「ちょ、ちょっと文さん。どこまで連れていくんですか?」
「まあまあ、それは見てからのお楽しみ!」
ある日の夕方。仕事を終えたナキは椛と文に連れられて山の上空を飛んでいた。
ナキは仕事あがりに急に文に引っ張られてきたので、未だに怪訝な顔をしている。椛は非番だったらしく紅葉色の着物と紺の袴という普段着を着ていたが、別に不満という風ではなく無口なままナキの隣を飛ぶ。すでに冷ややかな風が吹いていたが、文は全く意に介さずに一人でニコニコと先頭をきっていた。
「……椛さん、これって一体……」
「うーん、まあ秘密……というか、悪い事は起こりませんから」
椛は珍しく歯切れの悪い笑顔を見せ、あいまいな言葉を並べる。ナキはそれを見てかえって悪い予感がし、飛びながら周囲をキョロキョロと見渡した。
山の木々はすでに秋の装いになっていた。一面を覆っていた緑が紅や黄色に塗り変わり、日暮れ前の薄い水色に照らされて鮮やかな景色をつくっている。
その紅葉に、一筋の切れ目が現れる。目を凝らせば光を受けてきらめく水の流れが見えた。その川の流れをたどっていくと、やがて切り立った崖から流れる大きな滝が見えてきた。かつてナキが河童の集団と顔合わせした山の名所、九天の滝である。
文はその近くの一点に目を留めるなり、手を勢いよく振りながら大きな声を張り上げた。
「おぉ~い、にとり~~っ!!」
「へ……いっ!?」
その瞬間、滝壺の近くでぽつんと座っていた一人の河童の少女が素早く文へと振り向く。そして三人に気がつくなり逃げ出しそうに身構えたが、文は落ちるより速い勢いでその河童の元へと飛んでいく。
「久々ですねぇ、元気してます?」
「な、なんか用? 私いま忙しいんだけど……」
文が目の前に降り立ちにこやかに挨拶するのに対して、にとりと呼ばれた少女は警戒しながらじりじりと後ずさる。釣りをしていたのか、そばには釣り竿と空の
にとりは河童なだけあって小柄であった。背丈は文の胸元程度しかなく、水色のコートと長靴が妙にぴったりと似合う。背中には背負えるのが不思議なくらい大きな緑色のリュックサックを背負い、頭には白の柄が入った緑色のキャップが乗っている。水色の髪はピンクの髪留めでツインテールにされ、丸っこい子供のような目とよく似合っていた。
「そう嫌な顔しないでくださいよ。実はちょっと、カメラを見てもらいたくて」
文は相変わらず笑みを顔に張りつけながら、愛用のフィルムカメラを差し出す。にとりはそれに目を落として眉をしかめ、顔を上げてこう言った。
「それはまあいいけどさぁ……椛と、その子は誰だい?」
にとりは問いながら文の背後を覗き込む。文が振り向くと、ちょうど他の二人が追い付いたところだった。
「ああ」と文は肩をすくめ、またにとりに振り向く。
「椛はまあ……私が誘ったんです。そして彼、ナキ君がカメラに興味があるらしくて。修理する所を見せてあげてくれませんかね」
「へ?」
文が突如として言い放ったデタラメに、ナキはつい面食らう。文がまた振り返り『話を合わせろ』と言いたげに人差し指を口元に当てる。椛の方を見れば、お辞儀などをしてから苦笑いを向けてきた。ナキは仕方なく愛想笑いを浮かべる。
「え、ええ。そうなんです。お願いできませんか」
「お仕事の邪魔はいたしませんので~」
「…………」
若干、自分の声が上ずったようにナキは思った。そのせいかにとりは下から見上げるように、ナキへ疑惑の視線を向けてくる。河童は機械いじりが得意だというが、自分より背の低いにとりを見てそんなに頼りになるのかとナキは少々いぶかしんだ。
「……まあいいか、どうせ釣れないし。ついておいでよ」
にとりはトゲのある言い方をしながら釣り竿と魚籠を拾うと、背を向けて歩き出す。文、椛がその後を続き、ナキが最後尾となった。
どこか作業のできる場所があるのかな、とナキが思っているうちに、にとりはどんどん滝の方へ近づいていく。
「あの、あんまり近づいたら危ないんじゃ……」
