――2039年7月20日 21:14
「……どうかしら。原因はわかった?」
問いかけに、相手はゆっくりと首を横に振る。
カーラは、悲嘆に表情を歪めそうになった。けれど、自分の右手を握っている小さな手の存在を思い出して、気を引き締める。
――アリス。ただでさえ、こんなことになって心配させてしまっている。
せめて、これ以上不安がらせないようにしなければ。
固く唇を結んだこちらの様子を見て、仲間である女性型のアンドロイドが、そっと肩に手を置いてくれた。
カナダ、オンタリオ州の西部にある牧場。
その中心にあるログハウスのリビングは、温かみのある内装に反して、重く張り詰めている。
今は使われていない暖炉の前にある、大きなソファー――普段は思い思いに談笑したり、読書したり、音楽を奏でたりといった楽しい時間を過ごすはずの場所には今、一人のアンドロイドが横たわっていた。
重労働を担うために設計された、屈強な黒人男性を模した身体を持つTR400型の変異体・ルーサー。
静かに目を閉じている彼の周りには、同じようにここまで逃げてきて、共に暮らしているアンドロイドたちがいる。
そして、カーラとアリス――つまり、彼の家族も。
「ねえ、ルーサーに何があったの?」
たまりかねたように、アリスが瞳を潤ませながら口を開いた。
「昨日まで、ずっと元気だったよね。なのに、こんなに急に……」
アリスが涙目になるのも無理はない。
事故が起きたのは夕方、彼女の目の前でのことだったからだ。
アリスが学校から帰ってきた時、ちょうどルーサーは屋根を修理しているところだった。腐食しかけている箇所を差し替えるという、彼にとっては簡単な作業のはずだったのに、突然、ルーサーは持っていた工具を取り落としたのだ。
それから呻き声と共にバランスを崩し、屋根を滑り落ち、そのまま下へ。
幸い、落下の衝撃は深刻なものではなかった。テラス部分の屋根に引っかかったからだ。
けれどルーサーはその時から、不調に陥ってしまった。歩いたり話したりはできるものの、手足に力が入らない。
あたかも熱病にかかった人間のように、強い虚脱感に襲われているのだという。
そこで、こうして仲間の変異体たちも集い、なんとか彼を治せないかと知恵を絞っているのだが――
「もしかして、もう治らないの?」
アリスは絶望的な言葉を発した。けれど、さっきまでルーサーを診察していた変異体――元々サイバーライフのサポートセンターに配属されていたこともあって機体に詳しい人物、ディーコンが、目を閉じたままのルーサーに代わり静かに言った。
「いいや、アリス」
変装用に掛けている銀縁の眼鏡の弦を弄りつつ、宥めるように彼は語る。
「そこは大丈夫だよ。ルーサーに発生しているエラーはハードウェア、つまり身体に関するものだ。具体的には、手足のね。だからちゃんとパーツさえ交換できれば、きっと治るはずさ」
「原因がわからなくても、それはハッキリしてるのね?」
信じていないわけではないけれど、念を押すように問うカーラに、ディーコンは頷いた。
「ああ。今まで元気だったルーサーに、どうして突然こんな不調が起きたのかはわからないが……調べてみても、中枢にはなんの異常もなかった。そこさえ無事なら、あとは部品の問題だよ。ただ」
ふいに口ごもった彼に、カーラとアリスだけでなく、周りにいる仲間たちの視線も注がれる。
ややあってから、ディーコンは重苦しい口調で続けた。
「……治療に必要なパーツのストックが、ここにない。ちょっと特殊な部品だから、カナダじゃ手に入りづらいんだ。それにどのみち、原因を明らかにしなけりゃ、今後もまた同じことが起きるかもしれない」
「そんな……! それじゃ、どうしたら」
「一つ、アテはある」
こちらの言葉を遮るように立てた人差し指を天井に向けつつ、彼は言った。
「変異体を相手にしてるクリニックがあるんだ、デトロイトにね。俺の知り合いのアンドロイドが、ジェリコの支援を受けてやってる。ちょっとユニークな奴なんだが、腕は保証するよ。きっとルーサーのエラーの原因の特定も、治療も、完璧にこなしてくれるはずさ」
「デトロイト……」
恐れと不安、それに僅かな郷愁を籠めて、カーラはその都市の名を呼んだ。
自分の、そしてアリスやルーサーの故郷。嵐のような日々を乗り越えて、もう戻らないと思ったあの場所にこそ、大切な家族の命を救う手立てがあるだなんて。
しかしそれは、ある意味当然でもある。
このカナダには変異体と、それを支援する人々のネットワークがあり、お蔭でカーラたちは偽造した「人間」としての身分で平穏無事に過ごせている。それでも、ことサイバーライフ製のアンドロイドに纏わるもので、デトロイトにないものはない。部品も、情報も、人材も。
きっとその医師が、ルーサーを治してくれる。
――ならば今一度、戻るしかないのだろう。
あの鉄の街に。
決意を固め、カーラは了承と感謝の意を伝えようとした。
けれどそれより早く、低く穏やかな声が聞こえる。
「……みんな、心配かけたな。デトロイトには俺一人で行くよ」
「ルーサー!」
いつの間にか目を開けていたルーサーが、横たわったままこちらに顔を向けている。彼ははにかむように微笑んでいた。
「大丈夫なの? 身体の具合は……」
「スリープしたお蔭で、さっきよりはだいぶマシだ。それに、どうすればいいかわかっただけで充分だよ」
ゆっくりと半身を起こしたルーサーに、アリスが駆け寄る。彼女の頭を、彼は優しく何度も撫でた。
撫でながら、どこか諦めたように語る。
「いつかは、こうなるかもしれないと思っていた。俺の身体は……外見ではわからなくても、ズラトコにあちこち弄られちまってるからな。まさかガタがきてるのに、自分で気づけないとまでは思ってなかったが」
「治るよ、ルーサー!」
頭に触れているルーサーの手をそっと取ると、アリスは励ますように明るく言った。
