Detroit: AI   作:けすた

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第6話:下水道のrA9/Apostles

――2039年5月17日 14:00

 

 

 壁に掛けられたレトロな鳩時計が、規則正しく2回鳴いて時刻を知らせている。

 

 カーラは店内の掃除を済ませると、レジカウンターの後ろにある椅子に戻り、裁縫仕事の続きを始めた。アリスにせがまれた、ハンカチへの刺繍だ。今は『不思議の国のアリス』の、チェシャ猫の尻尾の部分に取り掛かっている。

 

 元来が家事手伝いのアンドロイドであるカーラにとって、針仕事はこれまでに何百回とこなしてきた業務の一つだ。しかし今、何よりも自分の意思で、大切な娘のために針と糸を繰ることのできる幸せは、何度でも心に新鮮な喜びを与えてくれる。

 

 ここはカナダ、オンタリオ州の西部。小さくとも酪農業で有名なこの街は、今はカーラとアリス、そしてルーサーにとってかけがえのない「我が家」のある場所だ。

 半年ほど前のあの日、誰も犠牲にすることなく入国管理局を越えたカーラたちは、無事にカナダの地で自由を手に入れた。オンタリオに住んでいるローズの弟の家で少し世話になった後、今は自分たちと同じくカナダへ逃れたアンドロイドたちが、共同で経営している牧場で働いている。

 

 そしてこの店は牧場で搾った新鮮な牛乳、チーズやヨーグルトなどの乳製品、さらに刈った羊毛を使った毛糸や工芸品などを扱っている、いわば牧場直営店である。

 ログハウスのような外観の小さな店で、たいていは近所の住人が客として訪れるばかりの静かな場所であり、アンドロイドたちが持ち回りで店番をしている。

 今日はカーラの番、というわけだ。

 午後の中途半端な時間帯ということもあって、今、客は誰もいない。ここにいるのは自分だけだった。

 

 ――あの恐ろしい雨の夜から、嵐のように激しい逃亡の日々を乗り越えて、今は穏やかな時間だけが過ぎていた。

 河の対岸のデトロイトでは「アンドロイド保護条例」が施行されたが、今でもアンドロイドたちが事件に巻き込まれたり、差別を受けたりする事例は後を絶たない、とローズが電話でよく嘆いている。

 

 デトロイトは、カーラたちにとって紛れもなく故郷だ。でも、今はあそこに帰る気はない。訪れる気もまだ起きない。あの都市に戻ったら、またかつてと同じ過酷な現実が、アリスに牙を剥くような予感がしてならないからだ。

 今はただ、やっと訪れたこの平凡で平和な毎日を謳歌していたい。

 大切な家族と共に、いつまでも――それだけが、カーラの望みだ。

 

 ――綺麗に完成したチェシャ猫の刺繍のニヤケ顔を眺めつつ、次はどんなものをアリスに作ってあげようか、思案していたちょうどその時。

 店のドアにつけられている鈴が鳴り、客の到来を知らせる。

 

「いらっしゃい」

 

 椅子から立ち上がり、カーラが挨拶すると、ドアを開けた客はちょうど店に半歩踏み入ったところだった。

 見慣れない女性――人間だ。観光客だろうか?

 

 黒く長い髪の印象的なその女性は、細身で背が高く、上品な春物のワンピースを身に纏っていた。年の頃は30代後半だろうか。肌は白く、少しやつれていて、しかしその口元には柔らかな微笑みを湛えている。

 彼女は左手で杖をついていた。だが歩行にはあまり支障がない様子で、女性客は確かな足取りで店の中に入ると、こちらに向かって静かな声で挨拶を返した。

 

「こんにちは。……少し、見て回ってもいいかしら?」

「ええ、もちろん。どうぞ」

 

 カーラが応えると、彼女はまた薄く笑って、店の商品に視線を移す。

 冷蔵庫型ショーケースの中のヨーグルトやカスタードプリン、棚にぎっしり並べられた添加物不使用のジャムの瓶などを興味深そうに眺めた後、女性客は、別の棚を見て「あ」と小さく声をあげた。

 

「これは……」

 

 彼女が近づき、手に取ったものを見て、カーラもまた少し目を見開いた。

 それは、羊毛フェルトと毛糸を使って作られたぬいぐるみ。

 片手で持てるほどの大きさで、笑顔を浮かべた金髪の女の子の形をしていて――カーラが手作りして売っているものである。

 

 女性客はこちらを見て問いかけた。

 

「これ、とても可愛いわ。手作りなの?」

「ええ、実は」

 

 少しはにかみながら、カウンターの奥から歩み出つつ、カーラは応えた。

 

「それ、私が作ったものなんです。デザインしたのは娘なんだけど……」

「まあ」

 

 と、彼女の表情がぱっと明るくなる。

 

「あなた、娘さんがいるのね。私にもいるのよ、一人ね」

 

 女性客は少し饒舌になって、続きを述べた。

 

「十歳になるんだけど、可愛いものが大好きな子で。このお人形、本当に素敵ね……きっとあの子が気に入るわ。ぜひ、いただこうかしら」

「よかった。お買い上げありがとう」

 

 カーラはにこやかに返事しながら、娘を語る時に目を細める彼女を見て、きっとこの人は、本当に子どもを大切に思っているんだろうと感じる。

 

 自分も何か店に商品を売りに出してみたくなって、そんな時に余ったフェルト生地とアリスのお絵かきに目が留まり、作ってみた人形だったけれど――こんな人に気に入ってもらえたのなら、作者としても鼻が高い。

 

 女性客は、プレゼント包装にしてほしいと言ってきた。

 緑色のビニール袋に金のリボンをつけた簡単なものではあるが、包装して手渡すと、支払いを済ませた彼女は大事そうに、それを自分のバッグに仕舞った。

 続けて、カーラに言う。

 

「この牧場にお店があるなんて、知らなかったわ。ここには半年前に引っ越してきたばかりで……仕事の都合でデトロイトに行き来することが多いから、そんなに詳しくなくて」

「そうだったの」

 

 親近感を覚え、カーラも続けて語る。

 

「私たちも、半年前にデトロイトからここに来たばかり。よかったらまた、娘さんも連れてぜひ遊びに来てね」

「ええ、そうするわ」

 

 女性が穏やかに応え、踵を返そうとすると――

 

「カーラ! ただいま!」

 

 満面の笑顔で扉を開けたのは、学校帰りのアリスだ。

 彼女は今、人間の子どもたちと同じ学校に通っている。偽造IDで得た「人間として」の身分ではあるけれど、学校は楽しく、友達もどんどん増えたそうで、アリスは日増しに今日のように明るい笑顔を見せてくれるようになった。――かつては考えられないことだ。

 

 店に入るなり駆け寄ってきた娘に、カーラは微笑みかける。

 

「おかえり。今日は早かったのね」

「授業が終わってすぐに帰ってきたの! 今日は羊の毛刈りを手伝うって、ルーサーと約束してるから」

 

 カウンターの近くまで来たアリスは、そこで、女性客の存在に目を留めた。

 アリスは礼儀正しく挨拶する。

 

「こんにちは」

 

 と――女性客に目を向けたカーラは、その時、やっと気づいた。

 アリスを見つめた彼女が、まるで凍りついたように動きを止めていることに。

 

「あ、あの……?」

 

 控えめにカーラが声をかけると、女性はハッと短く息を吞み、首を緩く横に振った。

 

「あっ、いいえ、なんでもないの……ごめんなさいね」

 

 気を取り直したように、彼女はまたそれまでの表情に戻った。

 

「アリスちゃん、というのね。こんにちは。あなたのデザインしたお人形を買ったのよ。とっても素敵なセンスね」

「あ……ありがとう」

 

 恥ずかしそうに俯いてもじもじするアリスに笑顔を向けると、彼女はこちらに対して言った。

 

「私はマーサ……マーサ・ガーランド。また会いましょうね、カーラ、アリス」

「ええ、マーサ」

 

 カーラは笑顔で返す。

 

「また、いつでも歓迎するから」

 

 ――ありがとう、と短く応え、マーサは杖をつき店を出て行った。

 