「心配無用さ。ただちょっと濡れるよ」
「え……わ、ちょっと!?」
にとりはボソリとそう言うなり、岩を蹴ってひとっ跳びに滝の中へと飛び込んでしまった。ナキが呆気に取られている間に、文も飛び込んでいく。
「ナキ、つかまって」
「椛さ……ひゃあっ!」
椛がナキの手を掴んだかと思うと、彼女もまた滝へと突っ込んでいく。大量の水が一瞬だけ全身にぶつかり、ぱちゃ、と音を立てて固い岩の上に足が着く。
「ぷはっ! は、はぁっ」
ナキは思わずかぶりを振り、顔にかかった水滴を振り落とす。中からポタポタと水を漏らし、耳がプルプルと震えた。
「ったく、毎度毎度ぬれなきゃいけないの、どうにかなりませんかね」
「これくらいの水がなんだってのさ。大体ここは河童以外、滅多に来ないの」
前方で文とにとりの話し声が聞こえる。周りに反響してか、やけに声が響いていた。ナキは目にしたたる滴をぬぐい、何度もまばたきした。ぼやけていた視界が鮮明になっていく。薄暗い。どうやら岩に囲まれた、洞穴のような場所にいるらしいとナキは気づく。
その次に見えたのは、手を繋いだままナキを見ている椛の姿だった。同じようにずぶ濡れとなり、襟元まである髪から滴が落ちる。暗闇の中で光る黄金色の目が合うと同時に、ナキの目には別のものが飛び込んできた。
水を吸い、肌に張り付いた着物。水滴が滑る冷たそうな肌と合わせて見ると、少々背徳的なものがあった。
「あ……あぅ」
ナキはとたんに真っ赤になり、手を振り払って椛に背を向けてしまった。当の椛は恥ずかしがる理由に心明かりがないらしく、ただ首をかしげる。洞穴の先では文がニマニマと笑い、にとりが呆れたように薄目で視線を向けていた。
「とにかく行くよ。時間を無駄にしたくない」
背中を向け、ズンズン先を行くにとり。洞穴はずいぶん遠くへ続いているらしく、水たまりの跳ねる音が小さくなっていく。
「私たちも急ぎましょう」
「ナキ、走っちゃダメですよ」
「は……はい」
高下駄にも関わらず走り出す文。椛は真似しないように、と子供に言い聞かせるように言って、前を慎重に歩く。ナキは「この先なんですか」と聞こうとした口を閉ざし、黙ってついて行く事にした。道幅は二人がやっと横に並べるかどうかという所。初めて歩く河童の通り道に戸惑いながら、壁に手をついて、足元をチラチラと窺いながら椛の後ろを歩き出した。
何分かの間、曲がり角も突き当たりも見えない暗がりの道が続いた。足元も平坦ならば楽だったろうが、あいにく岩場を削ったような地面は細かな凹凸や石ころが至る場所にあり、何度か足をすくわれそうになった。ナキは人間の血が混じっているために夜目も弱く、自然と地面に注意をはらう。
地面には川の水が滲み出してきているのか、水たまりと湿気で靴は水浸し、壁を触る手も全面が冷たく塗れ、上からは水滴が不意に落ち、首筋をひやりとさせてくる。
「のわっ!」
「あーもう、大丈夫かい?」
突然、ナキの前方で文の叫び声がした。見るとどうやら躓いたらしく、壁に手をつき片足立ちで下駄に足をはめ直している。勝手知ったるという風に一人で遠くに行っていたにとりは、ため息まじりに文を眺めている。
「失礼、鳥目だとどうも困ります……。この道あいかわらず暗いんですねぇ」
「明かりつけたら目立つだろ。金も手間もかかるしさ」
文がやれやれと文句を言って近づくのをにとりは一蹴し、また歩き出す。少しして、今度は無言で歩いていた椛が振り向いた。
「ナキ、あなたは真ん中歩いてください。この先は階段ですから」
有無を言わさず背中を押し、椛の前に立たされる。ナキが見ると文とにとりはすでに下り階段を進み、頭が低くなっているところだった。斜め下に目を凝らすと確かに鉄製の大きな扉があり、隙間から明かりが漏れている。その明かりに照らされ、それまでの通路と違いコンクリートで綺麗に整えられた灰色の階段が見えた。
てくてくと階段を降りていく間、先を行っていた二人は扉の前でずっと待っていた。後ろの椛は一度もせかさない。しばらくしてようやく全員が扉にたどり着くと、文が期待を煽るような口調で言う。
