7月下旬。ボクは九州に,ヒカルのもとに旅した。もう学生じゃないから,あまり長くは居られない。日曜日から水曜日までの4日間。
実家に着いた日曜日は祇園山笠の最終日。父に一言あいさつして,すぐにヒカルの部屋に行った。部屋の中は高校生の頃とほとんど変わっていない。ただ,机の正面の壁にボクの写真が額に入れて飾ってある。化粧されて,ワンショルダードレスを着て,「小石」のカウンターに座っている写真。ボクはちょっと恥ずかしかった。そして,うれしかった。
「だって,きれいなんだもん」
ヒカルが屈託のない口調で言う。
ボクはまたヒカルと一緒に夜祭りに出かけるつもりだったけど,ヒカルはあまり乗り気じゃない。
「去年のこと,覚えてる?」
「ああっ・・・・」
そうだった。ヒカルとボク,二人連れで歩くと,あちこちから
「藤原の若先生,お坊ちゃん・・・・」
と声をかけられたんだった。
「残念だね」
しばし,二人とも黙り込んだ。それからヒカルが
「そうだ,これからダンス教室に行かない? あそこなら,誰にも見とがめられない」
と言い出した。
ボクたちは,夕日が沈んだ頃,ドレスをハンガーケースに詰めてダンス教室に出かけた。歩きながらヒカルが小声で歌っている,
“Ce soir, je serai la plus belle pour aller danser”
(今宵,わたしは一番きれい。ダンスに行くから)
「ヒカル,いつ覚えたの,その歌?」
ヒカルは答えず,「フフフ」と笑うだけ。そんな軽やかな気持ちで,ダンス教室のところまでやって来た。でも・・・・あの木造家屋は跡形もなかった。最初は場所を間違えたかと思ったけど,両隣や周囲の建物は間違いなく以前のまま。ただ,ダンス教室のあった所だけ建物がなくなって更地になり,「売り地」の標識が建てられていた。
〔どうしたんだろう。先生は引退して引っ越したのかな。年を取ってどこかの施設に入ったのかな・・・・まさか,死んだ?〕
ヒカルとボクは黙って空き地の前に立ち,「売り地」の標識を見ていた。どれくらい,そうしていたのだろう。黄昏から夜になりかけ,空に星が輝き始めている。
「ボクたちをこの街につなぎ留めるものが1つ1つなくなっていくね」
「もともと出たがっていたんじゃないの?」
「それはそうだけど」
それに続く言葉が口から出せない。〔それはそうだけど,この街に,いやな思い出ばかりじゃないんだ。懐かしいものもあるんだ。それがなくなってしまうのは・・・・〕ボクはふと空を見上げた。そんなボクにヒカルが声を掛ける。
「そろそろ,帰ろう」
「そうだね」
うつむいて歩くボクの手を,ヒカルがそっと握ってくれた。家に帰りつくまで,ずっと。
「今にして思えば,ロミーを化粧してドレスを着せてダンスしたかったな」
部屋に入るなりヒカルはそうつぶやきながら,壁に掛けたボクの写真を見ている。
「その代わりにロミーを化粧させてドレスを着せて外を連れ回したいけど,ここでそんなことしたら,翌日には噂が街中に広まるしね」
ボクはなんと応じていいか分からず,あいまいに微笑んだ。
「・・・・それなら,この部屋の中でロミーを化粧しよう」
ヒカルは明るい声,というか明るさをよそおった声で話しかける。ボクはびっくりした。
「いや?」
ボクは首を振る。いやなはずはない。ヒカルに化粧してもらえるなんて,うれしい。
「じゃあ,座って」
ボクは,子供の頃のようにベッドに座る。そして,ふと思いついた疑問を口にした。
「ヒカル,ふだん自分は化粧するの?」
ヒカルは笑い出した。
「鋭いなあ。実は,自分ではあまり化粧しない・・・・でも,腕によりをかけてロミーをメイクするよ」
ヒカルは写真を見ながらメイクする。
