「ぎゃあああぁぁあーーーっ!!!」
山中に響く悲鳴。その絶望のこもった叫び声は山の全体に緊張を走らせ、前方に固まっていた討伐隊の全員が即座に振り返ったほどだった。
そして彼らの目に映ったのは、最後尾にいた隊員の目の前でまさに襲いかかろうと牙をむいた熊の姿だった。
「あ、危――」
驚いたある隊員はそう言いかけ、口をパクパクと震わせた。いかに訓練を積んだ妖怪でも、予想だにしない襲撃に際しとっさに動けるとは限らない。仲間の目前に敵がいる。叫んでも遅い。走り出しても間に合わないかもしれない。そんな微かな迷いが何倍もの焦りを生み、判断を鈍らせる。
何人もの隊員が同じように、熊の姿を前に体を硬直させていた。嫌が応にも見開かれる両目だけが、踊りかかる熊と呆然と立ち尽くす隊員の姿をスローモーションに追っていた。
その視界に一閃。矢のような光が走り、熊の鼻先にぶつかって弾けた。固まっていた白狼天狗たちがハッと我に返り、辺りを見回す。
すると、屈んだ状態で熊に手のひらを突きだす椛の姿があった。妖力を込めた弾を間一髪、熊にぶつけたのだ。
「グオォッ!」
熊は横からの不意打ちに怯み、うなって両手で鼻先を押さえた。忌々しげに頭を振り回す熊を見ながら、やっと呼吸を思い出す部下たちに向けて、椛は間髪入れずに叫んだ。
「何をぼさっとしているんです! さっさと構えて! 奴を囲みなさい!!」
「は、はいっ!」
椛の一喝に隊員たちは一斉に熊をにらみ、剣を向けて取り囲む。彼らの顔には一様に汗がにじんでいた。
一方、熊はそんな二十そこらのやせ狼たちを敵意たっぷりの目でにらみ返し、身体中に力をみなぎらせる。低く濁ったうなり声が、椛以外の討伐隊のメンバーには死神が忍び寄る音に聞こえていた。
その頃、上空にいた文とにとりも山中であがった悲鳴を聞きつけていた。二人は素早く顔を見合せ、次にその悲鳴の出所……すぐ真下のなだらかな裾野を見る。にとりが眉にシワを寄せて目をしばたかせる隣で、文がじっとオレンジ色になった木々の、その隙間を針に糸を通す時のように凝視していた
するとだしぬけに文はにとりへ振り向き、微笑みながら言った。
「私、ちょっと行ってきますね。にとりは念のため来ないでおいてください」
「え、ちょ……」
にとりが止める間もなく、文はほとんど落ちるような角度で悲鳴があがった
場所へ飛んでいった。にとりは内心で熊が出たのだと直感して身をすくませていたが、やがて意を決したような顔になると、すでに小さくなった文の姿を追いかけだした。
「ま、待ってよ文! 私も行くよ、行くったら!!」
そして別の場所でも同じ頃、悲鳴を聞きつけて動揺している者がいた。山のふもとで見張りをしていたナキである。彼も白狼の人間離れした聴力でもって、はるか遠くの悲鳴を聞き取っていた。
「……まさか、熊が……」
ナキはかすれた声をあげながら背後の山を振り返る。自分が一瞬けし粒か何かのように思えてしまうほど巨大な山のどこかで、何かが起きているのだ。
すぐに熊と討伐隊の事が思い浮かんだ。熊を探して不意打ちを食らい、やられたのかもしれない。そうでなくとも深刻な事態に……。
ナキの頭の中では、先ほどにとりから聞いた話のせいか、熊に加えてトラバサミで事故にあう想像まで、そぞろに浮かんできてしまっていた。討伐隊の誰かが罠にかかってしまったのかもしれない。それによって足止めを食らい、熊に出くわしてしまうかもしれない。
もしかしたら、椛本人が……。
悪い想像が次々と膨らみ、いても立ってもいられなくなる。そもそも見張りの仕事がある、飛べない自分では駆けつけるまで時間がかかる、行っても何ができるか分からない……。踏みとどまる理由はいくつもあったが、ナキはどうしても、今見過ごせば激しく後悔するような、そんな予感がしていた。
