――2039年7月20日 06:37
深夜にかけて降っていた雨が上がり、地面にはぬかるみだけが残っている。
デトロイト河畔、リバーサイドパーク近くの河川敷に、コナーは佇んでいた。近くにはコリンズ刑事をはじめとした警察官たちと、早くも仕事を始めているCSIの捜査員たちもいる。
――彼はまだだろうか。
内心の懸念を紛らわせるように両手を擦り合わせながら、コナーはそう考えた。だが河川敷を歩くコリンズ刑事の足がうっそうとした雑草の茂みに差し掛かろうとしているのに気づいて、そっと声をかける。
「コリンズ刑事。気をつけて」
茂みの中の一点を指して、続けて言った。
「ドクウルシが生えている。触るとかぶれますよ」
「おっと、そりゃ困るな」
コリンズ刑事は慌てたように足を引っ込めると、肩を竦めてみせた。
「夏場はズボンの生地を薄くしてるんだよ。ありがとうな、コナー」
「いえ」
「にしても、ハンクはいつ来たもんかな……」
タブレット端末を持っていないほうの手で頭を掻きつつ、彼は視線を道路のほうへと向けた。コナーもまた刑事にならって、アンダーソン警部補が来るであろう方向を見つめる。
昨日の一件、つまり空港での事件の捜査を終えた後。グレアム・トルシェムから侮辱を受けたハンクは、一人で家に戻っていった。
彼を信用していないわけでは、決してない。けれどもかつてのハンクであれば、あんな精神的な負荷を受けたとあってはきっと、あのエデンクラブの捜査の前のように、泥酔しきるまで飲酒したことだろう。
となれば、これもまた以前の彼のように、「昼前に現れたら驚き」という話になってしまうのかもしれないが――
「……!」
しかし早朝の薄明りの中を、こちらに向かって走ってくる一台の車が見えた時、コナーはほっと「安堵」の感情を覚えた。――ハンクの車だ。
「アンダーソン警部補!」
車が停まるとほぼ同時に、コナーは呼びかけつつ駆け出した。小走りに近づいたその時、ドアが開いて姿を現したのは、他ならぬハンクである。
いつも朝はそうであるように、警部補は不機嫌極まりない顔をしていた。その呼気からは【0.11mg/L】程度のアルコールが検出されるものの、運転や捜査に支障のあるレベルではない。
よかった、とコナーはもう一度思った。こんなふうに考えること自体、ハンクにとっては不名誉だろうから、面と向かって言うことはないけれども――やはり彼は過去を乗り越えようとしているのだ。あんな出来事があった後でも。
そして、
「おはようございます、警部補」
「ああ、朝からご苦労だなコナー」
普段と同じく片手を軽く振って挨拶してから、ハンクは短く嘆息した。
「まだ寝てたんだが、お前の電話で叩き起こされたよ」
「以前のご要望通り、平手ではなく声でお起こししました」
こちらの言葉を受けてハンクはわずかに口角を上げ、それから眼差しを鋭くした。
道路から河べりにかけてちょうど坂のようになっている箇所、そのある一点に規制線が張られ、警官たちが立っているのを確認したからだ。
「あれがお前の話にあった……か」
「ええ」
電話で伝えた内容を確認するように呟く警部補に、コナーは首肯した。するとそれに合わせるように、コリンズ刑事がこちらへやって来る。
「ようハンク。悪いな、呼び立てて」
「何、昨日の今日だ。無理もねえよ」
ハンクとコリンズ刑事は、おもむろに規制線のほう――つまり事件現場へと向かう。コナーは少し遅れてそれに続いた。
約4メートル四方に張られた規制線でできた区画、その中心部に、一人の男性が遺体となって倒れている。くすんだ短い金髪、白人の壮年男性。薄手のシャツとデニムといういで立ちは昨日と変わらず、ただ、その表情は驚愕に歪んだままで止まっている。そして額には、赤黒い風穴が空いていた。
グレアム・トルシェム。商売敵であるエミール・ダックスに、危うく麻薬密輸の濡れ衣を着せられそうになっていた――そしてハンクの息子・コールの死を招いた医師の元上司であり、事件を解決したハンクに侮蔑の言葉を投げかけた張本人。
その彼の遺体が今朝、こうして発見されたのだ。
河川敷の茂みからはみ出ている両足を発見した地元のランナーの通報があったのが、49分前。そしてポケットの財布に入っていた身分証から身元がすぐに特定され、彼がアンダーソン警部補の担当した事件に巻き込まれたばかりだったと判明したのが32分前。
本来ならアンドロイド絡みの事件だと断定できてからコナーたちに連絡が入るようになっているのだが、今回は状況の特殊さを踏まえて、すぐに現場に来るようにコリンズ刑事から要請があったのだ。
そういうわけでコナーとハンクは今、トルシェム氏の遺体に向き合っている。
亡骸を見た瞬間、ハンクはなんとも言えない面持ちで低く唸った。
「……まさか、こんなことになっちまうとはな。今さら何も言えやしないが、気の毒なこった」
「死因は額の銃創です。9mmの弾が直撃、傷は脳幹まで達しています」
コナーもまた苦い表情でトルシェム氏を見下ろしながら、あえて職務上の説明だけ口にした。
――メモリーに浮かぶのは、「人生は長い」と哄笑する彼の姿だ。こんな末路をあの後迎えることになるだなんて、彼だけでなく、誰にも予測などできなかっただろう。
財布や携帯端末がそのままポケットにあったことから、強盗による犯行の線は薄い。
まさかこれもダックスの仕業なのか、別のところでも恨みを買っていたのか、あるいは――
今はまだ何も断定できない。
一方でこちらの説明を受けて、ハンクは遺体の周りをゆっくりと歩き回りながら、また口を開いた。
「死亡推定時刻は?」
「内臓の一部と顎関節の硬直から判断すれば、およそ2時間前かと」
「およそ?」
聞きとがめるように、ハンクは顔を上げる。
「お前いつも、分析しただけで時間どころか分まで当ててただろ。今日は調子悪いのか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、状況に不確定要素が多くて」
黙ってこちらの話を聞いている警部補、そしてコリンズ刑事に向かって、説明を続けた。
「死後硬直の状態からは、死亡推定時刻が本日4時21分との情報が得られます。ですが額の銃創をみると、発砲を受けたのはそれよりも前である可能性が高い」
分析によって得られる死亡推定時刻は、遺体全体の情報をプログラム上で統合して得られる。したがって、今回のように遺体の各所が示す情報が食い違っている場合は、時刻をぴたりと特定するのは困難なのだ。
「司法解剖を伴う検視の後なら、さらに情報を得られるでしょう。時刻も確定できるかと。それまでは、今お話しした程度しか」
「なるほどな。それ以外に、何かわかることは――」
