止む気配のない豪雨のせいで、山中の川はどこも凄惨な状況となっていた。
いつも穏やかに川面をきらめかせている水の流れも、今は地を這う龍がごとく。その身で地を穿ち、岩をえぐり、呑み込んでいった。
川はたちまち土色に染まり、水量のためにその幅を普段より一回り二回りも膨れ上がらせていた。生き物のように波打ち、しぶきをあげる川の水面からは、途中でさらわれたらしい小さな流木やボロの手袋、さびた鉄クズなどが、たびたび顔を出していた。
その急流の勢いは、雨と同じく収まる気配がない。片足の先でもちょいと入れれば、たちまち流されてしまうだろう。
そんな荒れ狂う川の中流の一角。水からほんの一、二メートルしか離れていない岸辺に、数人の白狼天狗の影があった。数人といっても一人だけが輪から弾かれて、一対多で向き合っている構図である。一人の方は一見女の子のようで、数人の少年たちとずぶ濡れになりながらなにやら口論を繰り広げている。
その女の子のような白狼天狗は――想像がつくであろう――ナキである。彼は容赦なく降りかかる雨に震えながら、必死に声を張り上げているようだった。
「だから! 早く避難しようってば! 間に合わなくなったら死んじゃうよ!?」
ナキはすぐ近くで地鳴りのような音を出す川を横目に見ていった。目の前にいるのはいつもの悪童たち。本来ならば川のそばなど一刻も早く離れなければいけなかったが、悪童たちはまるで関係ないとでもいう風に顔をニヤつかせ、ヘラヘラと答える。
「ったくお前は臆病だな~。実際に飛び込んだりしなきゃ平気だろ。川が手ぇ伸ばして引っ張ってくるのかよ?」
「滅多に見れないだろ? こんな風景。だからちょっと見物して行こうってんだ」
「そうそう、特にナキは特等席でな!」
悪童たちは次々と能天気な台詞を吐きながら、あろう事かナキを川へ追い詰めるように歩いてくる。その表情はそろって下劣な喜びに満ちていた。
ナキは思わず後ずさる。耳に届く濁流の音が、少しずつ大きくなっていく。うっかり足を滑らせかけ、彼は小さく息を呑んだ。しかし飛び出しそうになる怯えをグッと呑みこみ、悪童たちを見据えると、ナキは絞り出すような声で言った。
「いや、本当にダメだって……。逃げる時に道が崩れてるかもしれないじゃない」
「はぁ~? ンなもん飛んで帰ればいいだけじゃねーか! あったま悪ぃな~」
「そういやお前、飛ぶの苦手だっけ? ダイジョーブだよ。髪でも掴んで、吊るして持って行ってやるから」
悪童たちは相変わらず緊張の欠片もなく笑いあっている。そこには自分たちが死ぬかもしれないという危機感など皆無だった。らちが開かないとナキが頭を抱えたくなっているところで、悪童の一人が詰め寄ってくる。
「という訳でさぁ、遠慮しないでもっと近くで見ろよ。ほら押してやるから! うぇ~~い!」
「ちょ、やっ、危ない……!」
「いえぇ~~い! うぉおええ~~~いっ!!」
悪童は奇声を発しながら、両手を前に出して突き落とす真似をしてくる。ナキは体をかばってその場に固まっていたが、一歩間違えばあの世送りな悪ふざけに半ば呆れ、しかし恐怖していた。
そのうちに、他の悪童たちまで面白がって蹴落とす真似をしたり、落ちろ落ちろとはやし立てたりと行為はエスカレートしていく。
ナキは悲しい思いで、絶えず送られるプレッシャーから次第に目に涙を溜めはじめた。ただ、それを見られると更に相手がはしゃぎだしそうで、ふっと脇に目を逸らす。
すると、目を逸らした先に、下流の方から誰かが歩いて来るのが見えた。
4頭身ほどの小さな体躯、緑の帽子に青いコートと長靴。背には大きなリュックサックを背負い、水色の髪をツインテールにまとめている。
にとりだった。手に魚籠と釣り竿を持ちながら、雨の中を大急ぎで泥を飛ばして走っている。
その姿がナキの目にはっきりと映る距離まで来た時、にとりが顔を上げる。彼女はその目に、悪童に絡まれるナキの姿を認めるや、はっと立ち止まった。
「…………」
「…………」
ナキも間が悪そうに、一瞬口をつぐむ。見られたくない場面であった。三日前に、いかにもイジメに関わりたくないという様子だったにとりを思い出し、この場でも見過ごされるだろうと、ナキは頭の隅で暗い想像をした。
