灰色の狼と白い椛   作:ごぼう大臣

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泣き虫のナキ

 日が暮れて久しい丑三つ時。三日月が薄雲に覆われ、薄ぼんやりと黄色い光を放つ。その周りには星も見えず、ただ黒々とした空の下に、人々の住む場所や野山、森林……様々な風景が広がっている。

 夜、それも真夜中となれば大抵の人は眠りを想像するだろう。太陽もなく夜闇に包まれた世界では、一部の夜行性の生物を除いてほとんどの生物が休息の時間に入る。

 

 ただ、そんな時間にしっかりと働く者たちがいる。残業に追われる社会人だとか、そんな類いではない。

 ……例えば、ある小高い山を飛び回る、大剣と盾で武装した山伏のような格好の者。

 

「はぁ……」

 

 そいつが小さくため息をついた。背格好と声からして女性である。ただ機械も使わずに、自在に空を飛んでいる。加えて異様なのは、ショートの白髪(はくはつ)の中から顔を出す、動物のような一対の大きな耳。そして黒地に紅い柄の長いスカート、そのお尻の部分から飛び出した、白くフサフサした大きな尻尾。その二つは彼女が人のような姿をしている分大きく目立ち、白い狼を想像させた。

 彼女の名は犬走(いぬばしり) (もみじ)。飛ぶ力や外見から分かるように、人間ではない。椛は山の中に住む、白狼天狗(はくろうてんぐ)と呼ばれる妖怪である。

 

 妖怪、急にそう言われても大抵の人は吹き出すかもしれない。しかし少なくとも、彼女の周りでは珍しい存在ではなかった。事実彼女が夜の山道を歩き回る間、様々な人外の輩があちこちから顔を出していた。小さな女の子に羽が生えたような妖精や、大きなリュックを背負い水色の服を着た河童、そして背中に黒い羽根を生やした烏天狗……。

 

 椛の住む『妖怪の山』、もといそれを取り囲む『幻想郷』では、そんな現実離れした存在がたくさんいた。むしろ結界で隔離された幻想郷の中では、人間の方がそれ以外に追いやられているようなものだ。

 特に人間の寝静まる時間帯、夜は妖怪たちは活発になる。酒を呑み、踊り、騒ぎ、時には人を食べることすらある。

 その理屈でいえば、椛もこの時分にはしゃぎ回っていておかしくないのだが……。

 

「まったく……幼稚な部下を持つと苦労する……」

 

 椛は悩ましげに呟くと、更に速く飛ぶ。彼女は遊んだりしていられない訳があった。というのも、白狼天狗というのは、妖怪の山で烏天狗や河童などの他の妖怪と共存する、社会的妖怪なのだ。

 それぞれの役割があるがゆえに、他の妖怪のように気ままに遊んでなどはいられない。ちなみに白狼天狗の仕事は山の見回り、及び侵入者の対処である。今こうやって椛が山を走っているのも、仕事の内なのだ。

 

 身につけた大剣と盾をものともせず、すうっと風を切るように長いこと飛んでいた椛は、やっと足を止める。夜目が利く狼の視線の先には、他の二、三人の白狼天狗の姿があった。

 

「おら、行って来いって! 怖くねぇからよ!」

 

「ははは、ほら泣くぞ? もう涙声になってら」

 

「や、やだ……やめて……」

 

 妖怪以外の喧騒が消えている分、白狼たちの声が遠くまで聞こえてくる。人数は三人。二人が意地の悪い笑い声を出し、その中に挟まれた一人が泣きそうになっている。

 椛はキッと眉間にシワをつくり、その三人の背後から声をかける。

 

「ちょっと、何をしているんですか」

 

「ンだよ、うっせえな……おわあぁっ!?」

 

「へ、なに……ぎゃあぁっ!!」

 

「うるさいのはそちらでしょう……」

 

 椛の声に振り向くなり、両端の二人はまるで般若にでも会ったかのような悲鳴をあげる。その姿に椛はあきれ果てた表情を浮かべた。驚いた二人はしばらく無意味に慌てふためいた後、ぎこちない笑みでこう返す。

 

「も、椛さん……奇遇ですね」

 

「隊長とよびなさい、隊長と」

 

「どうしたんですか、こんな場所に……」

 

