ロミーVer.1:第2部-悲しみの向こう   作:松村順

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第2話

 5月も下旬になり,池袋のクリニック・アンジュでの仕事が始まった。

クリニック・アンジュ初出勤の日。あらかじめ笠原さんから

「初日だけはちょっと早めに15分くらい前に来てください。スタッフに紹介しますし,診察室の備品とかも説明します」

と言われていたので,20分くらい早めに出勤した。ドアを開けると,待合室にスタッフが集合していて,ボクを見て一斉に「おはようございます」とあいさつしたので,ボクも反射的に「おはようございます」とあいさつして,笠原さんの脇に立った。笠原さんが,

「木曜日,金曜日,土曜日の診療を担当してくださる藤原ヒロミ先生です」

と手短に紹介した。それで終わり,のはずだったけど,スタッフの一人が

「外人の女医さん?」

とつぶやいたので,ボクは

「いえ,日本人です。女医ではありません」

と説明したら,スタッフ全員の視線がボクに集まった。この反応には慣れているから,ちょっとほほえんだ。この場面は,

「じゃあ,先生,診察室を案内します」

という笠原さんの声で終了した。

 診察室は,ごくありふれた机の上にパソコンが置いてある。

「電子カルテというほどではないのですが,オーダリングシステムを導入しています。ここのパソコンと検査室のパソコン,受付のパソコンがつながっていて,先生が検査や薬をオーダーされれば,それがすぐに検査室にも受付にも反映されます・・・・先生,パソコンは?」

「文章入力は慣れていますよ。ほかの操作も,まあそこそこには」

「ああ,それなら大丈夫です・・・・ここに,一応所見を記入する欄もあります」

「ああ,それはいいな。手書きより楽です」

「あと,お薬のリストはここをクリック。検査のリストはここをクリックすると開きます。そこから,必要な項目にチェックを入れてくれれば,オーダーになります」

これで,一応説明は終わった。診療開始までちょっと間があったので,淋菌,クラミジアの遺伝子検査の検体採取について自分で調べたことを説明した。

「いろいろ調べたら,子宮頸部から採取しなくても,綿棒を膣に入れるだけでも大丈夫だそうです。おりものシーツや,生理用のナプキン,タンポンでもちゃんと検出できるそうだから,それを持ってきてもらうのでもいいかもです」

笠原さんはちょっと笑った。

「そんなものを提出するくらいなら,自分で綿棒入れるわ。たぶん,わたしだけじゃなくて,たいていの女の子はそう思いますよ」

「そうですか」

ここで彼女はまたちょっと笑みを漏らした。

「藤原先生は女よりも優雅で美しいのに,女心は分からないのね・・・・まあ,それはそれとして,わたしは毎日,受付にいます。何か分からないこととか困ったことがあれば,いつでも言ってください」

と言って,彼女は診察室を出た。

 

 しばらくは,相談に来る受診者は少なかった。検査で淋菌やクラミジアが陽性と判定された人たちが治療のために診察室に入るくらい。薬の処方や注射の指示は医者しかできないことだから,形式的にも診察を受けないといけない。実際には,この2つの病気に関しては,治療法はほぼ確立しているから,薬ののみ方や副作用について説明すれば終わり。

 クラミジアの治療にはアジスロマイシン250mgを4錠まとめて1度に服用する。

「くれぐれも,4回に分けるんじゃないよ。1回で4錠まとめてのむんだよ」

と念を押す。そして,

「人によっては副作用で下痢をすることがある。その時は,整腸剤とか下痢止めとか,のんでもかまわない。効き目に影響しないから」

と付け加える。治療を求める受診者が来るたびに同じ説明を繰り返す。ボクは医学部のいくつかの臨床科目で聞かされたことを思い出した。

「医者にとって患者は“One of them”,何十人の患者のうちの一人だが,患者にとって医者は“Only one”,ただ一人の主治医なのだ」

ボクにとっては何十回目の説明であっても,受診者にとっては初めて聞く説明。だから,何十回目であっても気を抜かず,ていねいな説明を心がけた。そして,ヒカルの言葉も思い出した。中学の化学部の部員たちへの対応,「礼儀正しくエレガントに」。

