***
薬のやりすぎのせいか手足だけひょろひょろと長く、いかにも素行が悪そうな風体のその若者は、視界から消えてしまった何者かを探すようにしながら、ビルとビルの隙間を彷徨っている。
そうして、少しだけ開けた空き地のような場所まで到達したところで――
「……げふッ!?」
若者は、直上から
うつ伏せに地面に叩きつけられ、腕はあっという間に掴まれて拘束されている。
持っていた銃が、手から弾き落とされて地面を回転しながら滑っていくのが見えた。
悲鳴をあげてもがいても、身体はまったく動かない。
なんだこいつは、化け物か!? いや、アンドロイド――?
恐怖にかられている若者の目前に、ゆっくりと、近づいてくる靴先。
「よお、クソ野郎」
かろうじて首だけを地面から上げると、そこには、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたパーカー服の男がいる。
標的の、あの刑事だ! と若者は戦慄した。
「おらっ!」
鬱憤を晴らすように、ギャビンは備品野郎に取り押さえられているクズの頭部をつま先で蹴った。
ぶぎゃっ、という短い悲鳴をあげたそいつの鼻から、鮮血が噴き出す。
派手な怪我だが、大怪我ではない。そうならないように加減はしている。
「その銃で誰を撃つつもりだったんだよ、あ?」
「リード刑事」
ポンコツが、ポンコツのくせに非難がましい響きのある声を発する。
「取り調べにおける暴力は、法律で禁止されています」
「へえそうかい。んなこた知ってるに決まってんだろう、がっ!」
もう一発、鼻先に蹴りを入れてやる。
するとクズは、今度は涙を流して震えはじめた。――頃合いか。
「なあ、おい、てめえ」
ギャビンは男の目の前にしゃがみ込み、その前髪を強引に掴んで顔を近づける。
それだけで相手はガクガクと激しく震えている。
――ほら、こうして恐怖ってものをわからせてやらないと、こういう手合いは「素直」になってくれないのだ。洗練された最新鋭様には、とうてい理解できないだろうが。
だいたいここは取調室じゃない。それにこれは尋問でもない、ただの「質問」だ。
馬鹿にもわかるように、わざとゆっくり問いかける。
「俺を追いかけ回して、何か用でもあんのか?」
「なっ、な、な、仲間は」
なんと相手は質問に質問で返してきた。
「お、オレのなか、仲間は、どこ」
「仲間か。さあ、どこだろうな?」
わざとらしく言ってみる。だが、他の連中がどこかはもちろん知っている。
さっき備品に命じて、こいつ以外の尾行者の周りにドローンを飛ばして攪乱してやったのだ。ドローンからは、サンプリングした足音や音声を流させている。馬鹿の仲間は馬鹿らしく、見事にそれに引っかかっている最中だ。
ともあれ質問に答えないこいつには、立場をさらに弁えさせる必要があるらしい。
ギャビンは素早く、相手の頬を引っ叩いた。
「で、用事を言う気になったか」
「ヒッ……ひ、お、お、オレたちは」
まさに歯の根が合わないといった様子の男は、それでも言葉を絞り出す。
「あっ、あ、あんたを、あんたを、こ、こ、こ」
「こ? あぁ? わかるように喋れよ」
「ヒッ!」
振り上げた拳に反応した後、男ははっきりと答えた。
「あっ、あんたを、こ、殺さないと! じゃないと! 殺されるんだッ!」
「は?」
――殺さないと、殺される?