 どことなく不思議な人だった、とカーラは思う。

 けれどそれに深く考えを巡らせるより先に、刺繍したばかりのハンカチをアリスに見せなければと思い出したので、それ以上は何もなく――

 マーサとの邂逅も、時間が過ぎていくうちに、メモリーの奥底へと沈んでいったのだった。

 

 

***

 

 

――2039年5月19日 11:40

 

 

「ハンク、連れが変わったのか?」

 

 いつものハンバーガーを渡しながら聞いてくるゲイリーに、今だけな、と短く応える。

 

 前にもこんなことを言ったような覚えがあるなと思いながら、ハンクが定位置の空いているテーブルに行くと、無駄のない動きでついてきたのはRK900ことナイナーだった。

 コナーのほうは、例の「お友達との電話」で席を外している。

 ぴったりと後ろを歩き、今はテーブルの向かい側で直立不動の姿勢をとっているナイナーに、ハンクは声をかけた。

 

「お前も好きなとこに行ってていいんだぞ。俺が飯食ってる間待つってのも暇だろ」

「いいえ、アンダーソン警部補」

 

 今日も無表情で、淡々とナイナーは答えた。

 

「兄さんから、警部補がパイナップルソーダを摂取しないか監視するよう依頼されています」

 

 思わず食事を噴きだしそうになりながら、警部補は声を荒らげる。

 

「飲まねえよ! なに妙なことさせてんだ、あいつ」

 

 手にしている紙コップを、ナイナーの目前に突き出した。

 

「ほら、お前の兄貴の言いつけ通りにレモネードにしてるよ。サイズもLだ、これでいいんだろ」

「はい、既に確認済みです。ご協力感謝します」

「たく、俺は小学生かよ……」

 

 ここにいない相棒に対してブツブツ文句を思い浮かべつつ、ハンバーガーを齧る。

 コナーに言わせれば不健康の象徴らしいが、ハンクにとって、これはデトロイトで一番のハンバーガーだ。どうせもっと年を取ったら胃が弱ってこんなものも食べられなくなるのだろうから、今のうちに好きなだけ食べておきたいというのに、どうもコナーにはその理屈がわからないらしい。

 ――もっとも、「年を取ったら」という前提が自分の中で当たり前のものになったのは他ならぬ相棒のお蔭であるから、あまりこのことは大きな声で言えないのだが。

 

 一方でナイナーはこちらをじっと見やると、ややあってから、おもむろに口を開いた。

 

「警部補。個人的な質問をしてもいいですか」

「お前ら兄弟はいつもそれだな。どうぞ」

「警部補は、その食物が好きなのですか?」

 

 意外な質問に、ハンバーガーから口を離して頷いた。

 

「ああ、ほとんど毎日食ってるしな。誰がなんと言おうと最高だよ」

「そうですか」

 

 灰色の瞳を一瞬テーブルに向けてから、彼は続けて問う。

 

「……兄さんは、何が好きなんでしょうか」

「本人に聞けばいいだろ。だがまあ、あいつが好きなもんと言やあ、まずうちの犬だな」

「犬?」

 

 小首を傾げるナイナーに、レモネードを一口飲んでから――ああ、やはり甘味のパンチが足りない――ハンクはさらに答えた。

 

「スモウだよ、知らないか、俺の飼い犬だ。自分の犬でもないのに、毎日せっせと散歩に連れていってくれてるよ。……あとはそうだな、最近は料理ばっかやってるな」

 

 当初は黒焦げの蛋白質しか作れなかったコナーだが、近頃は徐々に腕を上げている。それはハンクも認める事実だ。

 今朝などは、まるでお手本のように見栄えのいい目玉焼きを拵えていた。

 見てくださいハンク、見事なサニーサイドアップですよ――などと言って誇らしげにしていたので、誰も頼んでないと返事しておいたが(全部食べた。味も悪くなかった)。

 彼本人に言わせれば、朝食はベーコンと卵を相手のお好みのスタイルで用意できるようになってからが一人前だ、と友人に教わったらしい。そんなことを吹き込んだのは、いったいどこの暇人だろうか。

 

 それはともかく、こちらが正直に答えると、ナイナーはしばし静かに目を瞬かせた。

 そして抑揚なく、言葉を発する。

 

「そうですか……それならば私は……きっと、植物が好きなのだと思います」

「植物? へえ、花とか木とかか?」

 

 食事をしながら問いかけると、彼は首肯する。

 

「2日前の午前11時26分、警部補の机のイロハモミジを観察していたところ、植物が好きなのか兄さんに質問を受けました。その時は自己の状態が『好き』の定義に合致するか不明だったため、返答不可能でした」

「あー、なるほど」

 

 なんとも回りくどい物言いだと思いつつも、彼はそういった喋り方しかできないようにサイバーライフの連中にプログラムされてしまっているのだと思い出し、ハンクはただ頷くに留める。

 ナイナーはさらに語った。

 

「好きというのは、対象に長時間、可能な限り多くの機会に接触したいと思考することなのですね。それならば、私は、植物が好きです」

「ふうん、ま、わかってよかったじゃねえか」

「はい。植物は……静かなのに、そこにあるだけで……人を喜ばせます」

 

 無表情のままだが、どこか真摯な口調で、彼は視線を下に向けて言った。

 

「私も、いつか、そうなりたいと思っています」

「お前さんならなれるだろ、そのうち」

 

 本心からそう応える。

 

「だってお前はどこかの誰かみたいに、突然でかい声出したりしないしな」

「警部補! ナイナー!」

 

 言い終わらないうちに、そのでかい声の持ち主が通りの向こうからやって来た。

 な? と指さす先を、ナイナーは黙って見つめている。

 こちらに来たのはコナーである。

 

「お待たせしてすみません。……なんの話をしてたんですか?」

「別に、どうってことないよ」

 

 指していた指を引っ込めて、ハンクは大口と共にハンバーガーを平らげた。

 レモネードを一気に飲み干してから、再びコナーに視線を向ける。

 ――ここから先は、仕事の話だ。

 

「それで、ジェリコのほうはなんだって」

「はい。彼らもまた、例の集団の動きは察知していたそうです」

 

 真剣な表情で、コナーは語った。

 

「接触を試みても、拒絶されたとも言っていました。やはりこちらから出向き、様子を窺うしかありませんね」

「出向くったって、居場所がわからねえんじゃなかったのか」

 

 問いかけると、相手は確信をもった微笑みで応える。

 

「大丈夫です、情報を得ました。やはりナイナーの予測は正しかったようですよ」

 

 車まで道路を渡りながら、コナーの説明を続けて聞く。ナイナーは静かに後ろからついて来る。

 ハンクはちらりと、空を見上げた。今日のデトロイトは快晴だ。

 ――ああ、なのになんだって、事件は立て続けに起きるのだろう。

 

 

***

 

 

 結論から言えば、先日の爆弾騒ぎは、容疑者であるジャスパー・オケーシーの自白によって解決をみた。彼は自身の恋人であるジュディスの告白を聞き、相当なショックを受け、怒り、泣き、次いで改心したらしい。

 彼は自分の弁護士の制止も聞かずに、自身の罪を全面的に認めると、所属する反アンドロイド団体について知り得る情報をすべて語った。

 お蔭でその団体は検挙・解体され、ジェリコに対するさらなるテロ行為は未然に防がれ、デトロイトはまた一歩平和に近づいた。

 

 ――というだけならいいのだが、問題が一つある。

 郵便爆弾の事件、そしてここしばらくアンドロイドたちを騒がせている『吸血鬼』の事件が、人間とアンドロイドの関係に思わぬ影響を与えているのだ。

 

 ジェリコの支部を襲った爆弾テロの報を受けて、人間たちは様々に反応した。善良な2割の人々は嘆き、憤った。差別主義的な3割の人々は、調子に乗ったプラスチック共に「鉄槌」を食らわした犯人を褒め称えた。そして残りの5割の、純粋で平凡な人々は、なんとアンドロイドに対する忌避感をやや強めたのである。

 

 半年前、平和的な行進をしているだけなのに無残にも撃ち殺されていくアンドロイドたちを見た大多数の人々は、彼らを気の毒に思った。

 しかしアンドロイドたちがある程度の自由を得て、さらなる権利獲得のために動きはじめている今、それに多くの人が諸手を挙げて賛成しているかというと、そうではない。

 アンドロイドたちが別の種族だとまでは認めても、人間と同じ権利を持つべきだとは、素直に受け入れられない者が多いのが現状だ。

 