「とぼけないでください。千里眼できっちり見ていましたよ」

 

 椛は自分の額を指さし、低い声で釘を刺す。彼女にははるか遠くの出来事を視認できる不思議な力があった。

 まっすぐ見つめてくる厳しい視線に、二人はう、と声を詰まらせる。すると椛は、二人に挟まれていた白狼へと視線を移す。

 

「……またナキをいじめていたのですね?」

 

「うぅ……ぐすっ……」

 

 真ん中でずっと肩をすぼめ、すすり泣いていた少年。ナキと名を呼ばれ、彼はやっと顔をあげる。

 

 綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭。その髪の毛の下で、涙をにじませた丸っこい目が瞬きする。首も体格も細いせいか、べそをかき赤らんだ鼻と合わせるとまるで女の子のように見えた。本当の女の子である椛と比べても背が低いため、知らない者が見れば恐らく、八割がた性別を間違える。

 

「ナキ、大丈夫ですか? 今度はどうしたんです」

 

「ひくっ……えぐ……その……」

 

 椛が問いかけても、ナキはしゃくりあげるばかりでまともに答えられない。その間、彼の耳と尻尾はしょんぼりと垂れていた。椛は真面目な顔をしつつも、時おり可愛らしいそれらに目が泳ぐ。

 やがてナキが三回ほど鼻をすすった頃、最初にいたうちの一人がしぶしぶ口を開く。

 

「度胸試しをやってたんスよ……。あの地底へ潜って、土蜘蛛の糸を取ってこいって」

 

 地底、そう聞いて椛の眉がピクリと動く。確かに山の一角には麓どころかそれ以下の深さまでまっすぐに続く穴があった。しかしそれは旧地獄へと通ずる穴で、底にたどり着けば気性の荒い妖怪たちがわんさか待ち受けている。万が一怨みを持つ霊、怨霊などに取りつかれれば、妖怪には致命傷であった。それは山の住人ならば誰もが知っているはずだった。

 

「……ならば安全な場所を選びなさい。もしもの事があればどうするんです」

 

「い、いやぁそれは……スリルが欲しかったっつーか……」

 

「でも、少なくともナキは嫌がっていましたよね?」

 

 苦しい言い訳をする白狼たちだったが、椛に睨まれて冷や汗をかきだした。念のため椛がナキの方を確かめると、ナキは涙目のままコクリとうなずいた。

 

「……ほら、嫌ですって。確かあなた方、以前も同じような事をしていましたよね?」

 

「う……それは、その……」

 

 問い詰める椛の声がどんどん厳しくなる。白狼は思わず目を逸らしたが、その雰囲気は体をすくませるほどの怒気を孕んでいた。とうとう追い詰められた白狼たちはやけくそになってか、わめくようにこう言った。

 

「む、無理矢理でも度胸つけなきゃいけないんスよ! なんたってコイツ、半分は人間の……」

 

「やめなさいッ!!!」

 

「……っ」

 

 言い終わらないうちに、椛が激しく一喝する。その迫力に気圧(けお)されてか、白狼は二人揃って小さく飛び上がった。ナキまで怖がっているのを見て、椛は一瞬ばつが悪そうに押し黙り、咳払いをする。

 

「……とにかく、二度とこのような真似はよして下さい。あなた方の身の安全の為に言っているんです」

 

「はい……すんませんでした」

 

 すっかりしょげ返った白狼たちは情けなく(こうべ)を垂れ、すごすごとその場を去る。後には、心配そうな表情の椛と、ようやく涙が止まったらしいナキが残された。

 

「……災難でしたね。怪我とかは?」

 

「ええ……大丈夫、です」

 

 屈んで目線を合わせる椛に、ナキはしゃっくり混じりに応答する。夜目が慣れてきたのか間近で見たせいか、椛の目にナキの姿がはっきりと映りだす。

 

 おかっぱ頭のてっぺんに生える耳に、お尻からピョコンと生えた尻尾。それは形こそ他の白狼天狗と同じだったが、明らかに違う点が一つあった。 

 昼間に見ればよりはっきりと分かっただろう。彼の耳と尻尾、更には髪の毛まで、全てが灰色だったのだ。椛ふくめ他の白狼なら月明かりまで反射するほどの真っ白な部位が、まるで泥をかぶったように暗かった。