なんのことだ? 確かに前の事件も、先月の事件も
「何フカシこいてやがる。ずいぶん余裕があるんだなお前、もう一発欲しいのか?」
「ヒッ、ち、ち、違……!」
「なら答えろよ」
拳は振り上げたまま、ギャビンは据わった眼差しで相手を見下ろし、問いかける。
「お前は誰に雇われた」
「う、うう……!」
男は目を逸らし、口を噤む。その瞳には、紛れもなく恐怖が浮かんでいた。だが、こちらに対しての恐怖ではない。もっと別の存在――恐らく雇い主への恐怖だろう。
バラしたものは
一文字に結ばれたまま震えている相手の口に、ギャビンはイラついた。
片手を後ろに回すと、素早く抜いた銃を男の頭に突きつける。
「おら、これでもまだ言えねえってか」
「ヒイィッ!?」
銃口を目にした男は、今度こそギャビンに対しての悲鳴をあげた。
備品が一瞬何か言おうとして、黙った。おおかた、銃を抜いたのを抗議でもしようとしたんだろう。賢い機械は規則が大好きらしい。
だがギャビンの「質問」には、そんな規則は関係ない。
「……」
こちらが無言のまま引き金に指をかけると、相手は大声をあげる。
「わっ、わかった! 言うからやめて、う、撃たないでくれぇ!」
「で?」
「ううっ……」
涙をぼろりと零して、男はすすり泣いた。それから、絞り出すような声で答える。
「きゅ……」
「あ?」
「きゅ、吸血鬼に……だよ」
――は、オカルトかよ。
よっぽど鉛玉が好きなんだな、てめえ――と、ギャビンはさらに相手を脅してやろうとしたのだが。
「リード刑事!」
鋭い声をあげたのは、アンドロイドだ。
「リード刑事、参考人の様子が」
言うなり奴は、相手の拘束を解いた。何勝手なことしてんだ、と怒鳴るより早く、ギャビンもまた事態の異常に気づく。
男の目は、真っ赤に充血していた。まるでレッドアイスの重篤な濫用者が、まさしく薬をキメすぎた時と同じような赤さ。しかもその口からは、ぶくぶくと白い泡を噴いている。
備品野郎が素早く救命措置に移っているのを見ながら、一瞬頭を過ぎったのは、「脅しすぎたか」という懸念だった。だが、これまでヤク中どもをしょっ引いてきたギャビン自身の経験が、それを否定する。
――違う。いかに相手がレッドアイス中毒だとしても、あの状態からいきなりこんな風になるはずがない。つまりこいつが泡を食って痙攣しているのは、備品が上から押さえつけていたからでも、自分が暴力を伴う「質問」をしたからでもない。
もっと別の、何か外的な――
鼻梁の古傷が、ますますビリビリとした痛みを訴えてくる。
その不快さと頭を渦巻く困惑に、気を取られていたのが悪かった。
「――うあああああ!!」
それまで大人しく心臓マッサージを受けていたはずの男が、奇怪な叫び声と共に、両手を振り回して身を起こしたのだ。
そしてその手が、こちらが持っている銃へと伸び――
掴まれ、奪い取られる。
自分が抜いたはずの銃が、自分に突きつけられている。
一瞬で訪れた危機的な状況を前に、なぜか、ギャビンの意識は弛緩した。
見えるのは銃口、真っ赤な目で口の端から泡を噴きながら何か喚いているクソ野郎、その向こうで目を見開いている備品と――それと、空き地の壁に薄く残っている落書きだった。
ああ、そうか。
ここは20年前のあの場所か。
認識したギャビンは内心で吐き捨てる。
――クソが。そうと知ってたら、こんな場所を選ばなかったのに。
こんな縁起でもない場所を。
薄く延ばされたような時間の中で、脳裏を過ぎるのは「屈辱」の記憶だった。
まだ自分が名実ともにクソガキだった頃に、この場所で起きた出来事――
憎たらしいあいつと、最初に会った日のこと。
***
――2018年6月15日
あの頃はよかった、なんて言う者は老人だけだが、少なくとも人間が「地球上で最も賢い存在」でいられたのはこの年が最後だった。
当時はロボットといえば工場でいかにも機械的な作業をこなすか、でなければギクシャク歩いたり道案内したりするだけの存在だったし、「アンドロイド」といえば、SFの世界でもなければ、スマホのOSの種類を指す言葉だった。
そして15歳のギャビン・リードにとって、このデトロイトという掃きだめのような街は生まれ故郷である。
当時のデトロイトは、一時の低迷からは脱出しつつあった。自動車工業の失敗が原因で下落した地価は、例えば後のサイバーライフ社のような新進気鋭の企業が立ち上がるにはうってつけのものだったし、街を行く人々の鬱屈とした心持ちは、都市にとっての爆発的な転機を受け入れる素地となったからだ。
しかしギャビンの家には、そんな世間の前向きな動向などなんの関係もなかった。
