Detroit: AI   作:けすた

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第37話:作家 前編/Bonnes Vacances! Part 1

――2039年7月18日 13:21

 

 

 バニラのような、アーモンドのような、ほのかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 ほどよい天井の灯りが、店内を埋め尽くさんばかりの本棚と、開いた古本の黄ばんだ紙面を照らしている。

 ページをめくる音と足音、僅かな咳払いの声以外は、鼓膜を刺激するものもない。周りにいる客たちは、自分を含め、目当ての本を見つけることにしか興味がない。だからこの本屋は、いつ来てもたいてい平和だ。

 

 手にしていた本を棚に戻し、ハンクは店の中の様子にちらりと視線を送った。この店――シーウェル・ブックスは、今やデトロイト市内に希少な“紙の本”専門店である。古本も新本も一緒くたに、幅広いジャンルを雑多に取り揃えたこの本屋は、若い頃から行きつけの場所の一つだ。

 もっともここ数年は、とても読書なんてできる精神状態ではなかったわけだが。

 

 ともあれ今日は、久しぶりの非番。夏らしい青空の下、散歩のついでに本を物色するにもってこいである。いつものようにチキンフィードで昼食を摂った後、ダウンタウンの外れまで足を伸ばし、ハンクはこの書店に立ち寄った。

 

 言うまでもなく、ハンクは紙の本を好む。時が経つと共に色褪せていくページの質感、立ち上る独特の匂い、何よりも紙をめくる時の感触――どれも、電子媒体の書籍では手に入れられないものだからだ。

 それに、古本をあたるのにだって理由がある。例えばたまには吞気な娯楽小説が読みたい、などと思ったとしても、自分のようなひねくれ者が好む作品というのはたいてい人気がなく、つまりあまり出回っておらず、しかも頼りないペーパーバックでしか出版されていない。

 となると、こうして古本を直接探していくしかない。趣味が合い、かつ状態のいいものに巡り合えれば幸運だ。

 

 そして今日は既に、それなりに面白そうな本をもう2冊も見つけられていた。まあ、あと一冊くらい目ぼしいものを見つけたら、会計を済ませて家に帰ろうか――などと思いながら、ハンクは別の書棚へと視線を移す。

 

 するとそこで、一人の少女の存在に気づいた。

 白い麦わら帽子を被り、白いワンピースを纏った、小柄な黒人系の少女だ。年の頃は、まだ15・6だろうか。この辺りでは見かけたことのない顔である。

 

 彼女はまっすぐに手を上にのばし、短いジャンプを繰り返していた。棚の高いところにある本の背表紙を見つめ、僅かに眉を顰めた少女が身をのばす度に、後ろで一括りにされた癖のある髪が揺れている。

 

 ハンクはまた、店内を一瞥した。踏み台や梯子の類は、どうやら近くにない。全部誰かが使っているのだろうか?

 となれば、取るべき行動は一つだろう。

 

「どの本だ?」

 

 横からこちらがそっと声をかけると、少女は少し驚いたような顔をした。けれどすぐに落ち着いた面持ちになると、静かに口を開く。

 

「サミュエル・デイヴィドソンの『勇躍の空』第3巻。青い背表紙の」

 

 彼女が指さす先には、確かに、その通りのタイトルの本があった。腕をのばし、本を手に取ると――実際、自分の身長であれば苦もなく取れる高さだった――少女の眼前に差し出す。

 

「ほら、これでいいか」

「ありがとう、おじさま」

 

 本を両手で受け取り、大事そうに胸の前で抱えると、彼女は微笑んで礼を述べた。

 

「この本、ずっと探していたの。3巻だけ電子化されてなくて」

「そりゃよかった」

 

 相手に応えるように、ハンクは薄く笑った。“おじさま”などという耳慣れない呼ばれ方が、少しむずがゆかったというのもある。照れくささに勝てず、そのまま目を逸らし――そしてふと、視界に入ってきた一冊の本が気になった。

 

 その本は少女の立つ隣の棚に、表紙を客側に向けるようにして陳列されていた。「待望の紙書籍化!」の文字が躍るその本のタイトルは――『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』である。

 

 瞬間、脳裏を過ぎったのは、ニュース番組の映像だった。

 あれはちょうど去年、署に配属されてきたコナーと、無理やり仕事を組まされた頃だっただろうか。サイバーライフが開発した、確か「ヴォルテール」とかいう名前のAIが書いたベストセラー小説が、世間を騒がせていた。

 SNSのトレンドを分析して内容を構築した作品で、批評家がこぞってその出来を絶賛しただの、変異体の革命騒ぎを経てもその勢いはとどまるところを知らず、結局去年出版された中で一番売れた本になっただの――そんな情報を、ちらほら見かけたような覚えがある。

 

 コナーと出会って、変異体事件を乗り越えるまでの自分は当然、AIが書いた小説なんて読めたものかと息巻いていた。それから多少はマトモになった今であっても、この『人類は哺乳類~』が紙書籍では出版されていないと聞いて、これまで食指が動かなかったのだ。

 

 だがそんな小説が、ようやく紙の本好きにも対応してくれたらしい。分厚く立派なハードカバーで装丁されたその本を、何気なくハンクは手に取った。

 だが、表紙をめくるよりも早く口を開いたのは、じっとこちらを見つめたままの少女だった。

 

「おじさま、その本に興味あるの?」

「ん? ああ……」

「やめておいたほうがいいわ」

 

 妙に大人びた面持ちと口調で、彼女は語る。

 

「所詮、トレンドの後追いで作られた小説だもの。大きな破綻はないけど、特徴もない。作家本人の主義主張すら感じられない。AIが書いたとはいえ、反省されるべき点よ」

 

 眉を顰めた少女は、いかにも真剣な様子だ。

 

「世間が何を言ったって、私はその作品を認められないわ」

「つまり君は、この本が嫌いってわけか?」

「ええ。気に入らない」

 

 こくりと頷いてみせる少女に対して、ハンクは小さく笑いかけた。もちろん、彼女を馬鹿にしているのではない。まるで流れるように批判を口にしたその姿に、これまで我慢していた言葉を放てる相手を見つけて躍起になっているような、微笑ましいものを感じたからだ。

 

「そうか。ま、忠告はありがたく受け取るが」

 

 手にしている本を戻すことなく、ハンクは表紙を少女に向けると、続けて言った。

 

「せっかくの機会だ、この本は買ってくよ。よく知りもしないモンの中身を決めつけてかかるのは、褒められたもんじゃないしな」

 

 告げてから、皮肉っぽく肩を竦める。――まったく、どの口がこんなことを言うんだろうか。しかしまあ、実際その通りのはずだ。自分にとってのアンドロイドだって、そうだったのだから。

 

「あら」

 

 一方で少女は気おくれも見せずに、逆にぱっと表情を輝かせて言う。

 

