声に出して語られるせりふは「 」で,
心の中のつぶやきは〔 〕で示しています。
Pixiv,「小説家になろう」にも投稿しています
国家試験結果発表の日の夕方,ボクはドレスを着て初めて1階のバーに入った。開店まぎわの時間。
「カヨコさん,受かりました。自信を持ってこの姿をお披露目できます」
「おめでとう・・・・ああ,やっぱり美しい服は美しい人に着てもらうのが一番」
そう言って,彼女はボクをじっと眺めている。
「・・・・あのー,座ってもいいですか?」
「ああ,ごめんなさい。つい見とれてた」
彼女は笑って返事をする。
「それにしても,素顔でこれだけきれいなら,化粧したらどれほど美しくなるんでしょうね。藤原さんは,化粧したことないの?」
ボクは首を振る。
「それなら,わたしが藤原さんをメイクしてみたい」
「えっ・・・・でも,今は・・・・」
突然そんなことを言われてあわてるボクを見て,彼女は笑った。
「今この場で,とは言わないわ。安心して」
ボクは,ほっとしながら,まだどぎまぎしていた。ただ,このやり取りのおかげでボクがカヨコさんにお願いしようと思っていたことは言い出しやすくなった。
「あのー,お願いがあるんですけど」
「なーに?」
「この場では,わたしのことを『藤原』ではなくて『ロミー』と呼ぶようにしてくれませんか?」
「ロミー?」
「ええ・・・・親しい間柄では,そう呼ばれているんです」
ほんとうは,ボクをロミーと呼ぶのはヒカルだけ,あと千葉の“Romy”のママだけだけど。
「まあ,美人からたってのお願いと言われれば,きくしかないわね」
「ありがとうございます。それと,わたしが医者だということも,伏せておいてください。ここでは,お医者様の藤原先生ではなくて,ロミーでいたいんです」
彼女はうなずいた。
「それは何となく分かる。じゃあ,ロミーさんは『謎の美形』ということにしましょう」
彼女は笑った。ボクもつられて笑う。それから,そもそもここに来た用件を思い出した。
「ところで,カヨコさん,カメラ持ってますか?」
「ああ,わたし,カメラは持ってないわ。自分の写真をほしいの?」
「ボクの姉が,ドレスの話をしたら,わたしのドレス姿を見たがっているんです。それで,『写真を撮ってもらって送りなさい』って書いてよこしたんです」
「そりゃあ,誰だってロミーさんのドレス姿は見たがるわ。まして,お姉様なら,なおさら・・・・ところで,今,ロミーさん,自分のことを『ボク』と言わなかった?」
ボクはたった今の自分のせりふを思い返した。確かに,そう言った。意識的ではなかったけど,「ロミーさん」と呼びかけてくれる相手に自分のことを「わたし」と言うのはよそよそいい気がしたのかも。
「まあその方が,女だと誤解されて口説かれたりせずにいいかもね・・・・それはそれとして,写真の話,そういうことなら,ここのお客さんで写真が趣味でいつもカメラを持ち歩いている人がいるから,その人が来たら,呼ぶわ。ドレスを着て降りておいで」
「えっ・・・・でも,そんなこと,お客様にお願いしていいんですか?」
「構わないわよ。と言うか,あなたのドレス姿を見れば,彼の方からぜひ写真を撮らせてくれって頼み込むわ」
こんな話をしているうちに,1人目のお客が入ってきた。
「じゃあ,カヨコさん,またね」
と言ってボクはバーを出た。すれ違いに入ってくるお客がボクの方を振り向いた。
1週間ほどして,めったに鳴らない電話が鳴った。出ると1階のカヨコさんだった。
「今,ちょうど写真が趣味のお客さんが来てるの。ドレスを着て降りておいで。写真を撮ってもらいなさい」
そう言われて,ボクはいそいそとドレスに着替えて下に降りた。
ドアを開けて入ってきたボクを見て,お客が「ほう」と感心したような声を発した。カヨコさんは〔ほらね〕というような表情。ボクが入り口で戸惑っていると,
「さあ,入ってらっしゃい」
とボクに声をかけ,それからお客に
「これが噂のロミーさん」
ボクは笑みを浮かべて会釈した。何か話し込まれるより,すぐに撮影を始めてほしいので,椅子に座らずそのまま立っている。
