「しっかし、本当によく生きて帰れたよなぁ~。ナキ」
「俺だったらすぐ捕まって食われる自信あるわ」
「まあ、ラッキーだった……かな」
ある日の朝の集会場。いつもの始業前の挨拶が始まる少し前、十分ほどの空き時間があった。
広々とした集会場の一角で、ナキは何人もの同僚に囲まれながら、珍しく感心の意味で注目を浴びていた。つい昨日に熊に遭遇して、九死に一生を得た生還者として。
「椛さんが来てくれなかったら、絶対死んでたよ……。実際に会ったら僕、怖くて怖くて」
「いやー無理しなくていいと思うぜ? お前見るからに意気地ねーもん」
「ま、何にせよ葬式する羽目にならなくてよかったよ。堅苦しいの苦手なんだよなぁ」
事件が元で話しかけてきた同僚らはいつもの悪童たちと違い、見下す事もなく、ナキの気弱な口調も気にせず受け答えをしてくれた。そんな状況にいざ置かれてみると、ナキはどうにも照れ臭くあがってしまう。当たり障りのない答えをぽつぽつ返しながら、こんな話し相手がたくさんいてくれたら、と彼は心の中で切ないつぶやきをこぼした。
そんな風にナキが半ば上の空で愛想笑いを浮かべていると、同僚の一人がふと参ったような笑みを浮かべ、小さくため息をついた。そして、こう言う。
「また山狩りしなきゃいけねぇのかな……」
「忘れた頃に出るんだよね。二年に一回くらい」
「討伐隊に選ばれるって正直、名誉じゃないよな、怖ぇよ……」
やれやれといった同僚のつぶやきをキッカケに、話題は熊の討伐へと移っていく。熊などの害獣が出た場合、白狼部隊の隊長(現在では椛)を中心として白狼天狗から討伐隊を選出するのがならわしとなっていた。
身体能力に劣るナキが選ばれる可能性はゼロといってよかったが、彼はだからこそ目の前の同僚たちに引け目を感じていた。見知った仲間、たとえそれが普段うとんでいる悪童たちだったとしても、命の危険がともなう現場に送られるのは辛いのだ。自分がなまじ安全であるために負い目を感じてやまない。実際に会ってその怖さを知った今となってはなおさらだった。
同僚はそんなナキの胸中を知ってか知らずか、気安く笑って肩を叩く。
「なーに暗い顔してんだよ。心配すんな、お前はどうせ選ばれねーよ」
「また行ったら今度こそ死んじまうぞ?」
「は、はは……」
あっけらかんと自身の弱さを指摘されてナキは返す言葉もなく、苦笑いするしかなかった。
そこで、集会場の最奥に用意された舞台の横、関係者用の出入り口から板戸を叩くような大きな音が響いた。皆が振り向くとやや屈みながら長身の大天狗が入ってきた。それを見たナキたちはあわててその場に整列し、背を伸ばして気をつけの姿勢で固まった。
それを当然の事のように、大天狗は悠然と大股で歩き、舞台に上がって部下たちを仰ぎ見る。その時、ナキは大天狗の両脇に誰かが立っているのに気づいた。片方は腕の中に何かを抱えている。
(あれは……椛さんに、にとりさん?)