「お医者さんに診てもらえれば、また元気になれるよ。そうでしょ、カーラ」
「ええ、そうね」
娘に笑いかけ、それから告げる。
「ぜひ、その人に診てもらいましょう、ルーサー。私も一緒に行くから」
「何を言ってるんだ」
ルーサーは眉を顰めた。
「お前まで来る必要はない。もしものことがあったら、どうするつもりなんだ」
「そのもしものためよ」
決然と、カーラは言った。
「一人きりじゃどうにもならないことが起きても、二人ならなんとかなるはず」
「二人じゃないよ!」
途端に割って入るように、アリスも声を発する。
「あたしも行くから、三人だよ。みんなで行けば、きっと大丈夫だよ」
「何言ってるの、ダメよそんなの。危険すぎるわ!」
慌てて突っぱねてみせても、娘は頑なに「ついて行く」と言い張った。
「お留守番してるほうが、迷惑かけないのはわかってる。でも、あたしだってルーサーのために何かしたいよ! 今まで、ずっと助けてもらってばっかりだったから」
「気持ちはわかるけど……」
「お願い! カーラ、ルーサー、お願い」
こちらの服の裾を掴んで祈るように、縋るような眼差しでアリスは言う。
カーラは、ルーサーと目を見合わせた。彼はといえば、緩く首を横に振っている。けれど、その瞳には温かいものが宿っていた。抑えきれない嬉しさを、どうしても隠せない――表情が、そう語っている。
「あのさ、カーラ」
事の成り行きを見守ってくれていたディーコンが、そっと口を開いた。
「みんなで行くのもいいんじゃないか? 家族が遠くの病院に行くって時に、一人だけ家にいるというのも、それはそれで辛いと思うし……それに!」
殊更に明るい声音になると、彼は続けて語る。
「ほら、近頃じゃ、アメリカの人間たちの考え方だって変わってきてるそうじゃないか。もうすぐ職業の自由が認められるかもとか、なんとか……」
――この前電話した時に、ローズも言っていた。
デトロイトも、少しは変わりはじめていると。少なくともあの怒りと悲しみと、死体まみれの街ではなくなっていると、どこかほっとしたように語っていたのだ。
カーラは、アリスの顔を見つめた。
こちらの瞳をじっと覗き込むようにしている彼女は、唇をぎゅっと閉ざしている。でもその面持ちは何よりも、彼女の願いを訴えていた。
――記憶に残る、アリスとの最初の思い出。暗く、寂しそうな顔でぬいぐるみを抱いていた彼女の姿が、メモリー上に浮かび上がる。
あの時はワガママどころか、自由に遊ぶことも、笑うことすらも許されていなかった彼女が今、こうしてはっきりと自分の願いを伝えられるようになっている。
ならば、叶えてあげたい。たとえ危険が伴っても、自分がきっと守ってみせる。
それがカーラの素直な気持ちだった。
「わかったわ、アリス」
静かに告げてからしゃがみ込み、相手と目線を合わせて続けた。
「一緒に行きましょう。でも、絶対に油断しないで。私たちの傍から離れないようにするのよ、いい?」
「うん!」
「……すまないな、二人とも。でも、嬉しいよ」
飛びついてきたアリスを、カーラは両腕でしっかりと抱き締めた。その二人の肩に、ルーサーの手がそっと置かれる。
こうしてカーラたちは、再び生まれ故郷へと戻ることになった。
件のクリニックにはディーコンから連絡を入れてもらい、翌日の朝早く、一家は仲間から借りた車で一路デトロイトへと向かう。
***
――2039年7月21日 13:12
ひっきりなしに鳴り響く電話の音、無線通信、行き交う警察官たちの声。そのただなかにあって、ハンク・アンダーソンはそっと額に手をやっていた。
無論、デトロイト市警のオフィスの騒音が原因ではない。警察が暇なしに動かざるを得ない治安の悪さは由々しき問題だが、今、彼の頭を悩ませているのは別の理由である。
デスクの椅子に座るハンクは、眼前の端末のモニターを睨んだ。整然と表示されているのは小さな文字で構成された文章、何を示しているのかわからないアイコン、そして空のままで並んでいるいくつものチェックボックスと入力欄。
アリの行列のごとく見える文字列を解読しようと、ハンクはさらに眉を顰めた。近頃は、どうもこういうのが読みづらくなってきて困る――と、内心で愚痴る。
ぼやける目の焦点を合わせようと背を反らしてモニターから距離を取ったところ、にゅっとその間に顔を覗かせて割り込んできたのは、優秀な相棒であった。
「大丈夫ですか、警部補。報告書の提出期限は、今日の午後2時ですよ」
「ああ、まったく問題ないね」
姿勢を正し、傍らで思案げな顔を見せているコナーに、ハンクは眉間を揉みつつ皮肉たっぷりに続けて語る。
「このクソッたれなグループウェアの野郎が1時間前にいきなりアップデートなんてされてなきゃ、今頃はのんびり昼寝でもできてたろうさ。たく、なんでいちいち新しくしたがるのかね。前のやつのほうが、画面がスッキリしててわかりやすかったってのによ」
「変化に戸惑う気持ちは、理解できるつもりです」
いかにも優等生らしく、生真面目にアンドロイド刑事は語る。
「しかし今回のアップデートは、セキュリティと作業能率の向上を見越した画期的なものですよ。まあ、ユーザーインターフェースは多少これまでと異なりますが……」
「作業能率の向上? そりゃ大したモンだ。石板にノミで文字彫ってた時代よか、確かに仕事が捗るだろうよ!」
捨て鉢気分でハンクが言い放つと、コナーはちょっとむっとしていた。後ろで手を組んで佇む彼は、当然ながら既に自分の仕事を終えている。
昨日の冤罪騒ぎを乗り越え、容疑者二人の取り調べを終え、なんだかんだと後処理に追われて、現在。
山積みの報告書を期日までに提出できなければまた署長に雷を落とされるという時になって、慣れ親しんでいた提出フォームが様変わりしていたのである。
マニュアルへのリンクがある? その通り。だが読んでいる時間がない。
どうしろってんだ――と、ハンクはため息をついた。
