どうぞ、よろしく。
広さの感覚が麻痺しそうなほど広い空間。白い湯気に満たされ、前も上もどこまで広がっているのか知れない。
光源が確認できない不思議な明るさで紅く照らされた床は岩肌が露出しており、そこかしこから流れ出る温泉で、さながら巨大な露天風呂となっていた。
ここは〈月匣(げっこう)〉と呼ばれる、非常識の迷宮である。
月匣。その中は通常の空間ではない。魔法的な力で築かれた、広範囲に及ぶ結界だ。
広大な空間を千石匠(センゴク・タクミ)は歩いている。
黒い学ランの上に不思議な色合いの金属で出来た胸鎧を着け、顔は黒いゴーグルで覆われて目元は隠れているが、その奥にある瞳は油断無く周囲を警戒している。
だが、その歩みは通い慣れた通学路を歩く学生のように淀みなく月匣の奥へと進んでいる。
ダンジョンの常として奥になればなるほど危険で厄介なのだが、彼の歩みに迷いは無い。
チラリと頭上を見上げ、そこにありえないものが変わらずあることを確認する。
真っ紅に染まった、満月。
この月匣に潜って二時間ほどになるが変わらずに中天の同じ位置に月が浮かんでいる。空の月はまったく動かずそこにある。
それに、クラスの天文部の奴が今夜は新月だと天体観測の準備をしていたのだ。
今夜は満月など見られるはずがない。
紅く染まった世界、紅い満月。それらは異形の侵略者の出現を意味している。
この世界とは異なる異次元に住まうもの、〈侵魔(エミュレーター)〉。
侵魔は世界の仇敵であり、プラーナを喰らう魔物だ。
プラーナとは人の命そのものとも呼べる存在エネルギー。もしもそれを奪われてしまったら、人間は存在することができなくなる。跡形も残らず世界から消滅してしまう。
死ではなく、消滅である。
プラーナはその人間が存在するためのエネルギーだ。それをすべて失えば過去現在未来そのいずれにもいなくなってしまう。
そんな人間は最初からいなかったことになってしまうのだ。
人類の天敵、世界の危機といえる侵魔。そんな魔物から世界を守るもの。
常人よりも大きなプラーナを身に秘め、超常の力を操り、世界を災厄から護り、戦うもの達。
それが夜闇の魔法使いーーーーーーナイトウィザードである。
彼、千石匠(センゴク・タクミ)もナイトウィザードである。
一口にナイトウィザードといっても、様々なタイプが存在するが、
彼は転生者である。
まあ、このナイトウィザードの間では「転生者」は珍しくない。前世の叡智の欠片を持ち、前世からの因縁とともに侵魔と戦う者は皆、転生者なのだから。
それがどのような前世であろうとも・・・。
◆
彼、千石匠(センゴク・タクミ)が気か付いた時、
彼を取り巻く世界は一変していた。
彼は前世の記憶が蘇り、自分がいる世界がネギま!というフィクションの世界であること、この街が麻帆良だということを理解してしまったのだ。
そして、自らに備わったナイトウィザードの力についても。
「勘弁してください・・・。」
自然とそんな言葉が口について、それを否定するために駆け回った。
地理や歴史などを中心に調べ、自分の記憶との差異を埋めようと図書館に入り浸ったのだ。
当時、小学生だった彼が勉強に打ち込むのを両親は大層喜んでいたが、彼自身はどうにかして現状を否定したい逃避でしかなかった。
散々調べ回り、この世界の事を理解して絶望し、
この世界で生きていかなくてはならないと諦めがついたころ、
彼の懐で携帯電話が鳴った。
それは買った覚えの無い携帯電話だった。
そもそも時代的にあり得ない。
綺麗なカラーの液晶でタッチパネル、ネット機能、メール機能。
そんな携帯電話は彼が小学生の時に存在などしていなかった。
それがポケットもない服の中から出てきたのだ。
「いったい誰から?」
恐る恐る携帯に出た彼の耳に聞こえてきた台詞は、
彼にすべてを説明するものであり、彼の今後を決定したものであった。
「これからする私のお願いに「はい」か「イエス」でお返事してください。」
上品そうな女性の声で聞こえてきたのは、柔らかい口調なのに逆らってはならないと思わせる命令だった。
「おい。」
反射的につっこみを入れたが、前世では聞き慣れた台詞であった。
声優も一緒だとダメ絶対音感を発揮して、彼女が誰であるかを特定してしまえるほどの典型的な言葉。