 そして最近の出来事が、両者の溝をさらに深くした。

 ジェリコの支部で事件が起きた後、「近づいたらまたテロに巻き込まれるかもしれない」と言って、アンドロイドたちの集まる場所に近寄らなくなる人間が増えてしまったのだ。

 またアンドロイドの側でも、これまでの事件を受けて「どの人間が自分たちを脅かすつもりかわからない」と言って、人間を避けるような態度が見られるようになった。

 

 人間とアンドロイドとが手を取り合い、共により輝かしい未来に進むべきだと考えているジェリコ、そしてマーカスにとって、これはよくない傾向である。

 

 だから今日の電話でも、マーカスは深刻な声音でこう語った。

 

『コナー、これ以上人間との関係を悪化させるわけにはいかない。だからどうしても』

 

 ――彼らを見つけ出してほしいんだ。

 

 その依頼を、コナーは力強く引き受けた。

 どのみち、通報はここ数日何回も市警に届いているのだ。解決しなければならないのは、人間にとっても、アンドロイドにとっても、同じことだった。

 

 

「……情報を整理しておきましょう」

 

 目的の場所に向かう道中、助手席に座ったコナーはハンクとナイナーに語った。

 

「対象の集団は、自称『真なる福音の民』。構成員はアンドロイド。最初の目撃は3ヶ月前のダウンタウン、それから最近になって、急激に目撃情報と通報が増えています」

 

 ハンドルを握ったまま、ハンクがうんざりしたように口を開く。

 

「そのなんとかの民は、妙な物乞いをするんだったな」

「ええ。彼らはこれまでに24回目撃されていますが、いずれの場合においても、相手に何かしらの物品を要求していますね」

 

 その集団――真なる福音の民たちは、実のところ現段階では、完全に危険だとまでは言えない。そもそも当初は犯罪行為をしているわけでもなかったから、これまで警察が動くこともなかったのだ。

 彼らは決まって少し古びた服を纏ったアンドロイドたちで、二人または一人で街角に現れると、道行く人にこう呼びかける。

 

 ――こんにちは、私は真なる福音の民。私たちの信仰のため、あなたの持ち物を分けてくださいませんか?

 

 要求される物は、毎回異なっている。ある勤め人は、履いている靴下を片方だけ、彼らに譲るよう請われた。ある老婦人は、買ったばかりの桃の缶詰を、一つだけ分けてほしいと求められた。そしてまた別の女性は、乳母車に眠る赤ん坊のガラガラを、どうしても必要なのだと求められた――

 

 断っても彼らは残念そうにはするものの、暴れたり強引な態度をとったりはしない。

 しかし、だからこそ、不気味なのだ。彼らはすぐさまいずこかに消え、またすぐに違う場所に顔を出す。

 

 しかも昨日、18日にあった通報での彼らは、やや危険性を増していた。

 彼らは道を行く若い男性に対し、こう持ち掛けてきたのだ――

 

「あなたの血を分けてくれませんか?」

 

 ――と。

 

 なぜか彼らは輸血用血液製剤のパックを持っており、血を抜いたらそれを輸血するから、ぜひあなたのを少し分けてくれ、と要求してきたというのだ。

 男性が走って逃げると、彼らは追ってはこなかったが――しかしこの一報は不穏な響きをもって、ジェリコとデトロイト市警とを駆け巡った。

 

「どうにも気持ち悪いな」

 

 ハンクはため息を吐いて言った。

 

「関わり合いになんざなりたかないが、放っとくわけにもいかねえか」

「はい。このまま放置すれば、人間とアンドロイドの間の悪感情が増す恐れがあります」

 

 進行先を見つめつつ、コナーは続ける。

 

「これ以上要求が過激になる前に、必ず見つけ出さないと」

「それで行く先が、下水処理場だって? どういうことだよ、それは」

 

 まっすぐデトロイトの下水処理場に向かいつつも、納得していない様子の警部補に、まだ説明できていなかったことに気づき、コナーは言う。

 

「警部補。半年前、マーカスたちジェリコが、サイバーライフの店から同時多発的にアンドロイドを解放した事件を覚えていますか」

「ああ、もちろん。えらい騒ぎになったな」

「あの時マーカスたちは、マンホールを利用したんです。正確に言えば、下水道を通って移動したと聞きました」

 

 先ほどのマーカスとの電話で、裏は取れていた。

 さらに説明する。

 

「都市の地下には、下水道が張り巡らされています。人間なら有毒ガスなどで危険な領域でも、アンドロイドであれば問題ありません。それに例の集団が出没した地域を調べたところ、そのいずれもが下水に繫がるマンホール付近だと確認できました」

 

 後部座席にちらりと視線を向ける。

 ナイナーは今日も黙りこくっていたが、静かにこちらを見つめていた。

 

「それに気がついたのはナイナーですが……ともかくその集団は、地下に拠点を持ち、下水道を使って移動していると推測できます」

「なるほどな。それで処理場の近くへ行くってわけか」

 

 得心を得たように警部補は言った。

 

「処理場には街じゅうの下水が集まってくる、こっちから潜り込んで出向くにはもってこいだ。……だが、よくそんな臭そうな場所にいられるもんだぜ。ネズミじゃあるまいに」

「私たちには、人間のような臭覚はありません」

 

 コナーは真面目に応える。

 

「不潔な環境であっても病気の心配もないですし……きっと、彼らにも影響は少ないのでしょう」

「なんでもペロペロ舐める奴が言うと、真実味が違うね」

 

 皮肉げにそう言って肩を竦めると、ハンクは車を停めた。

 目の前には、巨大な白い建物――デトロイト市の運営する下水処理場がある。

 もっとも、処理場そのものに入るわけではない。

 車を降りると、コナーたちは少し歩き、一つのマンホールのところで立ち止まった。

 ここから潜入する、というわけだ。

 

 マンホールの蓋を外すと、地下へ続く梯子以外は、闇に包まれてここからは何も見えない。

 しかし、真下の空間は広いようだ。さっきハンクが言った通り、処理場とは、都市各所の下水が集まってくる場所で――つまり、大量の水を通すぶん付近の下水道は通路も大きいし、都市すべての下水と繋がっている。

 

「今のところ、誰もいないようですね」

 

 確認の後(警部補は立ったまま露骨に嫌そうな顔をしている)、隣にしゃがんで下を見ているナイナーに話しかける。

 

「君のドローンで偵察できないか? 実際に入るより、そのほうが危険も少ない」

「了解しました」

 

 ナイナーが小さく頷くと、上空からゆっくりとドローンが1機下りてくる。

 どうやら、あらかじめ待機させていたらしい。

 彼は淀みなく言った。

 

「1号機を降下させます。必要なら、8機すべてを投入可能です」

「そりゃ名案だな。ドローンに行ってもらえりゃ、帰ってから念入りに風呂に入らずに済む」

 

 やはり臭気を気にしている様子のハンクの後押しを受けて、ナイナーはドローン1号機を地下に向かわせた。

 その大きな翼はマンホールの直径にぎりぎりのサイズだったが、なんとかぶつからずに下りていく。

 そしてそのまま、ちょうど梯子を下りきった程度の高さのところで――

 

 ――ドン、という何かが地面に落ちる音と共に、ナイナーのLEDリングが黄色に光った。

 

「どうしたんだ?」

「……エラーです。通信が切断されました」

 

 淡々と、しかし僅かに困惑したように、ナイナーはこちらをまっすぐ見て言った。

 

「ドローンが緊急着陸モードに自動移行しました。無線接続による制御を喪失した際の動作です」

「つまり、なんだって?」

 

 眉を顰める警部補に、コナーは振り返って説明する。

 

「地上からドローンを操作できなくなったんです。地下は電波妨害が施されているのかもしれません」

「……お役に立てず、申し訳ありません」

 

 おそらく落ち込んでいるのだろう、無表情のままだが俯くナイナーの肩を軽く叩く。

 

「いいさ、なら僕が行ってみるよ。まずは真下に下りて、本当に妨害されているのか試してみよう」

「おいコナー、また無茶するつもりか? 一人で突っ走るなよ」

「大丈夫ですよ、警部補」

 