地元の自動車工場で働いていた父親は、かつてはそれなりの地位にいたらしいが、ギャビンが物心ついた頃には失業して長距離トラックの運転手として食いつないでいた。車を走らせ、家に帰り、眠り、起きたらまた車を走らせる毎日。
だからギャビンが見る「父親」は、ひたすらベッドでイビキをかいて寝ているか、でなければカウチに座って、生気のない目で酒を片手にぼうっとTVを眺めている姿だけだった。
父は息子に暴力を振るったり、むやみに怒鳴りつけたりするような男ではなかったが、子どもと積極的に関わろうとする人間でもなかった。
一方でギャビンの母親は、病院で看護師として立派に働いてはいたが、激務のせいなのか性格的なものか、絶えずヒステリックだった。彼女は夫と顔を合わせれば「甲斐性なし」だと詰り、そして息子に対しては、父親のようにはなるなと事あるごとに言ってくる。
母親は日本人やフランス人がデトロイトから自動車産業を「奪った」のだと主張して、ニュースにその国の人間が出るのを見れば文句を垂れていたし、リード家は貧乏だからご近所から「コケにされている」と始終嘆いていた。
常にそんな調子だから、ギャビンは、自分の家にあまり居つかない子どもに成長した。
父親のことはさして好きではないし、母親もうざったいので嫌いだ。両方嫌いなのだから、外で遊んでいるほうがマシ、というわけである。15歳を過ぎた頃になると、家にいるよりも、年上の知り合いの家にいる時間のほうが長くなっていった。
けれどかつてはしょっちゅう母親の言葉を聞いていたせいか、ギャビンの精神構造は母親の影響の元に完成する。
すなわち、彼は「奪われる」のと「コケにされる」のが死ぬほど嫌いな人間になった。
だから友達と過ごしていても、トラブルが必ず降りかかる。
些細なことで喧嘩になると、ギャビンはいつも徹底的に相手をやり込めたし、彼の放つある種独特な冗談は、決まって周りの人間を苛立たせた。
ギャビン自身、トラブルの原因が半分くらい自分にあるのはもちろん気づいている。
でも友達を失うことよりも、奪われ、コケにされることのほうが耐えられない。自分の非を認めて謝るなんてするくらいなら、いっそ死んだほうがマシだ。
ギャビンの周りには、次第に、即物的で一時的な友人しか残らなくなった。ガールフレンドができてもそうだ。2か月ともたずに去っていく。
けれど去っていく人々の背に、ギャビンはいつも中指を立てていた。
奴らが俺を見捨てたのではない。
そういうわけで、ギャビン・リードが徐々に性質の悪い「友人」と知り合うようになるのは当然の成り行きだった。廃墟は彼らの遊び場であり、王国だ。誰がいなくなって誰が来たなんて、誰も気にしない世界だ。だから居心地がよかった。
そして酒やタバコの味を覚えた子どもが、次に覚えるものといえば怪しい大人との付き合い方だ。大人はカネを持っていて、子どもが欲しがるものをよく知っている。子どもたちにとってみれば、そうした大人との付き合いは、「互いに利を得る正当なビジネス」だ。
だからギャビンは、当時よくつるんで子分のように扱っていた三歳年下の少年が「運び屋の仕事を手に入れた」なんて言うのを聞いた時は、素直に羨ましいなんて思ったのだ。いい仕事なら俺に寄越せよ、などと詰め寄って。
しかし都市の暗部が欲しがるのは、いかなる時代でも、世間知らずで居場所のない子どもたちだ。美味しい餌で招き寄せ、小犬のように言うことを聞くならよし。噛みついてくるならば、もちろん殴り殺すだけなのだ。
それをギャビンが本当の意味で知ったのは、2018年の6月。
年下のあいつが、顔面をぼこぼこに腫らして道端に倒れているのを見た日のことだった。
あいつは親が金持ちだったから、すぐに病院に運ばれていった。その後どうなったのかは知らない。それに、興味もない。
でも、あいつはとても「出来のいい」子分だった。ちょっとトロくさかったが、ギャビンの冗談を聞くと(意味がわかっているのかは別として)いつもぬへへと一緒に笑っていたし、何かあったらすぐに頼って泣きついてきて――そういう風にされるのは、なぜか、悪い気分ではなかった。
そしてそいつは、今や、ギャビンの隣にはいないのだ。
つまり子分を殴った奴は、誰かは知らないが、ギャビンからあいつを「奪った」ことになる。「奪われた」からには、然るべき報いを与えてやらねばならない。
子分が相手にしていた大人の正体は、すぐにわかった。当時デトロイトで麻薬を売りさばいて儲けていたギャングの下っ端だ。
荷物を運ぶ仕事をさせられた