と言いつつ、ハンクはしゃがみ込んでじっとトルシェム氏を見つめた。
「……顔にかすり傷がついてるな。傷口が塞がってない、撃たれてからついた傷だ。コナー、例の『再現』てのはどうなってる」
「トルシェム氏は道路で撃たれて倒れた後、そのまま犯人の足で、この茂みへと転がされたものと思われます。腹部に道路上のものと同じ土が……頬の傷は、この坂でついたものでしょう」
坂に生えている雑草が折れており、またそのうちいくつかから、トルシェム氏の血液が検出されている。腹を蹴られ、まるで丸太を転がすようにして、遺体は無残にも茂みへと隠されたのだ。しかし――
「雨のせいで、道路上の足跡やタイヤ痕は掻き消されていました。ですからトルシェム氏がどのような状況で射撃を受けたのかは、再現ができません」
「倒れた後からしかわからねえってことだな。それで、ベン」
立ち上がり、警部補はコリンズ刑事に尋ねる。
「薬莢は見つかってんのか? それと、第一発見者はなんて言ってる」
「空薬莢はすぐに見つかった。コナーが傷口を分析した通り、9mm弾だ。第一発見者からは一応事情を聞いてみたが、本当にただ通りがかりに見つけたってだけらしい」
「その通行人も、朝っぱらから不幸だったな」
苦い顔でハンクは鼻を鳴らした。それに合わせて、思い出したようにコリンズ刑事は言う。
「ああ、それと害者の家にはもう連絡しておいた。あと1時間くらいしたら、嫁さんが署のほうに来るそうだ」
「確かメイジーって名だったか。気の毒にな……」
眉を曇らせて呟くと、次いで、警部補ははっと何かに気づいたように表情を変えた。
「そういや、害者のここの弾は調べたか。コナー」
ここ、と言いつつ彼は自分の額を人差し指で示した。
「弾を調べりゃ、どんな銃か特定できる。ひょっとしたら、持ち主もわかるかもな」
「ええ。弾丸を詳しく分析するには遺体に触る必要があったので、警部補が来られるまではと思っていたのですが……今実行しても?」
ハンクは無言のまま目で頷いた。隣のコリンズ刑事も、それに応じている。
コナーは遺体の頭の近くにしゃがみ込んだ。それから、そっと右手の親指と人差し指で額の銃創を開き、覗き見る。
――【9mm ホローポイント弾 圧壊状態】。
ホローポイント弾とは、柔らかい鉛の部分があえて剥き出しにされている弾丸だ。命中すると鉛部分が変形して内部に留まるため、目標を貫通しづらいという特徴がある。跳弾などによる二次災害を防ぐため、主に警察で使用されている弾だが――
「潰れていますが、施条痕は解析可能ですね」
それぞれの銃に特有である施条痕は、くっきりと弾に刻まれていた。これなら、自分の機能を使えばすぐに所持者を特定できるだろう。確信と共にコナーが告げると、ハンクが言った。
「じゃ、やってみろ」
「はい」
プログラム上で、遺体内部の弾が元の形状へと復元されていく。そして目視の範囲で刻まれている痕跡も、瞬く間に再現されていった。
――【該当:1件】。
どうやら警察のデータベースに、この弾を放った銃の持ち主は記録されているらしい。
コナーはすぐさま、データを展開した。
そして――
「!」
視界の端に浮かぶその結果が信じられずに、思わず言葉を失う。
「そんな……」
我知らず、唇が震えている。変異体特有の、感情の発作に伴う不随意的機体反応――いや、そんなこと今はどうでもいい。
嘘だ、そんなはずがない。絶対にない。きっとデータベースが間違っているんだ、でなければ僕自身が故障しているのか?
縋るような思いで、自己診断プログラムを走らせる。だが数秒後に表示される結果は【異常なし】。
馬鹿な、異常がないだって!? この状況そのものが異常だっていうのに!
「おい……」
きっと今、自分のLEDリングは激しく黄色と赤の間を点滅しているのだろう。歩み寄ってきたハンクが、心配そうな面持ちで問いかけてくる。
「どうした、コナー!? 何かあったか」
「……警部補」
音声の震えを制御できない。それでもコナーはなんとか立ち上がり、それから警部補の眼前に、片手のひらに投映した画面を差し出した。
なんと伝えればいいのかわからない、だからこそ直接見せるしかないという、そんな気持ちで。
そしてそれを見たハンクの双眸が、これまでになく大きく見開かれる。後ろから同じ画面を見たコリンズ刑事が、息を吞む音が聞こえた。
「冗談きついぜ……」
ハンクの頬を冷や汗が一筋垂れ落ち、引き攣った口から呻きが漏れた。
――当然の反応だ。
分析の結果、銃の所有者の名はデトロイト市警のハンク・アンダーソン。
つまり、トルシェム氏殺害の第一容疑者は他ならぬアンダーソン警部補。
彼が今まさに脇の下に吊るしている職務用の銃から放たれた弾丸で、トルシェム氏は殺害された。
そう結果が示しているのだ。
***
――2039年7月20日 08:45
「署長、納得できません! すぐに私たちに捜査を再開させてください!」
苦虫を噛み潰したような面持ちの署長のデスクに両手を叩きつけながら、コナーは訴えた。
「ハンクが犯人だなんて、絶対にあり得ない! 何かトリックがある、必ず解明できるはずだ!!」
「おい、コナー」
「止めないでください、警部補」
トントンと肩を後ろから指で突いてきたハンクは、顔こそ多少青ざめたままなものの、ストレスレベルは安定している。彼の精神的ショックはこの程度で済んだ、それはいい。
問題は――
あの情報が出てすぐに署への帰還命令が出され、そしてたった今、アンダーソン警部補に対して謹慎処分が下されたことだ。
「まだ警部補の犯行だと決まったわけでもないのに、謹慎だなんて横暴すぎます! 署長、私なら……」
「いい加減にしろ、コナー!」
それまで黙りこくって言葉を聞いていた署長は、瞬間、こちらよりも大きな音を立てて机を叩いた。
「駄々をこねるな。いいか、理由がわからないなら、もう一度ハッキリ言ってやる」
そう言って、彼は自分のデスクの上を指さした。置かれているのは一丁の拳銃――例の、ハンクの銃だ。
「この銃で、グレアム・トルシェムが殺された。そして指紋は所有者のものしかついていないうえに……空港の職員や害者の連れ合いの証言によれば、その所有者は害者と因縁があった。つまりハンク、お前には動機も、手段も揃ってる。ついでに分厚い懲戒フォルダもな。ないのはアリバイだけだ!」
「……今日の4時なら、一人でベッドの中ですが」
ハンクは腕組みして、顔を顰めて語る。
「その前となると、家で飲んでたかな。目撃者はうちの犬だけだが、署に来てもらいますか?」
「ふざけてる場合か。今回の件は、もはや俺の手に余るところまで来てるんだぞ」
――手に余る?