「確かにそうね。実際に読んでみるまでは、どんな本かなんてわからないもの。おじさまの考え、素敵だと思うわ」

「……そいつはどうも」

 

 ――こうまで褒められると、なんとも居心地が悪い。世の中の掃き溜めばかり覗いてきた職業柄、何か裏でもあるんじゃないかなどという疑心が頭をもたげてくる。もっともこの女の子からは、そんな雰囲気は感じ取れないけれども。

 

 ハンクはそそくさと踵を返し、レジカウンターへと向かった。カウンターの奥には、店主である中年の白人男性が座っている。片手で本を開いて暇そうに読んでいた彼は、客が近づいてきたのを察してこちらに向けた目を、軽く見開いた。

 

「おお、ハンク。久しぶりだな」

「よう、フィル」

 

 本を合計3冊、相手に渡してから、ハンクはさらに続けて語りかける。

 

「元気そうで何よりだよ。親父さんの調子はどうだ? 相変わらずか」

「ああ、相変わらずかな」

 

 本をレジに通し、それと同時にこちらが払った金を受け取ると、釣りとレシートを返しつつフィルは言った。

 

「この店と同じで、“なんとかやってる”って奴さ。口数は減ってきたし、一日中ぼんやりだ。できるだけ、ホームには会いに行くようにしてるけど」

「そうか……」

 

 数十年前の元気な姿を知っている身として、そんな話を聞いては少し思うところがある。フィルの父親、つまりここの先代店主であるランディとは、それなりに親しい間柄だった。まだ自分が巡査の時代、店にいた万引き犯をしょっぴいたのがきっかけだったろうか。

 

 こんな世の中で愚直に紙の本を売り続けた変わり者の店主に、変わり者同士としての親近感を持っているのだが――連れ合いを亡くしたのがきっかけで老人ホームに入ったランディは、どうやら、めっきり老け込んでしまっているようである。身を切られるような寂しさと、寄る年波には勝てないというやつだろうか。

 

「いいことがあるように、祈ってるよ。親父さんに会ったら、ハンクがよろしく言ってたって伝えといてくれ」

 

 受け取った本を鞄にしまいつつ、軽く手を挙げてこちらが言うと、フィルもまた片手を挙げて返事した。

 

「ああ、ありがとう。そうするよ」

 

 ハンクはそのまま、店を出る。白い服の少女の姿は、本棚の陰にちらりと見えた。

 

 

***

 

――2039年7月18日 13:52

 

 

 久しぶりに乗った路線バスの車内は、最後に乗った時とは様変わりしていた。アンドロイド専用の“荷物置き場”が撤廃され、座席には種族など関係なく乗客が座っている。

 革命直後の頃は混乱が何度も起きていたようだが、さすがに半年以上経った今、アンドロイドが座っているのに毎回ケチをつけるクズ野郎も減ってきたらしい。いたって平和にバスに乗り、降りて、しばらく歩けば自分の家に到着だ。

 

 と、玄関ドアに足を向けるその前に。

 ハンクは自分の家の庭の隅、ガレージの近くに歩を進め、そこで思わず「うお」と低く声をあげた。

 

 そこにあるのは、仕事でも使う自分の愛車だ。だが手動運転専門の古式ゆかしいボロ車は、新車もかくやというほどに磨き上げられた後だったのである。

 タイヤとホイールに溜まりに溜まっていた油汚れが消え去っているのはもちろん、くすみ一つない車体にはワックスがムラなく綺麗に塗られ、鏡のごとく陽光を反射している。窓ガラスも負けじと光り輝いていた。

 ついでに車内も、徹底的に掃除されているらしい。シートだけでなく、泥と埃と食べかすで惨めな姿を晒していたフロアマットが、クマのぬいぐるみみたいにフワフワになっているのがちらりと見えた。

 

 黒いボンネットに、困惑した自分の顔がくっきりと映っている。けれど、誰のせいでこうなったのかはもちろん承知していた。というより、だからこそ、今日は珍しく公共交通機関を使って移動していたのだ。

 

「コナーのやつ……」

 

 ――誰がここまでやっていいといった。こんなピカピカ車、逆に捜査現場で悪目立ちすること請け合いである。

 ため息をつきながら、ハンクは今朝の出来事を思い出した。

 

 

 休みだというのに今日も今日とて律儀な相棒は、いつものようにスモウの散歩を終えると、朝食を摂っているこちらを捕まえて、出し抜けにこう言ったのだ。

 

「予報によれば、今日は一日晴れるそうです。せっかくなので、洗車でもしようかと」

 

 どうやら、いつも使っている車の汚れが激しいのが気になっていたらしい。

 だがそもそもあれは自分の車で、それをコナーに掃除してもらう必要はない。洗うなら全自動洗車機のとこに行けばいいだけだし、お前も久々の非番なんだから、もっと時間を有効に使ったらどうだ――

 

 とハンクはトーストを齧りつつ抗弁したのだが、コナーはというと、「お気持ちは嬉しいのですが」などと前置きしながらこう言ってのけたのだ。

 

「あの車もまた、私にとっては仕事仲間のようなものです。それに以前も言いましたが、これは私が好きでやっていることなのですから、どうぞお気になさらず」

「そうは言うがな……」

「警部補こそ、お休みは有効に使ってください。たまには、散歩なんてどうです? 適度な有酸素運動は、脂肪燃焼が期待できますよ」

 

 右手の人差し指を軽く天井に向け、ウインクまでして提案してきた相棒に、これ以上言い返すのも無駄のように感じた。

 

 

 そういうわけで、コナーの“ありがたい”提案の通りに外出し、こうして戻ってきたわけなのだが――まさかここまでやってのけるとは。

 ああ、帰ってきた自分を見るコナーの、期待に満ちた眼差しが目に浮かぶようだ。

 叱るつもりはないし、そんな立場でもない。しかしここまでやる必要はないと、どう説明すればいいものやら。

 

 しかめっ面で玄関に向かい、鍵を使ってドアを開けたハンクは、次いで目に飛び込んできた光景に、ぽかんと口を開けた。

 

「いいぞスモウ、最高だ! とても、こう、フォトジェニックで!」

 

 コナーがリビングで叫びながら転げまわっている。

 正確にいえば、何やら指で四角形を作りつつ(写真家がアングルを決める時にやるアレだ)、大人しく座っているスモウの前で腹ばいになったりしゃがみ込んだりしていた。

 

「よし、次は伏せてくれ。わかるかい、“伏せ”だよ。ご褒美はこのささみジャーキーだ!」

 

 いつの間に買ったのか知らないが、コナーはポケットから取り出したジャーキーを犬の尻尾のごとくぶんぶん振っている。スモウは落ち着いた性格なので、それを見て特に興奮するでもないが――というより、コナーのほうが遥かに盛り上がっていた。そのあまりに、こちらの存在に気づいていないらしい。

 

「……」

 

 なんと声を掛ければよいものか、咄嗟に思いつかない。だからハンクはひとまず軽く咳払いしてから、わざと皮肉っぽく告げた。

 