クソガキのくせに生意気だった、だから殴ってやったのだ、と――せせら笑うその下っ端の姿を見て、何がそんなに腹が立ったのかは自分でもわからない。
元から腕っぷしは強いほうだ。
ギャビンはその下っ端を、空き地で逆にボコボコにしてやった。
でもその後が悪かった。
下っ端にも当然上役がいるのだ。といってもこの場合は、せいぜいギャングの中堅未満程度の奴だっただろうが――と今ならわかるのだが――ともかく男は最初、ボコボコにされた自分の下っ端を見て、情けない奴だと鼻で嗤った。
次に荒く息を吐いているギャビンのほうを見ると、なかなか根性のある小僧だと褒めてきた。
その気があるなら、こいつの代わりになるかと聞いてきた――
でもギャビンは、そいつの偉そうな態度が自分を「コケにしている」のだと気づいていたので、地面に唾を吐きかけてやった。
男はまた笑った。そして、にこやかな表情のまま音もなく静かにこちらに歩み寄ってきて――
何かが目の前で閃いたと思った次の瞬間、ギャビンは吹き飛ばされていた。隅に積まれていた廃材の山に、背中から飛び込まされた。
苦痛に顔を歪めながら、最初は、殴られたんだと思った。
だが違う。鼻筋に走る鋭い痛み――ぬるりと温かいものが鼻の下へと流れ、唇に触れる。舐めると塩の味がした。触った手には赤い血潮がついた。そして男の手には、ぎらりと輝くナイフが握られている。
あれで斬られたんだ。
理解した途端、心臓が早鐘を打ちはじめた。男はなおも笑っている。実力が違う。本能でわかった。これは普段の喧嘩とは違う。殺される。殺されそうになっているのは自分だと、鼻筋の傷が訴えている。
そしてじくじくと痛む傷よりも、今は勝手に震えている手足のほうがまどろっこしい。
動け、動け、早く逃げなければ! どれだけ急かしても、しかし、身体は動かない。
気づくと男は、仲間を集めていた。手に手に、金属バットだのパイプだのを持っている。
生意気なガキは銃で殺すより、殴っていたぶったほうがストレス解消になる、ということのようだ。
視線を巡らせたギャビンは、壁に誰かが描いた落書きに気づく。残虐にアレンジされたスマイルマークが、まるで自分を嘲笑っているように思えた。
クソが、と毒づく。
すると向こうから、誰かの叫び声が聞こえた。
「警察だ!」
男の仲間はすぐに慌てだして、てんでばらばらに逃げ出した。男がいくら喚いても、誰も守ろうとしない。
男が舌打ちして逃げようとしたら、直後、やって来た人影があった。
「動くな。手を上げろ」
人影は落ち着いた口調でそう告げ、片手で男に銃を突きつけている。
しかし有無を言わさぬ威圧感があるのは、別に、そいつが銃を持っているからだけではないだろう。
その人物は30代くらいで、背が高く、ギャビンがこれまでに見たどんな大人の男よりも堂々としていた。癖のある茶色い短髪で、青く鋭い目だった。そして、母親の持ってるスカーフみたいな妙な柄のシャツと黒いズボンを着て、黒い薄手のジャケットを羽織っている。――警官だ。私服刑事ってやつか?
「チッ……け、警官かよ」
手を上げて、情けないほど動揺した声で男は言うと、次に、精一杯の虚勢を張るように声を張り上げた。
「こ……これは不当逮捕だ! べっ、弁護士を呼ぶぞ!」
「ああ、そうか」
刑事は大して興味なさそうに応える。
「じゃあ呼べよ。待っててやるぞ、ほら」
「……!」
「どうした? 電話持ってんだろ」
促すように首を傾げつつも、刑事は銃を下ろさない。
男は悔しそうな顔をした。それから、また声を張り上げる。
「おっ、オレにこんなことをして――アルカーノさんが黙ってると思ってるのか! てめえ程度の木っ端役人なんざ、アルカーノさんにかかれば……」
「ああ、そのお前のボスな」
同情するような呆れているような、妙な笑みを刑事は浮かべる。
「悪いな。さっきパクっちまったよ」
「何……!?」
「今ごろは檻の中かな。思い出話なら、ムショで時間があるだろ。よろしく言っといてくれよ」
それを聞いた男は、これ以上ないくらいに歪んだ表情になった。だがその相手をすることもなく、刑事はやって来た別の警官にそいつを引き渡す。
そして――ギャビンは最初、刑事もまた去っていくものだと思っていた。廃材の山に半ば埋もれている自分の姿に、きっと気づいてはいないのだろうと。
だが刑事は、こちらに気づいていたらしい。銃を脇のホルスターに仕舞うと、刑事の青い瞳が、ギャビンをまっすぐに見据える。
治まっていたはずの心臓が、また緊張で跳ね上がった。
「これでわかっただろ」
朗々たる声音で、刑事は肩を軽く竦めて言う。
「クソガキは、クズ野郎に利用されるのがオチなんだよ。わかったら大人しく、お家に帰るんだな」