その言葉の不穏さに、コナーは眉を顰めてデスクから身を離した。すると署長は続けて、まるで重たい扉を開ける時のように唸ってから、こう告げる。
「……警部補という幹部クラスの人間に、殺人の嫌疑がかかったことを上層部は危険視している。今日の昼には、お前をじきじきに査問するとのお達しだ」
「査問!?」
「へえ」
思わずコナーが頓狂な声をあげたその横で、ハンクは苦笑いしている。
「お偉方が俺を取り調べとは、光栄なことで」
「わかってるだろう、ハンク……査問になればあの懲戒フォルダが、いよいよ墓石みたいにお前に圧し掛かってくるんだぞ」
「署長、それはつまり」
シリウムポンプが激しく鼓動するのを感じながら、静かに問いかける。
「ハンクが……アンダーソン警部補が、失職する恐れがあると?」
「失職で済めばいいがな」
そう語る瞳の色は、真剣そのものだった。語り終えて結ばれた唇は固く、不快そうに表情を歪めた署長の姿からは、彼自身もこの状況を良しとしていないことがありありと見て取れた。
そう――ファウラー署長も、ハンクが犯人だなどと思ってはいない。けれども、上の人間を相手に部下を庇いきることができない状況だった。
それを口惜しいという彼の気持ちは、理解できる。理解できるが――
「それで、署長」
警部補は姿勢を正して、質問した。
「査問会まで、俺はどこにいればいいんで? 留置場か? 空きがあったかな」
「いや、さすがにそこに入れる予定はない。コナーとナイナーが使ってる、第5ミーティングルームだったか」
上階を指で指しながら、署長は応える。
「あそこなら鍵もかかるし、監視も利く。お前には、15時の査問までそこにいてもらう」
「了解」
軽く応えて、ハンクは踵を返した。
「警部補、どちらに!?」
「決まってるだろ。命令通り、お前たちの部屋だ」
どことなくふて腐れたような顔で、振り返った彼は言う。
「俺たちはハメられたんだよ。こうなっちまったら、ジタバタしても無駄だ。まあ、あの部屋は前に入った時も居心地悪くなかったしな。せいぜい邪魔させてもらうよ」
「ハンク、でも……!」
必死な思いで、コナーは声をかける。しかしハンクはそれに答えるでもなく、またこちらに背を向けると、そのまま「バイバイ」という調子で右手を軽く振った。
それから、彼はオフィスのガラス戸を開けて立ち去った――
「くっ……!」
歯を食いしばって、コナーはその姿を見届ける。
それから勢いよく振り返って、再び署長のデスクに歩み寄った。
「警部補が謹慎処分でも、まだ私がいます!」
右手を己の胸に当てて、署長に向かい強く抗弁する。
「私が警部補の無実を証明してみせます。査問までに証拠をあげて真犯人を確保すれば、きっと上層部も納得する! そうでしょう、署長」
「やはりわかってないようだな、コナー」
また苦虫を噛み潰したような表情に戻った署長は、眉間に手をやりつつ言った。
「いいか……前にも話したがな。たとえお前自身や、俺たちがどう思っていようと! お前は法的にはこの署の備品であって、捜査員じゃないんだ。アンドロイドにはまだ、捜査権も被捜査権も認められてない。警官になる権利もだ。つまり」
自分でもわかるほどに唇を噛みしめながら相手の言葉を聞いているコナーに対して、ゆっくりと言い聞かせるように、署長は言う。
「相棒のハンクが謹慎の今、備品のお前にも用はない。査問が終わるまで、お前も第5ミーティングルームに待機していろ」
「そんな……! で、ですが!」
「口答えは認めん! これ以上の駄々もだ。わかったら口を噤んで、オフィスから出て行け!」
言い放った署長は、宙を払うように振った手をデスクに戻すや否や、視線を逸らす。
そしてコナーは――自分の身分を、自分にない権利というものを、これほど重苦しく実感したことはなかった。
今までは、アンドロイドに権利が認められていないことについて憤りこそすれ、それは他者の感じている苦痛に共感してのものだった。
昨日、変異体に労働権が付与されるかもしれないというニュースを見た時だってそうだ。これでようやく、他のみんなが少しは報われるはずだと思った。決して、自分の話だと思っていなかった。なぜなら自分は、もう既に限りなく報われているから。――そう考えていたのだ。
だが現実は違う。たとえデトロイト市警のほとんどの人々が、もはや自分と弟を“ただの機械”とは扱わないとしても――たとえこれまでにいくつもの事件捜査を補佐してきたとしても、自分は法的には未だに
モノであるがゆえ、権利がない。
相棒かつ恩人にかけられた嫌疑を晴らすための捜査権も、上層部の判断を時期尚早だと訴えを起こす権利も。
その事実がこんなにも冷たく、厳然たるものだとは実感したことがなかったのだ。
今、この時に至るまで。
「クソ……!」
呪詛の言葉が口を衝いて出る。苦々しい面持ちの署長は、それを咎めはしなかった。
だが早く出て行けと言わんばかりに、その指はオフィスのドアを指している。
命令に従うべきだろうか?
――否。まだだ。
まだ諦められない。
それならば、こちらにだってやりようはある!
「失礼します!」
「おい、ちょっと待て!」
出て行けと命じたはずの署長は、コナーを思わず制止していた。無理もない、署が誇る最新鋭のプロトタイプが文字通り血相を変えて、部屋から飛び出そうとしているのだ。
ファウラーは、コナーが時折突拍子もないことをしでかすというのをハンクから聞いてよく知っている。このまま放っておけば、いったい何をしたものか――
だがその懸念は、そしてコナーによる脱走の試みは、すぐさま雲散霧消した。
「兄さん」
オフィスのドアを塞ぐようにしながら、半歩足を中に踏み入れたナイナーが、定期的な瞬きを繰り返している。その身体は見事なまでに、コナーの進路を封じていた。
「どいてくれ、ナイナー!」
コナーは弟に呼びかける。――彼ならきっと、自分の気持ちを理解してくれるはずだ。
「このままだと、ハンクが危ないんだ! 僕がなんとしても……」
「駄目です」
無表情のまま、彼は無慈悲に告げる。
なんだって――と問い返す間もないまま、伸ばされたナイナーの手がこちらの腕を掴んだ。
スキンを解除した手で接続され、プログラム上に直接弟の声が聞こえてくる。
その内容を理解した瞬間、コナーははっと表情を変えた。
「……早まっては、駄目です。兄さん」
言い含めるように、ナイナーは音声でも語りかけてきた。
それから署長のほうに向き直り、静かに、こう告げる。
「私が、兄さんを……コナーを第5ミーティングルームへ護送します。許可を願います」
「ああ、認める」
署長は椅子から立ち上がると、腰に手を当てて続けた。
「お前の暴走兄貴を、部屋で大人しくさせててくれ。ハンクと一緒なら、少しは落ち着くだろう。俺じゃあ手に負えん」
「命令を受諾しました」
ナイナーは軽く一礼する。その手は今も、こちらの腕をしっかと掴んだままだ。
それから彼はまるで兄の手を引くようにして、オフィスから出て廊下へ、そして上階へと続く階段へと進んでいく。
その間、コナーは無言を貫いた。そして階段を中ほどまで上った頃、踊り場に来たところで――
「ありがとう、ナイナー」
我ながら重たい声音だが、はっきりとそう告げた。するとそれに合わせるようにして、ナイナーは手を離す。
全身でこちらに向き直った弟に対して、コナーはさらに続けて述べた。
「君がいなければ、あのまま署を飛び出していたよ。……でも信じられないんだ、まさかこんな状況になるなんて」
「兄さんの心痛、理解可能です」
僅かに眉根を寄せて――つまり彼にできる最大限の悲しみの表情で、ナイナーは言う。
「パートナーへの嫌疑と、それを解消不可能な現況。理不尽。悲嘆。そうした言葉で定義すべき状況と認識します」
「ああ、まったくだ。僕が分析なんてしたばかりに……」
あの時、もしスキャンしていなければ、ハンクが査問などにかけられることもなかったのだろうか。
もしあの場にいたのが、自分でなかったなら。
「いっそ僕の分析が間違っていたなら……プログラムにエラーが生じていたのならよかったのに。機能があっても、パートナーを救えないんじゃなんの意味もない!」
「兄さん……」
苛立ちをそのまま放った言葉を、しかし、弟は静かに聞いてくれた。
そっと彼自身の胸に片手を置いたナイナーは、それから、おもむろにこちらとの距離を詰めてくる。
『大丈夫』
表向きには無言のまま、けれど通信でははっきりと、ナイナーは告げた。
『先ほど提言した通り、私にアイデアが存在します。検討と評価を願います』
『ああ。聞くよ』
真摯な眼差しで、同じく通信にて弟に応えた。
そう、先ほど腕を掴まれた時に伝えられたのだ――事態を打開するアイデアがある、と。
そしてナイナーが語った「アイデア」は、思いも寄らない、だが実に単純な解決策だった。
***
署長のオフィスを辞してから、15分ほど経った頃。
「はぁ、やれやれ」
誰もいない第5ミーティングルームで、勝手に淹れたコーヒーを片手にパイプ椅子に腰かけ、ハンクは独り言ちた。
アンドロイド兄弟が使っているはずの部屋に、どうしてコーヒーメーカーなんてものが置いてあるのかは知らないが、虜囚の身にとってはありがたいことこの上ない。
俺もヤキが回ったかな、などと思いつつ、ハンクは天井を眺めてコーヒーを啜った。
これまでの刑事人生で、危ない橋を渡った時など数え切れないほどあった。危うく命を落としかけた経験も何度かあった。だがまさか、自分が殺人の容疑者になろうとは。
――コナーは、何かトリックがあると言っていた。
その通りだ。もしこの自分が、寝ている間に無意識のうちに殺人鬼と化していた、なんてクソったれB級映画みたいな展開でもないのなら――確実にこれは、最初から仕組まれていた罠だ。
そもそも昨日、エミール・ダックスの引き起こしたあの事件が、妙にすんなり解決してしまったのも今にして思えばおかしかったのだ。どうしてダックスのところで働いていて、利用されてしまったアンドロイド・ミハイルは、メモリーのすべてを消去されていなかったのか?