「ふふ、ナキ君は河童の街を見るのは初めてですよね~。驚きますよ、きっと」
「は……はぁ」
ナキは生返事を返す。実際、こんな地下まで本当に河童の手が及んでいるとは、すぐには信じられなかった。妖怪の山の地下には別世界がある、なんて噂は幾度となく聞いていたが、彼は一度も確かめた事はなかったのだ。
にとりの方を見ると笑みのかけらもなく迷惑そうな顔をしていた。ナキからはそっけなく目をそらし、扉の半分を無造作に引く。
重い金属音とともに扉が開かれ、久しぶりの光が飛び込んでくる。思わず顔をしかめ、そしてナキは中に広がっていた光景に目を見張った。
「わぁっ……」
そこには、ナキの見てきた幻想郷とは違う世界が広がっていた。
眼前にはまず赤や茶色のレンガで建てられた工場がいくつも広がり、一つ一つがちょっとした丘のような大きさに見えた。三角形の金属製の屋根が連なる様は遠目に見るとノコギリの歯のようで、そこから生えたたくさんの灰色の煙突が遠慮なく煙を吐いている。
その煙が太陽を覆い隠しているかのように、工場の影が並んだ視界は薄暗い。ただ、ナキは煙につられて上を見上げ、その理由に気づいた。
煙の向かう先には赤褐色の不毛な土の天井がでんと広がり、空気を取り入れるためか所々につけられた巨大なエアコンのような機械から煙を吸っていた。天井には他にも黒い線のようなものが幾らかたるみをもって張り巡らされ、点在する丸く巨大な電灯に繋がっている。亀の甲羅のような形の電灯は太陽や星とは違った無機質な明かりを提供していた。
「これが山の内部につくられた、河童の敷地ですよ。驚いたでしょう?」
「はい、すごいや……」
文が何故か自慢げに言うと、ナキは感嘆した表情で辺りを見渡す。山のような緑は見当たらず、工場をはじめ図形のような人工的な建物ばかりが目に入るのが、彼には新鮮だった。
そんな二人に、後ろから椛が声をかける。
「あの、にとりが先に行っちゃいますよ」
「え? だぁっ、ちょっとー! 待ってくださいよーもぉー!」
ふと視線を移すとにとりはすでにスタスタと先を歩いていた。雨も降らない地中を長靴で歩く彼女に、三人はやかましく騒ぐ文を先頭にして追いすがる。
「なんで先に行くんです。冷たいなぁ」
「うるさいよアンタは。私は観光案内する気はないの。ほら、早くついて来て」
にとりは鬱陶しげに言い放って、また歩き出す。三人はぞろぞろと不機嫌なにとりの後をついていった。
一行は一キロ四方もありそうな工場地帯を横目に喧騒の少ない区画へと向かっていく。途中で文がうるさいと言われたそばから「相変わらずキュウリばっかし作ってますよ。ホラホラ」などと言って後ろへ話しかける。ただ一人高下駄でアスファルトを蹴る音が、またうるさい。
言われてナキが横を見ると、街路樹と一画を覆う高いフェンス。その向こうには畑だろうか、柔らかく小さい起伏がついた黒土が一面に広がり、そこにビニールで作ったかまぼこ形の建物がいくつもあるのが見える。
「……地底の熱を利用して、年中夏野菜をつくるらしいです。今は研究中ですって」
しんがりで黙っていた椛が口を開いた。ナキが振り向くと、ふと目が合う。
気づいた椛が目を合わせたまま、ナキをジッと見つめた。ナキがキョトンとして目をしばたかせていると、椛はふとこんな事を聞いた。
「ナキ、寒くないですか? 替えの服があれば良かったですね」
「へ、ああ」
気遣うように言われ、ナキは最初に滝に塗れた事を思い出す。先ほど聞いた地底の熱とやらのおかげか、辺りには少し熱気がある。自身を見返すと、服はほとんど乾いていた。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
ナキは微笑んでそう答え、無意識のうちに椛の着物へと視線をすべらせていた。椛も同じように乾いている。
また同じくキョトンと戸惑う椛。ナキは内心でがっかりする自分の頬を両手ではたき、早足に二人を追いかけていった。