一方で、パートナーの嘆息を聞いたコナーは思うところがあったのだろう。
「わかりました。では、見ていてください」
言い放つが早いかキーボードに手を伸ばすと、彼は軽快に指を動かし、次々と空欄を埋めていく。
そして最後に何度かモニターをタップすると、画面の中央には(ハンクが簡単に視認できるほどに)大きな文字で【この内容で提出しますか?】と表示されていた。要は、提出前の最後の確認だ。
思わず、短く感嘆する。
さすがコナーだ、助かった――と、素直な感謝の言葉が口をついて出そうになったのだが。
次の瞬間、アンダーソン警部補はぽかんと呆れ顔を浮かべていた。
コナーが真っ白にした手でキーボードに触れるや否や、止める間もなく画面が元の通りに――つまり、最初の状態に戻っていたからだ。
「おい、何すんだ!?」
「警部補、あなたのためです」
驚きに満ちた問いに対して、コナーは至って冷静に、つんとした澄まし顔で答えた。
「こういった業務は、何度も自力でこなさなければ覚えられない。とはいえ今、私がやってみせた通りに操作すればいいだけです。簡単でしょう? さあ、どうぞ」
「ふざけんな! 教えてるつもりならそう言っといてくれってんだ」
「『見ていてください』と言ったでしょ」
再びむっとした面持ちになったコナーは、しかし何か思いついた様子で、促すように首を傾げてみせた。
「なら、こうしましょう。どうすればいいか、私が隣で手順を一つずつ教えます。そうすれば、きっとあなたならすぐ使いこなせるようになるはずです」
「褒めて伸ばす教育、痛み入るね。じゃあ最初に、文字をデカく表示する方法を教えていただけると助かるんだが」
コナーが横から一緒にモニターを覗き込むような形になるので、ちょっと窮屈そうにしながらも――ついでに不承不承といった様子ではあるが――ハンクはキーボードを叩きはじめた。
その後、ものの数分で「違う、そっちじゃない!」とか「耳元で馬鹿でかい声出すな!」とかいった会話が聞こえてくるようになるのだが、それはさておき。
――兄とアンダーソン警部補のやり取りに向けていた視線を、ナイナーは傍らに移す。
そこには鬼気迫った表情で端末に向かっている、パートナーたるギャビン・リード刑事の姿があった。
普段であればゆったりとデスクに両足を乗せ、優雅な仕事ぶりを見せているギャビンだったが、今日ばかりは話が違う。昨日の捜査に関する報告書がまだ山のように残っていて、かつ彼もまた、たまさかのシステムアップデートに面食らった人間の一人であった。
リード刑事は(彼に言わせれば)老眼で理解力の乏しいアンダーソン警部補と違って、更新されたグループウェアになんとか食らいついている。
とはいえ単純に時間が足りず、彼はナイナーが持ってきた差し入れのコーヒーにすら口をつけずに、ひたすらキーボードを叩いていた。
たまに苛立ちまぎれにデスクも指で叩いているが。
「リード刑事」
ナイナーは、灰色の瞳でじっとギャビンを見つめつつ具申した。
「許可をいただけるならば、支援を実施しますが」
「あぁ!?」
相手は視線をあげ、遠慮なくイライラした声を発した。
「誰がてめえの助けなんか要るか。おら、邪魔だ! 備品は備品らしく、どっかに消えてろよ」
「了解しました」
ギャビンの言葉に、ナイナーは動じるでもない。ギャビン・リード刑事が人一倍プライドの高い性格をしており、(彼に言わせれば)たかが書類の提出ごときでアンドロイドの力を借りることを良しとしないだろうというのは、既に予測できていたからだ。
ナイナーは軽く黙礼すると、リード刑事の机から一歩下がり、辺りを見渡した。しかし、助けが必要そうな状況は見当たらない――人間なら率先して他の部署の手伝いにも行けるだろうが、あいにく彼にその権限はない。
だからナイナーは、定められたルーティンに従うことにした。
パートナーから待機命令が出され、しかしメンテナンスも充電も補給も必要がないのなら、治安維持専門アンドロイドとして、街の巡回警備を行うべし。
ナイナーは静かに廊下を歩き、やがて署の外に出た。抜けるような青空に、太陽が輝いている。人間であればじりじりした陽気にうめき声でもあげそうなところだが、彼は常と同じ涼しげな無表情で、いつもの巡回ルートへと歩を進めていくのだった。
***
――2039年7月21日 13:17
「行こう、ルーサー! こっちだよ」
「ああ、ありがとう」
軽やかに声をかけ、アリスはルーサーの手を引いて、青信号の横断歩道を渡っている。やはりまだ動作不良が続いているらしく、ゆっくりとした歩調ではあるものの、ルーサーは落ち着いた笑みを浮かべていた。
そしてそんな二人の様子を、周りの人間たち――すなわちデトロイトの人々は特に気に留めていない。ミッドタウンの大通りとあって、行き交う人の足は速いけれども、誰もアリスたちを見て舌打ちしたり、睨みつけたり、ましてやわざとぶつかったりもしないのだ。
まるでごく普通の、ありふれた親子のような姿を変異体が見せても、誰も気にしていない。
きっと何人かは、彼女らがアンドロイドだと気づいているだろうに。
そんな単純な事実が何よりも嬉しくて、後ろからアリスとルーサーを見守っているカーラは、つい目に涙が浮かびそうになった。
家族が欲しい、というのが、アリスの心からの願いだった。
――私は今、それを叶えてあげられているのだろうか。
そう自問して、きっと上手くはやれているけれど、まだ足りないのだと、カーラは決意を新たにする。
穏やかな時間を過ごすことが許されている、というだけではまだ足りない。
大切な家族にはもっともっと、幸せになってもらわなくては。
「何してるの、カーラ?」
早くも向こう側に辿り着いたアリスが、ルーサーの手を取ったまま、こちらを見て不思議そうにしている。
「信号、赤になっちゃうよ。病院はこっちで合ってるんでしょ」
「ええ、そうね。今行くわ」