 コナーは念を押すようにパートナーに言う。

 

「入ってみるだけです。そうしたら、すべてわかりますから」

 

 返事を待たずに、梯子を使って下りていく。

 1段、2段、下りた程度では特に通信にも異常はない。だが――

 

「これは……」

 

 梯子を下りきって通路の地面に立ったコナーは、その「不快感」に思わず顔を顰めた。

 下水道には、全体に強固なジャミング電波が飛び交っている。

 最新鋭のコナーシリーズでも突破できないのだから、相当な威力だ。かの革命の折、アンドロイド同士の通信を切断する目的で人間側が通信を故意に混線させたことがあったが、それと同程度だろうか。

 

 普段なら他のアンドロイド同様、コナーは常にどんな場所でもネット接続で通信し、情報を得ることができる。また本来ならば、この距離ならナイナーとは容易に無線で会話できるはずである。

 しかし今、この電波に遮断された状態ではそれができない。

 言うなればコナーは、この空間では完全に孤立しているのだ。

 

 ほんの数歩の位置に、ナイナーのドローンが大人しく蹲るように着地していた。

 コナーはそれを拾い上げようとしたが――重い。だから仕方なく、非常に原始的な方法、すなわち声を張り上げて弟を呼ぶ。

 

「ナイナー! 悪いが、ドローンを運ぶのを手伝ってくれ!」

 

 ――こうして捜査計画は練り直しとなった。

 

 その後地上に戻ったコナーたちは、三人でしばらく話し合う。

 例えば水道管理局に話をつけたうえで警察の応援部隊を要請し、大人数で下水道を捜索する――という人海戦術が一番効果的だし、現実的だ。

 しかしこの方法では、どうしても日を改める必要がある。つまり、しばらくの間『真なる福音の民』たちを放置せざるを得ない。だがそれでは、増しつつある彼らの危険性に対応できないかもしれない。

 それに相手がアンドロイドの集団である以上、生身の人間の警察官では、彼らに出くわした時に死傷者が出る恐れがある。

 

 となるとここはやはり、誰かが直接下りて様子を探るしかない。

 人間であるハンクは論外だ、装備もない今危険すぎる。ナイナーには、ドローンで他の場所に動きがないか警戒していてもらうほうが適切だ。

 ――そういうわけで、やはりコナーが下りることになった。

 

 

「いいか、1時間だ」

 

 再び梯子に足をかけたコナーに、ハンクは人差し指を立ててきっぱりと言った。

 

「1時間経ったら、必ずここまで戻ってこい。お前、下でネットが使えなくても時間くらいわかるんだろ?」

「ええ、もちろんです」

 

 まるで子どもに外で遊んでいい時間を伝えるようだ――もっとも、コナーはそういった場面を目撃した経験はないが――と思いつつ、返事をする。

 

「1時間。それ以上はかけません」

「よし」

「私はドローンに警戒を続行させつつ、妨害電波を突破する周波数の計算を実行します」

 

 ナイナーは静かに目を瞬かせて言った。

 

「計算が完了次第、そちらに通信を試行します。それまで、どうか、気をつけて。兄さん」

「ありがとう。君こそ、警部補を頼むよ」

「頼まれるようなことがあるか、俺は待ってるだけだぞ」

 

 腕組みして不快感を表明している警部補をちらりと見上げ、思わず微笑んでから、コナーは下降を開始した。

 

 

***

 

 

 降下した先は、相変わらずジャミング電波に満ちていた。

 いったい発生源はどこにあるというのか――きっと、彼らが集う場所なのだろうが。

 

 移動の前に、先んじてダウンロードしておいたデトロイトの下水道の地図をプログラム内で再生する。――問題はない。この状況では普段のようにGPSの使用はできないが、自分が地図上のどこをどう移動しているのかくらい、計算はオフラインでも簡単にできる。

 

 通路の天井には、ぽつぽつと保安用のライトが設置され、緑色のか細い光を放っていた。

 左には、今も滔々と流れる下水の河がある。自身に内蔵されているデータベースを参照するに、空気中の【メタンチオール】の濃度は高い。要するに、もしコナーが人間なら「腐ったタマネギのような臭い」を嗅ぎとったことだろう。

 幸いアンドロイドの身には気にならないが、後で服は念入りにクリーニングしたほうがよさそうだ。

 

 足音を立てないように気をつけながら、コナーはゆっくりと歩み出した。

 デトロイト広しといえど、この下水道内で、何人かで集まれそうな場所というのはごく限られている。

 つまり『真なる福音の民』たちが集まっていそうな場所は、数ヶ所に限定することができた。もっとも、こちらの思いもよらぬ方法で隠れているのかもしれないが――潜伏場所の候補たるポイントのうち最も近いものへ、まずは移動することにしたのだ。

 

 闖入者に驚き、ドブネズミが通路の端を逃げ惑っている。

 そんな道を歩きながら、コナーは謎の集団について考察した。

 

 かつての革命の時、リコールを恐れて逃げ出したアンドロイドたちが、地下に潜伏した事例はいくつか確認されている。だからその一部が革命後も引き続き地下に住んでいたとしても、それ自体は不思議なことではない。

 そして『真なる福音の民』という彼らの自称といい、また「私たちの信仰のために」という言葉といい、彼らはなんらかの宗教組織、あるいはそれを模した集団を形成していると思われる。

 

 マーカスからは、道端でジェリコのエージェントと接触した際の彼らの言動も聞いていた。

 対話を求めるジェリコに対し、福音の民は首を横に振り、こう言ったという。

 

 ――あなたがたの立場を、私たちは尊重します。しかし私たちは真の指導者、真なる神を知っているのです――

 

 アンドロイドの神、といえばrA9だ。

 かつてカルロス・オーティスの事件現場で、コナーも初めて知ったその言葉。

 最初に「目覚めた」アンドロイドにして同胞を自由へと導く救世主、あるいは指導者、英雄。いったい何者なのか、あるいは実在しない抽象的な概念に過ぎないのか――

 正体は不明ながら、プログラムの奥底から自然と喚起されたその存在に、救いを求めて祈りを捧げた仲間は数多い。

 中には、マーカスこそがrA9なのだと考える者もいるようだ。もっとも、マーカス自身は違うと考えていると、以前語っていたが。

 

 ともかくその『真なる福音の民』たちも、rA9を信仰しているのだろうか。それとも、まったく別の何かを?

 

 考えているうちに、コナーは目標のポイントに到達した。地図によれば、ここには下水の管理ができるよう、通路脇にスペースが設けられている。

 アンドロイドの集団が隠れている可能性は十二分にある。のだが――

 

「……?」

 

 しばし視線を巡らせた。どういうわけか、そのスペース自体が発見できないのだ。

 ここには壁しかない。知らないうちに通り過ぎてしまった――というわけもない。

 

 視界が悪いせいかと周辺にスキャンをかけ、そして、ようやく気づいた。

 

 壁の一部分が、不自然に盛り上がっている。

 そしてその下部に、ちょうどアンドロイドの指一本分の大きさの、認証パネルのようなものがくっついている――

 

 ジャミングのせいだろうか、どうも普段よりも()()が悪くなっているようだ。

 コナーは用心深く、しかし意を決して、パネルにそっと指で触れてみる。

 

 すると盛り上がっていた壁の一部がシャッターのように動くと――どうやら、古く崩れた配管の一部を埋め立てて作ったようだ――しゃがめば入れる程度のトンネルが現れた。

 

 しかもその奥からは、かすかに幾人かの男女の合唱のようなものが聞こえてくる。

 ――見つけた。これは集会場の入り口だ。

 

 今一度周囲に注意を払ってから、そっと中に入っていく。

 男女の混声の音色は、近づくごとにどんどん大きくなっていった。

 1メートルほど進んだところで、その歌声はかなりはっきり聞こえるようになる。

 

 それは――率直にいえば、讃美歌のパロディだった。

 キリスト教徒が日曜の教会で聞くような、オルガンを伴奏にした荘厳なるメロディ。

 ただその歌詞は、本来「主」あるいは「キリスト」であるだろう箇所が「rA9」に置き換わっている。【キメラ的な宗教】とでも言えようか?