 ちょうど、白狼の白髪と人間の黒髪が混ざったような色だ。

 

「ご迷惑をおかけしました。椛さん」

 

「いえ、私はいいんですが……」

 

 ちょこんと申し訳なさそうに頭を下げるナキに、椛は小さくうなる。本来なら謝る立場ではないし、相手も間違っている。しかし顔をあげたナキの表情があからさまな作り笑いだったので、結局それは指摘しないでおく。

 代わりに、別の事で念を押す。

 

「あんまり酷いようでしたら、抱え込まないで私に言いなさい」

 

「えっ」

 

 ナキは一瞬口を開きかけたが、すぐに押し黙る。そしてぽつりと言った。

 

「……いえ、大丈夫ですよ。ケガした訳じゃありませんし」

 

「でも、ああいうのは容易に殴る蹴るまでいくんですよ。ケガでだけでも本来は大事(おおごと)です」

 

 弱々しい笑みを浮かべて立ち去ろうとするナキを、椛は素早く引き留める。彼女の目は狼らしく黄金(こがね)色に輝き、心配事をうやむやにさせまいという気迫がにじんでいた。

 ナキはその目にたじろぐが、椛は表情を変えずに続ける。

 

「……それに、さっきの度胸試しの話だって、もっと怒っていいんですよ。むしろ怒りなさい。命に関わるんですから」

 

 そう言われて、ナキは悲しそうに目を伏せる。椛はその様子を見てちょっと躊躇してから、「特にあなたは」と小さく付け加えた。

 

 実のところ、ナキの特徴は小さな体格や、灰色の体毛だけではなかった。目の前の椛ふくめ他の白狼たちの装備を見ればそれが分かる。

 他の連中の剣は刃渡り一メートルをゆうに越え、また手のひらほどに刃の幅が広く、細い樹なら一撃で叩き斬れそうな重さがあった。持ち運びは背負ってやらなければ歩くのも大変だ。

 また盾の方は、白く分厚い鋼が胴を丸々覆う大きさに広がり、並の妖怪の攻撃なら弾き返せるほどの堅さがある。大きな紅葉のマークも強靭さによく似合っている。妖怪のはびこる幻想郷で独立した社会を維持する天狗、その中で防衛を担う白狼にはほぼ平等に頼もしい装備が与えられる。

 

 ただ、ナキだけは別であった。剣はせいぜい長さ70センチほど。手のひらに収まる細身な刀身で刃も薄く、腰に差しても差し支えないほどに軽かった。

 更には盾も、材質は同じだが顔を覆える程度の広さで、しかも薄いために、ぶつかると金属の軽い音がした。

 

 面子や威厳にうるさい天狗社会でナキだけがそんな扱いを受けているのは、先天的な非力さゆえに他ならない。種族として軟弱な人間の血がナキに混じっているというのは、外見の特徴も手伝い、山の公然の秘密となっていた。

 椛はそれゆえに心配し、今もこうして言い聞かせていた訳だが、ナキにとってはあまりいい気分ではなかった。

 生まれつきからくる気配りというのは頭では理解しても、気持ちではなかなか素直に受け止められない。

 彼は少しだけ不満そうな顔をしてから、椛にこう言い返した。

 

「で、でもこの前は取れたんですよ。土蜘蛛の糸!」

 

「え? 本当に取ったんですか?」

 

「はい、時間はかかったし、土蜘蛛さんも笑ってた気がしますが、どうにか」

 

 ナキが今度はちょっぴり誇らしげに胸を張る。だが椛の方は一瞬あっけに取られたように目をしばたかせると、ふっと目を逸らした。

 

「? 椛さん?」

 

 首をかしげるナキ。椛はその声にそろそろと向き直ると、言いにくそうにこんな事を尋ねた。

 

「つかぬことをお聞きしますが……蜘蛛の糸を取って戻ってきた時、誰かいました?」

 

「へ? いいえ……みんな仕事に戻っちゃっていましたね。僕、モタモタしちゃってたんで……」

 

「はぁー……」

 

 それがどうしたんだろう、といった様子でポカンとするナキに、椛は深いため息をついた。「な、なに?」と戸惑いだすナキの前で、口を結んでげんなりと額を押さえる。

 