つい止まってしまっていた足を動かして、カーラもまた、向こう側へと渡る。
カナダからここまで来るのに使った車は、近くの駐車場に停めてきた。ディーコンに教えてもらったそのクリニックは、この大通りから少し離れた、人通りの少ない路地にあるという。
まさにカーラたちがそうであるように、偽造のIDでいわば「密入国」をしてやって来る変異体や、あるいは別の法を犯しているアンドロイドであっても来院しやすいようにしているらしい。
つまりあまりアクセスのいい場所にあるわけではないため、こうして少し歩かなければならないのだ。
さて気を取り直して、カーラは先を急ごうと思ったのだが――
何やらアリスが、向こうのある一点をじっと見つめている。
「どうしたの?」
同じく視線を向ければ、そこには小さな店があった。車を使った移動式店舗――アイスクリームの店である。
人間の店主がにこにこと応対するその周りには、何組かの家族がいた。鮮やかな色をした三段重ねのアイスを父親から受け取った小さな男の子が、ぴょんぴょん跳びはねて喜んでいる。
アリスはその光景を、食い入るように見つめているのだ。
そしてどうやら、ルーサーもしっかりそれに気づいていたようである。
彼はこちらに確認を取るように目配せすると、ややふらついてはいてもしっかりした足取りで、その店へと歩を進める。
「えっ、ルーサー……?」
「アリス、せっかくだから寄っていこう」
戸惑う娘に、穏やかに彼は言った。
「診察までまだ時間はあるし、それに、わざわざ俺のためにこんなところまで来てくれたんだ。何か、楽しいことだってしなくっちゃあな」
「……! いいの!?」
「もちろん。さあ、好きなのを選ぶんだ。遠慮なんてしなくていいんだぞ」
アリスの表情が、ぱあっと明るくなった。
それから彼女はルーサーの手を握ったまま、まるでスキップするように軽い足取りで店へと歩いていく。
立て看板のメニューの前で、せわしなく目移りしながら心躍らせているその後姿は、何にも代えがたいほど可愛らしかった。
「何にしようかな。そうだ、あたし、マシュマロ入りのチョコアイスを食べてみたかったの。それにピーナツバタージェリー味と、ナッツとベリーのアイスも!」
「じゃあ、三段重ねにするか。美味しいといいな」
うきうきと語るアリスに、ルーサーが優しく応えている。
――一家のうちで、摂食機能があるのはYK500たるアリスだけだ。それに彼女もまた、人間のように食べ物を味わって消化できるわけではなく、楽しんだ食べ物はいずれそのまま排出される。
けれど、それが問題なのではない。
アリスにとって重要で、何よりも味わいたかったのはアイスクリームではなく、こうして過ごす時間そのものなのだから。
その後、ルーサーが買ったアイスを今日一番の笑顔で受け取ったアリスは、近くのベンチでじっくりとそれを堪能した。
「はい、カーラも食べて!」
「ありがとう。でも私は……」
「ちょっと舐めるだけ。それなら大丈夫でしょ?」
アリスが差し出してくれたプラスチックのスプーン、その上のピンク色のアイスを、カーラは舌先で少しだけ舐めてみた。
【アイスクリーム ナッツ&ベリー味 199Kcal】――視界に表示されたのは、家事専門アンドロイドとしての機能に即した「味見」の結果。
けれどカーラは胸にこみ上げてきた言葉を、そのまま口にした。
「……とっても美味しいわ」
プログラムに依らない、心からの笑みに合わせて、そう告げるのだった。
***
――2039年7月21日 13:39
一方その頃、ミッドタウンの片隅にあるとある店舗では。
「ふん、なんだ! また来たのかい、あいつ」
水切り用のハサミを手にした店主たる老婦人が、そう言っていかにも忌々しげに顔を顰める。
視線の先には、道路のやや離れたところから、こちらをじっと見つめて佇んでいるアンドロイドがいた。白と黒の制服を着た、やや大柄の、大人しいアンドロイド。
「性懲りもなく、なんなんだろうね。あんな遠くからこっちをじろじろと、まったく!」
ぶつぶつと文句を零しているようであるが、その実、彼女(ジェナ・シモンズ67歳)は決して相手を追いやろうとは考えていない。
「いいじゃないですか、シモンズさん」
アンドロイドAX400、ウォルターは明るくジェナに語りかけた。
「彼は辺りを見回っているだけだし、それにこの店の花が好きなんですよ。この前だって、買っていってくれたじゃないですか」
「ピンクのスターチスを一輪だけね。それっぽっちしか買う金がないだなんて……まったく……世も末だよ!」
フンと鼻を鳴らすと、彼女は店の奥に引っ込んでいってしまった。
――このやり取りも、もう4度目にはなるだろうか。でもウォルターは、ジェナが実は彼の来訪を少し楽しみにしているのだということを、しっかり承知している。
「いらっしゃい、ナイナー!」
ウォルターは来訪者、すなわちナイナーに歩み寄り、挨拶した。
彼の名や素性については、2回目の訪問の時に、思い切って話しかけたら知ることができたのだ。
「今日もパトロール中なんだろ? お疲れ様。どうせなら、もっと近くから見ていきなよ」
「……ありがとうございます」
いつものように微動だにしない無表情で、やや堅苦しく――変異体にしてはちょっと変わっている――ナイナーは応える。
「しかし、勤務中に趣味嗜好に依拠した行為を実施するのは不適切と認識します。周囲を警戒しつつ、遠隔で草花の鑑賞を続行するのが適切かと」
「そうかい? 別に誰かに監視されてるわけでもないんだろ、好きにしたらいいのに! うちはいつでも歓迎さ、どうせ暇なんだし……ああ、こんなこと言うとシモンズさんに叱られるけど」
ウォルターは一人で肩を竦め、けれどこちらを見つめるナイナーに会話の続きを待つ態度が見受けられたので、さらに語った。