告げて、刑事は懐から何かを取り出し、指先で摘まんでこちらに投げてきた。
2メートルほど先の地面に落ちたのは、紙きれ――いや、絆創膏だ。
それを見た瞬間、ギャビンの胸の内に、何か得体の知れない感情が沸き上がる。
けれどそれに名前をつけるよりも先に、また別の警官が空き地にやって来た。
「アンダーソン刑事。ファウラー刑事がお呼びです」
「ああ、わかった。すぐ行く」
それきり刑事――アンダーソンという名の彼は、振り返りもせずに去っていった。
そして一人取り残されたギャビンは、未だ血を流している傷にも構わず、胸の中になおも渦巻いている感情の正体を必死に探ろうとする。
けれど残念ながら、経験に乏しく教養のないギャビンには、その感情がなんなのかわからない。
アンダーソンに告げられた言葉を聞き、絆創膏を投げて寄越された時、確かに覚えたこの感情。「叱られ、諭されたのだ」というこの感覚。冷たい衝撃が走りながらも、何か温かいものもあるような――
あるいは更生の機会となったのかもしれないその感情を、しかし、ギャビンは「屈辱」と名付けた。
あのアンダーソンという男は、自分をコケにしたのだ。
あんな下らない、刑事に銃を突きつけられた程度のことで取り乱す男にすら勝てない自分を、クソガキだと言って笑った。お家に帰れと侮辱して、おまけに敗北の事実を知らしめるように、絆創膏を投げつけてきたのだ。
――許せない、と思った。
コケにされたこの屈辱は、倍にしてあいつに返してやらねばならない。
あんなに偉そうなあいつには、思い知らせてやらなければ。
お前がやっている刑事なんて仕事は、大して偉くもないのだと。
警察官だという理由でお前が偉ぶっているのなら、お前と同じ職に就いてやる。
そしてお前よりも早く偉くなって、鼻を明かしてやる。
デトロイト市警のアンダーソン。お前の名前を絶対に忘れないからな――
こうして――鼻筋に残った傷跡と共に、ギャビンのその後の人生は決まった。
元々クズ野郎どもに片足を突っ込みかけていた彼は、クズ野郎どものお相手をするのも、なかなかの天職だったらしい。死にものぐるいで入った警察学校を出た後、一介の警官としてがむしゃらに働いた結果が、今のポストだ。
でもギャビンが刑事になった頃、何があったのかは知らないが、ハンク・アンダーソンは常にアルコールの臭いを纏わせた、落ちぶれた男になっていた。
鼻に衝くあの臭い。カウチで寝ていた父親を思い出す。ギャビンは酒の臭いが大嫌いだった。
なんだ、鼻を明かしてやるまでもなかった。あいつは何かきっかけがあれば、容易くアルコールに逃げるような駄目な奴だったんだ。
そうか、何も最初から、張り合う必要もなかったのだ――
――本当に?
だからギャビンはハンクが嫌いだ。
屈辱を与えられたことも、彼が落ちぶれたことも、そして、あのペットのアンドロイドのせいで勝手に立ち直ったことも、すべてが気に食わない。
でも何より気に食わないのは、やっぱり、奪われるのとコケにされることだ。
だから――
つまりこうして今、死を覚悟している自分自身がいるということ自体が、屈辱的なのだ。死、そのものよりも。
***
――2039年5月20日 13:57
脳裏に過去が過ぎったのは、どうやら、ほんの一瞬の出来事だったようだ。
真っ赤な目をした男が放った鉛玉は、しかし、ギャビンに当たることはなかった。
アンドロイドがすかさず相手の腕を取り、捻じり上げ、銃を持った手を空に向けたからだ。
男はなおも何か喚きながら、まるで、まさしく壊れた人形のように銃を5、6発宙に放つ。
そして――
「……!」
その両の鼻孔から血を勢いよく噴出した後、白目を剥いてがっくりと動かなくなる。
「参考人の……死亡を確認」
LEDリングを黄色く点滅させながら、備品野郎が言う。
「他の尾行者たちも、次々と撤収していきます。ドローンによる誘導を中止し、彼らを追跡します」
「……そうかよ」
知らず知らず掻いていた汗が気持ち悪い。
手で額を拭うと、仰向けに寝かされた男の遺体を改めて眺める。
――充血した目と口の端の泡、そして鼻血の赤が土気色の肌を汚していた。さらにその表情は、恐怖と絶望で固まっている。
頭の中に、ほんの数分前にこの男が遺した言葉がリフレインした。
殺さなければ殺される――吸血鬼に。
吸血鬼。それは、昼の小競り合いの事件の時にジョッシュと備品が語っていた――ハンクとコナーが追っているという、あのブルーブラッド狙いの変質者のことだろうか。
なぜそいつが、このギャビン・リードの命を狙う?
いったいなんの関係が?
