太陽が稜線から顔を出し、しばらくしてさんさんと輝きだすと、空が水色一色に晴れ渡る。
幻想郷では、夜半まで続いた豪雨が止んで数時間が経っていた。見渡す限りに垂れ込めていた雨雲は溜め込んでいた水分をすっかり出しきって、ぽつりぽつりと千切れた白い綿に姿を変えていた。
ただ、その下では災難の跡がしっかりと残っており、里では雨漏りに遭った者があわてて屋根を直し、小作人が畑を浸す水をひたすらにかき出し、川沿いに住む者は床下からの浸水を掃除していた。
妖怪の山でもそれは例外ではなく、天狗や河童は後始末に総動員されていた。ある者は川の氾濫を防ぐために積んだ
「おい、この木運ぶの手伝ってくれよ!」
「他の奴に頼め! 土嚢だってクソ重たいんだよ!」
皆がせかせかと辺りを動き回る中で、一人だけ木陰にしゃがみこみ、なにやらゴソゴソやっている者がいた。
小柄な体に灰色の髪と尻尾が木々の作る陰に溶け込む。ナキであった。彼は傍らに一抱えもある麻袋を置き、地面に落ちた葉をせっせと集めては袋に詰めていた。
なにしろ、秋も深まりじきに葉が散るという時期に豪雨に見舞われてはひとたまりもない。せっかく鮮やかに色づいていた紅葉や楓もあっけなく落とされ、雨に濡れたまま地面を埋め尽くしている。分厚く敷かれた赤と黄の絨毯は雨上がりの湿気と日光のせいで、生暖かく甘ったるい独特な匂いを醸し出していた。
「よいっ……しょ。うわ、下泥だらけ……」
集めた葉を抱えあげた瞬間、ぬかるんだ土の固まりがくっついてきて、ナキはぼやいた。素早く泥をふるい落として麻袋に放り込んだが、それでも袋の内側に茶色い筋が走る。よく見ると外側からでも、詰めた落ち葉から滲み出る水分のせいであちこちにシミが出来ているのが見て取れた。
先ほどの地面に目を移せば、落ち葉に隠れていた地表が、水溜まりに半分浸ったようにドロドロになっている。
「やっぱり危ないよね、コレ」
ナキは一人でそう言って苦笑すると、地面に手をかざして握り、開く。そうすると30センチ四方から落ち葉をかいくぐるかのように比較的かわいた土が動きだし、泥状の部分と混ざり合う。数秒後、水浸しだった地面はいくらか歩きやすそうなものへと変わっていた。
それを見て、ナキの表情はわずかに満足げに変わった。
水気のある地面を落ち葉が覆っているというのは、意外に危険なものである。雨上がりの山道というものはそれだけでも危ないものだが、落ち葉が足元を覆っていれば小さな段差や斜面に気づきにくくなり、足を取られての転倒、運が悪ければ事故を起こす可能性も高くなる。わずかな事でも油断はできないのだ。
なので、彼がチマチマと落ち葉をかき集めたり、地面を歩きやすくするのはれっきとした環境整備の一環である。先ほど見事にスッ転んで濡れてしまった尻をさすりながら、ナキは自らにそう言い聞かせた。
そんな風に地味かつ地道な作業を続けているところで、周りの同僚がおしゃべりをしているのが聞こえてきた。偶然聞こえただけ話し声だったが、女の子二人が機嫌よくはしゃいでいたために嫌でもその内容が頭に入ってくる。
「でもさー、あの山の神様って本当すごいよねー!」
「そうそう! こういう時にメチャクチャ頼りになるもんねー!」
山の神様、その言葉を聞いてナキは山頂の方角をひょいと見る。木々に隠されて直接には見えないが、山のてっぺんには大きな神社があり、数年前からある神様が祀られているのだ。その神様はいつかの厄神とは段違いの力があり、天狗の上層部と揉め事を起こした過去もあるのだが……。
このような災害時には、もっぱら別の特徴に注目される事が多かった。なおも女子たちの会話に耳を傾けると、ちょうどこんな内容が流れてくる。
