灰色の狼と白い椛   作:ごぼう大臣

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ナキの決意

「うぅ~……さっむ」

 

 ある日の昼すぎ、今日も今日とて山伏の姿で見回りをしながら、ナキがつぶやいた。

 季節はすでに秋へ突入しようとしていた。紅葉や楓の葉がちらほらと色づきはじめ、風は乾いた冷たいものになりつつある。

 そんな中で、ナキは着物の袖で指を覆い、首を縮めながら山道を進んでいた。

 

「そろそろ上着出そうかなあ、山って麓に比べてどうも寒いんだよね……」

 

 なるべく動きは最小限に、周囲への警戒は視線を巡らせるだけで済ませる。耳は時折立てて音を拾っては、すぐにぺたんと丸めてしまう。寒さというものは体温だけではなく、根気や注意力まで奪ってしまう。

 そんな風に、寒さに気を取られながらちょこちょこと歩いていた時。

 

「わっ!」

 

 ふと足元に目が行ったナキは、あるものに気づきあわてて踏み出しかけた足を戻す。直前に踏みしめようとした地面の上には、パチンコ玉程度の大きさの丸くて茶色いものが、いくつも密集して落ちていた。

 ナキは前屈みになってその物体をしげしげと凝視し、顔をしかめる。

 

「あっぶな~、これ鹿のフンじゃん」

 

 ほっ、と安堵するナキ。妖怪の居場所らしく自然を残している山には、当然妖怪や動物の痕跡があちこちに残っている。時には動物の死骸などが転がっていたりもするのだ。

 ナキもそれらに遭遇した時こそギョっとしてしまうが、長らく同じ場所で生活していれば慣れていくものだ。今では触れたくないものはなるべく避け、死骸は拝んで放っておくようにしていた。

 よくある事、そう割りきれば大抵の事は平気になる。しかし、中には割りきれないような事もある。

 

「いよっす、ナキ!」

 

 前方から声がし、ナキはふっと我に返る。聞きなれた声。しかし快く返事は出来なかった。

 

「……やあ」

 

 一拍おいて顔を上げ、ナキはようやく返事をする。しかしその声は暗く沈み、表情は苦笑いだった。

 目前にいたのはいつもの悪童たちであった。四、五人がそろって、相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべている。

 そのうちの一人がポケットに手を突っ込み肩をゆすりながら、ナキへ近づいてきた。

 

「そう暗い顔するなよ~、まるで俺らに会いたくないみたいじゃ~ん」

 

「い、いや別に、そんな……」

 

 首だけをペンギンのように突きだし、その悪童は卑劣な顔を近づけてくる。ナキは苦笑いしながら顔を逸らし、そろそろと後ずさっていたのだが、ふと悪童の足元にあるものを発見し、あわてて声をあげた。

 

「あ、待って! 来ちゃダメっ!」

 

「あ? なんだ急に……」

 

 突然さけびだしたナキに悪童が怪訝な顔をした瞬間、悪童の足裏にグニュ、とした微妙な弾力ある感触がした。

 

「んぁっ!?」

 

 その感触に直感的に危険なものを感じ、悪童は踏み出した足を引っ込める。そして地面をジッと凝視し、途端にひきつった表情になった。そこにあったのは踏まれて形を変えた、ナキが見つけていた鹿のフンである。

 

「うわ、うわうわうわ! きったねー!!」

 

「……ぶっ、あははは! ウンコじゃんそれー」

 

「ばっかでー、思いっきり踏んでやんの!」

 

 フンを踏んだ悪童は血相変えてあわてだし、靴をそこらの木にすりつけたりして必死に汚れを落とそうとしている。その姿を見て周りの友人たちはそろって大笑いし、ナキは気の毒そうな顔をして黙って様子を眺めていた。

 笑われた悪童は悔しそうにムカムカと歯噛みをし、踏ん張って屈辱に耐えていたが、やがてそれも限界にきたのか、目をつり上げてナキの方を向く。

 

「ナキ! どうしてくれんだ、お前のせいだぞ!!」

 

「え、なんで!?」

 

 遠巻きに見守っていたナキは突如向けられた怒りに戸惑いの声をあげる。だが悪童は知った事かとばかりに八つ当たりの台詞をまくし立てた。

 