そうこうしているうちに、一行の前に一つ、大きな木造の建物が見えてくる。木造といっても天狗たちの出入りする屋敷のようなものではない。高さは二階建てほどで、所々古い木材で組んだ建物のてっぺんには金属の薄い屋根が乗っかっている。さらにナキが驚いたのは、入り口らしきものがいくつも等間隔で並んでいる事だった。木製の洋式ドアが八つあり、二階へ伸びる階段が外側から備え付けられている。
辺りを見れば、おなじような長方形の建物がドミノのようにズラリと建っている。
「……これ、家、でしょうか?」
「集合住宅。つっても分かんないか……。ま、長屋みたいなものさ」
顔も合わさずに言ってのけて、にとりは階段を登りだす。後ろをついていくと、カンカンとくぐもった金属の音がした。ふと手すりをみると点々と赤茶けたサビがついている。
ちょうど一階の軒先の屋根みたいに張り出した二階の廊下を通りすぎ、にとりは一番奥で立ち止まる。そしてリュックサックの背負い紐が×字に交差する部分についた胸元の鍵を手に取り、それをドアの簡素な鍵穴に差し込んだ。
鍵を回すと、カチリと小さい音がした。続けてノブを回してドアを開けると、機械油の臭いがつんとナキの鼻をついてくる。
「おっ邪魔しま~す!」
一足先に文は家主の脇をすり抜け、部屋に上がり込む。パタパタと中を走っていく音がして、三人はやれやれと顔を見合わせた。
ぞろぞろと中に入り、靴を脱ぐ。土間は猫の額のようで、にとりの長靴にサンダル、文の高下駄にナキと椛の靴が並ぶと簡単にいっぱいになってしまった。周りも狭く、靴箱を置くスペースもない。椛が靴を揃えるのを見て、ナキもそれに倣う。窮屈で前後を入れかえるだけでも一苦労だった。
玄関をまたぎ、部屋の畳に足を着ける。広さは四畳半ほどでナキには狭く感じられたが、代わりに辺りを見渡すとナキの知らないものが次々と目に飛び込んできた。
まず、玄関から右側にはナキの背丈ほどもある謎の白い箱。先ほど窮屈に感じた原因の一つはこれである。先ほど後ろ側からかすかに生暖かい風が流れてきたのを思い出したが、彼にはそれが冷蔵庫という機械だとまでは分からなかった。
その隣には流し台およびキッチン。今度はなんとなく雰囲気を感じたが、さすがに金属製の管、水道の蛇口まではピンとこない。そのすぐ上の壁に設置された換気扇からは、工作に使う油とはまた違う臭いがうっすら漂ってくる。
他にはタンス、本棚、トイレや風呂に繋がるであろうドア。押し入れそして一番目立つのが入り口の向かい……窓に面して置かれた机と、その周りに積み重なった物の数々であった。
木で作られた武骨な机椅子。机の上には大きめの電気スタンド、そして小さい工具箱がフタを開けたまま置かれ、スパナ、ニッパー、ドライバーなどの工具がのぞいている。それらを日常的に使うのか、机上には保護のためのカッターマットが敷かれていた。更に机の下には、工具箱一つでは足りないのか大型のプラスチックケースが。そして同じく足元、机の脇にまで未完成らしき機械類が雑多なコードや基盤をさらした姿で積まれていた。
四畳半という狭さのためか、その機械のテリトリーは机の周囲一帯に広がっており、更に隣には"ネジ◯ミリメートル"、"銅線◯ミリメートル"などとそれぞれ引き出しに張り紙された棚が壁の半分以上の高さでそびえ立っている。机の前に面した窓などは、もうほとんど隠れてしまっていた。
「相変わらず散らかっていますね~」
「悪かったね。いいからカメラよこしなよ」
無遠慮に感想を述べる文をあしらい、にとりは差し出されたカメラを引ったくる。そしてリュックを置いて帽子を脱ぎ椅子に座ると、コートも脱いで背もたれにかけ、黒のタンクトップ一枚になる。
「あの、僕らはどうしていれば……」
「……カメラに興味あるんだろ? ならこっち来れば」
「あ、そうですね……」