答えは簡単。すぐに解決できる事件でなければ、本命の目的――つまりグレアム・トルシェムを殺害し、その嫌疑をこのハンク・アンダーソンになすりつけることを果たせないからだ。
トルシェムと自分が会い、しかもトルシェムが直接侮辱してきた直後のタイミングでなければ、この状況は引き起こせなかった。一度「銃」という動かぬ証拠を作ってしまえば、後は爛れた生活で“有名”なハンク・アンダーソン相手だ、上層部が綴るのはきっとこんなシナリオだろう。
――トルシェムに侮辱されたアンダーソン警部補は、ストレスから逃れるために自宅で大量に飲酒し、その足で外出した。そして外出先で偶然出くわしたトルシェム氏に対して怒りを募らせ、所持していた銃で彼を射殺した。
彼に犯行時の記憶がないのは、泥酔状態だったからだ。懲戒フォルダに刻まれた、これまでの所業がその証左となる――なんて。
「ハッ。身から出た錆とはいえ、大したもんだ」
乾いた笑いが部屋に響く。
自分たちをハメた犯人が何者なのか、そしてどんな方法でトルシェムを殺したのかまでは、今は確たることは言えない。それにさっき、オフィスでジェフリー相手に文句を言ったところで、どうにかなるものでもなかった。もし自分が逃げたり暴れたりすれば、今度はジェフリーに迷惑がかかるだろう。
そう思っているからこそ、こうして一旦大人しく従っているのだが――
なんとかしなくては。
せめてエリック・ピピンとかいうゲスが引き起こしている一連の事件を解決するまでは、まだこのバッジを手放すわけにはいかないのだ。
それに、危なっかしい相棒を放っておくわけにもいかない。
と、苦いコーヒーを飲み終えたハンクが胸中で呟いた時である。
短い電子音が鳴り、続いてドアが静かに開く。視界の端に見えた青い半袖の夏服に、ハンクは笑いかけた。
「よお、お前もここにいろって言われたか。その様子じゃ、随分ジェフリーに絞られたらしいな」
「……」
相手、コナーは、伏目がちにしながら無言でこちらへやって来る。相当こってりやられたのか、それともこの状況に対してすっかり落ち込んでいるのだろうか。
自分がやるのもなんだが、少し元気づけてやろうかと、ハンクはわざと明るい調子で語りかける。
「ま、これもいい休暇だと思えよ。何を言われようが俺はやってないんだ、焦ることはねえ。きっとすぐに無実が証明されるさ」
「……」
「コナー?」
――おかしい。
いくら落ち込んでいるにしても、普段のコナーなら、もう少し何か言うはずだ。
いやいや、あいつのことだ。こんな状況ならしおらしくしているよりは、むしろ「納得できない!」とか「解決できたはずなのに!」などと言って地団太を踏んでいるくらいではないだろうか。
というよりも――と、ようやくハンクは気づく。
自分の真隣の席に腰かけようとしているコナーが、いやコナーである
「お、お前……!」
反射的に席を立ち、信じられないものを見る目でハンクは相手を見やる。
「お前、コナーじゃないな!? まさか……」
「はい、アンダーソン警部補」
ようやっと口を開いた相手は、灰色の瞳をしていた。
凪のように静かな面持ちで、こちらに向けた双眸を定期的に瞬かせている。
「私はナイナーです。入室から16秒で察知とは、さすがアンダーソン警部補、と認識します」
「やっぱりか。まったく、驚かせやがって」
一瞬の緊張のせいで激しくなってしまった鼓動を胸の上から押さえるようにしながら、ハンクはほっと息を吐いて席につく。
「瓜二つの格好で入ってくんのはやめてくれ。こっちにゃ“前科”があるんでね」
「申し訳ありません。状況説明を即刻開始すべきでした」
そう言ってナイナー、つまりコナーの格好をしたナイナーは、ぺこりと頭を下げてきた。
そこまで謝ってもらう必要もないわけだが――いや待て。
「おいナイナー、どういうこった? なんでお前がここに」
「ご説明します」
姿勢を戻し、お手本のように背筋を伸ばしたまま、相手は語った。
「結論から述べます。私と兄さんとは、互いの服装と立場を交換しました」
「なんだと……!?」
「服装と立場を交換しました」
「いや、聞き返したわけじゃねえ」
ナイナーに向かって軽く首を横に振ってから、ハンクは問う。
「じゃあ今、コナーの奴はお前の格好をして外にいるってか? なんのために」
「無論、あなたの無実を証明する目的です」
きっぱりと告げてから、彼は心なしか力強い眼差しで続けた。
「査問が開始される本日15時までの期間に証拠と真犯人を確保すれば、あなたの放免は確実です。しかしながら、我々アンドロイドには単独での捜査権が付与されていません」
「ああ……そうだな」
「したがってあなたの無実を公的に証明するには、正式な捜査官による捜査への同行が必須です。一方で、署長からの命令および対外的な便宜を考慮すれば、少なくとも『RK800』の外見的特徴を満たした人物が当室に勾留されている必要があると認識します」
つまり、署長命令を考えると「コナーの格好をした誰か」がハンク・アンダーソンと一緒に部屋にいないとさすがにマズいだろうが、逆にいうと、それは見た目が“コナーっぽければ”それでいいという意味だ。
もしジェフリーが監視を寄越したとしても、せいぜいこの部屋の中をたまに覗きに来させる程度で、わざわざ「ここにいるのが本当にコナーかどうか」なんてしつこく調べはしないだろう、という判断らしい。それにはハンクも同意する。
「かつ私と兄さんであれば、機能の特性上、私のほうが待機に適しています。私ならば、当室での勾留中もドローンを介しての分析や護衛等を実施可能だからです。ゆえに私が当室、兄さんが捜査という連携行為を実施すると決定しました」
――それで、立場を入れ替えた?
アンダーソン警部補の“備品”だからという理由で同じ部屋での待機を命じられたコナーに成り代わり、ナイナーのほうがここにいることにしたと?