「テメェがそんな場所に立ってるからだ! お前が踏んでそのままにしとけば、こんな事にならなかったんだよボケ!!」

 

「そんな無茶な……!」

 

 悪童の気迫に押されながらも弱々しく抗議しようとするナキ。しかし言い終わらない内から悪童はナキに向かってイラ立った形相で駆け出した。他の連中も遊びに加わるような浮かれた顔をして一斉についてくる。

 こうなってしまえば理屈は通じない。ナキは急いで背を向け逃げ出した。

 

「待ちやがれテメェこらぁ!」

 

「おお、はえーはえー!」

 

「ひゃひゃ、災難だ」

 

 後ろで怒声やはやし立てる声が聞こえる。ナキは後先も考えず来た道を逆走し、急な勾配を下っていく。

 実にくだらない言いがかりだと思いつつも、ナキは喉を枯らしながら走った。いじめっ子集団はきっかけさえあれば瞬く間に加害精神を発揮する。

 ナキが足を動かすのに合わせて、背後では複数人の足音がひっきりなしに続いてくる。一向に距離が開く気配がない。

 もういっそ土を操って撒こうか、とナキがちらと考えた時。

 

「あうっ!?」

 

 足元から注意が逸れ、ナキは下っていた勢いそのままに地面に倒れ込んでしまった。膝や肘の痛みにうめいている間に、悪童が次々と追いつき、ナキを押さえつけていく。そして誰からでもなく一斉に、転んだ拍子に汚れた上着へと手をかけた。

 

「へっ! 泥だらけでやんの」

 

「こんなん着ちゃいられねーよなあ?」

 

「お? これにも土がついてんじゃねえの」

 

「それ靴だよぉ!?」

 

 あれよあれよという間にナキは上着と靴を剥ぎ取られる。もがいて後ろを振り返り、「返して」と言おうとした時には、悪童たちはすでに遠くへ離れていた。ナキが涙目で見つめるのを面白がるように、上着や靴を掲げて大はしゃぎしている。

 

「ほーれ、ここだぞ~?」

 

「早くこいよ!」

 

「悔しけりゃ取ってみろ~?」

 

「う、うぅっ……!」

 

 坂道の上から口々に煽られ、ナキはよろよろと立ち上がろうとする。しかし悪童たちがそれを待つわけもなく、ナキの上着と靴を持ったまま空へと浮かび上がってしまう。

 

「あっ……」

 

「ざんねーん、時間切れー」

 

「罰としてこれは俺らが貰いまぁ~っす」

 

「じゃあね~~」

 

 未だ四つん這いになった格好のナキを嘲笑うかのように、悪童たちは空の彼方へ飛び去っていってしまった。枝葉を突き抜けるかすかな音を残して、ナキ一人だけを山道に置き去りにする。

 

「ぐすっ……あうぅ……」

 

 涙と嗚咽が出るのを必死にこらえながら、やっとナキは立ち上がる。足袋(たび)の裏から湿って生暖かい土の感触が伝わり、肌着だけになった上半身には冷たい風が容赦なく当たって全身を震わせる。目の端から流れ出る涙が頬を伝い、なおのこと風を冷たく感じさせる。

 しかし泣いていても物が返ってくる訳がない。ナキは涙を袖で乱暴にぬぐい、不得意な飛行でふらふらと上空へ向かった。

 

「……もう行っちゃったかなぁ……」

 

 山の形が分かる上空に出て、ナキはキョロキョロと辺りを見渡す。しかし悪童たちはすでに別の場所に降りてしまったのか、周りに見えるのは見回り中の同僚たちや飛ぶ鳥だけである。

 

「……すみません、今さっき、着物と靴を持った人たちが通りませんでしたか?」

 

「は? 知らねぇな~。探してみれば~?」

 

「ははは、かわいそーに。寒そう~」

 

 とりあえず手近な烏天狗たちに聞いてみるも、ふざけた顔と口調で知らないと言われるのみ。今まで白狼と烏の両方にいじめられてきたナキのこと、知っていて黙っているのか、本当に知らずにただ困る様子を面白がっているのか……今さら判断はつかなかった。もっとも、嘘じゃないかなどと問い詰める度胸は、はなからナキには無かったが。

 

「もう~……これからすぐ冷えてくるのに~」

 