背筋を、冷たい汗がまた伝っていく。
命を狙われているというこの感覚――そして銃を突きつけられた時、何もできなかった自分自身という認識が、さっき思い出した過去の出来事と重なって、不愉快な気持ちで胸の内を満たす。
最低だ。
やはり今日は人生で最低の日だ。
しかしギャビンは、そんな自分の胸の内を素直に語りなど絶対にしない。
疑念と恐怖と悔恨はない交ぜになり、歪んだ形で口から飛び出る。いつものように。
「ハッ」
口の端を歪めて、ギャビンは笑う。
「見ろよこのブサイク面。殺しに来て死ぬなんて、ハハ、ざまあねえなクソ野郎が」
「……」
遺体の「分析」とやらを終えたらしい備品野郎が、ひた、とこちらを見つめてくる。
その眼差しは、今も、穏やかに凪いでどんな感情も含んでいない。
だがその灰色が、あたかも自分の言葉を咎めているように思えてきて、ギャビンは険しい表情を浮かべた。
「どうしたよ、お利口プラスチック。不謹慎だって言いたいのか?」
「いいえ」
アンドロイドは首を横に振った。
「ただ、リード刑事。お怪我がなくて、よかった、です」
「あぁ!?」
備品のその言葉の、何がそんなに気に障ったのかは自分でもわからない。
ただ胸に渦巻いていた不愉快な気持ちをぶつけるように、ギャビンは声を荒らげる。
「なんだよお前。ああそうだな、てめえがいなけりゃ俺は死んでただろうな? 褒めてほしいってのか? それとも、感謝しろってのかよ」
「……いいえ」
アンドロイドのLEDリングがまた黄色になる。
なんだ、動揺してるとでも言いたいのか?
「申し訳ありません」
ほんの少し俯いて、備品は何度目かになる謝罪を口にした。
「あなたをご不快にさせる意図は……」
「てめえの意図なんざ!」
大声を上げて、言葉を掻き消した。
「知ったことかよ、アンドロイドの分際で」
「……」
LEDを黄色にピカピカと光らせたまま、アンドロイドはおもむろに言う。
「私は……ただ。あなたの、役に……あなたと、良好な関係を築き、たくて」
「ハハハハ!」
良好な関係だってよ!
大笑いしながらも、その目は笑わない。
情けでもかけてるつもりなのか? 機械のくせに。
「俺はお断りだ。引っ込んでろ、クソが」
きっぱり告げてやると、備品は一瞬、ショックを受けたように目を見開いた。
そして視線を逸らすと、そのリングの色を青に戻し、それきり何も喋らなくなる。
――静かになったお蔭で、遠くからパトカーと救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
ここまで車が乗りつけることはできないから、きっと、この男の収容には骨が折れることだろう。だがそれは自分には関係ない。
今はただ、この胸糞悪い気持ちを片づける方法を探さなくてはならない。
ギャビンは警官としての自分の最低限度の仕事を終わらせると、ファミレスの駐車場に戻り、署へと向かった。
備品は何も語らなかったが、それでも奴の能力は相当に
あいにく残り19人の追っ手については、ドローンの偵察範囲外にまで連中が逃げていってしまったことで逮捕とまではいけなかったが、少なくとも、これで手土産は一つできたわけだ。
だがそれなりの成果を引っ提げて署に戻っても、それどころか備品の作成した報告書を読んでも、一向に気持ちが晴れはしない。
得体の知れないものが自分を狙っていて、それに対してこれまで自分が何もできていないという事実。それを認めたくない感情。それらはギャビンに、とても非合理的な判断を下させた。
自分の命が狙われていることを、報告しなかったのだ。
「……失礼します。リード刑事」
夕方、退勤しようとした背中を、備品が呼び止めてくる。
無言で振り返ると、相手は例の無表情で、勝手に続きを口にする。
「自宅への帰還は推奨しません。単独行動は危険です」
「あ?」
眉を顰めてみても、アンドロイドは退きはしない。
「あなたは現在、生命を狙われています。レベル2の警護対象です。署に待機、応援の要請、あるいは別所での……」
「いいか」
怒鳴ることもなく、静かに、ギャビンは備品の胸に人差し指を押しつける。
「『俺の邪魔はするな』。言ったよな。もう忘れちまったのか?」
「……」
「消えろ、クズ」
そう言って、ここから去るのは自分だ。
半ば捨て鉢のような気分で、ギャビンは自分のアパートメントへと帰っていく。
命を狙われているだって? そりゃそうかもな。
でもそんなことで、いちいちこの俺がビビっていられるか。