 

 1ヶ月ほど過ぎた頃,初日に「外人の女医さん?」とつぶやいたスタッフ,検査技師らしいけど,彼女がボクに

「藤原先生は受診者たちの受けがいいんですよ」

と話してくれた。

「どうして?」

「先生は優しいから」

「優しい?・・・・」

ボクは戸惑った。優しくしているという自覚はないから・・・・。そんなボクの様子に,声を掛けた検査技師さんもまた戸惑っている。

「『優しい』と言われて,不本意ですか?」

「いえ,そんなことはありません。ただ,わたしは優しくしているつもりではないんです。ていねいに,そして礼儀正しくエレガントに対応しようと心掛けているだけです」

「それが『優しい』ってことですよ」

「そうですか・・・・」

ボクは,やはり腑に落ちない。ボクにとって「優しい」とは心=内面に係わることで,「礼儀正しくエレガントに」は態度=外面に係わること。2つの別々のこと。ただ,それについてここで議論するのは場違いなので,この話はこれでおしまいにした。

彼女はまた別のことも話してくれた。

「たまに受診者が『女医さんでラッキーだわ』って採血中に話しかけることがあるんです。いろいろ説明するのも面倒だし,相手の夢を壊すのも悪いから,『そうですね』って軽く流してるんですけど,やはりきちんと説明しないといけませんか?」

「ああ,その対応でいいですよ。無理に説明しなくてもいいです」

これらのエピソードを書いた手紙に,ヒカルはこんな返事をくれた。

 

- 人の内面は見えないからね。外面から推測するしかないんだよ。ロミーの対応の外面は「優しさ」を推測させるんだよ。まあ,わたしもなんとなく場面が思い浮かぶ。ロミーが礼儀正しくエレガントに振る舞うと,相手は「この人,優しい」と思うんだよ。

それともう1つ。「ゼロはマイナスよりは大きい」ということ。たいていの医者たちがぞんざいで横柄な態度なのに,ロミーがごく普通の対応,医療の世界以外では特段のこともない当たり前の対応をするだけで,医療の世界では「とても優しいお医者様」に見えてしまうんだよ。わたしも気をつけないとね。ぞんざいで横柄な態度が当たり前の医者の世界になじまないように。

「女医さんでラッキー」のエピソードは,さもありなん,だね。検査技師さんの対応が正解よ。人の夢を壊してはいけないわ。 -

 

 この頃になるとクリニック・アンジュの受診者たちもボクになじみ始めたらしく,いろんな相談を持ち込むようになった。

 たとえば,性交痛。端的に

「痛いの,どうにかならない?」

と相談しにくる受診者は1人や2人ではない。ある意味,職業病かもとは思う。好きでもない相手とそんなことをするんだから,痛みも感じるだろうし,濡れない状態で入れられれば膣粘膜も傷つくだろう。

「潤滑剤はたっぷり使ってるんだけどね」

「潤滑剤? そんなものがあるの?」

「えーっ,潤滑剤,知らないの? 先生,意外とウブだね」

などと,コミカルな対話も交えながら,彼女たちの悩みは真剣だった。それにしても,露骨にセックスの話をしているのに,わいせつや淫靡さが感じられないのは,あっけらかんと即物的に語られるからなのかな?

 

 ヒカル宛の手紙にも書いた。

- Ma chère soeur, Dear my sister ヒカル

・・・・性交痛の精神的な要因はどうしようもないけど,せめて身体的な要因,膣粘膜損傷に使える薬はないものかと『今日の治療薬』をたんねんに読んでいくと,あるものだね。膣粘膜損傷治療薬なんて能書きではないけど,一般的な粘膜損傷の修復薬として,アズノール軟膏とかソルコセリル軟膏というのが見つかったから,それを勧めてる。実際に使ってみての評判はいいみたいだよ。・・・・

Romy ロミー -

 