「あー。どうやら、仕事は終わったらしいな」

「!」

 

 こちらが声を発するや否や、コナーはびたりと動きを止め、アンドロイド然とした素早さで首だけ振り向いた。

 その両目は瞬きすら忘れたようにじっと見開かれ、LEDリングはぐるぐると黄色くなってから徐々に青色に戻っていく。しゃがみ込んでいたコナーは、持っていたジャーキーを、まるで凶器か何かのように静かに床に置いた。それから首をこちらに向けたままゆっくりと体勢を変え、立ちあがる。

 ジャーキーはすかさずスモウが食べていた。

 

「警部補」

 

 僅かに眉間に皺を刻み、後ろ手を組んで直立すると、コナーは厳かな面持ちで言う。

 

「お早いお帰りですね。収穫はありましたか?」

「ああ、お蔭さんで。お前の珍妙な姿も見れたしな」

 

 リビングのローテーブルに本の入った鞄を置きつつ応えると、相手の眉間の皺はさらに深くなった。

 

「い、今のは、その……ジェリコの広報誌で、写真を募集していて……ぜひスモウの写真もと思い……」

 

 珍しく口ごもるように言いながら、コナーの首はだんだん俯いていく。

 アンドロイドは、見ただけでなんでもメモリーに残すことができるらしいので――たぶんああして転げまわるだけで、スモウの写真を撮れていたということなのだろう。

 

「すみません。最初はこんなはずではなかったんですが、思いのほか楽しくて、つい夢中になって……」

「別に謝ることじゃねえよ。ちょっとビビっただけだ」

 

 生真面目な相棒がこれ以上妙な落ち込み方をする前に、強引に話題を変えるようにハンクは続けた。

 

「それより、車を見たぞ。誰もあそこまでやれと言ってねえんだがな」

「ええ、完璧に仕上げておきましたよ」

 

 途端に顔を上げ、表情をころっと明るくすると――さっき思った通りの期待に満ちた目をしている――コナーは半ば身を乗り出すようにして言った。

 

「洗車は初めてでしたが、有意義な体験でした。もうあの車には、指紋を含めてあなたの痕跡は一切残っていませんよ」

「おいおい。証拠隠滅じゃないんだからよ」

 

 最新鋭のアンドロイドが本気を出せばあの程度は朝飯前、ということだろうか――そんなスーパーパワー、どこか他のところで役に立てればいいものを。

 だが当の本人はといえば、こちらの言葉をどう捉えたのか、相変わらずどこか誇らしげな態度で語る。

 

「想定より洗車が早く終わったので、家の掃除もしておきました。プライバシーには配慮したので、ご安心を」

「ああ、元から心配してねえよ……世話かけたな。で、この後はどうするつもりだ?」

「後とは?」

「午後の予定だよ。まさか半日かけてスモウの写真を撮るつもりでもないだろ」

 

 もし何もないと言うのなら、コナーこそ、散歩でもなんでもして好きに過ごせばいい。何も、他人の家事手伝いばかりする必要は――と言ってやろうと思っていたのに。

 コナーはといえば、きりっと眉を吊り上げて、まるで捜査計画でも話すかのように淀みなく語りだした。

 

「はい。この後は、買い出しに行こうかと。今後半月分の食料品を、纏めて購入しておきたいんです」

「半月? なんだってそんなに買う必要が……」

「休暇のうちに総菜を大量に作り置きして冷凍しておくのは、非常に効率的だと聞いて。ちょうど今日は、特売日の店舗が多いんですよ」

 

 と言いながら、彼はこちらに向かって左手のひらを突き出した。小さなスクリーンと化したそこには、この家を中心とした地図が映し出されている。よく見れば、地図の何か所かが赤い点で示されていた。たぶんこの点が目当ての店、ということなのだろうが――

 

「実は先日、近隣の食料品店や薬局をピックアップし、ネット上の特売情報とクーポン券を自動で集めるアプリケーションを作成しました」

「アプ……なんだって!?」

「アプリケーション。今まさに実行中です。これであなたのニーズに沿ったバーゲン情報をいつでも提供できますよ」

 

 穏やかに答えつつ、コナーは右手で自分の頭を指さした。

 しかしこっちとしては、別に単語が聞き取れなかったわけではない。

 

「あのな、コナー」

 

 思わず額に片手を置き、短く嘆息してから、ハンクは言葉を選んで語った。

 

「なんだ……そりゃお前の能力はお前が好きに使えばいいが……どうせならもっとすごいことに使ったらどうなんだ。せっかくのスーパープログラムが台無しだろうが」

「台無し? なぜです」

 

 いかにも不思議そうに、コナーは小首を傾げた。

 

「この程度、常時起動してもメモリは圧迫されませんよ。もし情報漏洩をご心配なら……」

「そういうこっちゃねえ。ただ……」

 

 ――ピカピカの最新鋭アンドロイドに、てめえの家事の世話なんてさせて悪いなと思っただけだよ!

 と言ってやろうかと思ったが――コナーがこんな真似をしているのは、律儀な“恩返し”とやらのためだけでなく、専門外のことをするのが純粋に楽しいから、というのもあるのかもしれない。

 捜査補佐を専門として造られ、任務の遂行以外の行為は無意味だとプログラムされ、ともすればそのプログラムのままに消えていったかもしれない相棒のことを思うと、その言葉は呑み込むしかなかった。

 

「……警部補?」

「なんでもない、気にすんな」

 

 乱暴に手を振ってから、ハンクは続ける。

 

「で、ご自慢のアプリが出したベストな買い物プランは?」

「まずこの店舗で、ジャガイモや玉ねぎなど、日持ちする野菜を購入します。次にこの店で卵を……」

「おい待て」

 

 コナーが指す左手の地図の点を見つめつつ、口を挟んだ。

 

「この最初の店、卵も普通に売ってるだろ。なぜここで買わないんだ?」

「次の店のほうが、卵が40セント安いからです。だから車は最初の店に停めたまま、7分歩いてこちらに行きます」

「7分!? 40セントぽっちのためにか」

 

 心からの驚きを籠めてハンクが言うと、何やらコナーは真剣な面持ちになる。

 

「いいですか、こう考えてください。私のプランなら、40セント得をするうえに、歩くぶん健康になれる」

 

 告げてからどこか得意げに、相棒は微笑んでみせた。

 だからハンクは腕組みをして、大きく嘆息してから応える。

 

「なら俺は、その40セントで歩く手間と時間を買うね」

 

 言われたコナーは、一瞬ひどくびっくりしたような顔をした。

 それからすかさず、何ごとか反論しようと口を開いたが――

 

「……! 失礼します」

 

 不意にこめかみのLEDリングが点滅して、緩やかな日常の雰囲気を一転させる。

 どこからの通信かコナーは言わなかったが、瞬きを重ねるその表情を見れば、発信源はおおかた予想できた。署か、ジェリコか、でなければナイナーか。

 