「グチャグチャになった道が、こう、バーッと元通りになっちゃったもんねー」
「そうそう! あと、昨日は土砂崩れがないようにって、何時間もお祈りしてくれたらしいよ」
「神様さまさまだよねー、天魔様の次に格好いいかも」
山の神社が祀る神は、『乾を操る程度の能力』を持っていて、手っ取り早く言えば地面を操る力を持っている。それも地形を変えるなど、神様らしく大がかりなものだった。元は雨風の神様だったらしいのだが、安易に恵みともなる雨を操作する訳にもいかず、結果的に大雨などの災害が毎度起きるも被害は押さえられ、神様が感謝されるというのが山の常であった。
「…………」
誰に聞かせるでもない会話だったが、ナキはいつの間にか聞き入ってしまっていた。乾を操る、自分と似たような能力でありながら、その扱いは雲泥の差だった。片や山の頂上で多大なる信仰を集め、片やナキは皆の輪から外れて落ち葉を集めているだけ。皆それぞれ忙しいとはいえ、ナキを手伝おうとする者もいない。神様に罪はないが、ナキが落ち込んでしまうのも無理はなかった。
そんな時、不意に背後から声が聞こえてきた。しかし、その声色から手を貸してくれるつもりがないのは明らかだった。
「ナキ~! な~にしゃがみこんでんだ?」
「へ……うわっ!?」
その何者かは、ナキが振り向く前に尻を蹴りつけた。ナキは突然の衝撃によろめいたが、木に手をついて相手を見る。そこにはやはりというか、いつもの悪童連中がニタニタとナキを見下ろしていた。
「虫でも見てたか? 落ち葉なんぞ引っ掻き回してよぉ」
「ち、違うよ……。散らかってて危ないから、片付けてたの」
ナキは悪童たちに一瞬渋い顔を向け、すぐに地面へと目を逸らす。目を合わせていたくなくて、無言で落ち葉集めを再開する。
「んなもん放っておきゃ良いだろうが! 爆発する訳じゃあるまいし」
「すべって転ぶかもしれないの。というか、転んだ。僕が……」
ふてくされるように言って、ナキは自分の尻を指さす。間の抜けた印象を与えるのは分かっていたが、イジメられるより道化として笑われる方が、いくぶんマシな気がしていた。
その想いが通じたかは分からないが、悪童たちはそろってゲラゲラと笑いだす。
「はっははは! 相変わらずバカだね~お前は」
「あーあ、袴が台無し」
「あはは……バカでいいからさ。ちょっと、集中させてよ」
適当に苦笑いして話を切り上げ、ナキは手近な落ち葉へと手を伸ばす。すると、寸前で何かがナキの指先をよぎった。
「おぉーっと足がすべったあーっ!!」
わざとらしい叫び声とともに、悪童の足がナキの目の前にあった落ち葉を蹴散らした。ナキがちらと驚いた顔を向けると、悪童はヘラヘラと笑う。
「いやぁー、お前のいう通りだわ。つるっつるに滑るよ、コレ」
「う、うん。だから気をつけ……」
「うわーっと俺も足がすべったぁあーっ!!」
「ぎゃー俺もすべったぁーっ!!」
「ぶわっ、ちょ……」
だんだんと棒読みになる大声をあげて、悪童たちは次々と足元の落ち葉を蹴散らし続ける。巻き上げられたその落ち葉が、バサバサと音をたててナキの全身に降りかかる。
「も、もうっやめて……!」
ナキは全身にへばりつく落ち葉を払い、必死に抗議しようとする。しかし悪童たちは欠片も聞く様子をみせず輪になって、果ては泥などもまとめて蹴りあげる。
しかし、そこで輪の外から一人の女性の声が響いた。
「そこ! 何を騒いでるんです!?」
「あ、椛さん……」
「はっ? お、おわあっ!」
高く響いたその声に振り向いたナキの視界には、厳しい顔をして駆けてくる椛の姿があった。彼女に気づくやナキは顔色を太陽のように明るくさせ、また悪童たちは驚きと焦りのためか暗雲がたちこめたような表情となる。
