その日、柳瀬舞衣は糸見沙耶香と会話をしていた。 可奈美と姫和、勇人の三人と戦った沙耶香に、可奈美たちの事を聞きたかったらだ。
三人が無事なこと、沙耶香が負けたこと、無機質な瞳を向けられながら、舞衣は沙耶香の言葉を一つ一つ聞き入れて行く。
会話が途切れた時、ふと、沙耶香は舞衣にこう聞いた。
「……名前。」
「えっ?」
「名前、知らない。」
「あぁ、ごめんね、私が沙耶香ちゃんを知ってるだけで……。 私は柳瀬舞衣。 改めてよろしくね?」
「ん。 …………柳瀬、舞衣……?」
舞衣の名前に反応を示した沙耶香が、襲撃時に勇人から言われたことを思い出す。
「……舞衣。」
「なぁに?」
「藤森勇人が言ってた。 『柳瀬舞衣を頼ればきっと助けてくれる』って。」
「藤森さんが……?」
柳瀬舞衣を頼れば、というフレーズに、不意に実家の『柳瀬グループ』が脳裏を過るが、それならば『柳瀬舞衣を』ではなく『柳瀬家を』と言う筈だろう。 ならば何故、舞衣個人を頼るように言ったのか。
「それ以外には、何か言ってた?」
「何も。」
「そ、そっか。」
ますます分からない、とでも言いたげに困ったように眉を潜めるが、沙耶香が悪いわけではないためすぐに表情を緩める。
「うん、わかった。 藤森さんがそう言ったのなら、なにか考えがあるのかも。」
「……そうなの?」
「うーん……さあ?」
ふふ、と笑い、舞衣は懐からスペクトラムファインダーを取り出す。 刀使たちの携帯としても使われるそれを沙耶香に見せると言った。
「よかったら、連絡先交換しよっか。」
「……荷物は無い。 御刀と一緒に没収されてる。 ここに居るのも、高津学長に居ろと言われているから。」
罰として監禁されている事を、他人事であるかのように沙耶香は語る。 異様な空気を感じとり、袖の中で舞衣の肌が粟立つ。
「じ、じゃあ、その……ここから出られたら、交換しよっ。 良い? 沙耶香ちゃん。」
「構わない。」
なんとなく、だが。
藤森勇人が自分に沙耶香の事を任せようとした理由が、不思議と分かったような気がする。
「――――あ、沙耶香ちゃん、ほっぺた怪我してる。 ちょっと待ってね。」
「……ん。」
「これでよし、と。 ごめんね、上の妹がこれ好きだから。」
「気にしない。」
可愛く花がデザインされたピンク色の絆創膏を沙耶香の頬の切り傷に張り付け、優しく押して接着させる。 絆創膏を張り付ける舞衣の、心から心配している顔を間近で見た沙耶香の心臓付近に、何かが灯った。
「……?」
「あとこれ、良かったら食べてくれる?」
「……クッキー。」
「感想聞きたいけど、黙ってここに来てるのがバレちゃうから、もう行かないといけないの。 また会ったら、その時に聞かせて?」
捲し立てて席を立つ舞衣は沙耶香の手にクッキーを詰めた袋を渡すと、外の音を聞いてからこっそりと扉を開く。
出て行く直前、振り返ると沙耶香に笑いかけて言った。
「次、可奈美ちゃんと戦うときは、思いっきり戦ってあげてねっ。」
「……ん。」
扉が閉まり、沙耶香はまた独りとなる。
しかし、手元の袋から出したクッキーをひとつつまんで食べてみると、熱くない筈なのに暖かくて。 甘すぎない甘さが、もう一度心臓の辺りに何かを灯す。
「――――。」
仏頂面の顔が小さく、柔らかく歪んだ事に、沙耶香自身も気付いていなかった。
◆
「……なんだか不気味だったな。」
「まあ、失礼にあたりますわよ。」
「仕方ないだろう、あんな高津学長を見るのは初めてだったんだ。」
伊豆に向かった三人の内、戻ったのは二人だけだった。 皐月夜見を舞草に連れていかれ、挙げ句の果てには可奈美・姫和・勇人の三人に加えて、舞草のメンバーだろう確信に近い疑いを向けられているエレン・薫にも逃げられた。
しかし敗北と言っても過言ではない結果だけを持ち帰った真希と寿々花を、折神紫が責める事は無かった。
まるでそこまでが想定通りであるかのように振る舞うと、疑われていた可奈美と姫和の通う伍箇伝の二つ、美濃関と平城の学長と生徒を帰宅させるまで至った。 そんな時に現れたのが鎌府の学長・高津雪那だったのだが。
「糸見沙耶香に逃げられた、とはね。 飼い犬に手を噛まれるってやつかな。」
「それにしてもあの方、随分と覇気がありませんでしたわね。 もしかして糸見さんに逃げられた挙げ句に夜見さんが連れていかれたのが、思っていたよりもショックだったのかしら。」
「さあね。」
ぶっきらぼうに返す真希に、寿々花は口許を押さえて小さく笑う。
「どうかしたのかい?」
「いえ、勇人さんに逃げられたのがよっぽど癪なようなので。 まるで子供みたいに拗ねるのですね、真希さん?」