 ナキはまた半泣きになりながら、山を見下ろしつつ周囲を飛び回って連中の姿を探した。

 山中に入ってしまえば木に隠れて見えなくなってしまう。そして天狗にかかれば、隠れるのは数秒で済む……。上空の強い風に煽られ飛ばされそうになりながら、ナキは『どうかまだ隠れないでいてくれ』と祈って頂上から麓まで何度も探し続けた。

 

 結果は……やはりというか、一人も見つからない。

 

「はぁ……」

 

 ナキは空中でがっくりとうなだれ、風に揺られてしまう。これから靴もなしに、山道を探さねばならないのだ。茂みか、土か水の中か……どこにあるのか見当もつかない。下手をすれば夜になっても見つからないかもしれない。

 ふと空を見上げると、灰色の曇天が広がっていた。空気も湿っぽくなり、肌着がますますヒンヤリしだす。

 そのホコリのかたまりのような雲を見ながら、しばしナキがぼーっとしていた時。

 

「あれ、ナキ君?」

 

「あ……」

 

 不意に女性が声をかけてきた。ナキが振り向くと、そこにはカメラを携えた烏天狗の新聞記者、文がいた。彼女は怪訝そうに眉をくねらせ、ナキの肌着と裸足の姿を見つめている。

 

「文さん……何故ここに?」

 

「私はまあ、サボりです。それより……何かあったんですか?」

 

「それは……その……」

 

 さすがは新聞記者、疑問があれば遠慮せずにまっすぐ問い詰める。ナキは言いにくそうに俯き、絞り出すような声でこれまでの出来事を伝える。

 

「あちゃあ、そりゃ災難ですね。足袋なんかもう泥だらけ……」

 

「とりあえず靴だけでも見つけたいんですが……」

 

 ナキは肌着のたゆみを気弱くいじりながら窮状を訴える。妖怪がうようよいる山のこと、下手をすれば死ぬまで行方不明だ。

 文は困り果てた彼の様子をしばらく同情した目つきで眺めていたが、やがて一つ頷くと、ナキに向けてこう問いかける。

 

「ナキ君、匂いで追えませんか?」

 

「え……? 匂いですか?」

 

 ナキが見返すと、文はかすかな笑みを浮かべて小首をかしげる。ナキは戸惑いながらも首を横に振る。

 

「……無理……です。なぜか僕の匂いが途絶えちゃって……」

 

 言われて気がついた、ナキ自身の並外れた嗅覚。しかし辺りをあわてて嗅いでみても、自分の靴と着物の匂いは掴めない。

 

「ふむ……こちらから見て風上は里の方角……。風向きのせいでもなさそうですね」

 

 文は顎に指を当てちらりと山の外へ視線をめぐらす。閉鎖的な山の天狗が、里の方角へわざわざ飛んでいくとは考えにくい。ならば匂いが掴めないのは風のせいではない……。元来風に鋭い烏天狗の文は、素早く推理をはじめる。ややあって、彼女は眼前でしゅんとしているナキに視線を合わせた。

 

「ちょっとついて来てください」

 

「へ、は……はい」

 

 言うなり文はナキを置き去りにしかねない勢いで、山のある地点へ向けて降下しだした。ナキがあわてて後を追うと、ほどなくして地上に近づくにつれぶつかるような激しい水流の音が耳に飛び込んできた。

 

「わあ……」

 

 小さなしぶきが顔にかかり、ナキはとっさに目をつぶる。地に降りた二人の前に表れたのは、何十メートルもある崖の上から流れ落ちる、数人を難なく呑み込める幅を持った滝であった。その水を受け止める滝壺はちょっとした池ほどの広さとなり、底が見えないほど深い。滝が落ちた際のしぶきは雪のように白く、猛々しく輝き、絶え間なく細かく揺らぐ波紋をつくっている。

 常時雷が落ちるような音を轟かせる龍のごときその滝の名は、九天の滝。妖怪の山でも随一の大きさを誇る滝であった。

 周囲にはナキよりも一回り背の低い、大きな緑色のリュックを背負った者たちが岩蔭や木々に隠れて顔を出している。水色のコートに緑色の帽子というお決まりのファッションで固めた彼ら彼女らが、山の水辺によく出没する妖怪『河童』である。

 文は用心深そうに睨んでくる河童たちを無視し、ナキを一目ちらりと確認して言った。

 