ナキの背が低いので確かめるのに苦労したが、二人とも見知った人物であった。両方とも警備兵のような厳粛な表情でまっすぐに立ち、嫌が応にも大天狗のそばで緊張しているのが見てとれた。特ににとりは大天狗の膝上ていどの背丈しかないので恐怖しているようにすら見えた。
その印象はあながち間違いでもないらしく、にとりは伏し目がちにぎゅうっと自分の体を抱いて縮こまっていた。その時、腕の中にある一抱えほどの器具が、重たく硬いものなのだと分かった。ナキの目からは細かい形状は分からないが、円形の環のついた大きい金具が茶色く塗られ、心なしかものものしい物に見えた。
「うおっほん」
ナキが謎の器具を見て首をかしげていると、大天狗が大きく咳払いをする。そして場内の部下たちを改めて眺め回し、低い声で話し始める。
「知っている者もおると思うが、昨日山中に熊が出現した。よってこの犬走 椛を隊長とし、討伐隊を組織する。名前を呼ばれた者、前へ」
熊の話題が出たとたん、場内にすぅっと緊張が走る。いよいよ命をかける討伐隊のメンバーが発表されるのだ。部下の何人かが震えだし、表情を引きつらせるのもかまわず大天狗は冷徹な調子で名前を呼び出した。
「まず、
「……はっ」
「アネ」
「は、はいっ」
「モネ」
「はっ!」
一人一人が呼ばれる度に壇上に上がっていく。緊張している者、怖がっている者、使命感に燃える者……。顔色と佇まいでさまざまな心境がかいま見える。そうして男女混合の二十名ほどの名が読み上げられた。やはり、ナキはその中に入っていない。
「以上だ」そう大天狗が告げてから、安堵と諦めのため息が入り交じってこだました。これでメンバーは決まった。あとは椛との作戦会議に入るだけ……。
と思われたのだが。
「加えて、今回はもう一つ言っておく事がある」
大天狗の一言で、気を抜きかけた者たちが緊張を取り戻す。大天狗が隣に目で合図すると、にとりは抱えていた重そうな器具を高々とかかげる。しかし結局支えられずに、よろけたところを椛があわてて横から手を添えた。
「これはトラバサミという罠だ」
トラバサミ、その聞きなれない言葉に部下たちがざわつく。それを上回る大声で、大天狗は更に続けた。
「これが最近になって大量に幻想入りしてきてな……。現在使っている仕掛け弓の罠などと比べて、段違いの威力が期待できる。どれ」
大天狗は隣の二人組に命じてトラバサミを壇上に置かせる。円形の環が上を向く形だ。場内の皆が固唾を呑んで見守る中、大天狗は前もって用意していた角材を懐から出すと、勢いよくトラバサミの環の中心へ突き入れた。
その瞬間、環が半分ずつ弾かれたように持ち上がり、獣の口のように中心の角材へ噛みついた。硬いものがぶつかり合う強烈な音が場内に反響し、大天狗以外がとっさに耳をふさぐ。
一方、大天狗は平然として挟まれた角材を引き抜きにかかる。トラバサミを足で押さえつけ、根が張ったかのように動かない角材を引っ張った。しばらく左右にひねったりして、しまいには軋むような音を立てて挟まれた部分から先が引きちぎられる。角材の断面は本当に牙で噛み裂かれたような形になっており、環に刃の類いがついているのが容易に想像できた。
大天狗はあわれな姿となった角材をかかげ、断面を自慢げに見せつける。場内の天狗が何人か感嘆の声をあげた。
「と、いう訳だ。今回は河童のアドバイスを聞いて試験的に取り入れようと思う」
そう言って角材をポイと放り出し、大天狗は最後に大きな声を張り上げた。
「では、討伐隊のメンバーはこの後、会議室へ集合すること! 残りは仕事に戻れ! ただし、縄の張ってある場所には熊が出るから近づくなよ! では、解散!!」
矢継ぎ早の指示の後、大天狗は椛とにとり、他の討伐隊のメンバーを引き連れ、舞台わきの出口から大股に退場する。それを見届けた部下たちは、いまだ緊張が残る面持ちでぎこちなく集会場を後にする。その中で、ナキがただ一人、仲間たちの間をすり抜けて早足に外へ飛び出した。
(椛さん……!)
廊下をバタバタと音を立てて走る。足は自然と大天狗の言った会議室へと向かっていた。自分でもよく分からない焦りを感じながら、息を切らして駆けつける。
彼が会議室を目にした時、ちょうど椛が障子戸に手をかけて閉めようとしているところだった。ナキは反射的に椛へ声をかける。
「椛さん!」
「ん? ……ナキ、どうしたんです?」