「写真を真似るの?」
「逆よ。写真よりももっとロミーをきれいにするメイクに挑戦してるのよ」
そう言いながら,
「ああ,だめ」
と悔しそうにメイク落としでボクの顔を拭く。3回目でやっと満足できる仕上がりになったようだ。手鏡を手にとってボクの脇に座り,腕を伸ばして手鏡を顔の正面に置いた。
「見てごらん」
確かに,鏡の中に,カヨコさんのメイクとは違う,それ以上かどうか微妙だけど,それと同じくらいきれいなボクの顔がある。ボクはニコッと笑った。
「お姉さんもだけど,妹さんはひときわ美しい。花のかんばせという言葉そのもの」
ヒカルは,かつてダンスの先生が語ってくれた言葉を真似て繰り返す。
「悔しいなあ,こんなきれいになったロミーを外に連れ回せないなんて。そんなことしたら,明日のうちに噂が広まってしまうからね・・・・わたしだけならいいんだ。お父さんの評判にかかわるから,あまり無茶なことはできないんだ」
それからボクはヒカルのグチに付き合うことになった。この街の窮屈さ。「藤原先生の娘さん」,「若先生」として顔が知られている。ネクタイ締めてパンツスーツ姿で歩いてるくらいでも「宝塚の男優さんみたい」と,褒め言葉ではなく,非難する口調で噂される。結婚話さえ持ち込まれる。
「ほんとう?」
「ほんとうよ。わたしも,もう26歳。親たちの世代にとっては結婚して当たり前の年頃なの」
だけど,そうやって紹介される誰一人として,ヒカルは気に入らない。
「生まれた時から,才色兼備そのもののような存在をすぐそばに見ていたから,ほかの男たちはクズに見えるのよねえ」
ボクは一瞬よろこんだ。それから,〔これはよろこんでいいことじゃない〕と思った。ヒカルは笑って見ている。
「ロミー,ほんとうに正直ね。気持ちを隠せないのね・・・・それは,人間としては美質かもしれないけど,医者としては問題があるよ。医者の仕事では,気持ちを,特に落胆の気持ちを表に現わしてはいけないこともあるからね」
ボクはうつむいた。そんなボクの様子を見て,ヒカルは話題を戻した。
「相手に会うことそのものを断るのが一番いいんだけど,そうとばかりもいかないのよ。だいたい,そういうお節介焼きは父の知り合いだから,むげに断れない。なので,会うだけは会うんだけど」
「どうやって断ってるの?」
ヒカルはいたずらっぽい表情で説明する。
「これまで紹介された相手はみんな医者なの。それで,わざと文科系の話題を振るの。たとえば,『好きな詩人は誰ですか?』とか。もうちょっと手の込んだやり方なら,その場の情景やわたしの気持ちを五七五で表現してみるの。じょうずじゃなくていいの,へたでいいの。ともかく五七五の形式になっていればいい。そして,『これに下の句を付けてください』と頼んでみる」
ボクは笑い出した。
「まるで,源氏物語の世界じゃない」
ヒカルも笑う。
「もちろん,相手が応えられないことは分かってる。ともかく,お節介焼きの人には『医学以外の話題のない人と一緒にずっと暮らすことは耐えられません』とお返事できる」
「手厳しいね」
「だって,ロミー以下の人間と結婚して一緒に暮らし続けるなんて,考えられない・・・・かといって,ロミー以上の人がいるかどうか・・・・まあ,日本中,世界中を探せば,ロミーを越える超絶的に素敵な人がいるかもしれないけど,この小さな街にいてはだめだろうね」
「そのためにも,東京においでよ」
ボクはわざと軽い口調で語る。
「ロミー,本気?」
ヒカルは,まじめな表情になってボクをまっすぐ見つめる。ボクもその視線を受け止める。
「東京に来てほしいというのは,本気だよ」
それだけ言って黙り込んだボクの亜麻色の髪を,ヒカルの指がすべっていく。懐かしい感触。