「有名な水場ですからね。もしかしたらここにあるかもしれません」

 

 文は辺りをキョロキョロと見渡しつつ滝壺へ向かって歩く。滝のしぶきに濡れた岩場を高下駄で器用に進む文と、裸足で今にも転びそうなナキ。周りでは河童たちが相変わらず黙って遠巻きに見つめている。

 ほどなくして、滝壺のほとりに白い布と、小さな二つのものが浮かんでいるのを二人は見つけた。ナキが「あっ」と声をあげて文を追い抜き、そばへと駆け寄る。

 

「……見つかりましたね」

 

 ナキが屈んで浮遊物を確かめるのを見つめながら、文がつぶやく。そこにあるのは明らかに白狼天狗の上着と靴だった。

 

「名前は書いてあります?」

 

「……はい、やっぱり僕のです」

 

 上着の襟の裏と、靴のかかとをそれぞれ見て、ナキはしょげた様子で答える。文はそれを聞くとナキの肩へ手を伸ばし、軽く押し退けた。

 

「ナキ君、ちょっとどいてください」

 

「え、はい」

 

 ナキが怪訝な顔で後ろに下がると、文はすぐさまカメラを取り出し、水の中の服と靴へ向けてシャッターを切り始めた。何枚も色んな角度から撮るのを見て、ナキは遠慮がちに問いかけた。

 

「文さん、なんで写真を……」

 

「なんでって。いじめの証拠にするんですよ。忘れたんですか?」

 

 振り向いて呆れたように鼻を鳴らす文。その直後にナキは思い出したように「ああ」手のひらを打った。いつぞやの、文のカメラが川に落ちた事に端を発する事件である。あの時は結局『大天狗に写真という物的証拠をつきつける』という目論みは頓挫した訳だが、ナキはてっきりもう忘れているものと思っていたのだ。

 

「覚えていたんですね。あの事」

 

「……そりゃ私も、カメラを粗末に扱われましたからね~」

 

 文は写真を撮りながら一拍置いて、事もなげに答える。やがて彼女がふぅ、と息をつきその場から後ずさると、入れ替わりにナキが水中から服を拾い上げる。

 

「うわ、びしょびしょ……」

 

 苦笑いしながら着物を絞るナキ。そんな彼に「ねぇナキ君」とやや無愛想な声がかけられる。ナキがえ、と振り向くと、どうにも歯がゆい様子で頭をかいて文が言った。

 

「はい?」

 

「私も写真なんか撮っておいてなんですが……怒らないんですか?」

 

「……怒らない、とは?」

 

「もういっそぶん殴ってやりたいとか、そう思わないのかって事ですよ」

 

 その台詞を聞いて、ナキがふと押し黙る。実際、今こうして言葉少なに着物を絞っている間にも、胸中に怒りが渦巻いていた。しかしとうとう、腕力などに訴える事はしなかった。我慢強いと言えば聞こえはいいが、他人から見れば煮え切らないと言われても仕方ない態度であった。

 

「以前、一度殴ったでしょう? ああすればいいんです。他人の善意なんて当てにできませんよ。ここの河童たちだって見てみぬ振りをしたじゃないですか」

 

 文は周りに見え隠れする河童たちを指さして言い放つ。何人かが不快そうに眉をしかめたが、彼女は気にせずにナキをじっと見つめる。

 ナキはしばらく悲しそうに目を伏せていたが、まぶたを閉じて首を横に振り、寂しく笑う。

 

「……僕は、いやです」

 

 一旦言葉を切り、自分の手のひらを見つめながらナキは静かに語りだした。

 

「あの時……思わず仲間を殴っちゃった時……正直怖かったんです。仕返しにじゃなくて、相手を痛め付けちゃったのが。こう、ハッとなって気づいたら、手が震えていて……」

 

 そこまで言って顔をあげて笑みをつくると、少しだけ元気な声で言った。

 

「だから、できれば殴ったりしないで解決したいんです。その方が……いいんです」

 

「…………」

 

 辛そうに眉尻をさげて、それでも笑顔で言い切るナキ。文はそこまで聞いて黙って頷くと、つくづく呆れたという風に肩をすくめる。

 

「分かりました……。でも私が手を貸すのはこれっきりですから、あとは頼らないでくださいよ」

 

「……すみません」

 