『世界の守護者 〈真昼の月〉アンゼロット』。
第八世界ファー・ジ・アースと呼ばれる現代世界において、その世界の管理を神から任せられた女神。
ゲームではプレイヤーキャラクターに事件の捜査を依頼する舞台装置として用意された外見14歳、中身数万歳の人物である。
「言ってくれますね?千石さん。」
彼女がこう続けるのは、世界に破滅の危機が迫っているからに他ならない。
他に世界を救う手段は無いと、ナイトウィザードに突きつけているのだから。
「・・・はい。」
そう返事をするしかない。少なくとも何らかの事情を知ることができる人物には他ならないと、匠は自身に言い聞かせて相手に合わせた。
「ありがとうございます。では、世界を救うためにご協力ください。」
「はい。」
そうやって、彼女の長い説明は始まった。
「まずは話し易くしましょう。このスマート0-Phoneをお近くのテレビにつなげて下さい。」
言われた通りに匠がつなげるとテレビは勝手に電源が入り、そこには銀髪の美少女が紅茶を片手に玉座に座る様子が映し出された。
「初めまして、千石さん。私は世界の守護者アンゼロットです。主八界以外の次元の遠く離れた世界に転生されさぞお困りのこととは存じますが、これも運命の妙がなせる僥倖です。」
「やっぱり、ここはファー・ジ・アースじゃないんだな。」
半ば確信していたが、やはりここはナイトウィザードの世界ではなくネギま!の世界であることを匠は確認した。
「ええ、その通り。その世界は地球である第八世界ファー・ジ・アースとも他の主八界とも異なる世界になります。主八界以外の外の世界はその存在をいくつか確認はされておりましたが、あまりに時空的な距離があるため自由に行き来することは不可能でした。ですが近年、ある魔王が外の世界で猛威をふるう事件が起こりました。」
彼女が語ったのはアルシャードの古いクロスオーバーリプレイで語られた内容だった。
きくたけワールドのメインストーリーである柊サーガの一幕。ミッドガルドと呼ばれる世界で暴れた山羊頭の魔王の事件。
「ごくまれであるとはいえ、侵魔が外の世界に到達した場合恐ろしい脅威となることが判りました。侵魔はナイトウィザードが持つ月衣の力が無ければ討伐することができず、一方的にその世界でプラーナを貪り強くなってしまう。これは非常にゆゆしきことです。ですが始めにお話ししたように、外の世界に自由に赴くことは出来ません。件の魔王に柊蓮司が間に合ったのは運命の導きに寄るとことが大きい。我々は早急に対抗策を講じる必要がありました。」
そこで言葉を切って紅茶を一口含み、チラリと匠の様子を伺いながら湿らせた口でアンゼロットは続けた。
匠はアンゼロットが話し始めてから内容を理解しようと必死で、自分を観察するアンゼロットの所作には気付くような様子は無さそうであった。
「正直に申しまして、この問題は優先順位としてはかなり低い案件でした。我々は日々侵魔と戦っており、冥魔という新たな勢力の出現によって戦いは激しさを増しています。実際に起こっている事件の対処に人員は優先されますので。」
自分達の世界さえ良ければいいとは言わないが、アンゼロットにとって異世界は守護する責任の無い世界である。
彼女が問題にしているのは自分達の対処できない世界で力をつけた侵魔が再びファー・ジ・アースへ舞い戻ることを危惧しているからに過ぎない。
そんな、まれにしか起こらない事象に多くのリソースを割く余裕はファー・ジ・アースには無いのだ。
「ですが、そんな状況に光明が差しました。あなたの存在です。」
前提の説明が終わり、ようやく自分のことに話が移ったことに匠は内心安堵した。
伝達魔法カクカクシカジカでも使ってくれないかとメタ的なことも考えたが、この世界でもそれがあるのかいまいち自信が持てなかったし、自分のプレイしていたTRPGの話を作中のキャラからしてもらえるのは貴重な機会だとも思えた。
だが、匠には疑問があった。
「あんた達はどうやって俺という存在を知ったんだ?」
アンゼロットははじめから匠の名前を知っていた。
調査員も送れない異世界にいる人間のことをどうやって知り得たのか。
「神のお導きです。」
「おい。」