椛はナキの姿を見て、驚いたようであった。息を弾ませていたナキは、尋ねられてふと答えに窮した。言われてみれば特段用がある訳でもない。
「え……その」
口ごもり、目を伏せた。はて、自分は何を気にしたのだろう、と考えて、思い当たったのは先ほど見たトラバサミの事であった。協力な威力を目の当たりにして、何故だか危ない予感がしていた。しかし、今ここであやふやな予感など話しても何になろう。
椛はナキが何も言わないので、戸を開けたまま眉をしかめている。お気をつけて、とでも言っておこうとナキが顔を上げて口を開いた、その時。
「おい椛、何をしている。お前がいないと始まらな……」
椛の背後から、大天狗がのっそりと顔を出した。顔を上げた直後に目が合い、ナキは思わず固まってしまう。
思い出すのはいつぞやの、イジメを訴えた日の態度。お前ごとき半妖に手はかけられんと面と向かって言われた記憶が蘇り、自然と険しい表情になってしまう。
しかし、その顔を見た大天狗は、意外にも口角を上げ、気安い口調でこう言った。
「なんだ、お前か。隊長が心配で来たのかな?」
「なっ!?」
「へ?」
いとも簡単に本心を見抜かれ、冷酷なイメージとのギャップと合わせて二重に驚いてしまうナキ。やはり何度もイジメを気にかけている者を見れば何かしら感ずるのだろうか。一方で椛は全く思い当たらなかったのか、キョトンと首をかしげていた。
そんな二人の反応が面白かったのか、大天狗はワハハと大げさに笑う。
「なぁに、気にする事はない。椛は何度も熊を相手にしてきた歴戦の勇士だ。なあ?」
「あ、はい……まあ」
背中を強く叩いてくる大天狗に、椛は怪訝な顔をしながら少し遠ざかる。彼女も急に陽気になった大天狗を妙に思ったのだろう。椛は苦笑いをしながらナキに目で合図し、戸を閉めようとする。そこで大天狗はナキを見ながら三日月のような笑みを浮かべ、最後にこう言った。
「まあ大丈夫さ。なんならこれから、椛の仕事も減っていくだろう」
「? それってどういう……」
意味深な台詞を吐く大天狗の顔に一瞬、ずる賢いような影がにじんだ。ナキが口を挟もうとしたが、一瞬早く障子戸は閉められる。
「あ……」
後には、釈然としない表情で廊下に立ち尽くすナキが残った。
――
「……今日も誰も来ないな……」
それから数日後、ナキは今までのような見回りは行わず、ふもとの山道の入り口に立ち、気をつけをしたまま突っ立っていた。上空ではスズメが呑気そうに鳴いている。
討伐隊が組まれてから、椛たちは例のトラバサミを設置し、山中を丹念に捜索して危険な妖獣を探しだそうとしていた。しかし敵もさながら用心深いもので、なかなか姿を見せない。他の天狗たちも熊が最初に目撃された、縄の張られた場所を避けて見回りをしていたのだが、せいぜい足跡が見つかる程度だった。
そうなってくると、やはり人手がいる……のだが、ナキはここ数日間、ずっと今のように山道を見張っていた。理由は椛曰く『顔や臭いを覚えられているかもしれないから(熊の嗅覚は犬以上に鋭い)』だそうだが、実際はやはり弱いからである。
「ふぅ……」
耐えきれずにナキはとうとうため息をついた。妖怪の山は元々閉鎖的で来客も少なく、ナキの傍らには
『熊の目撃情報あり。立ち入りを禁ず』
と書かれた看板があり、背後には縄が張られている。
つまりナキに課された仕事とは元々少ない来客の中で、立ち入り禁止を命じられてもなお山に入りたがるような者を追い返す……というえらく限定的な、早い話が退屈なものであった。
皆が熊の事でピリピリとしているのに不謹慎だと思いつつも、ナキはソワソワと空を見上げた。すると、あちこちを見渡していた彼の目に、近づいてくる二人の人影が見えた。
「ナキく~ん!」
一人がよく通る声で名前を呼びながらナキの目前に降り立つ。カメラを携えた烏天狗の少女、射命丸 文である。その少し後ろに降り立った小柄な河童は、河城 にとり。熊の騒ぎで緊張している山の社会にあって、文はいつも通り気安い笑みを浮かべている。にとりはそれを全く真似せずに相変わらず無愛想な顔をしていた。
「こんにちは」
「ちょっとお久しぶりですね。元気でした?」
「ええまあ、変わりありません」
遠慮せずに軽いステップで距離を詰めてくる文に、ナキは社交辞令の笑みを返す。かれこれ入り口での見張りを数日間、一人で続けたせいで、笑顔が若干ぎこちなくなっていた。すると、にとりが文の背後から顔を出し、言った。