「……すまねえな。俺のせいで苦労かけちまって」
「いいえ、私の現状は『苦労』の定義に合致しません。兄さんも、同意見と推測します。それに」
やや何ごとか考え込むように軽く俯いてから、ナイナーはさらに述べた。
「不謹慎な発言ですが……私であっても警部補や、兄さんへの助力が可能なら、それはとても喜ばしい、と認識しています。常に」
「だから謙遜すんなって。お前さんはよくやってるよ」
「……ありがとうございます」
そう応えるナイナーの声音は、いつもと同じく平坦ではあっても、どこか嬉しそうな響きに聞こえた。
ハンクはふっと表情を緩める。だがその時、脳裏をとある疑問が過ぎった。
「なあ、じゃあコナーは今誰と一緒なんだ? ベンの奴なら、事情も汲んでくれるだろうが」
「いえ。コリンズ刑事は、我々の担当者としてアサインされていません。残念ながら、今回助力を依頼する相手としては不適当でした」
「……」
ハンクは一瞬、考えた。
さっきナイナーは「服装と立場を交換した」と言っていた。そして立場とは、もしや。
「おい、まさかコナーは……」
――なんてこった。
いったいどうなることやら。
***
――2039年7月20日 09:17
初めて纏ったナイナーの服装は、それほど重量はないにもかかわらず、夏になるまで自分が着ていた制服と比べると圧倒的に防弾性・防刃性に優れている。とはいえ、できるだけ傷をつけずに返したいところだ。
弟がくれた絶好の機会を、棒に振ることはできない。
なんとしても、ハンクの無実を晴らさなくては。
そのためにコナーはまず、安置されているトルシェムの遺体をもう一度調べることにしたのだ。
発見から今までの間に、亡骸は既に司法解剖を含めた検視を終えている。その情報があれば、きっと何が起こったのかの手がかりが掴めるはずである。
――重要なのは、次の二点だ。
一つ、ハンクの銃が使われたタイミング。二つ、犯人の正体と目的。
仕事中、ハンクは職務用の拳銃を基本的に肌身離さず持っている。脇の下に吊るされている銃を盗み出すのはさすがに不可能に近いことを考えると、銃の装備を外したほんのわずかなタイミングを衝いて、犯行が行われたのだと考えるのが妥当だろう。
例えば就寝時、入浴時など、家にいる間の時間。飲酒をしたのなら、その時を狙われたかもしれない。あとは――昨日の空港での捜査のように、やむを得ない事情で外す場合もある。
施条痕からみて、本当に警部補の銃が使われたのだというのは事実だ。だからこそ、「いつ」銃を持ち去られたのかを特定するのが先決である。
そしてそのためには、何より、トルシェムの正確な死亡時刻を割り出す必要がある。いつ彼が射殺されたのかがわかれば、いつ銃が犯人の手元にあったのかも判明する。そこが最初の切り口になるはずだ。
さらに犯人の正体と目的――仮にその目的が単に「トルシェムの殺害」にあったのだとしても、恐らく昨日の事件の段階で既に犯人の計画の内だったのだと考えると、相当周到な準備のうえでの犯行である。
トルシェムと因縁深いハンクなら、自分の隠れ蓑にできると考えたのだろうか。それともひょっとして、警部補をデトロイト市警から遠ざけること自体も目的なのかもしれない。
つまり暗躍を続け、ハンクの身を狙っているというピピンの魔手が、ついに迫ってきた可能性があるのだ。
――思い通りになどさせてたまるか。
ブルーブラッドが末端器官にまで力強く巡っているのを感じながら、コナーは決意を新たに最下階に到達する。
冷たく暗い印象のある廊下には、今は誰の姿も見えない。そして目の前の角を曲がれば、すぐそこが目的の遺体安置室だ。
コナーは角を曲がった。すると――
目の前に、ぬっと足が突き出される。
「よお、コナー」
伸ばした左足の靴底を壁につけ、片足立ちで改札よろしく行く手を塞いでいるのは、誰あろうギャビン・リード刑事である。彼は腕組みしたまま、ニヤニヤとこちらを嘲笑っている。
「なんだその格好、変装のつもりかよ? 機械なんて何着ても一緒だろうが。笑えるぜ!」
つまり、こんな状況でも彼はいつもと同じ態度だ。
そして普段なら、彼のこのような態度も適当に受け流すところなのだが――今日はそうはいかない。
コナーはやや戸惑ったが、すぐに表情を引き締め、口を開いた。
「リード刑事、捜査にご協力いただけると聞きました。どうぞよろしくお願いします」
「は? 誰が協力なんてするっつった」
左足を下ろした彼は、不愉快そうに眉を顰める。
「ポンコツ備品が何を言ったか知らねえが、俺にはハンクのケツを拭ってやる趣味はないからな。あの酔いどれ野郎がマジにコロシをやらかしたのかどうか、興味あるだけだ」
「……」
「それに」
と、彼のニヤけた顔がぐっと近づけられる。
「ハンクがパクられるかクビになるかすりゃ、次はてめえがお払い箱だな。その時のツラを拝むのが楽しみだぜ、コナー」
「……そうですか」
コナーは、我ながら硬質的な声音で返事をした。
――先ほどナイナーは、「リード刑事には承諾を得ている」と言っていた。きちんと話をして、状況を理解してくれたから、きっと力になってくれるはずだ、とも。
弟が施してくれた配慮について、とやかく言うつもりはまったくない。リード刑事はナイナーのパートナーであり、ここで自分が「RK900」として捜査を再開するのなら、組む相手はリード刑事の他にないのだから。
そして警察の上層部を納得させ、ハンクを救うためには、人間の捜査官の存在が不可欠なのだから。
しかし――やはり。
何度もこう考えてきたように思うが、彼とは一切気が合わない!!
事ここに至ってもハンクへの敵愾心を露わにし、いつまでも自分に突っかかってくるとは。
いくらアンダーソン警部補を嫌っているとしても、こんな状況でもまだ嫌味を言ってくるなんて、あまりにもひどすぎる。
どうして彼は、こう、こんなにも「嫌な奴」なんだろう!