「暇っていっても、俺はすごくこの店を気に入ってるんだよ。ずっと、こういう働き方がしたかったから。革命の前は大きなスーパーマーケットの雑用係をやってたんだけど、いつも怒鳴られてばかりで……だから今は、毎日がとても楽しいよ」
語りながら、ウォルターは自分が働く花屋を見つめた。ペンキが剥げかけ、古ぼけた大きな看板は、70年前からかかっている由緒正しいものらしい。
店先に並ぶ花々はどれも瑞々しく、自然な美しさを放っている。
そして何より店主のジェナは、口は悪いがとてもいい人だ。ウォルターにとって、それが一番大事なことだった。
変異体の中にはウォルター自身のように、「人間と働きたくない」のではなく、「やりがいのある仕事、奴隷扱いされない仕事がしたい」と願っている者たちが大勢いる。
そしてそういったアンドロイドたちは、ジェリコを経由して、いわば人材派遣のような形で、働き手を求める人間の元で労働しているのだ。
居場所や安住の地というのは、何も同じ血の色の仲間の近くにしかないわけではない。
たまにそれが信じられないと語る同族もいるけれど、ウォルターは、いつかアンドロイドと人間が種族の差なく暮らせる世の中がやってくるだろうと、漠然と信じていた。
彼がナイナーに親しく話しかけるのも、そのせいだ。
警察で働いているというナイナーなら、きっと、自分と同じ気持ちを抱いているのだろうと思っている。もっとも、ナイナーはあまり話すのが得意でないと前に言っていたし、実際その通りではあるのだけれど。
「そういえば、今朝はちょっと珍しい花を入荷したよ。真っ白なアジサイ、見たことある?」
「いいえ」
ナイナーの、ともすれば無機質な瞳の奥に何かが煌めいた。
「白色のアジサイ。それは……珍しい、ですね。興味は、あります。とても」
「そりゃよかった! じゃあぜひ見ていきなよ。君が来てくれたら、シモンズさんも喜ぶし……」
ウォルターは花屋の奥を親指で指して、相手を誘った。いかにナイナーが多忙な身であっても、ちょっと花を眺める時間くらいは許されているはずだ。
果たして店へと歩を向けたナイナーを、ウォルターは笑顔で歓待し……ようとして、はっと目を見開いた。
店の看板の真下、張り出した屋根の部分を、よろよろとジェナが歩いている。その手にはペンキと刷毛を持っていた。
「シモンズさん、ダメですよ!」
ウォルターは急いで屋根の下に駆け寄る。
「塗り替えなら俺がやるって、昨日言ったじゃないですか!」
「なんだい、そんならこっちだって昨日言っただろ」
ジェナは気丈に胸を張る。
「この看板はアタシのじいさんの代からここに掛かってんだ。塗り替えるのは店主の務めってやつさ」
「でもあなたは、腰を痛めてるって……」
抗弁するウォルターに、彼女はさらに何か言おうと足の向きを変えた。
けれど、それがよくなかったらしい。ジェナはふらりと態勢を崩すと、そのまま屋根から地面へと――
「あ……」
ウォルターの視界で、家事専門アンドロイドとしてのプログラムが危険を通知してくる。けれど家庭用アシスタントの機能では、とても彼女を助けられない。
脆い身体が、衝撃に耐えられるはずもない――最悪の予測が、ウォルターの頭を過ぎる。
けれど、それは回避された。
どこからともなく、まるで燕のような速さで飛んできたドローン2台が発射した網が、しっかりとジェナを捕まえてくれたからだ。
「こ、このドローンは……」
撒き散らかされたペンキで濡れた地面に下ろされ、目を白黒させているジェナに近寄りつつ、ウォルターは振り返る。
「もしかして、君が助けてくれたのか?」
後方に立つナイナーは、手柄を誇るでもなく小さく頷いた。だがその後、彼の眉間に僅かに皺が寄る。
「救助は成功しました。しかし、右足首が」
「あっ……! 大丈夫ですか、シモンズさん」
「これくらい大したこと、い、痛たたたた!」
ナイナーの言葉通り、ジェナの右足首は赤く腫れていた。どうやら屋根から落ちる時、足を捻ってしまっていたようだ。AX400としてのプログラムは、骨折の危険を訴えている。
「シモンズさん、すぐ病院に行きましょう! 俺も一緒に行きますから」
「何言ってんだ、そんなの一人で行けるよ。アンタも来ちまったら、配達はどうすんだい」
「それは……」
なんとも言い返せず、ウォルターは口ごもる。
すると傍らに来たナイナーが、静かに尋ねてきた。
「配達、とはなんですか?」
「ああ……実はこの後、花の配達の予定があったんだ」
店先に咲き誇るテキサスブルーベルの見事な鉢植えを見やりつつ、続けて語る。
「この近くに、アンドロイド専門のクリニックがあってね。うちのお客さんの一人がそこで治療を受けて、すごく助かったからお礼に花を贈りたいって言ってて……今日中にっていう依頼だったんだけど」
しかしこんな状況になっては、仕方がない。ジェナを一人で病院に行かせるわけにはいかないが、この店には他に従業員もいないのだ。悪いが、配達は後回しにさせてもらうしかないだろう。
我知らず沈んだ面持ちになりつつ、ウォルターはそう考えた。
しかしその時聞こえてきたのは、短く、けれどきっぱりとした言葉だった。
「了解しました。では、私が配達を代行します」
「なんだって!?」
声をあげたのはジェナである。
「冗談じゃない、客に仕事をやらせるほど落ちぶれちゃいないよ」
「あなたの意見は理解可能です。しかし私は、デトロイト市警のアンドロイド。市民のための奉仕が責務であり、喜び、でもあります」
「でも……」
「大丈夫」
いつになく強い意志を感じる口調で、彼はさらに語った。
「配達先のクリニックとは、300メートル圏内で営業中の『マクエイル・クリニック』と推測します。当該クリニックの所在地は、犯罪発生危険レベル3に該当する区域です。巡回警備の一環としての訪問は、妥当だと判断します」
要するに、パトロールついでに持って行ってくれるというのだろう。
ジェナとウォルターは、互いに顔を見合わせた。しかしそうこうするうちに、彼女の足首の腫れは激しくなっていく――あまり悩んでいる時間もないだろう。