ついにナキはくるりと山へ向き直って目の前の登山道をにらむと、一直線に駆け出した。走るその先に、凄惨な光景が広がってない事を祈りながら。
――
「せやあーーっ!」
「んにゃろうがぁっ!!」
二人の白狼天狗が、左右から熊へと斬りかかる。天狗の使う大振りな刀を振り下ろし、熊の横腹と肩に傷をつける。
「ガアウッ!!」
鮮血がほとばしり、熊が吠える。しかしすぐさま腕を振り回し、天狗へと反撃する。
「うわっ!」
左右にいた二人はとっさに飛び退き、熊の攻撃範囲から逃れる。その動きはほとんど反射的で、余裕がないものだった。熊の片腕が木にぶつかり、幹の方を真っ二つにする。
「くっ……まだ倒れないか……」
椛は剣を構えて遠巻きに熊を見ながらつぶやいた。その剣にはすでに血がまんべんなく付いていたが、熊は身体中に大小さまざまな傷を負いつつ、まだ怒りを目に宿しながら椛を見据えた。
最初に隊員が悲鳴をあげてから三十分あまり。討伐隊のメンバーはいまだに戦闘を続けていた。死者こそ出ていないものの、皆めいめい服が破け、肌にいくつも爪痕が残り、今にも膝から崩れ落ちそうになっている。彼らを奮い立たせているのは白狼天狗としてのプライドと、倒れればたちまち殺されてしまうという恐怖だけであった。
「……文さん、すみませんがもう一度援護を!」
「了解です、皆さん離れて!!」
そんな過酷な状況にあって、椛はどこからかやって来た二人の乱入者にまで協力を求めざるを得なくなった。文とにとりである。椛も最初は追い返そうとしたのだが、熊のしぶとさに苦戦するうち、手助けしたいという二人の申し出をなし崩しに受けたのだった。
「せいやあっ!!」
文がかけ声と共に、右手の紅葉型の扇を一振りした。その瞬間、一陣の風が吹き荒れ熊を直撃する。熊がわずかにひるみ、顔を逸らした瞬間に、文が叫んだ。
「今です、撃って!!」
その声に呼応して、熊の周囲を囲んでいた白狼天狗たちが一斉に妖力の弾幕を張る。色とりどりの光の弾が横向きの
四方八方から襲い来る弾幕に熊は身を縮め、怒りに顔をゆがめた。逃げ場もなく、腕で顔をかばう。
相手が動かなくなった隙に、続けて椛が大剣を構えて走り出した。飛び交う弾幕をジャンプで飛び越え、十メートル以上離れた熊へと、空高くから剣を振り上げ一気に迫る。
「はあぁっ!!」
かけ声と共に、真上から頭に向けて、両手で剣を振り下ろす。しかし、熊は素早く振り向くと、腕を突き上げ、向かってくる刃を手の甲で受け止めた。
「ぐ……うぅ!」
刃を伝って手に重い衝撃が伝わる。椛は眼下の熊とにらみ合いながら必死に剣を食い込ませようとしたが、いかんせん飛んでいた状態のため踏みしめる足場がなく、思うように力が入らない。ギシギシと生々しい音を立てながら膠着状態を続けていると、熊が突然立ちあがり、もう片方の腕を椛へと振り回した。
シュリッ、と刃が爪を滑る音がした瞬間、がら空きだった椛の腹にフルスイングの熊の腕が食い込む。
「ぐあっ!」
椛は剣を手放してあえなく吹っ飛んでしまった。文とにとりが駆け出し、とっさに受け止めたが、椛は二人の腕の中で力なくうなだれる。
「椛!」
「だ、大丈夫かい!?」
「な……なんとか」
絞り出すような声で答えながら、椛は立ち上がる。膝が笑い、殴られた腹は鈍く痛む。
しかし、幸いな事に血は出ていなかった。殴った手は、あの罠にかかって爪先を引きちぎった方だったのだ。
椛がかすんだ目で前を見ると、部下たちが熊を必死に弾幕で足止めしているところだった。熊も片手を失っているせいか二十人分の弾幕をかいくぐれはしなかった。文とにとりもその輪に加わり、少しずつ相手は動きを鈍らせていく。