「……うるさい。」
ふん、と鼻を鳴らして抗議するが、寿々花にはあっさりと流される。 不機嫌そうに口をつぐむが、不意に思い出したように寿々花に問う。
「ところで、結芽はまだ客室で待機しているのかい? 姿が見えないようだけど。」
「さぁ……そういえば、確かに。 何処に居るのかしら――――。」
寿々花が見上げ、真希が見下ろす。 視線が交差して、同じ思考から言葉が放たれた。
「―――まさか……!」
慌てて結芽を待機させていた客室に走る二人。 だが、扉を開けた先に結芽は居なかった。 もぬけの殻と化した室内に、静寂が訪れる。
「ここのところ、勇人さんと遊ぶ機会がありませんでしたから……。 フラストレーションが溜まっていたのでしょう。」
「どうする? 僕たちはここから動けないが、結芽を放っておくのも不味い。」
二人が考えを巡らせる裏では既に一悶着起きているのだが、真希と寿々花は、そんな事を知る由もなかった。
◆
刀使になった時から、もしくはなる以前から、沙耶香は空っぽだった。 何も考えず、何も感じず、しかし空っぽで居ることが楽で。
故に、生まれて初めて自分の意思で高津雪那に逆らった自分に、沙耶香は驚いた。
御前試合で負け、奇襲をしても敗けた沙耶香にナニカを入れようとした高津雪那が、途端に恐ろしく思えたからである。
しかし不思議と怒りは湧いてこなかった。 何故なら、沙耶香が逃げることが出来たのは―――。
「(高津学長、あの時一瞬、確かに
ナニカが入った注射器を刺そうとした雪那は、不自然に動きを止めた。 だからこそ沙耶香は注射器を払い落として逃げることが出来たのだが、これからどうすれば良いのかがわからない。
自分の意思で雪那に逆らい行動したのは初めてで、半ば混乱したまま飛び出した沙耶香は咄嗟に舞衣に電話をするも、関係ない舞衣を巻き込む訳にもいかず直ぐに切ってしまっていた。
コンビニの脇の陰で膝を抱えて座り、腰に妙法村正を携えるその姿は異質だろう。 誰の目にも留まらないのは、今の時間帯が深夜故か。
「――――沙耶香ちゃん。」
「…………舞衣?」
突如として問われた名前に、俯いていた沙耶香は顔を上げて答える。 自分をそう呼ぶのは沙耶香自身が知る限りそういない為、まさか舞衣が来たのかと僅かな期待と共に声のした方を向き―――
「見ーつけた。」
「―――燕、結芽……。」
紫寄りの桃色の髪に、猫を模した大福のストラップが取り付けられた御刀。
自身と同じ12歳らしい眼前の少女―――燕結芽は、見下ろす形で沙耶香を見ていた。
「高津のおばちゃんが探してるよ~? 帰らないの?」
「……アレは、なんなの?」
「アレ? ……あー、おばちゃんアレ使おうとしたんだ。 いきなりじゃそうなるよねぇ。」
ロングスカートを翻し、踊るように回りながら結芽は言う。 注射器の中で蠢いていた鮮やかなオレンジ色に見覚えのある沙耶香は、結芽に聞いた。
「……あの注射の中身、もしかして、ノロ?」
「なんだって良いんじゃない? それよりさぁ、沙耶香ちゃんって天才って呼ばれてるんだよね。
ぶつ切り且つ意図が掴めない会話に眉を潜め、沙耶香は視線を地面に移すが、視界の端でほんの一瞬煌めいた光に対して反射的に村正を抜いた。
「おー……やるじゃん、さっすがぁ……!」
「っ、なんで……っ!」
「『なんで』? 天才が二人いて、どっちも刀使なら、やることなんて一つだけでしょ!」
熊の顔を模した鍔とデコレーションされた鞘が特徴的な御刀、ニッカリ青江で斬りかかってきた結芽の一太刀を防ぎ、鍔迫り合いに持ち込む。
―――が、一瞬発動した八幡力で押し退けられ、首筋にニッカリ青江の切っ先がねじ込まれる。 後退りの要領で迅移を行い、沙耶香は辛うじて剣の間合いから逃れた。
「ん~。 まあまあだね、あの技は使わないの?」
「――――。」
したり顔でそう挑発されるが、沙耶香は意に介さない。 しかし次の瞬間、静かに文字通りに、眼の色が鮮やかな桃色に変わる。
――――無念無想。 持続的に迅移を行える、沙耶香だけの技であった。
「けっこー前に、おにーさん相手に使ったの見てたよ。 無念無想だよね。 それ使って良いからさ~、今度はそっちから来なよ。」
だが、沙耶香はその色を持続させる事は無かった。 透けるように霞んで消えた桃色を前に、結芽は眉を顰めて御刀を構え刃を水平に向ける。
「……この力は使わない。」
「―――なにそれ。」
舐めてるの?
そう続けた結芽は、写シを維持しながらも戦意を見せない沙耶香に御刀を振り上げた。
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