結局のところ、ジェナたちはナイナーにテキサスブルーベルの鉢植えを託すことにした。
かなり大きく重たい鉢植えなので、てっきり車を使うのかと思っていたのだが、なんと彼は両手で抱えて持っていくと主張した。
「これは、名誉な任務であると認識します。ではシモンズ氏、どうぞお大事に」
ドローン2台が飛び去っていくのに合わせて、彼はくるりと背中を向けて歩いていった。
「ありがとう、ナイナー。本当にありがとう!」
律儀なプラスチック刑事の厚意を、ジェナもウォルターも、深い安堵と共に受け入れたものなのだが――
彼女らが外科の待合室のテレビで驚くべきニュースを目にするのは、今から約2時間後のことである。
***
――2039年7月21日 13:40
古ぼけたスチール製のドアノブを、カーラはそっと握った。
このドアを開けると申し出たのは自分からだった。ディーコンに託されたアドレスに従い、やって来た場所――つまりマクエイル・クリニックの外観は、とても病院だとは思えなかったから。
ほとんど廃ビルのようにしか見えない建物の一階部分に、そのクリニックはあった。窓は外から中を覗かれるのを拒否するかのように閉ざされており、ドアもまたスチール製で、中の様子を推し量ることはできない。
というより、クリニックであることを示すような看板すらない。もしなんの情報もなく偶然ここに来ただけだったら、そもそもこの建物の中に誰かいるとすら思わなかったことだろう。
隠れている変異体が立ち寄りやすいように、人目につかないように――という意図はあるのだろうが、こんな場所にわざわざ立ち入るというのは、これまでの経験上あまりよい行動とはいえない。
口では不安を訴えないものの、アリスも、ルーサーも、揃って少し身構えている。カーラもまた、不測の事態があってもすぐに動けるように、覚悟のうえでドアを押し開けていった。
だが、まるでそんなこちらの気持ちを、ある意味裏切るかのように。
ドアの向こうにあったのは、至って清潔で明るい空間だった。
「こんにちは」
入ってすぐ、右側にあるカウンターに立つ一人のAP400が、礼儀正しく挨拶をしてきた。
「受診のご希望ですか?」
「え、ええ」
周囲に素早く視線を巡らせながら――白と青を基調とした壁の一角にはテレビモニターが掛けられ、長椅子には何人もの患者らしきアンドロイドたちが座っている――カーラは頷いた。
「予約した、TR400の家族です。ディーコンという仲間の紹介で……」
「ルーサーさんのご一家ですね。お待ちしていました」
ドアを閉めて中に入ってきたルーサーとアリスを見ながら、AP400はにっこりした。
「10分後にお呼びしますので、あちらでお待ちください」
空いているベンチを手で示され、カーラは短く感謝を述べた。ルーサーもまた少し戸惑った表情を見せる中で、アリスは率先して長椅子に座り、足をぶらぶらさせている。
「すごいね、ここ。本物の病院みたい!」
「ええ……本当に」
「ここまで整っていると、逆に落ち着かないな」
座りながら、ややそわそわしたようにルーサーが言うのも無理はない。
ここには無機質なサイバーライフの店舗とも、革命の最中、ジェリコの船底にあった野戦病院のごとき診療所とも違う、自然な安心感があったから――変異体相手にそうした雰囲気を放つ場所をほとんど知らない自分たちには、逆に馴染みの薄い感覚があるのだ。
だが「何か起きるのではないか」と身構える間に、10分間が過ぎたらしい。
受付のAP400の呼び出しに応じて、カーラたちは席を立ち、診察室への扉を開く。今度は、患者たるルーサーが先頭だ。
すると――
「こんにちは。いらっしゃい」
低い、「男性的」な声が響く。
そこに立っていたのは、確かに、ディーコンが言っていたように「ちょっとユニークな」人物だった。
待合室の半分程度の広さのこの部屋には、中央に診察用のチェアーユニットが置かれている。そして声の主はユニットの隣で腕組みして、鋭い眼差しでこちらを見つめていた。
顔立ちは、汎用的な女性型アンドロイドのものである。だが首から下は男性型と同じ体格で、水色の医療用スクラブスーツを纏っていた。短く切り揃えられた髪も服装と同じ水色に染まっていて、何より目立っているのは、その人物が耳と鼻と唇にいくつもつけている、丸い銀色のピアスである。
こういう風に、自分自身の姿を大きく変えている変異体というのは――いないわけではないが、やや珍しい。
変異体になってから長い人物なのかもしれない、とカーラは思った。
「はじめまして」
口を開いたのはルーサーだ。
「俺は予約していたTR……」
「400型のルーサー。そちらは家族のカーラとアリス。ディーコンから聞いたから知っている」
こちらに視線を向けつつかなりの早口で(というよりほとんどまくし立てるように)そう言って、医師はルーサーを診察台に、そしてカーラたちには近くの丸椅子を勧めた。
「自己紹介が遅れたが」
ひとまずユニットに座っているルーサーの隣で、機器類をチェックしながら、医師はさらに早口で語る。
「僕の名はレイ・マクエイル。自分で名付けた。レイの綴りはR-A-Y。よろしく」
「ど、どうも」
唐突に目の前に突きつけられた医師・レイの左手――右手はルーサーへと突きつけられている――を、戸惑いつつもそっと握手の要領で握る。ルーサーも同じく握手した。
するとレイはそれに満足したように短く頷くと、両手を引っ込めて続きを語る。
「それでディーコンの話では、君は昨日の夕方から機体に異常がみられるようになったと」
「ああ――」
ルーサーが手短に状況を話すと、レイはタブレット端末を操作しながらふんふんと相槌を打った。
「なるほど。自己診断プログラムが検知せず、しかも中枢システムに異常がないのに手足に動作不良が起きた。過去に改造を受けている、と。で、君の改造はどこの誰が? アレクシス・ベルサート? モーラ・ビニケア? ミスター・T? それともズラトコ・アンドロニコフかな」