「被写体として,申し分ないでしょう?」
「確かに」
お客は納得したようにうなずき,
「じゃあ,すぐに撮り始めよう」
と言って,自分も席を立った。それからボクは,立ったり座ったりいろんなポーズで写真を撮られた。一通り撮影を終えて,客はちょっと思案して,
「そうだな,カウンターに腰掛けて,足をぶらぶらさせてみて。靴を脱いで,はだしで」
ボクは言われたとおりにする。
「ああ,いいね。容姿とドレスのエレガンスと,その気楽な姿勢のコケティッシュのミスマッチ感がとてもいい。できれば表情も,もうちょっと打ち解けてというか,いたずらっ子みたいな,小悪魔みたいな表情できるかな」
小悪魔みたいなと言われても困ってしまったけど,ヒカルと二人でリンゴを丸かじりしあった時の表情を思い出して,それらしい表情を作ると,彼は「OK」と言ってシャッターを切った。
「写真ができあがるのが楽しみね」
「そうだね」
というカヨコさんと客の会話を聞きながら,ボクがバーを出ようとしたら,呼び止められた。
「ロミーさん,次はお化粧した姿を撮影するのよ」
「えっ,今ですか?」
「こんな機会を逃しちゃダメよ。ロミーさんの一番きれいな姿を写真に残せる機会じゃないの」
こうまで言われると,断りきれない。
ボクは椅子に座った。カヨコさんは,初めのうちはカウンター越しにボクに化粧していたけど,
「ここからじゃ遠すぎるわ」
と言って,ボクの隣に座った。
「こっちを向いて」
言われるままに,カヨコさんの方を向く。カヨコさんは真剣な表情でボクを化粧している。その後から客が,
「このシーンも撮っていいかな?」
ボクが何か言う前にカヨコさんが
「もちろん,いいわよ」
と答え,シャッターがパチパチ切られた。その音が気になってボクがカメラの方を見ようとすると,
「だめよ。まっすぐこっちを向いて!」
と叱られた。・・・・どれくらい,そうしていたのだろう。時間としては長くない。せいぜい,15分か20分くらい。だけど,ボクにとっては長かった。
「・・・・さあ,できあがり。鏡を見てごらん」
と言って差し出されたカヨコさんの手鏡の中のボクの顔。生まれて初めて見る化粧をしたボクの顔。
「自分でも見とれるでしょう」
見とれてる,わけではないんだけど,じゃあ何と説明すればいいんだろう,今のボクの気持ち,化粧した自分の顔を見ているボクの気持ち・・・・。
「じゃあ,またポーズをとって」
ボクは人形のように言われるままにポーズをとり,写真を撮られた。でも,不愉快ではなかった。むしろ,そんな自分をおもしろそうに眺めているもう一人の自分の視線を感じるようになった。
また1週間ほどして,彼が焼き増しした写真をもって来てくれた。カヨコさん用とボク用の2セット。化粧の前と後,ほとんど同じポーズで撮っているけど,ちょっとばかり違いがある。
「素顔は素顔で,いいわね」
と,あんなに真剣にボクを化粧したカヨコさんが言う。ボクは,化粧されるのをためらっていたのに,出来上がってきた写真を見ると,化粧した顔もいやではない。ただ,化粧のあるなしに係わらず,やはり,あのカウンターに腰掛けたポーズの写真が一番いい。ボクだけでなく,ほかの2人もそう言っている。
「もちろん,ほかの写真も上出来だけどね。メイク中の写真だって」
とカヨコさん。ボクはヒカルの分としてもう1セット焼き増しを頼もうと思ったけど,考え直した。ボクの分を送ればいいんだ。手元に取っておくこともない。自分の写真を自分でしげしげと眺めるのも奇妙なものだから。
写真に添えたヒカル宛の手紙には,撮影の状況を説明するだけじゃなく,その頃すでに始まっていた健診の仕事での経験も書き綴った。
- Ma chère soeur, Dear my sister ヒカル