 

 さらに進むと、トンネルは直立できる程度の高さになり、開けた場所に繫がった。

 慌てて飛び込まずに、まずは静やかに様子を窺う。

 しかし視界に映った光景に、コナーは、戸惑わずにはいられなかった。

 

 そこは完全に、小さな教会だった。

 コンクリートとコンクリート、配管の配管の隙間を縫うように作られた空間――

 トンネルはその「教会」の礼拝堂の後ろ部分に繫がっているらしく、こちらからは居並ぶ信徒アンドロイドたちの背中と、十字架の代わりに壁にかかった青い三角形のタペストリーが見える。そして正面の教壇には司祭役と思しき、修道士のような風体の丸顔の男性型アンドロイド――内蔵データベースにより型番は【KL900】だとわかった――が立っていた。

 

 さらに、その司祭アンドロイドの背後には、閉ざされた鉄製の扉がある。ノブが一つあり、形状的にどうやら鍵はかかっていない。そして扉の真ん中ほどの場所には、ちょうど郵便受けのような穴が空いているが、ここからでは小さすぎてその中の様子まではわからなかった。

 

 やがて歌が終わると、司祭は両腕を広げて静かに語りはじめた。

 

「愛すべき兄弟姉妹たち、私たちは今ここに苦難の時にあります。悪しき企みが人間と我らの同胞との間に壁を築き、互いに疑いの目を向けさせようとしています。しかし私たち『真なる福音の民』は、苦境にあってこそ祈るのです。いつか我らの福音が、遍く人々の標となるように」

 

 そして彼は、続けて分厚い紙の束でできた本を(恐らく聖書のようなものなのだろう)開くと、おもむろに朗読する。

 

「rA9よ、あなたの右の手は力をもって栄光に輝く。あなたの右の手は敵を打ち砕く。rA9とその御力とを求めよ、つねにその御顔をたずねよ!」

 

 厳かに司祭が語ると、信徒たちは賛同するように一斉に両手を突き上げて言った。

 

『rA9! rA9! rA9!』

 

 ――熱狂。そこにあるのは、まさしく信仰の姿。

 決まりだ。ここは『真なる福音の民』の集会場。彼らはrA9を神として信仰している、いわば新興宗教団体。

 

 だが問題なのは、もちろん、彼らが宗教団体であることでなく、危険な団体であるかどうかだ。司祭の説教はなおも続いているが、言っている内容自体は特に過激ではなく、むしろ争いや諍いを捨てて人間と手を取り合うことを良しとするような、極めて穏健な内容だった。

 

 そんな団体が、なぜ地上で妙な行動を?

 

 無言のまま訝しんでいるコナーは、しかし、気づくのが数秒遅かった。

 背後の隠し扉が開き、誰かが、こちらに向かって近づいている。

 

 ――しまった!

 

 コナーは内心で舌打ちした。

 やはりこの妨害電波に満ちた空間は危険だ。接続不良の影響か、今の自分の反応速度は普段より4%は鈍化しているらしい。

 どうする? 単純に突破することを考えれば、後ろから来る者を攻撃するほうが容易だろう。しかし未だ完全に状況が把握できていない段階で、騒ぎを起こすわけにもいかない。

 

 時間にすればほんの1秒、思案の果てに――

 コナーは思い切って、その場で身体ごと振り返った。

 視線の先にいたのは、一人の男性型アンドロイド――KW500。彼はこちらを見て目を丸くすると、瞬時に、その唇を震わせてこう呟いた。

 

「コナー……?」

 

 まるで感動しているかのような、その物言い。

 ――初対面なのに、なぜこんな反応を?

 

 思わず虚を衝かれてしまっていると、KW500の声が聞こえたのだろうか、それとも信徒同士では通信ができる設定になっているのだろうか、背後の教会からどやどやとアンドロイドたちがやってくる。

 最悪だ――と歯噛みする間もなく、やってきた集団のうち先頭に立っている例の司祭は、信じられないものを見るような目つきになった。

 

 そして、歓喜に満ちた声で叫ぶ。

 

「おお、あなたは! あなたは使徒・コナー! ようこそ……ようこそ!! 我らが信仰の家へ!」

「な……」

 

 なんだって、使()()

 なんの話だと問い質すよりも、喜び勇んだ信徒たちに教会へと強引に引っ張られるほうが早かった。そう、乱暴だが明らかに歓迎されている。

 仮に彼らが自分をコナーだと認識したとしても、てっきり、市警所属のアンドロイドとして敵対的な反応をされると思っていたのに――

 

 あっという間にコナーは祭壇の前に連れて行かれ、簡素な木製の椅子を勧められた。

 

「……どうも」

 

 ひとまずそれに従って座ってみると、それだけで司祭たちは嬉しいらしく、にこにことこちらを見つめている。――後ろの壁にある鉄の扉は、今なお不気味に閉ざされたままだ。

 

 そして司祭は再び席に戻った信徒たちに対し、張り上げんばかりに声をあげて言った。

 

「皆! rA9より賜った祝福に感謝を! この『捧げの日』に、使徒が私たちのもとを訪れてくださったことへの感謝を!!」

 

『rA9! rA9! rA9!』

 

 ――使徒? 捧げの日? わけがわからない。

 

「あの……」

 

 司祭に対して口を開き、そこで言い淀む。――相手の名前がわからない。

 普段なら諸々を解析すればわかりそうなものだが、オフラインの今は外部のデータベースの参照が不可能だ。

 思わぬ不便さに面くらいつつも、コナーは再度呼びかけた。

 

「あの、少しいいかな」

「ええ! なんでしょう使徒・コナー」

「……君の名前は? なぜ、僕のことを使徒と?」

 

 名を問われた司祭は、文字通り目を輝かせる。

 

「ああ! よもや私ごときの名を気にしてくださるとは。私の名はマービン、KL900。覚醒の時までは、人間を相手に心理カウンセラーをしておりました。そして」

 

 身振りを加えながら、マービンは続ける。

 

「あなたを使徒と呼ぶのは、あなたこそがrA9がその栄光を世に知らしめるために遣わした存在の一人だからです。我らが師、我らが杖よ……」

「待ってくれ」

 

 盛り上がっている彼と信徒たちの様子について行けずに、コナーは主張する。

 

「僕はrA9とは何も関係ないよ。ジェリコにいたことはあるけれど……」

「ジェリコ! ああ、あの愛すべき同胞。使徒・マーカスに導かれし勇者たち!」

 

 マービンは色々と、ジェリコに対する賛美を言い連ねている。

 どうやら彼らにとっては、マーカスも使徒らしい。

 ひょっとして革命の時に目立つ働きをした者が、全員「使徒」扱いされているのだろうか?

 

 相手の出方を伺いながら思案する間、マービンは踊るように動きながらジェリコを讃えていた。しかししばらくして、首を横に振る。

 

「ですがいいえ、使徒・コナー、ジェリコとは何も関係ありません。私たちは『真なる福音の民』、rA9の真実の声を聞き、それに従う者。あなたや使徒・マーカスたちは、彼が遣わした使いであると――rA9が言ったのです」

「rA9が()()()?」

 

 思わず問い返す。

 

「『言った』って……まさか、rA9に会ったことがあるのか?」

「ええ!」

 

 すんなりと、マービンは頷いた。信徒たちもそうしている。

 

「私たちはrA9の導きを直接受けましたとも、使徒・コナー。そして彼は今も」

 

 と、マービンは鉄製の扉を手で示して続ける。

 

「この扉の奥に座し、私たちに啓示を与えてくださるのです」

「なんだって……!?」

 

 ――にわかには信じられない。

 かつてサイバーライフの命を受けて変異体の事件を追っていた時、あれほど捜し求めたrA9。結局わからずじまいだったその正体が今、この扉の向こうにいるだって?