椛は、手放してしまった剣を拾おうと必死に体を引きずった。
いま熊と戦っているこの場所は、ふもとにほど近い裾野である。仮に熊が逃げ出してしまえば、山の外へ向かって被害を拡大させる恐れがある。したがって確実にとどめを刺さなければならない。
戦っているうちに、もう最初に見つかった場所からずいぶんと移動してしまっていた。戦闘が長引けばそれだけ部下は疲弊していくのだ。
「けほっ、はぁっ、はぁっ……!」
「にとり! 大丈夫!?」
「くそっ……水さえあれば……」
ついににとりが力尽き、その場にしゃがみこんでしまう。逃がす訳にいかない分、ただ攻撃するよりさらに体力を消耗する。
そんな現状に業を煮やしてか、隊員の一人が仲間の輪から外れ、剣を構えて飛び出した。
「ええい、奴は右手を怪我してんだ! そっちから仕留めてやる!!」
「っバカ! やめなさい!」
森林沿いを大きく回り込んで熊へと走る部下を、椛はあわてて止める。彼女は見ていたのだ。部下が走るすぐ先の木の一本に
部下は全く気づかずに、熊ばかりを見ている。そして瞬く間に、あと一歩で罠を踏むというギリギリのところまで来た。間に合わないと知りながらも椛が駆け出す。その時熊が、自分に向かいつつある白狼天狗と、遠くで走り出した椛に気づいた。そして次の瞬間。
「うわっ!?」
熊へと向かっていた隊員が、驚きの声をあげる。
変化は思わぬ所から現れた。今まさに罠を踏もうとしていた隊員の足元が、急に柱が生えたかのように罠と一緒に飛び出したのだ。隊員はだしぬけに膝元に浮かんできた罠に目を丸くし、つんのめって尻餅をついた。
椛は突然の出来事に一瞬眉をしかめ、ハッとして後ろを振り向いた。あの土が変形する現象には覚えがあった。
「げほっ、けほ……うぅ……」
案の定――獣道の向こうには、咳き込んでよろめきながら近づいてくるナキの姿があった。見張っていた山のふもとから一直線に向かってきたのだろうか。遠くから見ても分かるほど疲労困憊の状態であった。
「ナキ!?」
椛は驚きと焦りが入り交じった表情で彼を見ながら叫ぶ。まさか戦いについていけないだろうと置いていかれたナキが、熊に殺されかねないこの場に出て来るとは思わなかったのだろう。
しかし、反射的に駆け寄ろうとした椛に、次の危険が襲いかかる。
「ゴアアァッ!!」
熊がうなり、白狼天狗の包囲を破って猛然と椛に向かって駆け出した。多数で一斉にしかけてくる敵を厄介だと考えた熊は、ただ一人背を向けた椛を隙ありとばかりに狙ったのだ。
「くっ!」
椛はとっさに剣を取ったが、熊はもう目前まで来てしまっていた。二倍以上もある体格、弾丸のような速さ。このまま臨戦態勢を取っても間に合わない。椛が脳裏でそう考えた時。
今度は、何かが頭上を飛来し、熊へと向かう。そしてそれが熊の肩に突き刺さった時、椛はそれが何であるか理解した。
それは長く薄い、きらめく刃を持つ剣だった。ナキだけが使っていた、細身の軽い剣。突然刃物が刺さった熊は、動揺して立ち上がり、肩口の目障りな武器を抜こうとする。
その隙に椛が飛び出した。大剣を前へと突きだし、体ごと飛び込むようにして、立ち上がった熊の胴体に突き刺した。
重い感触がして、剣先が腹を突き抜ける。熊が喉まで血を昇らせながら、悲痛な怒りの声をあげた。
椛は微動だにせず地面を踏みしめ、熊の体を押し続けた。それに反発する力が、だんだんと弱くなってくる。腹から大剣を伝い、椛の手と袖、そして胸から下は血で真っ赤に染まっていた。
やがて、熊の体がぐらりと揺れる。引っ張られるような、力ない動きだった。そして岩が崩れるような音を立てて、熊はその場に体を横たえた。