ぶっきらぼうに言われ、ナキは静かににとりのそばに寄り手元を覗き込む。椛もその隣に立った。文だけは三人に近寄らず、作りかけの機械などを鼻唄混じりに手に取り眺めている。
文の姿を一瞥し、にとりはカメラに向き直ると無言で凝視しだした。ナキは所在なさげにぽつんと立っていたが、気にする様子はない。
しばらく様々な角度から観察した後、にとりは文の方に顔だけ向き直り、苛立った声で言った。
「ちょっとー、コレどんな使い方したのさ? 細かい所が汚れまくってんだけど」
「ああすいません。訳あって以前、水に落としちゃったんです」
「じゃあすぐに見せに来なよ。カビが固まってるじゃないか」
「いやー、動くからいいかなって……」
「良くない! 細かく手入れしないと、後で泣きを見るよ?」
「全く……」とぶつくさを言いながら、にとりはドライバーを取り出しカメラを分解しはじめる。カチャカチャと細かくいじり回す横で、ナキがおずおずと口を開いた。
「あの……そのカメラ、にとりさんが作ったんですか?」
「いんや、元々は外から流れてきたモンなんだけど……私が時々メンテナンスしてるのさ。他にできる奴が少ないし」
「いや~、毎度毎度ありがとうございます」
「ったく、大事に使いなよ。こちとらタダでやってんだからさ」
調子よく笑いながら礼を言う文に、にとりが呆れたように言い返す。口調は剣呑だったが、その表情はそれほど怒っているようには見えなかった。
にとりが引き続きカメラを弄くる間、部屋の中はほとんど無言であった。時折文がラジコンとカメラの組み合わさったような機械を見つけて感嘆の声をあげたり、椛がナキにカメラの使い方について教えたりなどする他は、滅多に言葉は発せられなかった。
特に、ナキとにとりのやりとりは皆無である。それは元から関わりが薄いせいもあるだろうが、にとりが喋るどころかカメラから視線を逸らす気配すらない事が大きい。その目移りしない熱意を前に、話しかけるような勇気はナキにはなかった。
河童の文明のおかげか、地中の町にはやがて夕暮れのオレンジ色が降り注ぎ、にとりの部屋の窓からも差し込んでくる。隠されがちな窓からの鋭い光に照らされ、にとりの体に濃い影ができる。
「ふぅー……」
ふと、にとりが作業を中断し、額を押さえる。そしてナキの方を回って体ごと振り向き、文に苦言を呈した。
「文ー、ダメだわ。部品の換装とかやったらこれ三日くらいかかるよ」
「あや、そんなに酷いんですか? まあ、どっぷり川に沈みましたからね」
文は部屋の中央にあぐらをかき、他人事のように答えた。視線はいつの間にか手に取っていた本へと注がれている。ちなみにタイトルは"東方鈴◯庵"。
「川ぁ?」
「そうそう、そこのナキ君が引き上げてくれなきゃ、今ごろ行方不明ですよ」
「へ?」
文に突如指をさされ、ナキはポカンと目をしばたかせる。視線を移してきたにとりと目が合った。ナキがしどろもどろになっていると、今度は隣にいた椛が言った。
「ナキは、地面の形を変えたり不思議な事が出来るんですよ。見たことありませんか? 時々山に壁が出来ていたりするの」
「あー……」
にとりはしばし顎に手を当て、天井をにらむ。そして目の前のナキに向けて、多少は興味ありげに話しかけた。
「ふーん、あの遺跡の残骸みたいになってるの、アンタだったのかい」
「え、ええ。まあ……」
ナキをぼんやり見つめながら、にとりが感想を述べる。すると、そこで間髪を入れず、椛の口が回り出す。
「確か、河童は水を操れましたよね。ナキの能力とも相性がいいと思うんですよ。それで、お近づきになったらお互いこれから役に立つのではないかと……」
まるでナキの能力をアピールするかのような椛の台詞を聞いて、ナキはいよいよある事に感づく。そもそも文と椛の二人が、彼をにとりに引き合わせた理由。
恐らく、ナキのイジメが大天狗に訴えかけても何も変わらない状況にあって、新たに味方をつくるべきだと考えたのだろう。そこで普段見てみぬふりをしている河童たち、その中で交流のあるにとりに白羽の矢が立ったのだ。