一方にとりはばつが悪そうに目を泳がせ、俯いてしまった。さすがに相手が見ている中で逃げ出すのは気が引けるのだろうか。
ナキはその態度に一瞬、止めに入ってくれるかと期待したが、すぐに打ち消した。元はといえば、無理強いはよくないと言ったのは自分なのだ。今さら他人の善意を期待するなど、虫がよすぎると思った。
ナキが地面に目を落とし、なんとか諦めようとしているところで、急に悪童がその胸ぐらをつかむ。
「おら、何ぼーっとしてんだ! あの河童がどうかしたのかよ!?」
「あ……ち、違う! その……」
ナキはがくがくと揺さぶられながら、とっさに首を横に振った。ただでさえ避難しなきゃいけない状況なのに、にとりを巻き込めないと思った。
そして幸か不幸か、悪童たちは思惑通りに一斉にナキを取り囲む。
「ったく本当につまんねー奴だなオメーは。川の中で芸でもすりゃいいのによ! いつかのラッコのまねとかよ!」
「あ、でもコイツ泳げたっけ?」
「あっちゃ~~! そうだったそうだった。ゴメンねカナヅチの半妖君」
「お前の出来そこないぶりは水中にまで及ぶんだよな! スッゲェよ!!」
悪童たちは口々に罵声を浴びせてくる。ナキはとうとう黙りこんで下を向き、俯いた目からはとうとう涙がこぼれだした。その様子がおかしいのか、悪童たちは笑いだし、あろう事か殴りかかった。その時だ。
「ちょ、ちょっと! もう止しなよ!」
下流の方から、上ずった怒声が飛んできた。ナキと悪童が一斉に振り返ると、ずっと見ていたらしいにとりが、微かに震えながら険しい表情で走ってくるところだった。肩を不自然なほどにいからせ大股で、無理をしているのがありありと見てとれた。
「あ~? なんだよ文句あんのか?」
悪童の一人がにとりを睨みながら近づく。背の低いにとりは見下ろされて一瞬ひるんだが、負けじと声を張り上げた。
「もっ、もう止しなって言ってるの! 嫌がってるじゃないか!」
「はぁ~ん? なに? 聞こえないなぁ~。ところでこの帽子ダサいね。亀の甲羅みたい」
悪童はてんで聞く耳を持たず、にとりの帽子を取り上げて眺めていた。にとりはあわてて頭を隠し、帽子を取り返そうとする。
「あっこら! 返せ、返せよーっ!」
「あっれ、帽子の下に皿がない! こりゃ意外だわ!」
にとりは必死で帽子へ腕を伸ばすが、悪童は持っている帽子を高々と掲げて笑うばかり。身長差があるのでとび跳ねようがどうにも届かず、悪童は次第にその様子を面白がりはじめた。
「かーえーせー!! もぉーっ!」
「おー頑張れ頑張れ。もうちょっと、あと一息!」
「おら、代わりにこれでも被ってろ!」
悪童の一人がにとりの魚籠を取り上げ、頭からすっぽりと被せた。にとりは顔から肩まで被われて身動きがとれず、小突き回されながら前も見えずに抗議の声をあげる。
「このっ! 卑怯だぞ、これ取れよぉーっ!!」
「あははは! 虚無僧だ、虚無僧……おっ?」
そこでようやく、意を決したナキが悪童たちをかき分けてにとりの前に躍り出る。にとりの周りにいた悪童たちが離れると、にとりはフラフラとその場にへたり込んだ。
ナキは屈んでその体を支え、魚籠を取ると、悪童たちを睨みつける。
「なんだ、その目? まだ痛い目に会いたいか?」
「……もういい加減にして。やるなら、僕だけをやってよ」
あざけるように笑う悪童に、ナキは静かな声で答える。自らを差し出すという言葉に、にとりは目を丸くする。
悪童たちはそろってゲタゲタと笑った。
「ぶははは! バッカじゃねえの! お前の頼みなんか誰が聞くかよ」
「どうしてもっていうなら、土下座くらいしてもらわないとなぁ」
まるで聞く耳を持たない悪童たち。ナキは苦々しく歯噛みして、悪童を見据える。にとりはその姿をひどく意外に思った。いじめられている場面を見るたび逃げ出していた彼女は、ナキがここまで勇気を振るう瞬間を見た事がなかった。
一方、そんな気持ちなど露知らぬ悪童は、にとりをチラリと見て、こんな侮蔑の言葉を吐いた。
「あ、でも放っておけば勝手に逃げるんじゃないの? 相手がナキだもん、ねぇ」
「確かに! かわいそうになー、せっかく体はったのに」
