ヒカルと,父と過ごすお正月。特別なことはない。3人ともおせち料理は嫌いだから,作りもしないし,買いもしない。
「正月だからといって,無理して嫌いなものを食べることはない」
という,こういう点は合理的な父の発案にボクたちも従う。いつものように,ボクはほとんどヒカルと過ごし,父と顔を合わせるのは食事の時くらいだけど,それは子供の頃からのことだから,今さら何も言われない。父は好きな映画のビデオを見て過ごしているらしい。1度だけ
「一緒に見ないか。たぶん,お前たちも好きなはずだ」
と声を掛けられた。『天井桟敷の人々』だった。ボクはヒカルと顔を見合わせた。そして素直にソファーに座り,3人並んで鑑賞した。
「ヒロミは,字幕を見なくても分かるのか?」
さすがに,それは無理。
「それは無理だよ。字幕を見ながらせりふを聞いていれば,フランス語で何を話しているかは分かるけど」
「それでも,すごいな」
父に褒められて,ボクもつい饒舌になる。
「たまにフランス語のせりふを聞きながら字幕を見て,『えっ,なんでそんな訳になるの』と思うこともある。逆に『ああ,うまい訳だな』と思うこともあるけど」
ボクの自慢を聞いて,父はテレビ画面の方を見ながら笑っている。そんな父の横顔をボクはちらりと見る。こんな穏やかな会話を交わすのは何年ぶりだろう? ひょっとして,初めて?
ボクはヒカルにピーターのことを話す。ボクがピーターの運命を免れたのは,ヒカルがいたからだということも。ヒカルは,何も言わず,何も口を差し挟まず,じっと聞いている。大晦日のことも話した。
「そう言いたくなるピーターの気持ちも,そう問われて困ってしまうロミーの気持ちも,どっちも分かる」
しばらく黙っていた。
「それにしても『どうして,キミなんだ? どうして,ボクじゃなくてキミが・・・・』って,そこまで他者の運命に深く思い入れられるのは・・・・」
「医者としては,問題?」
ヒカルはボクをしっかり見据える。
「人間としては,すばらしいわ」
「でも・・・・」
「でも?」
ボクはうつむく。
「ピーターとボクの境遇の違いを考えると,不幸を知らずに育ったボクは結局ピーターの悲しみや苦しみをほんとうに理解することも,ピーターを助けることもできないんだよ」
「そんなことはない」
ヒカルはしっかりした口調で答える。ボクはヒカルを見る。ヒカルはちょっと考えて,言葉を継ぐ。
「だって,もし不幸を知らない存在が人間を助けることができないのなら,天使は人間を助けることができないじゃない」
ヒカルはまっすぐボクを見ている。それから,ふと笑みを浮かべる。
「でも,そんなことはない。天使はちゃんと人間を助けることができる。だから,背理法によって,最初の前提,『不幸を知らない存在が人間を助けることができない』は間違っている。Q.E.D.」
ヒカルは笑みを浮かべながらじっとボクを見つめる。
「ヒカル,ありがとう」
別の日には,4月から二人で住む部屋について話し合った。
「部屋を探しに2月か3月,一度東京に来る?」
「ロミーに任せるわ」
「ボクが一人で決めていい?」
「いいわよ。千葉の時は,わたしが一人で決めた部屋にロミーがやって来たんだから,今度はロミーが決めた部屋にわたしが行くわよ」
「あの時と同じくらいの部屋でいい?」
「うん。あの頃から,そんなに荷物は増えていないから。医学関係の本は診察室に置いてもいいんだし」
1月4日の夜,電話が鳴った。出ると,
「あっ,ロミー,戻ってるんだね。これから行くよ」
と言うだけ言って,ピーターは電話を切った。それから30分ほどして,やって来た。ドアを開け,すぐそばの椅子に座っているボクに抱きついた。
それから,ピーターは毎日やって来る。ただ,時おりポツリと語る話の中身が変化し始めた。
「エイズになったから,ロミーはこうやって毎日ボクと会ってくれるんだね。エイズに感謝だね」
「むかしから,30過ぎたら生きていけないと思っていたんだ。年を取ってきれいじゃなくなったボクなんて,何の取り柄もないから」
「長生きしたからって,幸せとは限らないよね。年取って悲惨な目に遭ってる人はたくさんいるから」
東京の冬の夜。日中は晴れ渡った空から日が差して,北九州より暖かいくらいだけど,日が落ちると冷え込む。空気が乾燥しているから,冷え込みが厳しく感じられる。そんな夜。バーでほろ酔い加減になって帰るお客に
「酔っ払って,外で寝ないでくださいね。東京だって,凍死するよ。とくにお酒を飲んでいると血管が広がっていて熱を放散しやすいから,冬に酔って外で寝るなんて『凍死したい』って言うようなものです」
と声をかけた。もちろん冗談半分,いや100%冗談。相手も
「そんなみっともないこと,しないわよ。そもそも,これくらい酔ったうちに入んないんだから」