今まさに落ち葉を蹴ろうとしていた悪童は、椛に気を取られた瞬間に音をたてて足を滑らせ、盛大な尻餅をついた。
「いっちち……」
「……だ、大丈夫?」
「貴方たち、仕事もせずに何をしていたんですか?」
椛は連中の前に仁王立ちし、泥だらけになっているナキとその周囲を囲んでいた悪童たちを見回して鋭い声で問いかけた。悪童たちはそろって弱ったように目を泳がせる。直接聞いても無駄だとさとった椛は、隣で転んだ悪童を助け起こすナキへ視線を移す。
「あ……」
ナキはその視線に気づくと唇を噛み、ふっと目を逸らす。その複雑な表情には、恥ずかしいような、椛に頼りたいような、はたまた悪童たちを庇いたいような、色んな感情が入り交じっていた。
やがて、ナキは打って変わった明るい表情になって、椛に言った。
「な、なんでもないですよ。ちょっと遊んでただけです。ね?」
「へ……お、おう」
「……そ、そうなんスよ! 落ち葉があるとつい蹴っ飛ばしたくなって!」
「んでもっとやろうって事になったんですが、いかんせんやり過ぎちゃって!」
悪童たちはナキの言葉に多少とまどったものの、すぐにけろりとして同調しだした。椛はその様子をしばらく怪訝な顔で見つめていたが、ナキがよく見る気弱な笑顔を向けてくるのを見て、観念したように肩を落とした。
「……分かりました。じゃ、ナキ。ちょっと仕事をお願いしたいのですが」
「あ、はい」
「あのリヤカー、一回倉庫に持っていってもらえません?」
椛が指さした方角には、木の荷台に金属の取手と車輪をつけた、大型のリヤカーが置いてあった。川の氾濫を止めていた土嚢を持っていくためのものらしく、白狼天狗が重そうな袋をドサドサと積み込んでいる。椛は手でメガホンをつくり、その部下に向かって叫んだ。
「すみませーん! そのリヤカー一旦持っていくんで、そのままにしてくださーい!」
「えー、でも隊長、これまだ積めますよ?」
「大丈夫です。あんまり重いと効率悪いので! ……ほら、ナキ」
今度はナキに振り向いて目でうながしてくる。ナキがおずおずとリヤカーの方へ駆け出すと、その背中に椛とげんなりした悪童たちの声が聞こえてきた。
「さて、あなた方も暇そうですし、仕事をお願いしましょうかね」
「えぇ~マジですか~」
「だるぅ~」
「文句言わないでください。あなたは川のゴミさらい、あなたは崩れた道を片付けて……。皆で固まってちゃダメですよ。絶対サボりますから」
テキパキと指示を出す椛の声を聞いて、ナキは気を入れ直し、リヤカーを引いていった。
――
「ふんっ……くっ……」
川沿いから少し離れた狭い山道を、ナキは額に汗を浮かべながら、土嚢を積んだリヤカーを引いて一生懸命登っていた。
たくさん積まれた袋は非力な彼にとってなかなか骨だったが、それでもリヤカーいっぱいの量ではないのが幸いだった。土嚢を積むのを、椛が途中で止めてくれたおかげである。
そうこうしているうちに、どこからかサラサラと水の流れる音が聞こえてくる。ナキが辺りを見回すと、左手の低い崖の上から聞こえてきている。しかも、水の音に混じってざわざわと、人のざわめきのようなものも伝わってきた。ナキは崖の上から覗く林の一角を見上げながら、近くに人が集まるような場所などあったかな、と眉をしかめる。
すると、崖道を連れだってブラブラと歩く二人の人影が見えた。シルエットはどうやら女の子で、背丈に違いのある凸凹コンビである。ナキの耳に、その二人の聞き覚えのある話し声が届く。
「ったく、文もなんだってこんな場所まで追いかけ回すかなー」
「そう言わないでくださいよーにとりさん。ボランティアしてくれる巫女なんて、格好のネタじゃありませんか」
