……そろそろ真上に昇る太陽が、灰色の雲に隠される。晴れの日ならば空は今ごろ爽やかに輝き、肌寒い秋にも明るさと暖かみを届けてくれるのだが、その日はまるで空全体に薄墨を撒いたような鬱々とした天気で、どうにもそんなものは望めない雲行きだった。
気候というものは、とりわけ山の上ではせわしく変化する。幻想郷の妖怪の山も、すでに山頂付近にはどんよりとした雨雲が間近に迫ってくるのが見えた。
そこから少し下った場所に、九天の滝がある。上流から下る川の水が高い崖から滑り落ち、あたかも大きな銀色の布のように美しく光る。水流が太陽に照り返してきらめく様は、夏などには絶景であると評判であった。
ところが、こう曇天の中にあっては、その魅力も半減する。雲に覆われた空を写して滝の水は総じて鉛色に染まり、滝壺に流れ込む音も心なしか重たく、水底はほの暗い。
周りを囲む木々はただですら少ない日光をさえぎり、そこだけ夕闇に包まれたような鬱蒼とした空間を作り出している。赤や黄に染まった木の葉もそろって鮮やかさを陰にひそめ、風に揺られる様子は丑三つ時の柳のようだった。
そんな、一人で佇んでいると幽霊と間違われそうな滝壺の岩辺に、一人の河童が座っていた。傍らには
大人の半分くらいの背丈、背中のリュックサックや水色のコートに長靴という河童のお馴染みの姿だが、一つだけ目立ったチャームポイントがある。
緑の帽子の下、ピンクの髪留めで二つに結んだ水色の髪。それは文からカメラを渡されていた河童の女の子、にとりのものであった。
「…………」
にとりは何やら沈んだ表情をし、黙りこくって釣り糸の垂れた水面を眺めている。獲物がかからず機嫌が悪いのだろうか。
天気が優れないせいか、彼女の周りに仲間の姿は見当たらない。滝の音が静かに空気を揺らし続け、時おり、薄闇に立ち並ぶ樹木が風に吹かれてざわめく。
そんな滝壺のそばで、にとりはずっと、身じろぎもせず座り込んでいる。
その時不意に、風のせいではなく、誰かが茂みをかき分けた時に発せられる荒っぽい葉音がにとりの耳に届いた。彼女はその途端、弾かれたように音の方角へ振り返る。その時の表情は一変、眉をしかめた
「……あ……」
視線は、林の中から出てきた少年にぶつかった。山伏のような制服を着て小さめの剣と盾を携えた白狼天狗、ナキである。彼はその場で気まずそうな笑みを浮かべて、険しい面相のにとりと見つめあっていたが、やがておずおずとこう尋ねた。
「あの……この辺に、何か変わった事はありませんでしたか?」
「ないよ。いつも通りさ」
「そうですか……。ありがとうございます」
見回りの最中だったのだろう。ナキは道を教えてもらったよそ者のような腰の低さで笑みを張りつけて、深くお辞儀をし、また森林の中へ戻っていった。にとりは姿が見えなくなるとふぅーっと深いため息をつき、また視線を釣り糸の方に戻す。その表情はまた険しさを失い、代わりに先ほどより一層悲壮感を増していた。眉尻を下げ、口を重たく閉ざした顔が水面に映り、釣り糸から細かく伝わる波紋に合わせて儚げに震えた。
辺りは滝の音を残して静まりかえる。すると今度は、空の上からその静寂を破る能天気な声が降り注いだ。
「お~~い、にとり~~っ!!」
にとりはその声にふっと上を見上げる。聞こえた声と目に映った姿は見知った妖怪のものだった。
烏天狗の文である。彼女は上空から手を振るや黒の短いスカートを押さえながら急降下し、にとりの隣の岩に足をつける。高下駄の歯がぶつかってカツンと固い音がした。
「……文」
「三日ぶりですね。元気でした?」
「まあね、いつも通りさ」
文の問いににとりはそっけなく答えて釣り竿を放りだし、うんと伸びをする。文は立ったまま手を後ろに回し、笑みをたたえて相手を見つめていた。
その視線に数秒おいて気付き、にとりは怪訝そうに振り向く。
「……なに?」
「忘れたんですか? アレですよ。アレから三日」
「ああ、アレね……」
アレという言葉ににとりは思い当たるものがあったらしく、一つ頷いてリュックサックを下ろし、中身を探る。手でごそごそと取り出したのは、先日みてほしいと言われていた文のカメラであった。
「ありがとうございます~! これでいつも通り取材ができる!」
「そう、よかったね」
カメラを手に取り、文は喜色満面で接眼レンズをのぞき周囲を見回りまくる。にとりはそんな彼女を興味なさげに一瞥して、そのまま岩に仰向けに寝転がってしまった。