・・・・1階のバーで写真の撮影だけやってたわけじゃないんだよ。もうお医者様としての仕事も始まっています。企業健診の仕事だけどね。健診会社の人が言ってたように,たいていの受診者は「健診なんかさっさと済ませたい」みたいな感じで,ボクが「何か質問,聞きたいことはありませんか?」と尋ねても「ありません」と答えるんだけど,何十人に一人くらいは真剣に相談されることもある。ボクがその場で答えられることは答えるし,専門的な診療を受ける方がいいケースなら,「循環器科に」とか「整形外科に」とか,受診すべき科を教えて受診を勧めている。たまには,興味深いケースにも出くわすよ。シェーグレン症候群とか線維筋痛症とか。シェーグレン症候群は膠原病科を紹介すればいいんだけど,線維筋痛症はどこを紹介すればいいんだろうね?・・・・
Romy ロミー -
この手紙に,ヒカルはかなり長い返事を書き送ってくれた。
- ロミー,写真をありがとう。期待以上にきれいよ。素顔も,化粧した姿も。ほんとうに素敵なドレスね。正直に打ち明けると,ロミーを初めてメイクした人がわたしじゃないのがちょっとばかり妬ましい。でも,たいした嫉妬じゃないから,心配しないで。メイク中の写真に後ろ姿が写ってる人がカヨコさんね。70歳くらいだそうだけど,背筋がきちんと伸びていて,それだけでもおしゃれな人だと思うわ。
シェーグレン症候群は,わたしはまだぶつかったことがないよ。それとも,見逃しているのかな? 線維筋痛症はねえ・・・・たとえ確定診断できても特効薬があるわけじゃないし。三環系抗うつ薬だって,必ず効くというわけではないからね。患者の状況を詳しく聞いて,いろんな治療を試すしかないんだろうね。・・・・医学部の授業では,原因を叩く対因療法こそが治療の王道で,対症療法はその場しのぎ,みたいな考えを教え込まれるけど,原因が分からない病気もあるし,原因が分かってもその原因そのものには対応のしようのない病気もたくさんあるよね。逆に,とりあえず今この時の辛い症状を対症療法でしのいでいれば,いずれ患者自身の自己治癒力で病気は治るってケースも結構あるんだよね。そう考えると対因療法を絶対視しなくてもいいのかも。
最近,漢方の勉強をしている。漢方にもいろんな流派があって,病因について陰陽,表裏,寒熱とかを組み合わせて思弁的な病因論を展開する流派もあるけど,わたしが気に入ってるのは,そんな思弁をすっ飛ばして,「こんな症状と,こんな症状と,こんな症状があって,触診でこんな所見があれば,この処方」みたいな,究極の対症療法のような発想をする流派なんだ。病因に迫れないケースでは意外に重宝するよ。・・・・ -
こんなふうに手紙でヒカルと臨床の仕事について語り合えるのがうれしかった。ヒカルと同じ医学部に進学したことを悔やんだこともあったけど,やっぱり医者になってよかったと思う。
池袋のクリニック・アンジュの仕事が始まるまで,週4~5回健診の仕事を引き受けながら,夕方1階のバーに顔を出した。週2~3回というか,2~3日に1回というか,それくらいの頻度で。
カヨコさんは歌が好きで,気が向くと歌って聴かせてくれる。カラオケじゃなくて,独唱で。
「歌がうまいんですね。伴奏なしでそんなに歌えるなんて」
彼女はちょっと照れて,でもうれしそうに笑顔を見せる。それから,昔を懐かしむような表情になった。
「子供の頃,周りから『歌がうまい』って褒められて,歌手になりたくって東京に出てきたの。15~16の頃よ。もちろん,世間はそんなに甘くない。売れない歌手をしながら銀座で働き始めた。勤め先のクラブで歌うこともあって,そこでも『うまい』って褒めてくれるけど,結局,そのレベルだったの。たまにプロの歌手,あの頃だと近江俊郎とか雪村いずみとかが歌いに来るんだけど,確かに格が違うと思ったわ。それでも夢を捨てきれなくて,この店を開いてからもしばらくは夢を追っていた。ほんとうに諦め切れたのは10年目くらいかな。だから,その頃の歌をよく歌うの。今から20~30年くらい前,ちょうどロミーさんが生まれた頃かしら」
それから,ちょっと間を入れて,話しを続ける。
「・・・・まあ時代的にも,一番楽しかったかも。自分の城を持って,自分の思うようなやりかたで店をやれるというか,自分なりの店のやり方を見つけて安定してたからね・・・・ロミーさんは自分の城を持つつもりはないの?」
「自分の城?」