ナキからすれば、友達づくりをお世話された……といっても間違いではない。彼もさすがに恥ずかしさを覚えたが、自身のふがいなさのせいだと思い直し、黙っておく。
「むー……」
一方にとりは、気難しい顔で値踏みするようにナキを見つめている。ナキはなんだか別の意味で恥ずかしくなり、ふっと目を逸らした。
しかし、にとりは不意に寂しげなため息をつくと、椅子にどっかりと背を預けた。そして、ぽつりと言う。
「……ナキ、アンタさ」
「は、はいっ」
「カメラに興味があるっての、嘘でしょ?」
静かに放たれた言葉に、ナキはピクッと体を震わせた。その場の空気に合わせてついた嘘だったが、椛と文の狙いが分かった今では、どうにかして接点をつくろうとしていたのを見透かされたか、とつい考えてしまう。
「目を見りゃ分かるよ。どう見ても機械好きって目じゃない」
「それは……その……」
かくして、その予想はずばり的中していた。続けてにとりは居心地悪そうに口を結び、小さな声でこう言った。
「……アンタ、あのイジメられてた子でしょ? 顔見て分かってたんだよ」
「……え」
「文も何を企んだかと思えば……」
今度は椛の方をちらと見て、肩を鳴らしながら言う。
「前々から、遠回しに相談は受けてたんだよねぇ。部下が困ってるってさ」
やはり、イジメがらみだというのは見抜いていたらしい。椛が悩んでいるという事前情報があればなおさらだ。
雲行きが怪しくなってきたと感じて、椛が割って入る。
「……嘘をつかせた事は謝ります。でも、事態は深刻なんです。相手は複数で、死の危険を伴うような悪戯まで……」
身を乗りだし、ナキ本人も置いてきぼりにする勢いでにとりに窮状を訴えかける椛。しかしにとりは煮え切らない顔で頭をかき、こう答える。
「いや、別にその子の事は嫌いじゃないけどさ、私が何かしたって……」
「大天狗様が、なかなか事実を認めようとしてくれないんですよ」
鈴◯庵の三巻を読み進めていた文が立ち上がり、にとりへ歩み寄る。その表情は珍しく真面目で、座ったまま間に挟まれたにとりは気まずそうに左右に視線を巡らせた。
「今のところ
「…………」
文の言葉に、にとりは鬱陶しげに顔を伏せる。それはどこか、ふて腐れたようでもあった。
「……にとり、これは友人としての頼みです。何かあった時に、協力してもらえませんか」
「……けど、今さら……」
椛が膝をつき、にとりの顔のすぐ横からなおも頼み込む。にとりは肘をつき顔をそむけて、かすかにつぶやいただけだった。続けてまた椛が口を開こうとした時、突如ナキが手でさえぎる。
「あの、もう……いいです。よしてください」
気弱そうに、しかし椛の前へと割って入って彼女を静止する。「でも……」と椛が食い下がろうとするのを、ナキは言葉で制した。
「無理を言っちゃダメですよ……。元々、にとりさんは関係なかったんですから」
ナキは得意のつくり笑いを浮かべ、椛と文をなだめる。椛は納得いかない様子で眉をひそめていたが、文の方は「ふむ」といって髪をかきあげ、からりと明るい笑顔になって言う。
「とりあえず、今日は帰りますか。もう夜ですしね」
その言葉にナキが窓を見ると、もう外には藍色の闇が充満していた。河童の技術に心の片隅で感心するナキ。そして三人はぞろぞろと戸口へ向かう。最後尾の椛だけが、いまだ釈然としない面持ちだった。
「じゃ、にとり。三日後にカメラ取りに来ますので」
「お邪魔しました、にとりさん」
「……失礼します」
それぞれの挨拶を残し、ドアが閉まる音が部屋に響く。とうとう部屋にはにとり一人だけになった。彼女はしばらく黙って机に向かっていたが、やがて立ち上がると部屋中央に垂れ下がる紐を引き、電灯の明かりをつけた。
室内が瞬く間に明るくなる。机ばかり見ていたせいかまぶしそうに顔をしかめ、にとりはしばらくボーッとその電灯を眺めていた。
「仕方ないじゃん……。今さら味方ヅラなんてさぁ」
そうつぶやいた表情は一層ふて腐れたようで、また、ほんの少し悲しげだった。