「……っ!」
その言葉に、にとりは思わず唇を噛む。今まで何度も逃げてきた。見ない振りをしてきた。いざとなればここまでする人間が苦しんでいたというのに。
にとりは胸中に湧きだした罪悪感に、思わずうずくまり、無言で下を向く。その様子をナキが気遣わしげに見た。
その時、今度は上流の方角から。
「こらぁー! 何やってるんですかあなた達は!!」
高く響く女性の声。悪童たちがギョッとして振り向くと、目をつり上げた椛がまっすぐ走ってくるのが見えた。
悪童たちはいっせいに飛びはねて仰天し、口々に悲鳴をあげた。
「やっべ、椛だ!」
「うわ、逃げろ! ああもう、どけ!」
「すべるっ、たったった……!」
悪童たちは互いに押し退けあい、ぬかるむ地面に転びそうになりながらその場を逃げ出していく。そうなると先ほどまで散々遊び道具にしていたナキやにとりも邪魔でしかなく、彼らは目もくれない。
そのせいで、周りへの注意がおろそかになった。悪童の一人が去り際に、にとりにぶつかってしまったのだ。
「わあっ!!」
「あっ!」
不意に横から衝撃を受けたにとりは、平静ではなかったのもあって大きくよろめく。小柄なその体は大きめのリュックサックに引っ張られて濡れた地面を後ろに歩いていき、ついに川岸で足を踏み外す。
「にとりさん!」
ナキが叫んだ時にはもう遅かった。長靴が片方脱げ、にとりは濁流の中へと音を立てて転落する。流木やガラクタと共に矢のように流されながら、にとりは必死に手や顔を出して悲鳴をあげる。
「にとりぃーっ!!」
遠くから事態に気づいた椛が走ってくる。しかし隣にいたナキでさえあっという間に置き去りにされる急流の前では、元から離れていた椛が追いつくすべはない。一歩足を踏み出す間にも、にとりは水の中で小さくなっていく。
椛が悔しそうに顔を歪めた、その時。
「くっ!」
ナキが川岸に駆け寄ったかと思うと、突然地面にべしゃりとうつ伏せに寝そべり、水面に顔が着きそうな姿勢になる。そして両手を川の中に突っ込み、水中の岸壁に両手をつくような格好になった。
何をする気かと一瞬いぶかしむ椛。
ナキはといえば、視線は流れ行くにとりのみに注がれている。そして、その視線の先で、突如驚くような変化が怒った。
にとりがかれこれ五十メートルは流されたかというところで、彼女の横数メートル、ナキが手をついている側の岸壁の一部がぼこりと乾いた粘土のように崩れ、水に沈む。そしてその分の質量が移動したかのように川の中からずるずると泥の塊が盛り上がって顔を出し、にとりを受け止めたのだ。にとりの小さな体躯が泥のクッションに沈み、体に自由が戻る。
「へ……?」
にとりは理解が追い付かない様子で一瞬辺りを見回したが、すぐに岸へ泥だらけになって這い出る。顔を上げると、同じように泥だらけのナキと深刻な顔をした椛がバタバタと駆け寄ってくるところだった。
「にとりさん!!」
「大丈夫ですか!?」
二人が心配そうに顔を覗き込んでくる間も、にとりは未だにポカンとしていた。さっきまで沈んでいた川をみると、やはり実在する泥の塊が、水流で少しずつ崩れていく。
にとりはナキへと向き直り、呆けたような声で尋ねた。
「さっきの……あんたがやったのかい?」
「え? ええ、とっさに体が動いて……。無事でよかった……」
ナキは顔を赤らめ、照れくさそうに頬笑む。にとりはその顔をぼんやりと見つめ、表情を曇らせた。
椛が手を差しのべ、にとりを助け起こす。にとりは小さく礼を言って、またナキに向き直ると、ぺこりと頭を下げた。
「……ごめんな。私、今まで一度も助けてなかったのに、こんな事してもらって……」
苦笑いをして謝るにとり。ナキはその言葉に一瞬とまどいの表情を浮かべた後、にこりと微笑んだ。
「ついさっき、現にかばってくれたじゃないですか。そんなに謝らないでください」
「へっ……?」
にとりは驚いた様子で顔を上げる。そこには、屈託のない笑顔があった。隣を見ると、椛も頷き、頬笑む。にとりは両者の表情を見て、ようやく心の中のモヤモヤが解けていく感覚がした。
「そういえば、どこ行っちゃいましたかね」
「なにが?」
「帽子ですよ、帽子」