「あれから何事もなかったかい?」
「へ? ええ。なにせ、ほとんどここには誰も来ませんから」
たはは、と笑いながら答えるナキ。しかし、バツが悪そうに曇っているにとりの表情にふと気付き、首をかしげる。にとりは一瞬口ごもり、ツインテールの片方を言いにくそうに弄りながら口を開いた。
「いや……悪かったね。できればすぐ行きたかったんだけど、なんせ忙しくてさ」
「……あ、気にしないでいいですよ。大事件ですもん」
にとりが不義理を恥じているのだと気付き、ナキは首をブンブンと横に振る。彼はそんな事を気にするどころか、珍しく同僚に騒がれただけで頭がいっぱいになっていたのだ。普段は大体一人でいるので、感覚が少しズレているのかもしれない。
「私もできればすぐインタビューしたかったんですけどねー。さすがに呑気に新聞を作る雰囲気ではなく……」
一方で自分の都合を恥ずかしげもなく語る文。にとりが横で呆れた目をしていた。
「や、やっぱり皆さん大変ですよね! 毎回、山総出で騒ぎになっちゃって」
落差のある表情をしている二人に、ナキがあわててねぎらいの言葉をかける。当のナキの仕事は退屈極まりなかったのだがそれは横に置き、彼は続ける。
「あの……トラバサミでしたっけ? あれの調整もしなきゃいけないでしょうし」
そう言って、ナキはにとりへと視線を向けた。なんてことない世間話のつもりだった。が、どういう訳かにとりはトラバサミの名を聞いた瞬間、どこか苦い表情をした。眉を寄せて視線をそらすにとりに、ナキはふと言葉を切る。
「……あ、すみません。何かまずい事言っちゃいました?」
「ん? ああいや……そうじゃないんだけどさ」
焦って謝るナキに苦笑いし、にとりは歯切れ悪く手を振る。そして一瞬沈黙し、ぽつりとこう口にした。
「トラバサミ……あの罠は幻想入りした物だって、大天狗が言ったろ」
「? ええ、言ってましたね」
「あれ、なんで幻想入りしたんだか知ってるかい」
にとりの声が存外低く深刻だったので、ナキは思わずたじろいだ。視線を左右に何度か泳がせて、「さあ……?」と答えると、にとりは険しい顔で言った。
「狩りに使うのが禁止されたんだよ。外の世界でね」
「禁止?」
「色々問題が多くてね」
ナキの眉がやにわにくねる。へらへら笑っていた文もいつの間にか、神妙な顔をしていた。
ナキの目を見上げながら、にとりは続ける。
「あの威力を見たろ? 獲物がかかるとちょっとやそっとでは外れない。罠の主が来るまで、ずっと足をギリギリ締め付けるんだ」
「……!」
以前の、あの角材を掴まえた姿を思いだし、ナキは唾をごくりと呑み込んだ。
「仕掛けた奴が忘れたりしたら、下手すりゃ獲物はそのまま死んじゃう。もっと酷いのは、人がかかった時だ」
「人が……!?」
「あるんだよ。そんな話がゴロゴロ。目印をつけても、うっかりってものがある。なんせ踏んだだけで発動するんだから」
実際に戦争でも使われたんだぜ、などと吐き捨てて笑うにとり。ナキはもう顔面蒼白であった。今まで入り口を見張るばかりで意識しなかったが、改めて危険性を教えられると悪い想像がそぞろに浮かんでくる。
もし椛が怪我で膝から下を無くしたりしたら……。
たまらずに、ナキはすがるような声で言った。
「で、でも! 大天狗様はあんな自信満々に発表して……。椛さんも、忙しくなくなるかもって……!」
「さあ、それはよく知らない。なにしろ急だったんだよ。危ないって言っても導入するの一点張りで、改造もさせてくれなかった」
ナキの必死さとは対照的に、にとりは静かにいきさつを打ち明ける。いつしか悔しそうに唇をかみ、苛立ち混じりに首を横に振った。
「本当に、何をあんなに急いだんだか……」
ため息と共ににとりがそう溢したところで、不意に文が彼女の肩をトン、と叩く。
「ん?」
「にとり、そろそろ行かないと。休憩が終わっちゃいます」
振り向いたにとりの目には、いつものふざけた態度と大違いの、真面目な文の顔があった。にとりが戸惑っていると文はその手を引いて、空へと飛び上がった。
「私たちそろそろ行きますね! ふもととはいえ、油断しないでください!」
「あ、はい! そちらこそお気をつけて!」
空高く上がりながら、文は普段の笑顔に戻って手を振った。ナキもその姿を見上げながら挨拶を返す。にとりは引っ張られるような格好になりながら、文の表情をなんとか見ようとしていた。