「だからって、私らが仕事してる現場まで乗り込んで……ん?」
言いかけたところで、背の低い方が崖の下のナキに気付き、もう片方の肩を叩く。そして二人で顔を見合わせると、彼女らはリヤカーと一緒にぼんやりと立っているナキに向けて、まっすぐ降りてきた。
「お疲れ様です! ナキ君!」
「……やぁ」
「こ、こんにちわ」
降り立ったのは、文とにとりだった。文は快活に、にとりは無愛想にそれぞれあいさつを口にする。ナキが小さく頭を下げて間もないうちに、ナキの隣のリヤカーへ視線を移した文が口を開いた。
「何してたんです? 一人で」
「ああ、僕は土嚢を倉庫に運ぶ途中で……。お二人は?」
ナキが聞き返すと、にとりが文を指さして意地悪そうにこう言った。
「それがさぁ、聞いてよ。文の奴、ずっとあの巫女さんと話してたんだよ」
「巫女さんと?」
「なっ! ただ話していたんじゃありませんよ。取材です取材!」
「それにしたって限度があるよー。仕事サボるし、仕事の邪魔だし」
「仕方ないでしょう。あの方の記事は幻想郷中のファンに広く受けるんですから」
文がむきになって反論し、言い合いが始まるのをナキはぼんやりと眺めていた。
二人が言う巫女というのは、先ほど出てきた山の神様に仕える少女のことである。正確には
件の神様のような大それた力はないが、十代そこそこの若さながら布教やさまざまな問題解決に熱心であり、山の連中のみならず人里やその他幅広い層に支持者が存在する。
なにより、今日のように災害が起きた日には自ら天狗や河童のもとに出向き、ボランティアにいそしんでくれるのだ。
「というかにとりだって、しつこく追いかけてたじゃありませんか。たかが
「し、仕方ないだろ……。あの巫女さんが来たら途端に人だかりができるんだから。私だけもらえないなんて冗談じゃない」
巫女が配っていたのだろう饅頭をモグモグとほおばりながら、文はにとりをからかう。ナキはそれを聞いて、胸の内で一つ納得した。
(そっか。さっき聞こえたのは巫女さんのファンの声だったんだ……)
すると、彼の表情にふっと影がさす。それを抑えて作り笑いを浮かべ、ナキは目の前の二人に言った。
「すみません、僕もう行きますね」
「あやっ、ごめんなさい引き留めちゃって」
「手伝おうか?」
「いえ、一人で大丈夫です。それでは」
にとりの親切を笑顔で断り、ナキは再びリヤカーを引いていく。一度も振り返らずにゆっくり、ゆっくりと重たくきしむリヤカーを引き、やがて角を曲がって二人から姿が見えなくなった頃。
「……ふー……」
ナキはうなだれ、長いため息をついた。
頭の中に浮かんでくるのは、災害から山を守り、あるいは山の住人たちを励まして皆から慕われる、神様や巫女のこと。そしてその陰でイジメを受け、一人でわびしく仕事をしている自分の姿だった。
神様たちが悪い訳ではない。土砂崩れを防ぎ、住人のために祈り、直に顔を見せて回る。そうして人々の希望を守るのは、誰にでも出来る訳ではないのだ。神様も、せせこましい作業ばかりしている自分も、相応の評価を受けているだけなのだ。
だからこそ、どうしても卑屈な気持ちになってしまう。自分に大きな力も、飛び抜けた特技もないのを思い知る度に、周りとの評判の落差に落ち込む。
せめて、自分の『地面を操る程度の能力』がもう少し強かったら、と思う。混血である事を恨みはしない。今はもう会う事も叶わないが、自分を生んでくれた人を恨むのは間違いだと、ナキは思っていた。
そんな風に憂鬱な気持ちを抱えて進むうちに、いつしかちょっとした峠道へ差し掛かった。片側には急ではないがそれなりに高い斜面があり、鬱蒼とした林が日光を遮るために地面は苔むしていた。