椛が自分の頭を指さしながら答える。にとりも頭に手をやると、自分があの緑の帽子を被っていなかった事を思い出した。悪童が取り上げ、そのまま放り出してしまったのだ。
「この風で飛んでいったんでしょうか……」
ナキは我がことのように真面目な顔で辺りを見回す。しかし、どこにもそれらしき物は見当たらない。空を見れば暴風に乗って剥がれた板堀のようなものが舞っている。帽子一つ、あっけなくさらわれてしまうだろう。
にとりは、肩をすくめて言った。
「いいってあんなもの。いくらでも代わりがあるよ」
「でも……」
気がかりな様子で口を挟むナキに、にとりは更に言った。
「気にしないでって。高いものじゃあるまいし、構いやしないさ」
「そうですね~。確かに安っぽいですよ、コレ」
「そうそう、こんな帽子しま◯らの……ん?」
背後で相づちを打つ声ににとりは笑い、直後にその声の主へ振り返る。先ほどまで影も形もなく、いきなり現れて話に混ざる何者かを見て、にとりは悲鳴をあげた。
「ひゅいっ!? 文ぁ!?」
「ああどうも、これ落とし物ですよ」
そこにはいつの間に来たのか、烏天狗の文がいた。目を見張るにとり達に表情一つ変えず、緑の帽子を人差し指でクルクルと回している。
「……文さん、いつからここに?」
「いえ、ついさっきですよ。この帽子がふわ~っと飛んできたので、何かあったのかと思って」
文はにとりに帽子を被せ、にとりやナキが泥だらけなのを不思議そうに眺めていた。さっきまでの喧騒など露知らずといった文の様子に、他の三人は苦笑して顔を見合わせる。
「とにかく、屋敷へ急ぎましょう。みんな待っています」
「……どうかしたんですか?」
「ま、いいでしょう。ね?」
椛が先頭になり、ナキは文の背中を押して後をついて、一行は上流の方角へと歩き出す。悪童や水難の危機が去り、ほんのわずかに緊張の糸がゆるむ。
その時、魚籠や釣り竿を拾って最後尾になっていたにとりだけが、前方に微かな音を聞き取った。
直後、一際強い風が吹き、木の葉やチリを巻き上げる。椛やナキ、文の三人は風にあおられ、思わず体をかばった。
そのせいで、注意が一瞬遅れる。
同じように強風を受けた木々の中で、一行の目の前にあった細い木が、めきめきと音を立てて中途からへし折れる。重力に引かれるままになった折れ目から上の幹は、一行を押し潰さんばかりに頭上すれすれまで急激に迫る。
「きゃあぁ!」
「わあー!」
「ひゃあぁっ!」
三者三様の悲鳴をあげ、にとり以外の者たちがその場に立ちすくむ。その間にも木は一切の邪魔なく倒れ、もう刹那でナキたちにぶつかってしまうというところまできた。
しかし、救いは思わぬとこれから現れる。
ちょうどナキたちの足元にあたる部分を流れていた、下流に向かう水の一部。その一部の水が突然意思を持ったかのように不自然にうねり、丸太ほどに太い蛇のように伸び上がったのだ。その蛇は茶色い体をくねらせ、獲物にかみつくかのように素早く、ナキたちの頭上の木を直撃した。
木は強引に吹っ飛び真横へと方向転換する。そして重い音を立てながら他の木々に激突し、止まった。
ナキたちは頭を押さえてしゃがみこみ、吹っ飛ばされた木と、嘘のような動きを一時だけした川とを交互に眺めていた。
そんな彼らを、腰に手を当てたにとりが自慢げに見下ろしている。
「あ……にとりさん」
「へへ、驚いた? あんたが土なら、私は水を操れるのさ。これで貸し借りは無しだね」
ナキたちが立ち上がるより先に、にとりは三人を追い越しスタスタ先を歩いていく。あわてて追いすがる一行。その先頭になっていたナキが、遠慮がちににとりに話しかけた。
「あの……にとりさん、ありが」
ありがとうございます、そう言おうとしたところで。
にとりが、つぶやくようにそれを遮る。
「
「え?」
「河城にとり。私のフルネームさ」
言われて、ナキは今まで名字を知らず、名前で読んでいた事を思い出した。続いて段々と失礼だったかな、と不安が頭をもたげ、気弱そうに言い直す。
「え、えーと。河城、さん?」
「…………好きに呼びなよ」
にとりは振り返り、クスリと笑う。その顔を見て、ナキも笑い返す。
雨は、少しずつ止みはじめていた。