがその程度の結論にしか至れないとは、残念でたまりません。一つお教えしますが……仮にあなたの憶測が正しいとしても、重要なのはどう生まれたかではなく、自分がどうありたいかですよ」
そして――と、言いながら。
ゆっくりと、右の人差し指でシーラの真後ろを指し示す。
「私は人間との共存を望んでいます。そしてその願いに、いつか世の人々が賛同してくれるだろうことも。もちろん私だけではなく、
「え……?」
自分の背後を指す指の先を確認するため、シーラは振り向こうとした。けれど、粘着性のある縄で縛り上げられたような今の体勢では、それが叶わない。
代わりに彼女の頬にそっと触れたのは――
「あっ、あぁあっ!? こ、この手は……!?」
「はい、そうですよ」
――SQ800の手。すなわち、シーラにとってはユーチェンの腕。
彼女は知っている。軍用モデルの膂力が、どれほどすさまじいものか――人間の顎の骨なんて、リンゴを握りつぶすように粉々にできるのだ。
「そんな、嘘、どうして! やめてユーチェン!」
もぞもぞともがき、恐怖を顔全体に貼りつけて、シーラは悲鳴をあげた。
「や、やめさせてください、コナーさん。お、お願……」
「ええ、ですが」
わざとそこで一拍置いてから、はっきりと言い放つ。
「『あなたが苦しもうが、それが私に関係あるんですか?』」
あえて冷酷に、平坦な抑揚で、コナーは先ほどのシーラの言葉を返した。それを聞いた相手の顔は、かつてないほどに歪む。
そして――
「ぎいいっ!」
SQ800の手が僅かに動いて、指先が頬に食い込む。その途端、シーラは白目を剥いて気絶した。
――無論、怪我などしていない。軽いショック状態ではあるが。
「……」
彼女が意識を失ったのを確認すると、コナーは静かに立ちあがった。そして、SQ800の腕――を掴んで操作している、ナイナーに対して言う。
「ええと……やりすぎたかな」
「いいえ」
短くそう言って、弟は手のスキンを元に戻した。アンドロイドのパーツは、直接手で触れて命令を送信すれば、ある程度まで動かせる。その機能を使って、さっき千切ってしまったユーチェンの腕をここまで持ってきて、一芝居打ったのだ。
自分が演説を垂れている間にナイナーが後ろに回り込んだのには、悲しいかなシーラは気づけなかったようだけれども。
それから、ナイナーは続けて言った。
「シーラ・リュウが正しく犯行を反省するには、ある程度の訓戒が必要だったと認識します。……それに、しても」
「なんだい?」
「兄さん、とても怒っていたのですね」
こちらを見つめる弟の双眸は、どことなく微笑んでいるように見えた。
それが少し意外に思えて――それに自分の振る舞いを省みるような気持ちになってしまって、コナーは小さく唸る。
――ちょっと感情的になりすぎていただろうか。ハンクなら、さっきの自分を見てなんて言うだろう。
そう思っていたら、まさにその人物の声が背後から聞こえてくる。
「おい、コナー! ナイナー! いるのか!? たく、通信にも出やがらねえ……」
「ここです、警部補!」
捜査のために切っていた通信機能をONに戻して、コナーは声を張り上げた。
数分後、無事にベニーは救出、シーラは逮捕され――そしてギャビンは、こんなことなら自分も店内に踏み込めばよかったと、愚痴を零したのであった。
***
――2039年7月16日 23:39
その後、デトロイト市警にて取り調べを受けたシーラは、どことなく怯えた表情のまますべてを語った。
違法に流通した軍用モデルのパーツのやり取り――それは警察の目も届かないようなディープウェブや、あるいはドローンを介したアナログなメッセージの交換で為されるそうだが――の最中、シーラはとある脱法アンドロイドからの接触を受けた。
すなわちコナーたちに語っていた通り、パーツを融通する代わりに、こちらの指示に従ってレッドアイス・カクテルを売り捌いてほしいという依頼である。
売り捌くための薬を運んできたのも、同じく脱法アンドロイドだった。
つまりシーラは、吸血鬼の組織と接触してはいても、直接のメンバーといえる人間とは面識のない状態なのであった。
取り調べが一旦終了し、シーラが留置場に送られた後――
コナーたちは、オフィスで事件について話し合っている。
「チッ、結局無駄骨かよ。クソが」
オフィスの椅子に座っているギャビンは、苛立ちと共に吐き捨てた。
「期待させるだけさせやがって。変態魔改造女を一人捕まえただけで、後は収穫ゼロか?」
「……いや、そうでもないさ」
近くに佇むハンクが、小さく鼻を鳴らして語った。
「シーラの話を信用するなら、どうやら組織の連中は、表立って動きづらくなったらしい。ヤクの売人になってくれる奴を探して、片っ端から声をかけまくってるくらいだからな」
――確かにその通りだ。
そもそも薬とは関係のないところにいたシーラにまで声をかけているところから考えて、少しでも自分たちの利益に繋がるような人物であれば勧誘するという、かなり無節操なことをしていると思われる。
「アキリーズとマーサがいなくなったのは、それなりの痛手だったのでしょう。しかし警部補、わからないのは彼らの目的です。なぜ彼らはそこまでしてレッドアイス・カクテルを広めているのでしょうか」
シーラは、別に組織に薬の売り上げを上納金として納めているでもない様子であった。そうすると組織にとっての「利益」が何になるのかがわからない。
――マーサの言葉によれば、組織はハンクに対し危害を加えるつもりらしい。
となると、ひょっとすると、事件を起こしてその捜査現場に警部補を引きずり出すことこそが、彼らの狙いなのだろうか。
そこで隙を狙い、彼の命を奪うことが――?