コナーはそう思った。そこで、できる限り口の端を吊り上げて、備え付けのソーシャルモジュールをフル稼働して、さらにこう続ける。
「ですが、残念ながらそれは無理でしょう。ハンクは犯人じゃありませんし、私も辞職するつもりはありません。ご希望に添えずすみません」
一息に言うなり、ギャビンの肩を軽く押した。そんなことをされるとは予想していなかったのか、ややよろけた彼を尻目に、コナーはすたすたと目的の遺体安置室へと向かう。
「てめえ! 何しやがる」
「今、急いでるんです」
ドアの横に備えつけのタッチパネルにスキンを解除した手で触れて、ロックを解除する。正確には、第5ミーティングルームにいるナイナーと瞬間的な通信をして解錠してもらっているわけだが――ともあれ、ようやく中に入ることができた。
「チッ。待てよ、この型落ちが」
背後でリード刑事が何か言っているが、コナーのプログラムはそれよりも、部屋の状況を見るのに注力していた。遺体安置室は広く、LEDの白い光に満ちている。壁一面に薄いオレンジ色をした、可動式の引き出しのようなものがずらりと備えつけられているが、それらはすべて、遺体を保管するための場所だ。
中央に、小さな端末が備え付けられている。コナーはそれを素早く操作し、パスコードや担当者のQIR番号などを入力した。すると数秒後、甲高い電子音と共に、保管庫のうちの一つが動き出す。こちらから見て、右後方にあるものだ。
まるで勝手に開けられていく引き出しのように、するすると滑らかに保管庫の中身が姿をみせていく。
そこに安置されていたのは、目的のトルシェムの遺体。今は入院着のような所定の服を纏い、額の銃創を隠すように包帯が巻かれている。さらに腹部には、解剖を受けた後であることを示す縫い痕が残っているようだった。だが、それ以外は今朝見た通りだ。
「ほーお」
近くに歩み寄ってきたギャビンは、何やら見下すような視線を亡骸に向けた。
「いかにも金持ちのオッサンだな。情けねえツラして死んでやがる」
「死者の冒涜がご趣味なら、お一人でどうぞ」
冷たく言い放ち、コナーは保管庫の内側に刻まれた通信用コードをじっと見つめた。すると自動的にデータベースとの通信が行われ、検視官が記録したトルシェムの遺体に関する情報が、視界の端にずらりと表示される。
――ここで時間をとられている場合じゃない。早く、手がかりを見つけなくては。
一応ギャビンの端末にも同じ情報を送信するのを忘れずに果たしてから、コナーは情報を精査した。
【グレアム・トルシェム 死因:脳幹部に達する銃創】
【死後硬直から判断される死亡時刻は7月20日4時頃】
【頭部から9mmのホローポイント弾を摘出】――
これらの情報は、既に自分が調べたことの確認でしかない。
コナーはさらにデータを先に読み進めた。今朝の捜査では確認できなかったトルシェムの服の下の状況や、内臓の状態に関する詳しい情報が欲しいのだ。――すると。
【死斑は下肢に集中。背部にはほぼ見られず】
【腹部に軽度の水疱あり →凍傷か?】
【胃の内容物:微量の赤ワイン、未消化のブルーチーズ、ビスケット 毒性なし】
「これは……」
「死斑が脚だぁ?」
端末の表示を怪訝な表情で見つめてから、ギャビンは無遠慮に遺体の服をめくりあげ、下肢に視線を送った。
「マジで脚にありやがる。おいコナー、害者は河川敷でぶっ倒れてたんじゃないのかよ」
「……」
無言のまま、1.4秒ほどコナーは戸惑った。
リード刑事はさっき、ハンクの臀部を拭う趣味はないとか、さも捜査自体に興味などないというような発言をしていたはずだ。そのわりに今の彼の態度からは、何やら捜査への意欲があるように見受けられるのだが。
しかしすぐに、ギャビン・リード刑事を語るうえで欠かせない特性、すなわち彼の「野心」に思い当たる。コナーがデトロイト市警に派遣されるよりもずっと前から、ギャビンの出世欲は署内でも有名で、彼が同僚たちに記録的早さで嫌われるに至った原因もそこにあると聞く。
恐らくギャビンは、アンダーソン警部補を陥れた犯人を自分が検挙することで、警部補の上を行こうとしているのだろう。そう考えれば、ハンクへの敵愾心と捜査への意欲の両方に対する説明がつく。
そう結論づけたコナーは、リード刑事に対してこう返事した。
「ええ、その通り。ですから、死斑は本来なら背部に……」
「お前の説明は聞いてねえんだが? 必要なことだけ喋れよ」
――やっぱり、やりづらい相手だ。
コナーはむっとした顔を隠すこともなく、“ご命令通り”に口を噤んでから、顎に手を当てて思考を巡らせた。
死斑とは、死体に発生する紫色の痣のことである。心臓が停止し、血流が止まると、血液は重力に従って徐々に死体の低い位置に集まってくる。それが皮膚を通して、痣のように見えるというわけだ。
そして、もしトルシェムの遺体が発見時のようにずっと仰向けに倒れていたならば、死斑は遺体の最も低い部分、つまり背部に集まるはずである。
それなのに今、死斑は下肢に集中している。ということは、【遺体は長い時間、直立状態だった】ということになる。
つまり【遺体は動かされていた】。トルシェムが発砲を受けたのはあの河川敷周辺ではない、ということだろうか。
それに加えて気がかりなのは、遺体の腹部にあるという凍傷だ。もちろん今は夏なので、普通に考えれば凍傷などできるはずはない。何か外的な要因に晒されていたはずだ。
そう考えるコナーの眼前で、ギャビンはまたも遠慮なく遺体の服をはだけさせた。そのちょうどいいタイミングに合わせて、トルシェムの腹部にくっきりと残る水疱をスキャンしてみると――表皮に微量に残った水分と共に、【第2度の凍傷】が検出される。推定マイナス70度以下の固体に、長時間晒されたことが原因のようだ。
となると、この凍傷を引き起こしたのは【ドライアイス】だろうか。彼は撃たれた
さらに、胃の中に残っているのは赤ワインとブルーチーズ、ビスケット。
その情報を精査した時にメモリーの中で表示されたのは、生前のトルシェムの姿だ。
整備場で初めて会った際、彼は白いサイドテーブルを広げていた。赤ワインと、クラッカービスケットに乗せたブルーチーズを楽しんでいたのをはっきり記憶している。
そして、それが遺体の胃の中に残っているわけだ――未消化の状態で。
「……!」
ばらばらになっていた情報がプログラム上で繋ぎ合わされ、一つの真実を浮かび上がらせる。
――ああ、そうか。なんて単純な話だったんだろう! どうしてすぐに気がつかなかったんだ。
こんなにも簡単なトリックだったというのに!
「リード刑事!」
何やら顔を顰めてトルシェムの遺体を眺めているギャビンの肩に手を置き、コナーは言った。
「空港へ行きます。車を出してください」
「はぁ!?」
嫌悪、というよりは驚いたような顔をしている彼に向かって、さらに言い募る。
「空港へ行くって言ったんです。あなたも来るんでしょ、急いでください」
「なんだとてめえ」
驚きから憤りに表情を変化させ、リード刑事はこちらの手を払いのけた。
「いきなり何言ってやがる。だいたい誰がお前の命令なんか」
「なら結構、タクシーでも呼びます!」
言うなりコナーは安置室を飛び出し、上階へと廊下を駆けだした。
――こうしている時間だって惜しいというのに、どうして彼にはそれがわからないのか!