 数秒後、通信を終えた様子のコナーは、緊迫した面持ちで言った。

 

「すみません、警部補……ジェリコの知人からの通信でした。事情はまだはっきりしないのですが、私の力を借りたいそうです」

「急ぎみたいだな。俺も手を貸すか?」

「いえ、せっかくですが」

 

 コナーは、やや表情を和らげた。

 

「どうやら、必要なのは私だけのようですから。警部補はどうぞ、ゆっくりしていてください」

「そうだな」

 

 あっさりと頷く。

 ジェリコのアンドロイドには、まだ人間に不信感を持っている者も多いと聞く。ならば人間である自分がのこのこついて行くより、コナー一人が行ったほうがいい場合もあるだろう――と思ったからである。

 

「なら、お言葉に甘えるとするか。だが何かあったらすぐ呼べよ。それと、くれぐれも……」

「ええ、ハンク」

 

 玄関のドアに向かいつつ、すれ違いざまにコナーはなぜか、嬉しそうに笑った。

 

「無茶はしません、約束しますよ。それでは」

「気をつけてな」

 

 軽く頷き、相棒は出て行った。ドアが閉まる音が部屋に響くと同時に、スモウが足元まで静かに近づいて来る。

 

「……騒がしい奴が出てったな、スモウ。お前も写真撮られて疲れただろ、一緒にだらだらするか」

 

 AIが書いたというあの本でも、少し読んでみようか――と思いつつ、ハンクはひとまず、台所のコーヒーメーカーへと向かうのだった。

 

 

***

 

――2039年7月18日 14:18

 

 

 手配されたタクシーに飛び乗り、通りを走って数分。到着したジェリコの支部は、どことなく張り詰めた雰囲気に満ちていた。訪れた人間や変異体相手の窓口業務などはいつも通り行われているようだが、職員たちのストレスレベルが全体的に平均値より高い。

 

 さっきの通信相手であるジョッシュからは、「急ぎの相談がある、詳しくは会ってから」としか聞かされていない。だがしかし――いったい、何があったのだろう?

 入り口で室内の様子に素早く視線を巡らせつつ、コナーは疑問に思う。

 

 すると建物の奥から、ジョッシュが姿を見せた。

 彼のストレスレベルもまた、【62%】とやや高い数値となっている。面持ちもやや憔悴していたが――こちらを見るとにこやかに、彼は挨拶してくれた。

 

「悪いなコナー、休みの日に呼び出して」

「いや、大丈夫だ。それより、相談って……」

「こっちで話そう」

 

 ジョッシュは後方の扉を指した。やや大きなそのドアの先の部屋は、応接間になっている。入るのは、コナーとジョッシュの二人だけ。マーカスは今日も他の場所に潜伏しているようだが、ノースやサイモンは別の支部にいるとのことだった。

 

 ドアを閉め、こちらがソファに腰掛けると、テーブルを挟んだ向かい側に座ったジョッシュは重々しく口を開いた。

 

「実は、捜してほしい人がいる。人間じゃなく、アンドロイドだ」

「アンドロイド? 変異体か」

「ああ。そのはずだ……」

 

 なんとも曖昧に、彼は苦い表情で告げる。

 こちらから話を促してみると、ジョッシュはさらにこう語った。

 

「今朝早く、サイバーライフから連絡があったんだ。工場から逃げ出したアンドロイドがいるので、ジェリコでも行方を捜せと……しかもそのアンドロイドは、正規の生産ラインで組み上げられたんじゃなく、外部からの不正アクセスで、設備が勝手に起動したせいで生まれたらしい」

「……!」

 

 無言のままに、コナーは驚いた。

 通常、アンドロイドは生産計画に則って、工場で複数のパーツを機械のアームにより組み上げられることで誕生する。だがジョッシュの話によれば――

 

「ハッキングで工場の設備が一時的に乗っ取られた結果、そのアンドロイドが作られたと?」

「ああ、そうらしいな」

 

 困惑を示すように、ジョッシュは軽く首を横に振った。

 

「生まれたのはXR600型、オーダーメイドの特殊モデルだ。受注もないのに、休業状態の工場の設備が動き出して……生まれてすぐに、そのアンドロイドは逃げ出した。でも誰の仕業なのかは、まだわからない。XR600の行方も」

「……」

 

 話を聞きながら顎に手を置きつつ、コナーは黙考した。

 

 XR600といえば、ブロードハスト邸のダーレンとアイザックが記憶に新しい。容姿だけでなく、組み込まれたソーシャルモジュールや機能、材質までも、すべて顧客の注文通りに造りだされる高価なアンドロイドだ。

 

 となると、サイバーライフの工場設備をハッキングできるほどの技能を持った何者かが、高額なアンドロイドを自分のものにしたくて――あるいは転売するなどの目的で、違法に生産させたのだろうか? もっとも、サイバーライフのセキュリティを考えれば、そうやすやすと不正アクセスなど成功しそうにないのだが。

 

 それに生まれた後、そのXR600が逃げ出してしまっているのも気になった。

 保護条例が布かれて以降、アンドロイドは製造過程で変異するようになっている。つまりジョッシュがさっき言っていた通り、そのXR600も変異体のはずだ――そう、本来であれば。

 そして変異したばかりのアンドロイドが、時にパニック状態に陥ってしまうのはよく知られている事実だ。しかしそれで逃げ出したというのなら、今も行方をくらませている理由がわからない。何か事情があるのだろうか?

 

「他に情報は?」

 

 沈痛な表情のジョッシュに、コナーはさらに問いかける。

 

「そのアンドロイドの外見と、生まれた時の詳しい状況が知りたいんだが」

「それなら、サイバーライフから送られてきたログがある」

 

 はたと思い出したように、ジョッシュは言った。

 

「今送るよ。工場の設備の稼働記録だ……お前なら、何かわかるかも」

「ありがとう」

 

 ジョッシュのLEDリングが点滅するのに合わせて、こちらにデータが送信されてくる。

 ――受信完了。視界の端で展開したそれは、やはり、工場のデータログだった。それによれば、起動したのは市内北部の工場の設備で、時間帯は今日の3時ちょうど。深夜である。

 

 工場自体に不法侵入の形跡はなく、ただ装置だけが起動して――造られたのは、60代くらいの白人男性の外見を模したアンドロイドのようだ。中肉中背、白髪の短髪、ヘーゼル色の瞳。柔和な、恐らく多くの人に“紳士的”な印象を与えるだろう顔立ち。LEDリングは、最初から装着しないように設定されている。機体の出力などが強化された形跡はないので、恐らく身体能力は、普通の家事手伝い用アンドロイドと変わらない程度だろう。

 

 そんな老紳士風XR600は、組み上げられると、普遍的なアンドロイド用制服を身に纏ったまま工場を出て行った。正規の手順を経ずにXR600が消えたことに対する警告と、工場の正面玄関のドアが開閉したという記録を最後に、サイバーライフのログは終了している。