- Dear My Romy ・・・・わたしもロミーのまねをするね

・・・・彼女たちから見ればロミーはウブなんだろうね。会話のシーンを思い浮かべて,笑ってしまったよ。それはそれとして,性交痛は,必ずしも職業病ではないみたいだよ。わたしもここで仕事して1年以上,何人かの患者さんには親しまれるようになった。女医ってことで,婦人科系の相談をされることもある。それで,これはほんとうに信頼されているからこそだと思うけど,セックスがらみの相談もたまにある。性交痛の相談も経験してるよ。この種のことは,実際に相談する人の背後にその何倍も,何十倍もの人が相談したくてもできないでいるでしょう。ひょっとしたら,気持ちが冷めてしまった夫婦の間では珍しくはないことかも。

 それにしても,『今日の治療薬』を隅から隅までたんねんに読むなんて,ロミーらしい。わたしの部屋のベッドで地図帳を隅から隅まで舐めるように見ていた小学生のロミーを思い出したわ。・・・・ -

 

 7月に入って,笠原さんから相談を受けた。

「藤原先生,ほんとうに万が一のケースを想定してのことなのですが,半月か長くて1ヶ月くらい,『週6日,月曜日から土曜日まで勤務してください』と頼んだら,引き受けてくれますか?」

ボクは,突然そんなことを言われて驚いた。

「突然,こんなこと言われてびっくりなさってますよね。事情を説明します」

と前置きして,笠原さんは事情を説明し始めた。

「院長とは顔を合わせる機会はないと思いますが,スタッフや,ひょっとしたら受診者からも,何か聞いてますか?」

「まあ,スタッフからたまに話を聞きます。いい話ではないけど」

「そうなんです。受診者に対して横柄な口をきいたり,気持ちを逆なでするようなことを平気で言ったりして,それをスタッフが懸命にフォローしてるんですが,そんなスタッフに対しても,『オレは院長様だ』みたいな威張りくさった態度なものだから。実際,開院からたった1ヶ月で,辞めていったスタッフがいるんです。そんなこともあって,先日わたしは,『態度を変えないと解雇します。解雇できるだけの十分な理由,証拠,証言は揃えてあります』と言ったのですが,そうしたら,『以後,気をつけますから,解雇はご勘弁ください』と,それこそ土下座せんばかりに謝られました」

ボクは,苦笑いした。彼女も一緒に苦笑いしている。

「今回はこれで収まったんですが,このまま平穏無事ではないと思います。あの年になって・・・・ああ,院長は70過ぎなんですけどね,心を入れ替えるのは不可能でしょう。いずれ元の木阿弥にもどるでしょうから,まじめに次の院長を探し始めます。ただ,あまりにひどいことをしたら,次の院長が決まる前に解雇することもあり得ます。万が一そのような時には,短期間でも藤原先生に引き受けてもらわないと,このクリニックが立ち行かなくなります」

彼女は真摯な眼差しでボクを見つめる。ボクはその眼差しを受け止め,うなずいた。

「ありがとうございます」

彼女は深々と頭を下げた。

「それにしても,なんでそんな人を院長にしたんですか?」

「ほかにいなかったんです。まあ,仕方ないですけどね。この仕事は医者としておもしろい仕事じゃないから,まじめな医者は来てくれない」

ボクは,笠原さんの言い分に納得できなかった。

「ボクにとっては,それなりにおもしろい仕事ですよ。いろんな相談を受けて,自分なりに考えた対応法がうまくいって,受診者が喜んでくれたら,うれしいし」

「藤原先生みたいなお医者様はめったにいません。誠実で真面目で,それでいてこういう仕事をきちんとこなしてくれるなんて希少種ですよ。たいてい真面目な医者は,脳外科とか,心臓外科とか,癌センターとか,そういうやりがいのある職場に行くから」

ボクは,やっぱり納得できない。

「もし,医者の仕事としてふさわしくないつまらない仕事だと言うのなら,業務独占から外すべきです。医者以外の職種に開放すべきです。業務独占しておきながら,医者にしかできない仕事だと囲い込んでおきながら,『医者にふさわしくないつまらない仕事だ』と言うなんて,自己矛盾ですよ」

ちょっと怒ったボクの口調に彼女は笑みを漏らした。

「藤原先生,純情ね。それにしても,藤原先生の怒った顔,初めて見ました」

 

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