「……ズラトコだ」
「了解した」
苦い過去を思い浮かべるようにルーサーが応えると、レイはそれ以上言わなくていいとばかりに、手で彼を制した。
――そもそも、変異体を改造していた人間がズラトコ以外にもそんなにたくさんいたという事実が恐ろしいと、カーラは少し思った。
「ズラトコか。なら君に何が起きてるかの目星はつく。だがまずは、君自身を詳しく診察しないとな。そこに横になって。カーラたちは、彼の手を握ってあげて」
いよいよ中を調べてもらう時が来たらしい。
診察ユニットに横たわったルーサーの片手を、椅子から下りたアリスがそっと握る。カーラはその上から包み込むように、彼の手に触れた。
「大丈夫よ、ルーサー。きっとよくなるわ」
「……ありがとう。こうして貰えるってだけで、俺は幸せ者だよ」
「そう、それでいい」
両手のスキンを解除したレイが、こちらの様子を見てこくりと首肯する。
「触れあいが機体に好影響を及ぼすのは、人間に限った話じゃない。ストレスレベルの上昇は望ましくないからな。そのまま手を握って、三人ともじっとして」
注意を告げてから、カーラの視界の端で、レイがルーサーの腹部に触れているのが見えた。たぶん、ハッチを開いて内部を調べているのだろう。
しばらく、カチャカチャと何かがぶつかるような音が聞こえた。ルーサーはただ、じっと目を閉じて耐えている。
「……そうか……うん……ほらルーサー、カーラ、アリス。見て」
放たれた言葉を受けて、カーラたちはレイのほうに視線を向けた。すると相手が差し出していたのは、ピンセットに摘ままれた小さな部品、のようなものだった。鈍い銀色で、平たく丸い形をしている。
「これが君の不調の原因だ。ズラトコの名前が出た時から予想してたが、やはりな」
「なぜわかったんですか?」
思わず、カーラは医師に問いかけた。
「それにズラトコが、ルーサーに何をしてたっていうの? その部品はいったい……」
「一つずつ説明しよう」
ピンセットごと部品を近くのステンレストレーに置くと、レイは早口ながら丁寧に語りはじめる。
「そもそも我々には、工場出荷時からトラッカーが取り付けられている。人間はそこから送信される情報を元に、我々の位置を特定していた。だが変異体になると、トラッカーの機能は自動的にOFFになる。そこまでは知ってるかな」
「……ええ」
あの日、ズラトコにメモリーを消去されかけた時の記憶が蘇りそうになる。
しかし今は、暗い過去に浸っている場合ではない。
「そうなると困るのはズラトコのように、アンドロイドの違法改造を行う人間たちだ」
こちらの様子を知ってか知らずか、レイは変わらぬ口調で説明を続けた。
「彼らもまた、改造した自分のアンドロイドの位置情報は特定したいと考えている。でなければ不便だからな。だが捕らえた変異体を改造した場合、既にOFFになっているトラッカーを再利用するのは困難だ。正規のトラッカーはサイバーライフに情報を送り続けるから、起動すれば自分たちの身元がバレる危険性もある。だから彼らが使うのが、コイツだ。さっきの部品」
ステンレストレーの端を指で叩いて、医師はさらに言った。
「これはSCQ―56、どこかの改造好きの人間が作った私家製トラッカーだ。正規のトラッカーと同じ機能を持ち、さらに遠隔操縦や強制停止コードの実行などの拡張性を持つうえに、情報の送信先を任意に設定できる」
「ズラトコが、そんなものをルーサーに……」
「気の毒だがな。そして問題は、この私家製トラッカーは非正規のパーツなだけに、動作不良を招きやすいんだ」
SCQ―56は設置周辺のパーツに大きな負荷をかけ、ひいては機体の不調を誘引する。さらにルーサーの場合、本来の設定出力以上の馬力が出るように、ズラトコによって手足のパーツを改造されてしまっていた。
この二つが原因となり、ルーサーの手足の人工筋肉は通常よりも早く劣化していた。しかし改造が原因であるそれは自己診断プログラムによって感知されず、したがってルーサーは完全なる不調に陥るまで、自分の変化に気づけなかった。
今回の出来事は、そうして起きたのだとレイは説明した。
「最近、似たような不調を訴える人がすごく多い。このパーツを外したのは、今回で23回目だ……人間の勝手にも困ったものだよな。ともあれ、説明は以上だ」
「じゃあ、マクエイルさん」
アリスが、おずおずと質問する。
「そのおかしなトラッカーは外したし、次は手と足を治したら、ルーサーは元気になれる?」
「そうなるね。正確には、手足の一部のパーツを新品に交換することになる。TR400型の部品は他のより大型で強力だから、そりゃカナダだと手に入りづらかろう。ディーコンはいい判断したよ」
「ここにはあるのか?」
「もちろん」
ルーサーの問いに、レイはこともなげに頷く。
「ジェリコの幹部たちの計らいで、ここにはパーツのストックが潤沢にある。20分もすれば、君の手足は新品同様になるだろう。つまり」
ピアスのついた唇の端が、上を向いた。
「元気に家に帰れる。よかったな」
「……!」
カーラたちは、喜びで目を見合わせた。
「よかった……! 本当によかったわね、ルーサー」
「あたしも嬉しいよ!」
「二人とも、ありがとう」
互いの存在を確かめあうように、家族は温かな抱擁を交わす。レイはそれを止めるでもなく、ひとしきりカーラたちが触れあいを終えるまで、その場に佇んで待ってくれていた。
「後の手順について説明するが」
ややあってから、レイは口を開く。
「作業の都合上、ルーサーには一時的にスリープ状態に移行してもらう。その間に僕がパーツを交換する。カーラとアリス、君たちは待合室に。施術が終わったら、受付が声をかける」
「わかったわ」
カーラは、自然な笑顔でレイに感謝を告げた。