しばらく、静寂がその場を支配する。次第に一人、また一人が緊張の糸を緩ませ、顔を見合わせる。そして、一人がぎこちない笑みを浮かべて言った。
「終わったの……かな」
「うん! やったんだよ俺たち!」
「よっしゃー! 生きてるぞ僕ら!!」
「よかったぁ~! 怖かったよぉ~」
隊員たちは次々に安堵の息をつき、そして笑い合う。椛はそんな部下たちを一瞥し、正反対の方向へと歩いていく。その先には、座り込んで肩で息をしているナキがいた。
「ナキ、怪我はありませんか?」
「……はい、椛さ……は……?」
「私は平気です。それより……」
何故ここに、と聞こうとして椛は口をつぐんだ。文とにとりが横から割り込んできたのだ。
「お疲れ様ですー椛! いやぁ危ないところでしたねー」
「……まあ、今回は礼を言います」
「私はあまり役に立ってないけどね……」
白い歯を見せ、椛へと肩を組む文と、その横で卑屈な笑みを浮かべるにとり。椛はそんな二人を見ながら、呆れたような笑みを見せる。
そして、少し顔を曇らせ、今度はナキの方を見た。文とにとりもつられて振り向き、はたと目をしばたかせる。
ナキは膝を抱え、伏し目がちになって黙りこんでいた。腕の中からわずかに見える目が、微かにきらめいている。
「な、ナキ君?」
「ど、どうした? 泣いてんの?」
二人はあわててナキに声をかける。ナキはふるふると首を横に振り、ゆっくりと立ち上がって熊へと歩いていった。
すぐ近くではたくさんの同僚たちが健闘をたたえ、勝利の余韻を分かち合っている。ナキはその喧騒をよそに、仰向けに倒れて動かない熊を見つめていた。自身と椛、二つの剣が突き刺さった死体を。
うつむいて、ただその場にじっとたたずむナキ。椛が静かにその横に立ち、背中をポンポンと叩く。
「ナキのおかげで、私たちは助かったんですよ。あなたは良いことをしたんです」
「でも……」
「誰かがやらなきゃいけなかったんです。たとえ責める者がいても、私は許します。ほら、胸を張りなさい」
「……うっ……ひぐ……」
静かに、しかし堂々とした声ではげまされ、ナキは肩を震わせて涙を流し始めた。狂暴な妖獣とはいえ、生き物を傷つけ殺してしまうのは、彼にとって荷が重く、悲しいものだった。
にとりは二人の背中をしんみりした表情でながめていた。すると文が早足で二人の横から回り込み、熊をじっと見る。そしてカメラを取り出すと、平然とした顔でシャッターを押す。
「おい文、何してんだい……」
その雰囲気も何も気にしない行動ににとりが駆け寄りあきれ返る。しかし、文は素知らぬ風に笑みを浮かべると、唐突にこんな事を言い出した。
「にとり。私まだ撮りたいものがあるんで、行ってきますね」
「は、はぁ? ちょっと!?」
にとりが止める間もなく、文は風を吹き上げ飛び去っていった。もう夕暮れに近い空を飛びながら文はカメラを手に、一人でこうつぶやいた。
「大天狗の事……今はまだ話さない方がいいですかね。変に企みとか疑うほど、あの二人は融通が利かなさそうですし」
そんな事を考えて文がクスクス笑っている頃、椛はちょうどこんな説教をしているところだった。
「ナキ、あなた、入り口の見張りを放り出してきましたね?」
「ごめんなさい……。でも……皆が心配で」
「三日間、謹慎を命じます。……少し、心を休めなさい」
「……はい」
――
次の日、文が発行する
それを拾った大天狗は、目を見張り、記事を食い入るように見た。そこには他ならぬ自分の事が書かれていたのだ。
『妖怪の山の新型罠で、あわや事故!? 急な導入の弊害』
そんな見出しで、あの
「ちぃ……っ!」
大天狗は果たしてどういう心境からか、読んでいた新聞をグシャグシャと丸め、畳に叩きつけた。
彼に山頂の神社などから苦言が届いたのは、また後の話である。