「それ、多分飽きただけだと思いますよ」

 

「……へっ? と言いますと……」

 

「だから、嫌がるあなたを地底に放り込んでゲラゲラ笑ったら、それで連中は満足なんですよ。あなたが真面目に奥まで行く間に、もういいやって帰ったんでしょう」

 

「………………」

 

 椛が呆れた顔で話す間、ナキは間抜けな顔でその場に微動だにせず固まっていた。しばらくしてやっと自らが受けた仕打ちに気づいたのか、目を潤ませてふるふると肩を震わせる。

 

「あ……僕……ボク……」

 

「あ、ちょっと、また泣かないでくださいよ。もう……」

 

 みるみる涙を浮かべて鼻を赤くするナキ。それを見て我に返ったのか、椛はあわてて慰めだす。慣れない手つきで頭をポンポンと撫でてやると、ナキは嗚咽混じりに弱音を吐きだした。

 

「ぐす……そんなのっ、考えても、みなかった……!」

 

「ああはいはい、悪いのはあの連中ですよ。だからもう泣きやみなさい」

 

 子供をあやすように言い聞かせる椛。何度かそうすると辛うじてナキは声を抑えていった。ようやく顔色が戻ってきたところで、椛はため息混じりにこう尋ねる。

 

「……もう帰りますか? 引き継ぎは私がやっておきますから」

 

 もう仕事する気分ではあるまい、と思っての提案だった。さっきのショックの受けようを見るに、『度胸試しと称したいじめかもしれない』とか、『土蜘蛛の糸を取ってどうするんだ』とか、本当に思い当たらなかったらしいのが椛の同情に拍車をかけた。遊ばれたとはっきり伝えて悪かったかなぁ、と彼女は内心後悔する。

 しかし、ナキは一呼吸おいて涙を乱暴に拭うと、ニッと笑って見せる。

 

「……大丈夫、ですよ。ちゃんと仕事します」

 

「そ、そうですか?」

 

 眉をひそめる椛に、ナキはこくりと頷く。その笑顔はやはり無理をしているようだったが、今度の無理は気遣いをやり過ごす為のものではなく、なんだか子供が背伸びするような前向きなものだった。

 椛はしばらく腰に手を当てて考え込んでいたが、やがて「分かりました」と言ってうっすらと笑みをつくる。

 

「ただし。しつこいようですが何かあればちゃんと伝えること。いいですね?」

 

「はいっ!」

 

 ナキは椛の何倍もの笑顔で返事をすると、舞い上がるように一瞬で空へと去っていった。あっという間に見えなくなった部下の事を思い返しながら、椛はふっと月を見上げた。

 

「『ちゃんと仕事します』か……。根は真面目なんですよねぇ」

 

 泣き虫だけど。そう一人で呟いて、椛はクスクスと笑った。

 

 

 

 

「う~ん、う~~ん……」

 

 ……椛のもとを去ってから十分ほどのち。意気揚々と飛び立ったはずのナキだったが、その勢いは早くも衰えていた。

 木々の上から山を見渡して飛んでいたはずが、いつの間にかゆるゆると下降していき、今では人ひとり飛び越せるかという高さでジリジリと飛んでいる。

 その進みはさながら牛歩のごとく。決してわざとという訳でもなく、彼の額には汗が浮かび、四肢の先が糸で釣り下がっているかのように突っ張り震えている。

 

 そうして何やら苦闘する彼の元へ、運悪く音を立てて一陣の風が吹きつける。ナキはその風に煽られ、とうとうバッタリと山道に転がってしまった。

 

「いだっ」

 

 受け身を取る間もなく、全身に泥がつく。何回転かして仰向けになり、木々の隙間から星空を眺めながら、ナキはほうとため息をつく。

 

「あ~、やっぱり歩いた方が早いかな、これ……」

 

 苦笑いをして、そんな事をぼやいた。

 並の妖怪や特殊な力を持つ人間ならば、滅多に風で落ちたり、疲労したりなどしない。だが、ナキの場合は別だ。こんな事故を数え切れないほどやっていた。これも半妖の悲哀である。地底へ続く縦穴を降りる際には、命綱が欲しいと何度思ったか知れない。