二人はその格好のまま、長いことまっすぐ山頂が間近に迫ってくるところまで飛んでいた。にとりは手を離して、眉をしかめながらこう尋ねた。
「どうしたんだい。急に離れちゃって」
文は厳しい顔で見返し、叱るように言った。
「仕方ないでしょう。あなた、ナキ君の真っ青になった顔を見なかったんですか」
「……あ……」
それを聞いて、にとりはやっと、はたと気づいたように目を伏せた。罠の危険性を知れば知るほど、ナキが椛や仲間を心配するようになるという図式に気づいたのだ。
「機械に詳しいのはいいですけど、無駄に不安がらせてどうするんです」
「……ん、ごめん」
素っ気ない返事をしながら、にとりはしょんぼりと肩を落とす。文はため息をついて前に向き直り、しばらく無言でいた。
二人とも何もしゃべらずノロノロと飛び、山頂の神社を素通りした辺りで、ぼそり、と文が独り言のようにつぶやいた。
「……でも、妙ですね」
「は?」
「あの新しい罠に関する、色々な動きですよ」
ポカンとするにとりの前で急に止まり、文は思案深げな顔で振り返る。その目には疑惑を追求する記者らしい、鋭い光が宿っていた。一方で、要領がつかめずにいるにとりはその視線に
文は、そんなにとりに一つ、こう尋ねる。
「にとり。トラバサミは大天狗が急に導入したと、確か言いましたね」
「うん。それが?」
「当然、
「ああもちろん。なんだったら椛と一緒に会議した時も、最低限には聞いてるよ。……反対する奴も出たけど、結局押し切られちゃった」
急に念押しするように問いただしてくる文に戸惑いつつ、にとりは記憶をたどり答えていく。文は顎に手を当て、ちらと宙をにらんだ。
「それはいわばゴリ押しですよね……。一体、あの禁止された罠を何故そこまで……」
「相手が妖獣だからじゃないの? 『新しい武器が必要だ』って言ってたよ」
「それにしたって性急すぎますよ。危険性にわざわざ目をつぶってまでトラバサミを使うのが分からないんです」
文は納得しない様子で返した。そうされるとにとりも考えない訳にいかなくなってくるが、その目にひらめきの光は見えない。
「んー、そう言われると怪しい気もするけどさぁ、逆に大天狗様がなんか企む理由とかあるのかな?」
にとりは肩をすくめて問い返した。内心では、さしずめ記者の性分で勘ぐりすぎているだけだろう、と深く考えずにいた。
一方で文は腕組みをして、新聞のネタに困った時のようにじっと考え込んでいる。頭の中ではすでに様々な推測が浮かぶ。大天狗が罠マニアでリスキーなトラップを愛好している……という発想を却下した直後、彼女はある事を思い出した。
「そうだ。にとり、ナキ君の台詞を覚えてます?」
「は? ……台詞って」
「『椛さんも忙しくなくなるかも』って」
文は鋭い目をしてにとりに詰めより、強い調子で確認する。「それがどうかしたの?」といぶかしむにとりへ、苦い顔をして言った。
「……もしかしたら、彼は椛の権威を削ろうとしているのでは、と思うんです。『忙しくなくなる』というのはそんな意味かと」
「はぁ?」
にとりは眉をはね上げ、文の目を凝視する。しかし突拍子もない事を言い出した記者の目は真剣だった。
「待って待って。なんだってそんな話になるのさ」
「以前に話しましたよね。大天狗はナキ君のイジメに無関心でいると。椛は前々から大天狗にイジメを訴え、その度に無視していた……。鬱陶しく思うのも無理はありません。動機は十分です」
「いやそうじゃなくて、なんで罠が椛の権威に繋がるの」
にとりは今一つ呑み込めないという風に額を押さえながら尋ねる。文は人差し指を立てて、心なしか声をひそめて話し出した。
「考えてもみてください。今まで白狼部隊が伝統的に害獣を仕留めてきたのを、幻想入りした現代の罠で戦果をあげられれば……」
「……みんな、現代の道具に惹かれだす、かい?」
「それだけとは限りません。宣伝次第では、『椛たちは頼りない』と印象操作もできるでしょう。新しい技術ってのはセンセーショナルですから」
文の真に迫った語り口を聞くうちに、にとりもそんな気がしてくる。新しい機械を作っても、最初の印象次第で扱いが全く違ってくるなんて経験は何度かあった。
「第一、わざわざ『忙しくなくなるかも』なんて気遣いだすのも不自然な気がするんですよね。椛の話す印象からして」