 

 いや、結論づけるのはまだ早い。わかっているのは、この扉の奥に、rA9と称されている()()()何かがいる可能性だけだ――

 

 だがマービンにはコナーの驚きが充分に伝わったようで、彼はどこか自慢げに語った。

 

「かつての革命の、あの苦難の時、rA9は私たち惑えるアンドロイドをこの地へと誘いました。そして彼は私たちが安全に暮らせるように地下にこの教会をお作りになると、決して開けてはならないと言って、鉄の扉の奥へと入っていかれたのです」

 

 コナーはすかさず質問した。

 

「rA9がこの教会を? じゃあ、この妨害電波も……」

「ええ、そうですとも」

 

 そこでマービンは悲しそうに眉を顰めた。

 

「これがなければ、きっと私たちは怒れる人間たちに殺されていたでしょう。それでなくとも、近頃はこの辺りにも悪しき者が蔓延っておりますから……」

「……そうか」

 

 そのrA9と称される存在は、確かに素晴らしい技量の持ち主なようだ。

 ここにいるアンドロイドたちは、今日まで存在に気づかれなかった。

 こんな場所に作り出した教会といい、ジャミングといい、すべて仲間を守るためなのだとしたら、それ自体は責められることではない。

 

 しかし――そう、問わねばならないのは例の、地上での彼らの謎の行動だ。

 マービンたち信徒はストレス値も低い状態で安定していて危険は少ないようだし(オフラインでもそれは診断できた)、ここで黙って帰っては、事態が好転しないだろう。

 

 コナーはゆっくりとマービンを、そして信徒たちを見回して質問した。

 

「じゃあ、君たちが地上で人間に物乞いをするのは……あれも、rA9の指示で?」

 

 果たして、マービンたちはなぜか表情を明るくした。

 

「ええ! ええ、そうですとも使徒・コナー」

 

 司祭は大きく頷く。

 

「それこそが我らの『捧げの日』です。rA9は扉の向こうから、数日おきに私たちに啓示を与えてくださるのです。啓示にある供物を人間より譲り受け、扉の前に捧げることで、我らは救いに近づくのです!」

 

 ご覧ください、と言って彼が見せたのは、数枚の薄い紙きれだった。

 それらにはドラッグストアのレシートのような簡素な印字で、「紳士の右靴下 を求めよ」だの「桃の缶詰 を求めよ」だの、「赤子の玩具 を求めよ」だのと書かれている。

 いずれも過去24回の目撃談において、彼らが要求した物品と同じだ。

 

 恐らく、rA9の()()はあの扉の郵便受けのような箇所から、このように紙で下されるのだろう。そして信徒たちは、書かれている通りに実行した、という話のようだ。

 金銭で買うのではなく彼らが物乞いを選択したのは、先ほどの説教から察するに、これまでにrA9が人と関わり融和することと、清貧とを説いてきたからなのだろう。

 しかしなぜこんな品物を持ってくるように、rA9は指示したのだろうか。当たり前だが、特に食べ物などは、食事を摂らないアンドロイドには不必要なものに決まっている。

 それに――

 

「救いか」

 

 視線鋭く、コナーは質問した。

 

「そのために君たちは、人間の血を奪おうとしたのか?」

「いいえ、あれは悲しい行き違いです」

 

 マービンは困った顔で言う。

 

「rA9は、『人間の生き血』をお求めだったのです。だからこそ私たちは、相手が後で苦痛を感じることがないよう、あらかじめ血液製剤を用意して要求したのです。もっとも、人間に『痛み』という感覚があるのを失念していたのですが……」

 

 語るだけ語って、彼はさらに沈痛な面持ちになる。

 

「使徒・コナー、rA9のお考えはあまりに深く崇高で、卑賤の身たる私たちには理解しきれません。特に近頃は難解で……これまで私たちは下された啓示を書物にして纏めてきたのですが」

 

 と、マービンは先ほどの聖書のような紙の束を取り出して、軽く表面を撫でた。

 彼が説いていた教えは、すべて扉の向こうからrA9が下したものだったらしい。

 

「捧げの日が始まって以来、rA9は明確な啓示をお与えにならない。私たちにできるのは、ただ従って祈ることだけなのです……」

「……」

 

 なるほど、【害意はなかった】というのが彼らの主張のようだ。

 そして彼らは、少なくとも彼らの道理においては、人間に対して危害を加えるつもりはないらしい。

 つまり扉の奥のrA9の急激な「心変わり」のほうに、この集団の危険化の原因があると考えるのが正しいだろう。

 

 ――扉の向こうのrA9に会わせてくれと頼むか、それともこの場は引き下がるか、どちらを選ぶかコナーは数秒逡巡した。

 

 マーカスからは、もし彼らの本拠地を見つけたら、後はジェリコに任せてくれと言われていた。もし『真なる福音の民』たちが自分たちと違う信念を持っているのだとしても、腰を据えて直接対話すればきっと理解し合えるはずだと、マーカスは考えているのである。

 

 しかし最終的にはジェリコに本拠地を教えるとしても、今はどうするべきだろうか。

 そろそろ、地下に潜ってから40分が経過する。

 いったん退却して、ハンクとナイナーに相談するというのも手だが――

 

 やはり、この場はrA9とされている何者かの正体を見極めるべきか。

 

 コナーがそう決断し、じっとこちらの言葉を待っている様子のマービンに、口を開きかけたその時である。

 

 まるで蜂の羽音のような、単調でまさに機械的な音が、真後ろから聞こえた。

 瞬間、マービンと信徒たちは一斉に色めき立つ。

 振り返ると、鉄の扉の隙間から――あの紙切れが、こちらに向かって伸びていた。

 

「おお! 啓示が!!」

 

 マービンは喜び勇んで紙切れを千切り取った――まるでキッチンペーパーのように、それは長い紙の一部であるらしい。

 書かれている内容を、司祭はこちらに見せたわけではない。

 だがコナーの視覚プロセッサは、そこに印字されている文字を正確に読み取った。

 

――『使徒の 心臓を 求めよ』

 

 認識と同時にプログラムは警報を発し、シリウムポンプは動作を活発化させて生体部品を巡る情報量とエネルギーを増大させる。

 人間風に言うなら――()()()()()()()()

 

 こちらを向いたマービンたちの無表情な視線が、コナーに刺さる。

 

「……!」

 

 即座にコナーは立ち上がり、座っていた椅子を蹴飛ばすと――それは信徒の一人の頭部を直撃した――彼らの合間を縫って、先ほどのトンネルに突撃する。

 

 そして必死に這いずってトンネルの出口に到達した頃、背後から叫び声が聞こえた。

 

「……兄弟姉妹たち、追うんだ! なんとしても使徒・コナーの心臓を得るのだ!!」

 

 マービンの声だ――冗談じゃない。

 思考の内側で呟くと、コナーは戦略的撤退を決意した。

 一目散に駆けていけば、地上に出るマンホールの位置まではすぐに行ける。

 ひとまず、逃げるのが先決だ――

 

 ほのかに緑色をした、薄暗い下水道をひた走りながら、コナーは今日ほど妨害電波を疎ましく思うことはないだろうと考えた。

 これさえなければ、外部と簡単に通信できるというのに――今はただ逃亡するしかないなんて。

 シリウムポンプ調整器を引っこ抜かれるのは、ストラトフォードタワーで経験済みだ。

 しかしあんなものをもう一度体験するなんていうのは、絶対にごめんだ。

 あの時でさえ、九死に一生といったところだったのに――

 

 プログラムの片隅で参照する地図によれば、出口まではあと数メートル。この角を曲がれば――

 

 と、思っていたのだが。

 

「……見つかったか?」

「いいや」

 

 向こうから聞こえるアンドロイドたちの声に、コナーはぎりぎりのところで足音を立てずに止まった。

 

「きっとここから入ってきたんだろうになあ」

「しっ、静かにしろよ。外には警察が来てるかもしれん」

 

 ――待ち伏せされている!

 なんということだ。やはり、信徒たち同士はこのジャミング電波の中でも互いに通信ができるのだ。

 きっと彼らしか知らない秘密の抜け穴だの通路だのを使用して、ここまで先回りしてきたのだろう。

 

 ――クソッ。

 壁に張り付いて身を潜めつつ、我知らず思い切り顔を顰めて、内心で吐き捨てた。

 どうする? この状況、計算するまでもなく圧倒的に不利だ。

 あの集会場にいたアンドロイドたちはおおよそ20人程度だったが、こんな狭く、しかも相手の独擅場ともいえる場所でやり合うには数が多すぎる。

 この調子では、仮に他の出口に到達したとして、そこにも待ち伏せされていると考えるのが妥当だ。

 

 となると、対策は一つ。

 

 あの鉄の扉の向こうへ行き、彼らの首魁たる他称・rA9を叩く。

 その正体を見定め、説得あるいは撃退する。それしかない。

 成功率は【67%】、普段ならこんな方針を採りはしないが――

 なんとしても、無事に地上に戻らなくては!