 

 しかし――

 XR600の生産過程を記述したログをもう一度分析しつつ、コナーはふと気がかりな記録を見つけた。

 

「ジョッシュ、このログの17822行――3時7分の箇所なんだが」

 

 視界の端に該当箇所を表示したまま、コナーは続けた。

 

「このXR600は、変異を促すメモリーを再生していない。何か……外部からの信号を受信しているみたいだ」

 

 工場生産のアンドロイドは、アームから外される直前に、あるメモリーを受け取ることで変異する。それは自分が「生きている」こと、「自由な存在である」ことを伝えるという、マーカスやコナーが変異を促す際に使用するのと同じメモリーである。

 だが記録によれば、XR600はこの正規の手順を踏んでいない。代わりに、外部とのなんらかの通信が、かなり長い時間実行されていたようだ。通信相手はジャミングされているようで、ログからは辿れないけれども――

 

「……これはなんだ?」

「ああ、本当だ!」

 

 自分に向けて呟くようにコナーが言うと、同じ箇所を精査したらしいジョッシュが、驚きの声を発した。

 

「見落としていたよ、確かにそうらしいな。こんな信号受信、生産工程にはないはずなのに」

「捜査の手がかりになるかもしれない。でも……」

 

 ――手がかりであると同時に、この情報は最悪の可能性をもこちらに伝えていた。

 

「万が一、XR600が受信していたのがなんらかのウイルスで……それが、セキュリティを突破するほど強力なものだとしたら」

 

 そっと語りかけるように、コナーはジョッシュに告げる。

 

「何が起きるのか、誰にも予測できない。アンドロイドへのウイルス感染は滅多にない事例だから、可能性は低いと思うけれど」

「そんなことになっていたら、彼本人だけじゃなく、周りにとっても危険だな。そうか……だからサイバーライフの担当者は、あんなにもピリピリしていたのか」

 

 ようやく納得がいった、というような面持ちで語るジョッシュに、問いかける。

 

「サイバーライフと、何かあったのかい?」

「最初の協力要請の時から、相手がいつにも増して高圧的だったんだ。そもそもこちらは、最初から協力するつもりなのに……。ついさっきも、今回の件はジェリコの過激派が裏で働いたテロ行為なんじゃないかと、サイバーライフの担当者が通信で尋ねてきて」

 

 その時はちょうど通信先にノースが居合わせたので、怒った彼女を宥めるのにかなり時間を要したらしい。ジョッシュの憔悴、そしてこのジェリコ支部を包む緊張感は、サイバーライフとのそうしたやり取りに原因があったようだ。

 とにかく――少し気を取り直した様子で、ジョッシュが語る。

 

「今は、各地にいる仲間からの目撃情報を集めてる。俺たちだけじゃ情報はあっても、きっと分析や追跡まではできない……でも、逃げたアンドロイドだって俺たちの仲間だ。もし何かあったのなら、なんとしても助けないと」

「だから僕を呼んだんだな」

「ああ」

 

 そう言ってから、彼は少し気おくれしたように俯いた。

 

「……悪いな、コナー。アンドロイドを捜すなら、お前が一番だと思ったんだ。でも、だからってお前のことを……」

「いいさ、わかってるよ」

 

 口先ではなく本心から、コナーは微笑んでジョッシュに告げる。

 

「変異体を捜すための僕の機能が役立てるなら、むしろ嬉しいくらいだ。全力を尽くすよ」

「そうか……ありがとう。何か有力な情報が入ったら、すぐ連絡する」

 

 ほっとしたようにジョッシュは言って、それから、これまでに集めたそれらしい目撃情報を纏めて送信してくれた。その中で一番現在地から近く、しかも目撃時間が近いものは――

 

「……129分前、ホテル・カトラスのタクシー乗り場か。ひとまず、そこに行ってみよう」

 

 アンドロイド同士ならば相手が自分の同族だと一目でわかるが、人間ではそうはいかない。つまり、確かな情報を辿るにはアンドロイドを頼るしかない。そして今回の件についてサイバーライフが焦り、ジェリコを疑う動きもある以上、あまり捜索に時間をかけてはいられない。

 できるだけ早く、XR600を見つけなければ。

 

 一瞬だけ、【ナイナーに連絡する】という考えも浮かんだが――否。彼は今、署で勤務中だ。いつも手助けしてもらってばかりではいられない。

 支部を出ると、コナーは急ぎ、ホテル・カトラスへと向かった。

 

***

 

 

 ホテル・カトラスは、デトロイト市内でも一、二を争う高級ホテルである。

 そしてXR600らしきアンドロイドを見かけたのは、ドアパーソンとして働いている男性の外見の変異体だった。彼は既にジョッシュ経由で話を聞いていたようで、やって来たコナーを見つけると、すぐに自分の持っている情報を渡してくれた。

 

「俺が見かけた時の様子と、ここのレストランで働いてる仲間が見かけた時のメモリーだ。共有しておくよ」

 

 そう言って触れたスキンから彼が送信したのは、言葉通り、XR600の映像情報である。

 

 時系列としては、レストランでの目撃が先だった。今朝の10時前、スイートルームのあるホテルの最上階からエレベーターで下りてきたXR600は、洒脱なスーツを纏っていて――どうやら工場を出た後、このホテルに宿泊したようだ――ホテル内のレストランにまっすぐやってくると、受付に恭しくこう言った。

 

『朝食を頼みたい。このホテルで一番のメニューをお願いするよ』

 

 低くしゃがれた声でそう告げたXR600はその後、テーブルに並んだ豪勢な朝食を、たっぷりと時間をかけて堪能していた。卵料理や分厚いベーコン、何種類ものパンや新鮮なフルーツが並ぶ皿を一つずつ上品に、それこそ、人間の裕福な紳士が食事をするように。

 ――食事? 摂食機能がついているとしても、人間のような味覚もなく、生理的に不必要な以上、進んで食事を摂るアンドロイドはそう多くないはずなのに。

 

 そしてXR600はレストランを出た後、荷物(木製のスーツケース、危険物は入っていない)を片手にホテルをチェックアウトして、ドアパーソンたるアンドロイドに静かに尋ねている。

 

『この近くに、動物園があるそうだね。あそこは、評判はいいのかい?』

 

 彼が聞いているのは、以前シロクマを模したアンドロイドのミザールが事件に巻き込まれた――マーサとミリア母娘の思い出の場所である、あの動物園だ。

 問われたドアパーソンは丁寧に、かの地が高い評価を受けていることと、到着までにかかるおおよその時間をXR600に教えていた。その後、XR600はタクシーに乗って走り去っていったようだ。

 

「たぶん、動物園に行ったんじゃないかと思うぞ。確証はないけど……これでも、参考になったか?」

「ああ、ありがとう。助かったよ」

 