と笑って出て行った。ドアから視線を戻すと,ピーターと目が合った。ピーターはそっとうつむいた。
その日は水曜日の夜だった。翌日が木曜日だから,間違えはしない。ピーターはボクの隣の椅子に座り,体をもたせ,ボクの肩に頭を乗せた。
「ロミー,あの時みたいに頬を髪につけて。そして,髪を撫でて」
ボクは思い出した。ウェスタンブロット検査の結果を伝えた日の夜,ピーターが初めてここにやって来た時のこと。ボクはそっと頭を傾け,頬をピーターの髪に触れさせた。そして髪をくしけずるように撫でた。ピーターはそのまま黙っている。それからポツリと,
「ずーっと,このままでいたいね。ずーっと・・・・」
どれくらい,そうしていただろう。この日はピーターの方が
「そろそろだね」
と言って椅子から立ち上がった。
「もう,いいの?」
「うん」
そう言ってドアに歩きかけて,ボクの方を向いた。
「ロミー,最後にキスして」
「いいよ」
ボクは,ピーターの唇を待ち受けた。
「違うよ。ボクがキスするんじゃないの。ロミーがキスするんだよ」
「・・・・あっ,そういうこと」
「そういうことだよ」
「わがままだなあ」
と笑って,ボクは,待ち受けているピーターの唇にそっと自分の唇を触れた。
「ありがとう」
ピーターは明るい笑顔でボクに礼を言い,
「それじゃあ,さよなら」
と言って出て行った。
翌日の夕方,そろそろ仕事も終わりかける頃,笠原さんが
「先生,警察署のかたが,先生にお尋ねしたいことがあると」
と言って,警察官らしき人と一緒に診察室に入ってきた。警察官は警察手帳を見せ,
「ここを受診しておられたカワカミ・ノボルさん,通称ピーターさんについてお尋ねしたいことがあります」
と用件を告げた。
「ピーターが,どうかしたのですか?」
「今朝,染井霊園で凍死体で発見されました。状況から,他殺の可能性は低いと考えていますが,事故的な凍死ではなく,自殺の可能性が高いので,それについて何か有益な情報があればと」
ボクはその瞬間,頭の中が真っ白になった。
「先生!」
「先生!」
笠原さんと警察官がほとんど同時に声をかけた。それでボクは我に返った。
「去年の10月,HIV感染が発覚しました」
「去年の10月ですか? 最近のことではなくて?」
「はい。去年の10月です」
ボクはピーターのカルテを呼び出した。間違いなく,去年の10月。
「貴重な情報をありがとうございます」
その日,帰宅すると郵便受けに手紙が入っていた。封筒を裏返すと「ピーター」とだけ書かれている。ボクは階段を駆け上り,あわてて封を切った。2枚の写真がすべり落ちた。1枚はピーターの写真。もう1枚はピーターが「ボクの神様」と言ってたピーター=池畑慎之介の若い頃の写真。そして,1枚の便箋には,ほとんど仮名ばかりが並んでいる。
- ロミー びっくりした?
ゆうれいじゃないんだよ 死ぬまえにかいて ポストにいれるんだからね
死にかたはロミーがおしえたんじゃないよ ボクがじぶんでかんがえたんだよ
おバカなボクでも これくらいはかんがえられるよ
だから ロミーのせきにんじゃないんだよ きにしなくていいんだよ ボクがじぶんでかんがえたんだからね
お金がなくなったんだ
やちんもはらえない なにもかえない たべるものも のむものも なにも
死ぬしかないよね
それに ボクはわかくてきれいなうちに しょうひんかちがあるうちに 死にたかったんだ
だから ちょうどいいんだよ
ロミー 好きだよ 大好きだよ ふじわらせんせいも好きだけど ロミーのほうがもっと好き
ロミーも ボクのこと好きだよね
好きでないと キスとかしてくれないよね
しゃしんは ボクがいちばんきれいにとれているしゃしんと
おまもりにしていた ピーターさんのしゃしん
もっててね ずーともっててね -
〔ピーター,どうしてボクを頼ってくれなかった? 家賃が払えないなら,うちに泊まればいいじゃないか。二段ベッドなんだから,ピーターも寝れるよ。ヒカルがもうじき東京に来るけど,ヒカルだってピーターを愛してくれるよ。ぜったい。ごはんもうちで食べればいいんだよ。ピーターの分の食費なんて,たいしたことないだから・・・・どうして,ボクを頼ってくれなかった? どうして,勝手に思い詰めて,勝手に死んだんだ?・・・・〕
少し気持ちが落ち着いてくると,読み書きできないと言っていたピーターが一生懸命手紙を書いている姿が思い浮かんできた。ひょっとして,生まれて初めて書いた手紙? それも,ボクに責任を感じさせないために,死に方は自分で思いついたんだとボクに伝えるために,そのために,書き慣れない手紙を一生懸命書いてくれたの? どうして,そんなに過酷な人生を生きてきて,そんなに優しくなれるの?・・・・