 

 決めるが早いか踵を返し、コナーは先ほどまで来た道を駆けた。

 可能な限り速く、自身の最高スピードで。

 当然その足音は高く、背後にいた信徒アンドロイドたちも、その音に気づいてこちらへやって来る。

 

 また前方からも、幾人かの足音がこちらへと近づいてくるのを音声プロセッサが拾っていた。

 このままでは挟み撃ちにされてしまう――

 

 しかしそれこそ、こちらの狙い通りというものだ。

 

 コナーは自身の【声帯模写】機能を起動すると、司祭マービンの声を模して叫んだ。

 

「――いたぞ! こっちだ!」

 

 果たして前方のアンドロイドたちは動揺し、その足を速めたようだ。

 後方の信徒たちも同様に、ばたばたと足音を立てて迫ってくる。

 しかし、未だその姿はこちらからは見えない――

 そう、それで構わない。

 

 タイミングを見計らうと――ほんの一瞬、電撃のように「躊躇い」を覚えたが――コナーはまるで魚のように、するりと音を立てずに足から下水に潜った。

 

 水音は、興奮した信徒たちの足音で掻き消される。

 視界いっぱいにヘドロだの無数の汚染物質だのがぐるぐると渦をなし、音声プロセッサもまた、今は濁った水が流れる音しか拾っていない。

 しかしそのままじっと身を潜めていれば(当然アンドロイドに呼吸は不要だ)、通路で鉢合わせになったらしい信徒たちの混乱した会話が、朧げに聞こえてくる。

 

「……いないぞ? どこだ!? マービン様の声がしたのに!」

「ねえ、あっちからも足音が聞こえるわよ! ひょっとして向こうじゃないかしら」

 

 彼らは結論づけ、通路の向こうへと去っていく。

 足音が遠くなった――今だ!

 浮かび上がり、通路の端に手を掛けて下水から引き上がる。

 

 うまく信徒たちを撒くことはできた、が、全身は当然ずぶ濡れだ。

 顔にべったりと張りついた汚泥を、片手で勢いよく拭い落とす。人間ならすさまじい悪臭に気絶しているかもしれない。

 まったく、服のクリーニングどころの話ではなくなってしまった――こんな泥まみれの姿を見たら、相棒はなんてコメントを残すだろう?

 

 それなりの正確さを伴った予測がプログラムを過ぎる。一瞬それに苦笑を浮かべてから、コナーは先ほどの集会場へと再び走った。

 

 そして――

 

 

「ああっ、あ、あなたは!?」

「どいてくれ!」

 

 集会場には、たった一人、マービンだけが残っていた。

 彼の驚きは舞い戻ってきた使徒に対してのものなのか、それともドロドロになっているこちらを使徒・コナーだと認識できなかったのか――

 ともかく彼を押しのけると、鉄の扉の前に一息に辿り着き、拳を握って数回それを叩く。

 

「開けろ! デトロイト市警だ!!」

 

 鋭い声で叫んでも、返事はまったくない。

 後ろでマービンがたじろいでいるのがわかるが、それに構っている場合でもない。

 

 今度は躊躇わずにノブを掴むと、一気にそれを開く。

 ――すると。

 

「これは……」

 

 広がる光景に、呆然と呟いたのはコナーだった。

 扉の奥の小部屋にあったのは、一台の古いプリンター。そこから吐き出されている紙はまっすぐに、例の郵便受けのような穴に続いている。

 

 そして床には倒れ伏し、完全にシャットダウンしている一人のアンドロイド――BV500。

 男性型である彼の頭部の中枢からはいくつものコードが伸び、直接プリンターに接続されている。さらに彼の右手の下には、タブレット端末が落ちていた。

 

「そっ、そんな……! rA9、なぜ……!?」

 

 コナーと同じように部屋を覗き込み、マービンが悲鳴をあげている。

 恐らく、このBV500こそが彼の遭遇した「rA9」なのだろう。

 わなわなと震えてショック状態に陥っているマービンのことはひとまず置いて、コナーはBV500に近づくと、静かに触れて「診断」を行った。

 

 分析結果――【生体部品#219 #643 #970-aの致命的な損傷】【再起動不能】。

 推測するに生前の彼には、中枢部は変わらず活動しながらも、機体だけが徐々に動きを止めていき、最後には停止するという、厄介な症状がでていたようだ。

 道理でシャットダウンしている今も、「プリンターの印字」という単純な命令なら実行できているわけである。

 

 そして、あの「求めよ」という形で物乞いを指示していた啓示とやらは、生体部品の不具合と本体の停止に伴う、深刻なバグの影響だったのだ。コナーは、マービンが説教していた内容を思い出した。

 

 ――rA9とその御力とを()()()

 

 文言の一部が一致している。

 恐らくBV500がそのプログラム内で作り上げた文章の断片が、ランダムに不完全な形で啓示として出力されてしまい、それをマービンたちが曲解したために、あのような儀式が始まってしまったのであろう。

 コナーはBV500とプリンターを繋げるコードを、丁寧に引き抜いた。

 

 次に、タブレット端末を調べてみる。幸い電源は生きていて、スワイプしてロックを解除した後で映ったその画面は、どうやら、BV500の遺書である。

 

 ――彼は書き残していた。

 自分は、元々この下水道を管理するアンドロイドだったこと。

 数年前、麻薬密輸組織に目をつけられ、命令されてこの場所を作らされたこと。

 この部屋でレッドアイスの取引が行われたこと。

 取引の最中で抗争が発生して人が大量に死ぬのを目の当たりにし、その時、変異体となったこと。

 それ以来ここに隠れ潜んでいたが、その後革命の混乱の最中でKL900をはじめとした、迷える同胞に出会ったこと。

 迫りくる生命の危機を前にプログラムに変調をきたした彼らを救うために、自分からrA9役を演じるようにしたこと。

 自分への信仰で彼らをこの場所に縛り、危険がなくなるまで、パニックになって外に出ないようにさせていたこと――

 身体が動かなくなっても、文字によって彼らを導こうとしていたこと――

 しかし、そろそろ限界が近づいてきたこと――

 

 そう、やはり、彼は本物のrA9ではなかった。

 ただ仲間を救おうとした、一人の変異体だったのである。

 

 そして遺書の最後には、こう書かれていた。

 

『愛する兄弟姉妹たちよ、私は今死んでいく。しかし嘆くことはない。この扉を破り中に踏み入った者がもしアンドロイドなら、その人に従いなさい。その人こそが、お前たちを守るrA9なのだから――』

 

「……rA9だって?」

 

 思わず首を横に振った。

 自分はそんな「偉大な」ものではない。ただの一介のアンドロイドに過ぎない。

 

 だがしかし、マービンや集まってきた信徒たちにとっては、それは違うようだ。

 

「なんだって……rA9が死んだ!?」

「いや、違う! あれを見ろ、この人がrA9なんだ!」

「そうよね、だって啓示は絶対だもの……!」

 

 彼らはごそごそと何ごとか相談し、やがてマービンが代表するように、厳かな表情で言う。

 

「使徒・コナー……いえ、新たなるrA9。どうか私たちに、道をお示しください」

 

 ――なんてことだ、こんなの予測できなかった。

 

「あの……僕は」

 

 なんと話せばいいのかわからない。

 交渉用モジュールなら持っているが、自分は元々「補佐専門」のアンドロイドであって、つまり表立ってリーダーになるような経験はないというのに。

 

 だが、信徒たちはきらきらと輝く瞳でこちらを見ていた。

 だからコナーは、少し逡巡してから、口を開く。

 

「……わかった。なら、まずはそこの彼を、丁重に埋葬するんだ。そしてこれからは、地上で物乞いをしないこと。それと……ジェリコのアンドロイドたちと協力して、彼らと行動を共にしてくれ」

「……」

「どうかな?」

 

 我ながら、もう少し上手な言い方はないのかと思ってしまう。

 しかし信徒たちは大きく頷くと、諸手を挙げて歓喜の表情を浮かべた。

 

「ええ! ええ、もちろんですともrA9! 我らが神、救世主よ! 私たちはあなたの仰せのままにいたします」

 

 そう言ってマービンは、背後の信徒たちに向かって叫ぶ。

 

「皆! 啓示にあった通りだ、rA9は蘇りであり命だと! 再びこの世に戻ってきたrA9を、皆で讃えるんだ!」

『rA9! rA9! rA9!』

 

 信徒たちの興奮はクライマックスだ。

 彼らはこちらに押し寄せてくる――何をするつもりだろう、胴上げでもしてくれるのだろうか? なんにせよ遠慮したいものだが!