「つまり,自分のクリニックを開業するつもりはないのかってこと」
「そんな・・・・医者になったばかりなのに」
「そんなこと言ってたら,いつまでたってもできないよ。できない理由はいくらでも思いつけるんだから」
ボクはなんとも返事できない。そんなボクを見て
「女は度胸よ・・・・まあ,男も度胸だけどね」
と言って,彼女はいたずらっぽく笑った。
「カヨコさんは『女は度胸』と思って店を出したんですか?」
「うん。度胸と意地と見栄よ」
1階のドアに「小石」と書かれたプレートが掛けてあるのに気づいたのは,こんな話をした前だったか後だったか・・・・。バーの名前なんだろう。この場所にふさわしいい名前だと思った。存在感を主張しない,道ばたの小石。知らない人はバーとも思わずにその前を通り過ぎるだろうこの隠れ家的なバーにふさわしい名前・・・・。
「カヨコさん,『小石』という名前には何か由来があるの?」
「実は,あるのよ。フランス語なんだけどね」
「フランス語?・・・・小石=“Caillou”(カユー)・・・・」
というボクのつぶやきをカヨコさんは聞き逃さなかった。
「ロミーさん,フランス語もできるの?」
「うん,まあ・・・・」
「すごいわね」
と言って,彼女は説明してくれた。
「よく,ママの名前をそのまま名前にしたバーって,あるでしょう。それこそ『かよこ』とか『じゅんこ』とか『あけみ』とか。そんなのは,いやだったのね。でも,やっぱり自分の名前にどこか縁のある名前にしたかった。それで,その頃のお客さんだった仏文の先生に相談したら,カヨコという音に似たカユーというフランス語の単語があって,小石という意味だと教えてくれたの。自分でも気に入って,この名前にしたの」
はじめの頃はほかのお客さんが入ってくると入れ替わりのように出て行っていたボクも,この頃になるとほかのお客さんがいる間もしばらくはカウンターに留まるようになり,だんだんとほかのお客さんにも顔を覚えられ,「ロミー」とか「ロミーさん」と呼ばれるようになった。
かれらはみなボクよりずっと年上。一番年上のお客たちは,カヨコさんが銀座でホステスをやっていた頃からのなじみで,彼女より10歳くらいも年上なのだろうか。一番若くても50歳前後くらい? ボクの親か祖父母の世代。当然,ボクは異分子だった。でも,異分子として排除されるわけではなく,異分子として受容されるというか,珍しい生き物のように受け入れられているというか,そんな奇妙な,ボクとしては決して不愉快ではない,むしろ居心地の良い立ち位置だった。
「何たって,美人は得よね。美人なら,たいていのことは許してもらえる。それと,年の差ね。ほとんど孫みたいなものだからね。孫はどんなんでも,いたずらっ子でも泣き虫でも,可愛いものよ。ましてロミーさんは,立ち居振る舞いがエレガントだから」
と,カヨコさんはほかのお客さんたちのボクへの態度を説明してくれる。〔ほんとうかな?〕
こんなふうにバー「小石」に奇妙になじんでいった頃,ボクは以前から気になっていたことをカヨコさんに尋ねた。
「ここで仕事をしているところを見ている限りでは,とてもお元気なんだけど,それでもあの階段の上り下りはきついですか? まあ,そうであればこそボクは部屋を借りることができて,カヨコさんと知り合うこともできたんだけど」
「うん」
と答えて,カヨコさんはちょっと間を置いた。
「カウンターの中をちょこまか歩くのと,階段を上るのとは,違うのね・・・・去年の秋頃から急にきつくなったの,あの階段の上り下りが。それまでは平気だったんだけど。まあ,これが年を取るってことなのよね。それまで平気だったことができなくなる・・・・」
階段の上り下りが急にきつく感じられるようになった・・・・この言葉を聞いてボクの中の「医者モード」が立ち上がりかけた。確かに,ふつうの加齢現象かもしれないけど,ひょっとしたら病的な要因が潜んでいるかもしれない・・・・〔いや,余計な詮索はやめておこう。この場でそんなヤボなことはしたくない〕と思ってボクは,立ち上がりかけた「医者モード」を終了させた。