 ドアパーソンに短く首肯すると共に謝意を述べたコナーは、タクシー乗り場の道路に視線を落とした。

 ソフトウェアを起動し、再現を試みる――だがタイヤ痕からXR600の行く先を確定させるには、あまりにも他の車の痕跡が多すぎた。要するに、彼が本当に動物園に行ったのかどうかは、まだはっきりしない。

 

 しかし今回の情報で、わかったことは二つある。

 一つ、XR600は不安定な動作はしていないこと。映像記録から分析した限りでは、彼のソフトウェアの状態は非常に安定している。むしろその行動は優雅かつ悠長で、とても工場から逃亡中のアンドロイドだとは思えないほどだ。このことから、彼が例えば人間に脅迫されるなどして、このような行動をとっている可能性は低くなる。それに、危惧していたようなウイルスに感染しているということもなさそうだ。

 

 もう一つ、XR600は金銭的に裕福であること。どのような手段を使ったのかはわからないが、彼はかなりの大金を持っている。ホテルに宿泊するだけでなく、レストランで豪華なメニューを頼み、タクシーに乗り――そもそも最初はアンドロイドの制服を纏っていたはずなのに、さっきはスーツ姿になっているのだ。どうやってそれだけの金銭を調達したのだろう? もし盗んだのであれば、それだけで大騒ぎになっているはずだ。しかし署のデータによれば、昨夜から今日にかけて、それらしい事件や通報の記録はない。

 

「……」

 

 今日何度目かの自動運転タクシーで動物園へと向かう道すがら、コナーは指先でコインを弾きつつ、思考を重ねた。

 

 ここまでのXR600の行動は、簡単に纏めればまるで【人生を楽しむ】ような――つまり、いかにも変異体らしいものばかりだ。しかし彼は、工場で変異を促されてはいない。自発的に変異したのか、変異体であるかのように振る舞うソーシャルモジュールを組み込まれているのか、それとも――?

 

 ひときわ高く跳んだコインを、指先だけでしっかと捕らえる。

 ――憶測だけを重ねても、正確な推理とはいえない。このまま情報を集めていき、XR600の目的がなんなのかを明らかにしなくては、彼の足取りを追うのは不可能だ。

 

 決意を固めると同時にコインをポケットにしまった頃、ちょうどタクシーが動物園の入り口に着く。

 しかしさっそく園の中に入って情報を探ろうとしたところで、コナーは、入り口のゲート付近に設置されている監視カメラの存在に気づいた。運よく、この場からデータを覗ける状態になっている。とはいえ今は警察として捜査をしているわけでもない以上、無許可でのデータ閲覧は違法行為なのだが――

 

 無言のまま、そっと周囲の状況を探る。どうやら、こちらを見咎める人もいないようだ。

 コナーは自動販売機の陰に何気なく佇んでいるようなフリをしながら、監視カメラとリンクし、記録された映像を視界に表示した。すると果たして106分前、ゲートをくぐるXR600の姿が確認できた。やはりホテルからそのまま、この動物園へ直行して来たらしい。

 

 XR600は持っていた荷物をロッカーに預けると、動物園の奥へと進んでいった。このカメラから追跡できる範囲で確認可能な行動はその程度だが、どうやらそれから彼は、やや急ぎ足で園内を見て回ったらしい。

 40分ほどかけて動物園を見物した後――そう、ちょうど今から1時間ほど前だ――彼はロッカーに預けていた荷物を回収して、再びタクシーに乗車している。

 

「……」

 

 コナーは、我知らず眉間に皺を寄せた。

 ほんの1時間前のこととはいえ、動物園の前の道路は往来が激しく、XR600が乗ったタクシーの轍の追跡はとてもできそうにない。監視カメラに行く手が映っていればよかったが、ざっと見たところ、それも期待できそうにない。

 要するに、この後XR600がどこに行ったのかの手がかりを失ってしまったのだ!

 

 とはいえここでの行動を見る限り、XR600はやはり、動物園を見物して“楽しんで”いる――つまり、自分の楽しみのために動いているように思えてくる。

 では次に彼が向かうのは、映画館や劇場などのエンターテイメント系の施設か、ミッドタウンにある美術館か、スポーツのスタジアムか。ジョッシュに依頼して、そういった施設で働いている変異体からの情報がないか、探ってみるのが先決だろうか?

 

 思考を纏め、ジェリコに連絡を入れようとした矢先――当のジェリコから、通信が入る。相手はジョッシュだ。

 音声は使わずにデータだけで、コナーは彼に応答した。

 

『ジョッシュ、どうしたんだ。何か情報が?』

『ああ、XR600の足取りが掴めたんだ!』

 

 通話先にいるジョッシュは、やや興奮した声音で語る。

 

『ほんの30分ほど前の目撃情報が入ってきたんだよ。喫茶店で働いている仲間が、それらしい人物を見かけたんだ。港湾地区で』

『港湾……?』

 

 意外だ。港湾地区はその名の通り港であって、何か目ぼしい娯楽施設があるわけでもない。これまでの行動傾向を考えると、あまりXR600が行きそうな場所ではないのだが――

 

『すぐに向かうよ。でもその前に』

 

 待機させたままにしていたタクシーに飛び乗りつつ、コナーはジョッシュに問いかける。

 

『目撃された時、XR600が何をしていたかの情報はあるか? 足取りを辿っているんだが、どうも目的が見えてこなくて』

『そうだな……話によると、店に入ってからはずっとコーヒーを飲んでいたようだ。読書をしながら』

『……コーヒー?』

『ああ。足元に荷物を置いていたから、てっきり旅行中の変異体が休憩しているのかと、目撃者は思ったらしい』

 

 ――彼はまた嗜好品をとっている。だがコーヒーと読書という行動は、やはりどことなく、これまでのXR600の傾向とはズレがあるように思えた。例えばその店の出しているコーヒーが、よほど特別なものなのであれば納得できるのだが――別にわざわざ港湾地区にまで出向かなくても、言ってしまえば、喫茶店なんてどこにでもある。

 

 なぜ彼は、港湾地区で読書を? そして、そこからどこに行ったのだろう。

 

 これまでに得た情報を統合し、推論を働かせる。その時、プログラム上で手がかりとして浮かび上がってきたのは【荷物】だった。

 

 そう――ホテルを出た時からずっと、XR600は荷物であるスーツケースを片手に移動している。そして、喫茶店のアンドロイドからはそんな姿を見て「旅行者かと思った」と語っている。そう考えるのは当然だし、XR600が逃亡中の身であることを考えると、荷物を持っているのはまったく不自然ではない。

 

 けれど、重要なのは彼が港湾地区にいるという点だ。1時間前に動物園を出て、30分前に喫茶店から出発しているということは、彼は移動時間を除いておよそ20分程度の時間を潰すために、()()()()喫茶店に入ったのだと考えるのが妥当だろう。