にとりの視界には、ねずみ色の曇天がいっぱいに広がる。鳥の一羽すら飛ばずに、白と黒の中間のグラデーションがかかった雲だけが風に流されるでもなく、夏の入道雲のように迫ってくるでもなく、ただただまんべんなく浮かんでいる。
にとりは目を細め、味気ないコンクリートのような空を眺めていた。その目の前に突如、カメラをかまえた文が割り込んでくる。
「……なに撮ろうとしてんの」
「なにって、写真ですよ? ほら、そんなしょげた顔してないで、スマイルスマイル」
「別に、しょげてやしないって」
にとりは半身を起こし、カメラを手で押しのける。文は諦めてカメラをしまうと、隣に腰かけた。
「それにしては暗い面持ちでしたよ?」
「……本当だってば。けど、イラつく出来事ならあったね」
「ほほう、何ですそりゃ?」
文が尋ねると、にとりは隣に座る友人に振り向き、眉を寄せて答えた。
「ほら、以前連れてきた男の子がいたろ。あの……誰だっけ」
「ああ、ナキ君ですか?」
「そいつそいつ。そのナキがね……」
にとりは途中まで言ってうんざりした様子でうつむき背を丸め、帽子の隙間から頭をかく。そして、早口にこう続けた。
「あれから毎日、会うたびに気まずそうな顔してくるんだよ。何か言いたい事あるなら言えばいいのに、はっきりしないんだから」
「気にしすぎじゃないですか?」
「んな事ないよ! 遠慮してるの丸分かりの顔だよあれは。かえってウザいっての」
「はあ……」
にとりがまくし立てる間、文はずっと控えめに頷いてその主張を聞いていた。ひとりしきり言葉がやむと、文は笑いかける。
「まあ、許してあげてください。言いたくてもなかなか言えない子なんですよ」
「……ずいぶんお節介なこと言うんだね。私まで優しくしてやれっての?」
「そうは言いませんよ? ムカつくなら避けても無視しても自由でしょう。どうせ彼は仕事で、決まった場所しか通らないんですから」
文はにとりのイラだちを受け流すように弁を述べて肩をすくめる。そして立ち上がるとスタスタとにとりの背中を回り、傍らに置いてある
「……あなた、毎日釣りするほど好きでしたっけ」
「…………」
にとりは居心地が悪そうに目を逸らした。文の言う通り、ナキの態度が気に入らなければ会わないようにすればいい。部屋にこもって機械いじりをしようが、仲間内で遊んでいようが非難する者はいない。大体、釣りの最中に顔を合わせたからといって、それがなんだと言うのだろう。名指しで文句を言われたでもなし、素知らぬ顔で日々の生活に戻ればいい。
面倒な事には関わらない。これまでも散々やってきたはずだった。しかしにとりはナキと会ってから、わざわざ顔を合わせそうな場所に毎日出かけて、しかもイラつきまで覚えている。はたから見れば益のない行為だった。
「口では色々言っても心配なんじゃないですか? ナキ君の事」
「バカ言うなよ。私に何か得があるかい? 何もないだろ」
にとりはぶっきらぼうな口調で即座に否定したが、その表情はどこか気が咎めているようだった。文は手を後ろで組んでそっぽを向き、妙に白々しい口調でこう言った。
「まあ良いんですけどねぇ。にとりがどうしようが」
「当たり前だい。もういいよ。仕事に戻りなよ」
鬱陶しげに長靴の底を岩にぶつけ、にとりは置いてあるリュックサックにもたれかかる。そんな彼女を、文は目を細めてチラチラと見る。
「……なにさ」
思わせぶりな文の態度に、にとりは怪訝な目を向ける。目が合った文は珍しく穏やかな微笑を浮かべて、少しだけ腰を屈めて言った。
「もし、なんの得もないのに放っておけないなら、それは善意ってやつですよ。多分」
「……へぇ、アンタもそうだっていうの?」
「さぁ、どうでしょうねぇ」
とぼけながら文はにとりを見下ろす。にとりはそのしぐさに、なんとも言えないむず痒いものを感じた。
それを振り払うように頭をがしがしとかき、なげやりな調子で叫ぶ。
「ああもう、釣れない! 場所変える!」
「あら」
にとりは弾かれたように立ちあがり、リュックサックを背負って釣り竿と
残された文は遠くなっていく背中を見ながら「あやや、怒らせちゃいましたかね」などと言ってため息をつく。そして、ふと何かに気づいたように空を見上げ、じぃっと目つきを鋭くした。