「待てコナー、てめえ一人で何ができるってんだ!」
背後からギャビンの大声と足音が近づいてくる。――こうなると、やはり彼の車に同乗するのが最適解だ。コナーは眉を顰めつつ、無人タクシーとの通信を中断した。
***
リード刑事の車はオフィスにある彼の机と同様、持ち主の性格と裏腹に、掃除が行き届いていてすっきりと清潔だった。
自動運転モードの車は、法定速度を遵守しながらも一路、空港へと向かっている。その車内でやけに上体を逸らして運転席に座るリード刑事に対し、助手席に座ったコナーは口を開いた。
「要するに、遺体は冷蔵保存されていたんですよ。死亡推定時刻をずらすために」
「で、んな三流トリックをプラスチック刑事様は見抜けなかったってワケか! そいつはすっげえ。オドロキだね」
「……」
わざとらしくおどけた返事をしてくる相手の態度に、思わずコナーのプログラムは、ギャビン・リード刑事を静かにさせる方法を32通りほど真剣に演算しはじめた。
しかし実際のところ、彼の言う通り、本来ならすぐにでも看破できていておかしくない隠蔽工作に気づけずにいたのは他ならぬ自分だ。
演算を止めたコナーは、自分の考えを明確化するためにも、続きを語りはじめる。
「胃の内容物から考えて、トルシェム氏が殺害されたのは事件解決の直後。恐らくは、自家用車に乗った瞬間のタイミングでしょう」
――昨日、高笑いを残してトルシェムが乗り込んだ後。
外まで聞こえるような大音量の音楽を鳴らしながら、あの白い高級車は去っていった。
なぜあそこまで大きな音で音楽を流していたのか? あの時の自分はただ耳障りだと感じただけだったが、今なら理由がわかる。あれで銃の発砲音を掻き消していたのだ。
トルシェムは車に乗ったすぐ後、推測するに前方の席にあらかじめ身を隠していた真犯人に、ハンクの銃を使って射殺された。車はそのまま走り去り、こちらから見えなくなったところで、真犯人だけ下ろして空港を出る。
そして真犯人は何食わぬ顔で、弾を補給した銃をハンクに返す。一方で遺体は空港を離れた後、直立状態で大型の冷蔵庫か何かに入れられて、ドライアイスと共に冷蔵保存されていた。つまりあの河川敷に放置される時まで、可能な限り死後変化の進行を抑えられていたのだ。だから死斑は足に集中していたし、死後硬直は「死後2時間」程度の状態になっていたのだろう。
後は、実際に発砲した時の空薬莢を路上に残し、遺体を茂みに蹴り転がして逃走すればトリック成立だ。
こうすれば遺体の死亡推定時刻が実際よりも後にズレることになるので、疑いの目はその時間帯に銃を保持していて、しかも被害者と因縁があるばかりか、皆の前で被害者と言い争っていたアンダーソン警部補へと向けられることになる。
真犯人が、車に乗り合わせていた点から考えて共犯者なのだと思しきトルシェムの配偶者・メイジーとどのような関係性なのかはまだ不明だが、ひとまずその正体は絞れた。
空港でハンクから銃を預かり、所持していた人物。すなわち――
「犯人は、整備場前の警備員です」
そこまでギャビンに語ったところで、コナーは口を噤んで前方を睨んだ。
あの警備員――メモリーを元にフェイススキャンをして判明した氏名は【コーディ・モールズ】。26歳、犯罪歴はなし。彼の赤茶色のちぢれ髪とそばかすの散った白い肌、どことなくしまりの悪い顔つき、そして空港でアンドロイドである自分に対して明確に態度を変えてきた差別的な姿勢は、今となっては憤りの対象である。
――そう、やはり、思えば妙だったのだ。
あの時自分は、そして警部補も、整備場では火気厳禁なのだろうと納得していた。だからこそ、ハンクは銃を預けたのだから。しかしその後、メイジーは何食わぬ顔で整備場でタバコを吹かせていたし、それを誰かに咎められるでもなかったのである。
要は、危険物だのなんだのと言っていたのは、ハンクから銃を奪うためのただの方便だったわけだ。
そしてコーディは銃をこちらに返す前に、使った弾を補充するのと同時に、わざわざ表面を拭いたのだろう。だからこそ、あの銃には(署長が言っていた通り)ハンクの指紋
本来なら、正式に銃を預かっていたコーディの指紋だって残っていておかしくないはずなのに――だ。
発砲の痕跡を消すためだったのだろうが、なんともお粗末な対処である。
しかしそれでも、自分はつい先ほどまで、これらの“お粗末な”状況の不自然さに気づけなかった。強い感情に揺り動かされていたせいだ。
昨日だってそうだ。トルシェムに腹を立てるのと同時に、深いストレスを受けたハンクを力づけようとするのに精一杯だったせいで、預けた拳銃を帰る時に取り戻すのすら失念しそうになっていたのだから。もっと言えば、車の去り際に唐突に流れだした大音量の音楽にもっと注意を払っていれば、掻き消されている銃声の痕跡を音声プロセッサで検知できていたかもしれない。
紛れもない失態だ。――しかし、だからこそ!
もう絶対に、コーディは逃がさない。それに、メイジー・トルシェムからも話を聞かなければならない。彼女は今朝がた「被害者の配偶者」としてコリンズ刑事と話をした後、家に戻ったと聞くが――ならばこそ、行方を捜すのはそう難しくはないはずだ。
決意を胸に、コナーは車の向かう先――つまり見えてきたデトロイト・メトロ空港をじっと見据えた。
するとその横で、ギャビンが低く鼻を鳴らしたのが聞こえる。
「フン、じゃハンクはシロか。なんだ、つまんねえ」
「本気でアンダーソン警部補が犯人だと思っていたんですか?」
――まさかそんなことはないだろう、と思いながら、横目で尋ねる。
「最近の警部補を見ているなら、そうは思わないはずです。そもそも、リード刑事」
いよいよ駐車スペースに近づきつつある車の中で、コナーはふと疑問を零した。
「なぜあなたはそんなにも、警部補を嫌うんです? 彼の存在は、あなたの昇進には何も……」
「黙ってろ、クソが」
どういうわけか、ギャビンは真剣な怒りを籠めて警告するような眼差しで言った。
「バラバラにされてゴミ箱にぶちこまれたくなけりゃあな」
「……なるほど」
ちょうど車が停まったタイミングで、肩を竦める。
――まあ確かに、こちらの今の質問は完全なる興味本位だ。しょせんこの事件を解決するためだけの一時的なチームアップなわけだし、余計な詮索をしたいと思うほど、リード刑事と親密になることを望んでいるつもりもない。
相手の言葉通りに再び口を噤んで、コナーは車を飛び降りる――ハンクの無実を証明するまであと一歩だと、その思いを滾らせながら。
しかし現実は、より過酷なものだった。
***
――2039年7月20日 10:15
「いないだって!?」
思わず非難がましくなってしまったこちらの声が、整備場前の警備スペースに響く。
そこにいた警備員(もちろんコーディではない)は戸惑ったような表情で、軽く頷いてから話を続けた。
「ああ、コーディは今日から休みだよ。2週間ばかしバカンスとって、家も留守にすると……」
「ホントだろうな?」
腕組みしたギャビンが高圧的に問いかける。
「嘘だったらてめえ、タダじゃおかねえぞ。さっき見せたバッジの意味、わかってるよな」
「わ、わかってるさ! あいつのためにオレが嘘をついて、なんの得があるってんだよ」
慌てたように両手を振って主張する警備員のストレスレベルの推移から見ても、彼は間違いなく真実を語っている。
ということは――クソ、逃げられた。
まさか、すぐにバレることを予期していたのか? 警部補に罪をなすりつけたら、後はどこかへ高飛びするつもりだったと?
いや、まだそう結論づけるのは早い。
「お話をどうも。お騒がせしました」
戸惑った様子のままの警備員に礼を告げてから、コナーは一度その場を離れた。それから、空港のホールの片隅で弟に通信を入れる。
「ナイナー、そちらは変わりないかい」
『はい、兄さん。変化は皆無です』
「そうか……」
同じくこちらへやって来たリード刑事にも弟の声が聞こえるようにしてから、続きを問いかける。
「こっちはさっき、データを転送した通りだ。コーディはバカンスを名目に、姿を眩ませてる。メイジー・トルシェムのほうはどうだい」
『それが』
と、わずかに声音を曇らせて彼は言う。
『メイジーも、心労により入院したとの申告が。4分21秒前です。コリンズ刑事に連絡した代理人は、本人の意向と称し、入院先を秘匿しています』
「やられたな」
そう言って、ギャビンが深く息を吐いた。
「金持ちや政治家どもの手だ。どうせ、お高い病院にお泊りしてるんだろうぜ」
「……!」
すかさず、コナーは該当しそうな病院を検索する。だが残念なことに、該当しそうな大病院はこの街だけでも優に10件以上だ。その一つ一つを巡って調べる時間は、こちらにはない。
――あともう少し早く、真実に辿り着いてさえいれば!