コケにされるくらいなら、これ以上プラスチック風情の世話になるくらいなら、死んだほうがマシだ――
心の裏側では他の言葉も聞こえてくるような気がするが、それらには全部耳を塞ぐフリをした。
どうせ家に帰って朝がくれば、今日よりはまともな一日が始まるに決まってる。
奇妙な楽観にすら捕らわれながら、ギャビンは車を停め、アパートメントの階段を上がり、自分の部屋の前まで来て――
そこで、異変に気づいた。
用心深いギャビンは、玄関のドアに鍵を二つかけている。
一つは電子錠、もう一つは物理的なもの。別に金持ちなわけでもないが、「奪われる」のは絶対にごめんだから、そうしているのだ。
その鍵が、二つとも破られている。
電子錠はその周囲ごと切り取られ、物理的な鍵はピッキングされていた。
それでも解錠に相当時間がかかったらしく、下手人は、どうやらまだ中にいるらしい。
ドアの隙間から(屋内の電気はついていない)、ゴソゴソと物音が聞こえてくる。
感情に揺り動かされていた心が、一気に現実に引き戻された。
ギャビンは素早く銃を抜き、音を立てないようにしながら、自分の家のドアを押し開けた。
屋内は変わらず夕暮れ時の闇に満たされているが、それでも、玄関すぐのリビングの隅に、何か人影がわだかまっているのは見て取れる。
「手を上げろ!」
銃を突きつけ、鋭く叫ぶ。
わだかまっていた人影は、命令通りゆっくりと諸手を上げた。太り気味の、若い男――初めて見る顔だ。
刑事の家で泥棒とは、いい度胸である。
「クソ野郎が。動くんじゃねえぞ」
油断なく銃を向けたまま、静かに自宅内に歩を進める。
中はぐちゃぐちゃに荒らされていた。引き出しが全部開けられ、中身がひっくり返されている。クソ野郎はクローゼットの中を探っていた最中だったらしく、衣服が床に散乱していた。
舌打ちを一つして、ギャビンは、銃を構えていないほうの手をポケットに突っ込んだ。
さすがにこの状況を一人でなんとかできるとは言わない。署に連絡して、パトカーを要請する必要がある。
スマホを取り出し、ほんの僅かに、意識がそちらに向けられる――
だから、背後にもう一人いたのに気づけなかったのだ。
「……!」
それは瞬く間に起こった。台所の隅に潜んでいたそいつは、飛びかかって紐のようなものをギャビンの首に巻き付け、思い切り絞めてきたのだ!
「か、はっ……!」
酸素を失い、手先に籠めていた力が消える。銃とスマホを取り落としたギャビンは、首を絞める紐を慌てて両手で掴み、抗おうとする。
だが背後の男の力は強い。肺を巡る空気はさらに減り、視界がぼやけ、立っていられなくなる。
「ク……」
口から搾り出るのは、呪詛の言葉。
「クソ、が……!」
――鼻筋の古傷が痛む。
クソが、こんなところで死ぬのか。こんな最低な日に、こんな理由で。
こんなの、何かの間違いだ。絶対に、何かの間違いだ。
頭の中で色々なものを恨みながら、意識を手放そうとした――
その時だ。
けたたましい音を立てて、窓ガラスがぶち割れると同時に、何かが空から部屋に突入してきた。
首を絞めている奴も、太り気味の男のほうも、そしてギャビンも、啞然としてそれを見つめる。
飛び込んできたのは、一台のドローン。――あの備品野郎のドローンだ。
そいつは中空でホバリングすると、唐突に、ストロボのような激しい光を発する。
「ぎゃあっ!」
背後の奴のほうが悲鳴をあげた。光で目が灼かれたからだ――その場にいる全員が目くらましされたのだ。
首を締め上げていた力が抜け、ギャビンはその場にうずくまった。視界はチカチカして何も見えないが、それより、今は酸素が欲しい。
「げほっ……げほ、ク、クソが……!」
何度か深く呼吸をすると、意識は明瞭になってくる。
――なんてことだ、またプラスチックに助けられたってのか――
「リード刑事!!」
次いで聞こえたのはやはり、忌々しいことに、あの機械的に平坦なアンドロイドの声だった。
今なお眩んでいる目では何が起こっているのかまったく見えないが、音から察すると、どうやらアンドロイドは玄関から堂々と侵入すると、男たち二人を一発ずつ殴って沈黙させているらしい。
あの備品野郎、格闘技術もそこそこあるようだ。
「ぐふっ……!」
ばたり、と二人目の男が床に倒れる音がした頃、次第に戻ってきた視界に最初に映ったのは、備品の姿だった。
奴は無表情で――いや、その口が小さく動く。
「よかった」
呟いてから、相手は、はっとした様子で口を閉ざした。
「申し訳ありません、リード刑事。発言を撤回します」
日中に怒鳴られたからだろうか?