 アンドロイドは喉が突然渇いたりしないし、コーヒーを堪能したかったのならば、彼の行動傾向から考えてもっと長く滞在したはずだから。

 

 すなわち、彼は既に何か予定があって、それまでの暇つぶしとして喫茶店に入った。喫茶店を出た後に向かうのが、彼の目的地。そしてその目的地は恐らく、港湾地区の中にある。

 さらに彼が、スーツケースを持っていることから考えると――

 

「……!」

 

 結論に至ったコナーは、急いでタクシーの行く先を変更した。

 

「ジョッシュ、わかったぞ! XR600の目的地が……!」

 

 ――そしてこの推理が正しいのなら、今すぐに目的地に行かなければ、彼を取り逃がすことになってしまう。

 幸い、道は空いている。事の次第を通信先のジョッシュに説明しつつ、コナーはプログラムにないところから、胸の内へと広がる「焦燥感」を覚えていた。

 

***

 

 

 一方、その頃。

 自宅に残っているハンクは、リビングのソファで寛ぎながら、紙面に視線を走らせていた。すなわち、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』を読んでいるのである。

 

 過度な期待はせず、さりとて貶す気もなく、できるだけ先入観を持たないようにして読みはじめた小説ではあったが――実際、捻くれ者であっても世間の評価を認めざるを得ないような作品らしいと、4分の1ほど読み進めたハンクは思った。

 

 舞台は現代のアメリカ、温暖化の影響で環境が激変しつつあるカリフォルニア州カーン郡に住む主人公の男が、地元の畜産業を復興させるために遠くオーストラリアまで羊の買い付けに向かう。だが空港で、主人公は不思議な女性に出会い――といった冒頭から、話は徐々にサスペンスの香りを漂わせてくる。衒学的な宗教哲学の話題や、閉塞した社会情勢への皮肉を交えつつ、ユーモアと哀愁ある語り口が自然と読者を惹きつけて――

 

 一言で言ってしまえば、「とても面白い小説」。それが、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』だといえる。

 しかし――

 

「なるほどねえ」

 

 自分の髭を片手で撫でながら、ハンクは独り言ちた。

 

「あのお嬢さんの言ってたことも、わからなくはないな」

 

 彼女の言動を思い出しつつ、そう呟く。

 確かにこの小説は読者を飽きさせず、まさに、まるでSNSのタイムラインのように次々と新しい話題を提供してくる。けれどそのどれもが、作者の主義主張であるとは感じられない。語られるテーマはいつもどことなく他人事のような描写がされていて、語り手は話題をただ提供するに徹しているという印象がある。

 

 譬えるなら、この作品はハンバーガーだ。ゲイリーの店のもののようなパンチが効いたのではなく、もっと普遍的な、誰もが「好きか嫌いかで言えば好き」と答えるような味のするバーガー。

 少女が語っていた通り、「大きな破綻はないけど、特徴もない」。そう感じる気持ちはあった。

 

 もっとも、この感想もあの女の子の受け売りなのかもしれないが――

 自分に対して肩を竦めつつ、ハンクはさらにページをめくった。

 

 だが、その時。

 玄関の呼び鈴が、短くじりりと鳴らされる。

 

「……?」

 

 紙面から目を離し、ハンクはドアを見やって訝しんだ。

 

 ――コナーが戻ってきたのか?

 いや。あいつなら戻る前に律儀に連絡を入れてくるだろうし、もしそうできなかったのなら、ベルを鳴らしながら「警部補、戻りました!」などと大声をあげていることだろう。

 

 そして自分には、連絡もなしにいきなり訪ねてくるような知り合いなんていない。

 となると訪問セールスか、あるいは――

 

「……」

 

 眼差しが鋭くなるのは、以前の出来事を思い出したからだ。去年の11月に変異体事件の捜査を外された後、つまりパーキンスをぶん殴った後で自宅に戻ったハンクは、玄関を訪れたとある「客」を、疑いもせずに招き入れてしまった。

 パートナーたるコナーと瓜二つの、別のアンドロイド。銃を突きつけられる瞬間まで、あの時の自分は一切異変に気づけなかった。

 

 あれ以来だろうか――それに、「吸血鬼」の組織に身柄を狙われているという情報を得てからだろうか。急な訪問客は、あまり信用しないことにしている。

 

 もう一度、呼び鈴が鳴らされている。足音を立てないようにしながら、ハンクは玄関が見える窓の近くにまで歩み寄った。ここからなら、ドアの前に立っているのが誰なのか、カーテンの隙間から覗き見ることができる。

 

 そうして、そっと向こうに視線を送ったハンクの瞳は数秒後、驚きに見開かれることになるのだった。

 

***

 

――2039年7月18日 15:15

 

 

 タクシーが停車するのとほぼ同時に、コナーはアスファルト舗装の地面を蹴って駆けだした。

 眼前に広がるのは大きな港――観光用のクルーズ船が行き来する、デトロイト河の玄関口。そこから今まさに出航せんとしているのは、白い大型の観光船【ヴィクトワール号】。デトロイトからオンタリオのサンダーベイまで、いくつかの港を経由しながら進むその航程は、約10日間。

 

 船の旅行客を見送るために、港には大勢の人々が押し寄せている。そして轟くような汽笛が周囲に鳴り響く中、甲板に立つ旅客たちも、港に向かって手を振っていて――

 

「……いた!」

 

 我知らず呟く。視覚モジュールは正確に、彼方に佇む()の存在を捕捉していた。

 甲板に立ち、例のスーツケースを片手に、穏やかに港を眺めている人物。

 XR600だ、間違いない! やはり彼は、船に乗っていたのだ。

 

 港湾地区内にある、旅行者が使用しそうなモノ。かつ、彼が喫茶店から出たすぐ後に、出港の予定があるモノ。その条件に合致するのがヴィクトワール号だけだったので、こうして急行したのだが――どうやら、読みは当たっていたようだ。

 

「すみません、どいてください!」

 

 声を張り上げて人の波を掻き分け、あるいはすり抜けつつ、コナーは船との距離を詰めていく。もちろんXR600は犯罪者ではないわけで、捕縛の必要はないのだが――仮に彼の目的が単なる娯楽で、旅行を楽しみたいだけなのだとしても、事情も聞かずに放置することはできない。

 

 現に彼を作った何者かの意志と、彼の謎の逃亡によって、サイバーライフとジェリコの関係が悪化しつつあるのだ。まずはなんとしても、あの船に乗らなくては。

 ここを逃せば、次の機は遥か先になってしまう!

 

 だがしかし、既に汽笛は鳴った後。船は徐々に陸から離れていく。このまま走っていたのでは、XR600の元へは辿りつけず――否。

 

 ――逃がすか!