思いがけない言葉に匠は一瞬何を言われたのか理解を放棄しそうになり、口では反射的に突っ込みを入れていた。
「さすがに巫山戯すぎだぞ。そんなんで説明になると思ってんのか!」
説明する気がないのかと匠が語気を荒くするが、
アンゼロットは顔色も変えず、ただ事実だと言うように匠を見つめ返していた。
「巫山戯てなどおりません。我が神より託宣があり、千石匠あなたとコンタクトを取るようにといわれたのです。」
これには匠のほうが慌ててしまった。
だとすればファー・ジ・アースの神である幻夢神あるいはその上の白神や黒神、もしかしたらさらに上の超至高神は千石匠という転生者のことを把握しているということになる。
「そして、あなたにこれからの戦いに備えるよう告げるようにとのことです。」
戦い。
アンゼロットは今、はっきりと『戦い』といった。それもこれから起こるのだと。
「ちょっと待て。それは何か、この世界で侵魔との戦いが起こるっていうことか?」
冗談では無いと、匠は天を仰いだ。
最初に自由に行き来が出来ないと宣言されてしまったのだ。
つまり、援軍は一切無い孤立無援でこちらに攻めてくる侵魔と戦わなければならないのだ。
「はい、その通りです。世界は狙われています。」
そう宣言するアンゼロットの顔が匠にはドヤ顔にしか見えなかった。
疫病神だ、とゲーム時代から持っていた彼女に対する印象が匠の中で蘇っている。
「ですが、お一人で戦うことが困難であることは重々承知しております。人員を送ることはできませんが、支援物資を送る手筈を現在整えておりますわ。」
人は送れないが、物は送る。
状況はマシになっているが、それでも困難過ぎることに変わりない。
本来ナイトウィザードは四人一組がそれぞれの長所を活かして侵魔と戦う。
ゲームではその長所をうまく組み合わせないと勝つことはできないようなバランスになっている。
「また、あなたには我が神よりあなたの前世でもっとも高い技量を持った戦士の記憶を与えられて転生しています。これを使いこなし、見事侵魔から世界をお守り下さい。」
期待していますよとアンゼロットは優雅に微笑んでみせた。
また、匠が戦うことは運命であり、決定事項であると。
彼女は始めに言っていた。
返事は「はい」か「イエス」だと、それ以外の選択肢は無いのだと。
事実その通りなのだ。
もしも本当に侵魔がこの世界に訪れれば対抗できるのは月衣をもつナイトウィザードだけ。
しかも侵魔の狙いであるプラーナを、ナイトウィザードは常人の何倍も持っている。
真っ先にということはなくても、必ず狙われることになるだろう。
戦わなければ生き残れない。
「わかったよ。やりゃあ、いいんだろ。」
覚悟を決めなければならない。
生き残るために、世界を守るために。
ナイトウィザードの力は本来そのためにあるものなのだから。
「では、よろしくお願いいたします。」
一仕事を終えたとアンゼロットは紅茶を飲み干し、後の詳細をロンギヌスメンバーに任せ画面から退場してししまう。
匠はお忙しいことで、と皮肉が脳裏に浮かんだが、わざわざ相手の機嫌を損なうこともないと言葉を飲み込み、見送る。
新たに画面に仮面の男が現れたので支援体制についてまとめていく。
普通なら仮面の男など警戒するものだが、彼らは超時空多次元機甲特務武装黄金天翼神聖魔法騎士団。
通称、ロンギヌス。
世界の守護者の私兵、アンゼロット直轄の特殊部隊だ。
彼らは共通して魔法的な加護を施した仮面と制服を身につけている。
ロンギヌスメンバーといえば仮面なのである。いちいち怪しいなどとやっているのは時間の無駄だ。むしろ怪しい仮面がロンギヌスメンバーなのだから。
それよりも、匠にとってはなんとかして上質の装備を融通してもらわなくてはならない。
神様が与えたという戦士の記憶。
それは前世ではなく、彼がゲームで使用していたキャラクターだ。
相手にダメージを与えるアタッカーの役割を持つキャラクターであったので、本来ならまずまずの結果なのだが。
よりにもよって、ネタ職業でやっていたサイレントウォーリアがメインのキャラクターであった。
かなりいい装備を貰わなくては生き残れない職である。
匠は後悔している。何故このキャラのレベルを一番高くしてしまったのだろうと。
人生という名の冒険は続く。