「……どうでもいいんだよ」
げほげほ、と何度か咳をしてから、ようやくまっすぐ立ち上がる。
ちらりと床に視線を向けた。倒れているのは男二人、散らばっているのはガラスの破片。
「クソ、派手にやりやがって……」
「窓ガラスの件も、申し訳ありません。後日、サイバーライフが弁償します」
静かに告げた備品野郎の顔を、もう一度じっと見つめる。
またこいつに命を救われてしまった。これで二回目だ――
しかもさっき、こいつを冷たく突き放したばかりだというのに。
心の片隅で聞こえてきた言葉を、自分自身で否定した。
何を反省する必要がある? 俺は何も間違ったことは言ってない。
だがそれはそれとして、こいつには告げなければならない言葉がある。
それくらいはわかっていた。
けれどその言葉を、ギャビンはもう長いこと――もしかすると小学校で無理やり教師に言わされて以来だろうか、口から発していなかった。
ゆえに言葉は、またも、歪んだ形で衝いて出た。
「へっ、お前もご苦労さんだな。ここで俺がくたばれば、もっとやりやすい奴と組めたんだろうによ」
「……」
備品はしばらく、黙ってLEDの青色をくるくると回転させた。
それから、おもむろに語りだす。
「はい、リード刑事。あなたの発言には正当性があります。あなたが死亡すれば、私は新規のパートナーを獲得したでしょう」
「わかってんじゃねえか」
それでも助けたなんて、お優しいことだ。アンドロイドの「職業倫理」ってやつか? それともインプットされた「正義感」か?
軽口を叩いてやろうかと思ったら、さらに相手は話を続けた。
「でも、私は……やはり、放置していられなかったんです。そう、きっとこれが……『プログラムの制御外の挙動』なのでしょう。変異体特有の」
「……?」
何か納得している様子だが、こちらは意味がわからない。
それでもまだ、奴は語る。
「リード刑事。今日、行動を共にして理解しました……あなたは非常に矛盾している」
「は?」
「あなたには野心がある。けれどあなたは周囲と衝突する。後者の特徴は、『警察内で昇進する』という目的の達成を妨害する、非合理的なものです。表面的にでも衝突を回避すれば、あなたの評価は低下せず、より職場内での行動が容易になるのですから」
なんだこいつ、急に人を批判しはじめた。
怒るというより呆気に取られていると、灰色の瞳がこちらを捉える。
「私には、あなたの感情が理解不能です。私が欠陥品と呼ばれる理由は、恐らくそれ、でしょう。でも……いつか、学習して理解可能になりたい、のです。あなたのような、人間らしい気持ちを」
「……」
「だから、私は、あなたが不快になったとしても……可能なら、パートナーとして行動したい。だから……」
アンドロイドの口の端が、ぎこちなく歪む。
それはどちらかというと「口を開いている」というか、「変な臭いを嗅いだ時の猫」というか、とにかく奇怪な表情だったが――
もしかして、笑ってるつもりなのだろうか?
「リード刑事、事件を解決しましょう。あなたの暗殺計画を阻止しましょう。……一緒に」
「……ケッ」
俯いて鼻を擦ったのは、また古傷が痛んだからだ。
決して、こいつの顔を正面から見ていられなくなったからじゃない。
「当然だろうが。備品は備品らしく、役に立ってみせろよ」
相手の表情を見ないまま吐き捨てるように言うと、しかし、なぜかアンドロイドはどことなく嬉しそうな響きの声で応える。
「はい。万全を尽くします」
「……」
――まったく、本当に最低な一日だ。
ギャビンは頭の中でそう独り言ち――ふと、床に転がっているゴミ箱に目を向けた。
箱の中身は綺麗に床にぶち撒けられている。昨晩食べたTVディナーのトレー、飲み終わったコーヒーのドリップバッグ、そして――
そして、中身も見ずに捨てたダイレクトメールの数々。
歩み寄り、一通を拾い上げる。
今気づいた――この一通だけは、広告ではない。
趣味の悪い深い紫色の封筒。表に書かれた住所は確かにギャビンのこの家のものだが、宛名は空白になっている。
封を千切り開け、便箋を取り出すと、そこに印刷されていたのは――
「……なんだこれ」
昔懐かしい、QRコードだった。
ギャビンは確かにアンドロイドが嫌いだと思うんですが、仮にコナーがアンドロイドじゃなくて人間だったとしても、やっぱり嫌ってるし、腹パンもしてくるんじゃないかと思うんです。
そういうハッキリしてるところが、ギャビンの魅力の一つではないかと、個人的に思っています。
次回は怒りのオトシマエ編です。