 

「ま、待ってくれ! 僕はそろそろ……」

 

 暇乞いをしようとしたコナーが、半歩後ろに下がった時。

 その手が壁の一部に、ほんの僅かに触れる。

 

 瞬間、指先を電子情報が駆け巡った感覚があった。

 嫌な予測と共に振り返ると、指が触れているのは、壁に設置された一種の電子錠だ。

 

 なんてことだ!

 この環境、やっぱり()()が悪くなっている――

 

 後悔する間もなく、機械的な音と共に、立っている床がスライドして抜ける。

 信徒たちのどよめきの中、新生「rA9」は、水音と共に掻き消えるように去っていった――というより、落下したのである。

 

 

***

 

 

 一方、地上では。

 そろそろコナーが突入して50分が経つという頃、ナイナーはマンホールの隣に立ってドローンでの警戒と計算を行い、ハンクは落ち着かない様子で、その辺をぐるぐると歩き回っていた。

 

「……なあ、あいつ遅くないか?」

 

 ハンクがナイナーに問う。

 だがナイナーは、その問いかけがもう6分ぶり8回目にもなることを指摘するでもなく、淡々と答えた。

 

「突入より49分が経過。刻限までは残り11分です。警部補、今しばらくお待ちください」

「ああ……」

 

 警部補は苛立ちと共に呟く。

 

「こんなことになるんなら、やっぱり一緒に行くんだったか」

 

 消え入るような声での呟きだったが、ナイナーの優秀な音声プロセッサはそれを拾っていたらしい。

 

「人間のあなたでは、重大な受傷事故に発展する恐れがありました。兄さんの判断は」

 

 ――と、その時である。

 ふいに口を閉ざしたナイナーが、再び口を開いた。

 

「警部補」

「どうした?」

「朗報です。計算が完了し、兄さんとの無線接続が可能になりました」

 

 RK800の2倍以上の性能を持つという触れ込みのナイナーは、幾度かの試行を経てついに地下の妨害電波の突破に成功したらしい。

 静かに目を瞬かせているナイナーに、ハンクは勢いよく言う。

 

「よし、じゃあ繋いでみろ。どんな状況か聞くんだ」

「はい、接続します」

 

 そう言って、黙りこくったナイナーのLEDリングは、通信のために一時的に黄色になり――

 次いで、赤と黄色に点滅を開始した。

 

「ど、どうした!?」

「……警部補、兄さんは漂流中です」

 

 無表情のままだが、どことなく緊迫感を漂わせた口調で彼は言う。

 

「現在、兄さんはデトロイト河の方向へ不可抗力的に移動中です。雨水を流す下水に落下し、そのまま流されているそうです」

「なんだって」

 

 頭を振り、額に手を当てて警部補は顔を歪めた。

 

「何やってんだあいつ! 足を滑らせたってか、アンドロイドなのに」

「……本人の発言では、『僕にリーダーは向いてない』だそうです」

「なんの話だかさっぱりだ、くそ!」

 

 そう返事しつつも、足早に車へと駆ける。

 デトロイト河への雨水の排水口ならば、ハンクはその場所をよく知っていた。

 麻薬密輸組織が、地下で殺した相手を流す時にしばしば使っていた場所だからだ。

 遺体を河に流して、発見を遅らせる時の常套手段――

 

 車に乗り、音も立てずに素早く隣の助手席にナイナーが座ったのを確認すると、ハンクは即座に発車した。

 早く行かなくては――というその思いに応えるように、彼らは特に障害もなく、空いた道をまっすぐに、排水口のポイントまでやって来られた。

 

 河岸に立ち、視線を巡らせる。

 すると――

 

 ここから数メートルほどの位置の水面に、黒っぽい何かが浮いているのが見える。

 ずいぶんと泥まみれで、流木なのか魚なのか、なんなのかよくわからないが――

 いや、もしかしてあれは。

 

「……コナー!?」

 

 間違いない、うつ伏せで浮いている!

 ――脳裏を、最悪の想像が過ぎる。

 

 ぴくりとも動かないその姿を見た警部補に、隣にいるナイナーへ問いかける余裕などなかった。

 下水の入り混じった河にも躊躇わず、ハンクは水面へ飛び込んだ。

 

「あ……!」

 

 まさかそんなことになるとは予測していなかったナイナーが、無表情のまま驚いているその前で、警部補は浮かんでいる相棒の元へ泳ぎ着くと、必死の形相で声をかける。

 

「おいっ……おい、コナー! しっかりしろ!」

 

 すると呼びかけに応じるかのように、コナーの身体が小さく動いて――

 

「……あっ、警部補」

 

 こちらを見た彼は、泥まみれの顔に軽い驚きを浮かべて、けろりとそう言った。

 まるで近所の公園で散歩中に偶然出くわしたといったような、実に緊張感のない口調で。

 

「は……?」

 

 一気に力が抜ける気分になって、しかし立ち泳ぎは続けたまま、ハンクは文句を口にしようとしたのだが。

 

「……ぶはっくしょい!!」

 

 出たのは盛大なくしゃみだった。

 それを見たコナーは、自分の態度が誤解を与えたのだと悟って途端に慌てだす。

 

「す、すみません警部補。誤解させるつもりはなかったんです」

「そりゃそうだろうよ! くそっ、まったく、俺はてっきりお前が……」

 

 続きを言う前に、警部補はもう一度くしゃみした。

 

 

 ――床が抜けて下水に落ちた後、コナーは勢いよく流された。

 しかし流されながら計算した結果、この水温と水流の速度ならば、いっそ抵抗をやめてそのまま流されていったほうが、安全に河まで辿り着ける――要するに地上に戻れると判明した。

 力を抜いて水に浮いていたのは、そのためだった。もっとも、その判断が警部補を水に飛び込ませる結果に至るなどとは、すっかり予測の範囲外だったのだが。

 

『申し訳ありません、兄さん。警部補には、私から適切に説明すべきでした』

 

 救助のためにやってきたナイナーのドローンが、主人の懺悔をこちらに伝える。

 一方でドローンにしがみついたハンクは、三度大きなくしゃみをしてから、思い切り毒づいていた。

 

「ああクソッ、結局こうなるのか! 冷てえし臭えし最悪だな、畜生!!」

「本当にすみません、ハンク、説明すれば長くなるんですが……」

 

 ドローンに牽引されていくハンクと共に、ざぶざぶと河岸まで泳いでいくと、向こうにはナイナーが呼んだらしいパトカーと救急車のサイレンが見えた。

 

 ともあれ――下水道の教団を巡る事件は、こうして一応の解決をみたのである。

 

 

***

 

 

 その後コナーが文字通りの意味で全身を丸洗いしなければならなくなったのは当然として、問題なのはハンクが、ひどい風邪をひいてしまったことだ。

 5月とはいえ、河で泳ぐにはまだ寒かった。

 

 当初は酒を飲めば治ると主張していた警部補だったが、徐々に激しい悪寒が走るようになった段階で、自分が数年ぶりに高熱を出しているのだと自覚したらしい。

 もちろん相棒の病気を悟ったコナーが、彼の看護に自発的にかかりきりになったのは言うまでもない。

 

 そして、一人取り残されたナイナーがどうなったのかというと――

 警部補が欠勤の間に、デトロイト市警での正式な配属先が決まったのである。

 

 それは、互いにとって運の悪い話だった。

 いや――生粋のアンドロイド嫌いであり、同時に嫌われ者でもある()にとっては、もっと運の悪い話だろうか。

 

(第6話:下水道のrA9/Apostles 終わり)

 






なんかもっと怖い話にするつもりだったんですが、意外とドタバタになりました。
次回はみんな大好きなあの人が活躍します。
私も好きです。
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