反対側も木々に覆われており、嫌がおうにも道幅は狭く感じられる。ナキはリヤカーにつられて重心を崩してしまわないようにと、慎重に肩をすぼめて歩いていく。
その時、細心の注意をはらっているナキの頭上で、呑気な青年の声が降ってきた。
「おっ、弱虫のナキ君じゃ~ん」
軽薄な、見下しの入った声。この非常時にそんな調子で声をかけてくる者は、たいていろくな奴ではない。それでもナキは人の良さからか律儀に振り向いてしまう。
そこには、三人の烏天狗の青年たちが浮かんで空からナキを見下ろしていた。ナキが逃げる間もなく、烏天狗たちは目の前に道をふさぐようにして降り立つ。
「久しぶり~。元気してたかぁ?」
「は、はい……。あの、何か?」
「そう震えるなって~。ちょっとだけ君に頼みがあるんだよ」
「頼み……?」
「そうそう。す~ぐ済むからさぁ」
烏天狗たちはニヤニヤしながらナキたちを取り囲む。ナキはその様子に一瞬体をこわばらせたが、頼みというのを無視できず、怪訝そうな目をしながら周囲に視線を配る。
「ナキ君さ、こう、小さな壁を作れたじゃん? あれをちょっとやって欲しいんだよね」
「ここで……? どうして?」
「いや、少ーしだけ見せて欲しいのよ。本当に、一回だけでいいから」
「はぁ……」
ナキの能力は、今までたいていの白狼天狗や烏天狗ならば目にした事があるはずだった。奇妙な頼みに首をかしげながらも、ナキはリヤカーを離れ、道の端に寄る。
そして通行の邪魔にならなさそうな場所を見つけて屈み、地面に向けて手を何度か握る。すると、ナキのすぐ手前にちょうど姿見ほどの大きさの薄い壁が出現した。薄いといっても十センチはあり、ひび一つ見当たらない硬いものだった。
ナキは立ちあがり、ちょっぴり自慢げに振り返って烏天狗たちに言う。
「普通の壁ならこんな感じだけど、どんな風に使うの……」
ナキがそう言いかけた、その時。
唐突に、烏天狗の一人がナキの後頭部を髪ごとガッシとつかむ。そしてそのまま振りかぶり、無理やり目の前に向かってつかんだ頭を突きだした。
「そおおおぉいっ!!」
そう……。ナキがついさっき作り出した、硬い壁へと。
「ぐぅっ!?」
くぐもった声と音が響く。頭の中が真っ白になりそうな衝撃が顔全体に広がり、ナキの思考が一瞬途切れる。間もなくして壁と接した鼻や口、至るところからジワジワと痛みが噴き出し広がって、目に涙が浮かんだ。
つかんでいた手が離され、ナキはその場にズルズルと崩れ落ちる。ごろんと仰向けになった彼は放心し、鼻に熱いものが流れるのを感じながらぼんやりと青空を眺めていた。ふと先ほどぶつかった壁を見ると細く赤い血の筋が、短く走っていた。
「あっはっはっはっは!」
烏天狗たちは満足したのか、動かないナキを放っておいてゲラゲラと連れだって帰っていく。ナキはそれには何も言わず、ただしばらく土の上に寝転がっていた。熱いものが鼻から口に流れ、辛い味が口内に広がる。それを思わず飲み込むと、唇がひりひりと痛んだ。
二、三分、そうしていただろうか。
「うー……」
低くうめいて、ナキは立ち上がる。まだ痛みは引かず、よろよろと前のめりになる。鼻血が出たせいかガンガンと痛む頭を押さえ、ナキはリヤカーの方へと歩いた。
気分はひどくうちひしがれていたが、時間は待ってはくれない。今頃リヤカーが足りないと皆が困っているかもしれない。そう痺れる頭で考えながら、ナキはリヤカーに触れる。
しかし、そこでバランスを崩し、押されたリヤカーがあらぬ方向へと傾いた。道の片側、斜面になっている方へ。
「あー!」
ナキが叫んだ時には遅かった。車輪が斜面に滑り出し、リヤカーは土嚢の重みに引きずられてあれよあれよという間に斜面を後ろ向きに下っていく。辺りに密集する木々にぶつかり進路を変えながら、その姿はどんどん小さくなっていった。