 ナキは小さく頭を下げ、水浸しの靴を履く。やはり冷たいのか小さく表情を歪めるナキを尻目に、文はふわりと空へ浮かび上がる。

 

「私はこの写真を現像しますが……ナキ君はどうします?」

 

「ああ、えーと仕事場に上着の替えがあったので、それ着て見回りの続きをします。流石にもう寒いし」

 

 太陽ももう西側へとうに傾いている時分、すでに山には冷たい夕暮れの風が吹きはじめていた。濡れた上着を小脇に抱えてプルプル震えながら気丈に笑うナキを見ながら、文はクスリと笑う。

 

「分かりました。ではお気をつけて!」

 

「はい!」

 

 片手を上げ、文はあっという間にその場から飛び去っていく。木の葉が舞い、その場には変わらぬ威容で流れ続ける滝に、素知らぬ顔で水汲みなどしている河童。あとは微笑みながらもわずかに涙を溜めているナキがいた。

 

「……さて、急がないと日が暮れちゃう」

 

 一人でそう呟いて、ナキは大急ぎで天狗の本拠地へと駆け出した。

 

 

――

 

 

「ふぅー、やっと着いた……」

 

 何百足も入る靴箱に濡れた外靴を突っ込みながら、ナキはため息をつく。玄関の式台に座って泥だらけの足袋を脱ぎ、それでも汚さないようにとわずかに浮いて長い屋敷の廊下を進んでいく。あちこちで、規定ルートの見回りを終えたらしい白狼天狗たちが談笑する姿が目に入った。

 ふと、ナキの中にサボってしまおうかという邪念が頭をもたげるが、あわてて頬を叩いてそれを打ち消す。そして白狼天狗の控え室に向かい、自分のロッカーを開ける。

 

「よし……っと」

 

 中にあった替えの上着を羽織る。濡れた方は置いていく訳にもいかないので、そのまま持っていく事にした。

 さてまた出陣だ、と沈む気持ちをこらえて再び出口へ向かう。迷惑は被ったが、仕事はせねばなるまい。そんな事を考えながら控え室を出た時。

 

「あ、ナキ」

 

「あ……椛さん」

 

 見知った女性の声。振り向くと廊下の向こうから椛が駆け寄ってくる。書類仕事の途中だろうか、両手には数えきれないほどの紙の束がずっしりと抱えられている。

 

「まだ仕事ですか?」

 

「え、ええ……ちょっとトラブルがあって」

 

「ふむ……ん?」

 

 見回りの途中にあった出来事を思い出し、ナキは言いにくそうに答える。その時、椛の視線がふとナキの濡れた上着に移った。

 

「……どうしたのです? これ」

 

 途端に椛は真面目な顔になって聞いてくる。ナキはぎくりと体をすくませ、苦笑しつつ顔を逸らす。

 

「えーと……川に間違って落ちちゃって。着替えを取りにきたんです」

 

「…………」

 

 椛に厳しい顔で見つめられながら、ナキはしどろもどろに返答する。今まで受けた仕打ちを知られている故、そんな態度ではごまかせるはずもない。しかし、この時にもナキの中にある妙なプライドが正直に打ち明ける事を拒んでいた。

 

「で、ではまだ仕事があるので!」

 

「あっ、ちょっと……!」

 

 追求の視線に耐えられなくなったナキは、あわてて話を切り上げると一目散に廊下を飛んでいった。椛は一瞬あっけにとられ、遠ざかっていく背中へ声を張り上げる。

 

「烏天狗が言ってましたがー! これから多分雨、だって……行っちゃった」

 

 言い切る暇もなくナキは見えなくなり、椛は思わず額を押さえる。確かにナキは、傘を持っていなかった。

 

「…………あー……今日は水に縁があるなぁ」

 

 数十分後、しとしとと降り注ぐ雨の中、ナキはまたもやずぶ濡れになって山道を歩いていた。ちょうど見回りの交代時間なのか、周りに同僚の姿はとんと見当たらない。上着が張りつき、耳に水が入り、地面はぬかるむ。帰ったら急いでお風呂に入って洗濯をしなきゃいけない。憂鬱な頭の片隅でそんな事を考えながら、ナキはため息をつく。

 

「……頑張ろう。もうすぐこんな日々も終わるんだ」

 