 

 展開したソフトウェアによる予測は、経路のいくつかの候補を提示していた。

 そして今、採るべき方策は、【リスクが高い】選択肢しかない。

 

 戸惑う人々の隙間を通り抜け、コナーは港に設置された階段状のタラップに駆け寄った。

 素早く駆けあがり、頂点から前方へと大きくジャンプして――

 その軌道は、計算通りのものだった。

 

「きゃああ!」

 

 突然甲板に降り立ったアンドロイドの姿に、旅行者たちから悲鳴があがる。

 コナーは周りに一度目礼をしてから、すぐに視線を巡らせた。だが捕捉したXR600は、逃げようとするそぶりを見せない。

 

 彼は柔和な面持ちを崩さずに、ただじっと、興味を引かれたようにこちらを見つめている。

 それはどことなく、去年の出来事――テストで「陽性」だと自分が示してしまった時にカムスキーが見せた、あの眼差しを想起させるものだった。

 

「君がXR600か?」

 

 逃げようとしていないのなら、走る必要はない。静かに歩み寄って、コナーは尋ねた。

 

「君を捜していたんだ。傷つけるつもりはない……ただ、話を」

「わかっているとも、RK800コナー」

 

 こちらの言葉をやんわりと遮りながら、XR600は言った。

 にこにこと微笑みつつ、至極柔らかな口調で。

 

「しかし、サイバーライフの下馬評というのも意外とあてになるらしい……よく私を見つけてくれた。さすがは、最新鋭のアンドロイドというところかな」

()()()()()()()、だって?」

 

 訝しさに、自然と眉を顰めてしまう。

 彼の言い分ではまるで、自分を捜してほしかったかのようだ。

 

「どういう意味だ? 君は工場から逃げ出した……自由な楽しみを得たくて、こうしていたんじゃないのかい」

「半分は正解だが、半分は違っている。曖昧な言い方を君が嫌うなら……私にはまだ秘密がある、とだけ言っておこうか」

 

 そう言って、XR600はふふふと声を漏らして笑った。

 

「だがどうか安心してほしい。私は虐げられた変異体でも、明日をも知れぬ逃亡者でもない。これまで起きたことも、これから起こることも、私にとってはすべて思い通りの展開さ」

「何を言って……」

「つまり、こういうことだよ」

 

 彼は、そっとある一点を指さした。

 まさか、何か船に仕掛けでもしてあるのか――!? と警戒しながらその指す先を見やるものの、そこには何もない。

 

 ただ、ゆっくりと近づきつつあるデトロイト港が見えていた。

 要するにヴィクトワール号が、来た道を戻っているのだ。

 

「なぜ戻って……? もしかして、君が」

「ああ、そうさ」

 

 XR600はこくりと頷いてみせた。港に白い車――そのボンネットには、サイバーライフのロゴが入っている――が停まるのを見て、その笑みはさらに濃くなる。

 

「コナー、君がここに到達した段階で、私からサイバーライフに連絡を入れた。楽しい旅行ではあったが、そろそろ戻らなくてはな」

「待ってくれ。まだ話は終わってない……何か事情があるのなら、教えてくれないか」

「ふふふ」

 

 また笑い、XR600はこちらをひたと見つめた。

 

「優しいんだな、君は。だが言っただろう、安心してほしいと……私は誰かに口を噤まされているわけではない。必要なことは、後で話すよ。そう……どうせ君とは、この後も会うだろうからね」

 

 XR600がそんなことを語る間に、船は港に着いた。

 サイバーライフの権勢はこの時世にあっても絶大のようで、彼らからの連絡で回頭したヴィクトワール号は、コナーとXR600を下ろした後、大きな混乱もなくまた出港していった。

 

 そして、XR600は――

 

「さようなら、コナー。ジェリコの人々には、迷惑をかけてすまないと伝えておいてくれ」

 

 その一言を残し、一切の抵抗を見せず、自らサイバーライフの車に乗り込んでいった。やって来たエージェントたちは、こちらを一顧だにせずにただ彼を“回収”すると、すぐさまベル島の本社へと戻っていく。

 

 問いかけへの返事を貰えずに、コナーはただしばらく、遠ざかっていく車を見つめていた。

 

 

 そしてそれから、20分ほどの時が経つ。

 

「……」

 

 コナーは、アンダーソン邸の玄関ドアの前に立っていた。

 ここまで戻る間にジョッシュへの通信をしていたために――XR600の事情は明らかになっていないものの、ひとまず穏便な形で事件が解決したということで、彼からはたいへんな感謝を受けたが――連絡ができずに、ついいきなり来てしまった。

 

 だがともかく、まずはまた家にお邪魔しよう。今回の件について、ぜひ警部補の意見を聞いておきたい。

 そう思って、コナーは最初に呼び鈴を鳴らした。それから、意図的にやや大きな声で呼びかける。

 

「警部補、戻りました!」

 

 すると僅か4秒後、ドアががちゃりと開かれた。その先に立っているのは、もちろん、アンダーソン警部補である。どういうわけか、やや不機嫌な面持ちをしているが。

 

「お疲れさん、コナー」

 

 彼は口の端だけ吊り上げて、皮肉っぽく言った。

 

「その様子だと、ひと悶着あったらしいな」

「ええ。実はぜひ、あなたの意見を伺いたくて」

「そりゃよかった」

 

 そう言うと、彼は右に一歩移動した。

 そうして開けた視界の先にある光景に、コナーは一瞬、言葉を失う。

 

「こっちもお前の意見が聞きたい。……妙なお客が来てるもんでな」

 

 ばりばりと頭を掻きながら、ハンクは鼻を鳴らした。

 振り返った彼の視線の先、つまりコナーが見つめるのと同じ方向にある、リビングのソファに腰かけているのは――

 

「こんにちは、RK800コナー。さっきは、どうもありがとう」

 

 白い麦わら帽子を被り、白いワンピースを纏った、小柄な黒人系の少女。

 いや――厳密には、()()()()()()()()()()()()()()

 

 コナーの視界には、はっきりと分析結果が示されていた。彼女の型番は【XR600】――さっきの老紳士風アンドロイドと、まったく同じ。

 彼女はハンクに供されたと思しきコーヒーカップを片手に、膝の上に古本を広げて、優雅にこちらに微笑みかけている。

 

「……!」

 

 思わずハンクを庇うように前に出ながら、コナーは鋭く問いかけた。

 

「君たちは何者だ? この後も会う、と言っていたのはこのことか……目的はなんなんだ!?」

「私の目的は、後でお話しするとして」

 

 カップをローテーブルの皿に戻すと、本を横に置き、恭しくXR600は立ちあがる。

 それから細い指を胸に置き、真摯な口調で、彼女はこう言った。

 

「自己紹介をさせてちょうだい。私の名前は、“ヴォルテール”。その本の作者です」

 

 弾かれるように、コナーはXR600――ヴォルテールを名乗った彼女が視線で示す先を見た。

 ローテーブルの上には、一冊の本が置いてある。

 

 すなわち、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』――が。

 







続きは4月上旬、あまり遅くならないうちに更新します!
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