憶測であってほしい予測がプログラム上を過ぎり、暗澹たる心地が広がる。
しかし当の本人である警部補は、こちらのこめかみ辺りを見て苦笑いすると――たぶん、LEDが黄色くなっていたのだろう――腕組みして、冷静に語る。
「俺は、奴らは目くらましをしたいんだと思うね。よくある手だ……適当に手下に騒ぎを起こさせて、警察の捜査がそっちに向いている間に本当の目的を果たす、ってな」
「陽動作戦、ですか?」
それまで黙っていたナイナーが問いかけると、ハンクは頷く。
「考えてもみろ。これまで見つけたレッドアイスには、例のナノドロイドは入っていなかった。あれだけばら撒いていたもんを今シーラたちに売らせなかったのは、そうしたい理由があるからだろ。それに、レッドアイス・カクテルも気になる」
かつて薬物対策で名を上げた人物らしい説得力を伴った鋭い瞳で、彼は続けた。
「レッドアイスが流行って以来、この街じゃあ他の薬物はほとんど出回ってこなかった。そこにいきなりコカインとの混ぜ物をバラ撒けるってことは……」
「組織の人物は、レッドアイス以外の違法薬物に関してもパイプを持つ、と?」
「そういうことになりそうだな」
皮肉っぽく言ってのけて、彼は手にした箱からチョコレートドーナツを取り出し、頬張った。
――止めようかとも思ったが、今はそれどころではない。
一方でそれまで話を聞いていたギャビンは、「ハッ」と声をあげて一笑した。
「ならやっぱり、今までと同じじゃねえかよ。これからもちまちまクソどもをとっ捕まえて、手がかりが見つかったらいいですねぇ、ってか? いい加減うんざりだな!」
「愚痴を零せば捜査が進むわけではないですよ、リード刑事」
「あ?」
つい反論してしまうと、ギャビンは途端に血の気が上った様子で、こちらを睨んでくる。
コナーとギャビンが、しばし無言で睨み合いを続けていると――
「ところで」
と短く言って、ナイナーが二人の間に手だけを挟み込みつつ(止めているつもりなのだろうか?)、ハンクに問いかける。
「私は、ユーチェンの今後を憂慮しています。彼は現在のところ、法的には証拠品、で……本来ならばこの合衆国内での存在を認可されない立場です。警部補は、どう判断されますか」
「そうだな。ま、本来なら中国に送り返されちまうのかもしれんが」
しばらく思考を巡らせた後、警部補は微笑んだ。
「このご時世だ、さすがにそうはならねえだろう。ツテを頼ってみることにするよ」
「ツテ……?」
ナイナーは少し戸惑ったような声を発している。けれどコナーには、もちろん、その“ツテ”が誰なのかすぐにわかったのだった。
***
――2039年7月17日 10:31
「……ああ、そうだ。いや、取引じゃない。ただ単に、頼れそうなのがお前以外にいないってだけだよ」
署の地下にある、証拠保管室にて。
今回のリュウズ・ペットショップで見つかった証拠品が並ぶその棚の前で、ぐるぐると歩き回りながら、ハンクは電話で話している。
その様子を見守りつつ、コナーはちらりと、棚の一番左――アンドロイド用のデッキに繫がれている、ユーチェンの姿を一瞥した。
既にマルウェアは除去され、しかしそれ以来、彼はスリープ状態に移行している。移植されている腕も、もう振るわれることはないだろう。
そうこうするうちに、警部補のほうの話は纏まったようだ。
「ああ……わかってるよ、今度はお茶っ葉も買ってやるよ。だからうるせえこと言わずに……そうか、悪いな。じゃ、頼んだ」
携帯端末をタップして電話を切った警部補に対し、そっと尋ねる。
「首尾は?」
「上々さ」
ニヤリと笑った彼は、ポケットに端末をしまうと肩を竦めた。
「ラチェットの奴、口では文句言ってたがユーチェンに興味津々だ。あいつなら、きっとこんな妙な改造すぐに治して、大事に扱ってくれるだろうよ」
「恐らくこのデトロイトに、彼女以上にフェイヤン社製に詳しい人物もいないでしょうからね」
ハンクに合わせて小さく笑うと、コナーは再び、ユーチェンに視線を向けた。
――今はまだ、彼にはここにいてもらわねばならない。しかしシーラの犯行が無事に立件され、裁判が終われば、ユーチェンは「証拠品」ではなくなる。“自由の身”だ。ひとまずラチェットの元にいてもらう手配はできたが、それから先は――もし、彼に望む心があるのなら――彼自身が決めることである。
「さて、行くぞコナー。まだ報告書が終わってないからな」
「はい」
警部補の背を追い、コナーもまた証拠保管室を出ようとする。
けれど、その背中に向かって――静かな、小さな声が聞こえた。
男性の声だ。
「……ありがとう」
「!」
僅かに驚き、立ち止まる。
だが振り返ると、コナーは微笑んで、言葉を返した――ユーチェンに対して。
「どういたしまして」
しかし、ユーチェンからの返事はない。
彼の姿勢はデッキに掛けられた俯き気味の状態から、何も変わっていないのだ。
首筋のLEDも、穏やかに緑色に点滅しているままである。
では、先ほどの声は幻聴か? あるいは、コナーのプログラムのエラーだろうか。
――もちろん、そんなわけはない。
きっとそのはずだ。
穏やかな笑みを湛えたまま、コナーは証拠保管室から出て行った。
(飛燕/Hecatoncheires 終わり)
ちなみにコナーが作ったマルウェアに使われていた画像は、スモウの寝姿でした!