 地面を踏みしめ、絞り出すように言う。脳裏に浮かぶのは文が撮った写真の事。新しい証拠があれば変わるかもしれない。

 今まで、椛に何度も手をかけさせていた。それが終わるかもしれないのだ。間違いなく力強い事だった。ただ……。

 

「……椛さん、そうしたら僕の事を……」

 

 ……以前、椛はそう言った。もしナキがイジメを受けなくなれば、彼女との関係は薄くなるかもしれない。ナキにとって、それは並々ならぬ苦痛であった。

 

 『私は隊長なんですから。部下は皆、平等に大事にします』

 

 いつか椛の言った言葉が、ナキの頭によみがえる。自分は単なる部下。そんな意識が、ナキの足取りを重くさせた。

 すると、上空から、雨音にまじって明るい声が降り注ぐ。

 

「ナキー!」

 

「……椛さん?」

 

 見上げると、番傘を差した椛が飛んでくるところだった。彼女が来るなど予想だにしなかったナキは、ポカンと口を開けて突っ立っている。

 

「やっと見つけた~、ずぶ濡れじゃないですか」

 

「なんでここに……」

 

「なんでって、あなたが傘もなしに出ていくからですよ。はいこれ」

 

 椛は事もなげに答え、自分の傘を差し出す。それを見て、ナキは頬をうっすらと染めた。

 

「は、入れと?」

 

「ええ、なにか?」

 

「か、傘だけ貸してもらう訳には……」

 

「それじゃ私が濡れちゃうじゃないですか。ほら早く」

 

 椛はにこりともせず急かすように傘を突きつけてくる。この人は鈍いのか天然なのか、と戸惑いながらナキは傘に入った。そして二人で一緒の見回りが始まる。

 

「あの……すみません。わざわざ」

 

「もう謝るのはなしですよ。私が勝手にやったんです」

 

 へりくだった言葉を口にするナキに、椛は相変わらず真面目な顔で答える。目はまっすぐ前を向いていた。

 ナキは横をついていく間、罪悪感がぬぐえなかった。着替えた時に見た椛の書類は、相当な重さがあったように見えた。ナキは、それを中断させたのだ。

 何度も、何度も何をしているのだろう。つくづく自分は手をかけさせて……とナキが内心で自己嫌悪に浸っていた頃。

 

「普段、頼りない分のお詫びですよ」

 

「お詫び?」

 

 突如、そう言った椛にナキは素早く顔をあげる。頼りない、それは助けられてばかりだったナキには信じがたい言葉だった。

 

「何度も大天狗様に話して……未だに進展がないんです。ごめんなさい、ダメな上司で」

 

「いや、そんなまさか……!」

 

「……多分、今日もやられたのでしょう?」

 

 申し訳なさそうな笑顔を向けられて、ナキはつい答えに窮してしまう。濡れた上着を見られた時に、既にバレていたのだ。ナキは姑息に隠し事をしていたのが恥ずかしくなり、首を縮めて目を伏せた。

 

「……いつもナキは真面目に仕事しているのに、恥ずかしい」

 

「椛さん……」

 

 今まで卑屈な態度で接してきてしまった上司。しかし今となっては、ナキは自己嫌悪していたのを恥ずかしく思った。椛は純粋に気にかけてくれている。それを目の当たりにすると、悩んでいたのがバカらしくなった。

 さっさとイジメを解決しよう。ナキはふとそう思った。椛に加えて、今回は文も協力してくれる。彼女らを素直に頼ろうという気持ちが、彼にようやく芽生えだしたのだ。

 

「椛さん」

 

「ん?」

 

「大天狗様と話す段取りを、お願いできませんか」

 

 椛をまっすぐ見てナキが頼むと、椛は意外そうに目を丸くする。

 

「できますが……なんです? 改まって」

 

「僕も、直接話します」

 

「ええっ?」

 

 ナキの宣言に椛は思わず聞き返した。泣き虫の彼が、天狗全員から恐れられている大天狗に会いたがるなんて、誰でも面食らうに違いない。

 しかしナキは視線を逸らさず、決意を強調するように続ける。

 

「文さんに聞いてみてください。一つ策があります……。もう、お世話はかけさせません!」

 

「……は、はぁ……」

 

 椛は別人を見るかのように面食らった顔をしていた。ナキの顔は見たことが無いほど強い意志があふれ……少しだけ、成長が感じられるものだった。

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