「ふーむ……」
にとりもだんだんと神妙な顔つきになり、アゴを撫でつつ考え出した。文の話も説得力がない訳ではない。しかし、だとしたらずいぶんと横暴な真似をしてくれたものだ。熊の騒ぎにかこつけ、さもしい計略のためにリスキーな道具を無理に使わせる。使い方をていねいに教える暇もなかった。
雑な扱い方をして事故が起きる……。日頃機械をいじっているにとりからすれば、決して縁遠い事ではなかった。
「まあ、今のところは私の勝手な推測ですけどね。大天狗に聞いた訳でもなし」
文は気まずい雰囲気を打ち消すようにそう言った。しかし、笑顔にはいまだ不安そうな色が残っている。
「結局、今一番気にすべきは……」
「……椛たちの無事?」
「ええ、熊もそうですが……事故の方も」
文はさびしい笑みを浮かべながら下に目をやった。視線の先には、妖怪の山がふもとに向けて形作るなだらかな裾野があった。
「なんにせよ早く決着してほしいですよ。一体、山のどこにいるのやら」
――
「血の臭いが続いています。こっちに間違いありません」
「分かりました。皆さん、気を抜かずについて来てください」
ちょうどその頃。くしくも文が見つめていた裾野の辺りで、列をなして獣道を歩く椛と討伐隊メンバーの姿があった。何日もかけてようやく目標の熊らしき痕跡を見つけ、椛の顔は緊迫し、いつもに増して厳しい目つきをしていた。
「ようやく見つけたか……。今度こそ確かなんですよね?」
「もう私、あちこちに罠しかけまくるの飽きたよぉ~」
後ろを歩く部下の何名かが疲労といら立ちの混じった声をあげた。椛は振り返り、きつく叱りつける。
「余計な私語はやめなさい! 熊をしとめるまで安心はできないんですよ」
そして、腰に手を当ててこう付け加えた。
「そうやって気を抜いて、罠にかかっても知らないですからね」
「トラバサミでしょ? それなら目印があるじゃないですか」
「木に赤い布が巻いてあるんですよね。ちゃんと覚えてますよ!」
「……はぁ……」
他の隊員にたしなめられ、ようやくお喋りはなくなった。椛は改めて部下たちに合図をし、道を進んでいく。草が踏みならされただけの道を歩いていると、やがて視界に赤い布が巻かれた木が映った。根本に罠があるという目印である。しかし、そこに獲物の姿はない。
「……熊がいない?」
「おかしいですね。確かに足跡も血の臭いも続いていたのですが」
隊員の一人が眉をしかめる。椛は部下たちに武器をかまえておくように言い、ゆっくり罠へと近づいていった。周りを取り囲む茂みをかき分ける音を、極力おさえながら。
やがて間近に来て、椛はそろそろと屈んで目を凝らす。木の根を隠すように生い茂る雑草の隙間に、あのトラバサミの金具が見えた。しかし、罠は仕掛けた時の姿とは違って見えた。
「これは……」
椛はごくりと唾を呑む。トラバサミの環が閉じている。誰かが罠を踏んだ証拠。そして、その閉じた環の中には、もう一つの証拠が残っていた。
長く鋭い爪を持つ、毛むくじゃらのたくましい手。あの忘れもしない妖獣の手が、手首から先だけの状態になって環に挟まれていた。閉じた環がしめつけている部分の少し上で、赤黒い生々しい傷口が乾いた状態でさらされている。
(……自分で片腕を引きちぎったんだ……。罠から逃れるために、わざと)
椛は直感的に推察し、同時に冷や汗をかいた。罠にかかり、そして逃れた他ならぬあの熊が、まだどこかにいる。
そして、熊ほどの――妖獣化したならなおのこと――知恵があれば、感づいてもおかしくないだろう。この見慣れぬ罠をしかけて自分を傷つけた連中、あるいはその同類が、この辺りに現れると。
「皆さん、気をつけて!」
椛は部下たちへと振り向き、めいっぱいの声を張り上げた。しかし、椛の見たものを知らない二十名ほどの隊員は、その焦りに一瞬だけ、戸惑いの色を浮かべた。
その一瞬、最後尾にいた隊員は気づいていなかった。すぐそばの背の高い茂みの中から、二つの目が覗いたのを。
その目は残忍に光り、目の前の隊員を見据えていた。刹那、その目が茂みの陰の中で踊った。続いて草木をなぎ倒すやかましい音がいくつも響き、驚いて振り向いた隊員に、地鳴りのような恐ろしい咆哮と、覆い被さるような巨大な影が降りかかった。
「ぎゃあああぁぁあーーーっ!!!」
目に映るものを理解する前に放たれた隊員の悲鳴は、山全体に響き渡った。
熊が、出たのだ。