 しばらくその場に寝転がり、頬に当たる冷たい風の感触を味わう。そのうちに、風がザワザワとうるさく木々を揺らしだしたかと思うと、みるみるうちにゴウゴウと低い音が山全体に轟きはじめる。

 

 ああ、まただ。ナキは心の中でつぶやく。山に強風が吹き荒れたり、唸るような吹き抜け音が響いたりするのは、大抵風を扱い慣れた烏天狗(からすてんぐ)のしわざである。

 古来より、山の自然が響かせるさまざまな音は、天狗のしわざだと言われてきた。夜にこうして大暴れするのも、天狗が仕事を全うしているだけである。どうせ山の住人も妖怪だらけなので、麓に影響が及ばなければ困る者はほぼいない。

 

 せいぜい、困るのはナキくらいである。

 

「早く終わらないかな、もう」

 

 追い風なのを幸いにナキは立ち上がり、スタスタと足早に去ろうとする。しかしその背中に、風の音に混じって不愉快な声が届いた。

 

「おっ、泣き虫のナキ君じゃ~ん」

 

 語尾を伸ばして呼ぶ誰かへ、ナキは嫌悪の表情をしてしてゆっくりと振り返る。真後ろ上空、ナキの背を見下ろせる位置で浮かんでいる、一人の烏天狗の青年がいた。その細められた目を見た瞬間にナキの体がこわばるが、烏天狗は構わず目の前まできて話しかける。

 

「何してんの? 見回り? 頑張るねぇ~」

 

「は、はあ。どうも」

 

「なんだよ堅くなってよぉ。感じ悪ぃなぁ~」

 

「いえ、別にそんな……」

 

 グイグイと上から見下ろしたまま迫ってくる烏天狗に、ナキは苦笑いしながら後ずさる。目は逸らしたまま。そんな態度が、相手をますます調子づかせる。

 

「そだ、ちょ~っと頼みがあんだけどよさ~……」

 

 烏天狗はいやらしい笑みを浮かべ、周囲の山林の中で頭ひとつ高い木の、てっぺんを指さす。

 

「あの木の一番上に、立ってみてくれねぇかな~?」

 

 それを聞いた瞬間、ナキの顔がキッと険しくなる。彼なりに語気を強め、精いっぱい声を張り上げた。

 

「イヤですっ! また風で振り落とそうとして遊ぶ気でしょう!?」

 

「んな事しねぇって~。いいから立ってくみてくれよぉ」

 

 烏天狗はヘラヘラと笑うが、ナキは対照的に激しく焦燥の色を浮かべ、恐怖さえ感じていた。

 彼の脳裏に、この烏天狗と以前会った時の記憶がよみがえる。木のてっぺんに立てと言われて意味も分からずその通りにすると、烏天狗は途端に目の前で暴風を巻き起こしたのだ。盛大に揺れる幹の先っぽで、ナキは訳も分からず泣くはめになった。『ヤジロベーみたいだ』と烏天狗は笑ったが、当人はたまったものではない。

 

「大体前だって、僕が飛ぶの苦手だって知ってたクセに……酷いですよ」

 

「ん~、ンな事あったっけ。まあどうでもいいからさ、早くしろよ」

 

 ナキが遠慮がちに抗議しても、烏天狗はどこ吹く風……いやむしろ、いらだってすらいる。ただ、ナキを都合よく動かす事にしか興味がないのだ。

 話しても無駄だと悟ったナキは、眉を寄せて一歩下がり、両手のひらをこっそり地面に向ける。烏天狗がそれに全く気づかないうちに、その手のひらを一度握り、また開く。

 

 瞬間、地鳴りのような音が短く響き、ナキの足元の土が盛り上がる。そして烏天狗との間に割って入るように、分厚い土の壁がせり出した。

 

「うおぉう!?」

 

 烏天狗が驚きの声をあげる。その隙にナキは背を向け一目散に逃げ出した。

 しかし、烏天狗はすぐにニヤリと笑うと、土の壁など問題にせず飛行して乗り越え、ナキを追いかける。

 

「相変わらず地面とだけはお友達なんだなあ!! 風も操れねぇクセによぉっ!!」

 