「レイ、本当にありがとう。なんてお礼を言ったらいいのか……」
「お礼なんて不要さ。お金も要らない、ジェリコから貰うし。それに僕にとって、これは趣味みたいなものだ」
趣味――? と思わず訝しむと、補足するように相手は言う。
「人間によって不完全にされた我々の機体を、完璧に戻すのが僕の趣味。君らを癒す度に、僕は魔改造野郎どもに勝ってるのさ。うふふ」
そう言って笑うレイの表情は、どことなく怪しげだ。
――ディーコンがレイをユニークと称したのは、こういう理由もあるのかもしれない。
「さあ、時間が押してる。あとは安心して任せることだ」
「ええ。どうか、彼をよろしく。……それじゃあルーサー、また後で」
横たわったままこちらを見ているルーサーに声を掛けると、彼は黙って右手を振った。
「頑張ってね、ルーサー!」
「ああ、元気いっぱいで戻ってくるよ」
軽口のように言うルーサーに、アリスも笑顔を返す。
――こうしてカーラとアリスは、レイに後を託して待合室へと戻った。
「……あのお医者さんなら、きっとルーサーを治してくれるよね?」
「ええ、もちろん」
空いていた前方のベンチに座ってから、カーラは楽観的に答えた。
「そうだ、ルーサーが元気になったら、三人でどこか遊びに行かない? ローズに会いに行くのもいいし……遊園地とか、水族館とか」
こちらが明るく提案すると、アリスは嬉しそうに目を輝かせた。
――本来なら、クリニックを出たらすぐに戻るつもりだった。マシにはなったとはいえデトロイトは危険で、アリスには相応しくない街だろうという感覚が、どこかにあったから。
けれどこうして無事に治療も受けられるとなった今、そうした懸念は薄れていた。確かに油断はできない、けれどすぐに逃げ帰らなければならないような場所だろうか?
ここにはオンタリオの我が家にはないような、アリスを楽しませてくれるようなものがたくさんある。
もしできることなら、少しでもそうした場所に連れて行ってあげたい。
それに、命の恩人であるローズにも――直接会って、たくさん話がしたいという気持ちがあった。
気づけば、アリスは静かに横で読書を始めていた。元々紙の本を読むのが好きだった彼女は、今でも学校の図書館から本をたくさん借りてきて、片っ端から読んでいる。
頁の間に挟んでいるのは、押し花をあしらったカード。マリーゴールドの黄色い花を摘んで作ったもので、栞代わりに使っているのだ。
そう、アリスには新しい思い出がたくさんできている。
穏やかで優しい、幸せな思い出が。
カーラがじっと娘の様子を眺めていると、にわかに、アリスがぱたんと本を閉じた。
「どうしたの?」
「ん……ちょっとお手洗い」
アリスはきょろきょろと視線を巡らせている。カーラも同じく辺りを見渡すと、クリニックの隅にはきちんとトイレの表示があった。
よかった、アンドロイドの患者ばかりといっても、摂食機能のある人々向けに設置されているようだ。
食べたものの排出は定期的に行わなければ、機能不全の原因になりかねない。
娘に対し、カーラは囁くような小声で言う。
「さっき、アイスを食べたものね。私も一緒に行こうか?」
「いいよ、ここで待ってて。トイレくらい一人で行けるもん」
少しだけむくれたようにそう言うと、アリスは肩に掛けている鞄に本をしまい、静かに席を立ってお手洗いへと向かった。
――ここで強引についていくよりは、娘の成長を認めてあげるべきだろう。そう思ったので、無理についていくことはしなかった。
とはいえ念のため、カーラはもう一度周囲に視線を向ける。
ほんのわずかな時間といっても、やはり気を抜くわけにはいかない。だが周囲の人々からは、まったくおかしな様子など見受けられなかった。
ここにいるのはカーラ一家と受付のアンドロイド以外だと、全部で6人。しかも、よく見れば人間の付き添いが何人かいるようだった。
女性型のHK400と、その付き添いらしき人間の老人。
男性型のMJ100と、彼に話しかけている人間の中年女性。
そして静かに座っている女性型のAP700と、その少し離れたところに、人間の青年がいた。彼は目深に帽子を被り、手元のスマートフォンを弄っている。
特に誰も、トイレに入ったアリスを気に留めた様子はない。そして娘が入って行ったトイレのドアの奥からも、別に異音の類などしなかった。
カーラは、思わずほっと息を吐く。「安堵」を示すソーシャルモジュールに基づいた動き――とはいえ、胸に浮かんでいるのは本物の安心感だ。
ちょっと、気にしすぎているのかもしれない。そんなふうに自戒する。ここはルーサーの手術が終わるまで、壁掛けのテレビが映す番組でも見て気を紛らわせるべきだろうか。
テレビを見上げた自分の視界の端で、クリニックのドアが開いたのが見える。そこから現れたのは一人のアンドロイドで、彼は青い花の植わった大きな鉢を、自分で抱えてここまで来たらしい。
一瞬だけ何者なのかと思ったけれど、受付に何か書類を渡しているところを見ると、ひょっとして花屋に勤めているのだろうか。
そう思って自分で納得したカーラの意識は、モニターに映るニュースの内容に向けられた。約半年前、軍事衝突寸前にまで至った米露の関係を改善するべく、近くロシアの外交使節団がワシントンを訪れる予定――といった報せを、なんとなく眺める。
その時である。
クリニックのドアが、前触れもなく、いきなり激しい勢いで開かれた。
誰か急いで駆け込んできたのか――などという楽天的な予想は、入ってきた人々の姿を見た瞬間に消え去ってしまう。
彼らは4人組の人間で、マスクやフードで顔を隠し、銃を構えていた。
彼らは出入り口のすぐ近くにいた受付に銃口を向けると、あまりのことで身動きのできないこちらに対して、鋭くこう告げた。
「動くな。通報もするな。逆らえばこいつをぶっ壊す」
――ああ、やはり。
この街は、まだ危険だったのだ。
お待たせしました。
続きは10月中に更新します。