そして斜面がようやくなだらかになりはじめた頃、リヤカーは一本の木にぶつかって横転し、ついに止まる。中に積んでいた土嚢が溢れだし、無惨にも大量にその場に転がってしまう。
「……あー……もう……」
ナキははるか眼下で起きた惨事にしばし呆然としていたが、やがてやれやれとため息をつくと、リヤカーを追いかけて斜面を下っていく。苔に足を取られないようにしてどうにかたどり着くと、散らばった土嚢を見てナキは思わず顔をしかめた。
「うそ、破けてる……!」
こぼれた土嚢のいくつかが、白い袋の裂け目から砂を漏らしている。おそらく落ちた衝撃で裂けてしまったのだろう。荷物が軽くなる、などと呑気に喜べるナキではない。落ち込んだ気分に追い討ちがかかり、ナキは膝を折ってうなだれた。
すると、落ちている土嚢の袋に、ポタポタという音とともに赤い点がいくつもできる。ナキがハッとなって鼻に手を当てると、みるみるうちに鼻血がこぼれだす。ナキはイライラする気持ちを抑えながら、鼻血を袖でぬぐった。
この時、彼が度重なる不運や鼻血に気を取られていたのが、それこそ最大の不幸だといえよう。もし、彼の気分が乱れていなければ、あるいは鼻血のせいで自慢の嗅覚が鈍っていなければ……その身に迫る大きな危機に、気づけたかもしれないのだ。
「どうしよう……。とりあえず残った分を運んで……ん!?」
不意に、他の生き物の息づかいのようなものが聞こえ、ナキは弾かれたように顔を上げる。そして目の前の何者かに気づくと、瞬時に顔を蒼白にし、その場に凍りついた。
「あ……あっ……」
そこには、大きな体躯と牙と爪を持つ猛獣、熊がいた。体はナキを二、三人まとめて抑え込めそうなほどに大きく、立ち上がれば二メートルを越えそうであった。そばにある木が竹のように細く感じられ、四つ足で相手を見すえる姿はまるで大岩のようだった。
熊はどこかで妖怪の死体でも食べたのか、黒い体毛に銀色の筋が所々に混じっている。爪は数が増え、鉄の鉤爪のように長くなり、食い縛りむき出しにしている牙は吸血鬼のように鋭くなっていた。
猛獣、もとい妖獣と化した熊はすでに鋭い眼光をナキに向け、敵意を露にしている。距離はもう十メートルほどしか開いていない。もう相手が身じろぎする度に、ナキの頭には引き裂かれ、食いちぎられる映像がまざまざと浮かんだ。
(に……逃げなきゃ……!)
ナキは必死にパニックを抑え、いうことを聞かない体でどうにか後ずさろうとする。熊はいつでも仕留められると思っているのか、じっとにらんだまま動かない。このまま逃げられるだろうか。ナキがふっとそう考えた時、頭のどこかで反発する感情がよぎった。
今まで、今日だけでも自分はどんな目で見られていたか。
悪童たちにもてあそばれ、毅然として怒ることもできず。
能力に対する信頼も功績も、神様や巫女さんに比べれば足元にも及ばない。
あげくに与えられた仕事すら満足にできず、妖獣からも逃げるというのか……!
そんな事できない。そう思った。少し考えれば馬鹿げているのだが、今この時はナキの中の意地のようなものがそれを頑なに譲らなかった。
一度決めれば、考え直す暇はない。敵の目の前でナキは剣と盾をとり、戦闘体勢に入る。その雰囲気が伝わったのか、熊の目がいっそう鋭くなった。
「はっ……はっ……」
ナキの手は震えていた。汗ばんでもいる。しかし、まるで強迫観念のように、さまざまな言葉が頭の中でナキを追いたてる。
僕は弱い。弱虫だ、泣き虫だ。何の役にも立たない。このままじゃダメなんだ。
「やれるさ……。僕でもやれる!」
言い聞かせるようにつぶやいたナキと、様子をうかがっていた熊が動いたのは、同時だった。