 妖怪の血が混じっているだけあって、ナキも地面を走るスピードはそれなりのものだった。しかし烏天狗はそれに難なくついていくどころか余裕風で、声が届く距離から罵声を浴びせてくる。ナキは何度も走り抜けた場所から壁を出現させたが、その度に容易くかわされ、更に罵声は止む事がない。

 

「普段見てたらよーっ! 皆が風切って飛んでる最中よぉーっ! お前は地面をトボトボトボトボ歩いていたっけなぁー!? エェーっ!?」

 

「……っ」

 

 背を向け走りながら、ナキは唇を噛む。

 『土を操る程度の能力』、そんな山の神様の劣化版のような力がナキにはあった。それは風を操る者が多い天狗社会では、二人として見ない珍しい能力でもある。

 しかし、他の天狗が何不自由なく空を飛び、風に馴染みがあると考えると、ナキは反面、地面に馴染みがあるという事になる。それはいじめられているナキにとっても、いじめる周りにとっても、"地面に這いつくばっているのがお似合いだ"というレッテル貼りに便利なものだった。自身で力を扱いながら、ナキは何度も腹立たしい思いをしていた。

 

 そうして逃げ回っていた時、ふと。

 

「ぐおおっ!?」

 

「!?」

 

 音速すら越えそうな勢いで飛んでいた烏天狗が、突如目を押さえて悶絶する。驚いて振り返ったナキの横を、勢いを止められないままの烏天狗が通りすぎていった。

 

 ――仮に高速で自分が動いた時、空気が勢いよくぶつかるのが想像できるだろう。例えそよ風でも、素早く動く者には突風と化す。カウンターパンチで大ダメージを食うのと同じ理屈である。

 小さく軽い物質などでも、速さいかんでは危険……いやそれどころか、そういうものほど当たらないよう注意しなければならない。

 天狗とて、生物である以上そのリスクからは逃れられない。妖怪の強靭な肉体があればこそ、自由に空を飛び回れるのだ。

 

 ただし、それでも目などの弱い部分に当たれば、それなりの痛みを覚悟しなければならない。例えば不用意な加速などをした時に、チリや木の葉で怪我をする事があるのだ。――

 

「目が、目があぁ~っ!?」

 

 目を覆ったまま喚き、烏天狗は慣性の法則に則りまっすぐすっ飛んでいく。そのうちに山道を外れ、脇の木々を突っ切り、烏天狗は山の斜面から飛び出してしまった。

 

「あっ……!」

 

 ナキが息を呑む。目の痛みに意識を奪われている今、このままでは烏天狗は麓までまっ逆さまに落ちてしまう。

 ……特にナキが何かした訳ではない。直接触れるどころか、ナキが作った壁にも、かすってすらいないのだ。完全に本人の不注意である。

 

 だが。

 

「危ないっ!!」

 

 烏天狗が落ちていきそうなのを見た瞬間、ナキはとっさにまた手を足元に向け、二、三回ほどすばやく開く。

 すると、先ほどの壁より何倍も大きく地面が隆起し、烏天狗へ向けて突きだしていく。一瞬の間だったが、すんでの所で烏天狗の下に盛り上がった地面が滑り込み、受け止める。そしてナキの足元へ続く坂のようになったその上をコロコロと転がり、放心して大の字になって止まった。

 

「うぅ……ん……」

 

「大丈夫?」

 

 寝転がってうめく烏天狗に、ナキが屈んで声をかける。あわてて烏天狗は跳ね起きて後ずさるが、ナキは気弱そうに微笑んでいるだけだった。

 

「な、なんで助けたんだよ……。さっきまで……」

 

「……さあ……なんでだろ」

 

 ばつが悪そうに口ごもる烏天狗に、ナキもほんの少しだけ後味が悪そうな顔をした。しかしすぐに寂しそうな笑顔を浮かべて立ち上がる。

 

「じゃ、ね」

 

 短くそう言って、くるりと背を向けてその場を去るナキ。例も言わずにポカンとする背後の烏天狗をよそに、ナキは歩きながら、ふと自分の手のひらを見る。

 そして、誰にでもなく、こんな事をつぶやいた。

 

「ガッカリされたくないから、かな……」

 

 その時ナキの脳裏には、なぜかあの椛の顔が浮かんでいた。

 

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