そして,ボクは思い出した。「ロミー,最後にキスして」と言ったピーターの言葉。「最後に」というの「今日の最後に」という意味ではなかったんだ。
放心したような状態で,ボクは奇妙な連想をした。ピーター。英語でPeter。フランス語ならピエールPierre。Pierreは普通名詞で「石」という意味もある。石・・・・小石。・・・・親しい人,大切な友が死んだ時,人はこんなつまらないことを考えるものなのか。
翌日のクリニックで,ピーターのことがニュースで報じられていたと笠原さんが教えてくれた。発見されたピーターは,酔っ払って転んだようなふうではなく,きちんとした姿勢でコートを脱ぎ,セーターのボタンを外して寝た状態だった。そばに,半分くらい空いたウィスキーのポケットボトルがあった。
金曜日,土曜日,仕事はそつなくこなしたはず。頭の一部が放心しながら,ほかの部分はしっかり働いている。もちろん,そうでないといけない。とりわけ医者は,そうでないといけない。ただ,ふと手が空いた時,涙が溢れそうになる。
日曜日,ヒカルに手紙を書こうとした,けど,書けなかった。月曜日,なんとか書けた。事実だけを,出来事だけを淡々と書き綴った。
1週間ほどして,ヒカルから返事が来た。ヒカルも,特別な慰めの言葉などは書いていない。ただ,
- 結局わたしはピーターにも会えなかったね。カヨコさんにも会えなかった。-
と書いてあった。
3月,ヒカルを迎える準備を始める。こういう「実務」をしている方が,悲しみがまぎれる。
まず,部屋。今の家から歩いて3分くらいの広めのワンルームマンションを見つけた。それから,笠原さんに話を通しておく。ボクの姉が駒込に開業するという話を聞いて,彼女はよろこんだ。
「メンタルのこともそうですけど,検査で陽性の人たちの治療もお願いしたい。検査は自費だけど,治療は保険が使えるます。ただ,ここは自費診療しかしていないから,治療も自費になる。だから,保険を使える一般のクリニックも紹介するのですが,そこですんなり治療してくれるとは限らないのです。『うちでもう1度検査して確認します』なんて言われることもあって。ここの検査結果を持って行ってすぐに治療してくれるクリニックがあれば助かります」
「でも,そしたら,結果として,治療のためにここを受診する患者さんを奪うことになりませんか?」
「その心配はご無用。おかげさまで受診者が増えていて,現状は検査だけでもけっこう手一杯なのです。できれば治療は全部よそに任せたいくらい」
「それは,ちょうどよかった」
それから,開業に当たって必要な手続きを調べておく。診療所開設届け,保険医療機関の届け出,健康保険支払い側への届け出など。ただし,これらはみな実際に開設してからの届け出であって,事前に届け出ることはできないらしい。届け出用紙は揃えておいた。そして,薬問屋と検査会社との取引開始の手続き。これは,開業前から話を進めておける。
3月末にボクが引っ越し。2日後,ヒカルがやって来た。その翌日,ヒカルの荷物が届いた。荷物を片付け終えて,二人で1階のバーに出かけた。去年の8月と同じように,カウンターに並んで座って,ヒカルはコーヒー,ボクはカフェオレを飲む。
「昔と同じ暮らしがまた始まるんだね」
「二人の暮らしを新しく始めるのよ」
と答えるヒカル。
「だって,別れて暮らしていたこの3年,とりわけロミーが医者になってからのこの2年,いろんなことがあったでしょう。二人とも昔のままじゃないわ。だから,新しく始めるのよ」
ボクはちょっと気遣わしげな視線をヒカルに向ける。そんなボクにヒカルは語りかける。
「わたしはともかく,ロミーはこの2年で・・・・」
ヒカルは言葉を詰まらせた。
「ロミーが2年前と何も変わっていないとしたら,カヨコさんやピーターに申し訳ないじゃない」
ボクはうつむく。〔そう,そうだよ。ボクはこの2年ですいぶん変わった。成長したのかも。でも・・・・〕
「でも,ヒカル・・・・変わらないものもあるんだよ。ヒカルは,ぼくにとって,世界でたった一人の姉,ボクの最愛の姉,それは変わらないよ」
ヒカルはボクの肩を抱いて引き寄せた。
「もちろん・・・・ロミーは,ロミーは,世界でたった一人の弟,わたしの最愛の弟。それは変わらない」
そう耳元でささやかれて,ボクは頬が熱くなるのを感じた。なぜ,今さら? ヒカルに肩を抱かれるなんて,とっくに慣れてるのに,何百回も何千回もされたことなのに・・・・ボクは小さな声で昔の歌を歌う。
“Our life is like a circle, without beginning no end”
(ボクたちの生活は円のよう。始まりもなく終わりもなく)
ボクは26歳。ヒカルは27歳,7月で28歳になる。これらの二人の生活は永遠に思えた。