制御不能になりそうなほどに、胸の内を搔き乱す感情の波に揺られつつも、コナーはなんとか声を絞り出した。
「僕の推理が正しいなら、殺人は車の中で行われたはずだ。となれば、証拠はあの白い高級車に残ってる。ナイナー、君のドローンたちに頼んで、あの車を探してくれないか」
『了解しました』
淡々と、しかし頼もしく弟は応える。
『市警のデータベースに、トルシェム氏のナンバーが記録されています。ドローンでの捜索と同時に、市内監視カメラへのアクセスとスキャンを試行します』
「ああ、頼むよ」
ほっとする気持ちを覚えつつ、コナーはふと表情を緩めた。だがその時、横合いから、どういうわけかリード刑事がニタニタとした笑みを向けてくる。
なんです、とこちらが問うよりも先に、彼は「へっ」と短く笑って言った。
「そっか。お前、ドローンもないし監視カメラも見れねえのか」
「……監視カメラは確認できますよ。ただ、遠隔地から複数を同時にというのが不可能なだけで」
「なーるほどなぁ。さっすが型落ち、備品野郎よりもさらにポンコツかよ。ハンクにピッタシお似合いだな!」
言い放つなり、周囲の視線も憚らずにギャビンはぎゃははと大笑いしている。
それを見て瞬間的な「苛立ち」、つまりブルーブラッドが“沸騰”して中枢を巡るような錯覚を覚えつつも、努めてコナーは――あくまで自分なりに、冷静に返した。
「弟の名前はナイナーですし、ハンクは優秀な刑事です。それに私がポンコツなら、あなたはなんなんです?」
「あ?」
「あなたこそ、いつも弟の機能に頼ってばかりのように思いますが」
こちらがそう告げると、ギャビンは唖然としたような表情になり、次いでその顔を怒気に染める。
「なんだとてめえ。よっぽどバラされたいみたいだな」
「どうぞ、できるものなら。たぶん、ガッカリする結果になるだけですが」
掴みかからんばかりの勢いで睨みつけてくるギャビンに対して、コナーも自然と腕を組んで睨み返す。
――こんなことをしている場合じゃない、とプログラムの片隅から、理性的な自分の思考が届くように思った。
彼の態度はいつも通りだ、わかってたはずじゃないか。それより時間がない。警部補のために、捜査を進める次の手を考えるべき時だ。
けれど、別の思考はこう告げる。
――もちろんその通りだ。だけど、先に突っかかってきたのはギャビンのほうじゃないか。
確かに彼の力を借りなければならない立場だが、だからって自分のことだけじゃなく、パートナーや弟まで馬鹿にされて、黙ってなければならない理由はない!
プログラム上での論争には後者が勝ったので、そのままコナーは5.3秒ほど、リード刑事と睨み合っていた。
――通信を切るのをすっかり忘れている。
***
「……」
「おい、どうしたナイナー」
同時刻、第5ミーティングルームで待機しているハンクは、傍らのアンドロイドに声をかけた。
兄、つまりコナーと通信していたはずの彼は、唐突に身動きを止めると、こめかみのLEDリングをぐるぐると黄色に光らせている。
見たところ、通信中というわけでもなさそうだ――それにしては、いつもと様子が違う。
「なんかあったのか? もしかして、コナーとギャビンがモメてんじゃないだろうな」
「……い、いいえ」
ぶるぶると細かく振動するかのように、ナイナーは首を横に振る。
「だ……だい……大丈夫、です。両者はとても、良好な、関係を、構築しています」
「やっぱりモメてんじゃねえか。なあ、ちょっと電話を……いやともかく、コナーに繋いでくれ」
ナイナーが首に挿しているケーブルを介して、ナイナーとコナー間で結ばれている通信を、スピーカーフォンのごとくこちらの声も届くように結び直してもらう。
それからハンクは、おもむろに相棒に呼びかけた。
「もしもしコナー? お前何やってんだ。アテにする相手を間違えたかな」
『……! 警部補!』
どんな顔をして喋っているか見なくてもわかるような声音で、コナーは返事してきた。
『すみません、警部補。まだあなたを救出できるほどの成果が……』
「遺体のトリックはわかったんだろ、上出来だ。ナイナーに聞いたよ」
転送してもらったデータ(つまりはコナーが作成した報告書)が表示されたタブレット端末を片手に、ハンクは言う。
「それよか、俺ならそこで遊んでないで冷蔵庫を探すね」
『……冷蔵庫を?』
訝しげに呟いた相棒は、しかしすぐにその理由に思い至ったのだろう。短く息を吞むような音を発してから、続きを述べた。
『遺体を収納できるような大型の冷蔵庫、または冷蔵設備ならば必ず利用記録が残るはず。それをあたる、ということですね』
「ああ。レンタルするにせよ買うにせよ、大の大人の死体なんてモンを隠すんだ、相当他人にバレないようにしてあるはずさ。こいつはただの勘だが……まずはトルシェムの家に行ってみるのはどうだ?」
例えば犯人たちがトルシェムの遺体を隠すため、どこかの冷蔵設備のある倉庫でも借りたとして――もし何かの手違いでそれを他人が開けてしまったなら、すべての計画が台無しになってしまう。
ゆえに亡骸を隠したのは誰にも見つけられず、しかも犯人たち自身が滞在していてもおかしくない場所のはず。
となれば、一番安全なのは「自分の家」である。
そして大型の冷蔵庫を搬入するだけのスペースがある場所といえば、データによれば一介の警備員であるコーディの家よりも、トルシェム邸のほうが可能性は高い。
「ホームパーティーをやるから冷蔵庫が必要なんだ、とか言えば、金持ちならいくらでも言い訳がたつだろうしな」
そこまで説明したところでこちらが黙ると、コナーは確信に満ちた声音を返してくる。
『わかりました。車の捜索を待つ間に、私たちはそちらをあたります。必ず証拠を掴んでみせますから、待っていてください』
「ああ、ほどほどに期待してるよ。それと」
たぶん向こうで通信を聞きつつ不愉快な表情を浮かべていると思しき、もう一人の同僚に向かって声をかけた。
「どうだ、そいつの相手は疲れるだろ。からかうのもほどほどにしとけよ、冗談が通じるヤツじゃないからな」
『言ってろ、ハンク』
想定通り、不愉快極まるといった調子のギャビンの返事が聞こえてくる。
『お前こそ、切られかけのクビをせいぜい大事に洗ってるんだな。この貸しは必ず返してもらうぞ』
「ああ、利子つけて返してやるよ」
軽口で返すと、相手はさらに不機嫌そうな鼻息を返してきた。
『……では警部補。ナイナーがいるから大丈夫だと思いますが、どうか気をつけて』
「お前たちもな」
「失礼します、兄さん。リード刑事も」
ナイナーの言葉を最後に、通信が切断される。
それとほぼ同時に、ハンクは長くため息をついた。
――ああ、やれやれ。若い奴らの相手ってのは疲れるもんだ。
けれども彼らが外を走り回っている理由の半分程度が自分の去就にあり、しかも自分がこれまでに培ってきたある程度の経験というやつが、少しは役に立つのなら――多少の苦労は厭わないというのが、いわゆる“年長者”の役目なのかもしれない。
「……アンダーソン警部補」
今は穏やかに両の灰色の目を瞬かせつつ、こちらを向いたナイナーが告げる。
「これは個人的な推測……いいえ、願望に過ぎません、が……私はきっと兄さんたちなら、捜査を無事に完了すると認識しています」
「俺もそう認識したいね」
冗談交じりに、けれども本心から、ハンクはそう応える。
見上げた壁に掛けられている時計が示す時刻は、10時35分――
楽しい査問までまだ4時間以上もあると見るか、それともそれしかないと考えるべきか。
いずれにしたって、今の自分にできるのは、最低限のサポートくらいだ。
己の人生とその他諸々に皮肉っぽい笑みを浮かべつつ、ハンクはコーヒーのお代わりを取りに席を立った。