いつの間にか灰色から、どす黒いねずみ色に変わった空。風はまるで獣のうなり声のように低く、おびえるように草木がざわめく。
「こりゃ降ってきますかね……」
文は空をにらんだまま呟いた。風に敏感な烏天狗である文は、恐ろしげな風の中に生暖かい湿り気があるのを、確かに感じていた。
――
「これで全員ー!? 誰かいないとかありませんかー!!」
「うわー! ひでぇ、嵐だよこれ」
「もぉー、びしょ濡れーっ!!」
一時間ほど経った頃、天狗の本拠地の門前で椛が懸命に仲間の天狗たちを屋敷に誘導していた。すでに幻想郷全体を重たい雨雲が覆い尽くし、バケツをひっくり返したような大量の雨が、屋敷に入ろうとする長蛇の列に容赦なく降りかかる。
空の方では年長の天狗たちが、豪雨や突風をいとわず避難を呼びかけていた。
最初はポツリポツリと小雨が降る程度だったが、瞬く間に雨は勢いを増し、風は枝を折り家の戸を引き剥がすほどにまで荒れ狂いだした為、天狗たちは仕事を中止して屋敷に一斉に避難せざるを得なくなったのだ。
「雨が止むまで絶対に外に出ないでください!! 特に川のそばには絶対に近寄らないで!!」
屋敷の門前で、椛は番傘を手に指先や肩が震えるのをこらえつつ、喉が枯れんばかりに注意を促した。彼女からすれば注意するまでもない事だったが、いつでも危ない行動を取ろうとする輩はいる。椛は隊長として、その抑止に努めねばならなかった。
しかし、部下たちに声を張り上げる一方、胸の内ではある不安が渦巻いていた。
(ナキ……無事かな……)
ナキの灰色の髪と尻尾は、他の白狼天狗と並べるとそれなりに目立つ。気のせいだとしたら何よりだが、椛は避難する人々の中に、ナキの姿が見当たらないような気がしていたのだ。
泣き虫な彼のこと、どこかで恐怖にすくんで動けなくなってしまうかもしれない。そう考えると、仲間を誘導する間にも表情は悲しげになっていく。
「おい椛。その辺にしておけ」
「……あ、大天狗様……」
背後からの太い声に振り返ると、椛を見下ろす大天狗の姿があった。両脇にお付きの烏天狗を置き、少し飛んで上から傘を差させている。
「そこまで必死にならんでいい。多少の混雑など大したことではない」
「しかし万が一という事もあります。全員の収容を確認するまで……」
「やめいと言うのに!」
食い下がろうとする椛を一喝する大天狗。椛含め周囲が一瞬体をこわばらせる。続けて大天狗は言った。
「まるで儂が仕事してないみたいじゃないか……」
ぼそりとした呟きだったので、椛と付き人の烏天狗だけがげんなりと体を弛緩させる。その反応に気づいていないのか、大天狗はブツブツと当てつけのような事まで言い出した。
「白狼天狗が何人か戻ってきていないらしいぞ。点数稼ぎをしておる場合か?」
「……!」
その言葉に椛は思わず唇を噛むが、しかし怒りより恐れが上回った。
白狼天狗が足りない。やはり順当に避難出来なかった者たちがいる。だとしたら一刻も早く見つけ出さなければ……!
椛が次々と思い浮かぶ悪い想像を振り払っていると、今度は上空から呼ぶ声がした。
「椛~~っ!!」
一帯に響く大声に振り返ると、猛スピードで文が飛び降りてくる最中だった。椛の目の前にぶつかりそうになりながら、文は泥を跳ねさせながら着地する。なにやらぜいぜいと荒い呼吸をし、顔は焦りに満ちていた。
「……どうしたんです」
滅多に見ないほどの焦燥に、椛は真剣な顔で問う。文は苦しそうに数回せきをした後、つっかえながらこう話した。
「にとり、を……見ませんでしたか……? さっき河童が……釣りから……戻らないって……」
「ええっ!?」
椛は驚愕の声をあげる。立て続けに明らかになる行方知れずな者たち。文の微塵もふざけていない目を見つめながら、椛はなかなか状況を理解しきれずにいた。
そして直後、無意識に脳内である予想が組み上がる。姿の見えないナキ。戻らない何人かの白狼天狗。
その予想が完成した瞬間、椛は大天狗へと振り返り、食い入るように叫んだ。
「大天狗様! ちょっとこっちをお願いします!!」
「は? お、おいどこに行く!?」
「文さんはにとりを探してください!」
「へ? 椛!?」
椛は周りがいぶかしむのも構わず、雨の降る山道を駆け出した。探す連中がどこにいるのか、確証などありはしない。ただ、どうしようもなく気がかりなのだ。
いつでも危ない行動を取ろうとする輩はいるのだから。